はてなキーワード: 命題とは
「どんなことがあっても殺してはならない」という命題は、「どんな手を尽くしてもどちらかを殺さざるを得ない状況」にあっては実現不可能になるので、「場合によっては殺しても良い」という別の命題によってかえざるを得ない。これが緊急避難という考え方である。たとえば「正当防衛」など。人を殺しうる凶器をもち殺意をもって襲ってきた相手を殺してはいけないとなると、「自分」という人間を「殺してもよい」と判断したのと同じ事になり、明らかな矛盾が生じるためである。
”殺してはならない”は”どんなことがあっても”という全体集合すべての要素にたいして必ずしも成り立たず
”場合によっては殺しても良い”という限定された集合に対してしか成り立たない
”場合によっては殺しても良い”は空集合ではないため”場合によっては殺しても良い”でな集合と”どんなことがあっても”は同じにならない
よって
「どんなことがあっても殺してはならない」は誤りである
どれも迷うほどの問題とは思えない。
(1)老夫婦
殺してはならない。このケースならば公的支援を受けられる可能性があるので、まだ最善の努力を尽くした状態とは言えない。「公的支援は受けたくない」というのは個人的な趣味に過ぎない。
(2)新生児
殺してはならない。夫婦の事情は夫婦で解決すべき問題であり、他者が忖度することは許されない。もちろん、当該の子を生きながらえさせるために莫大な費用が発生する、その費用を捻出できる見込みがない、という将来はもちろん見えているかもしれないが、「それでも(夫の忘れ形見を)殺したくない」と母親が主張する可能性はゼロではない。いずれにせよ助産婦に「殺す権利」はない。
(3)凶悪犯
殺してはならない。速やかに、当該の自動車を隔離できる施設を準備し(たとえば使われていない埠頭の倉庫など)そこに自動車を誘導、その後、催眠ガスを投入するなどして無力化し拘束するなどの方法が考えられる。そうでなくても、周囲から十分隔離した状況で、拡声器等により抵抗は無力であることを宣言し、武装解除と投降を呼びかける。ただし、抵抗した場合は最悪射殺も視野に入れて配置を行う。凶悪犯を殺す場合でも「殺すしか選択肢がない状況」に至っていなければならない。
(4)凶悪犯2
殺すことはありうる。犯罪の既遂・未遂にかかわらず、人質の命が現に急迫の状況であることが明白ならば、状況を見て(人質の安全を最優先に)犯人の射殺も視野に入れるべきである。これは「刑」ではなく緊急避難的行為であるので死刑を廃止している法にもその趣旨にも抵触しない。
なお「その司令官も彼に妻や子供をすでに殺されているし、対応している警察官の多くの関係者が被害者である」→可能な限り事件関係者は事件対応から外すなどの措置が求められる。行政行為の執行に当たって利害関係者が関与する状況はただでさえ(人道的に)避けるべきであるが、まして行為が「敵討ち」にしか見えない状況であれば、その正当性への疑いを呼びかねないことから、対応する管理者には十分な配慮が求められる。
(5)未知の奇病感染者
原則、殺してはならない。もちろん、法的にこのような危険な感染病の罹患者の権利は制限されうる(数年前のエボラ出血熱の事例など参照)。また、病気を理解した上で「感染を広げてやる」と主張し行動する行為は、普通に群衆を対象とした無差別殺人と変わりがない(たとえば、AIDS感染を知りながらそれを告げずに感染の危険のある行為に及んだ人間が傷害致死の罪に問われることがあるのと同じ)ので、治安維持の権限ある人には速やかな対処が求められる。この場合、普通に「爆弾を所持しテロを予告した犯人」と扱いは同じである。防護服を着用した警察官等により速やかに制圧しての逮捕が妥当である。
もしそれが「いかなる防護服も通用しない強力な未知の病気(?)」を想定しているのだとしたら、その場合、可能な限り、遠隔から麻酔銃等により制圧して逮捕。その後は、法による対応(起訴等)を進めつつ、他の感染者同様、残された時間の範囲内で人道的な対応(治療等)を施すことになるだろう。射殺は、それも不可能な場合の本当に最終の手段である。「死ぬ可能性が高い」から「殺しても良い」という理屈は成り立たない。
