はてなキーワード: 音程とは
歌下手なんじゃね。なんか怖い。
よくわからないけど、怖い。
あまちゃんでの鈴鹿ひ○美に近い、不穏な音程。それに舌足らずさ。
ドラマで潮騒のメモリ○を本気で歌ってるときにもちょっと下手じゃね…?と疑いつつだったけど、今回のCMの歌で確信したね。不安定な歌。まさにうつろいやすい音程。そしてそれが完璧な下手くそではないところがまた、ね。何なのあれ。
視覚情報だけだとすごくかわいいんだけど、あの歌が入ったことで「ん?これは…」と唸ってしまう。無敵のかわいさまで相殺してしまうのではないかと思うくらいに、不安感がある。
※初め「能年玲奈の歌」のタイトルにしようかと思ったけど、それだと能年玲奈の歌っていうのを作詞作曲したのだと捉えられてしまう可能性があったので「歌声」としました。
そしてはてな匿名ダイアリーに投稿するのはこれが初めてです。至らないところがあったらすみません。
10年前、中学生だった僕はひとりの女の子に恋をした。それほど高くない僕の背丈よりもさらに低く、大きな瞳と笑うと大きくなる口角が魅力的な、あどけない女の子。それほど勉強熱心ではないようだったけれど、授業中、寝起きざまのぼんやりとした顔にカーテンで遮られていた日の光が当たるたび、白い肌が内側から光るように透き通っていて、とても綺麗だったことを思い出す。
高校に進学し、僕は進学校へ、彼女は公立の高校へ。交流は皆無となり、僕自身「高校からは新しい恋愛を始めよう」と思った。実際、3年の間、素敵だと思える女性に好意を抱いたりもした。けれど、あの頃の彼女の面影をふと思い出しては、彼女に勝るほどのひとではない、と半ば諦めのような気持ちが残っていた。そうして、気がつくと僕は卒業していた。
高校2年生のとき、一度だけ彼女に出会った。部活の帰り道、仲間と偶然寄った公園に彼女はいた。当時とほとんど変わらない面影のまま、彼女と同じ制服を着た女の子と楽しそうに話す姿を見つけた。彼女について時折話していた高校からの友人に促され、話しかける。今となってはその言葉のひとつひとつはまるで思い出せないけれど。恐らくはまるでスマートさのかけらもない、不器用な言葉だったろうと思う。けれど、相手に不快感を与えないよう、最低限配慮するような。
金属製の冷たいベンチの端に僕は腰掛けたけれど、彼女は斜め前に立ったまま僕と話した。ひとひとりぶんのスペースを隣に空けたまま、僕はやんわりと「今から起こることは僕の望むものとはならないだろう」と予想していた。予防線を張り巡らせ、必死に自分が傷つかないよう注意を払っていたにも関わらず、交際中の彼氏の話に話題が及ぶと、耐えきれなくなった僕は、まあ、そうだよねという言葉と苦笑いを残してその場を逃げるように立ち去った。帰り道、MDプレイヤーから流れる失恋ソングは今までとまるで別物のように聞こえた。僕のことを歌っていたわけではないのに、気づけば歌詞の中の「僕」は僕で、「君」は彼女になっていた。
それからというもの、地元を離れ地方の大学に進学し、就職した今なお、特定の女性と深く付き合うことは無い。ラブソングを口ずさむたび、「君」は存在しない。まるで空っぽのまま音程をずらさないようにして歌う僕を、上手だと褒める誰かに曖昧な笑顔を返すだけ。「いつか大切な誰かに巡り会う」ことをかつての友人が僕に説く。彼の結婚式の様子をふと思い出し、そうかもしれないね、と短く返答する。幸せに満ち足りた友人のいくつかの顔をぼんやりと思い出し、「彼女でない誰か」と微笑みながら式に臨む僕を想像してみる。そのとき、僕の初恋は完結してくれているだろうか、と。「彼女でない誰か」を大切にしているだろうか、と。
朝は快晴。暑さで起床。日差しが辛い。
・ROUTE 17 Rock 'n' Roll Orchestra
池畑潤二率いるバンドに、ゲストとしてトータス松本・甲本ヒロト・大江慎也(ルースターズのボーカル)がゲストとして登場。
グリーンステージ一発目としてお祭りの始まりを飾るに相応しい、愉快なロックンロールバンド。
甲本ヒロトがYMCAを歌っていた時に物販列に並んでいたのが非常に悔やまれる。
社長はいつも通りガウンを羽織ってらっしゃって非常に暑そうだ。
バンド内で社長の役割は「アジテーター」となっているが、実際はサックスのエフェクターをいじってダブ風にしたりパーカッションをしたりとちゃんと他の仕事もしていた。
クラブ・ジャズバンドであるため、どうしても後に見たJazzanovaと比較してしまうのだが、Jazzanovaの方に軍配が上がるかな。人数で負けてるし。
だからといってカッコ悪いというわけでなく、むしろこの二つはクラブ・ジャズ頂上決戦くらいな感じなので、最高に踊れた。
トランペットの人がソロの後に酸素吸入器使ってて、管楽器って大変だと思ったよ。
・怒髪天
普通のロックンロール。ただでさえ暑いのにめちゃくちゃ暑苦しかった。
別に嫌いとかそういうわけじゃなくて、「ゴミ分別に参加してタオルをもらおうキャンペーン」列に並んでた時に聞いたので、暑いのが辛かったってだけ。
ちなみに、「ゴミ分別に参加してタオルをもらおうキャンペーン」に関しては、タオル目的に参加するとフジロックごみ問題について考えざるを得なくなるという良企画だった。
みんな、リサイクル食器は食べかすが残らないよう綺麗に食べよう。
モッシュピットでは若者ではなく、いわゆるエアジャム世代のオッサンたちが大騒ぎ。
今でしょ!と思い人生初ダイブに挑戦するも、うまく支えてもらえずしょっぱい感じで前から退場。
