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はてなキーワード: ローマとは

2023-01-03

イギリスロイズは、もとは1686年オープンコーヒーハウスのことだった

・・・そのコーヒーはどこから来たの?

当時はオランダイギリス犬猿の仲神聖ローマドイツオスマントルコ攻撃を受けていた、フランス植民地はまだ少ししかない

トルココーヒー豆産地かというと今はそうでもない

うーん

2022-12-26

anond:20221226105445

木造建築は修復が不可避でテセウスの船のようになる

古代ギリシャローマ建造物と違って法隆寺レプリカみたいなものから世界遺産価値は無いと、西洋人学者ニュースコメントしたのを見た記憶がある

30年以上前、非欧米圏の地位が今より低かった時代の話

ホモじゃないけど「究極のチンコ」には興味がある

たとえばXvideos黒人が超でかいチンポをまっすぐおっ立てているの見ると感動するじゃないですか。

セックス中にプロレスの投げ技みたいにグルっと体位を切り替えてるのを見たら心が揺れ動くのは当たり前ですよね?

そこからの延長で「究極のチンポ」をいつかみたいなと考えてるんですよ。

大きいかどうかじゃなくて美しいかどうか。

そういえば美乳って概念はあるのに美根という概念はないですよね。

これがどうしてなのかって、日本修正主義の国だからなんじゃないかなって。

とりあえずなんでも修正してしまうから、皆銭湯でたまにチラっと目に入るアマチュアのどうでもいいチンポと自分のチンポしか知らずに過ごす。

から美しいチンポが存在するなんて想像もしない。

そもそも日本人ってチンコ自体が小さいからまず「大きい」かどうかばかり気にしてしまう。

次はカリ高かどうか。

そもそもオナニーばかりしてるので皆チンコがグニャグニャに曲がっているんですよね。

とはいえグニャグニャチンポ自体セックスにおいて不利というわけでもなくいい感じに相手の中でうねる効果を生み出せます

もしもフランベルジュのような機能美を研ぎ澄ませたグニャグニャチンポだったら、それは単なる直剣チンポに勝るのではないでしょうか。

こういった話をすると「お前、ホモなの?」と言われてしまうんですよね日本という国は。

悲しいことにこの国には「チンポに美しさを見出す」という文化が育っていないように思えます

エロ肯定するはずの性消費業界においても、チンポは醜いものとして扱う「チン嗅ぎ」などの性癖メジャーとなる始末です。

でも違うと思うんですよ。

ローマ彫刻家がチンポを包茎で描いたのは勃起したチンポの醜さを避けたからではなく、高◯クリニックに毒された日本では下に見られがちな包茎チンポにさえも美を見出したからだと考えられませんか。

逞しい筋肉反比例するかのような控えめなチンポに、鞘に納められた日本刀のような堂々とした佇まいを感じたからこそ文化史になだたる人々は包茎チンポを衣服によって隠すのではなく描くことを選んできたのです。

分かりますか?

チンポの美しさを決めるのは大きさではない。

でも日本では未だにチンポの良し悪しを大きさでしか測れない。

この貧しい国の中で、僕はどうやって「完璧なるチンポ」を見つければ良いのでしょうか?

英語を覚えれば良い。

そのとおりですね。

日本を出て、インターネット大海原に答えを探しに行くことにします。

さようなら日本

2022-12-24

クリスマスになぜモミの木かという話

オランダスペイン帝国から独立して世界最大の木造帆船メーカーになったが、材料神聖ローマドイツ)のモミの木を輸入していた

シュヴァルツヴァルト木こりたちはモミの木に空気清浄作用があることを知っていたので、冬ごもりの時期は部屋にモミの木を飾ったということだ

まり彼らは化学産業発達の前は、シックハウスの逆を行っていたわけである

2022-12-18

ローマ貴族にヒントを得た紐付きポテトチップスピーコック2世

食べたあと引っ張ると胃の中から戻ってくる

2022-12-12

クラシック動画吹奏楽コンクールの思い出話をするな

クラシック動画吹奏楽コンクールの思い出話をするな。

2度とするな。

三角帽子とか、中国の不思議な役人とか、ダフニスクロエとか、ローマの祭とか、

吹奏楽コンクール自由曲の定番となってるクラシックの曲。

原曲(オーケストラ演奏)の動画ニコニコYouTubeで観ようとすると、

コメント吹奏楽コンクールの思い出話で埋め尽くされてることがある。

本当に、本当に鬱陶しい。

正直レイプと同じだと思う。

そういうのは吹奏楽アレンジ版でやれよ。

原曲動画ですんな。

「これコンクールでやった」

「今年コンクールでやる」

「今年の自由曲です」

「これうちの学校この前自由曲でやったー!」

吹奏楽版の方がいい」

「ここのユーフォきつい」

「いまコンクールに向けて練習中だけど先生に怒られてばかりです」

知らねえよ。

帰れよ。

○○が。

管楽器もやってたことあるけど、これのせいで本当に中高の吹奏楽が嫌いになった。

○○○んだよマジで

2022-12-11

個人が不平等状態とは「特定不利益を持った状態が続き、それを解消することが困難な状態」と言える。その逆は「個々が特定不利益を持たない状態」または「不利益が(気にならないほど)すぐに解消する状態」。

これを実現するには、人間精神を日次でシャッフルすることが有効になる。特定状態が長く続くことが利益不利益固定化ならば、それを短期間でシャッフルすることで、それを解消する。

明日あなたカムチャッカ若者かもしれないし、メキシコの娘かも、ニューヨーク少女か、ローマ少年かもしれない。

2022-12-08

anond:20221208194915

社会科学とか倫理とか法学の分野はれっきとした「科学」(客観的・体系的ななんらかの事象研究・分類)なんで、扱う分野が大局的な人の言動など形がやや異なっていても同じように科学なんですけどね