「どんなことがあっても殺してはならない」という命題は、「どんな手を尽くしてもどちらかを殺さざるを得ない状況」にあっては実現不可能になるので、「場合によっては殺しても良い」という別の命題によってかえざるを得ない。これが緊急避難という考え方である。たとえば「正当防衛」など。人を殺しうる凶器をもち殺意をもって襲ってきた相手を殺してはいけないとなると、「自分」という人間を「殺してもよい」と判断したのと同じ事になり、明らかな矛盾が生じるためである。この場合、相手を殺してしまっても殺人罪とは見なされない。(「カルネアデスの舟板」論)
ただし、正当防衛などの「緊急避難」が成立するためには、「どんな手を尽くしても~である状況」であることを証明できなくてはならない。もし安易にその拡大解釈を許せば、社会が弱者を切り捨てることを安易に認めることにつながりかねず、危険である(例:大量の医療費を使うのは、別に貧困にあえいでいる人の生活を脅かすので、見殺しにすべき、など。昨今は政治家にもこの程度のレベルの人間が多い)。
以上のようなことは、法理の基本を説く本にはたいてい分かりやすく書いてある。元増田(や一部の政治家)は、ネットに張り付いて小理屈をひねり回し得意がるより、少しは読書をした方がよい。
https://anond.hatelabo.jp/20170829143814
の元増田だが
条件の共有が難しい、共有できない相手が確かに一定数居る、となった時にどう対応を取ればいいか考えたい
政治家が顕著だけど、パブリックな場で特定条件(前提)の話は避けられるなら避けるべきなのだと思う
前提がうまく伝わらなかった場合や、仮定を破壊された場合、簡単に炎上する
本人としてはあくまで前提や前置きをしているつもりで激しい主張をするんだけど
そもそも相手に伝わらないし、伝わらなかったために炎上してしまう
前提を用いない話というのは、事実ベースの話しかしないということだ
「〜の場合」「例えば」「仮に」「あくまで」「もし」などを使わない
(例えば麻生さんは前提・仮定大好きなタイプでよく炎上してるが、安倍総理は極力事実ベースのことしか言わないタイプであまり燃えてない。意識的にやってる?)
前提を置くとしても「前提を外された時にどう思われるか」を意識しないといけない
男女共同参画社会のため「男性も働かず主夫をやる選択肢がもっとあっていい」というような主張に
「家事も仕事もしない男性がいっぱいいる」というような反論(?)があった
主張者はもちろん「主夫は家事をやる」という前提を持っていたつもりだったのだが
前提を外されて「家事も仕事もしないなんてとんでもない」と言われてしまった
前提を主張しすぎると注釈だらけの契約書みたいになってしまうが
相手を感情論にさせない工夫をしないと、自分の主張が正しく伝わらない可能性がある
もし前提まみれの複雑な話をするなら、密室で、話の通じる相手だけとするしかない
前提や思考実験は本来物事を科学的に検証するなら大事な作業だ。そうじゃないと本質が捉えられない
でも話の対象が複雑な場合、前提を揃えるというのはしんどい作業だ
信用できる相手でさえ、認識齟齬や前提確認で語調が強くなることは多い
ちなみに「前提まみれの複雑な話」は例えば
・法律の話
・人間関係の話
・システムの話
・サービスの話
・科学の話
・組織の話
・仕事の話
・政治の話
など
これは実は不都合な真実だと思ってる
「みんなで議論」「みんなで決める」「みんなの意見」というのが素晴らしいとされる世の中において
しかしいちばん大事な話をするときにはシャットダウンしなければならない
(以前居た会社はそれで潰れた。死ぬほど優秀な人達が皆で決めようとしたが破綻した)
ところで、じゃあ公開討論会みたいなのはどうすればいいんだろう??
