はてなキーワード: 80年代とは
推しがかわいすぎて日々びっくりしているので書き留めておこうと思う こんなにかわいい人間が存在するのか…あ、個人名は書かんけどわかった増田いたらトラバでもブコメでも書いてくれたら嬉しいやで
推しは某大手アイドル事務所の研修生的な立ち位置で、約2年前に結成されたグループのリーダー リーダーと言ってもみんなを引っ張っていくというよりは持ち前の包容力でメンバー1人1人に寄り添い支えるタイプの人
基本天然でふわふわした雰囲気だけど歌とダンスは(贔屓目もあるかもしれないが)研修生の中では1、2を争うレベルで上手い
初めて推しを見たのはバラエティ番組で、なんかめっっっちゃ顔かわいい人間おる…となったのがきっかけ あとから自分はこういう顔が好きなんだな…と気づいた(さっぱり系の童顔、80年代少女漫画のような顔のパーツ配置)
なんだけど、なんだけど………めちゃめちゃ歌もダンスも上手いんだよなあ…………
自分以外見させる余裕を与えないというか、(事務所からあまり推されていなかった時期があるのも要因かもだけど)とにかく目を引くパフォーマンスが上手い もちろん才能もあるだろうけど根底に計り知れないほどの努力があるのを知ってからさらに好きになった こんなに最高なのに驕り高ぶることを知らない推し、何?聖人君子?
あと番組とかで関わった人間全員と仲良くなってるのでは…?というレベルで人の懐に入り込むのが上手い これが訴求力ってヤツ??? 沢山の人に愛される推しが好きなので毎日大変ハッピー
ドラマ版ゆるキャン△2期の制作が決定したので、記念に大垣城の思い出を書く。ドラマ版の大垣があまりにもアニメの大垣そのままだったことに感動して、大垣に関係するものを何かしてみようと思い、大垣を観光しようと大垣城へ行った。今年の3月のことだった。
岐阜県大垣市のJR大垣駅から歩いて10分で大垣城に到着した。当時は児童・生徒の入場はコロナ禍により制限されていたが、そうでない私は特に問題なく入場できた。大垣城は関ヶ原古戦場に近く、最上階の天守閣から西の方を眺めると、南北を山地で囲まれた関ヶ原が琵琶湖方面への通り道のように見える。もちろん大垣城内の展示では関ヶ原の戦いを売りにしており、戦いの様子を表現したジオラマの展示、当時用いられていた当世具足の展示、武器を手に取って体験できるコーナー、ビデオコーナーがあった。
私がその中でも気に入ったのはビデオコーナーであった。入口の立て札には「SEKIGAHARA」というタイトルと劇画調の石田三成と徳川家康の精悍な顔が描かれており、「関ヶ原の戦いはただの権力争いではなく、後世の武士の価値観を決定するイデオロギーの闘争であった」みたいな感じ(注:正確な文章は忘れた)の煽り文が異彩を放っていた。中を見ると、公立図書館の様な一人再生用の視聴ブースが5つほどあり、映像は全部で2時間と説明文にあった。大垣城以外にも「奥の細道むすびの地記念館」など市内をいくつか観光するつもりだったので、10分ほど軽く見るつもりでヘッドホンを装着してDVDの再生ボタンを押した。結論から言うととても面白くて、1時間ほど見てもまだ続きが見たかったけど、泣く泣く中断したほどだった。
私は高校で日本史を履修しておらず大河ドラマの類も見たことが無く、石田三成を見ても「誰だっけ?」と思ったほどである。関ヶ原の戦いは豊臣と徳川の争いであるとは漠然とは知っていたが、関ヶ原の戦いの時には豊臣秀吉がすでに故人だったことも知らなかった。そんな私でもDVDに夢中になった。
