はてなキーワード: 命題とは
この見当外れにとっては「原因Aであるとき、結果Bである」という命題に対して
本題となるところは原因Aという動かぬ前提に対して結果Bであるかどうか、というところに焦点を当てるテーマだということが理解できてない。
周りの人間が何について議論していて何が真で何が偽か突き止める優先順位が目に写らない。
そのため平気で前提を変えようとするし自分の中でそれは筋が通っていると思い込む。
この手のタイプは会議の進行をたびたび邪魔するし何か新しいアイデアを出せるのかといえば、
その原因Xという新しい前提でさえ途中で変えるため何の積み重ねも作らずに何も生み出さない。
泡のように出てきた自分の考えがさも名案のように会話にハサミ混んでくる。
徒労だ。
彼らにとって変えてはいけない前提というのがそもそもないのかもしれない。
朝起きて見知らぬ歯ブラシがコップに刺さってても、それがトイレ掃除用の歯ブラシでも平気で歯磨きするのだろう。
今日も彼らの原因Xであるべきだ、原因Yであるべきだ、水ようかんだ何だかんだという
進行妨害を受けながらもなんとか協力者と会議をまとめることができた。
なんだか電車内での飲食が是か非かが中心命題になっちゃったので仕切りなおして、その件に関して。
具体的にJR東日本に関して、JR東日本お問い合わせセンターに問い合わせて「電車内での飲食は禁止していますか?」とたずねたらノータイムで「一切制限はしていません」と返ってきたよ。
東京メトロは電車内の飲食で制限はありますか?と制限はしてない。マナーポスターで飲食に関するものもあるけどあくまでマナーを守った範囲でというお話。
もちろん禁じてるところもあって新京成はマナーで明確に飲食を禁じている。
だから飲食を禁じていない電鉄会社の電車内で飲食はせいぜい「マナーを守って飲食する」なのになんかそのマナーが「飲食は原則禁止」っておかしくないか?
というのが大前提だったわけなの。
もちろん「マナー」が人により変わるのは分かるが、その範囲が「原則飲食禁止」の方に偏りすぎてない?って思うんだけど。
以下レス的な文章。表記方法とかあまり分からないので言われたら訂正します
<田舎者
お前らDQ3のエジンベアの住民かよ!?田舎出身とは書いたが、「田舎者」連呼はひどいだろ。そもそも電車内での飲食禁止とかロングシートでは飲食禁止なんて都会の一部のルールなのにそれが誰もが共有するマナーだと思ってる方がモノカルチュラルで自己の価値基準が絶対だと思ってる精神的に「田舎者」なんじゃないかな?
だから、電車内での飲食を可と文化圏に育って、駅構内や電車内でも一切告知されないことがマナーだとか常識だとか言われても困る。私はエスパーじゃないんだから。
周りを見たらって言われても、そもそも食事をしてる際に周囲の視線なんて「趣味人間観察(笑)」の上級者でもないのにやらんわ。
そもそも電車内で一緒になった程度の人間にそこまで関心なんて皆持つの?
それに行きが下りで帰りが上り、反対車線の殺人的満員電車の様を見て「あっちは大変そうだなー」て感じで目の前には夜勤明けなのか横になって寝てるおっさんとかいる状況だぞ?
自分と価値観や判断基準が違う人間をそう定義するのは正直感心しないな
<臭い
臭覚障害なら、大変だね。でもさすがにそこまで気を使えと言われても困るし、街歩いてれば色んな匂いもあるでしょう?
あのシーン、見てて主人公自体結構アレだし、リーマンの反応も嫌なら空いてるし離れればいいじゃんとしか思わなかったよ。
うん?想定してるのはピザー○お届け!的なものでC.C.が食べてるようなやつだから、両手は汚れるし具はポロポロこぼれるので、ちょっと電車で座った状態でシートなどを汚さないで食べる自信がまったくないんだが。
<国に帰れ
少なくとも江戸時代から日本にいた一族なんでそう言われても困るな。そもそも自分と違った価値観を持つものを外国人扱いするレイシズムは軽蔑するし、中国の地下鉄や韓国の電車あたりはたしか飲食禁止だったはずだけど、まあこういう事を平然と言える人間は知識も知恵もないのは往々にしてあるので不思議じゃないかな。
そもそも車内飲食可は鉄道黎明期からの日本の伝統文化なんじゃないかな?
