はてなキーワード: 勝敗とは
ブラックジャックにおけるベッティングストラテジー(コインの掛け方)には幾つか条件がある
ギャンブルは幾ら勝っても良いが負けが連続すると資金が無くなる可能性があるため、ある程度負けが込んでも続けられる賭金、戦略が必要になる。
一説によるとブラックジャックを最適解でプレイした場合勝率は47%。
勝率47%での連敗確率は以下の通りである。(最後一桁は四捨五入)
連敗数 | 確率 |
---|---|
1 | 53% |
2 | 28% |
3 | 15% |
4 | 8% |
5 | 4% |
6 | 2% |
7 | 1% |
8 | 0,6% |
9 | 0,3% |
10 | 0,2% |
ちなみにパチンコで置き換えると
せめて1%である七連敗位は常に起こるものと想定して戦術を組むべきだろう。(そして連続十敗以上も起こり得る)
いわゆる「負け(勝っ)たら倍賭けにしていく手法。
100,200,400,800,1600,3200,6400,12800円となる。
128倍賭けを行うリスクを抱えるならそれまでに対処したほうがよほど精神的にも楽である。
毎回同じ金額を賭けた場合、カジノの控除率(取り分)の確率に収束していくので長く続ければ続けるほど負けていく。
上記二つはそもそもほとんどのギャンブルに適さない賭け方なので儲け目的なら行わない方が良い。
最初の金額を1単位とし、負けた場合は金額を据え置き、勝った場合は1単位上げる方法。
賭金を上げすぎて負けると大敗するため、勝利した場合の儲けを1単位程度に留めることが重要。
なので負け分を取り返したら1単位で賭ける、といったやり方になる。
例
回戦 | 賭金 | 勝敗 | 収支 |
---|---|---|---|
1 | 1 | 勝 | 1 |
2 | 1 | 勝 | 2 |
3 | 1 | 負 | 1 |
4 | 1 | 負 | 0 |
5 | 1 | 負 | -1 |
6 | 1 | 負 | -2 |
7 | 1 | 勝 | -1 |
8 | 2 | 勝 | 1 |
9 | 1 | 勝 | 2 |
連敗→勝ちと負けを交互に繰り返す→賭金の肥大化を防ぐためにプラスマイナスゼロになるポイントへ賭金を調節する必要がある。
計算が面倒くさいなのでメモを取りながらプレイしたほうが良いかもしれない。
5ドルを1単位とした場合、負ければ+1、勝てば-1して賭けていく手法。
連敗しても連勝しても資金の移動が緩やかなので長く遊べる。
負けたら右の単位で賭け、勝ったら賭金を「1→2,2→4,4→8」のように移動する。
2連勝した場合最初の1へ戻って掛け直し、8単位まで負けた場合も同様に1へ戻る。
全て負けたとしても31単位分の負けで収めることが出来、どのタイミングでも2連勝すれば収支がプラスになる。
ラ・プーシェル、キャンセレーションなど様々な名前がある方法。
最初にいくら勝ちたいかを想定し、その数を分割した数字を書く。
2,3,1,2,2
と書く。
そして両端(2,2)を足した数(4)を賭け、負けたら右端に書き足す。
2,3,1,2,2,4
そして勝つまで繰り返す。
勝った場合両端を消す。
3,1,2
そして繰り返し、最後に残った数(1)で賭ける。
最後まで勝てば目標金額を達成することが出来るようになっていて、賭金を細かくしたり多目に張ったりと自分で好きなように設定できる。
(1,1,1,1,2,4で10単位分の勝ちを狙っても同様の効果がある)
勝ち額を決めて行うことが出来る(可視化)出来るというメリットがある反面、負けが続いてもコントロールできないというデメリットがある。
なので損切が大事。
牡馬を女体化してる時点で「血統」は無理あるやん…百合属性ある人ならいいかもしれないけど
更に「エロ禁止」も加わると、男性向けより一般向け或いは女性向けに適したネタだと思うんだよね
大体有名馬の殆どが牡馬(男)な時点で美少女化するしかないがそれ自体どうなのか
勿論、そこには多大という言葉ではくくれない程の犠牲を払ったのだ。
中王区と呼ばれる、男性を完全に排除した区画で政は行われるようになった。
そこで新たな法が制定された。その名もH法案。人を殺傷するすべての武器の製造禁止、及び既存の武器の廃棄。しかし、それだけでは愚かな男性の争いは根絶されない。
なので、争いは銃ではなく人の精神に干渉する特殊な【ヒプノシスマイク】にとって変わった。
言葉が力を持つことになったのだ。
そして争いに親和性のあるラップを使い、優劣を決する世界になった。
男性は中王区外のシンジュク・ディビジョン、シブヤ・ディビジョン、イケブクロ・ディビジョン、ヨコハマ・ディビジョン等の区画で生活をすることになる。
各ディビジョン代表のMCグループがバトルをし、勝った地区は決められた分の他の領土を獲得することができる。
これは、兵器ではなく言葉が力を持つことになった世界で紡がれる男たちの威信をかけた領土バトルなのだ。
有名なライターのダイマツイートや新譜の影響で今かなり注目されている新進気鋭のジャンルだ。要はいわゆるオトメイトにありがちなキャラクター個性の強いイケメンたちの話なのだが、今までになかった「オタク向け×ラップバトル」という所が独特である。
現在、アニメや小説ではなく、オーディオドラマとキャラクターのラップの収録されたCDが主体のコンテンツになっていて、このラップパートにかなり力が入っている。藤森慎吾やサイプレス上野、新譜にはラッパ我リヤやAvecAvecが参加していて、どれも中毒性の高い曲に仕上がっている。
