はてなキーワード: 基本情報技術者試験とは
白饅頭氏のnoteを読んで感慨深くなり勢いでツイートしてしまったので深掘り
https://note.com/terrakei07/n/n0024690e307c
助けられなかった友達……。10年近く音信不通の後に帰って来たことがあった。「助けてくれようとしたのはわかったけど、惨めな姿をお前らに見せたくなかった。でも、あの励ましがあったからみんなから逃げた後に気持ちを入れ替えることが出来た」と
ヌルいMMOのほうが女性PLが多いという話しだったし、有名な「FFは遊びじゃない」発言の出る前だったと思うけどUOやFFは殺伐としすぎていてついていけないと思ったので。ぬるオンライン(仮)を始めた。
初めてしばらくはギルドを渡り歩いたりでプラプラして、後にPSOから落ち延びてきた面子を中心としたギルドに入った。そこに、ぐだ男とするか、がいた。ぐだ男は高校生の頃からPSOをやっていたらしくみんなにかわいがられていた。
ウェイなギルドで最盛期には50人(女性約30%)くらいになったのかな。やたらオフ会が多く、飲み会、カラオケはしょっちゅうで、ギルド内でバンド始めた奴らのヘタクソなライブを見に行ったりもしたし、フットサルとかもした。俺も社会人になってからこういう集まりは貴重だと思って良く参加していた。アルファードを買ったアルファオス、アルファ氏に便乗して平日でも関西の徹カラに出かけたりした。もちろん、全く出てこない人もいた。
今で言えば縦の旅になった。パーティーリーダー勢は、アルファ氏はもちろん、本職税理士のギルマス、俺もそうだけど金に余裕があって彼女がいる独身男性、もしくはガチゲーマー男性。女性陣は絶対にリーダーシップは取らないけど半分は中二病、イラスト描けたり声優志望だったり。販売やコールセンター勤務、あとはシンママも。ポスドク東大女子とかもいた。
やがて、ちゃんと定職がある男性と、働いていたり無職だったりの女性ギルメンがくっついたりするようになった。俺らのモテ指導の成果だと楽しかった。
で、問題になったのがパッとしない男性陣である。バイト生活だったり、底辺大学を退学になりそうだったり、そもそも高卒無職だったり。資格試験を勧めたり、就職先を斡旋したりもした。ここで壁にぶつかったのである。パッとしない勢は能力が低いのである。
ぐだ男もその一人で、そして強権的な父が進路を勝手に決める系の毒親家庭環境だった。バイトは家門の恥と言われて三流大は出たものの無職だった。そこまで息子の進路に介入するなら、仕事斡旋しろよとか、もう解放してやれとかギルマスとアルファが説得に出向いたこともある。
さて、正攻法で就職させようと言うことで資格試験の勉強をさせた。手始めに基本情報技術者試験資格、俺らはまがりなりにも全員パソコン大先生なわけで、教科書3冊買って3日で1冊、計9日集中して勉強すれば大丈夫だろうと踏んだ。
一日12時間 × 9日 = 108時間と言うことだ。長めのRPG一本分だ。
しかし、ぐだ男はどんなにつついても一日30分も勉強できなかった。それじゃ、216日かかる。忘れるしサボる日も入れると一年かけても基本情報取れないだろう。ゲームなら一日12時間できるのにだ。
が、よく考えたらパーティーリーダー勢は同じゲームを遊ぶにしても、ギルドの運営に奔走し、攻略情報を集めたりしているのに、ぐだ男は指事に従ってついてくるだけの奴だったのだ。
どうにか俺らにできたのはぐだ男の親を説得して、ぐだ男に運転免許を取らせたことくらいだった。
そうこうしているうちに年月は経ち、ギルマスは当時ゲーム外で付き合っていた彼女と結婚してギルドにはあまり顔を出さなくなった。
と同時に空前の結婚ブームが巻き起こり、5~6カップルが爆誕して披露宴企画が忙しくてぐだ男にはあまり構ってられなくなった。俺もギルドメンバーと結婚した。前の彼女と別れた顛末は俺を十分女嫌いにさせるものであったがそれは別の話しだ。
それはさておき、ぐだ男は誰の結婚式にも来なかった。
その頃には、ぬるオンラインも完全にマンネリ化していてゲームはしないで、SSやイラストを交換しボイスドラマを作ったりと課外活動中心のギルドになった。マビノギやアラドに乗り換えた奴もいれば、スパロボしか遊ばなくなった奴もいる。
ぐだ男は俺たちの前から消えていた。
ネトゲの人間関係は薄いと言うけどそれからもしばらくは関係は続いた。mixiにログインしなくなってからはだいぶ消えたけど。ツイッターに乗り換えたときについてきた面子とはまだつながっているし、産まれた子供同士を遊ばせたりもしている。
今から5年ほど前だったと思う。当時はそれなりにモテていたが今では低収入過ぎて婚期を逃した奴を交えてオフ会をしていたらぐだ男の話になった。
「あ、俺まだぐだ男とlineつながっているよ。あいつはもうお前らには会いたくないって、でも一応毎日働いているし家も出たみたい。『助けてくれようとしたのはわかったけど、惨めな姿をお前らに見せたくなかった。でも、あの励ましがあったからみんなから逃げた後に気持ちを入れ替えることが出来た』だってさ」
少し酒がうまく感じた。
おまけ
学生時代まで巻き戻すと、
助けようとしてみんなで世話を焼いたけど後足で砂をかけて愛想を尽かされた奴とか
いっぱいいるけど彼らはそれなりに居場所を見つけてそれなりにやっているようだ。
俺が代わりに卒論を書いてやったのに教授発表会の前に逃亡した先輩なんか今では医者だ。
おまけ2
ギルドでダンナや彼氏について愚痴を通り越して悪し様に言っている女はヤバい。姫である自分を快適にさせてくれないダンナや彼氏をなぜか見下す存在ばかりだった。
令和二年度春季試験に向けて勉強していたら中止になる面倒になったのでしばらく存在を忘れていた。
そして先日メールボックスを整理していたら本年度の春季の申し込み期限と実施が6月中だと書かれていたので、いい感じに知識も温まってるんじゃないかなという根拠のない自信を持って受験することにした。
あと非IT業でプログラミングスキルはPaizaランクでCぐらいです。メインはPHP。
キタミ式を一周してよくわからないところだけ暗記アプリで復習した。
試験三日前ぐらいから過去問道場で計算以外を計算より割合多いだろうからって理由で復習した。
結果:70ぐらい。
全く何も勉強していなかったので6月の頭に受験申し込みした後、選択問題のおすすめをググってそれで受験することにした。
前半は午前が長文問題になっただけと見たので何もしていない。後半のアルゴリズムとコンパイラ言語はちゃんと読めば簡単!とそのブログに書いてあった上に、コンパイラ言語はマニュアルが試験についているから命令とかを覚えていかなくも大丈夫!と書いてあったので結局何もしていない。
結果:80ぐらい。何もしてないけどどうにかなった。
過去問道場で過去問を時間配分を気にしながら勉強すると雰囲気含めて試験対策になってよかったんじゃないかと思いました。
以上。
0.本稿の趣旨
正式な合格発表はまだだけど(25日予定)、スコアレポートは午前87.5、午後85.0ということなので、ひとつには自分の備忘としてまとめておきたくて、どうせまとめるなら誰かの参考になればと増田に。
職場で、IT知識の底上げのため、若手にITパスポートを受験させていると聞き、どんな程度か受けてみたらあまりに簡単だったので(対策は過去問を一週間やっただけ(昨年9月12日申込み、20日受験)。多分、やらなくても合格できた)、もう少し歯ごたえのあるものを受けようと決意。本来であれば今年の4月まで受けられなかったはずが、新型コロナウィルス感染症の影響で日程が変わったため、9月試験が延期になり再度申込みも受け付けるということで、昨年12月23日申込み、本年1月31日午後試験、2月7日午前受験。
