はてなキーワード: 加速度とは
尼で艦これ改見たら5kだしハード代込みで考えても本家の課金額思えば高いとか言う資格ないはずなんだけど、
幼少からの刷り込みは恐ろしいというかゲームソフトって高いものとしか思えなくてこの程度の惹かれ方じゃ買う気しない、固定された相場感っておそろしく強い。
いくら見えてるクソゲーっても多分飲み会3時間で5k飛んだ~とかよりゃ効用高いはずなんだよなあとか理屈は付けれるが、
ロジックじゃないんだよねこの抵抗感。それでいて当たらないガチャや走るためのドリンクには気付いたら金払ってんだからもうめちゃくちゃだよ俺。
多少外食を能動的に選択肢に入れられるようになって思うけどホント食事って死ぬほどコスパ悪い趣味なのになんでこんな店でポンポン金払うことに抵抗感生まれないんだ。
それでいて同額で何食分にもなるスーパーで買い込んだ時はこんなに使った…って打ちのめされるの。
俺程度の舌ですらこうなんだからおっそろしいわ食欲…早く品種改良されて毎日三回も食事摂らなくても済むようになって食事が占めるウェイト落ちてくれ~冷静に食事にかかるコスト色んな意味で大きすぎるでしょ…。
はーまじ人類食事と睡眠の物理さに縛られすぎて全然ダメ。知的生命体って名前負け。もっとSFめいた未来に産まれたかった~。現代は生まれるには早すぎたわ。
割とマジ日常的に触れてる娯楽ですらどんどん洗練されてってるのに俺が長生きしちゃったら将来の文化どうなっちゃってるわけ?
45年前でアレだろ初代仮面ライダーだろ?でもここから45年後ってもっと進歩が加速度的なわけじゃん(と特に目覚ましい人工知能やらくらうどやらを見てると無邪気に信じれると俺は思っている)、一応過去の名作ってそれだけでポジションだから持ち上げてくれる人はいるんだろうけどさ、俺がその時代の作品なんか古くさくて見る気起きないのと同様に現代の品質の作品が思われるわけじゃん、もう想像つかんー!
未来じゃデジタルとネットを駆使したアーカイブで何十年前の作品でも網羅的に配信されてるわけだろ?(結局権利処理が進まずつべのように違法アップロードかもしれないか)
昔の物も知ってて当然!って環境かもしれないけどでもさあ昔って無限に増えてくじゃんいつまでも過去の物を、偉大さと作品としての面白さと切り分けられずに持ち上げるのは違うよねえ。
もしかしたら第三次世界大戦起きて文明衰退して最先端の時代を知ってた老人になれる世界観もあるのかな。でもその手のディストピアやるには現代の文明じゃ未発達すぎてつまらないよね。滅びるに相応しい高度さがないっ!
結局、現実にはないものを欲しがるから、物語は生まれるし消費され続けるわけでしょ。
てことは、本来なら物語生産量も物語消費量も時間軸と共に減少していくべきもののはずなのに、
どう見てもその数は世界中のあらゆるメディアの様々なコンテンツ形式で爆発的に増えてってるよね。
しかもテンプレな勧善懲悪はいつの時代もウケやすいし、つまりはこの世界には敵となるべき悪に溢れてるってことじゃん。
そしてそれが現実には一向に減らないどころか、どんどん多様化して増えていってる。
しかもいつだって最終ボスは、俺たち普通以下の階級の人間たちよりも上の存在たちって決まってる。
その形式もずっと変わらずに愛され続けてるってことは、現実ではいつまでもその通りの状態で停滞してるってことだろ。
物語で勇者が魔王を倒してハッピーエンドってことは、現実ではそれが決して起こりえないってことなんだよな。
半沢直樹があれだけウケたのだって、結局は現実では絶対に起こりえないことだからだろ。
たまにそれっぽい奇跡のニュースが出てきても、最終的にはさらにその上の存在たちによって消されるか丸め込まれる。
人々が物語を求め続けるのは、それだけ欠乏状態がひどいってことなんじゃないのか。
しかもその量が加速度的に増えていってるってことは、それだけ現実がひどくなっていってるってことなんじゃないのか。
醜い世界の中で、それでも必死に頑張って、あるときふと見つけた小さな宝石にこそ人生の意味があるんだって、やかましいわ。
便意やうんこを一時的に排出するための「ふんばるぞい」は人生において有効だけどそれをPDCAサイクルや目標に組み込んではいけない。
P「ふんばる」
→D「思ったよりふんばれなかった」
→A「ふんばれふんばれ」
→P「ふんばる」
これは本当に最悪である。
まず、アナルを具体的に洗い出すという行為すらしていないこと。
次に、計画の修正がされていない場当たり方式では効率も良くないしうんこが雪だるま式に大きくなっていても対処しきれないであろうこと。
そしてなによりもアナルを物理的に追い詰める事でうんこを出そうとしているため回すたびに加速度的に痔が悪化していくこと。
対処する問題のイボ痔も小さく、括約筋の回復も早い学生時代の脱糞ならこんな阿呆みたいなやり方でもどうにかなるかも知れない。
だけど野外でこれを回すと本当に酷いことになる。