映像は豊臣秀吉の死から始まる。秀吉を豊臣財閥の筆頭株主兼社長に例えて、五大老は秀吉にM&Aで吸収合併された競合他社の社長としていた。五大老は自社の株式の全てを秀吉に売り、代わりに秀吉の会社から株式を譲り受けて豊臣財閥の取締役になったという設定である。五奉行は執行役員部長で秀吉生え抜きの社員だという。それぞれの大名の石高数は、豊臣財閥の持ち株数で表していた。
秀吉の跡を息子秀頼が継いだものの未成年で実権がないので、成人するまでは取締役である五大老が秀頼を補佐するようにというのが秀吉の遺言である。遺言に反して株式保有数第二位で副社長の徳川家康がクーデターを企て、それを社長室長兼企画部長の石田三成が阻止するというのが「SEKIGAHARA」の大きな流れだ。250万石もの大資本を持つ取締役副社長の家康に対して、わずか18万石の部長に過ぎない三成がどのように対抗するのか。この会社組織で例えた設定がナレーションや図表でわかりやすく解説されたので、歴史に詳しくない私でも現代ドラマを見るように楽しむことができた。
時間がなかったので飛ばしながら見たが、それでも全部見終わることはできなかった。この「SEKIGAHARA」は「原作:堺屋太一」とあったので、帰宅後に原作を読んで関ヶ原の戦いを調べることにした。原作小説の「大いなる企て」でも、五大老や五奉行を会社組織で例えており秀吉の死から物語が始まる。しかし、映像版と原作小説ではストーリー構成が大きく異なっていた。映像版では秀吉の死後に関ヶ原の戦いが始まり、合戦の様子を三成と家康のそれぞれの視点で描くのがメインであった。それに対して上下巻構成になっている原作小説では、朝鮮出兵の和平交渉と撤退に三成が中間管理職として苦労する描写に長尺が割かれている。朝鮮出兵から帰還した大名に対して三成が秀吉の葬儀を取り仕切り、それがようやく一段落ついたころには上巻が終わるという具合だった。関ヶ原の戦いはいつ始まるんだと思っていたが、残念ながら原作小説は関ヶ原の戦いが始まる前に完結してしまう。
原作小説は私の期待に反して関ヶ原の戦いは描かれなかったけれども面白かった。それにしても、原作では三成が中間管理職として苦労する地味なサラリーマン小説であるのに対して、映像ではドラマのようなエンタメに仕上がっているのはどういうことだろうか。気になって原作者を調べてみたが、堺屋太一がただの小説家ではないことが分かった。
堺屋太一は元通産省の官僚であり、大きな業績として大阪万博の企画立案に携わったことがある。通産省を退官後は、小説家・博覧会のプロデュース・ドラマなどテレビ番組のプロデュース・大臣・学者・政治運動とマルチに活躍しており、どれをとっても大きな功績といえるだろう。「SEKIGAHARA」のプロデュースも堺屋太一の活動の一つだ。「SEKIGAHARA」では単に原作のストーリーをなぞることにこだわらず、大垣城の展示作品としても、エンタメとしても楽しめる物を意識してプロデュースしてきたことだろう。
堺屋太一を知らない人でも、「団塊の世代」という言葉は知っているだろう。「団塊の世代」は元々堺屋太一の小説のタイトルで、当時「戦後っ子」と呼ばれた戦後生まれの世代が、将来社会でどのような役割を担わされるのかを予想した近未来小説である。この小説も私は最近読了したので感想を述べてみる。
1970年代中頃に連載した当作は80年代90年代のバブル景気とその崩壊を予測できなかったものの、団塊世代の出世が頭打ちになること、無駄に役職者が高い人ばかりになり組織のピラミッドが歪になること、人余りの団塊世代が関連企業へ出向されるなど、年功序列型の賃金上昇や終身雇用が維持できなくなる現在を予測している。
