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第0001回:衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0001
第0010回:衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0010
中学生になった僕は、マイコン熱がさらに高めていった。その頃お小遣いもそれなりに増え、折りしも、バブルの好景気にさし掛かろうかと言う時代、自営業である家業もある程度儲かっていた記憶があって、家の財布の紐はちょっとだけ緩んでいた。
住んでいる家は それまで通り6+6畳で狭いままだけど、新しいマイコンをねだれば買えてしまう時期だったと思う。狭い借家にマイコンやモニタが所狭しと並べられ、家の一角だけは未来的な雰囲気(当時としては)が漂っていた。
僕は、当時全盛期だったNECのマイコンどうしても欲しく、初めて自分のマイコン(兄貴との共同出資かもしれない?失念。)を買った。それがPC-6601(1983年発売、定価143,000円)だった。
当時、マイコン小僧たちの憧れはPC-8801シリーズ(この時の最新機種は、PC-8801mkII。価格は20万前後)で、当然ながら欲しいと思っていたのだけど、やはり値段の兼ね合いから却下されてしまったのだと思う。また、どうしてもやりたいゲームがFM-7に無く、PC-6000シリーズにはあったと言う理由もある。(ゲームについては後述)
PC-6601の売りはなんと言っても3.5インチFDD搭載と言う事。その当時出回っていた5インチのフロッピーに比べ、あの完全に磁気面がガードされた3.5インチフロッピーはなんとも先進的で、当時の憧れだった。それから、どう考えても無駄な、合成音声をしゃべる機能があった。
PC-6601を買ってからの僕は、BASICもまぁ触っていたけど、難しすぎるベーマガのBASICプログラムにはついていけなくなり、当時流行り出したアドベンチャーゲームを解く方に熱中していたと思う。
その頃熱中していたゲームは、ミステリーハウスから始まり、T&Eソフトのスターアーサー伝説I 惑星メフィウスやデゼニワールドをなんかを必死に解いていた。この時代は、途中で詰まってしまったらそれまで、攻略本や教えてくれる人など居ないので、月一に発売される雑誌の攻略ページなんかを見て、しこしことゲームをやっていた。当時のゲームの進みはかなり遅かったと思う。1ゲーム解くのに軽く半年くらいは要していたはず。
そもそも上述した「スターアーサー伝説I 惑星メフィウス」なんかは、とある牢獄から脱出するのに、牢獄のドア、3本の鉄格子の右を3回「タタク」と入力するなどと、おそらく知らなければ永遠に気が付かないような謎解きが平然と混入していた。ゲームバランスなんてあったもんじゃない。
あと描画速度の遅かった事と言ったらない。少し凝った絵だと、1シーン1分くらい描画していたように思う。
当時のグラフィックスを今見て、すごく懐かしいなと思うのは、当時は表現できる色数がかなり少なかったので、(8色とか16色とか)アドベンチャーゲームなどで人物や背景を表現する為に、2色で細かい縞模様を作り、無理やり中間色を作り出していた。この描画表現を見ると、かなりノスタルジックな気分になる。
ちなみにその当時、僕はファミコンのゲームをかなり軽視していたと記憶している。
ファミコンが発売されてしばらくの間、ファミコンのゲームはマイコンゲームからの移植で、機能を制限したものが多かった。なので、しばらくファミコンは自宅に無かったし、見向きもしなかった。
ファミコンなんかよりもマイコンのゲームの方が数倍複雑で楽しいし、ファミコン自体は、所詮マイコンの機能限定版だと思っていた。
しかし、この状況はすぐに逆転することになる。ファミコンが思わぬ大流行をしたため、マイコンのゲーム数は、ファミコンにいとも簡単に抜かれた。仕方なく少し遅れ気味にファミコンを買う羽目になる。
あの頃やったアドベンチャーゲームには、色々な思い出がある。中間色を駆使したあのグラフィックスをみると、いつでもあの頃の思いが蘇ってきて、なぜだかワクワクしてしまう。
まだ続くと思います。
たくさんのブックマークと期待コメントありがとうございました。続きを書いていきます。
※これは連載です。初めての方は下記から見てください。
衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0001
兄貴のFM-7で、初めはゲームばかりやっていたのだが、しばらくすると「信長の野望」には裏技が存在する事を知ってしまった。裏技を使い、稼いだ金に物を言わせて増兵をしまくり、簡単にクリアできるようになってしまった僕。(ど忘れしたのでどんなのか調べたら、『いったん年貢率を0にしてから収穫前に上げることで米収入が上がり、その米を元手に富国強兵を行うといったテクニック』らしい。)
その頃やっていた他のゲームは、ハイドライド、ウィザードリィ、ザ・ブラックオニキス、デゼニランド、ポートピア連続殺人事件など。自分で買ったゲームがほとんど無いので記憶は薄いのだが、みんなテープ媒体だったように思う。
一方、兄貴はというと、なにやら熱心に毎月雑誌を買って、どこかへ投稿しようと試みているようだ。当然、それとなくその雑誌も読んでみる事となる。それが僕と「マイコンBASICマガジン」、そしてプログラム言語との出会いだった。目の前にある機械がゲーム専用機ではなく、自分の思い通りに動かせるのか、と気付いた時の驚きと快感。今も忘れられない。