2.午前試験&午後試験(アルゴリズム・プログラミング以外)対策
にしむら工房の午前過去問アプリを1月半ばから。ITパスポートで深く考えずに使ったらしっくりきたので、FEでも引き続き同じシリーズのアプリを使用。ランダムで全範囲から20問、2回連続で正解したものは出題しない設定で、スキマ時間にちまちま解いてました(ちなみに、スマホよりタブレットの方が全然捗ります。あまりスクロールしなくても問題文の全体を見渡せるのが便利)。いわゆる文系問題といわれるストラテジとマネジメントは、自分の業務である程度は通じているので、午前過去問で午後にも十分と判断。テクノロジは、午前でよくわからない用語をググって調べることで、とりあえずの対策に。アルゴリズムとプログラミング対策がそれなりに進んでから最後の追い込みを、と思っていたらずいぶんと手間取ってしまい、橋本祐史『情報処理教科書 出るとこだけ! 基本情報技術者[午後]第2版』を1月28日になってやっと購入。急いで一回通して読み、テクノロジ分野だけ再読。
参考書を買って独学。ネットの口コミをあれこれ調べ、カバーしている範囲が一番広そうだった矢沢久雄『情報処理教科書 基本情報技術者試験のアルゴリズム問題がちゃんと解ける本 第2版』を1月7日に購入。しかし、通読するまでもなく事務屋にはレベルが高すぎるとわかり、10日にAmazonで一番売れている福嶋宏訓『うかる! 基本情報技術者[午後・アルゴリズム編]2021年版』を買い直して読み始めたけど、これでも説明が端折りすぎに思われ、16日に大滝みや子『基本情報技術者 大滝みや子先生のかんたんアルゴリズム解法〜流れ図と擬似言語〜第4版』を追加購入。自分にとってちょうどいいレベルだったので、これと心中する覚悟で擬似言語パートを繰り返し読みました。
昨年9月23日にRaspberry Piを買い、併せて入手した石井モルナ『みんなのRaspberry Pi入門 第4版』のPythonパートでいわゆる「写経」に励む。次いで、子供が使うようになったらあげようと大槻有一郎『12歳からはじめるゼロからのPythonゲームプログラミング教室』の「写経」に移ったものの、それ用に開いたままにするのが物理的に困難でエタる。替わりに、田中賢一郎『ゲームを作りながら楽しく学べるPythonプログラミング』がちょうどAmazon Primeで読み放題対象になっていたのでこちらを「写経」し始めるも、画像素材のダウンロードがどこでできるのかわからずこれもエタる。次いで同じく読み放題に加わったリブロワークス『スラスラ読めるPythonふりがなプログラミング』も通読したが、途中からコードがどんどん長く難しくなり、理解には程遠い状態だった。最後の追込みに、1月24日に瀬戸美月『徹底攻略 基本情報技術者の午後対策 Python編』を買って通読。
5.ふりかえり
書類仕事に慣れていて文章を速く読めることと(試験本番で速く読むためではなく、知識の詰め込みを効率よくやるため)、ストラテジ・マネジメント関連の話題をそれなりに押さえていること、この両者を満たせば、事務屋でも基本情報技術者試験合格は十分狙えます。テクノロジ関連にもある程度はなじんでいる方が、もちろん望ましいでしょう。
アルゴリズムとプログラミング以外は、午前の過去問で十分だったというのが今の判断。この場合、過去問は、用語や答えを暗記するのではなく、仕組みや考え方をちゃんと調べて理解することが大切です。ただし、ある程度解ける状態でないと、調べてばかりで進まないので、平均すれば半分は解けるようでないと、この方法は使いづらいんじゃないでしょうか。なお、橋本本で出る可能性が最も高いとされていたSQLは午後では出ませんでしたが、出る可能性が高い状態が続くでしょうから、SQLZOOで実際に動かしてみることをおすすめします。受験後にやり始めましたが、読むだけよりよほどしっかり頭に入ってきます。あと、梅津信幸『あなたはコンピュータを理解していますか?』は、直接の試験対策にはなりませんが、基礎の基礎をこれ以上分かりやすく書いているものはないでしょう。受験勉強を始める前に一読をオススメします。
アルゴリズムは、大滝本に尽きます。○○ソートの種類をたくさん覚えなくても、ちゃんとトレースできれば、出題されたアルゴリズムのことを知らなくても、問題文で与えられた情報だけで解けます(一応、アルゴリズムは満点でした)。大滝本を読んでトレースせよ、大事なことなので2回言いました。
プログラミングは、読んだ中では大槻本が良かったですが(電子書籍だったらね)、初回を踏まえた対策本がこれから複数出てくるでしょうから、本稿はあまり当てになりません。アルゴリズムでもそうですが、知っているところを読んで買うかどうかを決めるのはダメで、知らないところを読んでわかりやすそうと思えるかどうかで選びましょう。結局、参考書・教科書が必要なのはわからないところをわかるようになるためで、わからないところの記述が使えないなら、最大の目的には向いていないということなのですから。
俺は昔、はてなブログでブログを書いて、昔でいう「プロブロガー」をやっていた。
1級身体障害者の炎上ブロガーって言えば、古参のはてなーなら知っている人もいるかもしれない。
元フジテレビアナウンサー・フリーアナウンサーの「長谷川豊」にブログ記事をパクられた人、っていえば思い出す人もいるかもしれない。
もう過去の記事は全て消したが、「だいちゃん.com」(https://xn--n8jvce0l6c.com/)っていうブログを運営していた。
そんな俺は今、大手企業の障害者雇用枠でリモートワークで働いている。
知っている人もいるかもしれないが俺はとあるきっかけで、はてなブログを追い出されてWordPressにブログ記事を全部引っ越しさせてブログ運営を続けていた。
だが、はてなブログ時代は主にはてなブックマークからの流入がメインだったから当然、WordPressではブログ運営が上手くいかなかった。
Googleアップデートなんかの煽りも受けて、ブログ運営のみの収入で生活をすることが困難になった。
ブロガー時代の俺に「自分のところでライターをしないか?」というお誘いを受けて、アフィリエイト記事を執筆するライターなんかもやっていた。
ライター収入で一時期は生計を立てていたが、他人のブログの記事を書くということに面白みを見出すことが出来ず、ライターとして生計を立てるということも辞めてしまった。
でも、どうにかして収入を得て生活をしていかなければならないから、俺は頑張って就職活動を始め、今は大手企業の障害者雇用枠でリモートワークで働いている訳だ。
もう、昔のはてなアカウントも消してしまって、はてなには全く顔を出していなかったが、少し懐かしくなって今、増田で記事を書いている。
ちなみに、俺は1級身体障害者ということもあって、今の会社に就職するまでまともな職歴はほぼ無い状態だ。
20歳の時には1級身体障害者になって、そこから半寝たきり状態で20代前半を過ごしたりしてきたし、リーマンショックなんかの煽りも受けて、なかなか就職が決まらず……。
そんな俺でも障害者雇用枠でなんとか大手企業に就職することが出来たから、どうやって就職をしたのかをちょっと書いてみようと思う。
まず、俺のスペックを書いていこうと思う。
・性別:男
・年齢:30代半ば
・職歴:ほぼ無し
・所持資格:「日商簿記2級」「MOS Word」「MOS Excel」等
こんな風に、俺のスペックはボロボロだ。しいていうなら、顔が若干良いくらいだ。
しかも、
・不眠症
・呼吸器障害
・乾燥性皮膚炎
でも、こんな俺でもなんとか就職することが出来た。
一番この増田を読んでいる人達が気になっているのはここじゃないだろうか?