<俺ルール
日本では「マイホーム」「マイカー」なんて用例もあるし、なんら法的、公的な根拠の無いルールという意味で「俺ルール」って使ったけどなんか他にいい言葉ある?「村の掟」とか?
実際のところ、例えばペドフィリアとか、ロリコンとか、動物性愛とか、ネクロフィリアとかは差別してるよね。
どういうとこでその差をつけてるの?
「自分が許せるかどうか、気持ち悪いと思わないかどうか」「社会一般的にそれなりの多数かどうか」レベルの判断しかしてないんじゃないの?
たまたま、LGBTはそれなりの数が居て、自分が気持ち悪くない程度の「度合い」でしかないから「赦してあげてる」だけなんでしょ?
小児性愛でしか性的興奮できない人の悲哀について考えたことは?自分がその立場だったらどうすればいいのか、ってことを想像したことすらないでしょう。
こないだの大阪府の「同性愛者に養子を」ってニュースに拍手喝采送ってたのはものすごく滑稽だった。
「俺たちの思いが伝わってる~」って、完全にオナニーやんけ。気持ち悪すぎるw
どうせ「子どもなどの判断や抵抗ができない対象を性愛対象にするなんてありえない」ってんでしょう。ましてや、「小児性愛は精神的にビョーキだから適切な治療が待たれる」くらいの気持ちでしょ?その理屈なら同性愛だって病気扱いできるだろ。
私は教師じゃない。行政職員だ。絶対定時に帰ることを誓おう。憎くてたまらない。誰も教室の中で味方になってくれない。平静を保とう。自分がまず生き残る。それが私の生存戦略だ。鬱にはならない。安定した自尊心の中で生きる。ストレス耐性をつける。コミュニケートは過度には要らないが、しっかりと生きよう。コミュニケーションに自信がなくてもいいじゃないか。死ぬわけではあるまいし。私には諦念がある。誰ともうまくコミュニケートができないのだ。元来の性質であれ、生得的な性質であれ、もうこれはあまり改善しないし変わらないのではないか。そんな諦めだ。だって、どうやっても改善しなかったじゃないか。もうしょうがない。諦めよう。他と適切なコミュニケーションを求めるのはある程度諦めよう。望みが強いから、欲求が強いから、できなかった時の失望が大きいのだ。仕方ないと割り切ろう。私はもう誰とも心を開いてコミュニケートできないのだ。しょうがない。だからと言って向上させないわけではない。初期値が低くても、限度があっても、第二の課題程度と置いて、少しずつ伸ばす方向での戦略をとる。絶対の戦略ではない。必ずではない。命題の第一は精神が安定し、生き残ることだ。
上司が死にました。
突然でした。
朝会社に来たら「昨晩亡くなりました」と。
隣のチームの上司だったけど、大して仲良くもなく、仕事で絡むこともなく、それまで会話という会話はしたことがないけれども、それでもやはり驚きました。
月に2回程度の国内出張に、3ヶ月に1度くらいの休日出勤(代休なし)、残業時間は月60時間くらいでした。
いわゆる過労死判定される80時間には届いていないので、過労死と訴えられることはないと思う。
それだけ働いていた人だから、さぞいなくなったあとは大変だろうと思われるだろうけども、
確かに後任の人が来てその人が慣れるまでの一ヶ月くらいは同じチームの人たちは大変そうだったけども、
後任の人が慣れてからは「亡くなった」という事実すら忘れ去られるくらいに何事もなく仕事が回るようになった。
結局、どこかのアニメであったセリフ、「私が死んでも、代わりはいるもの」は真理なのだ。
余程名の売れている漫画家とかスポーツ選手とか芸能人でもなく、単なるサラリーマンである場合は、その人の仕事なんてその人が死んだら別の人がやるだけで、いくらでも代わりがいるのだ。
だから、仕事のために無理をしてプライベートや健康を犠牲にしたりするのは無駄以外の何者でもない。
「この仕事は俺にしかできないんだ!( ー`дー´)キリッ」などといって、気張って無理をするのもいいけれど、結局自己満足で、自分にしかできない仕事なんてそうそうこの世の中にはない。
遊んだり、家族と時間を過ごしたり、友達と笑ったり…そういう時間は、自分しか過ごすことのできないかけがえのない時間だ。
「仕事とプライベート、どちらが大事なの?」なんていう、使い古された命題は、
死んだあとも何事もなかったかのように回る職場を見て一定の答えを得た気がする。
本当に、上司は死んだんだろうか。
上司が死んだと思っているのはその上司の家族だけなのではないだろうか。
同僚である私達にとっては、後任の人が普通にその上司がやっていた仕事をこなしてくれているので、
「上司が死んだ」のではなく「上司が異動した」という感覚にしかならない。
人間なんて、そんなもんだよなー。
産んだら不幸になるからが水子芸とかいう謎論法。産んだら存在してしまうので水子じゃないんだが産まれた子供と産まれなかった子供が同一だというキチガイ理論を垂れ流すクソの子供ってキチガイになりそう。
産んでないんだから一休さんの虎とか言ってる阿呆もいるけど、存在しうる存在を現実には確実に出てこない虎にたとえるって相当頭悪いぞ。それを言うなら存在してない産まれなかった子の意志なる概念を持ち出してる方に言うべき。
トラバまとめ
http://anond.hatelabo.jp/20170305212416
http://anond.hatelabo.jp/20170305215044
はい?たとえば遺伝が確実な障害を持ってるのに産んだら、環境が悪いのに産んだら、不幸になる確率は健常者よりも高いよね?^^
これは社会学や生理学や遺伝学で証明された事実なので、きみらがわーわー喚いたところで、何の意味もないですよ?
