はてなキーワード: 卒論とは
白饅頭氏のnoteを読んで感慨深くなり勢いでツイートしてしまったので深掘り
https://note.com/terrakei07/n/n0024690e307c
助けられなかった友達……。10年近く音信不通の後に帰って来たことがあった。「助けてくれようとしたのはわかったけど、惨めな姿をお前らに見せたくなかった。でも、あの励ましがあったからみんなから逃げた後に気持ちを入れ替えることが出来た」と
ヌルいMMOのほうが女性PLが多いという話しだったし、有名な「FFは遊びじゃない」発言の出る前だったと思うけどUOやFFは殺伐としすぎていてついていけないと思ったので。ぬるオンライン(仮)を始めた。
初めてしばらくはギルドを渡り歩いたりでプラプラして、後にPSOから落ち延びてきた面子を中心としたギルドに入った。そこに、ぐだ男とするか、がいた。ぐだ男は高校生の頃からPSOをやっていたらしくみんなにかわいがられていた。
ウェイなギルドで最盛期には50人(女性約30%)くらいになったのかな。やたらオフ会が多く、飲み会、カラオケはしょっちゅうで、ギルド内でバンド始めた奴らのヘタクソなライブを見に行ったりもしたし、フットサルとかもした。俺も社会人になってからこういう集まりは貴重だと思って良く参加していた。アルファードを買ったアルファオス、アルファ氏に便乗して平日でも関西の徹カラに出かけたりした。もちろん、全く出てこない人もいた。
今で言えば縦の旅になった。パーティーリーダー勢は、アルファ氏はもちろん、本職税理士のギルマス、俺もそうだけど金に余裕があって彼女がいる独身男性、もしくはガチゲーマー男性。女性陣は絶対にリーダーシップは取らないけど半分は中二病、イラスト描けたり声優志望だったり。販売やコールセンター勤務、あとはシンママも。ポスドク東大女子とかもいた。
やがて、ちゃんと定職がある男性と、働いていたり無職だったりの女性ギルメンがくっついたりするようになった。俺らのモテ指導の成果だと楽しかった。
で、問題になったのがパッとしない男性陣である。バイト生活だったり、底辺大学を退学になりそうだったり、そもそも高卒無職だったり。資格試験を勧めたり、就職先を斡旋したりもした。ここで壁にぶつかったのである。パッとしない勢は能力が低いのである。
ぐだ男もその一人で、そして強権的な父が進路を勝手に決める系の毒親家庭環境だった。バイトは家門の恥と言われて三流大は出たものの無職だった。そこまで息子の進路に介入するなら、仕事斡旋しろよとか、もう解放してやれとかギルマスとアルファが説得に出向いたこともある。
さて、正攻法で就職させようと言うことで資格試験の勉強をさせた。手始めに基本情報技術者試験資格、俺らはまがりなりにも全員パソコン大先生なわけで、教科書3冊買って3日で1冊、計9日集中して勉強すれば大丈夫だろうと踏んだ。
一日12時間 × 9日 = 108時間と言うことだ。長めのRPG一本分だ。
しかし、ぐだ男はどんなにつついても一日30分も勉強できなかった。それじゃ、216日かかる。忘れるしサボる日も入れると一年かけても基本情報取れないだろう。ゲームなら一日12時間できるのにだ。
が、よく考えたらパーティーリーダー勢は同じゲームを遊ぶにしても、ギルドの運営に奔走し、攻略情報を集めたりしているのに、ぐだ男は指事に従ってついてくるだけの奴だったのだ。
どうにか俺らにできたのはぐだ男の親を説得して、ぐだ男に運転免許を取らせたことくらいだった。
そうこうしているうちに年月は経ち、ギルマスは当時ゲーム外で付き合っていた彼女と結婚してギルドにはあまり顔を出さなくなった。
と同時に空前の結婚ブームが巻き起こり、5~6カップルが爆誕して披露宴企画が忙しくてぐだ男にはあまり構ってられなくなった。俺もギルドメンバーと結婚した。前の彼女と別れた顛末は俺を十分女嫌いにさせるものであったがそれは別の話しだ。
それはさておき、ぐだ男は誰の結婚式にも来なかった。
その頃には、ぬるオンラインも完全にマンネリ化していてゲームはしないで、SSやイラストを交換しボイスドラマを作ったりと課外活動中心のギルドになった。マビノギやアラドに乗り換えた奴もいれば、スパロボしか遊ばなくなった奴もいる。
ぐだ男は俺たちの前から消えていた。
ネトゲの人間関係は薄いと言うけどそれからもしばらくは関係は続いた。mixiにログインしなくなってからはだいぶ消えたけど。ツイッターに乗り換えたときについてきた面子とはまだつながっているし、産まれた子供同士を遊ばせたりもしている。
今から5年ほど前だったと思う。当時はそれなりにモテていたが今では低収入過ぎて婚期を逃した奴を交えてオフ会をしていたらぐだ男の話になった。
「あ、俺まだぐだ男とlineつながっているよ。あいつはもうお前らには会いたくないって、でも一応毎日働いているし家も出たみたい。『助けてくれようとしたのはわかったけど、惨めな姿をお前らに見せたくなかった。でも、あの励ましがあったからみんなから逃げた後に気持ちを入れ替えることが出来た』だってさ」
少し酒がうまく感じた。
おまけ
学生時代まで巻き戻すと、