どう取り繕っても何割かの聴講者には誤解を与えていると思う
例えばテレ朝の「朝まで生テレビ!」では「前提まみれの複雑な話を前提を揃えずに進めている状態」が延々続いているので
見た人はほとんどの出演者に良い印象を受けないのではないだろうか
それともああいうのは「伝わる人にだけ伝わればいい」という、開き直り対策なのだろうか
翻って、自分が相手の前提を取り違えているケースにも注意しなければならない
特にその人が激しい意見を言っているなと感じた時や、自分が感情的になりかけている時
そういう時はまず相手がどういう意図で言ったか考える癖をつけたい
(考えても「あーわかんね何こいつ」ってなること多いけど)
>というか、もしも「怪しい人物に手荷物検査を求めたのに応じられなかったから解放した。しかし、その手荷物には爆弾が入っており無辜の市民が殺害された」みたいな事件が起きた時、「手荷物検査は任意なので拒否られたら仕方がない」とかそれご遺族の前で言えんの?と思うわ。
もちろん言えるよ。
正しさで人の心を踏みにじれる奴は嫌いだわ。正しければ正しいって顔をしている傲慢さはヘドが出る。まぁ、これは個人的な気持ちの問題でもう話とは関係ないから無視してくれ。
もし「拒否されても強制的に荷物検査できたほうが国民の利益になる」というなら、
なぜ法律がそうなっていないのかを考えたほうがいい。
法はそうなっていないがそれだと足りないから受忍義務という解釈があるんじゃね?
きっと法をそうしていないで解釈という恣意的な運用をしているのを叩くだろう。しかし俺自身は解釈による弾力的な運用ができないルールには意味がないと思う立場だ。この件の前からずっとな。ルールで全てのパターンを網羅しきれる完全さが人間にあるのか?というと、そんなことはない。それが理想だということはわかるからそれを目指すことに異論はないが、しかしその理想に囚われて現実を無視するのはアホだとしか思わん。
だから、
とまでは言わんが、しかし法を守ることが最初に来てしまってそれで人間を守れない方がよっぽど怖い。
人間は法のためにあるんじゃないんだ。人間を守るために法がある。そして法は不完全だから、法を守れば人間が守れる、という命題は真じゃない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/343422909/comment/mazmot
これは論外で、google検索でもイソップ寓話の方が上位に並んでいるし、Wikipediaの狼少年あいまいさ回避ページにもエイリアスがある。何より「なんと叫べばよかったのか」という問いが続いているのに狼に育てられた少年を挙げてくるのはただのひねくれものである。本人お呼びスターを付けた人のうち、ひねくれものである事に誇りを持っている人は誇り、そうでないひとは恥じるべきだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/343422909/comment/inade9
これも絶対的正解とはとても言えない回答である。そもそも設問があいまいだからである。村人は「少年は嘘しかつかない」と確信している前提であれば正解となるが、「少年は無駄に村人を無為に動かすことを楽しみとしている」と思っている場合はこの言葉を聴いても出て行かないからである。
社会学がどういうものかを知りたくて、こちらの本を読みました。
https://www.amazon.co.jp/社会学の力-最重要概念-命題集-友枝-敏雄/dp/464117430X
結果・・・、世間の社会現象を、どれだけ難しくそれっぽく語るかを競い合う学問のようでした。
社会学者とか、社会学部とか、あんなことを、あーでもないこーでもないとやっているわけですか??