正直、結構ハマっている。新譜が更新された日も、日付が変わってすぐに聴きに行った。前述の通り曲もかっこいいしかわいいし、ドラマパートも思いもよらない掛け合いや、思いもよる掛け合い、オタクなら妄想した展開が起きたりしていて、5年前の自分なら「マジ公式が最大手wwww病気www」と呟いていたと思う。
だけど一方で、このジャンル、かなり危険なんじゃないか、とも思っている。完全に馬鹿にされて乗せられているんじゃないかと感じてしまう。
女尊男卑のH歴では男は女の10倍の税を貸されていて、中王区を囲む高い壁と厳重な門は税金で作られている。男と男のディビジョンを巡るラップバトルの際は許可を得てその門をくぐって中王区に入り、そのバトルは恐らく放映なり中継なりされて、女性の巨大エンターテインメントになっているらしい。しかもかなり人気があるようで、次の日に初バトルが控えているキャラクターが女性に追い回される、という展開もあった。
この「女性に消費されるエンタメとしての男」という在り方は完全に女性向けジャンルの在り方と一致している。イケメンが出てきて、カッコイーだの顔がいいーだの個性強すぎだの言って話題にする。物語の中でもラップバトルの勝敗は女性が付けるようだけど、CDに投票券が付いているので、これはリンクというより完全に重なり合っている。
これが例えば「女性アイドルが露出や過激なサービスを男性に消費されていることへのアンチテーゼ」とか「流行り廃りの早い女性向けジャンルの在り方へのジョークで笑い所」ならかなりブラックだとは思うがまだいいのだ。けれど、設定の基幹、何度も繰り返し強調される部分で行われている。
体制側に女性を置き、打倒すべき相手として設定することで、今の社会なら「クソ女」と言えば差別で蔑称になるのを、不満や怒りの発露、当然の悪口のようにしてしまう。逆に「所詮お前も男ということか」というセリフが出てくるが、これは侮蔑として受け取れるし、そう発する女性に対してキャラクターたちは唇を噛む訳だ。
私にはこの置き換えがホモソーシャルにおいて女性を排除する事への正当化にしか思えない。
オトメイトレーベルは女性向けなのもあって女性キャラクターがほとんど出てこない。そこに正当な理由があるんですよ、としたいがための設定に過ぎないんだと思う。それを元に作り込むような丁寧な世界観構成とは言い難い。
言い訳にしては、女尊男卑の世界観はあまりにメインターゲットに失礼ではないか。
本当に女尊男卑が貫かれているならいい。税金10倍、手取りも悪くて、がんばってもマトモな仕事につけない。女性からは常に舐められる。正社員なのにお茶汲み、ものを頼めば「ほんと生意気、やっぱ男だから仕方ないか〜(笑)」と言われる、そういう世界観なら確かにキャラクターに肩入れして「このクソみたいな世界を変えてくれ!」に素直になれる。
ホストはもてはやされ、お客の女の子を「子猫ちゃん」と呼ぶ。別に上から目線の営業、という訳ではなく、むしろ紳士的な営業のタイプだ。
サラリーマンと同じ職場には女性もいるし、その友達(ホスト)が職場に来た時にナンパをしまくった、という描写から、少なくとも声を掛けられるような関係だとわかる。
警察官という官職にも、医者にも男はなれる。それがとても恵まれた特別なことというような描写はないし、そういう仕事は権力の弱い男に押し付けるということでもないようだ。
ヤクザは「権力・金・女に酒」と歌っているから、少なくとも世の女がほとんど皆男に対して高圧的で支配的な訳ではなく、むしろ逆の立場の女性もいるということがはっきりわかる。
別にこれらだけを抜き出せば女性差別すぎるという訳でもない。現代と変わらないレベルだと思う。
あるいは女性だけのクラス壁の中だけ異常に差別が強いのか、と思えば、レストランの店員の女性に生意気な口を訊いても追い出されるわけでもなし、道で女に声を掛けても「キャー!」と黄色い声を上げるだけで、デリカシーのない発言は返されない。
そのような実状の描写がありながら、ストーリーの旨みのために「覇権を女ばかり握る間違った世の中」としてしまって、巨大な壁を描写して、わかりやすい敵として女性全体を想定することはおかしいのではないかと思うのだ。それならもっと徹底すればいいし、あるいは燃えやすいジェンダーへのdisは避けるのだって定石だ。
しかも元々ラップやヒップホップというのはかなりミソジニーな文化である。FSDではラッパーの女性に「おまえもいつか妻になる 妻になり母になり、そのあと『なんでお母さんあんなことしていたの』っていわれないように」と向けられたほど、女性はスタンスや地元、これまでのバトルよりもジェンダーをdisに上げられてしまう。
それが問題視され始め、ジェンダーフリーなヒップホップをと少しずつ声が上がり始めたまさにその今、こういう性差別的コンテンツが出て来た意味は、偶然というには出来すぎている。単に商業的にいいフィールドだったとしても悪趣味だ。
ヒプノシスマイクというジャンルが怖いところは、ポップでキャッチーなキャラクターや、「ラップで回復・精神干渉・防御する」というコメディチックでバカバカしい、笑ってしまうような楽しいジャンルとしてパッケージングされているところだ。twitterで検索をかけても、ヒプノシスマイクのミソジニーを指摘している人はいるにはいるがそう多くない。みんな楽しんで考察や二次創作をして盛り上っている。