ましてそれに自分の同僚や部下を巻き込むなんてもってのほかである。
そう思うでしょ皆さんも。
ぶり……
元気や行動力を一時的にチャージするための「がんばるぞい」は人生において有効だけどそれをPDCAサイクルや目標に組み込んではいけない。
P「がんばる」
→D「思ったよりがんばれなかった」
→A「がんばれがんばれ」
→P「がんばる」
これは本当に最悪である。
まず、改善点を具体的に洗い出すという行為すらしていないこと。
次に、計画の修正がされていない場当たり方式では効率も良くないし問題点が雪だるま式に大きくなっていても対処しきれないであろうこと。
そしてなによりも自分を精神的に追い詰める事で結果を出そうとしているため回すたびに加速度的にメンタルが悪化していくこと。
対処する問題の規模も小さく、精神力の回復も早い学生時代のテスト勉強ならこんな阿呆みたいなやり方でもどうにかなるかも知れない。
だけど社会でこれを回すと本当に酷いことになる。
ましてそれに自分の同僚や部下を巻き込むなんてもってのほかである。
そう思うでしょ皆さんも。
はぁ……
画面が大きくなる→電力食う
速度が早くなる→電力食う
使うアプリが増える→電力食う
軽くする→電池小さくなる
という三重苦状態がいまのスマホの状況で、かろうじて、画面が大きくなる→電池スペースが増える→電池増やす(重くなっても大きいという理由でごまかせる)というのが最近の流れだ。
抜本的な改善には電池を同じサイズと重量でパワーを2倍、3倍としていくしかないが、
・そのあたらしい物質をつかった電池が、いまと同じぐらいの価格と量で生産できなければならない
・そのあたらしい物質は安定して長期に供給可能な材料で無くてはならない
・安全でなくてはならない。
ここ100年ぐらいで、世の中で量産し広く使われた充電式電池は大雑把に言って(派生の細かいのは除く)
Pb(鉛)バッテリー → ニッケル電池(カドミウム、水素吸蔵) → リチウムイオン電池
の3種類ぐらいで、未だにPbバッテリーは現役だ。体積あたりのエネルギーが増えるほど危険も増すからだ。ニッケル水素やリチウムイオン電池だってけっこう爆発したり発火したりしている。いろいろな努力で安全性を高めてはいるが、エネルギーが増えれば増えるほど危険なんだから。
ということは、30年に一度ぐらいのペースということ。
諸事情あって彼女と1か月くらい会えないタイミングで、次会った時にはとびっきり濃いのを出したると決意してオナ禁した。
その時の話を書きます。
■スペック
・28歳男
・175㎝60㎏
・社会人歴7年目
・0時就寝、7時起床。
・酒もたばこもやる。
■~5日目
・寝覚めが良くなった。というかオナの分だけ寝るのが早くなった。
寝覚めが良くなったことが一番の収穫。起きたときに体が軽い。
■~10日
・酒飲む回数増えた。量は減った。
・足が臭くなくなった。
土日に起きた瞬間すでに楽しい。一日何しようかすごいわくわくする。
掃除して買い物して料理して、一人で飲みに行って、友達ができたりした。
午前中だけで一日の70%くらいのタスクが終わるので、多少余裕ができた。
急になんか依頼されても、精神的余裕あるから気軽に引き受けられた。
■~15日
・たばこの本数が減る。15本⇒5本くらい。
朝起きてからやることないから二度寝してみたけど、逆にしんどかったので、
本読んだりしてみた。この時間テレビ見てても同じ内容しかやってなかった。
酒を飲む機会は増えたけど深酒は全然しないようになった。併せてたばこも減った。
■~20日
このあたりが一番気持ち良かった。身体軽いし、頭も回る実感があった。
「最近やる気あるな」という評価になってくるし、期待に応えられそうな気がしてきて楽しい。
上司に飲みに誘われて、仕事の話してもらったりして、なんかうれしかった。
■~25日
なんというか「母ちゃん見てくれこの姿」みたいな感じで、すごく会いたくなった。
■~解放
終わってからもいっぱい話したし、良かった。
■総括
睡眠の質が変わる⇒体調が良くなる⇒日常充実⇒評価が変わる⇒自信が付く⇒精神衛生上とても良い⇒最初に戻る
オナ禁て神秘的なもんじゃなくて、結局こういうループな気がする。
普通に仕事続けてると気付きにくいけど、やっぱり老化は進んでいて、基礎体力が減ってる。
過去を整理する。
今ではそこそこブラックすぎない会社に拾われて人生つまらないなりにあまり苦しくなく生きられている。
あまり苦しくない人生というものに、それなりに満足できているのは一度それなりに苦しんだからだろう。
ストレス耐性のある人間からすれば全然余裕だったんだろうが、生まれつき精神構造が弱かった自分にとっては十分に苦しい時間を過ごした。
あれより下もきっとあるんだろうが自分が知ってる中で一番下があれだ。
あれより下がきっとあるだろうから必死にそこから逃げ出そうとして、その結果中退の道を選んだとも言えるだろう。
ろくにやってなかった。