こんなボロボロのスペックでどうやって大手企業の障害者雇用枠、しかもリモートワークという狭き門での就職を成功させることが出来たのか。
その道のりは簡単ではなかったよ。かなりの苦労がここにはあった。
まず、どうにかして障害年金以外の収入をすぐに確保しなければならなかった。
幸い、ブロガーやライターをやっていた時の収入は殆どを貯蓄に回していたから、なんとか貯蓄を切り崩しながら生活をできていたが、自分の経歴の酷さは分かっていたから、すぐに就職先が決まることは無いと判断した。
そんな俺でも就職するまでの間、障害者だったら収入を得る方法があった。
それが、
という方法だ。
障害者職業能力開発校は、通っている間は失業保険の手当を貰える状態にある人は、失業保険の手当の受給期間を通っている間は延長してもらうことが出来る。
でも俺は、失業保険なんていうものに加入はしていなかった。当然だ。俺はブロガーでライター、個人事業主だったからな。
答えは「NO」。
障害者職業能力開発校に通っている間、失業保険の手当を受給出来ていなくても、障害者なら「職業訓練手当」という給付金を貰いながら通うことが出来る。
貰える金額は障害の等級によって違うが、1級身体障害者の場合は月に約12万円ほどは貰うことが出来た。
都心に住んでいる人からしたら、こんな金額じゃ生活出来ない! と感じる人もいるかもしれない。
幸い、俺は九州の田舎に住んでいるから、月に20万円もあれば十分に生活は出来る。
そうやって、収入の基盤をなんとか確保した。
ちなみに、俺が通っていた障害者職業能力開発校は、訓練期間が1年~2年。
通常は1年だが、「プログラム設計科」という、プログラミングを学ぶ訓練だけは2年コースになっている。
そこでプログラミングを学びながらプログラマーを目指していた。
でも、俺は「基本情報技術者試験」の午後問題の「アルゴリズム」と「プログラミング」の問題を殆ど説くことが出来なかったんだ。
「ああ、俺、多分プログラマーには向いてないわ。」
そして、就活をし始めた年齢が30代だったということもあって、30代で未経験プログラマー、しかも1級身体障害者で残業の出来ない状態では無理ゲーだろうなー、と思って、次第に「パソコンに強い事務員」として次第に就活をし始めた。
この部分がいつも就活において引っ掛かって、いつもいつも不採用だった。
それ以外もだいぶ酷い経歴だが、この部分が一番引っ掛かっていたと思う。
あとはやはり、
・不眠症
・呼吸器障害
・乾燥性皮膚炎
を抱えているという部分だ。
でもこの部分は通院しなければならない為、しっかりと企業側に伝えておかなければ就職した際に通院出来ない、という状態になる。
でもある日、学校からの紹介でとある大企業の特例子会社への就職の話が入ってきた。
職歴ほぼ無しの俺にはかなり良い条件だった。
でも、問題点が。
俺の住んでいる地域からかなり遠い企業で、引っ越しをしなければならなかった。
俺が健康体なら別に引っ越しをするくらいはかまわなかった。だが、俺のような1級身体障害者で病院をいくつも通っている人間は、遠い地域へ引っ越しをする場合、病院を全て1から探し直さないといけない。
特に、人工透析を行っている病院の変更はとても手続きが大変だ。
病院との相性もある。
週に3日、1日5時間も延命治療を受けなければならない病院だ。ここの部分で相性が悪ければ恐らくストレスで精神がやられてしまう。
実際、俺が今通っている人工透析の病院を見つけるまで相性の悪い病院に通っていて精神がやられた過去があるから、その部分だけは本当に注意していた。
そういった事情もあって、最初は就職に前向きに検討していたが、だんだんとそういったことを考え始めて、そこの会社への就職は断った。
その頃、今世界中で流行している感染症が流行り始めていた。それも俺が就職を断った理由の一つだ。
俺が引っ越しをしなければならなかった就職先の地域は、かなり感染者が増加していた。
それに、会社がかなりバスなどを乗り継がないといけない場所にあって、人工透析を行う病院まで距離が遠かった。
恐らく、毎日が病院と会社の往復という日々。1日が仕事と通院で終わるような毎日になっていたに違いない。
そうだと俺は察知して、自分を守る為にそこの会社へ就職しなかったというのもある。
こういうことを書くと、甘えだとかなんだと言う奴らが出てくるかもしれないが、俺の身体や精神は君たちが思っている以上に脆く、弱く、儚い。
これを「甘え」だというのであれば、もういい。好きに言ってくれ。
だんだん、俺の住んでいる地域でも感染症の感染者数が増加していっていた。
でも、俺の通っていた学校は建物が古く、建物自体がいわゆる3密状態になっていた。これだけは避けることが出来なかった。
それと、どうしても知的な部分に障害がある人達もいるから、感染症対策をちゃんとしない生徒もいた。
しかも、他の患者さんと一緒に治療を受けているから、下手したら自分が感染すると病院全体が一時閉鎖しなければならない、という状態だ。
家には高齢の親もいる。
だから俺は、絶対に感染する訳にはいかないと思い、少しでも感染リスクのあることをだんだんと辞めていった。
俺はそうやって学校を辞めた。
ここの部分も、Twitterなどで発信していたら、
「お前と同じ障害を抱えているけど、俺は感染リスクのある仕事をしているんだ!! 甘えるな!!」
みたいに言ってきた奴がいた。
お前はお前、俺は俺だぜ?
お前はリスク管理が出来ていない。
俺はリスクのあることは全て排除して、徹底的にリスク管理を行った。ただそれだけの話だ。
お前は勝手に感染リスクのある仕事をしてくれ。俺は感染リスクのあることが徹底的にしない。だって命が惜しいからな。
人の命だってかかっているんだ。
俺は自分が感染するリスクも取りたくないし、他の患者さんや親を感染にまきこみたくなかった。
俺は障害年金は貰っていたけれど、それ以外の収入が学校を辞めたことで本当に無くなってしまった。
障害年金は月に約7万円ほどだ。でも、俺は実家暮らしだが実家もそこまで裕福ではないから障害年金の殆どを家に入れていた。
正直、感染症が収まるまで通勤での勤務もするつもりが無かったから、そこで一旦、就職活動したいを辞めていた。
すると、以前ライターをさせて貰っていたクライアントさんの一人が俺に仕事を振ってくれるようになった。
以前のようにライターの仕事では無いが、生活出来るくらいの金額になるように仕事を振ってくれていた。
ちなみに、その人は俺がライター自体を辞めて障害者職業能力開発校に入るとき、
といった意味を込めてなのか、カニを大量に送ってくれた為、俺の家族の間では、
「カニの人」
として周知されている。
その人がまた、ライターの仕事ではないが仕事を振ってくれるようになった。
その収入だけでも正直、個人事業主として生活は出来ていた。だが、その人は法人の社長ではない。あくまで個人事業主だ。
クライアントが個人事業主だと、どうしても将来的な収入が不安になる。
でも、俺は感染症のリスクを負ってまで就職する気は更々無い。でもやっぱり将来的な収入が不安だ……。
そんな葛藤をずっと抱いていた。
ある日、Twitterをいつものようにやっていると、とある就職エージェントの広告が目に入ってきた。
取り敢えず、登録だけしておいても損はしないな。まあ、今すぐに就職をする気は無いが、感染症が収まったらやっぱり企業勤めをしたいから、恐らく就活を再開するからな。
そんなことを考えて、本当に取り敢えずで登録だけしてみた。
俺は、
「すぐに就職をする気は無い。でも、リモートワークなら就職したいかも。」
みたいなことを、エージェントの就職担当者に話したような気がする。
へ流れで登録することになった。
なんか、いちいちあっちのサイトこっちのサイトって登録するの面倒だな……なんてことも思ったりしたし、リモートワークでの就職は倍率がめちゃくちゃ高くてなかなか決まらないということを、俺は実体験から分かっていた。
今まで、リモートワークでの就職を何度も試みて、全部の企業から落とされているからだ。
でも、やっぱり登録をするだけしておこうと思って、その会社へ登録だけ済ませた。
リモートワークで仕事をすることが出来たら、感染症リスクもだいぶ抑えられるからな。
個人事業主としての収入もあったが、安定はしていないと判断して、俺は安定収入を取ることにした。
ちなみに、就職エージェントの就職担当の方が、俺の履歴書の書き方が下手だからと、履歴書を添削してくれた。
そしてアドバイスもしてくれて今まで出していたものとは見違えるような履歴書になった。
俺みたいに酷い経歴でも、書き方次第である程度は改善できるのだな、と思った。
ちなみにアドバイスの中でも、抱えている障害や病気のことはしっかりと書くように言われた。
書くと就職には不利に働くかもしれないが、そこをちゃんと理解してくれる企業じゃないと長く働けないから、ということだった。
話を戻すけど、その就職エージェントが紹介してくれるのは、大手企業ばかりだった。