こういう時、「あなた達皮肉られているかもしれないんだよ!」とファンに言っても無駄だ。女性向けジャンルでソシャゲのトレス疑惑が騒がれた時、ファンは指摘する側を非難して意見を潰そうとした。ましてやはっきりいけないことという訳でもない思想の話、騒ぐ方が野暮だといえば黙って頷かざるを得ない。
けれどここで不快なジャンルは無視しよう、になれないのは、私もまたファンの1人だからだ。好きなキャラクターもいるし、新曲はかっこよかった。投票結果がどうなるのかも楽しみにしてしまっている。ここでとりあえず文字にすることで、あるいは盛り上がりの中心まで届くんじゃないかと思うのだ。
創作物と現実はもちろん違う。しかし、創作物の行間においてこそ現実の常識や意識が反映される。行間を埋める努力が足りないままセンシティブな問題をただ面白みとして利用するのは軽率だ。純粋なファンにしてみればうるさいだけだとしても、世に出した以上、世間の流れと切り離すことは不可能だ。
先程書いたように、ヒップホップはジェンダーフリーを目指すべきだ、という転換期に来ている。勿論、ヒップホップ以外も世間全体が性別に囚われない個人評価の時代になってきている。ヒプノシスマイクが女性が権力を握る社会への単なる下克上ストーリーではなく、ジェンダーで立場が縛られる価値観への一石になることを願ってやまない。
東 | 勝敗 | 番付 | 西 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
独逸 | ●2勝4敗9休 | 横綱 | 伯剌西爾 | ○11勝4敗 |
伊太利亜 | 全休 | 横綱 | 亜爾然丁 | ○9勝6敗 |
西班牙 | ○10勝5敗 | 大関 | 和蘭陀 | 全休 |
仏蘭西 | ○15勝 | 大関 | 宇柳具 | ○11勝4敗 |
英蘭 | ○12勝3敗 | 大関 | ||
白耳義 | ○13勝2敗 | 関脇 | 葡萄牙 | ○9勝6敗 |
哥倫比亜 | ○9勝6敗 | 小結 | 克羅地亞 | ○14勝1敗 |
瑞典 | ○10勝5敗 | 前頭筆 | 墨西哥 | ○9勝6敗☆ |
韓国 | ●6勝9敗☆ | 前頭 | 波蘭 | ●4勝11敗 |
露西亜 | ○11勝4敗 | 前頭 | 米国 | 全休 |
日本 | ○8勝7敗 | 前頭 | 巴奈馬 | ●1勝14敗 |
殊勲賞 | 小結 | 克羅地亞 | 14勝1敗 |
---|---|---|---|
敢闘賞 | 前頭 | 露西亜 | 11勝4敗 |
技能賞 | 関脇 | 白耳義 | 13勝2敗 |
※☆は金星
在学中に自分の高校が甲子園に行っても一切興味なかった程度には野球に興味ないけど、思うに、人々が欲しているのは「野球」そのものではなく野球を媒介とした「物語」であるのだろう。特に高校野球みたいなものだとその傾向が強いだろう。人々は高校球児のプレーの背景にある青春の様相を消費しているのであって、そのためには「真夏の炎天下に汗だくになってプレーする球児」とか「ユニフォームを泥だらけにして走り回る球児」などの演出が必要不可欠だ。勝ったり負けたりして涙を流す球児とか、肩を故障しても気力で最後まで投げきる球児とか、そういうものこそが人々の求めているものであって、野球の技術そのものや試合そのものの勝敗は優先順位が低い。とかく日本人は何かにつけて「物語」を好む民族だな。エモーショナルと言えばまあそうだが、思考という概念にそもそも向いてない性質なのではないかという気がする。
自分は今、巷で大人気()の、例のイカゲーでチームの運営をしている。
2の発売日前から募集を始め、今は100人を超える規模になっている。
イカナカマのチーム一覧でも常に上位に入る、よく管理されたチームだと思う。
毎日メンバーの誰かがDiscordでリグマやプラベを呼びかけ、それに集まる。
また、自分が企画を考え、例えばチーム内ドラフト杯を行ったり、活動は多岐に及ぶ。
笑い声が絶えないVCには常に人がおり、メンバーにとって居心地がいいチームであると感じる。
最近ではオフ会もよく行われており、自分も数回顔を出している。
大きな問題はほぼ起こらず、メンバーに恵まれた良いチームになったと思っている。
それでもつらいと思う原因は3つだ。
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うちのチームでは3週間、絡みがないメンバーは脱退処理を行っている。
そこで意識差が生じる、例えばあの人はあまりインしないけどお子様がいるから、など理由をつけて脱退処理が出来ない。
自分としては、チームの役に立っているメンバーに関しては少々in率が悪くても残す。
ただ何の役にも立たず、人がいいからだけでチームにいる人は、必要ない。
100人超えはしているものの、アクティブは30人程度だろうか。とても悲しい、つらい。
昔は様々なゲームの日本代表として、運営の金を使って海外に渡航したり、ユーザ主催大会で優勝をもぎ取ってきた。
RTSが主で、シューティングゲームはイカが初めてだ。ついでにいうとゲームパッドなどほぼ触ったことがなかった。
それでも、日本代表とまでいかなくとも強くなりたいという気持ちは、自分の根底にある。
しかし、ほぼ全てのメンバーは、真剣に強くなりたいと思ってはいない。
そこを変えようと必死で頑張って企画を考えたり、大会に出ないかと誘ったりしてきた。
勝敗にこだわるからこそ、楽しみが見える。ヘラヘラしているだけではいけない。
結果、変えることは無理だった。それはわかってる、強くなりたいと本気で思っている人は1人でもやる。
