はてなキーワード: 主治医とは
友人は障害者福祉関係の施設で働いている。自分は精神を患っており手帳も持っている。二人で会うと四方山話の果てにこの話題になる。
「人の心は、魂は、精神とは何なんだろうか、どこにあるんだろうか」
例えば、急性期発作から治療を受け、治ったと思いこんで怠薬、を繰り返し荒廃した統合失調症患者。
飲み、食い、その辺でクソを垂れる。意思の疎通はほぼ不可能。はっきり言ってしまえば知的レベルはその辺の犬猫以下だ。
彼らに精神はあるのだろうか。
「ある」とするのはかなり苦しい。人間的な精神の活動を観察することはかなりの困難を極める。
彼らは「いつ」精神を失ったのか。
例えば、器質性の痴呆症と言うものがある。友人はくも膜下出血の後遺症で痴呆症になった人を見たと言う。
かつてはホワイトカラーであり、英語も堪能、楽器を弾く趣味もあった。
だが彼は時々知性を取り戻して昔の話をしてくれることもあると言う。
精神を失ったり取り戻したり、そんなことがあるのだろうか。
気分が落ち込んだ時には精神安定剤を頓服で飲むし、躁になりそうだと思えば抗うつ剤を減らす。
死んだ、死んだ、死んだ
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
Hey メンヘラってきた
色々苦労をしすぎた
何でも御座れのニートだ
だけどなかなか死ねないんだ
まだまだ…忘れらんない
だけど、待って、それで、いいの?
自殺がしたい
昨日までの僕は死んでいる
絶望の淵にやっと立てれた]
鬱病だけど言えないことが
ひとつだけあるの
それは僕は
死んだ、死んだ、死んだ
(\はぁ…死にたい…/)
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
明るい躁の君より
暗めが似合うと思うんだ
いやいやいや…深い意味はない
ただの幻覚なのかも
リストカットがしたい
生まれたのは偶然じゃない
運命と言うにゃ遅いけど
死ぬでしょうか?狂うでしょうか?
けれど伝えられず
今日も僕は
死んだ、死んだ、死んだ
(\はぁ…死にたい…/)
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
よっしゃー死ぬぞー!
クビ(クビ)ツリ(ツリ)
トビ(トビ)オリ(オリ)
トビ(トビ)コミ(コミ)
生きる権利などないんだろう
でもね、鬱が、止まらなくて
千の風になりたい
[ ]内繰り返し
まるでただ死体のような僕は
死んだ、死んだ、死んだ
(\はぁ…死にたい…/)
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
昔から夢に自分の認識を頻繁に狂わされてしまうのだが、似たような仲間はいないだろうか。
何かを読んだり、考えたりしている途中でフッと瞬間的に意識を喪失して、気付かぬうちに夢でその続きを追っていることがよくある。
私の場合は意識が戻ってもまばたきをしていたかな?くらいの感覚であり、さらに戻った直後は寝起きのせいか、
ややぼんやりしているので判断力も低下しているらしく、意識を喪失していたこと自体にうまく気付くことができない。
実際に経過している時間も、数秒から長くて数分程度のようだし、下手をすると周囲の人間も私が寝ていたことに気付かない程度の時間だ。
さらに夢による疑似記憶を埋め込まれた状態なので、その間の記憶というものも自分としては明確に思い出せる状態になっている。
大抵は、続きの文章に目を走らせて、整合性が取れずにおや?となってから、今意識が飛んでいたのかなとようやく気付くことになる。
そんな調子なので、いつ自分に疑似記憶が差し込まれているかわからず、
攻殻機動隊的な感じでいくと、日々記憶や認識にランダムにハッキングを受けながら生活しているようなもので、大変に危なっかしい。
時折、夢の中で読み終えたと納得して画面を閉じてしまったりすると、
ちょっとした記事や小説なら勘違いしていても多少恥をかく程度で何の問題もないのだが、契約書やマニュアルだと高確率で後で困ったことになる。
なるべく気を付けてはいるものの、買ってきたばかりのものを組み立てながら
「次はここをひねるらしい!固いからちょっと勢いをつけるのがコツだって!」と自信満々にパーツをへし折ってしまって、
どう見ても正常ではない結果を前に、そんなバカなと慌てて説明書を見たらそんな記載はどこにもなかったとか、そういった考えられない失敗をやらかしてしまう。
結局自分の認識が信用できないので、一人で作業を進めるのはとても怖い。
なるべく説明書を開いたまま何度もチェックしながら作業を進めるとか、
少しでも異変を感じたら2秒前にチェックした項目でも行動する前に再度チェックするとか
自分を信用しないように気を付けてはいるものの、作業スペースの関係で紙に目を落としてから作業するために視線を上げたら、
もう疑似記憶が刷り込まれた状態になっていることもあるので、なかなか完璧な対策というのが見いだせない。
どうやら今ヤラれていたと気付いても、どこからどこまでが疑似記憶なのかも自分では判断がつかないのも大変恐ろしいし、その度にイチから工程を追い直す手戻りが発生する。
さらに、瞬間的な意識の喪失だけでなく、普通に寝ていたあとに寝ぼけて強烈な失態を犯すこともある。
起きるなり大慌てで支度をして、小一時間ほど鬼の形相でたこ焼きを焼いていたことがあるが、
その時は外国から久々に遊びに来る来客をたこ焼きで迎える約束をしていたのに忘れていた、もうすぐ来てしまう!