団塊世代は今でこそ巨悪と描かれることが多い。昨今話題になったドラマ半沢直樹もその一つだ。ドラマでは銀行マン無双というタイトルが似つかわしいほどの勧善懲悪痛快劇であるが、原作小説では「オレたちバブル入行組」のタイトルの通り、バブル世代である半沢直樹らが団塊世代に復讐をする世代間対立の物語である。ただ、原作でも世代間対立の色合いは作品を経る毎に薄くなり、三作目で「ロスジェネの逆襲」というタイトルで半沢らより下のロスジェネ世代の人物を多く登場させながら、ロスジェネ世代がバブル世代や団塊世代に逆襲をするというわけでもなくタイトルに反して半沢直樹無双となっている。四作目ではとうとう世代間対立は関係なく、その時話題になっていたJAL再生タスクフォースや民主党の事業仕分けをネタにして半沢直樹無双をやるだけになってしまった。ドラマ2期で過剰な演技や顔芸ばかりが取りざたされることに批判もあるが、原作もこの様なものである。
閑話休題。しかし、「団塊の世代」を連載した1970年代中頃では、団塊世代はまだ二十代の若造である。その頃から戦後っ子が老害へと変貌する未来を予測したのは流石としかいえない。「団塊の世代」の4話では1999年が舞台になっており作中では、団塊世代が既得権益をむさぼりレジャーにうつつを抜かして経済や技術の発展を妨げた、と批判がなされている。大阪万博など一大レジャーを築いた堺屋太一自らがこのように評するのは痛快にして皮肉でもある。
ちなみに、堺屋太一は1935年生まれで2019年に故人となっている。多くの業績を残したすごい人を亡くなって1年も経ってから私が知ることになるとは何て残念なことだろうと思ったが、それで堺屋太一の小説の面白さが色あせることもないので今も読んでいる。
ゆるキャン△ドラマ2期決定を機に大垣城の思い出を述べてきたが、関係ない話が長くなってしまったので、この辺で筆を折ることにする。
80年代にはイケイケで、大企業に入ってガシガシ稼ぐのが大正義で、給料はジャンジャンあがるし金利はメッチャ高い、という前提で生活していた。
基本的にこの時の嫉妬は大企業に向けられていて、大企業は好き勝手に金儲けをして蓄えてると思われていた。
公害良くない、バラマキ良くない、企業よりも個人が大事、お金よりも心が大事なんや、というのはそのアンチテーゼとして底流になった。
それが90年代に入ると一気に景気が悪くなり、大企業はバンバン業績を悪化させてつぶれ、分裂し、弱くなった。
逆に嫉妬の向けられ先は、それまでとるに足らない、個性のないつまらない仕事をしてると言われていた公務員に向けられた。
公務員は高給を取りすぎている。公務員が大勢いる団体は効率もよくない。だから民営化しようと民営化が進んだ。
そもそも、企業のなかでぬくぬくしてる奴らよりも、仕事をする実力に応じて給料が出るべきなんや。
と、就職口が細くなったのと合わせて、企業に勤めない個人が専門性をもつ生活が良きものとされた。
ところがどっこい、0年代になって、弱った企業では個人にノルマが押し付けられ、公務員も数を減らされた結果、非正規雇用が増えた。
この時代の羨望の先は外資系の高給サラリーマンたちだった。彼らは多大なノルマに向かい合い、次々と燃え尽きながら仕事をこなした。
どんどん世間は貧しくなり、80年代に多数派だった「大企業勤めでぬるま湯に浸かってる会社員」「親方日の丸の公務員」というのはいなくなった。
ジリ貧のなかで「一髪グレートリセットを掛けてみたらいいんじゃないか」という話になって民主党政権になった。
ところがこの人らは、80年代、90年代の感覚のまま政権運営をしたので、景気対策に消極的であり、世間はさらに貧乏になった。
10年代になって、現場の疲弊が頂点に達し、自民党政権に戻り、グレートリセットから安定に世論が変わった。
0年代に横行していたブラック労働に改善が入り、政府のバラマキ的な景気対策で景気は回復に向かったので、給料水準も改善した。