これが正直1番つらい。何のためにゲームをしているのかわからなくなる。
メンバーの中でもしっかりとした実力を持った人が数人いる。
しかし、そのメンバーが他の実力のないメンバーの意見やスタイルに流されている。
それを見るのはつらい。せっかくの実力が、無駄になっている。
よく言うのは、うちのチームよりやりがいがあるチームいっぱいあるよ?って。
でも抜けない。自分はその人のためを思って、お節介だと思っても言ってるのに。
ちゃんとした実力を持っている人が、周りの環境に流されて潰れていくのを見るのはとてもつらい。
ここ1ヶ月、メンバーとプレイしているのはサーモンランだけだ。
楽しくなくなってしまった。あれだけバカ騒ぎしてたリグマやプラベが。
私は先日、シャドウバースのアプリをアンインストールしました。
理由はシャドバをやる気力がなくなり、BGMを聴くだけで苦痛を感じるようになったからです。
私はダークネスエボルブ期からシャドバを始め、すぐさまロイヤルというクラスに心を惹かれました。ロイヤルと聞くと、何だお前も結局脳死アグロ使いかよと言う人もいると思いますが、私が愛したのはコントロールロイヤル(以下、コンロ)です。
その頃の私はスタンダードパックからあるレオニダスを軸としたコンロで戦うことに快感を覚えていました。その時からエイラなどの強いデッキに負けることはありましたが、その都度デッキを見直し試行錯誤を重ねることで勝ったり負けたりを繰り返しながらシャドバを楽しんでいました。
しかし、私にはどうしても許せないカードが二つありました。それは「次元の超越」と「リノセウス」です。
これらのカードを軸とした「超越ウィッチ」と「OTKエルフ」に私は長い間苦しめられてきました。
そもそも超越というカードは「自分のターンをもう一回追加する」というカードゲームを全否定する糞カードであり、その発動条件の容易さから「超越は猿以下」と呼ばれるほどでした。
そしてリノセウスというカードも低コストかつ疾走持ちのフィニッシャー型のカードで、盤面にうじゃうじゃと湧いて出てくることから「ゴキブリ」と称される害虫でした。
いずれも盤面を取り合うというカードゲームの基本を否定した糞デッキであり、相手を無視したオナニーでありました。
そしてこれらのカードを使う人に共通するのは、とにかく考える時間が長いということです。
なぜ簡単な足し算さえも出来ないのか?超越使いとゴキブリ使いには2秒で十分なのでないか?そんな疑問が私の頭から離れませんでした。
私の愛したデッキを散々待たせた挙句、結局リーサルかよ、という相手に対して敬意の欠片もない彼らの行動に怒りを感じていました。
この状況で自分の愛するコンロの勝率はみるみる下がり、どれほどデッキをいじっても勝てなくなり、むしろ改造すればするほど勝率が下がるという悪循環に陥りました。何十回、何百回と負けました。しかし、私には「自分の愛するカードで勝つ」という信念がありましたので、ひたすらデッキをいじりながら試行錯誤を繰り返しました。
正直言って、デッキをいじる作業も好きでした。どうやったら勝てるようになるか?まだ誰も知らない戦法があるのではないか?そう考えるとワクワクしてくるという感覚はあの時の自分にはありました。
次の新弾で強いカードが来ればきっとコンロの時代が来るぞ、そう思っていました。
しかし、一向にコンロは強くならず、ドロシー、ヘクター、昏きといったパワーカードたちの餌にされていきました。
この頃からシャドバをやめる友人が増えていきました。理由は「自分の好きなデッキで勝てないから」でした。彼らは自分の愛するデッキで勝てない現実に耐えきれなくなってしまったのです。また、超越とゴキブリに対抗してアグロデッキが台頭してきており、先攻を取ったアグロデッキが勝つというゲーム内容にネット上で「本格スマホじゃんけん」という蔑称をつけられてしまう事態となっていました。
そんな状況下でも私は「好きなカードで勝つ」ことを諦めませんでした。自分の好きなカードで戦うことこそが自分にとってのシャドウバースだと信じていました。負けてばかりでしたが、運営からの下方修正があり、なんとか戦えるくらいには改善されました。
そしてついに目標であったマスターランクに到達することができました。私は心の底から嬉しく思いました。辞めずに続けてきて良かった、自分は間違っていなかったと確信することができたのです。
それからしばらくして、運営は「ローテーション」と「アンリミテッド」の導入を発表しました。ローテーションでは新弾を含む最新5パックのカードのみで戦い、アンリミテッドではすべてのカードで戦うというルールが新しく追加されたのです。
つまりローテーションルールで戦えば、初期のカードである超越とリノセウスに出くわすことは100%ない、という画期的な発想でした。
私はこれを聞いて「ああ、ようやく自分の好きなカードで戦えるんだな」と安堵しました。長く続いた暗黒時代がようやく終わる、もう超越とリノセウスを見なくていい、そう思っていました。
しかし現実は違いました。ローテーションとは「新弾で追加された強いカードを使って、先攻で殴るげーむ」と化していたのです。ローテーションは私の期待を裏切りました。信じていました。自分の好きなカードで戦える時代が来ると、運営はユーザーの願いを叶えてくれると。
またレオニダスをはじめとするコンロで使われる一部のカードはローテーションでは使用禁止となっており、そのこともコンロ弱体化を加速させていきました。