健常者や現在勝ち組に入れた障害者等の側の人間が、努力や認識でぜったいにぜったいに幸福になれるもん!とか喚いてるのって、典型的な感動ポルノだよね笑
努力や認識で幸福になれる~という期待を勝手に子供におしつけて産むのは虐待と言っても過言ではない。
幸福にできる可能性が低いなら、産まないという選択は必然だよね。
☆脳ミソ腐ったクズトラバがまだ喚いてるのか笑http://anond.hatelabo.jp/20170308165310
最初にセリグマンを持ち出して低所得など外部環境では不幸かどうかは決まらない!遺伝子でほとんど決まるんだ!と熱弁していたクズが。
「不幸かどうかは幸福を感じやすい遺伝子という要素で50%決まる」という議論があるけど、この命題が正しければ一般人と発達障害者など不適応者のうつ病にかかる率は同じでないといけない。しかし、実際は後者の方がうつ病にかかりやすい。つまり「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子が低い傾向にあるので不幸になりやすい」か「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子を持っている場合があるが、それ以外の二次障害で不幸になりやすい」である証明がなされた、ということになる
こうやって論破された途端に、外部環境でも不幸は決まるかもしれない!とか言い出す議論にもならないゴミ笑
しかもさんざん可能性が上がるという話と高いという話は別だぞと言ってきたくせに、可能性が上がるから~とか言い出しててワロタ
☆以下の消えたトラバで「不幸かどうかは幸福を感じやすい遺伝子という要素で50%決まる」という議論があるけど、
この命題が正しければ一般人と発達障害者など不適応者のうつ病にかかる率は同じでないといけない。
つまり「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子が低い傾向にあるので不幸になりやすい」か
「不適応者は幸福を感じやすい遺伝子を持っている場合があるが、それ以外の二次障害で不幸になりやすい」である証明がなされた、ということになる。
さらに50%以外の要素は、人間関係など、不適応者が苦手なものなので、より不幸になる確率は高いといえる。つまり、「他人が幸福になれるかどうかは、わからない。」、「 子供とはいえ他人の幸不幸を判断し得ると考えるのは愚かだ」という主張は間違いだといえる。また、トラバに対する反論をまとめておく。
・下層ですら適応できずに苦しむ可能性が高いなら産まなくていいってことですね~
次にサービス業が増えた現代では下層でも感情労働しなきゃいけないのでストレスたまりっぱなしで大変ですね~
体力仕事だと30代後半で詰みが見えるね~
特に発達障害者は身体性が低かったりストレス耐性が低かったりするから難しいですよね~
下層で適応できてるって、要は諦めで現在の快楽に逃避してるだけでしょ?