ただ、非正規雇用をもう一度雇い直すほどの企業体力はまだ回復していない・・・・・と企業側は言い続けた。
世間の構造はあまり変わらず、再度「好きなことをして生きていく」に世論は変わった。ネットで騒いで客を得る商売が流行った。
ただそれは90年代の「お金より個性」とではなく「個性を売ってお金を得る」という方向に変わった。
20年代である。安定路線で10年きたことで、逆に腐敗が生じたが、世間はまだ大変革には忌避感がある。
10年代にあったブラック労働の改善、パワハラ、セクハラの撲滅から、逆にポリコレへの反感を育てた。
企業は10年代にかなり業績を回復し、立ち直りつつあったがそこにコロナが直撃し、明日が見えない。
ネットで騒いでお金を儲ける方法論は飽和して、社会迷惑行為と認識されるに至った。
大阪都構想は基本的にこのうちの、「ジリ貧だからグレートリセットをするべきだ」というのと、
「公務員はロクに仕事もしてないのに安定して給料を貰ってるやつらだ」の合わせ技をベースとして、
正直、今のコンビニ界の癌になりつつある。
プレミアムなんちゃらとか品質向上したなんて言っていろんなの販売しているけど、別に消費者はコンビニの商品に上質な味を求めてないでしょ。
『気軽に寄れて、一般的に販売しているものを購入できる店』ってのが、そもそもコンビニの存在意義じゃなかったのかね。
おいちゃんは老害って言われても仕方ない年齢だから、老害の考えとして言うけど時代が変わったとは言え品質は逆に落ちているよ。
80年代のコンビニなんかは飲み物も充実していたしアメコミのカップでコーラとか飲めて、上げ底もなかったから量もそれなりに入っていたよ。
アイスの販売なんかも充実してたね。とても良かったよ。お弁当も上げ底じゃなかった。
それが時代が進むにつれて、セブンイレブンでできるような事がどんどん増えてきてから、なんかね…どんどんケチくさいコンビニに変わっていったね。
飲食関係の販売は縮小しても仕方ないと思ったんだよ。作業が多いからね。できるサービスも増えていって大変だし。
まぁ、それは仕方ないと思っている。
だけど、別に弁当などの上げ底はする必要ないんだよね。普通に売れてたんだし。
どこかで思い切り狂っていって、営業の考えがものすごくケチくさくなったんだよね。
本来の弁当を2つ分に量を割って売れば二倍で売れるじゃんってなってね。それが今度は三分の一ずつにすれば3つで売れちゃうなーってね。
今の弁当の上げ底は本当に酷いよ。ご飯なんか、おちょこに小盛り2杯分くらいをしゃもじで押しつぶして引き伸ばしたの?ってくらいだもの。
鮭弁当なんか、薄っぺらい鮭がちょこんと乗っているような感じだし、サンドイッチに関してもそう表面はボリュームがあるようにしてあるだけ。
昔のサンドイッチは量がきちんとしていてパンからはみ出てるのも少なくなかったよ。
それが今じゃ表面に具を重ねてボリュームが有るようにしているだけの見てくれだけになってる。あれで値段も安くないしね。
おにぎりのサイズもそう。年々小さいのに変わってるよね。なんで一回り小さくなるの。
なんで言い訳に『ビュッフェスタイルにしたい』とか言っているの。違うよね。原価の話でケチになってるだけでしょうに。
体の良い言い訳をして、サイズ小さくするけど値段はそのままなってやってるだけなのに、色んなものを食べたい人の要望に応えたなんていうユーザーへ責任の押し付けをしているのがおかしいんだよ。
そんな事をやっているセブンイレブンをみてね、思うんだ。一度潰れたほうがいいんじゃないかなってね。
今のセブンには個人的にユーザーとしての得や便利さがないんだ。もちろん『利用しなければ良い』んだけどね。
利用するしないは別にして、それぞれの時代を見てきた感想みたいなもんで書いている。