助けようとしてみんなで世話を焼いたけど後足で砂をかけて愛想を尽かされた奴とか
いっぱいいるけど彼らはそれなりに居場所を見つけてそれなりにやっているようだ。
俺が代わりに卒論を書いてやったのに教授発表会の前に逃亡した先輩なんか今では医者だ。
おまけ2
ギルドでダンナや彼氏について愚痴を通り越して悪し様に言っている女はヤバい。姫である自分を快適にさせてくれないダンナや彼氏をなぜか見下す存在ばかりだった。
実験内容は興味がないわけではないし、なかなかお目にかかれない機器を使ってデータをとるのはなかなか楽しい。
しかし、レポートがきつい。とにかく量が膨大だ。回によってまちまちではあるが、少なくても15ページで4000字程度、多いとその倍以上になることもある。これを1週間で書き上げなければならない。
書いても書いても終わらず期限目前になってしまい、中途半端な出来で提出して再提出を食らってしまう。そもそもタスク割りが下手なのもあると思う。
再提出の締め切りは1週間後で良心的に思えるが、次の実験のレポートの締め切りと被っている。再提出のレポートをやるのに時間をとられ、次のレポートに取り掛かることができずこちらも再提出になってしまう。以下同じ事が永遠にループしている。とうとう今週は再提出のレポートも次のレポートも提出できずに終わってしまった。我ながら情けない。
タスクが終わらない不安感はメンタルを蝕んでいく。おとといから2日ほどレポートもほかの授業の課題も手につかず、一人暮らししているアパートの一室で横になってぼんやりしていた。部屋にはゴミが散乱して台所のシンクには洗い物が溜まっている。何もする気力が起きない。できるのはYouTubeや漫画を眺めるくらい。今も死にそうになりながらキーボードをたたいている。
実験を一緒にやっている班員は「きつい」といいつつも、きっちり期限内にレポートを仕上げて提出しているようだ。同じ学科の友人も同様にうまいことやっている。周りが優秀なだけに、どうして自分だけ無能なんだろう、と自分を責め続けてしまう。
そもそも学部3年の実験なんて、やる内容も決まりきっている。結果もわかりきってて考察内容だって模範解答が存在するものだ。舗装された登山道を自力で登るようなものだろうに、なんで私だけできないんだろう。ここで躓いていたら、4年の卒論や修士課程なんて乗り越えられるはずがない。
実はメンタルが不調になるのは初めてではない。大学に入学した直後にも派手にやられている。今よりもかなりひどくて、なかなか2年生に進級できず1年生を2,3回やったほどだった。
そのときは大学のメンタルヘルス部門を訪れたり休学して実家に戻ったりして、何とか復調できた。一度元気になってからは順調で、フル単ではないが3年生までストレートに進級できていた。
最近様々なことに悩みだした。大学4年生にして思春期の訪れである。世の中の様々なことに興味を持っては、大学を卒業するまでの期間の長さを嘆き、折り合いがつかないまま悶々とした気持ちで日々を過ごしている。
僕は今まで散々人生をサボってきた。最低点主義とでも言おうか、家族など周りの人の反応を見ながら自分である程度の基準を作り、それを満たしさえすればなんでも良いと思っていた。高校受験の際は、祖父・両親が通っていた高校に行くことが家族の中で当然とされていたためそれに合わせて合格することを目標としていた。中学校程度の勉強はそれなりにやっておけば志望校くらいは受かる頭の良さであったため難なく受かった。しかし、例えば部活動は自分の中の基準にまったくなく、練習をサボりまくり挙げ句そのせいで同じ部活の女子に泣かれた。僕の中の基準は高校に受かる一点に集中していた。高校に入ってからは、なぜかわからないが志望校を東大と言ってしまったために家族や先生を期待させてしまい(と勝手に思い)よくわからないことになっていた。端から東大に行けるとは現実的に思っておらず、勉強はしていなかった。それでも宣言してしまっているからにはある程度の「惜しさ」を演出しなければならない。高校3年生の頭には学年で半分以下の順位になっていた僕は、「文転」した。文転してからはある程度の順位は取れるようになりワンチャンあるかもという感じを出せていたがあくまで「ワンチャン」。そのまま受験に突っ込み、結果は惨敗した。我が家は浪人には寛容であったためもう一年やらせてもらえることになった。しかし僕の基準はもはや東大ではなく「惜しさ」の演出に移行していたのかもしれない。一年中遊び続け、昨年よりは改善したが結果はだめだった。それでも後期である程度の大学に滑り込めてしまったために「惜しさ」の演出には成功してしまった。大学に入っても最低点主義は言わずもがな変わらない。単位を取るだけだったら誰でもできる。何一つとして学問は身についていないが、あと卒論さえかければ僕は卒業できる。
こんな、最低点主義を人生を通して実践してきた僕も勉強だけをやっていたわけではない。絵を描いてみたり(才能が絶望的だった)、小説を書いてみたり(根気がない)、ギターを弾いてみたり(練習嫌い)、作曲を行ってみたり(世に出ているもののクオリティーにならないことが気に食わない)、いろいろなことを知りたいと思い最初の一歩だけ踏み出してみた。しかしどれもすぐに飽きたり萎えたりしてしまった。今でもこれらをある程度好きだという気持ちは持っているが、世に出るレベルには到底ならないだろうということを予期してしまっている。最低点など存在せず、最高点なら∞の世界の話に立ち入れない僕がいる。