化学けが科学じゃないです

化学定義についても数学についても社会科学でも、下位の概念は「現代ではほぼ疑念をはさむ余地がない程度に99.99999999%そうだろう」となってしまっているだけで100%ではありません(とりあえず間違えている確率が極めて低いから100%ということにしておこうという取り決めです)もともとは「多分こうだと思う」「だからこれが正しいということにしておこう」の積み重ねです。

でも結局現在でも化学でも社会科学でもどの分野でもさらに上の先端研究や先端的領域になればやはり「現在の通説、多分これが正しいかもしれない」「おそらく〇〇なのだ機序がわからず詳細は不明」みたいなもの過去データから推測している部分は少なからずあり、確度と信頼と選択問題になってきます

医療科学については必ずしもそうではない。固体が温度が上がると液体になる現象さら温度が上がると気体に変化する現象は確かなものだと観察されているが、この現象人間による定義指標により作られたということはあり得ない。

医療についてもそうです。個体差や未知の領域も多く、100%というのはありえないので、「ほぼ99%確実だろう」「この程度信頼できるだろう」という確度と選択問題で進めていきます

必要があって仮定していることとか、社会必要から便宜的に定義したもの

科学検証から得られる妥当性というが、その妥当性という概念自体が「正しさ」という概念

はほぼ近似の同じ概念が、確度や使われ方の差によって印象の差を生んでいるにすぎません。文字通りです。科学事実社会学的通説は異なると言いたいんでしょうかね、本質的には「便宜上こうであるという取り決め」「科学妥当性」「社会妥当性」です

あとは前に書いたものもっと丁寧に読み込んでもらいたいです。

それと、感性ではありません。ローマ法のような太古の法など(今回はまだ幸運にもキリスト教の伝導から来た内容だとわかりますが、ほとんどは標語けが生き残っておりどこからまれ思想なのかも自覚がない場合ほとんどです)の断片的な引用はよく見られる議論ですが、社会的な背景も運用する法のレベルも何もかも異なるので丁寧な議論必要とする分野ですが大衆レベルでは中途半端引用けが生き残っているので、どうにも定義の定まらないふわふわした話になってしまます知識や確度や正しさというのは常にキャッチアップの必要な変化するもので、放置していればすぐに置いていかます自分ももちろんそうです)人の思想人生をなんだと思ってるのかとお怒りですけど、暗黙知経験知が時代遅れのおさがりになってしまうのは追い求めなければそうなる当たり前の話です。ですので、自分キャッチアップするか、その道のプロ必要としています

質問の答えはもうすでに書いて説明し終わっているので何度も読んでから書いてあることを踏まえた質問してほしいです…

anond:20221208144747

一人一人の人生とか正しい側だと思い込むとか侮蔑とかの気分的な正しさ(?)とかい概念のことを、一般大衆的正しさって呼んでるんだけどわかる?

もともと現代日本人はほとんどが正義や正しさについて教育を受けていないので、ほとんどの人は当然のごとく正しさや正義を知らないという話

現代日本人はほとんどが義務教育バイオリンを学ばないので日本人ほとんどはバイオリンを弾けないとかそういう感じの話でしかねえ

正しさは学者や実務家が丁寧に議論を重ねて修正を繰り返して作り上げていくもので、自分を守るとか盾とか侮蔑とか思い込みとかの入り込む余地はないの

そんな単純で人をさげすむような変な概念じゃないの

単なる事実議論の集合なの

君の言ってるタイプの正しさは動物園的な一般大衆的正しさで、殆どが元をたどれば明治スローガンだの幕府のおふれだの太古のローマ法の一部が慣用句とかことわざになって周辺知識が抜け落ちたナンチャッテだとか、法の一部の聞きかじりのおさがりだって言ってるの

anond:20221208142056

なるほど

倫理的意味の正しさの話をするなら大衆の90%には何も期待できないでしょうね、わけわからんこと言ってる奴しかいない

一般大衆レベルで正しさを問うと、大体の人が聞きかじりの断片的ローマ法の成れの果てを関連知識もなしに無条件で信じてたりするから

正しさの側にいると信じ込むのも他責するのも、悪気も何もないただ無知なだけ

まあ一般大衆に正しさを理解できてることはほとんどないかもだけど、でも理解できる必要もないからね

正義の実現をしたいときお金正義プロに頼るといいですよ

2022-11-04

矢で射抜かれ死亡 子の誕生祝っていた男性 イタリア

11/4(金) 12:40

 【ローマAFP時事】イタリア北部ジェノバで1日、子供誕生を屋外で祝っていたペルー人男性(41)が、近隣住民の男(63)が窓から放った矢で射抜かれ死亡した。

 当局が3日、男の訴追を確認した。

 ANSA通信によると、被害者男性は前夜、2人目の子供が誕生したばかりで、南米出身の友人らと祝宴を開いていた。弓を放った男は騒音がうるさいと抗議し、目撃者によると、人種差別的な怒鳴り声の後、弓を持ち出した。警察イノシシ狩り用の弓とみている。 