不幸になる確率が高い子供に感動ポルノを期待して不幸を味わわせるのってマジで可哀想
・幸福になりやすい脳があっても仕事や人間関係が人生の大半なのでそこに不適応を起こしやすい遺伝子の結果、ストレス値が高くなるので不幸につながる
他にも発達障害は特にフラッシュバックが起こりやすいなど不幸を感じやすいというデータがある
・某さんの依拠してるであろうセリグマンは人間関係の重要性について謳ってるしね。
人間関係不適応になる確率が高い人間は不幸という指摘をしている俺の主張を補強するものだ。
また、セリグマンは不適応なうつ病や統合失調症の遺伝率は幸せを感じる遺伝子の遺伝率よりも高いと本のグラフで提示していた。
・うつ病患者も不幸な子供を産む確率が高いという点においても俺の主張を裏付けるものだね。
・人生の大半は仕事や人間関係である以上、それに適応できなければ不幸になる確率が高いのは当然。
その場合に環境や遺伝が大きい影響があるというのは学術的根拠がある。
努力や認識論に持ち込むのは健常者や既に適応済の人間の感動ポルノにすぎない。
学術的に不幸になる可能性が高い親がいるという事実は否定できません。
自分の頭で30秒もろくすっぽかんがえてもいないゴミゴミクズのくせに、
脊髄反射で自分にとって心地いい方向に他人を捻じ曲げようとするサイコパスっぷりを発揮しつつ、
言語化した自分によって自省することなしに絶頂に達してるとこなんですよ。
そこから進化して自分にとって心地いい方向に他人を捻じ曲げるために
知識や屁理屈や、統計を元にして相関から因果関係を導く誤誘導などで誤魔化すクズことはてなブロガーの記事を見て、
自分にとって心地よけりゃ同意してそれが結論であるかのように思い込むし、
自分にとって心地悪けりゃ殺す勢いで否定しまくってスッキリするし、
おまえ情報を得てなんにも変化する気ねぇなら意味ねぇから死ねよという感想しか湧かないんですよね。
自省したことのないクズは自分の発言がどういうところから出てくるのか考えたこともないのだとよくわかるな
しかもなぜか俺が捻じ曲げられる側の人間に違いないという脳内妄想全力で振りかぶっちゃう論理性のなさね
他人に影響を与えようとしてないならどうぞさっさと非公開にしてくださいね
他人のコメント見たらそれが全部他人の意見を捻じ曲げるためだと判断するとかどんだけ感受性豊かなんだ
「私はコメントを見たらそれがすべて他人の意見を捻じ曲げるためだと判断している」とはどこにも書いてないんですが。
論理性がないアホは脊髄反射でコメントするから命題を踏まえた意見を述べられないんだとよくわかるな。
ネット上の意見なんて指向性ないもの腐るほどあるし
はてブの話をしてるんですけど?
30秒もろくすっぽかんがえてもいない脊髄反射でコメントして言語化した自分に酔って自省することなしに絶頂に達してるということや
本来、三大命題の二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。
この論考は以下のURLにたいする一人の若者からの反論である。
https://togetter.com/li/1080097
以上の新聞記事で、上野女史は「経済を犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。
この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。
上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。
この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。
そもそも、戦後日本の社会体制は1940年代の「総力戦」体制を「経済最優先」の形として再編したものである。
扶養控除、源泉徴収、終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。
1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動、市民運動、社会不安が吹き荒れていた。
70~90年代にかけては、家庭や企業に社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。
これが少年非行やいじめ、過労死などの狂気的な状況を引き起こした。
戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたかな社会」である。
まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである。
しかも、「ゆたかな社会」は90年代~2011年にかけて完全に崩壊した。
最後に、原発事故とともに社会の安全神話が吹き飛んでしまった。
この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である。
それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的」である。
企業におけるセーフティーネットが「生産性や自己実現の神話」の名のもとに縮小され、
政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、
監視カメラやSNSの監視なしに、人々は安心して生きることができない。
不誠実な脳科学や認知神経科学、AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、
人々は常に失職と人間的尊厳の消失を心配するようになっている。
そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。
このように、後期近代社会とは
当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間を永遠の虚無へと投げ出すのである。
このような状況では、人々は二つのレベルの不安を抱えることになる。
である。
人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。
一方、ただ一日中、パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。
「不当な地位にいる!」
「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」