正直な所、今のやり方はユーザーをバカにしていると思うよ。それでも気に入って使っている人はいるのかもしれないけどね。
旨味が感じられない。
人生辛くて大変そうですな。
文章から想像するに、自分が何をしたいかよりも、他人や周りから言われるままの人間に無理矢理なろうとして無意識では納得できてないし人生をつまらないと思ってる感じがした。
今どき珍しいと感じるくらいのレアな人で1960〜80年代くらいの謙虚すぎる日本人らしい日本人って感じ。
ただそれだとやっぱり人生苦しくてつまらなくないかなーって心配だね。
もっと自分勝手な思いを判断基準に生きた方が充実感あって自立できて自分の人生だって覚悟決まると思うなあ。
自分の素直な気持ちは何なのか、本能で体感して認識して、理性で言語化して、理性的かつ気持ちが報われ昇華できる行動を選択していく方法で現実との折り合いを付けた方が楽しくて周りに良い影響を与えられる人間にもなれて皆んなハッピーなんじゃねえかなーって思う。
ストーリーはともかく(主さんの主張はあながち間違いとも思わない)。
落ち着きすぎているけど、春号なのでいいんでしょうか。少々地味すぎる気も。
個人的にはこれが一番安定してる気がします。しっとりした水のイメージと二人の距離感もいいし、配色と白地の清潔感も手に取りたくなる要素。
こう言うとあれなんですけど、面々の中で一番描けてないかなって。
背景の密度、バランス、立体感。どれも他のイラストレータに比べるといまいちです。
その空間の出せない感じを派手なパースで補って上手に見せようとしてるのはわかるんですけど、それだけですね。
圧倒的にこってり。ただ正直厚塗り系でこの感じはイラストとしての押しが強すぎて表紙を飲んでしまってる感が否めず。デザイナーさんがこのくどさに合わせてトリッキーで尖ったデザインを施していますが、それでも浮いてる感じがします。主張が強すぎです。
そして、うるあ先生の表紙デザインとしての問題は個々にも出てる気がします。押しが強くくどいのに、テーマや造形が至って普通という安牌をきってる点ですね。尖り方が足りないか大人しさが足りないかのどっちでもない。中庸というよりどっちつかずです。なにかビビってんでしょうか。2013年辺りまではもっと尖った人がいたもんですが。
これ、僕も好きです。80年代サブカルチャー的な文字とポップな女の子の髪の色、化粧崩れと、どれも正面から挑まず斜めにずらしている感じがかっこいいしかわいい。
そこまで心に止まらないというか、趣味ではないのでノーコメント。
押しの強さの割に普通、という印象が全く変わってません。なんでこの人はこんなに変わった雰囲気であるように見せかけながら極めて普通なんでしょうか。教科書からくどさを学んだような印象と言ったらいいのか。
うまいですね。空イラストはごまかしがききやすいので手を抜きがちですが、キャラクター左上部に目線が集中するように渦を誘導し、キャラクター二名の頭上から線を引くと台形、右側のオブジェクトと併せてみるとVの字が形成されるように描かれています。構図がかなりしっかりしてる。こうすることによってVの字の終端であるキャラが向いている方向へも意識を誘導することができています。また、魚眼により空間が広がっています。
東京都心に住まうハイソサエティな人々や地方民は、東京にこれだけ近いところに、これほどモータリゼーションが発達した都市があることをほとんど知らない。
東京でも横浜でもない、車を中心にした世界がここにある。
嘘だと思うなら、カーシェアでも借りて一度センター北・センター南界隈を走り回ってみるといい。
東京と横浜の中間でなおかつ東海道線と東名の中間ぐらいの位置関係と言えばぼんやりとイメージがわくだろうか?
