前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。
が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。
「〔私にとってキリスト教信仰と民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法の研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)
「人を裁くな」(ルカ伝6-37)
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)
一方で「民法研究とキリスト教は無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学の研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。
ぜんぜん関係も文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。
どういうことかというと、民法はちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業をします。
(1) 事案をよく見る。
(2) 適用条文を探す。
(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。
(4) 過去の判例・裁判例から重要と思しき事実をピックアップしてマトリクスを作る。
(5) マトリクスを作る過程で過去の裁判所の判断を分けた重要な事実が炙り出される。
(6) 本件に戻ってその重要な事実の有無・相違を確かめる(自然と結論も出る)。
(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。
ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。
(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去の判例・裁判例の結論と平仄を合わせるものでしかありません。
また、こうして出された結論が「国民の常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者で資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります。
他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察の捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます。
たとえば警察に捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意の認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。
他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います。
真理というものが普遍的なものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。
そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中で受刑者が思うことの多くは安部譲二『塀の中の懲りない面々』や堀江貴文『刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。
そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。
くだらない思い付き(いつも)。 京都大学の民法の教授で、最高裁判事も務められた奥田昌道先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究との関係を語った講演があって、その書き起こ...
前回、民法の偉い先生が、自身のキリスト教信仰と民法研究は無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。 が、どうもこれが頭に引っかかってしま...