でも、来る日も来る日も全ての企業へ応募しても、書類選考の時点で落とされていた。
心が折れそうだった。
だけど俺は諦めなかった。
俺は正直、名前すら聞いたことが無かった。というのも、俺は主にIT企業へ事務員として就職を試みていたが、ITとは程遠い企業だったからだ。
俺はどうにかして就職をしようと、面接マニュアルを読み込み、YouTube撮影用のカメラの前で面接の練習をしてそれを録画。
動画にして自分の面接での喋り方、話す内容等を面接の日まで毎日見直していた。
そういった努力も実ったからなのか、俺はその1社へ就職内定が決まったんだ。
パソコンに強い人材があまりいなさそうな業界、という部分も良かったのかもしれない。
晴れて俺は、大手企業で障害者枠でリモートワークで就職が決まった。
後編へ続く。
俺は昔、はてなブログでブログを書いて、昔でいう「プロブロガー」をやっていた。
1級身体障害者の炎上ブロガーって言えば、古参のはてなーなら知っている人もいるかもしれない。
元フジテレビアナウンサー・フリーアナウンサーの「長谷川豊」にブログ記事をパクられた人、っていえば思い出す人もいるかもしれない。
もう過去の記事は全て消したが、「だいちゃん.com」(https://xn--n8jvce0l6c.com/)っていうブログを運営していた。
そんな俺は今、大手企業の障害者雇用枠でリモートワークで働いている。
知っている人もいるかもしれないが俺はとあるきっかけで、はてなブログを追い出されてWordPressにブログ記事を全部引っ越しさせてブログ運営を続けていた。
だが、はてなブログ時代は主にはてなブックマークからの流入がメインだったから当然、WordPressではブログ運営が上手くいかなかった。
Googleアップデートなんかの煽りも受けて、ブログ運営のみの収入で生活をすることが困難になった。
ブロガー時代の俺に「自分のところでライターをしないか?」というお誘いを受けて、アフィリエイト記事を執筆するライターなんかもやっていた。
ライター収入で一時期は生計を立てていたが、他人のブログの記事を書くということに面白みを見出すことが出来ず、ライターとして生計を立てるということも辞めてしまった。
でも、どうにかして収入を得て生活をしていかなければならないから、俺は頑張って就職活動を始め、今は大手企業の障害者雇用枠でリモートワークで働いている訳だ。
もう、昔のはてなアカウントも消してしまって、はてなには全く顔を出していなかったが、少し懐かしくなって今、増田で記事を書いている。
ちなみに、俺は1級身体障害者ということもあって、今の会社に就職するまでまともな職歴はほぼ無い状態だ。
20歳の時には1級身体障害者になって、そこから半寝たきり状態で20代前半を過ごしたりしてきたし、リーマンショックなんかの煽りも受けて、なかなか就職が決まらず……。
そんな俺でも障害者雇用枠でなんとか大手企業に就職することが出来たから、どうやって就職をしたのかをちょっと書いてみようと思う。
まず、俺のスペックを書いていこうと思う。
・性別:男
・年齢:30代半ば
・職歴:ほぼ無し
・所持資格:「日商簿記2級」「MOS Word」「MOS Excel」等
こんな風に、俺のスペックはボロボロだ。しいていうなら、顔が若干良いくらいだ。
しかも、
・不眠症
・呼吸器障害
・乾燥性皮膚炎
でも、こんな俺でもなんとか就職することが出来た。
一番この増田を読んでいる人達が気になっているのはここじゃないだろうか?
こんなボロボロのスペックでどうやって大手企業の障害者雇用枠、しかもリモートワークという狭き門での就職を成功させることが出来たのか。
その道のりは簡単ではなかったよ。かなりの苦労がここにはあった。
まず、どうにかして障害年金以外の収入をすぐに確保しなければならなかった。
幸い、ブロガーやライターをやっていた時の収入は殆どを貯蓄に回していたから、なんとか貯蓄を切り崩しながら生活をできていたが、自分の経歴の酷さは分かっていたから、すぐに就職先が決まることは無いと判断した。
そんな俺でも就職するまでの間、障害者だったら収入を得る方法があった。
それが、
という方法だ。
障害者職業能力開発校は、通っている間は失業保険の手当を貰える状態にある人は、失業保険の手当の受給期間を通っている間は延長してもらうことが出来る。
でも俺は、失業保険なんていうものに加入はしていなかった。当然だ。俺はブロガーでライター、個人事業主だったからな。
答えは「NO」。
障害者職業能力開発校に通っている間、失業保険の手当を受給出来ていなくても、障害者なら「職業訓練手当」という給付金を貰いながら通うことが出来る。
貰える金額は障害の等級によって違うが、1級身体障害者の場合は月に約12万円ほどは貰うことが出来た。
都心に住んでいる人からしたら、こんな金額じゃ生活出来ない! と感じる人もいるかもしれない。
幸い、俺は九州の田舎に住んでいるから、月に20万円もあれば十分に生活は出来る。
そうやって、収入の基盤をなんとか確保した。
ちなみに、俺が通っていた障害者職業能力開発校は、訓練期間が1年~2年。
通常は1年だが、「プログラム設計科」という、プログラミングを学ぶ訓練だけは2年コースになっている。
そこでプログラミングを学びながらプログラマーを目指していた。
でも、俺は「基本情報技術者試験」の午後問題の「アルゴリズム」と「プログラミング」の問題を殆ど説くことが出来なかったんだ。
「ああ、俺、多分プログラマーには向いてないわ。」
そして、就活をし始めた年齢が30代だったということもあって、30代で未経験プログラマー、しかも1級身体障害者で残業の出来ない状態では無理ゲーだろうなー、と思って、次第に「パソコンに強い事務員」として次第に就活をし始めた。
この部分がいつも就活において引っ掛かって、いつもいつも不採用だった。
それ以外もだいぶ酷い経歴だが、この部分が一番引っ掛かっていたと思う。
あとはやはり、
・不眠症
・呼吸器障害
・乾燥性皮膚炎
を抱えているという部分だ。
でもこの部分は通院しなければならない為、しっかりと企業側に伝えておかなければ就職した際に通院出来ない、という状態になる。
でもある日、学校からの紹介でとある大企業の特例子会社への就職の話が入ってきた。
職歴ほぼ無しの俺にはかなり良い条件だった。
でも、問題点が。
俺の住んでいる地域からかなり遠い企業で、引っ越しをしなければならなかった。
俺が健康体なら別に引っ越しをするくらいはかまわなかった。だが、俺のような1級身体障害者で病院をいくつも通っている人間は、遠い地域へ引っ越しをする場合、病院を全て1から探し直さないといけない。
特に、人工透析を行っている病院の変更はとても手続きが大変だ。
病院との相性もある。
週に3日、1日5時間も延命治療を受けなければならない病院だ。ここの部分で相性が悪ければ恐らくストレスで精神がやられてしまう。
実際、俺が今通っている人工透析の病院を見つけるまで相性の悪い病院に通っていて精神がやられた過去があるから、その部分だけは本当に注意していた。
そういった事情もあって、最初は就職に前向きに検討していたが、だんだんとそういったことを考え始めて、そこの会社への就職は断った。
その頃、今世界中で流行している感染症が流行り始めていた。それも俺が就職を断った理由の一つだ。
俺が引っ越しをしなければならなかった就職先の地域は、かなり感染者が増加していた。
それに、会社がかなりバスなどを乗り継がないといけない場所にあって、人工透析を行う病院まで距離が遠かった。
恐らく、毎日が病院と会社の往復という日々。1日が仕事と通院で終わるような毎日になっていたに違いない。
そうだと俺は察知して、自分を守る為にそこの会社へ就職しなかったというのもある。
こういうことを書くと、甘えだとかなんだと言う奴らが出てくるかもしれないが、俺の身体や精神は君たちが思っている以上に脆く、弱く、儚い。
これを「甘え」だというのであれば、もういい。好きに言ってくれ。
だんだん、俺の住んでいる地域でも感染症の感染者数が増加していっていた。
でも、俺の通っていた学校は建物が古く、建物自体がいわゆる3密状態になっていた。これだけは避けることが出来なかった。
それと、どうしても知的な部分に障害がある人達もいるから、感染症対策をちゃんとしない生徒もいた。
しかも、他の患者さんと一緒に治療を受けているから、下手したら自分が感染すると病院全体が一時閉鎖しなければならない、という状態だ。
家には高齢の親もいる。
だから俺は、絶対に感染する訳にはいかないと思い、少しでも感染リスクのあることをだんだんと辞めていった。
俺はそうやって学校を辞めた。
ここの部分も、Twitterなどで発信していたら、
「お前と同じ障害を抱えているけど、俺は感染リスクのある仕事をしているんだ!! 甘えるな!!」
みたいに言ってきた奴がいた。
お前はお前、俺は俺だぜ?
