くだらない思い付き(いつも)。
京都大学の民法の教授で、最高裁判事も務められた奥田昌道先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究との関係を語った講演があって、その書き起こしを読んだ。
結構いろいろしゃべっていたのだけど、結論は結局以下の言葉に尽きる。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
で、これは結構納得の行く話で、聖書は人を訴えることにも、人を裁くことにも好意的でない。
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
※ただし、両規定が法律関係を巡る訴訟にまで妥当するのかには議論がある。
この規定の根底には、①憎い敵でも赦すことが愛の精神に適う、②不完全な人に人を裁くことはできない、という考えがある(と思う)。
他方、法律の方も、こと財産法に関しては(つまり家族法などはいったん措くと)、キリスト教の精神はほとんど見られない。
どちらかと言えば資本主義の影響で説明が付きそうな規定・解釈・解決の方が多い。
前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。 が、どうもこれが頭に引っかかってしま...