と慌てていたのだが、よく考えたら外国人の知人自体が私にはいなかった。
またこれは家族にも相談出来ていないが、パンデミックや戦争や異星人の侵攻など、世紀末な感じの夢を見て、社会が崩壊した状況にあると勘違いしてしまい、
「もうダメだ、こうなってしまった以上私が殺すしかない」と寝起きに武器になりそうなものの物色をし始めたことも実は数回ある。
パンデミックの夢を見た時に、家族が助からない病気にかかってしまっていて、
政府の出した命令によれば世帯主は責任をもって感染者を殺処分し、その後感染拡大を防ぐため自死しなければならなくなったと思い込んでいた時などは、
幸運にも家に一人の時だったので途中で違和感に気付いて正気に戻ったために実行に移すことはなかったが、正直かなり危なかったと思う。
昼間に瞬間的に寝てしまうということでナルコプレシーなどの何かの病気なんかを疑ったこともあるが、
どうも文章の先を予測出来てしまって脳が一瞬退屈を感じると瞬間的に落ちやすくなる傾向があるようなので、もしかすると私の場合はADHDがあるので、そっち由来のものなのかもしれない。
ADHDの薬で昼間の眠気が無くなったみたいな話も見かけるので試してみたいけれど、主治医はあまり重症だと思っていないようなので投薬はまだ受けられていない。
そういえば、読んでいるときだけでなく、書いているときでも頭の中に続きが思い浮かんでいると途中で寝てしまうことがよくある。
タイピングが極端に遅いということはないと思うのだが、思考速度にタイピングが追いつかない限り、待っている間にダレて寝てしまう感じというか。
夜は眠剤を使ってでもよく眠り(7〜8時間以上)、日中はよく動く(5〜10km)。
食事はしっかり食べる。
気分が悪くなるものに近づかない(調子が悪い時のSNSは毒)。
主治医に「最近ちょっと落ち気味です」と報告して、なんかアドバイスをもらう。
一番効果あるのはよく寝てよく動いてよく食うことですかね。
2018年に施行されると言われている新専門医制度、頓挫しないかなあ、とずっと思っている。昨年一年延期、てなってカリキュラム制が追加されたり小さい病院での研修が必須化されたりとかしたけれども若い医師の状況は金銭的にも勉強的にも上がってないんだよね。
結局のところ、臨床医としてのスタートはサブスペシャリティの勉強を始めたときだと思うんだ。サブスペシャリティを始めてやっと1-2年してまあなんとか形になってきたかな、て感じ。上級医もそれを見越して一生懸命教えるわけ。実質、機動力として4〜6年目(サブスペシャリティの2〜4年目)の医師を頼りにしている市中病院って多いんじゃないかな。
出産や留学の例外は認めるという風にはなったけど、新専門医制度は結局2年ローテーションして1年サブスペシャリティが基本になってるから、簡単に言うと丸々2年分サブスペシャリティの勉強をする医者がいなくなる。たぶん4〜6年目を頼りにしていた多くの病院が、数年で立ちいかなくなる。
本当になんで研修医でやったローテーションをもう一回させるかなー、て思う。サブスペシャリティに行ったら、使わない知識なんて忘れるから!忘れなくても他科の新規治療を完全には会得なんてできないから!あと、半端に知識が残ってるのも危ないから!
結局、ローテーションって研修医がしたことのやり直しだから、正直教える方も教わる方も身にならないんだよね。指導医の立場からしたら今までは将来の投資として頑張って教えてたのが、これからは一生懸命教えても2ヶ月程度でハイ、さよなら。てなっちゃうんだし。勿論患者さんにとっても主治医がちょいちょい変わるから、誰も得しないと思うんだけどな。
あと問題なのが、専修医のポストの予算捻出がどこも難しいところ。今まで後期研修医ポストを持ってた病院はそれでいいけど、持ってなかった病院は専門の先生のポストを削ったり、大学院生を無給で働かせたりしないといけなくなるみたい。研修医の待遇があまりにも悪すぎる!と今の研修医制度は始まったはずなのに、また誰かが低賃金・もしくは無賃金で働かないと行けなくなるのか。。。と思うとなんかね。
まだモデルプログラムも出てないうちから入局を決めろと迫られてる研修医気の毒やな、と思いつつ、しわ寄せが来るであろうちょっと上の学年も気の毒だなと思う。
理解がいまいちできてない部分とか、勘違い部分もあるかもしれない。自分が内科医なので、内科に特化した内容になっちゃってるかもしれない。(内科はサブスペシャリティを同時にできるプログラムも、、、とか言ってるけど、具体的にはどうすんのかね)。あと、ちょっと感情的になって読みにくい文章になっちゃったかもしれない。とりあえずぼやきたくて書いた。
吃音だか学習障害なんだか知らないが、口で何かを説明するのがつらい。生まれつきか、成長過程で苦手になったかはわからない。両方だろう。
ある程度はできるから障害者認定されづらいが、ああまた伝わらなかった、と思うたび心にひびが入る。
なのに役所の手続きとか、そもそも何に困っているのか?を説明するのに口頭だったり電話を使われたりする。
大事な時はさすがに文章で伝えているけれど、なぜ、という気持ちは抜けない。
今日も雇用保険の手続きで、これこれこういう証明が必要だから主治医に書いてください、と言われ、主治医にそれを伝える段でパニックを起こしてしまった。
ちなみにこれでも知能検査をしたところ知能に遅れはないそうだ。
耳も聞き取りづらい時があるのだがおそらく聴覚障害ではないだろう。
色々工夫はしていたつもりだがもうつらい。
そんな中バニラエアの件を見て暗い気持ちになる。おそらく自分の生きづらさは「甘えるな」の一言で終わるだろう。
生まれてこなければ良かった。
まぁ、こういうデリケートなことはいろいろ固まらないうちにSNSなどで報告する気にはならないけど、どっかに記録は残しておきたい。
なので増田を使わせてもらうことにした。
ここ最近体調が悪く、持病が悪さをしているなと思っていたのだが、持病の調子の悪さとはなんか違う。
そういえば最近生理が来てないけど、もしかしてつわりなんだろうかと思って妊娠検査薬を使ってみたら陽性反応が。