社会に出てしまえば周りから求められる最低点などというものはどこにもない。それに、最低点を取れなくても、ある程度のセーフティーネットは存在する。僕がこれまで回してきたサイクルはほとんど無に帰す。僕はこの社会の中でどこまでもフラフラとしていくしかないのだろうか。
僕の「好き」は移り気で、小さく、根気がなく、僕を規定するものになってくれない。それでも今はこれを大事にせねばならないと芽生え始めた自我が言う。僕の「好き」はこれから最低点を求めず、自由に泳いでいけるか。22年間サボっていたからこそ、今、世界のすべてを手に入れたくなってしまった。領分をわきまえず色々とやることをこの僕が僕に認めなければならない。そして、世に花開くことを真に夢見なければならない。
何者にもなれないことこそ誇らしく、胸を張って生きていこう。
これは人生に絶望した若者の戯言です。今日話を聞いてくれたみんなへの感謝の一つの形として書きました。そしてCrazy Crazyに感じて星野源にドハマリしていた15歳の僕に捧げます。星野源の多才っぷりはとどまることを知らず、どんどんとかっこよくなっていくばかりです。この7年で更に距離は離れてしまったけれど、星野源はたしかに僕を構成する一要素です。一応結婚のことについて触れておくと、私は有名人の誰と誰がどうだ、みたいなことには全く無頓着で無関心です。しかし、星野源が結婚したことによって新たな面を見せてくれるかもしれないということには期待することもあります。これまでエッセイで見せてくれていた暗黒面もさわやかなライブでの姿にも、それを支える世界への愛のようなものが僕の心までも包んでくれているような気がしていました。これからは包み、包まれた愛が僕に触れることになるのでしょうか。それならば一層、僕も源さんの心を包むような愛を持って世界に向き合っていかなければなりません。世界のすべてを肯定することは難しくても、世界には素晴らしいことがたくさんあるとよく噛み締めたいです。そしてそれを表現にまで昇華できればこの上ないことと思います。
ありがとうございました。
以下雑語りです
https://bunshun.jp/articles/-/45917
一市民として悲憤慷慨を隠し得ない
駅周り30分ぐらい適当に歩いてあとはWikipediaの雑引用、かの文春の記者がやることですか?
だいたい駅の話から市の話に自動的にすり替わってるのおかしいだろ お前がやってること、山手線の内側を"ナゾの激坂地域"とか書いて結局目黒駅周辺の話しかしないのと一緒 わかる?
それに自由民権運動の話するならちゃんと自由民権資料館に行って話聞いて来いよ
※自由民権資料館 鶴川駅から徒歩25分。民権運動をテーマにした資料館はここと高知県の自由民権記念館だけ。和風な造りの本館は、民権志士が残した武芸道場を保護・改装したものだ。
文章を順を追って殴りますが、まずね、境川の話が「都県境」で終わるのがもったいなさすぎるんですが…
後々神奈川ネタ出すなら、かつて武蔵国と相模国の国境線が境川だったってところまでやるべきやろ
あとは
(・中世では現多摩市との境界が武相国境であるような認識があったが、太閤検地の際に完璧に河川が国境線になった)
(・検地以前は境でなかったので高座川と呼ばれていた)
までの情報があった方が良かった
・小田急線はもともと南町田や長津田付近を通る予定だったが、地主がゴネて町田を通った
・「デッキを抜けたら地下」な小田急町田の独特の駅構造は周辺の地形に関係している 境川の流域が狭く、川に沿って坂線がある
・"ただ絹の道があったから"発展したと思うな あれは浜街道(八王子と横浜をつなぐ道)沿道でありながら鎌倉街道沿道なので、東京湾に進む人の流れと相模湾・埼玉から来た人の流れが激突することになり、一躍巨大市場になったんだ 相模湾で捕れた魚を乾かしながら町田まで歩いた商人もいて、駅前に乾物屋が多いことのルーツはここにあるらしい(富沢商店ももともと乾物屋)
・絹の道の由来について語るなら、"ただの道を絹の道にした"鑓水商人の話も欲しいし、どうでもいいですが町田市には槍溝(やりみぞ)という希少苗字が残っています
あと民権運動や水源問題は町田が神奈川になった理由の本質じゃないだろ
多摩川・荒川流域じゃあないんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
町田市以北の多摩地域のほぼ全域は多摩川流域(八王子、青梅、三鷹等)か荒川流域(東村山、清瀬、武蔵野等)に属します ところが町田市が擁する水系は境川・鶴見川の2系で、多摩川水系の河川はほとんど通っていません おかしいだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!流域ごとに郡や地域を区切るなら町田は横浜市や相模原市の一部になって然るべきだろ