いやいやいやいやいや(笑
社会学がバカにされたり、社会学のマスターディグリーは最も価値がないとか欧米で言われていたりするのに納得してしまった。
上記の書籍を読んでいて、気づきになるようなコンセプトや視点も、時折ありました。
実際、社会の役に立っている分野は確実にあるのでしょう。
しかし、私には、その書籍の内容については、8割がた、しょーもない役立たずな議論・理屈にしか思えませんでした。
実際、内容が想像以上に抽象的で、とても難しく、理解がなかなか追いつかないことのほうが多かったです。
なので、専門に勉強されている方は、これらを紐解く能力があるのでしょう。
出会ったのはもう7年前か。転職先で知り合い、同い年ということもあって仲良くなった。
最初は会社内での付き合いだったが、プライベートでも会うようになった。
映画、展示会、買い物、散歩、食事、ありきたりだけど、普通だからこそ楽しかった。
それでも俺たちは、男女の関係になることはなかった。
お互い転職して職場は別になり、30歳を超えたあたりから、2人で会うことに疑問を持つようになった。
他に意中の人はいなかったし、彼女といると楽しいのだが、恋人としては見れなかった。
応えられない旨を伝えてからは、連絡も会う頻度も減った。
それでも月1程度で食事したり展示会に行ったりしていた。
お互い最近は婚活をしている旨も報告しあって、暗黙の了解として改めて友だち関係になれたと思った。
こんな感じで、これからも付き合いが続けばいいな、と。
毎週のように来ていた遊びの誘いや、日々のLINEメッセージがなくなったのは、
彼女に恋人ができたためか、こちらの婚活を気遣っているのか、恋人になれない男と2人で会うつもりはないということなのか。
俺は彼女と都合よく付き合っていただけなのかも知れない。
恋人になるつもりはないのに2人で会ったりしてその気にさせて、彼女の気持ちには応えないなんて。
でも、俺たちは最初から友だち関係で留まることはできなかったのかな。
同性だったらいつまでも友だちでいられて、
お互い恋人ができても、時々2人で会って食事したり映画みたり、LINEで下らないやりとりを続けられたのかな。
「男女の間に友情は成立するか」なんて議論尽くされた命題が自分に降りかかるなんて、思ってなかった。
時々、本当に時々でいい。また一緒に遊んでほしい。友だちとして。
「一号〜555まで崇拝、カブトまで許容範囲、それ以降論外」派な老害だけど、
もう新作ファンへの殴り込みはやめた。楽しんでる奴らの横で、
「は?こんなんで満足してんの?俺たちの頃はな・・・」なんてまさに老害の典型、こんな無粋なことはないしな。
新作ファンでも本当に好きな奴は大概遡って過去作見てくれるし。今はストリーミングあるから余計に。
そんときになってようやく「ああ、あれは放送当時はね・・・」とか言って口を挟むようにしてる。
アマゾンズ1stは一応最後まで見たけど、デザイン・ガジェットと終盤・最期で周りの奴ほどハマれなかったな。
あの設定ならもう少し理にかなったデザイン・ガジェットにすべきだと思った。
なぜ肉体的に変異してる設定なのにツルツルテカテカのヘルメットコスチュームに電子音が鳴るおもちゃのベルトなのよ。って。
今では手放しで礼讃されてるクウガも同じ疑問点があるけどね。TVだったクウガと違って好きな大人しか見ないんだし、シン系統で良いのにと思った。
あと終盤の展開。悪とどう折り合いをつけるか、が仮面ライダーの命題なのにそれをぶん投げてしまったのがね。
そうでないと毎日毎日鉄板の上で焼かれていることを認識することは出来ない。
だが単にたい焼き達がテレパシーによって繋がっていると考えると問題が発生する。
その時にたい焼きとして存在している全てが売り切れてしまっいる状態で誰がたい焼きの記憶を次に引き継ぐのかである。
仮説1 たい焼き屋でたい焼きが完全に売り切れたことはなくいくつかは冷蔵庫に保存されて次の日温め直して売られる
仮説2 たい焼きは冷凍であり常に一定以上のストックがある状態で保存されている
仮説3 たい焼きの魂は死ぬと次のたい焼きに生まれ変わるのでたい焼きの実態が無くても認識の連続は保たれる
仮説4 たい焼き屋にはたい焼きの亡霊が住み着いており彼らによって認識の連続が保たれている
仮説1仮説2は物理的には正しいがたいやき屋の親父が冷蔵や冷凍のたい焼きを売っていたことになってしまうのがよろしくない。
仮説3仮説4はたい焼き屋が真面目に働いた上で話が成立するがオカルト色が強い。
ならばここは仮説3や仮説4を正しいと考えるべきだろう。
もしも、仮説3のたい焼き輪廻転生説を支持するならば、命題であるたい焼き同士が意識を共有した群体であるという仮定が間違っていた事になる。
この場合、「たいやきくんは日々たい焼きとして転生を繰り返してきたたい焼きである」となるはずだ。
以上で私の発表を終わります。
ご清聴ありがとうございました。
つかよく読んだら
この話題になると誰しもが「自分は頭いいやつサイドだ」と思って意見するよね。
なんで?