緩やかに限界に近づいていた。
毎週やってくるレポート提出日におびえていた。
土日に図書館に行ってレポートを書くための資料を集めて、それでちゃんと準備をしているのに全く進まないレポートに苛立っていた。
何を書けばいいのか本当に分からなかった。
今思えば当たり前の事を書けばよかったんだと思う。
自分は出来の悪い学生だと認めて凄く基本的な事、誤差の計算の話とか実験の教科書に既に書いてあることの焼き直しとか、装置のもっと細かい説明を百科事典から丸写ししていればよかったのだろう。
呆れられるだろうが、何もしないよりはマシだ。
それか、他人のレポートを借りて少しだけ言葉や計算を変えて丸写しするかだ。
あの頃の自分は阿呆な癖にプライドだけは高く、そういう事はできなかった。
それでいて自分の出来の悪さには半分気づいていたので、その後ろめたさから教授に相談することも出来ないでいた。
ただ完成しないレポートとにらみ合いながら、そのままでいると無力感で気が狂いそうだからとラジオを聞いたり横目にテレビを見ながら部屋の周りをぐるぐるしてばかりいた。
朝の6時までそんなことを続けてから、12時間眠って夕方の6時に起きて、5分ほど布団の上であぐらをかいてから大学をサボってしまったことにふと気づいたりしていた。
実際は友達が少ないからと昼休みになるたび図書館に行って学習まんがを読んで過ごしているうちに無意識に勉強をしていたんだと思う。
それでも勉強が人より出来るのは間違いがなかったので親は自分に妙な期待をしたらしく私立中学に行くことを勧めてきた。
その頃の自分は「いい子」だったので親がそう言った以上は逆らうこともなく、素直に塾に通い、素直に人より多く勉強をして、気づいたらそこそこの私立に入っていた。
今覚えばこの時点で覚悟を決めておくべきだったんだろう。
自分は運動も出来なければコミュニケーションも上手く取れなくて、それでいて賢くもないと。
ダラダラと過ごすうちに最初は中間だった成績は下の下まで落ちていった。
今思えば、自分は小学校の頃にちゃんと勉強をする癖を付けそこねたんだろう。
勉強は暇つぶしの範囲でしかしなかったし、テストの大部分は学習まんがで覚えた知識を応用してどうにかしていた。
嫌々ながらも机に向かって問題を熱心に解くことは少なく、宿題も面倒になると適当に埋めて終わらせていた。
算数の問題(今覚えば公務員試験の数的処理によくにていた)を解くのはパズルみたいで好きだった。
だけど単純計算は嫌いで、よくケアレスミスをするのは知っていたのに全然トレーニングをしようとはしなかった。
そうして面倒くさがって勉強しない癖を付けたままダラダラと中学高校時代を過ごし、大学受験シーズンを迎えた。
分からないことが多すぎた。
英語の基礎はなっちゃいないし、数学も積分の問題を解いているのに微分がそもそもろくに理解できていなかった。
社会化の知識は小学校で止まっていたし、かろうじて理科はどうにかなると思ったらこれも中学校で止まっていた。
自分は勉強しなくても勉強が出来るはずだという感覚を未だに捨てきれなかった自分は混乱した。
何から手を付ければいいのか分からなくてとりあえず周りに合わせて受験生がやるような問題を解こうとした。
手も足も出なかった。
中間テスト前に毎回丸暗記して何とか赤点を回避していた知識は反復不足でほぼ全てが抜け落ちていた。
高校1年の問題どころか、中学2年程度のレベルでも怪しい所が無数に合った。
まず何をすればいいのか。
それを誰に相談すればいいのか。
その答えも出せないまま刻々と時はすぎて、気づけば滑り止めも受からないまま高校時代は終わった。
塾には行っていた気がするのだが、基本的な部分で躓きまくっているのをどうすればいいのかが分からなくなり、誰に相談するでもなく自主休講を繰り返していた事だけは覚えている。
相談すれば真摯に対応してくれていたのかも知れないが、あの頃の自分はプライドと疑心暗鬼が心の中で手を組んでこんな奴らに相談しても馬鹿にされた挙句にはぐらかされるだけだぞと完全に思い込んでいた。
浪人生になった春。
新しい塾に入ることにした。
そこは前に通っていた塾よりもレベルが低く、自分が通っていた高校の名前を出したらすぐに上のクラスに入れてもらえた。
自分の今の実力は非常に低いから不安なので一応テストを受けたいと申し出た。
いくらもう1年時間があって同級生には高校3年生もいるとはいえ、こんな問題も解けない奴はヤバいだろうと感じた。
今思えばここで油断したのかも知れない。
勉強をしない生活が基本となっていた自分は、隙あらばサボろうとしていたのをよく覚えている。
最初のうちは授業にはちゃんと出ていたが、いつの間にか加速度的にレベルの高くなる内容に振り落とされ、気づけば足が遠のいた。
どこであんなに差がついたのかとその頃の自分は悩んでいたが、答えは明白である。
日々の反復学習だ。