今回二番目に楽しみにしてたバンド。
ついにJacking the Ballを生で聞ける時が来たか!灼熱のオレンジコートに涼しい風が吹き抜ける!と期待が高まるが…
CD音源の方がよかった。てかライブなのに露骨に既成音源使いすぎなんだよ…これ以上何も言うまい。
折角二列目で聞いてたけど途中で後ろに下がってしまった。
Twitter見てたら「オッサン感動して泣いてしまったよ」みたいな人が複数いたが、これで感動はさすがにハードル低すぎorノスタルジー効果でしかない。
2月に来日公演を見逃したマイブラ、ついにお目にかかれました。
Twitterで小野島大さんが指摘していたが、最初は音が小さく迫力不足だった。なんだマイブラこんなものかと。
音量は徐々に上がっていき、最後の曲くらいになるときちんと轟音と呼べるレベルになったので、ノイズの波に包まれる感覚はちゃんと味わえた。
しかし音量は上がったとはいえ、全体的は音の解像度が低く、音のレイヤーが緻密に重ねられているCD音源に比べるとかなりお粗末なサウンド。
ケヴィン・シールズの後ろには10台ほどのアンプが並び、ギターも一曲一曲取り替えていたが、努力虚しくといったところか。
Only Shallowのイントロとかライブだとどうなるのか楽しみだったのにな。
最後の曲で「うおーノイズの雨だ!」とか思ってたら本当に雨が降り始めて、「これはマイブラの演出か!?ハンパねぇ!!」とか感動していたのだが、その後雨は笑えないレベルに。
後ろの方で見るハメになったが、後ろの人達の目的はCharaではなくテントの屋根。
静かな曲の時も、隣の外国人が大声で会話をしており勘弁してくれという感じだった。
しかし「やさしい気持ち」は一応聞けたのでよかった。
Charaの声は生で聴くと尋常じゃなくハスキーであり、s/n比が大変なことになっていた。
もはやノイズボーカルといっていいレベルであり、非常階段のシャウト担当の人を思い出す。
「やさしい気持ち」サビでは絞りだすような歌い方がさらにノイズ成分を増していて、音程とかいう世界をもはや超越していた。。。
これは是非ライブで聴くべき。前で聞けなかったのが悔やまれる。
参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=EoUSERsC8VI
先日見た初音ミクオペラTHE ENDと同じ舞台構造で、背景のスクリーンと前面にある半透明スクリーンの間にDJブースがあるという構造。
このVJがすごすぎて、ちゃんとみんな音楽聞いてなかったんじゃないの?と思うレベル。
印象的だったのは、インテリジェントなサウンドと裏腹に、フライング・ロータス本人がかなり頭悪そう(いい意味で)でハイテンションなアジテーターだったことw
無駄に「オキナワー!キョウトー!インザマザファカ!」とか叫んでた。
・Char
迷うことなく1日目のベストアクト。
ライブはなんとノープラン。Charが友人ギタリスト及びフジロックで出会ったギタリストを順番に招いてひたすらジャムセッションしていくというもの(なんと二時間半も!!)。
ギターを少しでもかじったことがある人なら感動せざるを得ないライブだった。
Charはそれぞれのゲストとギターで会話。必要な言葉は「キーはDで!」というセリフのみ。
ギターでの会話にはきちんとシンタックスがあり、方言もあった。
奥田民生のソロの後にCharが「おっ、ギターも広島弁だねぇ」と言ったのが印象的。
フジロック当日に初めて会ったEddie Roberts(The New Masteroundsのギタリスト)はファンクギタリストであり、Charはブルースギタリスト。
ジャンルの違いは方言の違いのようなものであり、お互い歩み寄り会話を成立させていく様には全てのギター小僧が感動したことだろう。
Char本人に関して言えば、立ち居振る舞い、声、ギター、何をとっても最高にかっこいい不良中年だった。
ライブ中にタバコは吸うわ、ビール缶を蹴って客席に飛ばすわ、そんでもって58歳にもなってビールを口から友人に噴きかけるやつなんてCharくらいのものだ。
そして、Charはゲストたちだけではなく観客との掛け合いも忘れない。
「そろそろ声出しとく?」とライブ中何回もコールアンドレスポンスをはさみ、雨でずぶぬれになった観客たちの体を温めてくれた。
最後はWarの「Cisco Kid」の替え歌で、全てのギタリスト総出で「Fuji Rock Kid」を演奏。
我々観客はサビで「Fuji Rock Kid was a friend mine」と大合唱。
裏でやってた(どちらかと言えばCharが裏だが)ナイン・インチ・ネイルズも少し気になったが、Charを選んで本当によかったと思えるライブだった。
佐藤タイジと奥田民生はハードロック、鈴木賢司はエレキシタール、Eddie Robertsはファンク、CHABOとCharはブルースという、もう本当に異種格闘技戦だったわけで。
Char×Eddie Robertsなんてもう二度と見られないだろう。
ピラミッドガーデンという辺境の地でしかも深夜ということもあり、夕方のCharaとは対照的にセレクトされた客層。
どれくらい辺境かというと、メインステージがある方向と反対方面にテントサイトから徒歩20分というレベルなのだが、この場所は勝井さんたっての希望らしい。
まずは勝井祐二×U-zhaanの即興演奏。先ほどのCharとはシンタックスこそ異なれど、これまた達人同士による会話が繰り広げられる。