詳しい歴史とかはwikipediaを見ろ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3
元は森と原っぱしかなかったところを開拓したニュータウン開発としては最後発に近い再開発事業だ。開発が始まったのが実質80年代以降なので、近代的なモータリゼーションをがっちり取り入れた都市計画に基づいた街が作られている。
ざっくり言えば、港北ニュータウンはショッピングモールの集合体だ、少し小さめの濃縮されたイオンモールクラスのショッピングモールがぼっこぼこと乱立している、センター北・南両駅に中規模のショッピングモールが3棟(港北東急、港北阪急、ノースポートモール)、立体模駐車場を持つ小規模ショッピングモール(どでかい商業ビル)が4棟、さらに商業ビル多数。近隣にはホームセンターも幾つもある。
そんな中途半端なショッピングモールじゃあね、という向きには、車で3~40分圏内に大規模ショッピングモールが3か所(ららぽーと横浜、ラゾーナ川崎、トレッサ横浜)、もう少し小さい規模でグランツリー武蔵小杉、たまプラーザテラスとか、横浜圏までいれると本当に数えきれなくなる。
とにかく車があれば買い物を行く先に全く困らない、毎週末・毎日がショッピングモール巡りだ、車で複数のショッピングモールを梯子することなんかもザラ。
それから、この二駅だけでスーパーが大小とりまぜて10軒前後ある、あほか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%8C%97%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kohoku_New_Town_-02.jpg (写真)
まず道幅が広い、一般道で3車線があたりまえにある。狭い細路地がほぼ存在しない。一方通行もほとんどない。車の取り回しで困ることが無い。
駐車場も安くどこにでもある。商業施設の駐車場はほとんどがスロープ式立駐で、だいたい割引で足りるか、最初から無料。
ある意味センター北・南が猛烈に充実しているため、車無しで滅茶苦茶快適に生活できてしまうのだが、当然車の所有率も高い。
そして、いい車が走っている。外車率が異様に高く、軽が少ない。都心みたいにポルシェとベンツ、アストン・ベントレーにあれはマクラーレンか、みたいなバブリーさは無いが、ドイツ勢、ラテン勢など欧州車がかなり多い。レクサスも多い。港北ニュータウンにいると、日本の不景気とは? という気分になるぐらい、日本で失われつつある豊かさがまだここには生きている。
そして、ニュータウンらしく、車歩道分離や、公園が充実しているのもすばらしい。センター北・南から徒歩圏にもちょっとした森のような大きな公園が幾つもあるし、車で移動すれば自然もスポーツ施設も遊戯施設も多数あり子供の遊び先の選択肢に事欠かない。大きな公園に行くと、テント族っていうの? ミニバンにカートとテント載せてやってくる親子連れが広場にテント広げてゆったり遊んでる。ああいうの、都内育ちからみると全く未知の世界で軽いカルチャーショックがある。わざわざ、ひーこら奥多摩まで行ってバーベキューする必要ないんだ、みたいな。
それから、第三京浜・東名高速が至近というのも大きい、レジャーとなったときの選択肢が都心とはけた違いに多く、海と山にすぐ行ける。箱根・鎌倉・三浦・伊豆・富士・東海方面が東京よりすべて一回り近い。渋滞のボトルネック一つ分少ないことで、車での日帰り旅行もめちゃくちゃ快適。
都内でマンションや戸建てをサラリーマンが買うのが現実的でなくなって久しいが、港北ニュータウンとその周辺の横浜市営地下鉄沿線はまだ選択の余地がある、さすがに新築マンションの造成は減ってきているが、中古なら3~4000万円代から選択肢がある。しかもニュータウン故、ほぼすべてが築浅なので都心に比べれば程度が全然いいし広い。駐車場も当然ついているし、駐車場代も都心みたいにん万円なんてことはない。