お前はリスク管理が出来ていない。
俺はリスクのあることは全て排除して、徹底的にリスク管理を行った。ただそれだけの話だ。
お前は勝手に感染リスクのある仕事をしてくれ。俺は感染リスクのあることが徹底的にしない。だって命が惜しいからな。
人の命だってかかっているんだ。
俺は自分が感染するリスクも取りたくないし、他の患者さんや親を感染にまきこみたくなかった。
俺は障害年金は貰っていたけれど、それ以外の収入が学校を辞めたことで本当に無くなってしまった。
障害年金は月に約7万円ほどだ。でも、俺は実家暮らしだが実家もそこまで裕福ではないから障害年金の殆どを家に入れていた。
正直、感染症が収まるまで通勤での勤務もするつもりが無かったから、そこで一旦、就職活動したいを辞めていた。
すると、以前ライターをさせて貰っていたクライアントさんの一人が俺に仕事を振ってくれるようになった。
以前のようにライターの仕事では無いが、生活出来るくらいの金額になるように仕事を振ってくれていた。
ちなみに、その人は俺がライター自体を辞めて障害者職業能力開発校に入るとき、
といった意味を込めてなのか、カニを大量に送ってくれた為、俺の家族の間では、
「カニの人」
として周知されている。
その人がまた、ライターの仕事ではないが仕事を振ってくれるようになった。
その収入だけでも正直、個人事業主として生活は出来ていた。だが、その人は法人の社長ではない。あくまで個人事業主だ。
クライアントが個人事業主だと、どうしても将来的な収入が不安になる。
でも、俺は感染症のリスクを負ってまで就職する気は更々無い。でもやっぱり将来的な収入が不安だ……。
そんな葛藤をずっと抱いていた。
ある日、Twitterをいつものようにやっていると、とある就職エージェントの広告が目に入ってきた。
取り敢えず、登録だけしておいても損はしないな。まあ、今すぐに就職をする気は無いが、感染症が収まったらやっぱり企業勤めをしたいから、恐らく就活を再開するからな。
そんなことを考えて、本当に取り敢えずで登録だけしてみた。
俺は、
「すぐに就職をする気は無い。でも、リモートワークなら就職したいかも。」
みたいなことを、エージェントの就職担当者に話したような気がする。
へ流れで登録することになった。
なんか、いちいちあっちのサイトこっちのサイトって登録するの面倒だな……なんてことも思ったりしたし、リモートワークでの就職は倍率がめちゃくちゃ高くてなかなか決まらないということを、俺は実体験から分かっていた。
今まで、リモートワークでの就職を何度も試みて、全部の企業から落とされているからだ。
でも、やっぱり登録をするだけしておこうと思って、その会社へ登録だけ済ませた。
リモートワークで仕事をすることが出来たら、感染症リスクもだいぶ抑えられるからな。
個人事業主としての収入もあったが、安定はしていないと判断して、俺は安定収入を取ることにした。
ちなみに、就職エージェントの就職担当の方が、俺の履歴書の書き方が下手だからと、履歴書を添削してくれた。
そしてアドバイスもしてくれて今まで出していたものとは見違えるような履歴書になった。
俺みたいに酷い経歴でも、書き方次第である程度は改善できるのだな、と思った。
ちなみにアドバイスの中でも、抱えている障害や病気のことはしっかりと書くように言われた。
書くと就職には不利に働くかもしれないが、そこをちゃんと理解してくれる企業じゃないと長く働けないから、ということだった。
話を戻すけど、その就職エージェントが紹介してくれるのは、大手企業ばかりだった。
でも、来る日も来る日も全ての企業へ応募しても、書類選考の時点で落とされていた。
心が折れそうだった。
だけど俺は諦めなかった。
俺は正直、名前すら聞いたことが無かった。というのも、俺は主にIT企業へ事務員として就職を試みていたが、ITとは程遠い企業だったからだ。
俺はどうにかして就職をしようと、面接マニュアルを読み込み、YouTube撮影用のカメラの前で面接の練習をしてそれを録画。
動画にして自分の面接での喋り方、話す内容等を面接の日まで毎日見直していた。
そういった努力も実ったからなのか、俺はその1社へ就職内定が決まったんだ。
パソコンに強い人材があまりいなさそうな業界、という部分も良かったのかもしれない。
晴れて俺は、大手企業で障害者枠でリモートワークで就職が決まった。
後編へ続く。
便利とは不便になること。と父は言った。
ふくいのデータが消失した。おそらく、数人のミスだろう。と思いつつ、
笑っている場合じゃない。と父に連絡をした。
大手電器メーカーに勤めていた父と農家の娘の母の元に長女(兄私弟)として生を受け、
底辺と言われる工業系の高校を進学、壊滅的な5教科のテストの点数と比べ、
ハードウェア理論、ソフトウェア理論、ネットワーク理論の点数が良かった。
高校在学中に午前午後ある初級シスアドは、ITパスポートと名を変え、第1回でなんとか受かった。報酬金は1万だった。
東京から地方に拠点を作りたい!という計10人ほどのWEB制作会社に地方拠点の立ち上げスタッフとして新卒で就職、2012年当時からハングアウトにて朝礼を行っていた。
地方拠点には東京からの常駐スタッフが1人、同じく立ち上げスタッフとして就職したハローワークのWEBコースを受講した10歳上の女性と3人。彼女は英語がペラペラだった。
私は、1年ほどで嫌になって退社した。
市の臨時職員や、リゾバ、派遣、日雇いをしながら、2、3年ほどフラフラしていた。
稀にアップしていたBitBucketのソースが、たまたま誰かの目に止まり、大都会東京にやってきて3年ほどだろうか。
私がGITに初めて触れた当時は、非公開リポジトリはGitHubだと有料アカウントしか作れなくて、新卒で入社した制作会社にてBitBucketを使っていた。
誰もが知っている会社、大卒の就職したい会社ランキングに、ここ数年上位に入っている会社で働いている。
年収は同年代に比べたらもらっているほうだと思う。(独身の20代女性の平均値よりは幾分か高い。)
底辺だが、24,5の女が応用情報まで取得していることを珍しがられた。肩書きと時代に救われた。
その分の働きができているかは微妙で、関わりがあるシステム管理者にそのことを話すと、工学部の大卒でも受かんない子いるのにもってんの?、論理的に考えることできんの?とか悪い意味でびっくりされる。
大手電器メーカーで勤めていた父は田舎者にしては、珍しく物好きで、Linuxが家にあった。コマンドを打っていた姿が目に焼き付いている。パソコン通信を好んでしていたのだろう。電話を使ったらいけない時間が幼稚園の頃にあった。
小学校にはいると、ADSLが自宅に引かれ、インターネット、パソコンは私の身近なものだった。いま思うと当時ではかなり珍しかったと思う。なんせ田舎だったから。
つい最近知ったのだが、電器メーカーの前にどうやらしいたけの親会社で働いていたらしい。東南アジアかどっかへの海外転勤が嫌で辞めたとさ。ちなみに同じ底辺高校出身。
ビニールハウスをうんてい代わりにし遊び、ハウス内で飼っているハチに何度刺されたか。
いちごをメインにしていたので冬になるといちごで冷蔵庫がいっぱいになり、腐らせて捨てていた。
なんて贅沢なんだ。
いちごが食べたい。
同じ両親の元で育った兄はホテルで調理師を。10年ほど前の携帯電話を使い、AndroidスマフォとiPhone違いが分からない、兄である。
3G終了するから買い換える羽目になるよ。と何度か伝えてるが終わるまで使うとのこと。
弟は、県で1番頭の良い工業高校にスポーツ推薦で入学、ちゃっかり某電力会社に高卒で入社、姉から見ると賢いなぁ。要領いいなぁと思うよ。