予習も復讐もロクにせずに授業に出るだけでは大学受験レベルの問題が解けるようにはならないおつむの作りをしていると高校時代に散々味合わされたはずなのに、半年もしないうちにそれを忘れてしまっていたらしい。
そうして勉強をする癖を付けることが出来ないまま、二回目の大学受験を迎えた。
滑り止めには受かった。
「こんな所行ったら終わり」だとすら思わず「こんな所に行く自分が想像できない」滑り止めだった。
他の試験会場で味合わされた絶望感がそこの試験の時だけなかったのを覚えている。
同時に「こんなに簡単ならきっと逆に競争が熾烈化してギリギリの戦いになるだろう」なんて考えていた。
そうして勉強する癖も、自分のイメージする大学生にふさわしい知識も、自分のイメージする大学生にふさわしい学習環境も、何一つ手にすることがないままに大学生編が始まるのであった。
もう一年浪人して心を入れ替えておけばよかったのかも知れないと今は思う。
二浪したら人生の終わりの始まりだとその頃の自分や両親は思っていたが、その程度で終わるなら大学を中退したらどうなってしまうと思っていたんだろうか。
大学に入った頃の自分はまだ自分がそこの学生である事を実感できないでいた。
結局一度も心の中で認めていなかったのかも知れない。
周りの学生も教師も皆馬鹿に思えたし、そんな連中とつるまなきゃいけない自分自身の馬鹿さ加減にも日々絶望していた。
心の半分ぐらいがずっと灰色だった。
浪人時代に失敗したから大学に入ったらちゃんと勉強を頑張ろう!
そう思って友達付き合いやサークル活動を控えて勉強に打ち込もうとした。
駄目だった。
ただ予習・復讐を忘却曲線に合わせてやるだけの事が出来なかった。
だから勉強もできないしサークルにも入ってないし友達もいない救いようのない学生が出来た。
そうしてその救いようのないクズは日々レポートに苦しみながらクズ故のプライドの高さと自己肯定感の低さから来る多方面への遠慮から誰にも頼れずにいた。
そうして自分は大学2年の後半辺りから少しずつおかしくなり始め、就活シーズンの頃にはすっかり頭が駄目になっていた。
誰からも自分は必要とされないだろうという不安から就職活動に踏み切ることも出来ず、だからといってなにもしないのも不安だからとか公務員試験の勉強を始めた。
公務員試験の勉強と、普段の授業と、実験レポートと、卒業論文、その4つにグルグルと毎日追われていた。
授業の実験はなくなったが研究室に妙なやる気があったのでそれに似たことをよくやらされた。
何かをすると他の何かが頭をよぎった。
勉強もしなくちゃいけないし、レポートも書かなくちゃいけない、卒業論文も進める必要がある、面接の準備もしておいた方がいいのだろう、授業の宿題もちゃんとやらなければ……
パニックだった。
計画を立てて物事を実行に移す。
自分にかけていたのはその習慣だったのだ。
今にして見ると簡単な事だ。
だけど自分はまだそのことに気づいていなかった。
だから机に向かって何かに取り組んでは、すぐ別の何かが気になってフラフラしては精神をすり減らしていた。
気晴らしのために遊ぼうとしても色々な事が気になって遊べなかった。
眠ることは生理的に必要不可欠なのでこれなら許される気がした。
悪い夢を見ることが多かったけれどもそれが一番疲れが取れた。
寝ている間の半分は夢すら見ていないからだろう。
実験レポートの内容は相変わらず酷いもので、教授にチェックを受けるたびに皆の前で叱られた。
あるときには呼び出しを受けて教授から2時間にわたり叱責を受けたこともあった。
回りでパソコンに向かっていた同級生・上級生が憐れむような、何か理解できない生き物を見るかのような目でこちらを見ていたのを覚えている。
そうして気づけば研究室へ行くのが嫌になり、卒業論文も進まなくなった。
将来への不安から勉強にも身が入らず単位も不足し、文句なしの留年でその年は終わった。
入る前から死にかけている生きの悪い学生なんてどこも取るはずがないだろうなと今でも思う。
次の年度が始まっても、院生に上がった元同級生や下級生、そしてあの教授たちと顔を合わせると思うと研究室には行く気になれなかった。
研究室を変えたらどうだという話もあったが、どうせたらい回しにされた人間しかやってこないようなもっと酷い研究室に送られるのだと思い拒否した。
今覚えば分が悪くとも賭けに出た方がマシだったろう。
ギリギリの精神を「もうすぐこの状態から抜け出せる」という希望で何とか繋いでいたのが逃亡からの留年という形で切れてしまったこともあり、次の年度は完全に駄目だった。
日々の多くを家に引きこもって過ごしていた。
毎日死ぬことばかり考えていしたし、もうすぐ死ぬのなら今頑張っても無駄だなとふて寝ばかりしていた。
何かを頑張る気にもならなかったし、かといって遊ぶ気にもならなかった。
ただ毎日を死んだ目で寝て過ごした。
段々寝ようとしても寝れなくなっていったが、グルグルと頭のなかで過去や妄想を反芻しながら布団の中で目を閉じている方が起きて何かやるよりかはマシなので眠りもせずに布団の中で過ごした。