私の生きる道はアンリミテッドしかありませんでした。しかし、そこは超越使いとゴキブリが行き場を求めてさまよう地獄絵図でした。私のコンロは為すすべもなく、敗北を重ねました。まるでゴミクズのように彼らは私のデッキを痛ぶりました。それはさながら暴力でした。
私は運営に馬鹿にされているように感じました。「お前まだそんなデッキ使ってんの?wwww」「ローテーションは新カードを使う場所だから、大人しくアンリミで超越に負けてろよwwww」「好きなカードで勝つとか笑わせるわwwww」
こういう声が画面の向こうから聞こえてきました。
もう私の心は限界でした。疲れたのです。シャドウバースというカードゲームに。勝っても負けてもどうでもよくなったのです。
それでもログインとミッションだけは続けていました。一年近く続けて情が沸いたのです。しかし、それも先日ピリオドを迎えました。
きっかけはリーダースキン人気投票の結果発表でした。この投票では某配信者が声優を務めるカード、「トイソルジャー」が候補にもなったことで話題を呼びました。
残念ながら多くの票を集めたにもかかわらずトイソルジャーがスキンになることはありませんでした。多くのネメシス使いがこう言いました、「ランクマで使うことのない雑魚のトイソルジャーがリーダースキンになったらたまったもんじゃない」と。
なるほど、その理屈は正しい。勝つためにシャドバをしている人にとってトイソルジャーは必要のないカードであり、それよりも構築に入るオーキスがスキンになるべきだと。その言い分は十分にわかる。
ではなぜビショップのブローディアが一位になったのでしょうか?ブローディアをランクマで一度でも見たことがある人がいるでしょうか?あんな8コスの守護で大した効果も持たないゴミカードがどうしてスキンになれたのでしょうか?
ドラゴンのスキンにも疑問があります。スキンに選ばれたのは今まで長い間ランプドラゴンを支えてきたアイラではなく、ぽっと出のフィルレインであったこと。ドラジのみなさまは彼女への恩を忘れたのですか?古くなったカードは用済みですか?新しく強くて可愛いカードの方が好きですか?
私は新しく強いカードが優遇され、昔からあるカードが馬鹿にされていると感じアンインストールしました。
今のシャドウバースは「好きなカードで戦う」のではなく、「新弾の強いカードを好きになれ」という押し付けをしてくるカードゲームです。
二周年を迎えカードの種類は増えましたが、戦えるカードの種類は減りました。
今後のシャドバはごく少数のtier1デッキとアグロデッキがローテーションを支配し、超越とリノセウスがアンリミをさまよい続けるでしょう。
トップランカーが大会専用の特殊デッキを開発することがあってもそれはランクマで勝てる訳ではありません。あくまで大会用なのです。
カードゲームとは勝つためだけにやるものではありません。先攻を引くものでもありません。
誰もが自分の好きなカードで戦うべきなのです。カードゲームとは勝敗以前に楽しむものだからです。
みんな同じデッキ、同じカードでしか戦えない今のランクマッチ環境はカードゲームとして間違っています。
日本がベルギーに善戦したことで、ハリル解任を是認する人が多い。
しかし、結果は問題ではない。W杯で勝利するかどうかはどうでもいい。
一次リーグは3戦全敗でもよかった。
決勝トーナメントに進出してベルギー戦で健闘したことなど、まったく意味がない。
大事なのは、正しいことをするかどうかだ。スポーツで大切なのは、勝敗ではなく、正しいことをすることだ。
ゆえに、日本はハリル監督を維持して、ハリルと心中するべきだった。一次リーグで3戦全敗こそと、日本のサッカーにとって正しい道である。
田嶋を辞任を追い込め。間違ったことをして勝利することなど、邪悪以外の何物でもない。これでは世界に示しがつかない。
それは、ポーランド戦で卑怯な戦い方をして、世界中から非難を浴びたことでもわかる。
繰り返す。スポーツでは勝敗は関係ない。正しいことこそ、何よりも大事なのである。
田嶋を辞任させよう。そうすれば、次期監督としてハリル監督を再任することができる。そうすれば、次期 W杯は3戦全敗になるだろうが、それこそ正しい道である。
邪悪な勝利など、何の価値もない。正しいことをなせば、敗北などは何ら問題ないのだ。そのことは昔の日本軍が証明している。美しい敗北こそ、至上である。
同率2位がいた場合、試合しないでPKで決着?今回の場合は、日本とセネガルが別日程でPK勝負しろって?PK自体が勝敗を決める為のやむを得ない措置なのに。それだけで勝敗を決めるとか本末転倒もいいところだろ。
木製の籠にボールを放り込むこともあれば、
んで、それだと余りにも弊害が多いと
何より見ていて胸糞悪いしな
これが競技
まだ、名士がそれをプレイするのは憚られる
サッカーやラグビー経験ある人はこの概念を聞いたことがあるはず
これで、名だたる名士が名誉を賭けて戦うようなものになったわけ
野球が競技臭いのは、日本人がスポーツの歴史を知らんからだろう
真剣さと楽しさの両立を良しと出来ない、日本の文化的土壌もあるけどな
勝ててもショーとして成り立たなきゃ興業としては失敗ってことだな
負けて楽しくはなりづらいので、勝ちながら楽しませなきゃならない
今回のW杯はどうだろうな
少なくともショースポーツではない
面白くない場面ではあったけれど、それが悪かと言われると難しい
これを正当にあるべき姿にするなんてこと出来るのかね
決勝トーナメントどころか緒戦敗退を繰り返していたね
そんなことないんだろ?