やっぱ狩猟民族伝統なんだろうか

日本だと刀とかになるのかね

2022-10-27

世界ビジネスエリートが身につける、教養としての「教養としての」

Amazonで「教養としての」で検索、結果

教養としての決済

教養としてのダンテ新曲

教養としての紅茶

教養としての投資

教養としてのワイン

教養としての着物

教養としての日本酒

教養としてのウイスキー

教養としてのゴルフ

教養としてのダンディズム

教養としての茶道

教養としての意識

教養としてのローマ

教養としてのフランス史

教養としての世界史

教養としての西洋美術史

教養としての神道

教養としての仏教

教養としての中国古典

教養としてのラテン語

教養としてのデータサイエンス

教養としてのコンピューターサイエンス

教養としてのAI

教養としての地政学

教養としての地理

教養としてのニーチェ

教養としての落語

教養としてのクラシック音楽

教養としての俳句

教養としてのグローバル経済

教養としてのラーメン

教養としてのビール

教養としての半導体

教養としてのギリシャローマ

教養としてのギリシャ神話

教養としての数学

教養としての心理学

教養としての能楽

教養としての能・狂言

教養としての食べ方

教養としての気象と天気

教養としての太平洋戦争

教養としての日本皇室

教養としての日本

教養としての映像動画

教養としての平成お笑い

教養としてのゲーム

教養としての宇宙生命

教養としてのプロレス

教養としての認知科学

教養としての化学入門

教養としてのアメリカ短篇小説

教養としてのお金アート

好きなのを選ぼう

2022-10-21

スパルタ人はわざと重い鉄貨を使ったのか?

友達最近藤村シシンさんがFGOギリシャ史と絡めて解説する動画にハマったらしい。ヲタトークをしていたらシシンさんの動画面白かったという話をしていて、それはいいんだけど、「古代スパルタだとお金をわざと重くして人々が堕落しないようにしてたんだって!」と楽しそうに語りだしたので「そんなことある???」と思ってしまった。古代ギリシャ史については素人だけど、流石にちょっと胡散臭くないか

ということで調べてみました!

動画はこれ。

https://www.youtube.com/watch?v=1R-hpr7FJdI

まあトーク番組だから出典をいちいち挙げないのは当然として、じゃあ何がソースなんだろうと思ってちょっと検索してみたら、元ネタプルタルコスの『英雄伝』なのね……『英雄伝』はギリシャローマ英雄たちの逸話を紹介してる本で、日本語訳複数出てるけど、増田素人から手元になくて近所の図書館にもなさそうなので、ネット英訳版を見てみることにする。具体的にはリュクールゴスの章に書かれているらしい。

Not contented with this, he resolved to make a division of their movables too, that there might be no odious distinction or inequality left amongst them; but finding that it would be very dangerous to go about it openly, he took another course, and defeated their avarice by the following stratagem: he commanded that all gold and silver coin should be called in, and that only a sort of money made of iron should be current, a great weight and quantity of which was very little worth; so that to lay up twenty or thirty pounds there was required a pretty large closet, and, to remove it, nothing less than a yoke of oxen. With the diffusion of this money, at once a number of vices were banished from Lacedaemon; for who would rob another of such a coin? Who would unjustly detain or take by force, or accept as a bribe, a thing which it was not easy to hide, nor a credit to have, nor indeed of any use to cut in pieces? For when it was just red hot, they quenched it in vinegar, and by that means spoilt it, and made it almost incapable of being worked.

In the next place, he declared an outlawry of all needless and superfluous arts; but here he might almost have spared his proclamation; for they of themselves would have gone after the gold and silver, the money which remained being not so proper payment for curious work; for, being of iron, it was scarcely portable, neither, if they should take the means to export it, would it pass amongst the other Greeks, who ridiculed it. So there was now no more means of purchasing foreign goods and small wares; merchants sent no shiploads into Laconian ports; no rhetoric-master, no itinerate fortune-teller, no harlot-monger, or gold or silversmith, engraver, or jeweller, set foot in a country which had no money; so that luxury, deprived little by little of that which fed and fomented it, wasted to nothing and died away of itself. For the rich had no advantage here over the poor, as their wealth and abundance had no road to come abroad by but were shut up at home doing nothing. (...)

http://classics.mit.edu/Plutarch/lycurgus.html

なるほど、シシンさんのトークプルタルコス記述に忠実だ。少なくとも彼女は盛って話していたわけではない。

で、プルタルコスの『英雄伝』が書かれたのは後2世紀初頭と言われているんだけど、ここで逸話が語られているリュクールゴスはだいたい前9世紀頃に活躍した人物と言われているのね。彼はスパルタの半ば伝説的な立法者。要するにプルタルコスは直接スパルタで鉄貨を見たんじゃなくて「1000年くらい前のスパルタではそういうことがあったらしいよ」っていう伝承を語っているのよ。古事記かな?

ところで根本的に、古代ギリシャでは鉄の棒を通貨として使っていた地域があったらしいんだよね。「わざと鉄の棒を通貨として採用した」んじゃなくて「もともと鉄の棒をお金として使ってた」だと、かなりイメージ変わってこない?

https://www.brown.edu/Departments/Joukowsky_Institute/courses/greekpast/4792.html

ちょっと古い文献だけど,Charles Seltmanっていう貨幣専門家が書いたA Book of Greek Coinsっていう本にも次のようなくだりがある。

Certain it is that before coined money was used in Greece other states as well as Sparta, chief among them Sparta's great rival Argos, regularly employed iron spits as currency.(34頁)

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.280124

なんでかというと、スパルタがあったラコニア地方は単純に鉄が採れる地域なんだってさ。そら、鉄が採掘できるなら鉄貨使うわな。

Iron was mined in Laconian territory, in the southern spurs of Taygetus and Parnon which end in Capes Taenarum and Malea. It was, therefore, but natural that the Spartans, with the wealth at their disposal, should employ bar-iron as currency; and their conservatism, combined with their lack of any more precious metal, led them to continue the employment of iron money for four centuries after other Greek states had adopted coin(33頁)

さらにこうも書かれている。

a currency which was possibly kept in use for reasons of economic convenience rather than for the enforcement of a stern rule of life(34頁)

要するに、

ってことね。

質実剛健さを重んじてわざとコインを使わなかった」のが仮に史実だとしても、「あえて鉄の棒を採用した」んじゃなくて「鉄の棒を使い続けた(=コイン採用しなかった)」というのが本当のところなんだろうなぁ。