もちろんこれで確定ではないので明日病院に行ってくるが、持病の薬はどうしよう?飲んだ方がいいのか、飲まない方がいいのか。もう診療所に人はいないであろう時間なので、主治医に訊けない。主治医には明日連絡するとして、今晩の薬はどうするべきか。
あと転職したばかりなんだけど、会社はどうしようとか、考えることは多い。
でもとりあえず、夫は喜んでくれているのでよかった。
私自身は、喜びというよりこれからどうなるんだろうという困惑の方が強い。特に会社関係。どう考えてももめる。
でも、幸い夫の稼ぎがいいので私が辞めることになったからといって生活の心配をしなくてもいいのは幸いだと思う。
しかし、あと10ヶ月もしたら母になってるかもしれないなんて、なんだか想像ができない。いや、子作りしてたやんって自分でも思うけど、いざ実際に身に迫ってくると、なんだか信じられない気持ち。
あと10ヶ月で完璧な母にならねば、みたいな気持ちが湧いているけれど、それは無理な話なので、というか完璧な母自体が幻想だということは理性でわかっているので、そういう思い込みに気持ちが引っ張られないように気をつけたい。
やっぱりあれだ、生きづらい。
小学4年のときクラスの女子からいじめられて、机に「死ぬ」「死なない」なんてあみだくじを作ったことがある。中学2年のとき友人と口論をして、教室の窓から身を乗り出し、飛び降りようとしたことがある。
でも、どちらも本気じゃなかった。その考えはすぐに放棄できた。生きたかったし、死ぬのは怖かった。
それに比べ、ここ3年くらいの死にたさはやっぱり異常だ。
ほぼ毎日死ぬことを考えている。以前は何年かおきに一度「ふと頭によぎる」程度であったのに。
それに、とても具体的に考える。未遂だって何度もしている。いつ実行してもおかしくはない。
死のうとしていなかったときの私を思い出す。通学や入浴や起床などに対し、やらないと…なんて葛藤とともに行っていたことなどない。ごく当たり前に当たり前のことができていた。生きること自体には、困難なことなど皆無だった。
最近、以前に増して「やばい」と思うのは、無気力に死のうとしていることだ。
あまり深く考えていない。死にたくて、もがき苦しむエネルギーもない。生きたくない。もう十分だ。死んでもいいかな…。
通院が苦手だ。
中学3年の時にホルモン系の持病が発覚した。原因はストレスらしい。幸いにも生活で困ることはそれほど多くない。寝るときの呼吸が浅くて、パートナーとの会話のネタになる程度だ。
実家にいたときは、親が病院の予約をしてくれた。当日、私は車に乗りさえすれば、通院は完了していた。まったく苦ではなかった。
しかし、大学入学を機に一人暮らしを始めて2年、発病時よりも数値が荒れた。それまで3か月に一度通っていた病院に、2年もの間全く訪問しなかったのだから当たり前だ。
実際、当時はとても生きづらかった。必死に死のうとしていた。何度も自殺未遂や自傷を行って周囲に迷惑をかけていた。結果、一人暮らしは不可能と判断された。
病院の近所に引っ越して3年が経った。指示された時期よりも訪問が遅くなることはしばしばあった。しかし、通院は続けられていた。
なにより、相性のいい主治医と出会えた。数年かけて、先生とは近況報告をするほど距離が縮まった。
精神面はある程度回復した。自殺未遂も自傷も止めた。社会復帰もした。以前よりはうまく自己を調整できるようになった。
ところが先日、病院の予約をしようと思ったら主治医の名前がない。ホームページには彼女が退職したとのお知らせが掲載されていた。
ここ半年、就活などでバタバタしていた。指定された通院時期の2倍近くも遅れて予約をとろうとしたのだから、主治医は悪くない。適切な時期に訪問していれば、次の医師に引き継いでもらうこともできただろう。
そもそももう7,8年も通院して、未だ同じ薬を服薬し続けている。一回の診療に一万円弱の出費がかさむ。
次の予約時に指定できる数人の医師のことを私は一切知らない。また一から主治医との関係を築くことから始めなければならない。
発病時、一生ものの病とは聞いていた。しかし、もう闘う気力がない。
持病についても深刻だが、心のほうも深刻だ。
一人暮らしをしていたとき、自力で精神科に通っていたことがほんの数か月間だけある。
当時は今にも増して酷い状態だった。自殺未遂や自傷もそうだが、睡眠や食事にまで弊害がでてきた。あまりにも生きづらいので助けられたかった。一度受診してみれば生きづらさは劇的に回復するイメージがあった。
お分かりの通り結果は悲惨だった。
精神科は複数回通うことが必須だ。一度の通院で、病名の診断と、的確な投薬が可能なわけがない。薬には調整が必要である。それに、じっくりと対話を重ねて、医師に己を伝えなければならない。
しかし、私は通院を止めた。薬が合わなかったから。医師が合わなかったから。お金がなかったから。面倒だったから。予約を忘れてしまうから。劇的に生活は変わらなかったから。
当時は、強制的に何もしなくていい時期を作ってひとまず危機を脱した。
もう少し楽に生きられるようになりたい。それだけだ。
何も今更すごい成果をあげたいとか、そのためにすごい人になりたいとか、そんな贅沢は言わない。
ただ、学校や部活や習い事や遊びに、なんの躓きもなく、最低「行くこと」くらいはできていた私に戻りたい。
生きたいと思いたい。楽しいことをしたいと思いたい。死にたいと思いたくない。
>>上記は主治医の診断書が必要になるので治療方針が食い違うと書いてもらえなくなるかも。
偶に自立支援の申請に必要な診断書の交付を拒む医師がいるらしいが、医師法19条2項違反だからな。
申請を受理するか却下するかは役所が判断することで、医師がその申請が通るかどうかを必要以上に気にすることは無い。
患者との信頼関係を気にするのなら、申請が通らないこともあるがそれでも良いかと確認した上で診断書を発行すれば良い。問答無用で拒否するよりはよっぽどまし。
こんな公的支援がある
医院と薬局を一カ所だけ指定して申請すると、精神科の医療費と薬代が一割負担になる。転院したり引っ越ししたりしてもまた申請すれば大丈夫。収入によっては一カ月の中で支払う上限が変わる。
http://seseragi-mentalclinic.com/jiritu-shien/