という相対的剥奪感を抱かせる。
また、後期近代の社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。
軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者に追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。
そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。
二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論的不安を抱かせる。
そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。
「私はこうなれたのに……」
「私もこうしたかった……」
ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情が現代の社会不安の核心にあるように思う。
上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である。
この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである。
――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。
このような後期近代のグロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。
彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺の理論を主張した。
今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。
加藤智大、植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。
そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆の不可能性を解き、
後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっとも積極的な「支援行為」なのだ。
防ぎようのない「天災」によって、
この瞬間を心の底から待ち望む。
109が崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町のサーバーがダウンし
白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき、
そのときに来るのが、
東のいう変質したファシズムなのか
知ったことではない。
相対的剥奪感や存在論的不安に晒されることなく嗤いたいのである。
そして、私は嗤いながら確信する。
この命題はこれから語られる三つの命題のいちばん根本に位置する第一命題である。
神は存在しない。
私たちを私たちの外側から定め、その実在を保護してくれる神というものは存在しない。
今まで神が存在したのは各々の神が一致していると思っていたからだ。
神は存在しない。
私たちは神を信じることで繋がることができる。
各々が各々を各々の世界に繋ぎとめ、各々を各々として生かすことができる。
なぜなら、それは私たちの可能性を封じ、まったく不自由なものにするからだ。
それは近代という神によって、考える葦という自己認識を与えられたからだ。
しかし、人々はこの知恵を授けられた瞬間に、呼吸不全になった。
そのために、私たち個人は一致して、近代という神を自らの不信によって殺した。
しかし、私たち個人は造物主を失った途端に、この世界を失った。
私たち個人は今、究極の虚無に、剥き出しの世界に相対している。
失われた過去を取り返し、
時に神擬きに騙されるかもしれない。
神なんていないと斜に構えたくなるかもしれない。
その内容は何年も前から
『痩せたいからダイエットしてるの、でもおやつがやめられない』というような話だ。女性によくある話だね。
痩せたいとか言うなら食べなきゃいい。もしくは運動しなよとしか思わない。
私はダイエットしたことはあまりないし、彼女もアドバイスを求めているのではなくだらだら自分語りをしたいようだった。(たぶん)
いろんな話題を挟みつつだらだら話を聞いて、またしばらく音信不通になる。そんな友達とも言い切れないような薄い交流が5,6年続いていた。私は人の話を聞くのが好きだったから特に苦ではなかった。特に返信も急かしてこないし。
その間お互い大学を卒業し、就職もして、生活がどんどん変わっていっても彼女の相談内容は変わらないのだ。ずっと痩せたい~食べたい~
いい加減うんざりしてきた。彼女は一生この悩みを熟成させて生きていくつもりなんだろうか。
女性にとっての命題であることは理解できるのだが何分異性のわたしには何度語られても理解できない。女子会かツイッターでやってくれ。
先日も同じことを垂れ流していた彼女に私は
『何度言われてももう私には同じ返答しか出来ない、痩せたきゃ食うな』
彼女の返答は
『女はみんなそうなの‼ホルモンバランスとかあるし、チョコとか目の前にあったら我慢できないの!』
続けて『あなたの彼女だってそうでしょ?あなたの知らないところで暴飲暴食してるよきっと。そのうちすぐデブるよ』
知るか!
会ったこともない私の恋人のことを引き合いに出されたことにいらっとした。私に恋人ができてからたまにこういうことを言うのだこいつは。
不快に思う旨を強めの口調で伝えた。たぶん彼女に怒ったのは初めてだと思う。
彼女は『あれ?怒った?( ´∀`)』
私は重ねて恋人をバカにされて不快でないはずがないとキレ気味に伝えたのだが彼女の返答は『そっかーごめん!で、別の相談があるんだけど~…』
そこから返信していない。
どうかな、こうやってかけばあなたにも少しは私の気持ちがわかるだろうか。
私が何に怒ったのか分かっていないようだったけどもう言葉を尽くす気力がなかった。
わたしには彼女がいながら他の女性にモテたい気持ちはわからないし、もう聞きたくもない。どうやったらうまくいくかなんてアドバイスできないし、したくもない。
彼女は大事にしたいし結婚したい、でも他の女性とチャンスがあればその事について相談してくるあなたを心底理解できない。よく何年も同じようなことやってて飽きないね?