日本から捨てらた土地の真逆の田舎で生まれ、底辺の高校を卒業し、リゾートバイトや派遣、日雇いという訳ありな底辺にいた。
スキー場から見る雲海は綺麗だったし、雪景色は、最高だった。沖縄の海も綺麗だった。温泉は大分が良かった。
ただただ、楽しかった。
要領も頭も悪いので、見合った働きはできていない。
ネットワークスペシャリストに2回落ちてから、高度の午前免除が消え、情報処理技術者試験とさよならした。
午後より午前が辛い。
環境という名の要因はあるけれど、自分がどんな豊かさを求めるかによるんじゃないか。
日本から捨てられた土地で生まれた彼女が上京して、予備校の教科書があれば東大にいけてた。といっていたけれど、
環境を手に入れたのだから学びなおして東大に行けばよかったのに。なにいってんだ
両親が子供である私たちに今の時代に大学まで行かせてあげるお金がなくてごめん。と1度だけ謝られたことがある。
母から子供が3人居なければなんとかなったかもしれないけど。とこっそり言われた。
兄や弟は知らないが、残念ながら私は、大学へ進学出来るほどの学力、要領を持ち合わせていない。
Twitterは、年々使いづらくなり、代わりを模索し、いまマストドンに引きこもっている。
wwwは、どんな未来を模索しているんだろう。どんな変化をしていくんだろう。この瞬間を懐かしく思う頃がくるのかな。
コロナで精神病んで、この2.3週間で、自殺した同級生が3人いるこの瞬間を。
東京は、遊ぶところが多くて、買い物も楽しくて、コーヒーも美味しくて、豊かで便利だけど、不便だなぁ。
ふるさと納税どこにしようかなぁ。
おすすめあったらおしえてちょ★
大学院を中退して久しい。記憶が正しければ、私が大学院中退を決意したのは6月末であったことから、あともう少しで半年が経つ。
さて、就活についてはようやく良い風が吹いてきた。金融の、ある分野において業界上位三位以内の地位にある企業の最終面接の一歩手前まで進めることができている。
一部上場のIT企業(Sier)については、最終面接を控えるところまできた。ESを提出した後に任意の質問会をやると聞いたのでそれに参加してみると、人事が質問会で「この質問会でESブラッシュアップしてね」なんて言い出した時は冷や汗が止まらなかったが。
どちらの企業も来週面接であることから、中々にプレッシャーではあるが、何とかなるだろう。
ところで、前回の記事で「まあ、プライドが高いお前は上場企業じゃなけりゃ満足しないんだろう(⇔身の程を知れ)」といった趣旨のコメントが付されていたが、当然である。プライドが高いからこそ、私は結果を出せないと満足できない。そのお陰で、就活もここまで進めれている訳だ。実は、総合商社の中途枠についても、二次選考まで進めれていたりもした。とは言いながらも、今現在も無職であることには変わりがないことから、彼彼女をあざ笑うにはまだ時期尚早ということで、この程度にしておく。内定が出たら改めてあげつらう予定だ。
エントリー中はなりふり構わず履歴書を送りまくっていたし、後輩にESや面接の方針について教えを乞うたりもしていたので、どちらかというとプライドをかなぐり捨てているような気もしたが。キレてノートパソコンを叩き割ったりと結構な醜態を晒していたし。
さて、私は上のどちらかの企業で王手をかけて上がる予定でいる(が、一応今も履歴書は送りまくっている)。金融の方はやはり選考難易度が高いことからまだまだ気は抜けないが、ITの方はコロナ禍であるにも関わらず敢えて増員していたぐらいだし、「最終面接で落ちることは基本的には無い」というのが就活サイトでの定説である(らしい)から、余程の地雷を踏みぬくか、ドジを踏まなければ内定は出ると睨んでいる。金融の方で面接を何度もしたから、これが活きてくれば良いのだが…。
そんな時、「私は一体何をしたいのか」と考えた。前の記事でも書いたが、私は資格を取ってプロになろう、という心づもりでいた。実は、この思いは今でも捨てきれていない。
そして、その資格であるが、実は金融ともITとも親和性が良いのだ。シナジーが大きいだけでなく、その両者について深い理解をしている有資格者が少ないことから、収入の面でも大きく期待できる。社会にも十分貢献できると思う。
ただ、金融 or ITのプロとして生きていくのも楽しそうだと感じるのだ。
金融については所謂部門別採用ではないため、基本的にはその足で走り回って数字を上げることになるだろうが、人と話すのが好きな自分としては極端な苦手意識はない。一時はクラブナンパなんかもしていたぐらいなので、目の前で蹴り捨てられる程度じゃヘタレることもない(流石に悪意むき出しの悪口を言われた時は少しキツかったが)。また、金融については学部・院生時代にある程度かじっていたので、苦手意識は全くないどころか得意と言い切ることもできる。勿論、いわゆる金融マンであることから死ぬほど大変であろうが、楽しめる気はする。
ITについては、大昔に自分でパソコンを組んだことの他、ネットサーフィン経験を通じてセキュリティ・ネットワーク周りのことを最低限身に着けたことを除けば、全く知識がない。今現在基本情報技術者試験の勉強をしているが、何が分からないのか分からない、という部分が大半である。ただ、参考書を見た瞬間に脳がストレスを感じる、ということはない。Javaの解説ブログなんかも流し読みしてみたが、面白かった。全く適性がない、ということはないと思う。金を産めるか、という質問について胸を張ってイエスといえる自信はやはりないが。
就活生は、どのようにして自己のキャリアを定めるのだろうか。学部時代のある友人は、憧れを理由に、その企業を選んでいた。金を理由にその企業を選んだ友人もいる。その企業の製品が本当に好きだからということで、その企業へ進んだ友人もいる。
どの友人も、見事であると思う。内定をきっちりと取り切っているし、何より行動に対する結果が伴っている。そして、今も尚働いている。素直にすごいと思うし、心の底から尊敬している。将来的に転職をすることになったとしても、私からすると学部時代にそのようにはっきりとしたキャリアプランを持つことができていたことそれ自体が大変素晴らしいことだと思う。
私自身、それなりに将来のことを考えて進路設計はしてきたつもりだったが(母親に奨学金を使いこまれるのは流石に予想外だったが)、良いように言えば知的好奇心が強い、悪いように言えば器用貧乏なタイプなのだ。この性格から、上記の企業で知識を身に着けながら学部時代より抱いていた思いを実現するべきか、それともその道のスペシャリストとして生きていくべきか、と今もくよくよと悩んでいる。一刀両断的な判断はあまり好まないため、どこかでグレーゾーンを設定して落ち着くことになるとは思うが、今現在それを設定できない自分に対するもどかしさは結構感じている。
ITリテラシーて何を指してるんだろう?ITというか基本情報技術者試験を取得しているくらいの基礎知識があるのなら、MacでもWindowsでもどちらでもいい。
しかし、基本的な知識がないのにMacにこだわる人間の一部には、下記のようなモンスターを発生させる恐れがあるので、個人的には最初からMacOSユーザーというのは .撲殺 撲滅したい。
・前まではWindowsも使っていた事があるけれど、iPhoneユーザーになって以来、断然Apple製品を推す
・何かWindowsで問題発生するとMacOSならこんな事ないのに、という発言を何度も繰り返す
・Windowsでも同じ動作はできると説明しても、次から次へと粗探しをしてMacBookを買う口実を見つけてくる