多摩川欲しさに東京府が三多摩を合併したのは事実ですが、併合してもなんもいいことない現町田市の地域1町4村まで神奈川県を追い出されたのは"多摩郡に属していたから"ですよ
②武蔵国である現横浜・川崎両市がなんか都心と分離され、神奈川県の枢軸になってしまった
インターネットは③を一生擦ってるってことにはよ気付け
※解説
①https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12203290882 ヤバイなこの回答者、郡史ガチ勢?これを見るに武蔵府中との結びつきって相当強かったんだな でも鶴川以東には国府の権力が及ばなかったのもなんか不思議ー
②https://togetter.com/li/1285652 と https://www.customs.go.jp/yokohama/history/hatten.pdf 神奈川県の成立理由はマジでごちゃごちゃしていて最悪だが、"なんかメッチャ白人(しろんちゅ)がいる嫌な場所"と"俺らの住まい"とをひっぺがしたかったという趣旨
中世のころ、武蔵府中から丘陵の壁を超えて「多摩」の使命を言いつけられたことに始まり→時は流れて近代、なんか横須賀にゲェジンが来たせいで江戸っぽくないところを別県にせざるを得なくなり→水源問題で都心と神奈川が大モメかました挙句過激派活動家が大暴れして「多摩(笑)」一帯が神奈川県を追い出された
もし武蔵国府が調布のあたりにできて鎌倉街道が東にずれていたら、もしペリーが江の島に来航していたら、町田はこんな「仲間外れの市」にはならず、"茅崎県"県央の凡庸な自治体になっていたかもしれないし、はたまた鶴見市や都筑市という巨大な自治体に包摂されていたかもしれないのだ
そしてその世界線でも、ろくでもないライターが「"ナゾの途中駅"本町田駅」とか書いちゃうだろうが、 でもその記事はここの日本ほど多くのpvを稼がず、トレンドにも載らずひっそりと埋もれていくんじゃなかろうか
だから答えるよ
未だに何もわからない
飽きたんだよ
お前らが同じ話ばっかりして肝心な要点を見過ごしてるから不快なんだってば
それにステレオタイプで地域を語るのは地域差別となんも変わらんだろ
(前に町田関連のネタツイを自称リベラルに共感RTされたことがあったけどすごい嫌だった いかなる差別にも屈しないなら町田は東京都って言えよ、民主政治が大好きなら民権運動によって東京都に移管された街に最大限の敬意を払ってくれよと思った)
本当に町田が好きなんだったら、インターネット雑語りをやめて、今日から町田にちゃんと向き合え
ネタで町田を神奈川扱いするならテコンダー朴みたいに歴史的経緯を全部踏まえてやれ 憶測で物事を語るな
あと神奈川県に接する駅といえば町田駅だけじゃなくてつくし野駅も鶴川駅もそうです
にしてもこのブロガァーみてぇーなライタァーは駅前で何を見たんだ?日本初の車いす用バスを見たか?町田街道の向こうに佇む広大な谷戸(注)を見たか?谷底の美術館の収蔵品を調べたか?ジョルナのエレベーターのボタンを押したのか?何もしてない
これをポジティブにとらえると、読者にもっと町田の魅力を探させる余地を与えてくれたってことになる
だからどうか、ここから先はスマホの前のみんなに、町田駅や"町田市"を回ってほしい
限界逆張り地理オタク御用達・源流と坂と県境のテーマパークとして、町田市は今でも多くの廃人を寄せ付けている
町田市は本当にすごい 今や小平にも及ぶブルーベリーの産地だし、南町田にはケンタッキー食べ放題店舗があるし、堂之坂公苑は誰も来ないのに水琴窟があるし、玉学には赤瀬川原平の家も残ってるし、白洲次郎の別荘で食べるオムライスはマジでうまいし、つくし野の急坂はどこまでも続くし、小野路宿里山交流館は江戸末期の旅館を改装した建物だから木造で落ち着くし、野津田の山はクソでかいし、相原にはおいしい卵屋(カトウファーム)とアイス屋(東京みるく工房ピュア)があるし、本町田には北条時行の戦った合戦場があるし、リス園の近くに井の頭公園みたいなでかい池があって夏になると隣のちっこい池でメッチャ蓮咲くし、多摩境には都内唯一のストーンサークルがあるし、大泉寺は谷戸の底にすっぽり収まった寺で春になると桜が参道に咲いてめちゃ綺麗だし、恩田川の桜はもっと綺麗で目黒川より混んでないからいい写真撮り放題だし、木曽町の地名の由来は一般通過木曽義仲
とにかく春先にあの戸場谷戸を尾根の上から見渡した時の、菜の花畑や一本立ちの桜や小さな白いトラック、別の尾根が続いている光景は言葉を失うものがあったから、一緒に行こう。
お前は町田を待ってないかもしれないけど、町田はお前をいつまでも待ってるから。
【あとがき】
https://twitter.com/pededeck/status/1246422466135617537 ←これはインターネットで見つけたわかり手
注:谷戸は谷の一種。底が平たい。上から見るとUの字になっている。海進によって土砂が堆積し、このような平底になったようだ。あきる野の横沢入や稲城の上谷戸は有名。