そしてその日々の中で、こんなことを続けていたもどうにもならないと思い、自分は中退を決意した。
決意の方向が間違っていたような気もするし、実際もうあの頃の自分はどうやっても大学を卒業できなかった気もする。
生活を見直し、人生を見直し、行動を見直し、とにかく気持ちがどうこうよりも前に日々をどう生きるかを前向きに組み立てなおしていれば可能性はあったのかも知れない。
だけどあの頃の自分は1人でそれが出来る状態にはなく、それを助けてくれる人間も周りには居なかった。
両親は自分の人生で忙しかったし、大学は腐ったみかんの相手なんてする気はなかった。
戦後70年という節目を迎え、思うところがあったので。
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周知の通り、先日安倍首相が戦後70周年に合わせて談話を発表した。
私も今回の談話の内容、確かに素晴らしいと思う。
謝るべきところには謝っているし、譲れないところは譲らないと明記されている。
しかしどうにも腑に落ちない。
読んでいて違和感を感じる。なんだかムズムズしてくる。
その正体がやっと分かった。
よくよく考えてみればなにも談話に限った話でもなく、安倍政権そのものに対してずっと抱いてきたモヤモヤした不満でもあった。
それは政治家たちがまだ「日本はこれからも決して衰退せず、きっと栄光の内にある」という幻想に捕らわれていることだ。
というのもこれから日本がどんどん衰退していくことは、正直誰の目にも明らかである。
衰退に抵抗し成長を遂げるには、西欧諸国のような移民の受け入れ政策の実行など、日本の長い歴史の中で培われた価値観やアイデンティティーを捨て、新しい日本へ生まれ変わらなければならない。
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いきなり昔話を挟むが、
ビザンツ帝国のユスティニアヌス帝は、かつて栄華を誇ったローマ帝国時代の版図に執着し、対外諸国に向け頻繁に遠征を行った。
当然それが財政を圧迫してしまい、"超"長期的には帝国の没落を招いたのである。
第二次世界大戦中においてウィンストン・チャーチルは優れた指導者であったが、
戦後は世界各地の民族自立の潮流に逆らい、大英帝国を維持しようと躍起になった。
歩いていることを検知することはできそうだ。加速度とか振動とかGPS使って移動とか。
でも、それやると、移動しているだけで誤検知してスマホが使えなくなる。
スマホが動いているだけで使えない。持っている手が動いたら使えない。
使用者の危険回避だけなら、スマホに障害物検知警告機能とか足下監視警告機能とかつける。
歩きスマホだけが危険ではない。立ち止まってスマホも時と場合によって危険だ。
どこかのブログで「突然立ち止まって、スマホをいじりだした」で危険だとかいう。
これ、別の意味で危険だ。直接危害を加えてくる輩はいませんが……
優先席でスマホいじってたら。http://daily-news.jp/2015/07/16/incident-resulting-in-injury/
スマホだけが危険なのではない、歩いて・立ち止まってやっていることが危険なのだ。
スマホいらんな。
東大基礎科学科卒。過去250~340年間世界の大数学者達が解こうとして解けなかった、世界史的数学難問4つを解き、現在ロシア科学アカデミー数学の部で審査中。マスターした11ヶ国語を駆使したプロの通訳・翻訳家。矛盾だらけの現代物理学を初め、全科学(自然、社会、人文科学)の主だった物を体系的に批判し各々に別体系を提起。各種受験生(医学部、難関大学入試、数学オリンピック、社会人大学院入試、IT関連資格)支援。
■経 歴
2002年 (至現在)セント・クレメンツ国際大学 物理学教授
2001年 英国系セント・クレメンツ大学で数理物理学の博士号取得
2002年 ロシア科学アカデミー・スミルンフ物理学派論文審査員となる
1999年 英国系ウィットフィールド大学でコンピュータ科学人工知能の博士号取得
1991年 (~1993年)University of California、 Irvine人工知能研究所で確率論批判・学習システムの研究
1988年 (~1991年)世界の認知科学の権威ロージャー・シャンクのCognitive Systemsのデータベース研究所IBSで自然言語処理研究
1986年 (~1988年)欧州先端科学研究プロジェクトESPRITにESPRITディレクターとして仏Telemecanique研究所より参加(生産ラインへの人工知能導入の研究)
1985年 西独ジーメンスのミュンヘン研究所で生産ラインへの人工知能導入の研究
1982年 (~1985年)[仏国]世界一速い列車TGVのメーカーAlsthom社の知能ロボット研究所
1981年 (~1982年)[仏国]グルノーブル大学院、ソルボンヌ大学院で通訳の国家免状取得