こっちが主題だなー。
応仁の乱に食いつくのは2周遅れ、命題の真偽も周回遅れ、「何で誰しもが「自分は頭いいやつサイドだ」と思って意見するのか?」が主題だねぇ。
そのK氏の『G』に“煽る”ものがあったのか、っていうのを一番最初に書いたんだけどなあ。結構わちゃわちゃしてたけども
要するに
①表現の自由を語る以前に、まずそもそも『G』に小児性愛者を性犯罪に走らせるだけの原因というのが本当に存在したのか?
②男性向けエロ漫画にあるような「法や倫理を越えて性交渉に及んだけどハッピーエンド」のような性犯罪を肯定してくれるような内容ではなく、寧ろ陰惨な内容でその逆の趣が強かった
③エロ漫画とはいえ性犯罪に否定的な態度を取っている漫画を性犯罪の動機づけにするのは理に適っていないし、もっと自分の犯罪衝動を肯定してくれるようなエロ漫画は他にいくらでもあった
④ともすれば『G』が性犯罪を煽ったのではなく、もともと性犯罪を予定していた人間が動機づけに『G』を選んだと考えるほうが妥当ではないか
⑤そして①の命題が偽であるとすれば、『G』に今回の事件の根本原因があるわけでない以上、他の増田でやってるその先の表現の自由だとか規制だとかなんて議論はそもそもする必要が無いんじゃないか
ってことが言いたかった。
普通にスルーされちゃったからこれも単なる自己満になっちゃったけど
https://twitter.com/quzilaxxx/status/874688834381926401
犯人の男、放射能検査の手口以前にもわいせつな痴漢行為等何件もやっていたそうで、がいがぁをネットで見て思いついた方法は彼のバリエーションの一つでしかなく、今回110番通報されたのが放射能検査の手口だから目立ってるんだな、というのはある。
ってK氏のツイートもあるし、多分実際も自分のとそんなに遠くはないと思う(めちゃくちゃ今更だけどこれKじゃなくてQやんけ)
子を望まない女性に対してのアドバイスとして「子を望まない男性と出会えば良いだけ」というのは真っ当だとは思うが、
というのも、やはり男性としては「伴侶には自分の子供を産んで欲しい」と思う男が多数派であることは、事実であるとは思うし、
「子を産まなくてもいいよ」と言う男性と出会うのは、やはりそれなりにハードルがあると思うのだ。だよなあ?