追記 こんなにたくさんの人々のブクマと注目を集めることができて光栄です。卒論も町田のことで書こうと思っていたので、励みになりました。町田地方史研究会のおじちゃんたちに比べたら、自分は町田について本当にニワカで、話せることも少ないけれど、精進しようと思います。
正解のルートがそもそもないかも。私は誰かのトゥルーのエキストラでしかなく、私にはバッドルートしか用意されてないかも。
とか思いつつ。私はどうやったら現状を回避できたんでしょうか。
■学生時代
[〜小学校]
人見知りで小太りでうだつの上がらない子供でした。軽くいじめられていた記憶。
親は物心ついたときには離婚しており母と弟とで3人家族です。私が中学に上がるタイミングで再婚しますが、こうした経験が影響してなのか(大多数の人が持っていそうな)家庭を持って当然、みたいな人生観は持っておらず、結婚したいと思ったことがありません。幸せのイメージや将来像が特にないというか。特に再婚前も後も家族に不満はないですが。
ポケモンが好きでアニメを見たりゲームしたり、また、弟と遊戯王で遊んだりしていました。同学年の女の子達とあまり共通する趣味ではないので(私は女です)、女の子達と友達ではあったのですが、親密な関係を築けてなかったような気がします。元が人見知りなもので男の子と仲良くできるコミュ力もなく…この傾向は中学高校も継続するのでコミュ力を培う経験が割合少ない学生時代を過ごしている気がします。
[中学生]
運動苦手なくせに、友達に誘われて運動部に入り死ぬほど苦労しました。辞める度胸がなく、辞めたいと思いつつ補欠のまま続けました。社畜の経験が積めたのかと思いきや、頑張っても苦しいだけでだるいことを学習してしまい、根気がない人間に進化しました。
一方で、自分が平均より勉強が得意な人間であると発覚しました。それなりの高校、大学に進学できる脳を持っていて実際にそうなったのですが…。
[高校生]
一年生、クラスに中学の知り合いがいません。初対面の人と話す方法を知らず友達が作れませんでした。卒業するまでこの状態。
話しかけてくれる優しい人もいたのですが、当時の私はこの人と仲良くするくらいなら一人でいいわ、と距離を取り孤立。プライドばかり高いクソでした。この時期に人と話すことが少なすぎて会話が下手になったり、自意識が肥大して性根が歪みました。
[大学生]
高校生時代の自分を反省し、初対面の人と会話するための予習などをしてキャンパスライフをスタートです。腐った人間性は今でも完全には治っていませんが、優しく趣味などの価値観も近しい友人達に恵まれ、友人関係の面ではそれなりにちゃんとした大学生として過ごせたと思います。高校までの対人関係の経験がどうしても不足していて、コミュ力の他に心が一般社会人より育っていないと感じていますが。
問題なのは勉強です。理系学科のため3年次に所属する研究室もとい専攻を選んだのですが、その後社会人になった今も尾を引く問題が出てきます。
専攻した分野のテスト勉強するのは楽しかったのですが、研究はそんな好きでもないし、、、論文、特に英語読むのきつい、となってあまり研究者向きの気質ではなかったです。卒論修論は受理されましたが、社会で私はどうしたらいいんでしょうか。みんな研究職についていたので、研究者気質ではないことから目をそらし、私も研究職志望で就活し、幸運にも内定を取ることができました。
とりあえず研究職についたものの周りの研究員のような熱意もなく能力も高くもなく、中学で部活がある日々ような感覚です。何となく予測できてはいたものの、目をそらしそらし社会人になり、社会人としての苦しさと合わさって中々精神的に堪えます。
異動するとして営業職がありえましたが、人見知り、コミュ力に不安のある自分がやって行ける気がしません。何やかんやあって退職し、転職先として営業を伴う企画職のようなものに就くことができました。しかし、転職直後は多少あった熱意も日に日に削がれ、そもそも営業活動はやっぱり苦手だったし、と、案の定苦しくなっている今があります。
下手に自意識が肥大しているので自分の能力や意欲より背伸びした職に就いてしまって、余計首を絞めているとは思いつつやめられず…。専攻選びというか、大学の学科の選択はもっと慎重に検討すべきでした。
これがゲームだったらニューゲームするくらいに打開策のないルート。というか、客観的に見たら私がどうしようもない使えない駒。頑張れなさすぎ。主観として私が私を諦めてしまえないから苦しい。
[追記]
こんな長くて暗くて推敲も足りない文章に反応いただけるとは。ありがとうございます。
自分でも前々から、背伸びをやめた職につくのが良いのかなと思っていました。なのですが、転職エージェントやキャリアカウンセラーってポジティブな転職支援が多い気がして相談するにも気が引けてしまい、つい背伸び気味の希望を言っていました。私と似た志向の人が居たとして、役職持ちだったりスキル持ちな方がスローペースにシフトする支援は有り得そうですが私のような若輩者は取り合ってくれるのだろうか…。
その一方で、消極的選択で良い結果は出ないというのは、そのとおりだと思います。やりたい事を見つけたり、積極的な選択を人生の重要な場面でした事がなくて、私に欠けているものなので、本来立ち向かうべきなんだろうと強く思います。これが私にはとてつもなく難しい…時間がかかりそうです。