1980年 (~1981年)[スペイン]マドリード大学院で言語学履修 西国政府給費留学生
■専門分野
数理物理学Ph.D.、コンピュータ科学人工知能Ph.D.、マスターした11カ国語を駆使したプロの通訳・翻訳家
■講演テーマ
「ビジネスマン、文系卒社員に理工系技術と技術的発明を評価できる眼を」
近年世界の大学でビジネス志向の学生向けに、理系の技術的な事がある程度分かるためのカリキュラム改変が始まっている。しかし申し訳程度であり、また理系の拠って立つ数学物理学の科学理論自体に欠陥が有る事が最近明らかとなっているため、正しい数学と物理学の粋を伝授し、文系でも本物の理系技術評価が出来るように支援する。
「英語を完璧に&現地語(非英語)を或る程度使えるマネジャー急遽創出と、社員の中から各国語通訳をネーティブに肉薄する敏捷性と正確さで急遽育成を支援」
海外のプロジェクトや企業と折衝するとき、英語がネーティブ並みであったり、現地語を自社のディレクター自身がある程度こなせるか、英語、現地語につきネーティブ並みの社員が通訳出来ると先方との話が大きく好転する場合が少なくない。それを本当に実現する教育訓練を私は提供できる。平明に説明し、実体験をしてみたい方がいらっしゃるなら講演会場で手解きをしてみたい。
「発見された言語学理論と外国語訓練方法論を基に、文科省と英会話学校の英語教育訓練方法論の根本的誤りの中枢を詳説」
統語法意味論、文脈意味論、実世界意味論の3レベルで進展するネーティブの母国語習得過程の中、言語能力の真の中枢は解説も無しに親の喋るのを聴いているだけで分かるようになる統語法的意味把握能力で、これは文法用語を全く使っていなくても徹底した文法訓練となっている。ネーティブが敏捷性、精度の点で万全であり、先ず文法的間違いをすることはない理由はここにある。全文法分野について書き換え問題の「即聞即答訓練」を一気に中学生以上の年齢の人に施し、全文法のビビッドな一覧性を習得させるとネーティブに肉薄する敏捷性と精度で外国語を使いこなせるようになることが発見された。
「<証明された欠陥数学> 確率統計と微積分学のビジネス、金融工学、保険業界での使用に対する警告と、それに取って代る新数学体系」
我々物理世界は離散値の世界であることが原因で、物理世界に住む人間の頭脳が考え出した数学の中で連続実数値に基づく確率統計学と微積分学だけが欠陥数学として発現していることが証明された。決して建設的な予測をすることができず、崩壊していく事象に後ろ向きにしか適用できず、せいぜいリスク管理にしか使い道の無い確率統計学をビジネス学の分野では金科玉条の如く信用し積極的やり方で利用しているが、ここに「理論」と現実との間に大きな食い違いが生じている点に警告を発したい。そのためそれに取って代る新数学体系を提起する。全てを分かり易く解説します。
「新エネルギー・エコ向けの発想を大転回した技術的な重要な発明を提起」
20世紀初頭に数理物理学者Henri Poincareは二体問題までは解けるが三体問題(三つの星が互いに重力で引き合いながら運動している時の時々刻々の位置を計算で求める事)以上は微積分学を使って解く事が出来ない事を証明した。これは無限小差分を使う微積分は計算式中で交差する項をほぼ同等とみなして相殺してしまうため、作用反作用の法則(F1*v1=-F2*v2)の取り違い(F1=-F2が作用反作用の法則であると圧倒的多数が信じている)と相俟って、交互に対称な運動しか記述できないため、対称性の有る二体までは記述できても対称性のない三体以上は記述できないためである。この欠陥数学微積分を基に二体までは「エネルギー保存則」を証明したものの三体以上の「エネルギー保存則」は本来的に証明不可能であることが明らかと成った。現に永久磁石がエネルギー保存則を大きく超えることが実証され始めている。それらの実験につき具体的に物理学の素人の方々にも分かりやすく報告したい。
「世界史的体系的誤りに迷い込んだ現代物理学とその使用者への警告とそれに取って代る新物理学」
現代物理学の二本柱、量子力学と相対論の中、量子力学は水素原子の原子核と軌道電子の関係説明を辛うじて試みただけで、水素原子より複雑な原子や分子の構造の説明に実は悉く失敗し、繰り込み・摂動理論はその失敗を隠すため後に持込まれた。軌道電子は光速に比べ無視できぬ速度でクーロン力で原子核に引かれて急カーブしながら等速加速度円運動、大量のエネルギーを消費するが、半永久的に軌道を回る。しかしシュレーディンガーの波動方程式(その波動関数とその共役関数の積は確率)はエネルギー消費に一切言及せず、エネルギー・レベルが一定に保たれるという明らかに矛盾した論を展開する。また確率を持ち込んだからには、エントロピー単調増大法則がここに適用され、水素原子は瞬時に粉々に飛び散らなければならぬ現実に反する二つ目の重大矛盾に遭遇するが、これもシュレーディンガーは見てみぬ振りをする。つまり水素原子の構造の説明にすら量子力学は完全に失敗した。量子力学とは動力学でなく各エネルギー・レベルについての静力学でしかなく、「量子力学」の「力学」なる名前とは裏腹に力を論じられない。論じればエネルギー消費が起こりエネルギーレベル一定論が崩れる。