前述の通り、その当時のマイコンは、電源を入れるとROMから「BASICモード」がいきなり立ち上がるのだけど、この状態から自力で何かを動かしたい場合、BASICと言われるプログラム言語を実行することにより、色々出来るようになる。
マイコンBASICマガジン(長いので以降「ベーマガ」)は、主にBASICのソースコードが掲載されている専門雑誌だ。基本的に、雑誌の構成は読者からの投稿で成り立っており、自ら投稿したBASICのソースコードがベーマガに掲載されるかどうかが、その当時マイコン小僧たち最大の憧れであり、ステータスだった。
ご他聞に漏れず、ベーマガを読み始めてから僕はBASICの虜となってしまい、今までやっていたゲームの頻度は自然と減り、BASICへ時間を割くようになった。
今思えば、兄貴は本気でBASICプログラムを投稿し、掲載される気満々だったので、かなりの難しいコードを書いていたんだと思う。結局、彼の思いが果たせたのかは分からない。掲載されたコードを見せてもらった事が無いし、それなりに競争率が高かったので多分ダメだったんだろうと思う。
一方、僕といえば、ベーマガで面白そうなゲームのソースを見つけては、一生懸命コードを入力し、誰かが作ったゲームをやることに専念していた。しばらくの間、記憶する媒体がテープレコーダーしか無かった為、目の前にある「ベーマガ」のゲームがやりたければ、一字一句間違えずにソースコードを打ち込まなければならず、何回も何回も間違えながら入力していた記憶がある。テキストエディタなんてものがそもそもなかったので、ただ入力するだけでもかなりの難作業だった。
そのうち入力しているだけでは我慢できなくなり、なんとなくBASICというものが理解出来て来たので、自力でゲームと言うものを作ってみる。しかし、「作る」と言っても一切の独創性はなく、ベーマガに載っていたゲームのアイデアをほとんど流用していた。
一番初めに作ったのは、縦スクロール型のスキー風障害物除けゲームだった気がする。僕みたいな初心者がこれを選ぶのには理由があって、RND(乱数発生関数)とPRINT(画面表示)だけ知っていれば縦スクロール自体はターミナルが勝手にやってくれる為、後は壁の判定処理を入れるだけでよい。特に難しい事を考えなくてもある程度作れるからだ。
当時、知っている命令語のレパートリーは極めて少なかったし、現在のwebのように、簡単な方法で調べる手立ても無かった。綴りや文法が分からない命令はいちいち調べるのが面倒くさいので、とにかく使わない方針で押し通していた。
ロジックも見よう見まねで無理やりひねり出してたものだから、乱数が過激に発生して、スキーのゲレンデが右側から大きくはみ出して表示がぐちゃぐちゃになったり、両側の壁に隙間が出来てプレイヤーがそこをすり抜けてしまったり。しかし、こういう試行錯誤の中で、ロジックの作り方や、エラー処理と言うものを知った。
立体迷路とか、横スクロールのゲームとか、ベーマガで輝いていたあのゲームを自力で作りたかったけど、その当時はそこまでのレベルに達することは出来なかった。
ブクマを燃料として書き続けます。
昔話をつらつらと書いてみる。僕が子供の頃、コンピューターには夢があった。
今就いているお仕事は、SE(と言う名のIT雑用係)なのだけど、幸か不幸かこの職種に就いてしまったきっかけを考えるに、昔家に置いてあった『FM-7』と言うマイコンピューターがまず1つの大きな要因なのである。
兄貴がかなりのそっち系コンピューターおたくで、まず電子ブロックから始まり、自作でトランジスタラジオ作成、ワンボードマイコンいじりと家の中には常にそれ系の物が置いてあった。行きたかった秋葉原はうちからは遠かったので、同じ県内にそれ系のショップがあって、バスと電車を乗り継ぎ、たまに連れて行ってもらっていた。
その影響か、血筋か、僕もそれなりにそっち系への興味があって、ハンダゴテをもって基盤を触るまではやらなかったものの、子供の時の遊び道具は、もっぱら電子ブロックだった。
ワンボードマイコンの時代が終わり、次にやってきたのが、マイコンピュータブームだった。当時、コンピューターと言えば、NECのPC-8000シリーズが全盛期で、まず買うとすれば選択肢はPC-8801だったのだけど、なぜか兄貴が選んだのは富士通のFM-7だった。その理由は定かでないが、おそらくやりたいゲームがFM-7しか売ってなかったのだと思う。
その当時、家は裕福でなく、どちらかといえば貧乏な部類で、6+6畳くらいのフロアスペースに家族5人で住んでいたのだが、その狭いスペースにマイコンとディスプレイが一角を占有し、かなりな圧迫を強いられていたと思う。おそらく兄貴に対しては、それなりの期待があり、貧乏ながらもそっち方面の出費は優先的に出ていたのだろう。
そんなこんなで、僕も暇なときはFM-7を触っていた。Windowsとか、MS-DOSとか無い時代で、立ち上げるといきなり「BASICモード」と言うものが立ち上がる。それがその当時のパソコンのスタンダードだった。はじめは「信長の野望」とかゲームだけやっていたと思う。ゲームの媒体はテープレコーダー。まず、ゲームをやるのにテープから「ぴーひょろろー」と音を出し、データを全て読み出すのだけど、ロード終了まで1時間くらい掛かる。そこからようやくゲームが始められると言う今ではとても考えられない、壮大な時間が費やされていた。
それに加えて、テープの調子が悪く読み出しが出来ないときなどはロードの最後の最後で失敗し、結局頭からテープを読み出し直し、半日くらいを費やして、結局ゲームができなかったり、色々面倒だった思い出がある。必死だったけど、楽しかった。
もし、ブックマークが付いたら続き書いていきます。