あと,「偉い人の論文読んでみたら、普通にスパルタでは外国通貨使ってたらしいよ」というブログ記事も見つけた。ただ元の論文がなかなか見つけられないので確定的なことは言えないけれど……

https://hoferjonathan14.medium.com/the-iron-money-of-sparta-likely-a-myth-97d95d431a62

このエピソード英語で色々ググってみたけど全部出典がプルタルコスに行き着くので、考古学裏付けはあまりないっぽいんだよね。まあプルタルコスおもしろネタが満載なわけだけど、そこしか出典がないとなると結構胡散臭いんじゃないかな。

もちろん増田古典ギリシャ語とか読めない素人から、実際には他のところにも記述があったり、考古学証拠が見つかっていたり、リュクールゴス時代古文書が発掘されている可能性もあるわけだけど、個人的にはシシンさんのスパルタの鉄貨に関するトークを信じる気にはなれないかなと思いました。

追記

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/2907/

この記事に鉄の串の写真があって、シシンさんが解説を寄せている。解説の文面はまあ納得のいく見解なので(串がコインに先立つことや、コイン出現後もスパルタでは串が使われていたと書いている。そこに異論はない)、動画でのトークネタに振り切った感じなんだろうか……

シシンさんの動画のそこ、笑ったw 増田調査サンキューやで / その上で、動画FGOというゲームを楽しむユーザー向けで、論文ではない。そこでネタとして紹介してくれたものに目くじらを立てる気に私はならんな

FGOファン向けなら史実かどうかは怪しいおもしろエピソード史実かのように話していい…ってコト!? ワ…ワァ…FGOファンにもシシンさんにも失礼すぎて泣いちゃった!

様々な論点があるので100字に入りきらないが,スパルタ貴金属貨幣禁止していたということと,リュクルゴス制の成立を前9世紀とするのは後世による「伝統創造であるこことは指摘したい。

書き方が悪かったかもしれませんが、鉄貨の存在貴金属貨幣禁止否定していません。

動画では、シシンさんは「スパルタお金をどんどん重くしていって、賄賂や贅沢を抑止していた脳筋国家である(少しでも金額が大きくなると持ちきれないほどの重さになるから袖の下は渡せないし、持つことで鍛えられるから)」と言っています

これ、前提知識なしで聞くと「バーベルのような鉄貨は堕落を嫌ったスパルタ発明」と聞こえるんですよ。実際に増田にこの話を面白そうに話した友人もそう理解していましたし、増田トークを聞いてそう理解しました。そして実際にプルタルコスはそう書いています

でも実際には、単にコイン発明からスパルタやその周辺地域には棒状の貨幣があって、スパルタはそれをコインに置き換えなかった、という話なんですよね。で、参考文献に挙げた本にも「マッチョイズムじゃなくて経済的から使ってたんじゃない?」と書いてある(最後引用したセンテンス)。これ絶妙史実勘違いさせるトークになってません? って思っちゃうんですが、どうでしょう

(もちろん、副次的効果として賄賂の抑止や筋力増強はあったかもしれませんが、それが主目的であるかのように論じられると……都会民は電車通勤ゆえに自家用車通勤地方民より体力があったりしますが、都民の体力を増強させるために都はメトロを整備したんだ、と言い出したら違う話になるでしょう?)