多分彼らは無限に会話を続けられるだろう。こうした即興演奏を見ると、もはや曲という概念がよくわからなくなってくる。
青葉市子はポンチョにサングラス、箒を振り回しながら登場し、その場にいた全員を困惑させる不思議ちゃんぶり。
青葉市子は弾き語りの音源とライブを聞いたことがあったが(翌日にも見た)、そこにエレキバイオリンとタブラが加わるとさらに素晴らしい曲に仕上がっていた。
最後はその日が命日であったrei harakamiとU-zhaanが共作した「川越ランデブー」を勝井祐二、U-zhaan、青葉市子の三人で演奏。
大げさな言い方だが、即興演奏の達人たちはもはや死者とも会話していた。
といってもシリアスな感じではなく、曲はむしろU-zhaan特有なシニカルなユーモアあふれるものだった。
後からYouTubeで原曲を聞いたが、歌の部分は青葉市子が歌う方が可愛げがあっていいと思う。
しかし、斎藤牛蒡店は自らのやばさに気づいてないあたり、U-zhaanよりもさらにやばい。
参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=NICEXdZ2s3o
勝井さんの演奏を見るのはこれで4回目だが、毎度毎度違った印象だ。
声優さんにとって、演技を聞かれて名前を当てられるのは名誉なのだろうか、それとも不名誉なのだろうか。
いい声だな、すごい演技だな、と思うことはあるが、それが誰なんだという事には執着がないし、よほど特徴的だったり野沢雅子レベルのメジャーな声以外は「声優当て」も全くできない。
俺は音痴だ。音を聞いても音階がわからないうえ、自分で音程も取れない。たぶん音という情報の処理が苦手なんだと思う。
だからと言って「声優当て」ができないことへの劣等感は全くなく、逆に多くのキャラクターの声を先入観なしに聞く事ができて得だとすら思っている。俺の中で、ルイズとシャナは全く無関係な別人なのだ。
ところが俺の弟はたいそう声優にご執心だ。
アニメを観ては「お、この声は誰々だな」「○○の主人公の××の声だよ」と、聞いてもいないのにクレジットを見る前に各キャラの声の主を当てていく。
俺はそれを聞くたび、いま見ているキャラクターにその別の作品のキャラクターのイメージがかぶってしまい、苦い思いをする。
俺にとっては、そのキャラクターはただ「そういう声」なのだ。別のアニメの別のキャラクターとは何の関係もない。そのキャラクターを気に入っていればいるほど、イメージに横槍が入るのは気分が悪い。そういう目で見る(耳で聞く?)のは無粋だとすら思う。
弟の「声優当て」は、悪気はなくとも自慢の範疇には入るのだろうから、正直バカにされているようで不快だ。そういう話は声優オタの間でやってもらいたい。
が、そんなもの気にするなと言われればそれまでだ。
というわけで、冒頭の疑問に戻る。
声優さんにとっては、果たして俺と弟、どちらが「嬉しい観客」なのだろう。
キャラクターの背後にいる自分ではなく、声と演技のみに目を向けている俺か。
演技で声を変えても(そうでない時もあるだろうが)ちゃんと見破ってくれる弟か。
当然声優もさまざまだろうけど、基本的には自己表現の仕事なのだから、自分を認識されたいと願うのが普通だと思う。
しかし、「七色の声」という表現もある声の演技者においては、そうでない部分もあるのではないかという気もする。
どうなんだろう。
楽器の王様がピアノなら、楽器の女王はヴァイオリンと、昔から言われてきた。
即ち幼少の頃から人生の一部としてヴァイオリンに打ち込んでいる人は、プロアマ問わず我侭キャラなのだ。
少なくとも自分も含め、知り合いのヴァイオリン弾きは全員そうだ。
具体例を出そう。
ヴァイオリン奏者だったら最大限丁寧な言い方でも「そこ音程悪いですね」と大概に横柄だし、相手が目下だと「音全然違うじゃん何調だよ」となり、挙句「ちょっとそれ何とかしてくれる?」と非難混じりがデフォだったり。
これがヴィオラだったら「んと・・・ちょっとそこの音程・・・」と非常に控え目だし、チェロだったら「そこの音程、確認のためにもう一回やろっか」と実にフレンドリーだったりするのだが、こういう対応はヴァイオリン弾きにはまず期待できない。
全くもって「お前何様のつもりだよ」と思われても仕方ない態度だが、そう反発されても「ヴァイオリニスト様ですが何か?」と平然と言ってのけるのがヴァイオリン弾きなのだ。
もちろん、その台詞の裏に込められた「だってキミ下手なんだもん」というメッセージを隠すそぶりは皆無である。
というわけで、何事も一番じゃないと気が済まないエエカッコしい人間に付き合う方は本当にお気の毒様という感じだが、なんでこうもヴァイオリン弾く人ばっかりが横柄になるのだろうか。
歌を録音して、動画を作って、題名に「歌ってみた」の文字を添えてニコニコ動画にアップロードしている。そんなことをもう3年ぐらい続けている。
多くの「歌い手」がそうであるように、私もボカロ曲やアニメソングなどを主に歌っている。でも、最初からそうだった訳ではない。一番最初に「歌ってみた」のは戸川純の「諦念プシガンガ」だった。戸川純ファンと思しき人々から辛辣なコメントが次々に投稿されたので、怖くなってすぐに削除してしまった。今にして思うと、それほど激しく攻撃されたわけではないけれど、不特定多数からネガティブな感情を突き刺されることに慣れていなかった当時の私は、すぐにパニックに陥ってしまったんだと思う。