って感じ
私の両足には第二内くるぶしがある。
「あーアレね」と共感できる方、
全く意味が分からない方、
両極端に分かれると思う。
第二内くるぶしというのは私が勝手にそう呼んでいた名前であり、正式名称は「外脛骨」というそうだ。
足の側面内側、土踏まずのアーチの上辺り、通常の内くるぶしのナナメ爪先寄り下側あたりにグリグリとした骨の出っ張りがあるのだ。
日本人では1〜2割ぐらいの人が生まれつき持っているらしい。
この第二内くるぶし、歩くとめちゃくちゃ痛い。
歩くだけではなく、1分以上しゃがみっぱなしになったり立ちっぱなしになったりしても痛い。
整形外科の先生によると、余分な骨に筋肉が引っ張られて痛みを起こすそうな。
外脛骨の中でも痛みを伴うものは「有痛性外脛骨」という名前で呼ばれるらしい。
思春期頃に発症、テーピングやサポーターなどで対処するケースが多いそうだが、私はこの痛みを病気(怪我?)と思わず数十年を生きてしまった。
治さないまま大人になってしまったので、完治するということはなく、「多少はマシ」というレベルにしながら一生付き合っていくという選択肢がベストだそうだ。
小学生の頃、遠足で長距離を歩いて帰ってきて、やはりこの第二内くるぶしが痛んだので
「足めっちゃ痛い」と母親に伝えたところ
「運動不足だね」と返ってきたので
『第二内くるぶしが痛むのは自分の運動不足のせい』と思い込んでしまったのだ。
実際インドア寄りな子供だったし。
体を動かすのは好きではなかったが、小学生ながら運動不足は良くないなと思ったので、一念発起して少年団のスポーツクラブに入り、中学では運動部に入部した。
それでも第二内くるぶしの痛みは消えなかった。
安静にしてテーピングしとくのが本来の療法なので当然である。
無理に動かすほど悪化するのだ。
しかし当時の私はとにかく自分の鍛え方が足りないのがいけないと思い込んでいて、筋トレを頑張ったりしていた。
社会人になっても第二内くるぶしの痛みは消えないままだった。
基本はデスクワークなので痛むのは通勤と買い物くらいになったが、時間が短くなった分痛みは濃縮されたように感じた。
自分では運動量が減って筋肉が衰えたからだと思っていた。
ある日友人と美術館の展示を見に行った。
美術館とか博物館とか、ああいう少し歩いて少し止まるような、スタート&ストップを繰り返す場所は特に第二内くるぶしへの負担が半端ない。
鑑賞を終え、カフェに入って一息ついた私は友人に
「美術館とかでゆっくり歩くのって第二内くるぶしめっちゃ痛くなるよね」と言った。
いわゆる『あるあるネタ』のつもりだった。
友人はスポーツ経験がなく私より一層インドア派だったので、同じ運動不足仲間ならこの痛みを分かってくれると思ったのだ。
「え、内側の2個目のくるぶし痛くなるでしょ?」
「いや2個目のくるぶしって何?」
「かかとにあるのが1個目じゃん、そのちょっと斜め下にさあ」
「ないよそんなん」
と噛み合わない会話をした後、
埒が明かないと思った私は
「触ったらわかるって!コレだよ!」と机の下でそっと友人に第二内くるぶしを触らせた。
「何これキモい」
第二内くるぶしを持たぬ者が、初めて第二内くるぶしを触った感想である。
その言葉にショックを受けた私は半ギレになりながら友人の足を触り返して、第二内くるぶしのないその足に重ねてショックを受けた。
そしてどちらが正常な足なのか多少の問答をしたあと、勝敗をグーグルに決めてもらうことにした私たちは
「内側 くるぶし 2個目 痛い」などのワードで検索して冒頭の事実を知ったのである。
それからというもの、歩く度に生じる痛みが一層辛くなった。
病院に通って、ダサくて高いオーダーメイドのサポーターや靴を作って、痛みそのものは軽減してないとおかしいはずなのに、前よりもしんどい。
世の中の運動不足の人間は全員同じ痛みに耐えていると信じていたのに、そんな事実はなかったことが耐え難い。
私以外にも第二内くるぶしが痛む人はいること、
第二内くるぶしどころじゃない辛い持病を抱えて生きている人はたくさんいること、
親はただ無知だっただけで嘘を教えたつもりではなかったこと、
全部理解しているつもりだが、
足が痛む度に「本当は感じなくてもいい痛みなんだよな」と悲しくなってしまう。
人目がないところだと歩きながら泣いてる時もある。
美を追求するコンテストを廃止するなんて美を賞賛する事もダメなのか!