リュクールゴス実在人物であるかのような筆致はご指摘のように不用意でした。

2022-10-20

援軍なしか

医師治療したくなければ治癒の見込みがないという

弁護士が関わりたくなければ勝訴の見込みがないという

しか怪我は治りつつある

被害車両が路肩に衝突したことはない、とひき逃げ犯と保険会社審査機関ウソを申告した

ローマは一日にしてならず

立証活動しか

工事を急がせ失敗させようとする法曹兵らの圧力との戦いだ

本日はこんなところです

2022-10-16

20221016[アタック25]Next 2022年10月16日 世代大会 2022-10-16結果

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

10月からの本放送は1時「25」分からで「65」分枠に

BS1からボタン2回とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01[ある食べ物名前]まつたけ

・02 鐘が鳴るなり)法隆寺

・03 スプラトゥーン

・04 [四字熟語]一石二鳥

・05 ボクシング

・06 [すべて]千と千尋の神隠し 崖の上のポニョ ハウルの動く城 風立ちぬ

・07 [3択]胃

・08 溶けた)絵の具(みたいな

・09 [近似値]547

10 サイハイ(ブーツ

11 ススキ

12 セントバーナード

・13 『放浪記

・14 『ブルーピリオド

・15 仮((運転)免許

・16 [2択]南 島

17 ジョバン

・18 [ふるさと]レトルト)カレー

・19 大林素子 おおばやしもとこ

20 ローマ

・21 劇団ひとり

・22 [3択]折り紙

23 辛亥(革命 しんがい

24 [AC]百戦(あやうから

・25 [AC2]葛藤 かっとう

・26 ツイッギー

・27 サンエックス

28 白河(の関 しらかわ

・29 ミー(ゴレン

・30 オードリータン

・31e 3(つ

・xx [ある国の名前]モンゴル

2022-10-14

謎な食べ物 福神漬けラッキョウ

福神漬けラッキョウって

普通に過ごしていてご飯副菜に出ることがない。

カレーの時にしか食べないこの食物について

調べてみるとその材料ほとんどがインド原産であったり

完成したものは輸入元が東インド会社であるのだ。

日本で作られている福神漬け特許ガンジーが持っているため

ライセンス生産を支払う必要があって

ラッキョウライセンス利用契約本来日本国政府が福神漬けと共に行えばよかったところを

陸上自衛隊海上自衛隊面子の張り合いにより

別々に契約無駄契約料が発生して年間にすると莫大な利用料をインドに支払っているという

事実などそもそも全くないのだが、

カレーを食べる時だけしか食べないこのオカズとも漬物とも言えない謎の食物は

5億8000年前のカンブリア紀に突発的に発生し、突発的に絶滅した食物群の貴重な生き残りであり

モヘンジョダロ発見されたこれらの付け合わせの残骸をローマ大学に持ち込み分析した結果

そのお皿に2日目のお鍋で煮込まれカレー発見されたという結果が報告されているのだ。

そのぐらい、福神漬けラッキョウって不思議食べ物なんだよ。

ホントホント

2022-10-01

素麺の産地と風土記記述の話

素麺といえば、個人的には島原半島のものということになっている。これは単に、同地に私の知己の人がいるので、贈答品として頂戴して食べる機会が多いからに過ぎず、別に他の産地のもの品質的に劣ると思っている訳では無い。なお、頂くだけでなく、ちゃんと自腹で買うこともある。

最近では、女優満島ひかり南島原市公式PR動画に出演したことが、彼女の怪演技の甲斐もあって、ネットでも話題になっていた。ひょっとしたら、それを観たことがきっかけで島原手延べそうめんのことを知ったという人も、世の中には存在するかもしれない。

島原半島素麺作り産業については、以前に聞いた話だが、島原の乱によって人口が減少した際、江戸幕府肥前の国の外部から移住者を募り、その中に瀬戸内小豆島出身の人々がいたこから、彼らが島原半島素麺作りの技術を伝えたとのことであった。しかし、それはあくまでも民間伝承であって、確固とした史料が有る訳では無いとも聞いた。

史料の有無や民間伝承真実性は、専門家ではないか判断する由もないが、この小豆島由来説を何とは無しに信じている。それは、小豆島由来説が語られる際に、同時に「島原半島は、瀬戸内海と気候が似ているために、素麺作りに適している」と語られることにも一因があると思う。

中央部にある雲仙普賢岳高岩山(たかいわさん)、島原市のすぐそばに在る眉山(まゆやま)、これらを除けば開けた土地半島の大部分を占めるように見える。そのために、気候がカラリとしているように感じられる。これで「島原半島瀬戸内海に気候が似ている」と言われれば、一定説得力を感じて小豆島由来説も信じられる気持ちになる。特に海岸線の近くではそうである

この島原半島南部を訪れた時、島原鉄道を利用したのは、ずいぶん前のことになる。これは、諫早市半島北部東部南部を結ぶ、左右反転のC字形半島の外周沿いを走るローカル鉄道路線である。あった、と言うべきか。現在は、半島東部島原市までしか列車が走っておらず、島原市よりも南の地域は部分廃線となっている模様である

現在市町村合併によって南島原市の一部となっているが、旧名西有家町という町が半島南部には存在する。この町で島原鉄道の駅に私が降り立ったのは、別に観光などが目的という訳ではなく、不覚にも乗り物酔いになり、気分が悪くなって一休みしたかたかである

そうめんの町」という文字建物の壁に掲げられた無人駅舎のベンチに少し横になり、冷たいジュースを飲んで落ち着いたは良かったのだが、あいにく、次に乗り直す列車を一時間は待たねばならなかった。手持無沙汰の時間をつぶすため、駅の直ぐ傍にある神社へと行ってみることにした。境内へと登る階段は、文字通り駅舎の目と鼻の先にあり、その長さは数十メートル程と短かったが、勾配はかなり急であった。島原半島南側地帯には、海の近くで小高丘陵や崖になっているような場所が、幾つもある。この神社があるのも、そうした丘陵の一つであった。

別に有名な神社とかではなく、少し田舎ならば何処にでもあるような、何の変哲もないさな神社である境内へ登る階段を跨ぐ鳥居は、その神額に「天満宮」の文字があったから、主たる祭神菅原道真公で間違い無い。これは、グーグルストリートビューでも確認可能である確認した。技術革新、すごい。

よほど小さなところでない限り、神社は大抵、主祭神だけでなく配祀神も同居している。その天満宮で私は、時間だけはたっぷりあったので、主祭神配祀神のいずれの社殿にも平等に五円玉のお賽銭を捧げて「この後、乗り物酔いが酷くなりませんように」とゴニョゴニョ唱えながら参拝した。それを済ませると暇つぶしに、私以外には人の姿も無い境内を、気ままにぶらぶらしながら鳥居などを観察したりして過ごした。どの鳥居も、冠木・貫・木鼻に沢山の小石が降り積もっていた。素朴な民間習俗を今でも伝える地元民が、願い事の成就のために投げ上げたものであろう。

配祀神は、鳥居の神額に「大神」という文字があったと記憶している。「大神」は「オオミワ」と読むのであろうと思った。残念ながら、天下のグーグルストリートビューでも、この天満宮境内の中までは確認が出来ない。「大神」の社殿は、主祭神との差を感じさせない程度の大きさはあったように思う。

神社でオオミワといえば、その大元へ遡れば無論、奈良県三輪山であるが、その地は素麺との縁が有る。素麺祖先は、奈良時代に唐から伝来した食物・索餅(さくべい、見た目はチュロスに似ている)とする説が一般的である。これを模倣して作ることが、最初我が国で始められた場所が、他ならぬ三輪山の麓周辺なのだと言われている。「すべての道はローマに通ず」ならぬ、「全ての素麺三輪山へ通ず」といったところか。

それらのことを知った影響で「移住者から素麺作りの技術島原半島に伝えられたのに伴い、我が国内における素麺発祥の地・三輪山から神も一緒に来たりて、分祀されたものであろう」と考え、小豆島由来説を信じる気持ちも補強されたわけである