話が前後するけれど、私が「歌ってみた」を始めたそもそもの動機は、ざっくりした言い方をしてしまうと、チヤホヤされたかったからだ。いや、チヤホヤとまでは行かなくても良い。ただ、自分が起こしたアクションに対して、誰かから何かしらの肯定的なリアクションを返してほしかった。
当時の私は実生活があまりパッとしなかった。地方の大学を卒業して、それなりに名前が知れた電機メーカーに入社して、東京に配属されて、そこでずっと働いていた。それ程極端に忙しいわけでもなく、賃金にも満足していた。会社での人間関係も悪くない。
しかし、仕事を終えて、職場を一歩離れてみると、途端に宙ぶらりんになる。
たまに職場の飲み会に参加したり、数少ない友達とご飯を食べに行く以外には、特にやる事がない。やりたい事がない。資格の勉強をしてみたり、ジムに通ってみたり、ライブや映画を観に行ったり、ウクレレを練習してみたり、色々と手を出してはみるものの、それでも一人の時間を持て余す。新しい友達を作りたい。でも、友達をどうやって作れば良いのか分からない。恋人もずっといない。友達の作り方も分からないけれど、恋人の作り方となると見当もつかない。今となっては誰かを好きになるという気持ち自体がよく分からない。
決して不幸ではないし、普通に生きていけているけれど、その普通さに、波風の立たなさに、だんだん気持ちが押しつぶされていくような感覚を覚えながら、毎日を過ごしていた。
そんな時、キリンジの動画を観たくてYouTubeを検索していたら、どこかの少女が自宅で撮影したと思われる動画に行き当たった。顔が見えない角度でギターを弾きながら「エイリアンズ」を歌っている動画だった。冷やかし半分の気持ちで再生してみると、ものすごく上手くはないけれど、原曲の雰囲気を大事にしながら丁寧に歌っていることが伝わってきて好感を抱いた。
その動画は、元々はニコニコ動画にアップロードされたものを本人がYouTubeに転載したものだった。ニコニコ動画の、同じ動画にアクセスしてみると、コメント数は50程度で「雰囲気が良いね」、「頑張っている」といった、私が抱いたのと同じような感想がぽつぽつと付けられていた。
それ以前にもニコニコ動画の「歌ってみた」の存在は知っていたけれど、若い子達が派手なアレンジの曲を大げさに歌った動画に対して、賛否ともに過剰なテンションのコメントが弾幕のようにつけられているような、私とは世代も文化も違う人達が集まる場所だと思っていたので、この「エイリアンズ」の、まるで地方都市の駅前の暖かな路上ライブのような雰囲気は意外だったし、好ましくも感じた。
それから何週間か、毎晩ニコニコ動画で自分が好きなミュージシャンの名前の後ろにスペースと「歌ってみた」という文字を付けて検索して、色々な「歌い手」の動画を観て回る日々が続いた。多くの動画は、3桁に届かない程度のコメントしかついておらず、お世辞にも盛り上がっているとは言えなかった。
だけど、どの動画にも、最初に観た「エイリアンズ」と同じように、「歌い手」達に対して押し付けがましくない程度に好意を伝えるコメントが並んでいて、それらのコメントを眺めていると心が落ち着いた。同じ音楽を愛する人たちが集まって、それこそ「ニコニコ」しているような、楽しさがそこにあった。
でも、多くの「歌い手」は決して歌や演奏が上手なわけでは無い。色々と動画を観ているうちに、「この程度なら私でもできる」と思う事がだんだん増えていった。そして、ある動画を観ていて「何で普通に歌っているだけで、みんなから褒められるんだ。ズルい」と思った瞬間に、私は我慢できなくなった。すぐさま、Googleで「諦念プシガンガ コード」を検索した。自分で歌ってみるならこの曲だと、実はもうずっと前から決めていた。この曲なら、私が弾ける唯一の楽器であるウクレレでも似合うはずだと思っていた。
しばらくの間、家にいる間はずっとウクレレで「諦念プシガンガ」を練習した。夜中にウクレレの弦が切れたので、慌てて池袋で一番遅くまで開いている楽器屋に駆け込み、ウクレレの弦を3セット、そして、思い切って19800円の新しいウクレレも買った。今まで使っていたのは雑貨屋で買った1980円のものだった。
毎日毎晩、練習した。そして二週間。私は、今まで殆ど使ったことがなかったパソコンの動画撮影機能を起動させて、最初に観た「エイリアンズ」の彼女のように、自分の顔が映らないようにディスプレイの角度や、座る位置を調節して、目一杯緊張しながら「諦念プシガンガ」を、歌ってみた。三回目の撮影で、声がひっくり返らず、音程も飛ばず、ウクレレも殆ど間違えなかったので、それをアップロードした。
それでも懲りずに、「歌ってみた」動画をアップロードし続けた。一週間から二週間かけて、歌を決めて、練習して、撮影して、公開する。そんな生活サイクルが自分の中で定着してきた。ネットで検索してコードが分かる曲の中で、自分にも歌えそうな好きな曲を選んで、少しずつ歌ってみた。再生数もコメント数も少なかったけれど、動画にアクセスする度にちょっとでも再生数が伸びていたり、一つでも新しいコメントがつくと、無性に嬉しかった。「新曲待ってました」というコメントが目に入ってきた時は涙が出そうになった。この人は、私の歌を待っていてくれた。私のことを待ってくれていた。それは、初めて感じる種類の喜びだった。
そのうち、オーディオインターフェイスやマイクを使うようになった。パソコン標準の動画撮影機能の音質では物足りなくなったのだ。初めてそれらの機材を使って録音したときは自分の声がはっきり録れすぎていて、その生々しさに怖気づきそうになった。「どうにでもなれ!」という気持ちで公開すると、「ものすごく聴きやすくなった」という暖かいコメントが返ってきた。再生数が伸びる速さが、少し上がった。