・障害年金
18歳未満に病気が発生したか、それ以上かによって支給要件変わる。発達障害単体だと無理の可能性高いけど二次障害起こしてるともらえるかも。受給するための支援してくれる障害者支援施設もあるので使ってみてもいい。
一番のメリットは障害者雇用に応募できる。配慮をもらえるのはすごく楽。あと公的施設の入場料が無料になったり映画が1000円で見られたりバスなど移動手段が割引になったり。電車は割引不可のところがまだまだ多い。持っていると色々役立つ時がある。ただし障害者雇用は賃金がだいぶ安くなるから気をつける。
上記は主治医の診断書が必要になるので治療方針が食い違うと書いてもらえなくなるかも。要相談。ちなみに障害年金受けてるとその受給者証を見せれば楽に手帳の申請ができる。
学生生活では、いちかばちかテストやレポートのすみっこに、これこれこういう理由で授業を受けるのが困難だった、と書いてみる。時々同情してもらえて単位もらえる。最終手段として。
退学するかどうかは家族と良く話し合おう。うつ症状は判断を狂わせるので、あまり重要な決断をしないのが一番いい。どれだけ時間をかけても卒業するか、休学しながら体調を回復させるか、はっきり辞めてしまうか。道はたくさんあると思う。
やりたい勉強があったなら、退学は最終手段にしてほしいな。やめるのは簡単だけど、入るのはすごく難しいから。お金の問題もあるから一概には言えないけど。コメにもあるけれど通信教育や放送大学という手もある。
ざわつきが気になるならデジタル耳栓とかイヤーマフなんかを試してみてもいいかもしれない。授業になったら外す、とか。周りの目は気にしなくていい。好きなように言わせとこう。
何よりも、無理せず。やりたいようにやろう。
私も卒論の指導教授には、たぶん見えないところでたくさん下駄を履かせてもらえたと思う。うつの治療しながらではあったが、なんとか卒業させてもらえた。ありがたかった。味方は必ずいるから。
都道府県には必ず「発達障害支援センター」や「障害者職業センター」が存在する。場所によっては「障害者生活・就労支援センター」などもある。「若者サポートステーション」などもいいかも。公的機関とは別にNPOなんかも。相談先はいくつかあると楽。たまに信用できない支援施設や相談員もいるから気をつけて。
もうそもそも発達持ちなら自営業とかの方が合うかもしれないとつくづく思っている。ブログで副業とかどうなのだろう。そこはお好みで。
ADHDと自閉症スペクトラム併発すると結構職業が限られると思う。これは私も今模索中。広々した場所で全員の挙動が全部見えるデスクワークは最悪だった。経験談として。
また何か思い出したら書くかも。
お互い頑張ろう。
あ、あと自分から「ガイジ」という言葉を使うのはおすすめしない。あまりにひどい言葉だしはてなにもたくさんいる発達持ちに失礼。
※色々追記
ADHDは治らないよ。薬で症状を押さえてるだけ。でもこのコンサータやストラテラを飲むと、発達持ちの特性である、創造性が失われるという話もある。それが嫌なので私は飲まなかった。元増田はいい方向に行ってるようなので何より。
一割負担の話は政府に文句言ってくれ。だけど精神障害持ちはロクに働けなかったり薬がべらぼうに高くなる傾向なので大目に見てくれると助かる。
精神障害二級はだいたい労働や生活にかなりの支援を必要とする、くらいだったと思う。
ガイジって言葉は誰であれ使うなと強く言っておく。アスペもあまり好きでない。
発達持ちは謎の体調不良を起こしたり疲れやすかったりするので授業にたどり着くだけでもけっこう大変。そして休んでも友達にノートを借りたりできずに落とした単位がいくつかあった。人によるから簡単にちょろいと言ってやらないでくれ。
※またまた追記
>>偶に自立支援の申請に必要な診断書の交付を拒む医師がいるらしいが、医師法19条2項違反だからな。
申請を受理するか却下するかは役所が判断することで、医師がその申請が通るかどうかを必要以上に気にすることは無い。<<
そうなのか。一番最初に自立支援の申請をした医者がどうも渋り気味だったから印象で書いてしまった。補足助かる。
それも十年近く前だから、きっと少しは良くなっていると信じたい。申請にマイナンバーが必要になったのはアホかと思ったが。
まだ成人の発達障害は誤解も多く、私の主治医はとても良い信頼できる主治医だが、私が発達障害であると認めてくれない。(主治医に内緒で発達障害専門医にセカンドオピニオンに行って発覚した)
発達障害に詳しい医師にかかるのが一番だろうが、地方ではそれも難しい現状だ。
ただ、障害者職業センターはだいぶ発達障害に力を入れ始めていると聞いた。何かの助けになるかもしれないから、元増田以外の発達障害持ちも相談してみるといいかもしれない。
しかし、50歳の春、私は更年期障害になった。正直、更年期障害なんて大したものではないと思っていた。
更年期障害は私の人生を大きく変えてしまった。 家族、友人、多くの人を傷つけ、大切なものも多く失った。
でも周囲の粘り強い支え、幸運な出会いもあって、何とか克服ができた。今では元の幸福を取り戻すことができたと言える。
更年期障害は心身共に症状が現れる。それゆえに知識がないと混乱をしてしまい、治りが遅くなるばかりか、周囲の人を傷つけ更に自分自身を追い込むことになる。
そう思うことが沢山ある。
それを今更年期障害に悩んでいる人に伝えたくなった。
興味があれば読んでみてください。
私は昔から特に見た目、賢さに恵まれたわけではなかったが、健康だけには自信があった。風邪らしい風邪は引いたことがないし、入院したことも出産のときぐらいだ。
子供を産んだときもあまりにあっさりと産んでしまったので、主治医が若干苦笑いをしていたほどだ。
そんな私は、当然、華やかな人生を歩んできたわけではない。しかし女性としての普通の幸せは手に入れることができているという満足感はあった。
私にはもったいないくらいの優しい夫、26歳の長女は嫁ぎ、23歳の長男は社会人に。子供が自立したのと、夫の定年退職もあと数年に迫っていたので、「老後ものんびり楽しく過ごしていこうね。」と仲良く話し合っていた頃だった。
その変化は突然やってきた。