歴史が浅いということは、世代・年齢層も若いということだ、周辺の戸建て地域もおんぼろの昭和な住宅や空き家・廃屋なんてほとんどない。街がぴかぴか、古い家はだいたい地主さんの邸宅。
港北ニュータウンのある都筑区は首都圏でも数少ない出生率が高く人口が増え続けている自治体だ。まぁ、40年50年先のことはしらん。
人種的には、ややマイルドヤンキー寄りだがヤンキーではない、リア充だけどうぇーいじゃない、ぐらいの層が厚い。所得がそれなりにあると思われるおされな人も多い。スポーツ観戦が好きで子供もサッカーやらせてます、目指せJリーグみたいな感じ? なにしろ、手軽にスポーツをできる環境がある。
そして、BOOKOFFに行くと、売られている本の質が違うんだ、ひたすらベストセラーやジャンプ掲載作品で埋まってなくて、それなりに面白かったり、マニアックな作品もごろごろしてる、実用書の質も高い。つまり、本好きが沢山いて、本を買い、BOOKOFFへ放流するというフローが成立しているわけだ。
総じて、平均してそれなりの所得があり、家と車を持ち、自分の生活を等身大で生きている、そんな世界が港北ニュータウンだ。
東京都心へは電車で40~50分、車で1時間前後、というところ。
港北ニュータウンの中央駅はセンター北とセンター南の二駅、センター中央駅は無い。この二駅を貫くように横浜市営地下鉄ブルーラインと同グリーンラインが通っている。
残念ながら東京都心直通の路線は無く(計画はあったんだ...)、都心に出るにはブルーラインであざみ野に出て田園都市線もしくはグリーンラインで日吉に出て東横線へ乗り換える必要がある。横浜・新横浜・みなとみらいへはブルーラインで直通だ。
車でのアクセスは、東名 横浜青葉ICもしくは第三京浜 都築ICから15分弱。
都心に直通の電車がないなんて田舎だよね、という向きには田園都市線沿線のたまプラーザ・あざみ野・青葉台を勧める。半蔵門線直通で都心まで30分前後だ。通勤時間的には都内の多摩地区と変わらない。
全体に若干割高にはなるが、車があれば、港北ニュータウンの利便性は享受できる。
ご存知のように殺人的な通勤ラッシュでおなじみ田園都市線だが、大井町線の乗り入れで改善してきているし、オフピークして、渋谷以前の半蔵門線から乗ればそれほど大したことはない。
ただし、歴史が一回り深い分高齢化が進んでいるのも確か。モータリゼーション第一世代が高齢化で免許―返上して駅から遠い戸建てを手放すみたいな話が出てきている。
都心と比べて東急グループや大手資本がなんとかしようとしている点がちょっと違うところで、たまプラーザの再開発なんかがその例、興味があるなら行ってみるといい。
東横線沿線は良くも悪くも東京都心に近い属性がついてくる、居住費や駐車場も高くつくし、狭い道も多い。武蔵小杉・元住吉・日吉あたりは車でも住みやすいが水害が心配なのは去年の台風でわかっただろう。
そんな感じで、首都圏にでもモータリゼーションが発達して発展している都市がある、ということをわかってもらえると嬉しい。東京都心と地方のロードサイドの二元論なんてナンセンスだ。
都内勤務だけど、リモートワークも進んだし、ちょっと都心から離れてみるのもいいよね、車の運転好きだし、という層にはぜひ一度訪れてみてほしい。
港北ニュータウンに無い物? うーん、歴史とか、超高級ブランドショップとか、それから下北や吉祥寺みたいな個性かな。あーあと、あれあれ、イオンが無いよ。
サイバーパンクに関する下のような意見をTwitterで見た気がする
でも男の子って「トンチキ日本語看板とネオンぎらつく暗い街に少女が佇んでるイラスト」とか「東京を青白く撮った写真」とか好きなんでしょ?