「ボカロを歌ってみてほしい」というコメントがついたので、ウクレレで試しに「メルト」を歌ってみたら、再生数がさらに跳ね上がった。初めて、再生数ランキングの下の方に自分の動画が表示された。否定的なコメントも「諦念プシガンガ」の時とは比べ物にならない程の数が寄せられたけれど、それ以上に好意的なコメントもどんどん書き込まれた。生まれて初めて「萌えた」と言われた。
多分あの時、私は、気持ちの上で一線を超えたんだと思う。
すぐに私は、ボーカロイド関係のウケが良さそうな曲を選んで歌ってみるようになった。私のウクレレの腕では弾けない曲ばかりだったので、出来合いのオケを使うようになった。歌の練習だけで済むようになったので、ずっと楽になった。再生数もさらに増えた。コメントも増えた。それまで自覚していなかったのだが、私の声は一定の人々の「萌え」をくすぐる要素があるらしい。そういう人達のコメントを眺めることが、たまらなく快感だった。最初からこうしていれば良かったと思った。「ウクレレじゃないと魅力が半減」というコメントも投稿されたけれど、しばらくは見て見ぬ振りでやり過ごし、やがて「ウクレレ」をNG設定して自分の目に触れないようにした。
それまで日常的に使っていたTwitterアカウントとは別に、「歌い手」としてのアカウントを作った。最初は「新しい動画を公開した」といったアナウンスに使っていたのだけれど、少しずつ他愛のない呟きや、自撮り写真を載せるようになった。
フォロワーの人たちは私のちょっとしたツイートにFavをつけたり、リプライをくれたりした。私が精一杯角度や光を工夫してボロが出ないように撮影した顔の一部や、素肌を撮影したボンヤリした写真に「100万回保存した!」と反応してくれた。
Twitterは、ウクレレで弾き語るよりも、オケにあわせて歌うよりも、ずっとずっと楽だった。準備もいらない。練習もいらない。ただちょっと踏み込んだ事を言ったり、気を引くような写真を見せるだけで、肯定的なリアクションが返ってくる。最初はウサギのイラストをアイコンにしていたけれど、途中からTwitterで知り合った絵師の女の子が私をイメージして描いてくれたという、素顔の私とは似ても似つかないウサ耳美少女の画像に変えた。フォロワー数が激増した。
先週、ある男の子に会った。
その日、私はお台場で開催された岡村靖幸のライブ会場にいた。満員の客席で、開演を待ちながらスマートフォンで「今から岡村ちゃんのライブ♪」などとツイートしていると、後ろから肩を叩かれた。まだ二十歳にもなっていない程度の、知らない男の子だった。そして、彼自身のスマートフォンに表示された、私が投稿したばかりのツイートを指差しながら、不安げな顔で、口の動きだけで「◯◯さん?」と、私の「歌い手」としての名前を呼んだ。血の気が引いた。
彼が誰だったのか、何でそこにいたのかは分からない。たまたま、私のことをフォローしていて、客席で私のスマートフォンの画面を見て気付いたのか、あるいは以前から岡村靖幸ファンを公言していた私に会うためにライブ会場にまで来たのか、今となっては分からない。彼は、名前を呼ばれて凍りつく私の顔をしばらく見た後、そのまま振り返って、他の観客の間を押しのけて、客席のずっと後ろ、私から見えない位置にまで移動してしまった。
全身が震えた。姿を見られた。
岡村ちゃんと同い年の、歳相応の容貌の私の姿を、私の子供でもおかしくないぐらいの男の子に見られた。
もし、彼一人がネット上で私のことをバラしたとしても、恐らく多くの人は真に受けないだろう。写真を撮られたわけでもなければ、私が自分で「はい、歌い手の◯◯です」と認めたわけでもない。
頭では分かってる。絶対大丈夫。今までと何も変わらない。
でも、あれから一週間。私はニコニコ動画にもTwitterにもアクセスできずにいる。
この世界にたった一人だけでも私の生身の姿を知っている人がいると思うと、私はもう、私とは似ても似つかない萌え声ウサ耳美少女歌い手の◯◯になれない。
そして、全てのきっかけになった「エイリアンズ」の歌詞を思い出す。
この星の僻地で、私が自分自身にかけた魔法は、あの日、あの一瞬で解けてしまったのだ。
アンケートでさ、音漏れが不快って人はかなりの数いることは分かったわけだよね。
あとは音量とか音の内容とかで程度の差はあるだろうし、そこは人それぞれだろうけど
「かなりの数、不快な人がいる」ことが分かった時点で、そういう行為はやめておこうと思うのが普通じゃない?
音漏れさせないように(いいイヤホンで?音量下げて?)聞くか、車内で音楽聞くのやめるか、すればいいだけだよね?
「ちょっとのシャカシャカ音くらいなら大したことないはずだ、気にする奴は神経症だ、不快って言うなら基準値をはっきりしろ!」
…なんて言う人は、そりゃ攻撃されるよ。そこはちっとも理不尽じゃないと思う。
「シャカシャカ音程度」とか書いてるけど、シャカシャカ音は程度で片付けられるものかどうか?
そこを問われてると思うよ。
今度はキミが、「うるさい音漏れにはちょっとくらいのシャカシャカ音は含まれないと皆思ってる」っていうデータを探してみるべきじゃないかな。
見つからなければ、音漏れが不快な人が多いという事実しか明らかになってないんだから、判明した事実を尊重して、
「ちょっとくらいのシャカシャカ音ならいい気がするけど、そこは分からないので、大事を取ってやめておく」
という態度を取るべきでは?