というわけで、どうすれば「子供を産まなくても良い男性と出会えるか?」という命題について色々考えてみた。
・年下を狙う。
やはり男というのは年を取るほど子供欲しい願望が出てしまうものだと思うわけだ(これは男の本能というより男社会の抑圧のせいかと)
だから年下を恋人として選べば、そういう抑圧から比較的和らいでいると思われる。
・年収低い男を狙う。
やはり男というのは年収がステディより高いほど、相手に子供を産むことを望んでしまうのだと思うわけだ(これは男の本能というより男社会の抑圧のせいかと)
俺がイニシアチブ取ってんだ!おめーに子供産んでほしいんだ!って具合にな。(無論そんなこと言うわけないが、心の何処かでそう思ってしまう)
だったら逆にイニシアチブ取れば良いのさ。私がイニシアチブ取ってんのよ?子供産まないけど文句ある?って具合にな。
まあボンヤリと考えてみましたがどうですか。
自分だけエエカッコ、というよりも、神の目線的に俯瞰的にみりゃ、生物としての人間が増えすぎて調整局面、みたいな面もあるのかなと思うけど。
「神の見えざる手」が、市場調整のために人間を間引いているというか。
拡大再生産優先の(言葉としてはジェンダー的に正しくない使い方ではあるが)男性的な方法自体が、200年ぐらいやってきて制度疲労してることに絶望しているという言い方もできるか。
議論としては少し違う軸におかれがちだが、今の貧困極右vs富めるリベラル、みたいな構図も「制度疲労」前提で考えると上手く配置できるんだ。言葉遊びみたいなもんではあるが。
拡大再生産は効率性を求めるが、制度が成熟していけばいくほど、多様性がないものには価値がなくなる。プロダクトの価値差異で儲けにくくなる。
そういう過剰成熟した資本主義社会は、労働賃金差異のみでしか価値を生み出せない貧困層にとっては、全体主義的なマスプロダクツが無くなり生産効率が落ちて自分たちの懐にまで金が回らないから都合が悪い。
一方で、資本主義が求める価値=今まで最も大きいウェイトを占めていた賃金差異を生み出せる場所は、もう地球上にほとんど残っていない。マスプロダクツの生産拠点は、中国→東南アジア→中央アジアとどんどん「秘境の奥地」へ開拓されていく、それももう限界で一昔前の秘境もいまや一大消費地となり、また価値差異は小さくなっていく。要するに世界中のほとんどの場所で、燃費が悪くなった状態。
で、異なる社会間での賃金差はもう期待できないからプアホワイト的な貧困労働者が更に苦境に立たされる、そして同一社会において相対的により低い労働力としてカウントされがちな移民や女などの社会的弱者への排斥圧力が高まってくるんだろう。トカゲが自分のしっぽ食う感覚。
この1年ちょっとでもう誰も言及すらしなくなってるが、ピケティが21世紀型の富の再分配方法を考えなければ、という命題を提示したのも、象徴的に考えられるような。
ビジョンミッションが大切ですとどこぞの戦略コンサルタントがしたり顔してありがたいお言葉をくれるたびに、んなものどーでもいいじゃないかと本気で取り合ってこなかったけれど、いま目の前に広がる組織を構成する人の繋がりのこんがらがった状態を見てはじめてビジョンミッションは意味があるモノなんだなと納得してきた。いや、正しくは今じゃないな。少しずつもう以前から分かっていたのだけれども、何とかなるだろう的な超楽天的な考え方にぶらさがり見ないようにしていたかも知れない。
あなたは人を殺せと言われて、殺すことができるだろうか?そんなことを実際にいう組織はそうそうないと思うけれど、要は自分が今まで培ってきたいまさら変えられようもない価値観を壊すことができますか?という話。組織が崩壊するのは決定的に価値観が合わない人同士が同じ組織の中に存在する場合に起こりやすいのではないかと最近考えるようになってきた。価値観が根本的に合わない組織に人が投げ込まれてしまった場合どうなるか。その人はほぼほぼ間違いなく鬱状態に陥る。考えてみて欲しい。人を殺したくないのに周りからは人を殺してこい簡単だやってみろ人殺すことにより人が評価される社会ではそれが当たり前のように話されているのだ。思えば、前の会社はそれに近い状態だった(決して人殺しを強要した会社ではなかった。比喩だ)。恐ろしいのはひな鳥のうちから企業としては一般的でなく平均的にもならないほどのあり得ない価値観をすり込んでいるので「会社とはそうゆうものなのだ」と納得して仕事をしている歯車が大量生産されている会社だった。ひな鳥たちはその会社をブラック企業とは思わずに自ら進んで喜んで残業をする。もちろんサービスだ。社員の平均給与は募集時の提示金額は嘘っぱちで実際は業界平均よりも低かった。