知識量を決める事と何が違うのか!
みたいな知性のかけらもないブコメ並んでてブクマカって馬鹿しかいねえな〜と思った次第。
馬鹿には分からんかもしらんが、一応説明すると人の外見において、何が「美しい」ものなのかってのがもう人に決められるもんじゃないって時代に来てんのよ。
自分の美、の基準は自分で決めよう、自分のありのままの姿を自分で認めよう。
他人が優劣をつける事はやめようって話ね。
背が低くても足が短くても、美人。
ニキビがあっても、肌がきめ細かくなくても、お尻にセルライトがあっても、それも美しいじゃない、って話よ。
もちろん建前でもあるよ?
大っぴらに
肌がきめ細く色白でニキビもなく足が長く髪がサラサラで艶があって額が狭すぎず広すぎず姿勢が良くてお尻が垂れてなくて二重で目が大きくて鼻が高くてどこかに気になるアザも大量のホクロもないって子
を、美人として優劣をつけ評価する事は、そういう美の基準を作るって事になるんだよ、分かる?
持って生まれたアザやチリチリの髪や短くて太い手足を否定して、その昔ながらの美の基準を目指そうって価値観自体がもう古いって話。
そしてそれこそそうした価値観から遠い人が傷ついて苦労して来たって話ね。
もちろん芸能みたいな商売はまだまだ利用すると思うけどさ、それとこれは違うやん?
あんな人間を売り物にするような業界自体が普通じゃないんだからさ。
知識とか運動みたいに明らかに多い少ない速い遅い強い弱いで優劣がつくもんじゃねえんだよ、美ってのは。
誰かが勝手に決めてきたもんなんだ。
んで苦しんできたもんなんだよ。
その水原希子もケツのセルライトを修正せずに出して一部ではなんで汚いものをって言われたんだよ。
それが美だよ。
まあ水原希子だって顔小さいし足長いけど、そうじゃない子だって少しずつモデルとして活動出来てきてるじゃん。
それを認める事なんだよ。
何であんなのが、って言うのは間違ってんだ。
そうなんだよ、もはやモデルって何って話で良いんだよ。
いやそれでもそれなりに色々あるだろうけどね。
リスクがあってもね。
それを否定は出来ないよ。
でもな、そうして整形願望を持つ子たちの根っこには、過去に形成されてきた画一的な美の基準があって、それに伴う世間の評価が存在してるからなんだよ。
ありのままの姿でずっと評価されて認められてきてそれが世間で当たり前になってりゃそんなリスク犯さないんだよ。
鼻が高いのが可愛いよねって価値観が男女共になければ、そんな事しなくて良いんだよ。
よくよく考えるとさ、健康を害してまでウエストを締め上げたコルセットの時代からまだそこまで進歩しちゃいねーんだよ人類。
だから少なくとも大っぴらな美の基準を固定化する行為は否定されて然るべきなんだよ、わかる?
ちなみに俺は高校生の時に学校のミスターコンテストで優勝した事あるけど、この流れは素晴らしいと思う。
これは冗談で言うけど、おまえらブサイクブスばっかのくせになんでルッキズムの片棒担いでんだよ。
というかそこにコンプレックスあるやつほど執着すんのかもな。
あれだけ従わされてきたルールが突如変更になるって、俺私のこれまでは何だったのって。
でももう楽になろうぜ。
そんで自分達の子どもの代では過去の美の価値観から解放してやろうぜって思わんのかね。
追記:アノニマスでもなんでもないけど読んでくれてあざす。
だいぶ煽ったおかげで読まれた気がするけどもその部分の反発やご指摘は仰る通り。
自分の云々は蛇足だしどうせ僻みだろみたいな反応への予防線なんか張る必要なかったし馬鹿だったと思う。
多分自分がブコメするほうでもそこ一言嫌味入れると思うしのっけから馬鹿だなんだという部分で不快になった人には申し訳ない。
ただ揚げ足取りや内容への言及なしなものが大半になっちゃったのも否めずなんつーか諸刃だった感もあって。
全部いちいち注釈入れて全方位配慮型で中庸に仕上げた文章読まないでしょ?という気持ちは今もなくはない。
重要なのは美の基準の話だけど、生理的なレベルの好き嫌いに関しても俺は後天的なものだと思うんだよね。
生まれた時から周りに自然にいる人に対して自発的に生理的嫌悪は起こさないんだよ。
いわゆる顔面うんたらみたいな障害持ってる人とかも、出会ったことがなければ衝撃を受けるのは自然な事だけど、仮に身近に当たり前にいれば生理的嫌悪も起きないわけよ。
現代の美的感覚も西洋の文化からの受け売りのものが多数であって、心理的なものですら必然的な現代生活の刷り込みあっての後天的な環境要因あってのものだと思うわけ。
現代文明に触れてないジャングルの奥の少数民族が同じ美的感覚持ってると思うか?って話。
だからそれらも刷り込みであって、その土壌を作ってきた1つの美の様式を小さなとこから解体していくべきと俺は解釈してるわけ。
それはある種文化を壊すことにもなるけどそれがあるべき人間の進歩には間違いないわけよ。
海外の流れがそういう考えを元にしてるとは思わんけど、自分の美の基準を自分で決めるべきってところを掘ってくとそういう話にもなるわけ。