小中学校はずっといじめられてた。みんなが当たり前にできることができなくて、どうして自分にできないのか理解もできなくてパニックになってよく泣いていた。勉強はできなくもないけれど得意な訳でもない。板書が極端に遅くて、授業後はいつも黒板消し係の人に急かされていた。運動は目も当てられないくらいできなくて、友達も少ないから体育の授業の「二人組をつくって〜」で余るのが常だった。中学くらいになるとそういう時に相手を探す行為自体が無意味だと悟ったのでただ時間が過ぎるのを待っていた。そして先生と組む。
学校生活がうまくいかなくても頭がバカなので不登校という発想がそもそもなく、あと学校に行かないと親にクソほどキレられるので学校がある日は半泣きになりながらも登校していた。学校が嫌いだったから勉強も好きになれず、でも勉強しないと親に怒鳴られるので勉強は大嫌いになった。
勉強はしたくなかったから高校は普通科ではない少し特殊な学科を選んで入学した。これがたまたま合っていたのか、成績はクラスでも上位に入るようになった。授業は楽しいしクラスメイトも優しくて、初めて学校でいじめられなかった。高校を卒業したら同じジャンルの専門学校にでも行こうと思っていた。が、ある時担任にこの成績なら大学も視野に入ると言われ、それを親に話したところいつのまにか第一志望が大学になっていた。高三の頃には中学のいじめのフラッシュバックでメンタルが限界を迎え、卒業式も保健室で迎えた。遅刻も多かったけれど成績は維持できていたので、地元のそこそこ良い大学へ指定校推薦で進学した。
大学生活は大変だったけれど今までで一番楽しかったかもしれない。
勉強の習慣がなかったから毎日の予習復習ができるようになるまで二年かかった。基礎もできていないから授業にもついていけない。それでも、今まで学んだことのなかった社会学、心理学、哲学、法律、外国の文化、歴史、英語以外の外国語… 高校でやった普通科目がかなり少なかったのもあるのか、俺は義務教育でやったような国語算数理科社会みたいなやつだけが学問だと思っていたからとにかく衝撃で、全てが新鮮だった。
人間関係は相変わらずカスだったが、何とかグループに入れてもらってその人たちと一緒にいくつか講義を受けたりした。大学は一人でも勉強できる環境はあるけれど、「あの先生の講義は楽」
だの「この授業が面白かった」「課題の提出期限が変わる」「今度こういうイベントがあるらしい」とかの情報があると段違いで勉強しやすくなるから友人はいた方がいい。
大学三年のある日、そのグループの人たちに合わせて一緒に取っていた言語学関係の講義で発達障害の存在を知った。
俺のことかと思った。
俺が発達障害?
気になるとそのことしか考えられない。
数日後には県内の発達障害を扱うメンタルクリニックを予約していた。初診は1ヶ月後しか受け付けていないと言われたがメンクリでは珍しいことではないらしい。素直に1ヶ月待つ。
「恐らく、自閉症スペクトラムと呼ばれる発達障害の可能性があります」
絶望した。
自分が障害者なのかあんなに知りたかったのに、いざ面と向かって発達障害だと言われるとそこには絶望しかなかった。
俺は「あなたは発達障害ではありません」と言われたかったのかもしれない。自分は普通なのだとその証明を医者から貰いたかったらしい。そのことに、発達障害だと診断されてから気付いた。
今までできないなりに努力もしたつもりだったけれど、お前の能力では努力してもどうにもならないのだと、現実を突きつけられた気分だった。
医者に進められるがままにwaisというIQテストを受けることになった。
waisの結果は最悪だった。
総合的なIQは平均以下の90、特に低い処理速度が65、作動記憶が70。
自分のできないことが数字として可視化され、心理士に読み上げられる。情けなくて悔しくて、でも誰にもこの感情をぶつけることができなかった。
それから投薬が始まって、聞いたこともない名前の薬が沢山出された。
一番飲んでいた頃は一日で
インチュニブ2mg
コンサータ18mg
ルネスタ3mg
レンドルミン0,25mg
を飲んでいた。ストラテラのせいで異様に目が覚めるから睡眠薬で無理やり寝て、それでも3-4時間で起きてしまうから毎日睡眠不足だった。卒論がうまく書けなくてそれを主治医に言ったらこうなった。
大学卒業後、よりによってアスペに不向きな接客業に就職してしまったので結局ストラテラは減らせなかった。仕事はできない上に人間関係も上手くいかなくて、薬を減らしてもっと無能になるのが怖かった。夜は眠れない。朝が来たら仕事に行く。
その状態で一年働いて、心身共に限界がきてついにこの前仕事を辞めてきた。
ストラテラもやめた。
もう嫌なんだよね、俺が何かするたびにおかしい目で見られて、俺が喋ると会話が止まるの。仕事ができないのも悔しくて、だって俺さ、接客業やりたかったんだよ。この仕事に就きたかったんだよ。バイトで接客業やってさ、楽しいなって思って就職して、でもできなかった。やりたいことだったのに、好きだったのに、できなかった。
普通じゃないってなに?