しかし、素麺伝来の機会や小豆島経由以外の理由でも、この地に「大神神社」が分祀される何らかの歴史的な要因があったような気がしてならなかった。結論から先に言えば、これは単なる私の勘違いだったのだが、兎も角そのような気がして記憶を手繰り寄せたところ、風土記の一つである肥前風土記』にある、次のような記述を思い出した。

景行天皇が、現在熊本県玉名の辺りに行幸した時、そこから有明海を挟んで島原半島の方を見て『あれは島か、それとも陸続きの地か』と疑問に思い、使いを送って調べさせた。すると、土着の神が、天皇の使いを出迎えて歓迎し、天皇に服属する意志を示したという。

この時に派遣された使いの名前を「大神宿禰」と、私は誤って記憶していた。この覚え間違いが、大神神社島原半島分祀される歴史的な要因があったような気になった原因であった。しか最近自分記憶を頼りに人魚の話やら南斗北斗の話やらを書き散らしたところ、ブコメ等で鋭い突っ込みを受けて大恥をかいたため、今回は手持ちの岩波書店日本古典文学大系版『風土記』を参照した。その結果、私の記憶違いに過ぎなかったことが判明したというわけである確認大事

残念ながら、天皇の使いの名前は「神大野宿禰」とあり、読み仮名も「かむおほののすくね」としてある。しかも「他に見えず系譜不明。ミワ(神)氏の支族ではあるまい」とまで注釈が付けられている。これでは、妄想を膨らませる余地も無い。

もしも「大神宿禰」という記述だったならば、その時は大変であった。きっと私は「もしかしたら、三輪山祭祀を司るミワの支族に連なる者が、古代島原半島を訪れていたのかもしれない。この縁によって、大神神社島原半島分祀されたのではないか」とか何とか、思う存分に妄想力を発揮していたことであろう。間違いを防止できたか安心しても良いはずなのだが、その気持ちよりもむしろ残念な気持ちが強い。それほど、自由妄想とは魅力的なものということである

さて、私は雲仙岳には登っていないが、その直ぐ近くの高岩山には、地元の人の案内で登ったことがある(この時は、まだ火砕流などの火山活動が沈静化したと認められておらず、雲仙岳登山が再開されていなかった)。登山ルートの途中にある樹林の中や山肌には、家屋ほどの大きさがある巨大な岩石がゴロゴロと有った。これほどの大きさの岩石群であれば、それらを見た昔の人々が、信仰の念を山や岩石に対して抱いても不思議は無いと実感した。その時の私は、或る種の神秘体験に近い精神状態にあったのかもしれない。高岩山に登って同じ光景を見た人にならば、私の実感にも同意してもらえるものと信じる。

件の神大野宿禰を出迎えたという土着の神は「高来津座(タカクツクラ)」と名乗ったと『肥前風土記』には記されている。日本古典文学大系注釈には「高来の峰(雲仙岳)を居所(座)とする神の意であろう」とある。この「クラ」というのは「イワクラ」などと同じく「カミの宿る座・場所」という意味であることに疑いは無いが、何が「クラ」であるかまでは断言されていない。しかし、高岩山への登山で巨大な岩石を見た経験から、おそらくは岩石もしくは山頂・山体そのものが、高来津座と名乗るカミの依代御神体だったのではないかと私は思う。もしそうであれば、三輪山神体山信仰類似しているので、面白いである。「タカク」に「高来」という字を当てたのは、単に高さを表現しただけでなく、天空の高みから山頂に降り来る垂直移動型のカミであったことの顕れであろうか。

このカミの名は、高来郡(たかきのこほり、たかくのこほり)の由来となり、市町村合併以前は、島原半島地名南高来郡(みなみたかきぐん)」として名残を留めていた。しかし、島原半島島原市雲仙市南島原市へと統合され、旧来の地名が無くなったことで、熱心な郷土史研究家などを除けば、いずれ遠からず名を忘れられるのかもしれない。

しかし、名は失われても、島原半島中央部の山に登山する人が絶えない限りは、高岩山に登った時の私が俄に古き神の気配を覚えたように、雲仙岳一帯の山岳や巨岩に対する素朴な信仰のものは、これからも人々の精神地下水脈として生き残っていくのではないだろうか。

【2022/10/10】続きを書いた。anond:20221010212603

2022-09-28

北斗七星人間寿命運命の話

北斗の拳』が大ヒットした当時、学校見学旅行プラネタリウムを訪れたことがある。その際に、解説役の女性ナレーターが、おおぐま座北斗七星について語る場面で「誰ですか?『死兆星が見える』なんて言っている人は」とジョークを挿入してきたことを、場内が爆笑の渦に包まれたことと共に、今でも記憶している。

北斗の拳』がヒットして以降「北斗七星は死を司る星辰(星座)」という認知も、神話伝承にそれほど明るくない人々にまで普及した。特にプラネタリウムでもジョークに用いられた「死兆星」は、たとえ天文学的正式名称(ミザールとアルコル)を知らなくても、当時の少年ジャンプ読者で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。

この北斗七星柄杓の柄の端から2番目の星が、二つの恒星から成ることを見分けられるか否か、それを尋ねることで兵士視力検査するという手法が、古代エジプトでは採用されていたという。しかし、古代エジプト人が寿命の長短を判定するのにこの二重の星を利用していたか否かは、寡聞にして知らない。西欧星座伝承の大部分は、古代エジプト以外で言えば、古代バビロニア古代ギリシア・ローマ等に起源を持つと思ってさほど間違い無いと思うのだが、これらの方面でも寿命の長短を見分けるのに使われたという形跡は、今のところ見かけた記憶が無い。単に私が不勉強で知らないだけかもしれないので、有識者意見を知りたいものである