自我があり、自ら考えておかしいのではないか?と疑問を持つモノほど心がやられて病気になり会社を去って行った。心がやられないのは疑問を持たずに目の前に提示されたことを黙々とこなす社員のみ。社長はそれを望み社員もそれを望むというお互いの利害関係が一致する関係が築かれていた。表面上は平和だ。表面的には。そんな会社にも「世のため人のため」を謳ったビジョンミッションは提示されていた(そのためにはお前ら馬車馬のように働けと圧力がかかっていた状態だったためか、そのビジョンミッションを空で暗唱できる人はだれもいなかったが)。だからビジョンミッションなんてものは何一つ有用じゃないんじゃないかと考えていた。ビジョンミッションで価値観の共有なんてできやしないんだと。でもそれは今所属している企業を見ていると間違っていたのかもしれないと考えるようになった。いまの会社は人を殺してこい!なんて酷いことは言わない。むしろ隣人を愛しなさいと説く。価値観は合っていると思っていたのだったが、なにぶん困っているのは「隣人を愛しなさい」というビジョンミッションに対してとりうる手段が個々人で異なりすぎるのだ。人を愛すためにという大命題のもと私は1日6時間だけ働きますという人。1日8時間は働きますという人。7日で25時間だけ働きますという人。すべて人を愛すためなのですと理由をつける。うちの会社が隣人を愛し続けるために、競合の会社を破壊してきますという人もいるのを見るにつけ、それでいいのだろうか?と旗と考える事態になった。やっかいなことに、その行動がもたらす影響を横に置いて考えてしまうと、その行動を引き起こしている動機は皆善意なのだ。人を愛したい。隣人を愛すために愛すために愛すためになのだ。そう、ばっちりとビジョンミッションが効果的に効いているわけなのだ。ということで、改めてビジョンミッションは、達成に向けた手段の粒度も併せてすりあわせをしておくことの大切さを最近実感している。何より、組織の途中からビジョンミッションを作るのではなく、一番最初に作っておかないと行けないのではないかと思うに至った。ある程度人が集まった状態でビジョンミッションとその達成手段の手段の方向性までを再構築すると確実に組織がいったんは崩壊する。いまの組織ではこれから改めてビジョンミッションを提示することになるので、どんなにお互いに対話を重ねても重ねても価値観が合わない人は離脱するだろう。いやすべきだ。その人が鬱病になってしまっては不幸なのでしかるべきところで離脱してもらわないといけないのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20170518030349
俺にとってははっきり言ってどっちでもいいんだけど、「意見交換会が真のとき必ず合コンは偽となる」っていうような排他的な命題じゃないでしょう。巷の合コンでだって意見の交換くらいしてますよ。
その会合の名目が何だろうが、出会いの場としての機能を持ち、主にその機能を期待する人々にも積極的に利用されているのなら、実態として合コンでしょ。
言い換えれば、合コンかそうでないかを決めるのはそこに集まる人々の下心の有無(もしくは多寡)、つまり秘めた目的意識であって、その意見交換会とやらで出会って成立したカップルが年に何組もあるのなら、それは「合コンとしての機能をそなえた意見交換会」だと思うし、みんなが知りたがっているのはそういうところだと思う。
俺にとってははっきり言ってどっちでもいい。
前回、就職氷河期について書いたとき、安楽死についての意見をいただき、これについてしばらく考えていました。
その折りに、衝撃的なニュースが飛び込んできたので、これも併せて考えて見ようと思います。
そのニュースはこちらです。
2017/4/27 1:33日本経済新聞 電子版(http://www.nikkei.com/article/DGXLZO15800570X20C17A4MM8000/)
他にも関連記事がありますが、これらの記事からは「75才以上の高齢者は治療効果がないので、原則として抗がん剤を使わないことにする、と厚労省が決めた」ということが読み取れます。
「そんなことまで書いてないじゃないか」と突っ込まれそうですが、たいてい厚労省がこういうことを発表し、日経新聞が記事を掲載する時は、もう決定事項になっていることを経験上知っています。
それはそうでしょうね。
もしかしたら抗がん剤治療で助かるかも知れないところを、年齢で一律に区切って治療をせず、痛みを和らげる治療だけにする、と言い出しているのですから。
では、なぜ急に厚労省はこんなことを言い出したのでしょうか?