最初に異変を感じたのは3月、事務のパートに行く電車の中だった。
暖かくなってきたとはいえ、その日はさほど暑い日ではなかった。
午前10時、電車の中は通勤ラッシュも終わって混雑はしていなかった。それなのに顔がほてり、汗が止まらなかった。私はそんなに汗っかきではないはずなのに。
「なんだろう・・・」
不思議に思いながらもその場は特に深刻に考えることもなかった。
だが、職場に着いても汗は止まらない。クーラーの効いた室内でみんなが涼しそうにしているのに私だけは暑くて汗がでてしまう
一瞬そう思ったのだが、仕事が忙しかったため、その心の声をなんとなく流してしまった。
この判断が私を長い苦しみの追いやったのかなーと今でも後悔している。
汗の症状はその後も続いた。
特に夜に暑くて目が覚めてしまうことは辛かった。パジャマやシーツが汗で濡れて冷たくて目が覚めたこともあった。
汗だけであれば慣れてしまえばどうってことはなかったのだが、1ヶ月経つ頃から別の症状も出るようになった。
朝起きるのが辛く感じるようになった。起き抜けから身体がだるく、軽いめまいもあった。なにより気分が重い。仕事に行きたくないな-と思い休んでしまうことも増えてきた。
家事に関しても大好きだった料理もする気がおきず、惣菜を買って帰ってしまうことが増えた。 掃除も洗濯も苦痛になり週末まで溜め込んでしまう日が続いた。
これまで主婦としてしっかり家事をこなしてきたことには自負があったので、そんな自分が許せず、罪悪感でいっぱいだった。
そんな心身ともに不安定な時期が続く中、 あの事件が起きてしまった。
さすがの夫も家事が以前のように行われていないことに気がついたのだろう。
「最近家事があんまりできてないみたいだけど、何かあった??」
心優しい夫は気遣いながらもそう聞いた。
夫は優しく聞いているだけだっただろう、ただ罪悪感に追い込まれていた私は夫に対して怒りを露わにして
「何にもわかってないくせに!私を追い詰めるの!!」
と大きな声をあげてしまった。
私が感情的になることなんて結婚してから一度もなかった。昔から気が長い方で怒ることなんて滅多にない。ただこのときの私は感情までコントロールできなくなっていた。
夫の驚いた顔が今でも忘れられない。
ケンカ一つしない、互いを尊重し、問題は優しさで解決するそんな関係を長年続けてきた。でも、その大切に育んだものに大きなヒビが入ってしまった。そう思った瞬間だった。
すぐにフォローをしなくては。そう思うけど心が追いつかない。 一体わたしはどうなってしまったのか。
夫はそう言ってくれるけど、私は認めたくない気持ちがあった。
夫は最も信頼できる人ではあるけれど、異性ゆえに相談しにくいこともある。特に心や身体のことは打ち明けるのに抵抗があった。
とはいえ、私にも明らかにおかしいという自覚はあった。けどどうしたらいいかわからない。追い詰められていた私は遂に親友に相談をした。
大学の同期の加奈子だ。大学を卒業してからも定期的に会い、今でも家族ぐるみの付き合いをしている。私の全てを話すことができる唯一の人。それが加奈子だ。
私は加奈子にこれまで起こった全てのことを打ち明けた。
「それって更年期障害じゃないの??」
今まで、病気一つしたことが無い私は、正直更年期障害と言われてもピンと来なかったが、加奈子の言う典型的な症状と私のそれを照らしてみると、確かに当てはまることが多い。
実は加奈子も昨年に経験をしたという、加奈子とは3ヶ月に一回は会っているのに全然気が付かなかった。
「私は軽かったというのもあるけど、職場の友人が更年期障害を疑ってくれて、早めに対処できたのが良かったかもね。まさみも早いうちに病院に行ったほうがいいよ。更年期外来ってのがあるから。」
友人の話というものはすんなり入ってくるもので、すぐに病院を探し、近くの婦人科に足を運んだ。
その医師によると、更年期障害は一般的に2から3年続き症状が収まることが多いとのこと。
「これが2,3年も続くのか」
この医師はHRTという療法があると提案をくれた。しかし、あまり病院に慣れていない私は、なんだか大掛かりな治療のように感じ少し抵抗感があると伝えた。
それであれば漢方という方法もあるとのことなので、まずは漢方治療から行うことにした。しばらく加味逍遥散喉、半夏厚朴湯、大防風湯、抑肝酸、を服用し様子をみた。
しかしながら、3ヶ月経過しても、だるさ、めまい、気分の重さに関しては改善がほぼなかった。これでは辛い生活は続くばかり、夫に対しても感情的になってしまうことが多くなったため会話も減ってしまった。
娘、息子への連絡も減ってしまったし、たまにする電話でも以前より感情的で口うるさくなってしまったのか、前ほど家に寄り付かなくなってしまった。
私の世界がどんどん狭くなり、壊れていくような感覚に包まれていった。居てもたってもいられなくなった私はまたも加奈子に相談した。
「加奈子は何で治したの?」
以前はなんとなくプライドが邪魔して具体的な治療までは聞けなかったが、今度は率直に聞いた。
「私はHRTをやったんだけど、あんまり改善しなかったんだ。軽度だったというのもあって大豆製品を中心に食べる食事療法をやってた。途中からちょっとエクオールのサプリメントも飲んだよ」
漢方にも改善はみられなかった。HRTはやはり抵抗があったので加奈子と同じ治療を選択した。
私は加奈子より症状が重いように感じたので、食事療法を中心に最初からエクオールのサプリメントも服用した。
友人同士体質が似ているというのはないだろうが、この選択は私にとって正しかった。
効果はわりとすぐに現れた。約2週間程度でずっと持っていたイライラ感が少しずつ減ってきた。それに伴い感情のコントロールができるようになり、夫との会話の回数が増えてきた。
1ヶ月経った頃には身体のだるさが改善してきて、家事に対して前向きになれた。
掃除は軽くではあるが毎日、洗濯は週2程度、料理は週に1度くらいしか作れなかったが、簡単なものなら毎日作ろうという気分になってきた。
一度改善の兆しが見えると気分は晴れやかになってきた。治療に対してどんどん前向きになって大豆食品を多く取り入れた食事を調べたり、エクオールに関する知識も積極的に仕入れ、よりよいものを探すようになった。