これなんなの?彼は何を思って私に言ってくるの?わかるひと教えて。
あー疲れた
いやだから抽象的にでもどんな事実があるのかと。根拠云々以前に判断基準ってものがあるでしょ。
いやだから抽象的な判断で事実はないだろアホか。世間一般の基準で見て抽象的にマイナスだということを述べた上でその要因を考察してるわけでしょ。
30代・40代がマイナス評価で20代以下と50代以上をプラス評価しているとするならば、その評価点は何なのか。
「Aがマイナスだ」という命題を述べると「A以外はプラス」だという命題を帰結できるとかちょっとオツムが足りてない人だと確信されてしまうからやめておこうな。
自営業は比較的早くに影響があったけど、バブル崩壊当時ってそんなに大事になると思われてなかったんだよ。あくまで一時的な不況で、まあ3-4年で日本経済にももう一度波がくるだろうと楽観視されてたので、サラリーマンの給与についてはしばらくの間手を付けられていなかった。そこからの日本の歴史を知っている感覚で過去を振りかえると、バブル崩壊の瞬間に何もかも変わったように思えるかもしれないけど、俺の記憶ではかなりの間、楽観視して、ぼやぼやして何も手を打たずに数年放置されてたの。少なくとも、バブル崩壊が直接的に生活に影響を与えるまでにはタイムラグがあった。投資のレベルではバブル崩壊時からマイナス局面に入っているけど、生活のレベルとしては消費者物価指数でデフレになった1998年くらいからが、自分の感覚としてもバブル崩壊のヤバさが生活に出てきてた感じ。
98年デフレや指標の悪化は消費税でますます悪化させたというだけでしょ
そもそも株価の暴落自体は89年をピークに90年にかけて一気に起こってる
「エクス・マキナ」
どっちもAIが人間を超えるときにさぁどうするのってのが命題なんだと思う
「超えるまで〜超えた瞬間」のネガとポジにフォーカスされており
「超えたあとの世界」は描かれてないから物足りないのかもしれない
42だよ42!
「俺ってどうやって生まれたの?」
ああ、とうとう来てしまったかと思っていたにも関わらず、両親は動揺した。
一度、疑問を持てば自分が納得する答えを探し求め、その労力を厭わない。
「そうね……よく知らないの。ほら、私ってサイボーグでしょ?」
「まあ……」
我が家ならではの誤魔化し方であるが、後々ややこしいことになりそうなのは目に見えている。
「母さんが本格的にサイボーグ化したのって、つい最近だろ。そもそもサイボーグであることと、知っているかどうかとは関係ないし」
「あ、それもそうか」
俺は横に入って訂正をせざるを得なかった。
具体的にどうこう言えというつもりはないが、誤魔化すならもう少し支障がない方向性でいくべきだろう。
「……」
「……」
当然ながら弟は納得しない。
「ちぇ……なんだよ、それ。じゃあ兄貴は知ってる?」
そして両親がその調子であれば、次に訊ねられる身内は俺しかいないことになる。
父が目配せをする。
どうやら、さきほどの俺の訂正と同時に、回答権を俺に譲った形にしたつもりらしい。
「なあ、兄貴……」
「待て、説明するには言葉選びと構成が大事なんだ。それを考えている……」
正直なところ、俺は皆がそこまでして誤魔化す理由すら把握していない。
しかし、漫然と「今じゃない」という思いが横たわっているが故に苦心する。
それを汲み取るべきかは知らないが、かといって返答に窮することは変わらない。
コウノトリだのキャベツ畑だのは陳腐すぎるが、無修正のポルノを例に説明するのが愚策であることもさすがに分かっている。
かといって、ここで両親と同じく沈黙を貫いたり下手なことを言ったりすれば、その被害は我が家だけではすまないことになるだろう。
いわば、意図せずして俺は弟の知的好奇心を止める最後の砦となってしまったのだ。
なんだか、こういうこと前にもあったな……。
ああ、関係のないことまで思い出して、考えがまとまらなくなってきた。
「いや、待てよ」
俺はそうして思い出した記憶の中から、一つの光明を見出したのだ。
「俺も所詮はティーンエイジャー。言える事は少ない。だが、それでも言える事はある」
「お、なになに?」
「お前が生まれる前の話だ。第三者から見えてくる、誕生の真実ってのもあるんだぜ」
俺の意味深な語り口に、傍観を決め込んでいた両親もソワソワし始める。
「真実……?」
「まあ、聞け」
私は某大学数学科の学部生です。塾でアルバイトをしており、先日、中学1年生のクラスで1次方程式の解き方を教える機会がありました。その際に起きたことについて書いておこうと思います。
私の認識では、中学数学において「4x-6=xを解く」とは「4x-6=xを満たす実数xをすべて求める」ということです。中学数学の参考書は「4x-6=x, 3x=6, x=2」という書き方しかしておらず、これでは、「4x-6=x⇔3x=6⇔x=2」なのか「4x-6=x ∴3x=6 ∴x=2」なのか分かりません。前者であれば問題ありませんが、後者であれば論理的に不完全であり、x=2が実際に4x-6=xを満たすことを確かめねばなりません。
中学1年生にこのようなことを話半分に説明したところで、理解してもらえるはずありません。しかし、このことは本質的であり、また、中学校で曖昧にしたまま方程式を解かせるから高校数学の論理と集合で多くの人が躓くのだと私は考えています。そこで、1コマまるまる使って論理、命題、必要条件・十分条件の授業を行いました。それから、1次方程式を解くときの式変形では式だけを並べるのではなく、式と式の間に⇔か∴を挿入し、その論理構造によっては検算も行うように指導しました。結果、生徒の多くは戸惑いながらも喜んで授業を吸収してくれ、小テストでも多くの生徒の理解を確認することができました。