数が多いってだけでお前らが正しいの?
指摘されたこととか、怒られたことを思い出して俺の何がダメだったのか、どうすればよかったのか考えてるんだけどさ、
もう何も考えたくない
何も考えたくないよ
貯金が尽きるまでは本を読んで、ゲームをして、アニメを見る生活を楽しもうと思う。
強いかどうかは知らない
というか弱いと思う
賢さ根性補正ってなんだよふざけてんのか開幕2戦マイル走らすな
でも可愛い
俺のことを信頼してくれる
通えなくなってはないな
ちょっとだけ対面授業ができるようになった
でも俺は教育実習に行けないし、教務課も教職課程の教授も補講を用意するのがめんどくさいしこんな状況で教職が第一志望じゃない学生には対応するのも面倒って態度を隠さない
だったら2018年の教職課程の要項に「教職を目指さない人間は受けるな」って書いとけ
基礎疾患のある身内がいるので実家にも帰ってくるなって言われた
誰も俺のこと助けてくれないし切り捨てられるのにウマ娘たちは俺のこと信頼してくれるんだよ
楽しいに決まってるだろ
二次創作も馬主もサイゲもJRAもどうでもいいからさ、俺からビワハヤヒデを奪わないでくれ
寂しい
俺のこと切り捨てないで 頼りにして 笑ってくれるやつはトレセン学園にしかいないんだよ
サ終しないで
テストは大体100点だった。
ただ友達付き合いが壊滅的に下手で、中学に入ったころから学校に居場所がなくなり、年単位の不登校になった。それはここでは省略する。
高校からは真面目に登校し、友達もできて、勉強も遅れを取り戻すことができた。
高3になり、大学受験に向けた模試では毎回旧帝薬学部が狙えるレベルだった。
緊張して臨んだセンター試験は9割。正直、自分スゲエと浮かれた。
でも待てよ、と立ち止まった。
もし落ちたらどうなる?
学校や塾で授業を聞くのは苦ではないが、一人で勉強するとどうしてもすぐネットに手が伸びて1時間2時間が溶けてしまう。
コツコツ一人で机に向かうことが本当に苦手だった。
だからもし浪人すると絶対にネット漬けになり、ダメになってしまうという確信があった。
親元から遠くなるのに不安を覚えたから、地元から出なかった。(これは正解だった。のちに引きこもりになり生活習慣も精神的にも不安定になったので毎週実家に帰って会話する相手がいてかなり救われた)
当然合格し、駅弁大学に入学。どうやら50人以上の学科で入試の成績が一位だったようで、表彰もされた。
入学するとオリエンテーションやサークル勧誘で異性からたくさん話しかけられた。
新入生の女ならちやほやされて当たり前なのだが、こんな私でもリア充になれるかも?と少しだけ夢を見させてもらった。
しかしその少し後に、私は衝撃を受けた。
どこがわからないのか考えても、一から十まで全部としか言いようがない。
何せいきなり理解不能な単語や概念が当然のもののように出てきて、それを前提にどんどん講義が進んでいく。
その専攻は高校では好きな科目だったはずなのに、しょっぱなから「高校までで習ったことは嘘です。本当はこうなっています(意味不明な説明)」と打ち砕かれる。
極めつけは実験科目で、実験器具を目の前にして何をどうしたらいいのか教科書を見てもまったくわからず固まってしまい、「あ、これ無理だ」と確信してしまった。
授業にもついていけないし、人間関係も、最初は同級生と仲良くできたものの一歩踏み込んだコミュニケーションが取れずに徐々に距離ができていった。
次第に私は大学に行かなくなった。一人暮らしのアパートに引きこもってネットとゲームに明け暮れ、昼夜逆転生活を送るようになった。
土日や長期休みには実家に帰ったりアルバイトをしたりして、そこでだけ人と会話できた。
このままではいけない。なんとかしなければと学生支援センターのあたりをブラブラ歩いていると、入学後でも専攻が変えられることを知った。
これだ、これしかない。
私は文系学部の試験を受けた。普通の入試と似たようなもので、英語と小論文があったと思う。
無事に合格し、心機一転、同じ大学で二度目のキャンパスライフがスタートした。
この学部でも専門科目はわけがわからなかったが、前の専攻とは違ってまだ理解の糸口がつかみやすかった。
また文系マンモス学部なので講義で人と関わることはほぼなく、かつ編入生という明確な立場の違いがぼっちの安心材料になって、余計なストレスを抱えずに勉強できた。
あとはここで躓いたら二留か最悪中退するしかなくなるので、授業も試験も頑張るしかなかった。
幸いなことにその学部は卒業要件がゆるく、ゼミはあるものの卒論すら不要だった。また、私が選んだゼミはゆるさで有名なゼミで、ぼんやりとしたテーマでなんとなく発表する程度で許されたのも運が良かった。