そして、3ヶ月目には、ほぼ以前の私を取り戻すことができた。
休みがちだった職場の方々も理解をしてくれて、職場にも以前のスケジュールで復帰することができた。
家事も以前のようにしっかりとこなせるようになった。夫も私を気遣って家事を身に着けてくれたので、以前より2人で一緒に家事をやるようになった。
夫との会話も以前のように弾むようになり、信頼関係も戻ってきたように感じた。夫も私が更年期障害であることは理解してくれていたようで、
「症状が収まろうが収まるまいが、ずっと寄り添っていくつもりだったよ」
と言ってくれた時には思わず大泣きをしてしまった。この感情の動きは更年期障害によるものではないと今では確信できる。
結果的に私は友人の進めた食事療法+エクオールサプリメントの民間療法で幸い比較的短い期間で更年期障害を乗り越えることができた。
自分の心と身体が思い通りにならない約半年間は本当に苦しかった。
周囲も理解はしてくれるけど、気持ちが離れていっていることはわかる。その孤独感が特に辛かった。どうにもできない自分も本当に歯がゆかった。
私が今も後悔していて、あなたに伝えたいのは、一つだ。
ほてりを感じる日が続く、気だるさ、気分の重さがなかなか抜けないといった症状を感じたら、すぐに更年期障害かな?と疑い病院に行くべきだということだ。まずは更年期障害であるということを理解してほしい。
もちろん私に効果のあった治療があなたにとってベストだとは思わない。HRTを受診したほうがいい場合もあると思うし、漢方が効くこともあると思う。また他にも治療法があると思う。
なので、どんな治療でも良いと思う。開始することで前向きになれるし、意外と周囲の理解も得られる。更年期障害は早い人は30代後半から、誰もが抱えうる問題であって、決して恥ずかしいものではない。
一人で抱え込んで、症状が悪化し、周りに迷惑をかけることが、孤立を招き更年期障害を非常に辛い病に変えてしまう。
病院が嫌だということであれば、気軽にカウンセリングを行ってくれるNPO法人もある。まずは更年期障害であることを疑い一歩を踏み出してみて欲しい。
私はいちばん大事な家族という存在を失ってしまう寸前まで精神的に追い詰められてしまい、本当に苦しい体験となってしまった。
この体験談が役に立ってくれることを願っている。
うつ病で7年間服薬してきたパキシルを切って、3か月たったころ。
吐き気やふらつき、船酔いのような違和感が徐々に収まってきた一方で、
体調不良で1日有休をもらい、ほぼ寝たきりで過ごして目を覚ました夕方。
異常な不安感とのどが締め付けられるような違和感、落ち着いて着席していられないほどの焦燥感が現れた。
一人暮らしの部屋にいるのが恐怖で、実家の母に電話し、眠るまで切らないでとお願いして2時間つないだままにしてもらった。
翌日からなんとか1週間出社した。
頭も回っていなかった。
「あと少し、あともう少し」と言い聞かせ、何とか出勤していたが、とうとう
職場でも着席していられない症状が現れた。
限界だった。
主治医は、離脱症状ではない、うつの再発だからと服薬の再開を強くすすめてきたが、薬をやめたい一心だった私は最低限の睡眠薬と安定剤だけ飲んだ。
症状は日増しに悪化していた。片時もじっとしていられず、家じゅうをうろつき、食事も着席してとれない。
夕方~夜は多少落ち着くものの、寝起きから午前中は地獄だった。
ほかにも、のどが締め付けられるような違和感(ヒステリー球というらしい)。
車やバスなどの狭い空間にいると閉塞感で落ち着かず、窓を開ける。
トンネルを通るときなどは恐怖で、運転席に座る母の腕にしがみついていた。
明け方、日中も一人でいられず、常に誰かのそばにいて、それでも不安と恐怖が強いときは手を握ってもらっていた。
窓とドアを開け放しておかないと閉じ込められているような閉塞感があり、真冬なのに網戸にしていた。
テレビやラジオで「殺人」「強盗」などの言葉を聞くとひどく恐ろしかった。
火星に一人で取り残される宇宙飛行士の映画「オデッセイ」も、恐怖でまったく見られなかった。
目にするもの、耳に入るもの全てが恐怖の連想につながり、今までどうしてこんな世界で生きてこられたのだろうと思った。
一昨日の夜、22時09分、父は他界しました。最期は呼吸不全でした。苦しかっただろうに。
それは私に取っては唐突だった。
4月に父と義理の兄と三人でゴルフを行く約束をしていた朝、急に父から行くのが難しいと言われた。
胃が痛くて、眠れなかった。地元の病院で胃潰瘍と診断されていた。
その日は残念ながら、義理の兄と二人でいくことにした。
そして4月後半。仕事で鎌倉に行っていると、母からの電話がなった。
父が貧血気味で、急遽、大学病院に運ばれたとのこと。しかも最初の内視鏡で癌があると言われたらしい。
とは言え、父は71歳。癌が見つかることぐらいありうる。癌は昔と違って治る病気だ。
そして数日後。急遽、主治医の先生に家族だけ呼ばれた。ちなみに主治医の先生は30歳の背の高いイケメン。
まずはCTの結果を見せられ、癌の状態を説明される。癌は胃から十二指腸に向かっているそうだ。胃の出口を幽門と言うのだが、そこが癌のせいで固くなり、食べ物が腸に流れない。そして出血がひどい。
しかも肝臓に転移が見られる。つまりステージ4。余命は半年と告げられた。
この時、初めて人生で気絶した。父の癌を宣告され、あまりにショックだった。一緒にいた母と姉に聞いたところ、1分半ぐらいの気絶だったそうだ。
主治医から、「夫さんの精液には、一匹も精子がいません。」と言われた。
主治医の顔は見れなかった。下を向いて私は「あー…なるほど。」と口にしてた。
大学で知り合い、結婚して6年。夫と私は性格は違えど、食べ物や旅行の楽しみ方がとても合う。この人と家族を作りたいと思って結婚した。
結婚してから子作りを頑張った。夫は子供が得意ではなかったが、私が望むなら、と協力してくれてた。お互いフルタイムで働いているので、次の日仕事でも頑張ってタイミングを合わせたりするのは大変だった。私は同時に婦人科に通って色々と検査した。ホルモン値を測る血液検査、卵管造影、排卵誘発剤など一通りやった。私は生理痛が酷かったので私のせいだ…と何度も何度も自分を責めた。