はい。
Twitterを見ていると何かと青白い東京が流れてくるので流石に飽きてきた感じがある。
それでサイバーパンク古くないか的な意見が流れてきたので「確かに」という感想を抱いた。
でもサイバーパンクは視覚的にかっこいいから好きなので仕方ない。
それに風景が現代と大差ない近未来は視覚的に面白くないのでサイバーパンクの代替にならない。
真面目にサイバーパンクが好きなSFマニアの人達に怒られそうだけどSF的近未来像を視覚的に消費したい。
人間が物事の良し悪しを判断する能力について、西欧哲学の古典は、論理的能力がそれを担うと考えてきた。プラトンは「感情を排して論理的に考えれば正解を見つけ出すことができる」と言っており、この思考は西欧思想の強い影響下にある世界全般に現代まで共有されている。
ところが80年代から現代にかけての心理学・脳科学は、人間が物事の良し悪しを判断しているのは、論理ではなく感情(を主要構成要素とする直観)であると結論づけている。
人間は、物事を見た瞬間に「なんかいい」「なんかヤダ」で、ほとんどの物事を自動的に判断している。論理が働きだすのはその後で、「私が『なんかいい』と考えたのは~~が理由だ」という理屈を跡付けて考えている。結論が先にあって後から理由をつけているのであって、~~が本当に判断の根拠だったかは定かでない。
この理由付けは、きわめて素早くスムーズに行われるので、自分自身すらをも騙してしまう。心理学の実験によって、わざと理由付けがスムーズに行かない問題を判断させることによって、被験者が自分自身をすらも騙していたことが確認できる。
ここまではある程度知られた話。俺も聞いたことがあった。
面白かったのはここからで、ではその理由付けの能力っていうのはどういう風に使われるのか?
測定によって知能が高いとされた人間と低いとされた人間を集め、直前行った道徳的判断に関する「自分が正しい理由」と「自分が間違っている理由」を挙げさせたところ、頭がいい人間はよりたくさんの「自分が正しい理由」を挙げることができた。しかし、頭がいい人間も頭が悪い人間も、「自分が間違っている理由」は同程度しか挙げられなかった。
論理的思考能力っていうのは、正解を導き出す能力ではなくて、正当化を導き出す能力でしかない、ということだ。
ツイッターや増田で、頭がよさそうな人たちがやっているのは、より素早く正確に素晴らしい正当化を行うことであって、正誤を検討して結果を発表することではない。
俺がいまやっているのもそうなのだ。
正誤を検討するには、論理的思考能力以外の、別の訓練が必要だ。
例えば仮説を立てても実験するまでは正解とはみなさない、科学の初歩的な態度は、そのために存在するのだろう。
実験をしないまでも、単なる心がけとして、自分が間違っている可能性を常に検討しようと努めるべきだ。自動的な論理思考能力によっては、それはもたらされはしない。頭の良さもこの動作には寄与しない。マジで心がけだけがそれを可能にするのかもしれない。
そいつは等身大で二次元的ではなく三次元的なキャラ作りと評価していたが、正直今の創作物からそれらがすっぽり抜け落ちてるだけなんだよね。だから今になって80年代回帰が緩やかに起こると、かつての表現が非常に新しく見えてきてしまう。それらはかつて90~2006年代の属性(ツンデレ・ヤンデレ・妹等)の多出によって失われたテクニックの一種なんだけど、今になってリアルな人というものそのものが見直されてきて、スポット的に人気になった。みんなそろそろ、というかようやくテンプレ的なキャラに飽きが来てしまっているのではないかと。とはいえかのかり作中にも十分あテンプレキャラやパターンはあるし、80年代だってテンプレとパロディの宝庫だった。多分グイグイ来る女とか見ている男たちが気持ちのいいテンプレは残ってゆくんだろう。個人的にはあんなグイグイくる女や妙に女房めいた決断や決意を迫る女がいたら疲労感を感じるが。
テンプレがなくなれば映画や邦画と変わらなくなってしまいかねないが、全くやってないことをやる土壌は年々失われていると思う。競争激化で冒険することができない。結果的に王道はある程度踏襲される。今はただ巡ってきてるだけかなあと。人間味という測れないパラメーターを重視するのは個人的には好きだけどね。テンプレのツンデレとか連発されるよりいい。