自分が思いつける曲は2つ。
BPM は、BPM Analyzer(http://www.mixmeister.com/bpmanalyzer/bpmanalyzer.asp)で測ってみた。
(音程上がり下がりの激しさが、ボーカロイドの音の特徴を隠している?)
youtube(ミラー):http://www.youtube.com/watch?v=MeWXZw07oR8
niconico:http://www.nicovideo.jp/watch/nm9437578
ボーカロイドファンのボーカロイドファンによるボーカロイドファンのための曲の嚆矢?
youtube(ミラー):http://www.youtube.com/watch?v=DouheoH8GTs
niconico:http://www.nicovideo.jp/watch/sm2937784
歌える音域、
発声法、
息しなくていい、
ボーカロイドについてのメタ的視点(自分はこれはあんまり好きじゃない)、
ボーカロイドの声質の特徴、荒いスタッカートの発声が高速で連続。
(なめらかなスラーをさせることが難しい(これを巧くやるのが”調教”の第一歩?)ことを逆手にとったかんじ)
閃光のようなイメージのイントロからそういう曲調を予感させて、最後まで統一感。
劇場で上映されている、『オペラ座の怪人』25周年記念公演 in ロンドンは音がずれています。
これから見に行こうと考えている方(特に絶対音感のある方)は、ご注意ください。
私は、途中で気持ち悪くなり、退場いたしました。
なぜ音がズレているのか問い合わせメールを出したところ、
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観させていただきました。
音が半音下がっている箇所がありました。
私は絶対音感があるので、音のゆらぎが気持ち悪くなり
ご回答のほどよろしくお願い致します。
---------------------------------------------------------
ご指摘の件、ロンドンのUniversal Pictures International(UPI)に
問い合わせたところ、以下のことが判明いたしました。
この公演の撮影は、フレームレイトが25フレームの規格の機材で行われました。
DCP(Digital Cinema Package)という世界規格に変換する必要がありました。
この規格のフレームレイトは24フレーム、すなわち1秒間に24コマの映像が収録
されます。
収録音声を早回しにすると音が高くなり、
遅回しにすると音が低くなる現象は、容易に想像できるかと思います。
今回は、1秒間25コマの速度で収録された音声を
1秒間24コマのスピードで再生することとなり、25分の1秒分遅回しにすることに
よって、
その分、音程が低くなったというのが、理論上考えられることです。
非常に微少なスピード差であるので、これによって半音以上の音程差が生じると
は考えにくく、
絶対的に音感の鋭敏な方には判る可能性がある一方、
UPIでは、DCP上映にあたり同様の指摘を受けたのは、今回が初めてという説明です。
更に日本国内のスタジオに取材してみたところ、楽器や声の音質や、旋律、音の
高低により、
特に差が目立って聴こえる箇所があるのかも知れない、ということです。
音程の問題を解消する手段としては、音声のスピードを変えずに再生するため、
映像を毎秒1コマずつ間引いて24フレームに合わせる方法がありますが、
これを用いると、今度は映像の方に飛んでいるような現象が生じる可能性があり、
なぜフレームレイトの違う機材で撮影を行ったのか、という疑問が生まれますが、
これはアナログ時代から世界各地で異なるビデオ信号が採用されていた歴史があり、
それに伴い英国では25フレームというフレームレイトが一般的で、
UPIとしては、日本での上映を心待ちにされているお客様のために最速の実現を
目指した結果、
限られた時間と環境の中で出来うる限り最良の映像と音声を送ったつもりだった
ということです。
これまでの説明で我々の理解するかぎり、ご指摘くださったお客様は、
ごく少数の並ならぬ鋭敏な音感の持ち主でいらっしゃるということが言えそうです。
我慢を強いることとなりましたことをお詫び申し上げるとともに、ご理解を賜れ
ればと存じます。
今回のご指摘を真摯に受け止め、今後の課題とさせていただきます。
なお、DVDおよびブルーレイにつきましては、音程の問題を修正し、
Really Useful Group(RUG)の監修と承認を受けたものを発売する旨、UPIの確
認を取りました。
日本で発売されるDVDおよびブルーレイは、UPIの制作するマスターに基づくもの
です。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人の感想その5。これまで紹介した感想は「ヴァーチャル・アイドルとしての初音ミク」を論じていたが、今回はミクの本来の姿、即ち「歌声合成ソフトとしての初音ミク」に注目しているのが特徴だ。また外国における歌声合成ソフトの将来性についてかなり厳しい見方をしているが、その指摘には耳を傾けるべきところも多い。初音ミクの海外進出に関する先行きを占ううえでも目を通しておく価値はあるだろう。
urlは以下の通り。
http://lelangiric.wordpress.com/2011/07/07/i-didnt-go-to-ax-but-yeah-anyway/
ミクのイベント後にはいつもヴァーチャルスターの構成要素は何かって議論が巻き起こる。クラウドソースな人格か? touhou[東方]っぽさ? オリジナルのないdoujin[同人]? それともインターネットとDTMの力に関するフリードマン風の熱狂か?