死兆星元ネタとして、とりあえず直ぐに思いつくのは、この二重の星が日本では民俗名称として「ジュミョウボシ」と呼ばれていたことであろう。この名称個人的に初めて知ったのは、星空に関する多数の優れた本を著し、我が国における少年少女天文ファンの数を増やすことに貢献した、作家野尻抱影(SF作家野尻抱介ペンネーム元ネタである)の本で読んだ時であった。野尻抱影の本には、次のようなことが記されている。

この名の由来は、二重の星を見分けられなくなった者は、それからから一年かそこらで、御迎えが来ることから付けられたものらしい。主に、漁業従事生活者たちの間で用いられていた名称のようである海上での航海が主要な部分を占める漁業において、視力の良さは要であった。そのため、視力の衰えは即ち食い扶持を稼げなくなることを意味し、そこから、星が見えなくなることで寿命が来たのを悟るという話になったのであろう、と。

まり、ジュミョウボシは、死兆星とは正反対に、見えなくなることが死の予兆というわけである。おそらく『北斗の拳』の作者たちは、星が見えなくなるよりも、見えるように変化するという現象にした方が、視覚的に表現することが容易である(見えない星では絵に描けない)という漫画表現上の要請から、これを改変したものであろう。

これ以外に、北斗七星人間の生死に関わる星辰として語られる起源を遡れば、中国東晋時代の人・干宝が著したとされる志怪小説『捜神記』に収められた物語に行き着くことになる。

原典漢文を読んだわけではないし、若い頃に読んだ日本語訳(私は平凡社東洋文庫で読んだ)の記憶を掘り起こすだけだが、おおよそ次のような物語である

「或る農夫が、息子と共に畑仕事をしていたところ、その傍らを方士が通りかかった。方士が、農夫の息子の相を見て『この子は、このままでは十六の歳で死んでしまう』と彼らに伝えた。驚いた農夫が、方士に『それを避けるためにはどうすればいいのか』と尋ねると、或る策を授けてくれた。方士言葉に従って、農夫は、用意できるだけの酒と干し肉を携えると、南の畑の桑の木が植えられた場所へと赴いた。

方士が教えてくれたとおり、南の畑の桑の木陰では、二人の老人が囲碁に打ち興じていた。囲碁に夢中になっている老人たちは、農夫が傍に来たのにも気づかない様子であった。方士に言われたとおり、農夫は無言のままで、酒と干し肉を老人たちの手元にそっと差し出した。碁を打ちながら老人たちは、差し出されるままに干し肉を食べ、酒を飲み続け、農夫はお代わりを差し出し続けた。さんざん飲み食いし終えた後で、ようやく二人の老人は、農夫の存在に気がついた。

二人のうち、険しい顔つきの老人が『何者だ貴様は?いつから傍にいた?人間が儂らの傍で何をしておる?』と責め立てたが、方士に言われたとおり、農夫は平身低頭して無言を貫いていた。すると、柔和な顔つきの老人が『この者が振る舞ってくれた酒と干し肉を、儂らは楽しんだのだ。そう怒るな』と、怒る一人を宥めた。そして『この者に、酒と干し肉の返礼をせねばなるまい』と柔和な顔つきの老人が言うと、険しい顔つきの老人と共に何やら帳面を捲り、農夫の息子の寿命が『十六』と記されている箇所を彼らは見つけ出した。険しい顔つきの老人が、渋々それを『六十』と書き換えると『これでよかろう。もう去れ』と農夫に言い渡した。農夫は無言のまま、二人の老人に頭を下げて感謝の意を示すと、その場を去って家に帰った。

家で待っていた方士に農夫が一部始終を伝えると、方士は『これでお前さんの息子は、もう心配が無い』と言った。農夫が『あの人たちは何者なのですか?』と尋ねると、方士は次のように語った。

『あの者たちは、北斗と南斗である。柔和な顔つきの方が南斗六星、険しい顔つきの方が北斗七星である。人は南斗からまれ、その生涯は星々の間を辿り、北斗へと還る。それで、人が寿命を延ばすためには、北斗祈りを捧げねばならないのである』と」

現代人の目から見た感想を率直に言えば「これ、お人好しの農夫が、単に詐欺に遭っただけじゃねえか?」と思うところであるが、それは置いておく。

天空天体太陽や月や星や星座の動向が、地上世界で生きている人間に影響を及ぼす、或いは逆に、人間運命その他の動向が、星など天空現象に反映されるという考え方は、洋の東西を問わず広く見られる文化現象である。そういう意味では『捜神記』の物語も、ごくありふれたものだと多くの人は思うかもしれない。

しかし、私が『捜神記』の物語面白いと思うのは、最終的に北斗七星南斗六星のように夜空で目立つ星座重要な役目を果たすにせよ、社会的に見れば無名の人にすぎない農夫の息子のような人間にも、個別対応するような名も無き天空の星が存在しているという考え方を示している点である

古代ギリシアには、現代民主主義政治の源流があったけれども、無名市井の人であっても天空の星との結び付きを得ることが出来る、という古代中国のような発想には至らなかったようである。してみると、天空の星との結び付きに関しては、古代ギリシア・ローマは、神話登場人物レベルの選ばれた者にのみ許されるという選民思想だったわけである。そう考えてもらえれば『捜神記』の物語ユニークさを分かってもらえることと思う。

北斗七星おおぐま座のように、明るくて目立つ恒星とそれらが形作る星辰(星座)は、自然と人目を惹くものから古今東西人類の記録に残されている。金星火星木星などの惑星もそうである太陽や月は言うまでもない。しかし、観測技術が発達するまでは、星辰(星座)の構成員になるほどの明るさを持たない目立たない星々のことは、一々観測して天球上のどの位置存在するのか、動いているのかいないのかと確かめることは非常に困難であったことは想像に難くない。しかし、事実として夜空には、命名位置確認も追いつかないほどの無名且つ無数の星々が存在することを、昔の人は知っていたのである科学的な知識を持つ我々現代人よりも、むしろ昔の人々の方が、実感としてそれを知っていたはずである現代文明社会のように至る所に夜間照明がある条件下とは異なり、太陽が沈んで「本物の夜の闇」に包まれて空を見上げた昔の人々の肉眼には、文字通り無数の星々が見えたのだから現代人も、もし口径が大きい双眼鏡の力を借りて夜空を眺める機会を得たならば、その時は、名前も知らない星々の多さを実感して驚くことだろう。私は今でも時々、双眼鏡で星空を見て感嘆する。