・新しくMacBookを買い与えても、後からもっと値段の高いMacBookを再度買い直せと言ってくる
・欲しいスペックは?と聞いてもスペックという単語の意味が分からない
・ハードディスクの容量・メモリサイズ・CPUの速さ、という概念が無い
・OSのバージョンという概念が無い、あるのはWindowsとMacOSとiPhoneという概念まで
・ハードディスクに保存するという概念が無い、どこに保存したという感覚が欠落した状態で作業をする
・例えスペックに差があっても、デスクトップ型よりも断然ノート型の方が好き
・たとえ個人情報や機密情報を持ち歩いていたとしても、スタバでMacBookを広げたがる
・自分のMacBookが社内で使えないと、自分以外の環境に問題があると言い始める
・15年くらい前のラーメンズのCMを未だに信じて、Macは安心と思っている
・マルウェアをインストールすることは出来ても、OSの再インストールができない
なお、これらは基礎知識の欠如を揶揄するものではなく、あくまでもモンスター言動に焦点を当てた説明であり、全てのMacユーザーがこのようなモンスターに該当するとは思っていない。
情報処理技術者試験なんて、実務、特にマネジメントなんかやっていると役に立つことが多いです。
まず前提の捉え方がちょっと違いますが、「情報処理技術者試験」とは国家試験でありながら、医師国家試験や危険物取扱者試験などの国家試験とは異なり、
別に持ってなくても実務に従事できるって言う不思議な国家試験であること。
なので、別にこの試験がなくても、情報処理技術者としての仕事にまったく支障はないです。
情報処理技術者試験は、ちゃんと情報処理のこと勉強してますよ!ある程度の知識は修めてますよ!って言うためのものでしょう。
名刺に資格もってるよマーク載せてIT系なら任せてよアピールをするためのものでしょう。
またこの資格を持っていることで、ちゃんと勉強している人間なのか、その指標にもなるのでマネジメントの一助になるです。
ご指摘の通り、暗記問題ばかりで実際の業務には何ら役に立たないように思えますが、
一方で実務以外のコンピュータ技術の本質的な設問であったり、法務関係の問題もあったりして、
マネジメントの他、教える立場になったときや、企画開発なんかで広く浅い知識が必要になったときには役に立つかと。
そもそも逆なんですよね。この問題を解けたら良い設計ができる、とか、優れたコーディングができるんじゃなくて、
まともな設計知識を持っていたら、このくらいの問題は知っていますよね?ってのが技術者試験の一面です。
※あと、「コードが書けるわけでも、良い設計ができるわけでもありません。」って否定をするなら、せめて応用のほうから持ってきてくれないと・・・w
ちなみに、UMLの基本や、開発手法、MPEGなどの標準規格の名称なんかを覚えるのは、設計やコーディングにおいて「超大事」なことです。
そうした名称をもとにして開発を進めていくわけで、いちいち「要求分析から実装までの開発プロセスを繰り返しながら、
システムを構築していくソフトウェア開発手法」でやります!みたいな説明しなくても「今回はスパイラルでーす」って一言で終わるじゃないですか。
基本情報技術者試験レベルをメンバー全員が資格取得してくれていれば、「スパイラルでーす」で終われるってすばらしい。
合格率は基本情報技術者試験で3割弱、応用情報技術者試験で2割強となっています。
なので、一見難しそうに思えますが、非常に簡単です。覚えればいいんですから。
(そもそも基本情報なんて、非IT系会社勤務の方の合格率が、IT系会社勤務の方の合格率を超えているという・・・)
なのに合格率が低いのは、みんな真面目に勉強(暗記)していないからと思われます。
試験会場にいくと分かるのですが、まずスタート時点で1割強は机の空きがあります。とりあえず申し込んでいるだけなんでしょう。
会社によっては予算取ったから行って来いよ、みたいなところもあるのでしょう。
暗記試験で引っ掛け問題も少なく、広く浅い問題範囲なので、1~2か月真面目にやればだれでも取得できますよ。
ただ、さすがに150分座ってるだけで取れるような試験ではないことは確かです。
範囲は広いですし、勉強してなきゃ聞いたことがない言葉なんてザラです。
上記を言い換えれば、真面目にコツコツ勉強してくるやつアピールが出来ます。
合格率2割の国家試験を、通常業務をこなしながら取得してくるだと・・・!?化け物か! みたいな
雰囲気でとらえてくれるおじさんは、まだまだいっぱいいますよ。
暇だからゲーム専門学校時代を振り返る - 昆布がないと開発できない。 http://donnpema6.hatenablog.com/entry/2019/10/23/004918
HAL東京は私の母校でもある。読んでいてとても懐かしくなった。
この記事を書かれた方と同じように自分も卒業して思う事や学生時代を振り返ってみたくなったので書く。駄文ですが入学検討している高校生、在学中の方にこれからの参考になればと思う。
まずは私の情報について。
・現在は大手ITにてモバイルゲームエンジニア(Unityメイン)
まず私はゲーム業界志望で入学してゲーム業界に就職したパターンの人間である。
HAL東京でゲーム学科なんだからゲーム業界に行くのは当然ではと思われる方もいるかもしれないが残念ながら半数近く、またはそれ以上の人数がゲーム以外の業界に行く。
1年目
・冒頭で紹介した記事にもあった通り、HAL東京では前期・後期に別れて授業を行う。1年目は基礎を学ぶ。
・この基礎だが、プログラミング以外にもデザイン、コンピュータサイエンスなども行う。これは1年目の後期に改めて学科の選択の機会があるからだ。実際にプログラミングやってみて自分に合ってないと考えた人はデザインの学科にも行けるというわけだ(最も、最初の希望とは違う学科に入ってちゃんとその業界に就職した人を私は知らない)
・プログラミングの授業ではC言語を学ぶ。私は高校時代プログラミングなんて一切やっていなかったので初めて触れたのがCだった。printfでHelloWorldしたりscanfでメモリ領域ぶっ壊したりしつつもプログラミングの基礎を学ぶ。 IDEはVisualStudioだった。
・コンピュータサイエンス系の授業では、基本情報技術者試験の合格を目指し皆勉強する。HAL東京では基本情報技術者試験を取得していない場合、この授業が卒業まで続く。就職において資格を見る会社も一定数いるのでこのカリキュラムは良いと思う。取得している場合はAndroid開発やコンシューマゲーム機での開発授業などが選択できるようになっている。私は初の試験で無事合格したが卒業時でも取れてない人は一定数いた。馬鹿なんじゃないのか。
・1年目の後期からは学科に別れた授業+コンピュータサイエンス系の授業といった感じで進む。
・C言語のコンソールに文字を表示させてゲームを作るというのを1年目はやる。独自のライブラリが渡される。
・文字だけで表現するのにこの時点で出来るやつと出来ない奴がはっきりとわかる。 優秀な人間は自分でバックバッファの概念を構築したり、滑らかなアニメーションなどを実装している。凄い。当然彼らは誰もが知っているような大手ゲーム会社に今はいるはずだ。
・1年目の最後、学内での制作物の展示イベントがある。そこで作ったゲームを展示するのだ。ここで出来ていない人はおそらく翌年には退学している。私は完成はしたものの拙い出来だった。反面、負けてられないなとは思った。
2年目