ところが全く予期しないことに、保護者数名から苦情が入ったようで、塾長からかなり厳しく叱られてしまいました。「教えるべきレベルを逸脱している」とのことでした。塾長は英語国語社会の担当で数学の素養がないのもあるのか、方程式を解くということについて必要条件・十分条件の概念は本質的であり、教える必要があるのだと力説しても、「必要ないし、普通の内容を教えることに時間を使え。ここでの方針に従えないならしかるべき措置をとる」とまで言われる始末でした。
仕方がないのでそれからはテキストに徹底的に従って授業していますが、指導の方法について、私が間違っていたのでしょうか。モヤモヤしています。
前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。
が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)
一方で「民法研究とキリスト教は無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学の研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。
ぜんぜん関係も文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。
どういうことかというと、民法はちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業をします。
(1) 事案をよく見る。
(2) 適用条文を探す。
(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。
(4) 過去の判例・裁判例から重要と思しき事実をピックアップしてマトリクスを作る。
(5) マトリクスを作る過程で過去の裁判所の判断を分けた重要な事実が炙り出される。
(6) 本件に戻ってその重要な事実の有無・相違を確かめる(自然と結論も出る)。
(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。
ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。
(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去の判例・裁判例の結論と平仄を合わせるものでしかありません。
また、こうして出された結論が「国民の常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者で資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります。
他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察の捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます。
たとえば警察に捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意の認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。
他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います。
真理というものが普遍的なものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。
そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中で受刑者が思うことの多くは安部譲二『塀の中の懲りない面々』や堀江貴文『刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。
そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。
論理学はもはや何年も前に入門書も捨ててしまったんですけど、論理学上で仏教の空論を扱うというのは私も過去やった事があります。
残念ながら、今はもうほとんど忘れてしまいました。当時も付け焼き刃だったし。
どう言えばいいのかよくわかりませんけど、「ある」「ない」ってすっごく単純じゃないですか。
そういうものすごく単純なところで考えるとわかりやすいかもしれないって思うんですよ。
元増田になる記事の人は難しいと仰ってたし、確かに世に溢れる空とか縁起について書かれた本とかクソ難解に書いてあるので、単純なところで考えてもいいんじゃないかなぁと思った次第です。
お釈迦さんとか昔の仏教の人だってただの人間ですよ。ただの人間が知恵絞って考えただけの話でしかないと思うんですけど、何であんなにクソ難しくするんでしょうね?
ウィトゲンシュタインほんといけ好かない! 論理哲学論考は思った以上に短い本だったけど中見てみたら命題がいっぱい並んでるだけで、あんなのただの目次でしょ? 目次だけじゃ伝わるわけないじゃん、もっと何倍も紙数割いて解説パート入れなきゃだ~~れも理解できねえじゃん!
しかもさあ~! 「私の著作は、ふたつの部分から成っている。すなわち、ひとつは、ここに提示されている部分であり、もうひとつは、私が書かなかった部分である。そして、まさにこの第二の部分こそが重要な部分である。」とか言っちゃってさあ! 嫌な感じ~~!! どうせ頭いいんだろうけどさ、俺の思考についてこられないような奴に理解してもらう気はない、とでも言うつもりかい! 傲慢にもほどがあるっしょマジで! 工夫を凝らしてどうにか伝達しようという誠実さも見せずに圧倒的言葉足らずの独りよがり論考書いておきながら「言語の限界」とか提唱されてもハァ~~?? って感じですよ!! いけ好かねえ~~!!!!