こういった、存在することは分かっていても昔の技術では天球上の位置を確定することが困難であった無数の星々については、占術師たちが「実は、天球上の無数の星々は、消えたり現れたり移動したりしているのだ」と主張したとしても、民衆確認しようが無く、比較簡単に信じてもらえたことだろう。恒星の間を動き回る「惑星」、何処からともなく現れる「彗星」、明るさの変化する「新星」など、変化を示す天体現象現実に見られることも、占術師たちの主張を補強してくれたに違いない。

ただし、庶民自分個人運命専用の星を天空の何処かに持つことができたとしても、自分意志でその星を動かせる訳では無い。天空の星の動きでも人生でも、同じことである王侯であろうと庶民であろうと、現代人であろうと昔の人であろうと、人生を己の自由にするというのが困難なことに関しては、立場は同じである自分人生がままならず、自由意志で動いているのではなく、自分以外の超越的な何者かによって動かされているのではないかと感じるという感覚は、古今東西の汎ゆる宗教的思索の出発点となる。

この何者かに動かされているという感覚を『捜神記』の筆者は、南斗・北斗の両老人が打つ囲碁の対局という形で表現している。つまり、ここでの囲碁の盤面に配置されている碁石とは、夜空の無数の星々の象徴ではあるまいか将棋チェスの駒とは異なり、碁石は没個性的である分だけ、名も無い星に擬えるのには都合が良い。囲碁という遊戯起源がどのようなものであるか、それを現代人の我々が確実に知ることは不可能であろうが、もしかしたら、星々の配置を操作することによって人間運命を変えようと働き掛けるような、呪術儀礼としての遊戯にその起源の一端を持っているのかもしれない。

もっとも、これはあくまでも個人勝手空想に過ぎないので、南斗六星から北斗七星へと星空を動くというのであれば、この場合には囲碁よりもむしろ双六の方が象徴的な遊戯には相応しいのではないか、といった具合に幾らでも異論を唱えることは可能と思う。

それに、南斗と北斗囲碁の対局結果は語られていないので、囲碁の対局によって星々が動かされ、運命が左右されるという仮説は、正直に言えば我ながら牽強付会であることは否めない。まあしかし、たとえ学問専門家ではなく、実生活に役立つわけではなくても、こういった空想をすることは非常に楽しいので、なかなか止められないのである

農夫が酒と干し肉提供した行為が、祈願の対象である神への御供え行為であることは無論言うまでもないが、この他にも、無言を貫くという後代の神事や魔除けにおける物忌と通底する行為が見られる点や、南斗・北斗の翁神に邂逅する場所が霊樹の一つである桑の木の傍である点など、興味を惹くところがまだまだある。いずれまた暇を見つけて『捜神記』を再読してみようかな。

2022-09-27

ウハ!体験

イタリア総選挙、ウハ!が過半数の勢い


9/26(月) 6:14配信

共同通信

 【ローマ共同】イタリア総選挙は25日、投票を締め切り即日開票された。出口調査によると、中道ウハ!連合上下院で過半数議席を獲得する勢い。

2022-09-20

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/naoki_ma/status/1571494383173931008

この国の未来を背負ってたつ、子どもたちにこのような仕打ちをする国に

これって、どっちの解決を望んでるんだろうか

国がダメ親と判断したら子供隔離できる強権、だろうか

それとも

もっと施設に金を落とせ、だろうか


仮に、ネグレクトなら、子供たちにこのような仕打ちをしたのは、国じゃなく親なんだが

ネグレクトのような仕打ちを許さない国ということな

もう法律もあって違法行為としている

ネグレクト児童虐待防止法違反する

罰則を重くして、軽微な状態でもバシバシ親を捕まえて、子供施設に放り込めばいいか


親の貧困ダメなのだという話になるならば、国内のあらゆる人が貧困を許されないとなる

育てられないなら子供を作るなとは言えないし

人には職業選択の自由があるのだから

どんなに無能スポーツ選手でも、全く才の無い芸人でも

いっぱしの豊かな暮らしをさせる事になる

真面目に働く意味って何だろう?とは思うが

どんな人間でも子供を十二分に食わせられるようにするってのはそういう事だ

生活保護じゃだめなのか?とか思うが、なんで言及されないんだろ)


で、そうじゃない、そうじゃないんだ

なんでこういう児童福祉慈善ボランティアなんだ

みたいな話になるとしたならば

労働改善の話だよね

子供に食を与える施設公費で潤沢に賄われるべきだと

ただ、仮にそっちの話だとしたならば

これを

この国の未来を背負ってたつ、子どもたちにこのような仕打ちをする国に

という切り口で語るのおかしくね?

介護士労働改善と一緒で、予算を付けて補助金制度を設けよう、みたいな話だよね

それがない国だから子供ネグレクト放置しているのだ、先進国とか笑わせる、みたいなのは、さすがに変


ローマだの自滅だの饒舌に語るなら

共産党でもバックにつけて生活保護斡旋してやれよ

仮に当人生活保護忌避するんだとしたらば

それはそんな社会認識おかしいんで、子どもたちにこのような仕打ちをする国の前に、市民をなじるべきよね

途中まで、おぉ寄付でもしようかねと読んでたのにさ

なんか、落し所がねじれてね?

ブコメおかしくね?

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