子作りを始めてから2年目くらいで、ある記事を読んだ。男性不妊の記事。記事には、旦那さんの性器のサイズも平均的でEDなどもなく、普通に性行為が行え、旦那さんも全く自覚が無かったという話だった。この記事を読んだとき、これかも!と思った。それから、意を決して夫に一度精液検査を受けてほしい、とお願いしたが、夫は「原因は僕じゃないと思うよw」と半笑いで返してきた。それから私は、私が悪いんだ…とずっと悩んでいた。
それからも3年子作りを頑張った。夫は直接は私を責めた事はなかったけど、なんとなくお前が悪いって言われてる気がしてた。
子供ができないことで夫の前で泣いたことは二回ある。でも、一人で泣いたことは数え切れない。この頃、不妊な私は人間として、生物として価値がない、死んだほうがましと、思ってた。でも、死んだら夫が悲しむだろうなぁと思うと死ねなかった。
子作りを始めてから5年、引っ越した事で、今まで通ってた婦人科をやめて新しい婦人科に移った。そこで前の病院から受け継いだカルテを新しい主治医に見せると、これは旦那さんにも検査してもらう必要がある、と強く言われた。どうしていいかわからず、色々込み上げてしまい主治医の前で号泣した。主治医は困惑しながらも、「これ以上の検査は旦那さんの精液検査の結果がないと出来ないと、旦那さんに言いなさい」と優しくアドバイスしてくれた。その夜、その通りに夫に伝えた。夫はいやいやながらも精液検査を受けることを了承してくれた。おそらく夫は、私の検査に付き合うのは面倒だなぁ思ってたんだろう。
主治医から、「夫さんの精液には、一匹も精子がいません。」と言われた。
主治医の顔は見れなかった。下を向いて私は「あー…なるほど。」と口にしてた。
長年不妊の原因が自分であると自分で自分を責めてきた。でも違った。私じゃなかった。3年前にそれを知ってたらこんなに自分を責めなくて済んだのに…。と色々頭を巡った。
その次に夫にこの事をどう伝えるか悩んだ。どう伝えれば傷つかないだろうか。ものすごく悩んだ。病院から家に帰る車の中でものすごく泣いた。そうして腫れぼったい目で夫に伝えた。「検査の結果が良くなかった。夫くん、無精子症みたい…」夫の顔は見れなかった。夫はしばらく固まって「そっか…」と呟いた。
そこからは私が男性不妊の場合の子供を授かるための方法を調べて夫に提案した。夫は「そこまでしてやりたくない。二人で、楽しく暮らそうよ」と言う。
私は夫と子供がいる家族を作りたいから結婚した。今、その夢がぽろぽろと崩れてる。子供が居ない選択肢なんて今まで考えたことが無かった(考えようとしなかった)。
これから先、周りにずっと「子どもはまだ?」と言われ続けないといけないのか。
NHKの方に投稿しようとしたけどこんなの絶対読まれないだろうから増田の方に投稿する。
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**歳のときに休職した際に診断をうけ、現在は障害者雇用に切り替えて就労しています。
就労については理解のある上司の存在もあり上手くいっているのですが、
これまでいくつもの当事者団体や自助会に参加したのですが、真っ当な団体が存在しないのです。
最大手の当事者団体であるNeccoですら不正受給を行い都から処分を受けています。
(http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2014/08/20o8t400.htm )
中小の団体も多かれ少なかれ参加費の不正会計などの不適切な行為が行われています。
参加者レベルでも障害者手帳の等級を主治医と結託して不当に上げるような話が当たり前のようになされます。
私はそのような不正な行為が許される風潮に耐えることができません。
そもそも既存の当事者団体・自助会が社会に参加できない重い症状の当事者向けのものであって
自分のようになんとか働けるレベルの当事者向けの団体が存在していないのもあるのですが、
重く社会参加できないが故に社会に寄生しても良いとする基本的な思考がそうさせているのではないでしょうか。
少なくとも当事者にある社会に対する、ひいては人類に対する憎悪もその傾向に拍車をかけているのは確かだと思います。
私も確かに人類を憎悪してはいるのですが、症状が比較的軽いが故に当事者と連帯できず、社会とも繋がることができません。
私はどうすれば良いのか分かりません。
元増田さんは現行の措置入院制度の問題点(ロクに治療が行われず、措置解除後はすぐに出されてあとは放置)についてはどうお考えなんでしょうか?
あとですね、
私の家族の話ですが、「主治医から監視されている」という妄想を持っていましたが、だからといって病院にかかることを止めるわけにはいかないですよね?
普段から警察沙汰になっていて、警察署で名前も住所もすべて控えられてる人間が、あらたに悪影響を受けますと言われても、そりゃそういう人もいるだろうし、そうでない人もいるでしょうけど、警察介入否定の根拠にはなりえません。
プライバシープライバシーって言いますが、すでにトラバにも書いたように措置入院にいたった時点でプライバシーもクソもありませんし(ちなみに隔離の個室は24時間監視カメラつきですけど、これも監視妄想が悪化するから止めるべきですか?)、私はデメリットとメリットを勘案して、今回の改正案にはメリットのほうが大きいと感じます。
それより年間措置入院件数の都道府県格差(140〜200倍くらいの差がある)のほうが措置入院制度そのものに関わる深刻な問題を孕んでそうなので、そっちをもっと真剣に議論していただきたいなと。
たびたび、
まぁ、私にとってはどちらでも委員会に入ってる手前、
正直どっちでも医院だけどね!
って主治医が言ってたわ。
でね、
私思っちゃったの。
それはレモン油を使って揚げること。
レモンの産地ならではの瀬戸内海産のレモンから作られたレモン油。
なかなか希少らしくって、
でも、これでから揚げレモンかけるの賛成さんとかけるの反対さんが仲良くなれるわ。
それよりもさ、
めちゃくちゃ欲しいわ!!!