かくして引きこもりぼっち大学生は、一留したものの専攻移動という手を使ってなんとか卒業までこぎつけたのだった。
ちなみに授業と並行して資格試験の学内講座も受けたが、そちらは教えるプロが試験突破を目的とした講義をしてくれるので非常にわかりやすく、自分が得意だった大学受験までの「お勉強」と似ていた。
大学を卒業して長いこと経つが、いわゆる優等生の方だった自分が大学でなぜあそこまで躓いたのだろうとたまに考えることがある。
1.大学で講義をするのは研究のプロであり高校までの教えるプロとは異なるということ。
2.高校までの参考書パラダイスと異なり、底辺大学生に一から理解してもらうための参考書が乏しいこと。(当時の私も一生懸命探したが自分の専攻では見つけられなかった)
3.高校までは「AはBのためCになる」のようなシンプルな絶対的事実をいくつも積み重ねて理解を深めていくが、
大学ではAからZやそれ以上のあらゆるパターンが先に出てくるばかりで絶対的事実に辿り着かず、「結局確実に言えることは何なの?どこから覚えたらいいの?」と地に足がつかないままどんどん先に進んでいくこと。
(よく考えたらお勉強ではなく学問や研究の世界なので当たり前である)
など色々あるが、結局、答えの用意されたお勉強が得意だっただけで、答えのない学問を追究すること、つまり大学進学自体がそもそも向いてなかったのだろう。
高校までのお勉強と大学で学ぶことは全く異なるということは全高校生に知ってもらいたいと思っている。
ここまで読まれた方は、私は発達障害だと思うかしれない。診断は受けてないが傾向があることは自覚している。
しかし「高校までの勉強が余裕だったのに、大学の授業が全く理解できなかった」という話は発達障害界隈でもあまり聞かない。私だけなんだろうか。
今、自分は大学4年生だ。自分の学部は卒論が必修なので当然時によっては英語の論文を読むこともある。
ただ実は、自分は英語で月も言えないし曜日も分からない。決してFラン大学の学生でもなく、むしろ世間では難関大学とされる大学に通っている。推薦とかで英語を入試で使わなかったわけでもなく、自分は正規の一般入試で合格している。
ではなぜ月も曜日も分からないかと言うと、ただ単純に覚える機会がなかったからだ。覚えようと思えば月は12個、曜日は7個だし少しは覚えているので実際に覚える数はもっと少ない。受験や学生生活の中でも覚えなくてもどうにかなってきたのでここまで来てしまった。バレたらめちゃくちゃ恥ずかしいので月や曜日を英語で言う機会が来ないことを祈っている。
学生時代、件の「あえぎエディタ.xls」におそらく触ったことがあるのだ。
学部生と院生が共同で利用できる談話室で、そこにはPCが一台だけ置いてあった。
PCルームのコンピュータの方が機種が新しかったためか、はたまたそこに一台しかないために起こる遠慮のせいか、ほぼ独占していたように記憶している。
ある日、気まぐれに隠しファイルを検索すると、諸先輩方が残した過去問データに混ざって「エディタ.xls」があるのを発見したのだ。
文章を入力すると、その緊張度合いが「絶頂度」という値で算出される不思議なツールだった。
これを卒論に応用できないかと思い、試行錯誤したものだが、式を見ても音声的要素の数値化と計算処理の妥当性を担保する理論を自力で復元できなかったため、諦めざるを得なかった。
どういう理屈で作り上げたのか、テキスト化してくれなかった制作者を恨んだものだ。
1点目は、増田が指摘していたように「多くの作品で、最後に向かうほど「絶頂度」が高まっていく」ことだ。
2点目は、「1点目の傾向は短~中編に顕著で、長編になると当てはまらないものが増える」ことである。
例えば、太宰の「駈込み訴え」は典型的な「最後に向かうこと「絶頂度」が高まっていく」作品だ。頭から250越えの高い値をマークしていながら、「私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」で最高潮に達する傑作である。(最後の数値は伏せる。太宰は「羅生門」より高くても低くても何か言いそうだ。)
しかし同じ太宰でも長編小説の「人間失格」はエピローグの値が全体的に低いのだ。(ただし「神様みたいないい子でした」で跳ね上がる。)
この、長編における末尾の値の落ち着きについて何か述べたかったのだが、前述の経緯で諦めたため、そこから先のより突っ込んだ分析はしていない。
それにしても、算出される値に「絶頂度」と名付けるとは、不思議な趣味だと思ったが、こうしてツール作成の経緯と本来の名前が判明したことで合点がいった。
あえぎ声か。すると私が気にしていた「末尾の値の落ち着き」はさしずめピロートークだったのだな。