筆者は、それだけ今、国にお金がないことが原因だと思っています。
日本に1,000兆円を超える借金があることは皆さん知っての通りですが、それだけではなく、医療保険制度を支える保険料収入が全く足りていないようなのです。
八代尚宏著・シルバー民主主義(中公新書2016)のp72によると、長期間のデフレによって、医療・介護費を賄うための社会保険料はほとんど伸びていないのだそうです。
本来であれば、働き盛りで一番収入も、払う税金も、保険料も多いはずの30代後半~40代前半の団塊ジュニア世代。しかし、彼らの多くが就職氷河期の影響を引きずったまま、未だに非正規や低賃金の人が多いのが現実です。
一方、高齢者の数は団塊世代が後期高齢者に差し掛かる中、急増しています。
その数といったらハンパなくて、団塊ジュニアよりも遥かに多いのです。
私は「団塊ジュニアがバブル世代より上の世代と同じか、それ以上に稼げているならまだしも、こんな状況じゃ、どう考えてもつじつまが合わないよなあ」と思っていましたが、やっぱりそうだったみたいです。
八代先生によると、足りない分は税金や国債で補てんしているようですが、さすがにこれ以上、同じことはできない…。
ということで、医療費を削ろう、より年をとって助かる見込みのない人から削ろう、せめて痛みで苦しまないようにしよう、という方針になったんだと思われます。
ところで、安楽死の話に立ち戻りますが、現実に安楽死をどうやって実現するか?と考えると、いくつも壁が立ちはだかります。
誰を対象にするか?
どういう方法で死に至らしめるか?
誰がそれらを行うのか…?
これらを国民全員が納得できるよう調整するだけでも頭が痛くなります。
そもそも「誰が対象?」「基準は?」というところだけでも難しい問題です。
就職氷河期世代は経済活動に貢献できていないし、今後も見込みがないから対象?
じゃあ、他の世代で同じように経済活動に貢献できておらず、見込みのない人はどうするの?
という命題にまで行き着くのです。
(この命題に1つの答えを出したのが、相模原の大量殺戮事件でしょう)
「こういうことを制度として議論し始めたら、国連の人権委員会から調査団寄越されて、国際社会から“人権意識の低い国”ってレッテル張られるんだろうなあ…」と筆者は思っています。
(かつて日本は国際人権委員会の調査団に調査されたことがあります)
こう考えると、安楽死ってとても難しいやり方なんだと思います。
やっぱり、生きてる人間の命を奪うのはいろいろ意味で難しいんだと思います。
それに比べると、寿命が長くなく、助かる見込みのない人の治療をやめるのは難しくないのかも知れません…。
つまり、この社会は就職氷河期世代を安楽死させるよりも、団塊世代を始めとした高齢者をトリアージすることを選んだのかもしれない、とも思うのです。
よく、「就職氷河期世代は人口が多いにも関わらず、バブルがはじけちゃったから仕方ないんだ。運が悪かったんだ」という言われ方をされます。
しかし、今は「団塊世代は人口が多いにも関わらず、国が貧乏になっちゃったから仕方ないんだ。運が悪かったんだ」という時代に変わっているのかも知れません…。