確かに日本じゃ大うけだが、アメリカではこれからどう成長するんだ? オレは英語のVocaloid3が発売されるのを待っている。いいものであってほしい。アメリカでのボーカロイドの発展には英語Vocaloid3の性能が極めて重要なんだ。けどな、アニメ産業とボーカロイドとの結びつきについては、オレは戸惑っている。つまりAXがミクノポリス会場になったことにな。今後も長期にわたって、アメリカではボカロオンリーのイベントはないだろう。アメリカに拠点を置く企業製のボーカロイドすら未だにない。オレが知っている[英語ボカロの]2つの会社はPower FX(スウェーデン)とZero-G(英国)だ。
でもな、そこでオレは考えてみたんだ。
ボーカロイドはvst[ヴァーチャル・スタジオ・テクノロジー](とかその他のapi[アプリケーションプログラミングインタフェース])といくつかの重要で理論的な方法は似ているんだが、極めて重要な具体的手法は根本的に違っている、とオレは理解している。基本的に(ある人間の)音声ソースを取ってきてあらゆる音素と音程を録音し、ボイスバンクを作った後で、ヤマハのVocaloid2プログラムがボイスバンクを「読む」ことができるようアプリケーションをコードする必要がある。オレはヤマハがこの部分で相当用心していると思っている。なぜなら公式のボーカロイドは(もしオレが間違っているなら訂正してほしいが)全部ヤマハのVocaloid2エディターと一緒に販売されているからだ。この意味でvstとは根本的な差異が存在する。(1)vstは通常daw[デジタル・オーディオ・ワークステーション]と一緒に流通することはない(2)vstの開発者であるスタインバーグは、vstプラグインを規格として作成しており、従って誰もがvstプラグインを作り出せる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Virtual_Studio_Technology
http://en.wikipedia.org/wiki/Digital_Audio_Workstation
http://en.wikipedia.org/wiki/Steinberg
つまり、誰もがボイスバンクを作れるってことだ。UTAU現象がそれを示している。UTAUは違うソフトで動くボーカロイドの単なる「代替手段」(本当の意味でではないがオレは耐えられる)のフリーウエアに過ぎない。自家製ボーカロイドが登場するには(『ファンの作ったボーカロイド』はあるが、本物の商業ベースのボーカロイドとは違う)2つの条件を満たさなければならない。ある団体が充分な資本を集めて(1)高品質のボイスバンクを作成し(2)ヤマハからそのVocaloidエディターを頒布する許諾を得ることが必要なんだ。既に言った通り、紛らわしいのはボイスバンクをプログラムに「読ませる」ためのアプリをヤマハとサードパーティのどっちがコードしているのかってこと。思うに、もしおれがAXの会場にいてこの質問をしていたら、特にヤマハからVocaloid2の許諾を得るのにいくらかかるかを聞いていたら、オレは殺されていただろうな。日本のdoujin歌手を使えば高品質なボーカルを作るのはそんなに難しくないだろう。必要なのはインターフェイスと集音マイク。ダチを作ってそいつらに作業をさせる。そしてUTAUのファンダム全体を見れば分かるが、自分自身を体現したボイスバンクを作ろうとするモチベーションの持ち主は山ほどいるぜ。
http://utau.wikia.com/wiki/UTAU_wiki
オレが何を言おうとしているか分かるだろう。つまり、アメリカ製のインディー・ボーカロイド・スタジオの実現性ってのはどのくらいあるんだ?
少なくとももっと注意深く考え抜く必要がある4つの条件があると思う。
1. アメリカのアニメ業界とボーカロイドの関係。オレが思うに、ブランドイメージと、それからボーカロイドとアニメを結び付けているメーンストリームの連中のことを考えれば、こいつは最も重要な問題だ。「アニメ」はアメリカでその「あるべきもの」(つまりdirty japanese hentai shit)より遥かに大きな概念/カテゴリーになるべきだ。でもまあオレが見てきた限り、日本のボーカロイドにも同じ混同の問題があるようだけどな。とにかく、メーンストリームが一般的にアニメをどう見ているかがボーカロイド関連商品の売れ行きに影響するってことなんだが、この問題はオレには重過ぎる。omoやalexが考えてくれんじゃねーの、多分。
http://twitter.com/#!/alexleavitt
2. 誰か英語ボーカロイド使ってるヤツいる? 西洋ボーカロイドファンダム総体の認識として、1人だけすげえアメリカ野郎がいて、そいつがボーカロイドランキング(ニコニコのやつで毎週ボーカロイドの歌/動画をコメント/再生数/マイリストに従ってランク付けしている)に[英語ボカロを]ぶち込んだことがあった。でもそいつは突然自分の動画を全削除しちまった。この一度こっきりの出来事を除けば、ボーカロイドは完全に日本のものだ。他にも英語が母国語の作り手はいるんだが、皮肉なことに英語話者のボーカロイド製作者が基礎を置く発生核となりそうな連中の大部分は、日本語ボーカロイドにengrishをしゃべらせようとしている有様だ(大笑い)。
この問題にはさらに深い根がある。
3. そんな真面目な議論じゃないんだが、ある文化の労働的な基底はどうして特定の製品に同調し他の製品には抵抗するのかについて話がなされている。歴史的かつ社会経済的な問いだ。どうしてチリは銅を掘っているのか? なぜならそれがくそったれなほど沢山あるからだ。結果として採鉱は(おそらく)経済的な基盤が上部構造へと波及していくのと同じように(違うか?)文化的な行為となる。なぜアメリカは基底からやって来る沢山のボーカロイド曲を持っていないのか? その理由はもう挙げているな……(1)なぜならdirty anime hentaiだから(2)アメリカにいるデスクトップミュージック人種はテレビゲームと映像作品に集中してやがるから。
http://www.imdb.com/title/tt0132477/
http://en.wikipedia.org/wiki/Base_and_superstructure
4. 2番目に上げたデスクトップミュージックの問題は重要だぜ。もしお前が独立した作曲家としてメシを食っていきたいのなら、お前の時間と貴重な音楽的アイデアをボーカロイドのように不安で子供じみた音に賭けてみようなんて考えは二度と起こさないだろう。そいつは正直、新しすぎる。西洋諸国は上出来なデスクトップミュージックを作っている。問題は、ボーカロイドは今も、そしておそらくは長期にわたって、もしかしたら決して、独立したアーティストにとって頼れる収入源にはならないってこと。たとえそれで生計を立てる気がないとしてもだ。アメリカでボーカロイドは、他のデジタル関連のインディー業界のように花開くことはできるのか? アメリカのボーカロイドが日本のdoujin業界のようになるにはどうしたらいいんだ?