反り上がっててカッコいいわよ。
よく切れるからね!
切れ味は抜群なのよ。
丁寧に猫さん手にして添える割りには
彼の店がアンカラにあるなら
友だちに偵察行ってきてもらおうと思ったんだけど、
どうやら
ちょっと遠いわね。
うふふ。
甘いけど美味しいわ。
生クリームみたいにモッタリ甘み感がなくってさっぱりよ。
朝の目覚めにスッキリとした爽やかな味わい。
よく、水出し用的なの売ってるけど、
一晩付けて置いておけば、
試したことない人は試してみてね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
上から物を言ってしまったような事に今更気づいて,反省しています.
セカンドオピニオンも難しい状況とのこと,教えてくれてありがとうございます.
今の病院に行きづらいとおっしゃっていたと思うのですが,多分,勇気がいるとは
思うのですが,何とか電話を掛けて,元増田に書いていたことをそのまま言えば,
あとはうまくいくと思いますよ.
いきなり動けなくなるって我々の病気にはあるあるだし,実はお医者さんが一番
よく分かってくれていますよ(少なくともわたしの大変ドライな主治医はそう)
でも,無理はしないでね
助言ありがとうございます。
双極性うつ病に抗うつ薬を使ってもよいのかどうかは、専門家のあいだでも議論が続いていて、決着がついていない問題のようです。私の主治医は最初抗うつ薬を出すのをかなり渋っていましたが、1ヶ月近くお風呂に入れない、歯も磨けない、外出もできない状態が続いたとき、「本当は出したくないけど…」と言いつつ、ごく少量の抗うつ薬を出してくださいました。そのおかげで少なくとも1年くらいはまともに動けていました。
私が知っている限りでは、抗うつ薬を最も避けるべきなのは双極I型障害の方で(私は双極II型障害です)、三環系抗うつ薬は特に避けるべきであり、抗うつ薬単剤での使用は勧められない、抗うつ薬を用いる場合は必ず抗精神病薬か気分安定薬と併用する、というものです(「臨床精神医学」46巻3号より)。
また、SSRIの躁転リスクは非常に低いというデータもあります(日本うつ病学会「双極性障害治療ガイドライン」より)。
私は現在エビリファイをベースにSSRIをごく少量服用している状態で、SSRI服用開始後に特に軽躁とうつの波が大きくなったということはないと感じています。
精神疾患のほかに内科疾患を抱えているので、どうしても総合病院精神科にかかる必要があり、セカンドオピニオンも難しい状況です。
そういった事情もあり、なんとか今の病院に再度受診できるように頑張りたいと思います。
ブックマークでコメントをくださった方もありがとうございます。
精神の方
ショックだった
病院の帰り道ショックを噛みしめながら帰った
まだ不登校児が学校に1人、2人いるかな、ってくらいの頃だった
パイオニアだったんだな
それは置いといて
高3で限界がきて自分で精神科に行った「鬱だと思う、つらい」と
初めての医者は「鬱ではないと思う」と言ってパキシルリタリンを処方してくれた
今思うと、初めての医者はADHDの傾向を見抜いていたのかもしれない
(パキシルリタリンは、今はコンサータというお薬に変わっているね)
20歳を過ぎたあたりで薄々、自分は発達障害かもしれないと疑い始めた
10年以上精神科のお世話になっていて、今また大きな限界にぶちあたって、私はつらい
手帳はつらい私を少し手助けしてくれると思う
わかってるんだけども、ずっと頑張って健常者のふりをして生きてきたから
障害者になることにショックを受けている
もう頑張っているのに空回りするのは疲れたんだ
ショックだ
ショックを感じているんだね、って、ただ言ってほしいんだ
周囲の人は愛ゆえに「大変だ!大変だ!」ってなってつらい
ただ「そうなんだ」って言ってくれないかな、お願い、これを読んでくれた人がいたら
http://anond.hatelabo.jp/20170408143806
適応障害で療養してたとのことだけど、今は働けるぐらいに回復したの?
通ってる心療内科の先生は、働けるって許可を出してくれてるの?
働くってのは凄くエネルギーのいることだから、体調が悪化するリスクもある。
もし、しばらく病院に行けてなかったり、主治医から働くことを勧めていられなかったりするのなら、今働くのはお勧めしない。
じゃあどうするのか?っていうと、まず考えられるのは生活保護。
持ち家であっても、預貯金額のトータルがだいたい6〜10万円以下なら、申請自体はできる。
保護の決定は申請から14日以内に行うことになってるんだけど、本当にお金がないなら当座の生活費も貰える。
精神科通院歴があって、増田の状況であるなら、福祉事務所は保護を認めないといけないはず。
メンタルの不調で長らく医者に通い薬を飲み続けながらがっつり仕事もしてきた。
仕事が一段落した、こっから一週間は良いけど来月からまた仕事は忙しくなる、でも来週と来月末には楽しみな予定もあるしホテルも予約した。
このタイミングで初めておそらく希死念慮ってやつなんだろう症状がきてしまった。数年間に渡る通院歴の中でも初めて。
仕事しててもずっと頭の中に「死にたい死にたい死にたい」て流れている。
来週頭にこの書類を決裁に出さなきゃ死にたいホテルに荷物送らなきゃ死にたい死にたい夕食どうしよう松屋でいいか死にたい死にたい。
いや死ぬ予定ないし!と客観的な自分がツッコミいれてくる。それでも仕事中だろうがあふれてくる死にたい死にたい死にたい。集中力は死んだ。
あんまりに自分の予定や希望と、頭の中にあふれてくる「死にたい」がかみあってないので、さすがにどう見ても頭おかしくなってんな今の自分、という結論に。
このわけわからん感覚と何年も向き合ってる人すごいな、お疲れ様です。しんどいと思う。すごいな……。
仕事の能率をあげたいばっかりに勝手に減薬気味にしてた(副作用が出やすいから主治医は鑑みて処方にも幅はもたせてくれてるとはいえ)のが要因のひとつだと思うから、とりあえず連休明けの仕事後に叱られてこようと思う。