「現代のフォン・ノイマン型コンピュータ・アーキテクチャーの誤りと、創るべき新コンピュータ・アーキテクチャー」
現代のフォン・ノイマン型コンピュータの計算機モデルが取りも直さずチューリングマシンそのものである。チューリングマシンは決ったパラメータ数の状態間の遷移を静的モデル化したものであるのに対し、歴史的にその直前に発表されたアロンソ・チャーチの計算モデルのラムダ・キャルキュラス(人工知能プラグラミング言語LISPの言語理論でもある)は関数の中に関数が次々に入れ子のように代入されて行き擬パラメータが増えていくダイナミックな仕組みを持つ。この後者は人間が作ったコンピュータを遥かに凌ぎ、宇宙の始原から発生した環境データから関数をf1(t),f2(t),.,fn(t)と次々に学習し入れ子のように代入進化し、次の一ステップの計算には宇宙の始原からの全ての関数f1,f2,...,fnを思い起こし、そのそれぞれの差分を取って掛け合わせる事をしているコンピュータとも言える物理世界とその時間の学習・進化を時系列順に模写するのに持って来いの仕組である。関数と言っても多項式で充分である事を世界の7大数学難問の一つPolynomial=Non-Polynomialの私の証明も交えて平明に解説する。これは日本の国と世界の先進諸国のコンピュータ科学の今後の研究方向を左右する発言となる。
■実 績
【講演実績】
Trinity International University
「コンピュータ科学」 学士号コースの学生に卒業まで全コースを講義
St.-Clements University
「金融工学に必要な数学・物理学」の博士号コースの学生3年間に渡って講義、研究テーマと研究内容、博士論文のアドバイス
St.-Clements University
研究テーマ「コルモゴロフ複雑系の二進ビット・ストリングの下限=Lower bound for binary bitstring in Kolmogorov complexity」の博士号コースの学生Dr. Bradley Ticeに英語でアドバイス
St.-Clements University
外国語学部のポルトガル語・伊語の通訳・翻訳の学士号コースの学生に教養学部のレベルから全社会科学(経済学、法律学、社会学、経営学)、人文科学(哲学、言語学、心理学、歴史学)、自然科学(数学、物理学、化学、生物学、医学、計算機数学)、エンジニヤリング(Information Technology、ソフトウエア工学、電気工学、電子工学)の各々の学科の全講義を行う。
Госдарственный Университет Санктпетербургской Гражданской Авиации (サンクトペテルブルグ国立航空大学)
物理学学会の論文発表会で幾多の論文の露語によるプリゼンテーション。
【メディア出演】
【執筆】
ti-probabilistic Learning by Manifold Algebraic Geometry, SPIE Proceeding, 1992 Orlando 等 人工知能学会論文
この件とか
むろん痴漢冤罪の裏には本物の痴漢と痴漢被害者としての女性がいるのだとは思うが。
しかし電車という使用頻度の高いインフラの中で人生が簡単に終わってしまうリスクを考えると、そうのんきな事も言っていられない。
ある場面では完全に被害者だし、別の場面では他人の人生を指先一つで左右できるほどの強者でもある。
弱者としての女性には非常に心強いが、どこまで行ってもその権利拡張は終わらない。
システム的にそういうものが用意されてないから、女性がある面で強者になっても権利拡張は止まらないし、むしろこの権利拡張がフェミニズム自体に資する形で加速度的に力を増す。
一方で依然残る女性の弱者としての側面は放置され、解決されない。
弱い点がある分、より拡張が容易な既に強い部分で補填しようとするし、女性の強者としての側面への反感がフェミニズムへの反感に繋がるのは一連の議論を見れば分かる通り。
女性の弱い部分はどんどん弱くなり、強い部分はどんどん強くなる。
こうして弱者とも強者とも言えない歪さがどんどん尖鋭化されていくことになる。
男性も結局のところそうなのかもしれないが、現代の女性について弱者or強者という素朴な二元論はなんら有効性をもたない。
それはフェミニズムの掲げる「女性は一方的に抑圧される者」「男性は一方的に抑圧する者」という素朴な対立構造も同じ。
実際には双方、抑圧しつつ抑圧され、弱者でありながら強者でもある。
