人間が物事の良し悪しを判断する能力について、西欧哲学の古典は、論理的能力がそれを担うと考えてきた。プラトンは「感情を排して論理的に考えれば正解を見つけ出すことができる」と言っており、この思考は西欧思想の強い影響下にある世界全般に現代まで共有されている。
ところが80年代から現代にかけての心理学・脳科学は、人間が物事の良し悪しを判断しているのは、論理ではなく感情(を主要構成要素とする直観)であると結論づけている。
人間は、物事を見た瞬間に「なんかいい」「なんかヤダ」で、ほとんどの物事を自動的に判断している。論理が働きだすのはその後で、「私が『なんかいい』と考えたのは~~が理由だ」という理屈を跡付けて考えている。結論が先にあって後から理由をつけているのであって、~~が本当に判断の根拠だったかは定かでない。
この理由付けは、きわめて素早くスムーズに行われるので、自分自身すらをも騙してしまう。心理学の実験によって、わざと理由付けがスムーズに行かない問題を判断させることによって、被験者が自分自身をすらも騙していたことが確認できる。
ここまではある程度知られた話。俺も聞いたことがあった。
面白かったのはここからで、ではその理由付けの能力っていうのはどういう風に使われるのか?
測定によって知能が高いとされた人間と低いとされた人間を集め、直前行った道徳的判断に関する「自分が正しい理由」と「自分が間違っている理由」を挙げさせたところ、頭がいい人間はよりたくさんの「自分が正しい理由」を挙げることができた。しかし、頭がいい人間も頭が悪い人間も、「自分が間違っている理由」は同程度しか挙げられなかった。
論理的思考能力っていうのは、正解を導き出す能力ではなくて、正当化を導き出す能力でしかない、ということだ。
ツイッターや増田で、頭がよさそうな人たちがやっているのは、より素早く正確に素晴らしい正当化を行うことであって、正誤を検討して結果を発表することではない。
俺がいまやっているのもそうなのだ。
正誤を検討するには、論理的思考能力以外の、別の訓練が必要だ。
例えば仮説を立てても実験するまでは正解とはみなさない、科学の初歩的な態度は、そのために存在するのだろう。
実験をしないまでも、単なる心がけとして、自分が間違っている可能性を常に検討しようと努めるべきだ。自動的な論理思考能力によっては、それはもたらされはしない。頭の良さもこの動作には寄与しない。マジで心がけだけがそれを可能にするのかもしれない。
学問上でしか正誤は必要じゃないもん 99%の人は正/誤だと判断している人がどっちがだれだけ多いか、しか興味がないし必要無い
いや正解は出したほうがいいし、必要不必要でいえば必要だろ。 人間に必要な能力がデフォ搭載されてなくて、しかもみんながそれに気付いてない。
紙の上では必要だが、実生活ではそんなものは必要ない 「常識」に沿って動けばそれで問題はない ゆえに「常識」が正しいか否かという中身はどっかの科学者の仕事だと割り切って民衆...
確かにここ3000前年人類はそれでやってきたんだが、グローバル化とインターネットでコミュニティ外の人間と(つまり「常識」を共有しない人間と)話す機会が増えすぎてるので、それ...