今までの基準を壊していく事、刷り込まれてるものを一旦全部リセットしてっていう。
ファッションだって黒人がヴィトンのショーを数日前にやって、ストリートの手法がどんどんラグジュアリーにも本格的に受け入れられて、まあそっちはマーケットベースで動いてるけど、そういう一連の流れと多様性と価値観の進歩は全て共鳴してんのよ。
藝大みたいなとこは、って言ったのはアートとかそういうのは価値観を先に進め時代を牽引するものであって、だからこそ表のミスコン?にはそういう意図があった中、保守的な従来型のミスコンをやるってのがそりゃ違うでしょってなるのは必然って話。
あと運動能力や知識量は明らかな勝敗がつけれるものであって、生まれ持ったものに左右されるのは確かだけど、美の基準が後天的に作られてるっていう前提からすると同列には語れない。
それも比較するな、となったら努力を否定する事になるってのは分かるけど、運動能力や知識量は目指すべき方向性が決まってる。
それに対して美への努力は何を持って美とするか、を誰かが決めるものではないって話。
あと芸術点のある競技の話に関して鋭いツッコミあったけど、これは競技に限らず芸術作品、文芸、ファッション、音楽とか全てにおいて権威が評価を決める事への反発の動きもあって時に変動するからこそ基準に対して流動性があって良しなわけ。
それにそれらは人が作った競技だから基準を人が作っても良いわけよ。
でも美人の基準は流動性がなく(ほんとは若干あるけど、流行りの顔とか。でも生理的なものとか言われるくらいだから根底はあんまずっと変わってない)、なおかつ人の外見なんか人が生み出した競技ではなくその美の基準だけ人が生み出して、それで苦しむ人がいるわけやん。
んでミスコンはそんな外見の優劣なんて競技に参加したつもりもない人間を判別する基準を制定する事になる行為だって話。
だから取りやめる事は必然であって、他の競技も出来なくなるとかつまらない時代とかって批判はおかしいっしょっていう。
この辺が話の本題で本質ね。
ブコメが本質の話にあまり至ってないのは俺の責任でもあるけど、少しでも気にかかった人はこの追加まで読んでくれると真意は伝わると思う。
再追記:タイトルや煽りで損してるのも分かってるけど敢えて改変はしないつもり。
キモい、とかそういう内容に言及しない批判はどうでも良いし、的外れな批判を取り上げて持論を補強する卑怯なやり方もしないっす。
でもブコメの意見がめちゃくちゃバラバラでそれは良いのかなと。
勢いで書きなぐったのでまとまってないのは申し訳ない。
誤解を生むのも自分のせいかなと思うけど、未だに「黄金比みたいな美の基準は決まってる」みたい論は、それ後から決まってきたものであって、例に出してる現代文明に触れてない人間には通用しないんじゃない?=文明の影響で黄金比を感じる土壌が出来てるのであって後天的なもんだからそれを普遍的な美だと決めつけて人様の顔に当て込んで評価するのやめようぜって話。
で、そうした美の基準は多様で良いって前提なら従来型の画一的な美の基準に照らした評価を継承するミスコンは無用で過去の価値観を補強し定義する害悪って言ってる。
美以外にも努力は否定してないし、ただ美の努力の方向性を勝手に誰かが決めてくのは終わりって話よ。
肌が綺麗とかどーとかよ。
ありのままでええやん、が本旨。
何回も言うけど、他の運動や芸術などのコンテストや競技は競技自体を作ったのが人間であり、何かを行ったもの、を評価するものだから評価基準を人が作って良い。
一方、顔やスタイルなどの造形は生まれた時にある程度決まっており、何かを行ったもの、ではなく存在する外見そのものを評価する事でもあるから、評価基準を人が作るべきでないって事。
努力っつっても外見に関して何に向かって努力すべきかを他人が決めるなって話。
そこからデフォルトで遠い人間がネガティブな評価を受けるから、以上。
だったら中身だけでやれって話になるので。
余談だけど俺はめちゃくちゃ性格悪い自覚はあるから言及しなくて良いっすよ。
ぶつかり魔などが明らかに弱い相手だけターゲットにしていることが卑劣と叩かれているのを最近よく見る。
・罪もない人を攻撃すること
この2点がごっちゃになって両方叩かれているわけだ。前者はもちろん悪いことだけど、後者は当たり前のことで良いも悪いもない。自分より弱い相手を選ぶ当然の判断を責めるのはヘンだ。
「力なき正義は無能」という格言がある。逆に言えば自分の力より弱い相手を選べということだろう。例えば子供がゴミをポイ捨てしていたら注意するけど、怖い人がゴミを捨てていても注意しない。それは正しい判断だ。
弱い相手だけ選んではいけないというすり込みがあると、誰それ構わず注意して酷い目に遭う危険性がある。あるいは逆に相手が子供だろうと見てみぬふりして注意を避けるようになるかもしれない。
だからこそ自分より弱い相手を選ぶのは正しいと肯定したい。勝敗も考えずに動くことを推奨するのは危険だ。繰り返しになるけど悪いのは「罪もない人を攻撃すること」であって「自分より弱い相手を選ぶこと」は正しい。