・2年目からはDirectXを使用した本格的なゲーム開発の授業がスタートする。またそれと並行してコンシューマゲーム開発の授業が始まる。私の世代ではNintendoWiiだった。
・C言語の授業もC++の授業になり、クラス化などについて学ぶ。
・コンシューマ開発の授業は基本的に情報がない中やる。渡されるのはWiiの関数リファレンスの本だけ。あとは授業で教官から教えられつつ実装していく。
・DirectXでは9を使用していた。Xライブラリのようなものは一切使わず、直でDirectXを触る。描画の仕組みなども学べるのでこの授業はとてもよかった。確か前期は2Dゲーム、後期は3Dゲームだった気がする。それぞれ個人開発で1本づつ作る。私はこの時に作った3Dゲームが結構面白く出来て自信がついた。
・2年目の後期ではWiiの開発でチーム制作を行う。チームは勝手に決められるが基本的に優秀な人がリーダーになる。チームによっては崩壊しているチームやギスギスしているところもあり、プログラミングできる人と出来ない人の差が露骨に出る。何人かはここで脱落し、退学する。
3年目
・DirectXの授業は継続しておりCで作ってたものからC++で作るようになる。ここらあたりからかなり複雑なアルゴリズム(地面の起伏に応じた高度計算や正確な当たり判定の実装など)も学ぶ。
・DirectXとは違うものとして、OpenGLの授業も始まった。OpenGLとDirectXのマルチプラットフォームを目指してゲームの開発を行う。またネットワークを使ったゲームをOpenGLで開発したりもする。この授業では基本的に自分で調べて進めていく。調べる力をつける。今思うと一番エンジニアとして大切なことが学べる授業だったと思う。
・先ほど書いた、基本情報に合格していると選択授業でAndroidプログラミングなどもできる。
・就活に備えたビジネスマナーなどの授業も始まる。その日はスーツを着て通学する。私はこの時点でスーツ着て働くのは論外だと強く感じるようになった。
・3年生のビッグイベントとして10月にインターンがある。これはHALがゲーム会社やIT企業に依頼する形で生徒を会社にインターンとして参加させるというものである。当然ながらこれも出席率などに問題がある場合は参加できない。
・インターンは1ヶ月間あり、ゲームの会社にいく人もいればデバッグの会社にいく人、IT企業にいく人様々である。どこにいくかは教官が決める。私はゲーム会社だったがかなり勉強にはなったしゲーム会社で働く雰囲気というものを知れたのでよかったかなと思う。
・3年後半からはDirectXで就職作品を作り始める。就職作品とはいわゆる企業の人に見せる作品の事である。これは完全に個人で作るので人によって完成度はかなり違ってくる。中には商業作品のようなクオリティのものを完成させる人も出てくる。実力社会である。
4年目
・4年目は卒業制作展と就職活動、産学連携の三つがメインとなる。
・私は4年になる頃には就活終わっていたのだが基本的に全てにおいて就活を優先する様になる。内定出るまではスーツで通学など、それ意味あるのか?
・HALには学内企業説明会というシステムがあり、様々な会社が来校し企業の説明、特別選考の案内をしてくれる(任意参加だが就活中の人は実質強制参加である)
・4年中盤くらいにはもうほとんどの人が就活を終えているが一部の終えていない人たちは延々と説明会に参加してはエントリーシートを書いていた。大変だなぁ。このくらいの時期になるともう学内企業説明会にゲームの会社はほぼ無い。自分で動け。
・産学連携や卒業制作ではチームを組み制作するのだが使用するグラフィックライブラリなどに指定はなく、プラットフォームも自由となる。そのため、DirectXやOpenGLを学んでいても大抵のチームはUnityやUnrealEngineを使うことになる。
・4年目後半は卒業制作展にひたすら取り組む、この制作はとても私の中にも印象に残っている。正直楽しかった。好き勝手にみんなで面白いものを作れる。
さて、ここまで1〜4年の流れをざっくりと書いた。
次にHALについてよく聞く話、課題が多いという話にもついて触れておこう。
1科目年間20くらいは少なくとも出てる気がする。(規模はまちまちだが)
この課題だが課題を一定数達成(承認という)していないと科目留年となってしまう。とはいえ教官は自分がわかるまでサポートしてくれるので主体的に動けば落とすことは無いだろう。(私は4年間で1度も落とさなかった)
また出席率も見られる。確か80%切ったらアウトだった。
毎日しっかり通学して、出された課題をしっかりこなせれば基本的に力はつく様になっていたと思う。就活失敗していた人はハッキリ言ってこれが出来てない人が多かったイメージがある。
そのため1回休むだけで内容についていけなくなる恐れがある。しっかり授業は受けよう。
次に私の就活についても触れておこうと思う。
私は3年の中旬くらいから早く就活を終わらせたいと思っていた。また、コンシューマ業界は色々と魅力はあるが第一に給料が安いところが多いし働く環境として良いとも思えない面が多かったので最初の仕事はモバイルゲーム業界がいいなと思っていた。
そのため早い段階で逆求人サイトに登録したり、1on1面談イベントや勉強会などにも参加する様になった。
個人的に今思うのが3年の中旬くらいの時期から動き出せたのが一番良かったなと思っている。勉強会などで大学生で同じ様にゲーム業界目指している人たちとも多く会ったりしているうちに、自分は結構出来る方の人間なんだなと思う様になる。
正直HAL東京のカリキュラムは異常で、普通にゲーム作りたいという人はOpenGLもDirectXもやらない。直でそれらが扱える様になっているHAL生は業界的に結構貴重な人材になりうると思う。
描画の仕組みをわかった上でゲームエンジン使うのとそうじゃ無いのとでは全然違うんだなとこの時気づいた。HALの基礎から教える理念はとても大切だった。
私は趣味で別でDirectXでゲーム作ってたりもしてたので、それを企業の人に見せたりもしていた。何かしら物を作りきるという経験を何回も積んでいるHAL生の評価は高い。(ちゃんと授業出てれば1本は作りきれるはず)
何社か逆求人で声がかかり、そのうち一番気になっていた会社と話しているうちにどんどん選考が進み、特に苦戦せずに2月くらいには内定が出ていた。私の就活はかなりあっさりと終わった。
モバイルゲーム業界やIT業界は今かなり盛り上がってるのもあり年収もかなり良く、この結果にはかなり満足している。
最後に、私がHAL東京に入学して良かったかどうか、という点について触れてこの駄文を終わらせようと思う。
もともと、ゲームは作りたいと思っていたが、何から始めたらいいのかわからなかった。
そんな中、専門学校で学ぶことで0→1が出来る様になったのはやはり大きかったと思う。
一度作り方を学べばあとはそこからどんどん自分から学んでいけた。
逆に、そう言う学び方が出来ない人はやめておいた方が良いと思う。
HAL東京在学中ずっと思っていたのが、学生間のレベルの差がとても激しいのだ。 無能か出来る奴のどっちかになるのだ。
自分は積極的に学んでいける!出来る奴に絶対なってやる!と言うくらいの気合いがないとダメだと思う。
入学時にプログラミングの経験がある人も一定数いるのだが卒業する頃には自分の方が書ける様になっていたし、結局のところ本人の努力次第である。決して入ればゲーム業界にいけるとか、そんな甘い話はない。
生半可な気持ちで入学するのは出来る人たちの迷惑になるとハッキリ言っておこう。チーム制作の足手まといになってしまうだけである。