男性にとっても女性にとっても、まず、弱者VS強者、抑圧VS抵抗、というあまりに単純過ぎる構造を脱構築するところから始めるべきではないのか。
ここ最近のラブライブの炎上が凄まじい。以前からラブライブというコンテンツのファン層は悪く定期的に迷惑行為や炎上が目撃されることで知られていた。
特にライブやイベント、何か限定的な関連商品が発売される際には必ずと言っていいほどの迷惑行為が起こり、ネット上を賑わせる。
ゴールデンウィーク期間中は連休で催し物も多かったせいか特に炎上が集中し、多くの人々の注目を集めた。
TVやゴシップ誌に立て続けに特集を組まれたことも響いた。これによりラブライバーと他の層で意見が対立、ゲハブログの煽情的な記事も手伝ってラブライバーの印象は加速度的に下がり、今もなおネット上には不穏な空気が漂っている。
タイミングの悪いことに、GWが明けて週末には神田明神での祭りがあった。言うまでもなくラブライブの聖地の一つである、多くのラブライバーが足を運ぶことは想像に難くない。
平穏無事に祭りが終わるとは最早誰も信じてなかっただろう。大方の予想通り祭りに居たのは多くの武装したジャラジャライバーであった。武装の程度の差はあれど、これが少しどころじゃなく結構居るから驚きだ、さぞ一般客の皆様は驚いただろう。
中でも一番大きな出来事は万引きである。ラブライブグッズを万引きした男がアキバカルチャー前で捕まっている、ググればすぐにわかるがこれは紛れもない事実である。
話を戻そう、ちょっと最近のラブライブは異常ではないだろうか?あまりにも炎上が多すぎて辟易する。これで偏見を持つなという方が無理な話だ。
先述したゴシップ誌には「犯罪者集団」「社会不適合者」の烙印を押されたばかり、それをファン自らの行動で示していては否定しようにも説得力がない。
こういう炎上の際に決まって口にされる擁護のキーワードは“一部”という言葉である。この言葉を使うことにより、マナーの悪いファンはあくまでノイジーマイノリティーであり、全体的に見れば良い人の方が多いという理論に逃げることが出来る。
或いは“ファンの母数が多い”というワードも使われがちだ。母数が多ければマナーの悪い人もその分多くなるので民度が低く見えるのは仕方ないとラブライバーはしばしば強調する。
考えてみればラブライバーのマナーの悪さが露見してからもうかれこれ2年ほどは経つだろうか、彼らはいつも決まってこの論法に逃げている印象を受ける。
ラブライブへの偏見が強まる度にラブライバーは責任転嫁と自己正当化に逃げ、ここまでやってきた。
スケープゴートに利用するのはいつも決まってアイマスだ、ラブライバーにとって都合の悪いことを全てアイマスファンのせいにしていることが、アイマスファンがラブライブを嫌う大きな理由の一つでもある。
華やかな部分にばかり目を向け、都合の悪い真実から目を背け続ける。臭いものに蓋をする日本社会の縮図を見るようにラブライバーにもそれが当てはまる。
ラブライブの話題はとにかくブログアクセスやツイッターのリツイートが伸びやすい。その特性を利用して少しでも粗が見つかると晒され馬鹿にされるのが今のラブライブだ。
ファンの反応もそれを助長する。ラブライバーは少しでも煽ると顔を真っ赤にして発狂するという悪い癖がある。
それはファンの年齢層が低いことに起因するので改善はなかなか難しい。この発狂がネット住民の目にはいいおもちゃに映るのだ。
不憫なことに、これによりラブライブは通常のジャンルに比べて理不尽な中傷に耐えることを余儀なくされている。
謂れのない中傷に正当性のある反論をしても、それだけで「こんな必死に反論している、やっぱりラブライバーはクソだな」と思われ、害悪コンテンツを擁護する異常者のレッテルを貼られてしまうのだ。
しかしながらそれはラブライバーが理不尽な暴れ方をして関係のないところにまで迷惑をかけてきたツケでもある。
ラブライバーは“一部”という言葉に逃げて自分には関係ないと見て見ぬふりをせず、今一度全員で過去の罪を共有し、清算すべきだろう。
もはやラブライブへの偏見は取り返しの付かないところまで来ている、ここから個人の意識改革でマナーを改善し、好印象に転じることはほぼほぼ不可能と言っていい。
あるとすれば、それはすなわちラブライブというコンテンツが世間から飽きられ見向きもされなくなった時である。
実際、ラブライバーの厄介さに嫌気を指しラブライブへの熱が冷めてしまった者、或いはラブライブというコンテンツは好きだがラブライバーは嫌いという者もかなり多いのではないだろうか。
事実上“ラブライバー”という言葉は蔑称のイメージが強くなり、ファンは名乗りたくても名乗れないでいる現状がある。
劇場版やサンシャインを控え、コンテンツはまだ続いていく。それに伴いファンのイメージは現在進行形で悪くなっている。
ネット民のおもちゃにされ続けるのか、犯罪者集団という認識は真実なのか。その是非を問うためにも、今後ともラブライバーから目が離せない。