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクのLAコンサート、外国人感想その4。今回は初音ミクという存在についてかなり真正面から書いたものを紹介する。筆者はコンサートだけでなくアニメ・エキスポで行われたいくつかのパネルにも参加したようで、日本から行った関係者の発言も引用しながら初音ミクとそれを取り巻く現象に関する考察を述べている。これを読めば「初音ミクとは何か」について一通りもっともらしい話ができる程度の情報が盛り込まれた、なかなかいいまとめだ。
urlは以下の通り。
ヴァーチャル・ディーヴァ(仮想の歌姫)になるということは、正確にはどういう意味を持つのだろうか? 初音ミクの人気について真に理解できるようになる前に、彼女が正確には何者なのかを確認するのがおそらくは最適だ。しかしながらこのテーマは思いのほか扱いが難しい。最も簡明な言い方をすれば、彼女は明らかにセガとヤマハによって発展してきた音楽制作ソフトのために藤田咲の声を録音しデジタル化した商品のパッケージ用にデザインされたキャラクターだ。だが同時に、彼女が本当の意味では存在していないという主題もそこにある。我々がミクの歌について話している時、我々は厳密に言えば生きていないものに対して隠喩を使っている。思うに初音ミクとは我々が理解しているより遥かに複雑なものなのだ。
アニメ・エキスポ2011は間違いなくミクの全てを取り上げていた。ミクノポリスは、それがノキア・シアターで行われ、かつ売り切れた唯一のものであった点だけを見ても、明らかに週末最大のイベントだった。他のゲスト――クリプトン・メディアの伊藤博之と佐々木渉、ダンスロイド、及び小林オニキス――はミク登場のおまけとして呼び寄せられた。アニメ・エキスポがコンベンション全体のテーマに「ファンの年」を選んだのは、ただのお遊びではない。結局のところボーカロイドは、ヤマハの剣持秀紀マネジャーがコンベンション3日目のパネルMirai no Neiroで言及したように、ファン、製作者、及び消費者の間にある障壁を切り裂いている。
ミクがいくらか人間っぽい性質を備えているのは明らかだが、同時に彼女の存在はメカニカル(機械的)かつヴァーチャル(仮想的)でもある。歌姫という用語は、技術的な能力をほのめかしているのみならず、高い人気という意味も示唆している。だがミクの人気はピンポイントで捉えるのは難しい。小林オニキスがアニメ・エキスポ2011の2日目にミク・カンファレンスのパネルで発言した内容によれば、彼女の成功は3つの要素に拠っているという。ミク自身、制作過程での自由さ、そして世界規模のインターネットだ。私がオニキスの判断に異論を唱えないのは確かだが、彼の指摘した3つの点をさらに分析すれば初音ミクの存在について興味深い事実が判明すると思う。
トヨタの初音ミク・カローラCMを巡る謎がついに明かされた時、トヨタが特にアニメ・エキスポを念頭に置いて若い客に対する濃密な市場調査を行ったことが判明した。トヨタはアニメ・エキスポ2011に2台のitasha(アニメやゲームのキャラを描いた車)、スタッフチーム一そろい、車の前でミクのコスプレをする可愛い女性、そして小さなカローラの絵の上で可愛らしく微笑む子供のようなミクを描いた何千枚ものポスターを持ち込んだ。ミクはただソフトに特色を出すため作られたキャラに過ぎないという事実にもかかわらず、彼女は自動車企業の公式看板娘となるのに充分なほど人気があった。アメリカにおける市場性の存在にはかなりの疑問があったものの、この宣伝活動はミクにとって大きな一歩だった。
初音ミクの生まれは、実際にはどこの馬の骨とも分からないものだ。彼女は、自身が市場に出ることとなった新しいVocaloid2シリーズの、箱に描かれたイラストとしてその生を始めた。つまるところ、それが彼女の全てだ。だが、日本中の製作者たちが楽しく、突飛で、面白い歌を書き、彼女を描いたり動かしたりすることで彼女に性格を付け加え始めたため、彼女はすぐ自らの命を手に入れた。最終的に彼女のイメージにはネギが伴うようになった。
これがなぜ重要なのか? ミクが東方シリーズに出てくるキャラとどれほど似ているかについては、おそらく指摘する必要もあるまい。ゲームに出てくるキャラの多くが極めて限られた背景情報しか持たず、それゆえにキャラの性格をさらに発展させるため製作者とは無関係にファンダム自体が自由に想像をめぐらせる余地があるという事実に、東方厨の一部は対応してきた。同じようにミクの仕様に存在する欠落は、歌やビデオという形式をまとった小さな物語の発生を許し、それが巡り巡って単なるキャラを超えた命の有り様をを彼女にもたらした。彼女は利用者が作り出す製品の力に具象化された肖像であり、概念だ。
そのインターフェイスは、比較的直感的に使える。音楽用語を使う代わりにこのソフトは、メロディーを生み出すためピアノの音程と一致したいくつかの棒の上に長い音符を置く。ピッチとテンポは製作者の目的に合うように変更でき、ビブラートと発音も自由に変えられる。完全な楽曲を作るため、ドラム、ピアノ、ギターなど追加の伴奏も付け加えられる。
ヤマハの音声技術開発チームを率いた剣持秀紀によれば、初音ミクは作曲家と歌手にとって伝統的に必要なものを補完する革命的なソフトの顔を務めたからこそ、ヴァーチャル・ディーヴァなのだという。ミクは、かつてデジタル楽器がやったのと同じように音楽世界のあり方を変えたソフトだと、彼は主張する。それが楽譜制作だけでなく、自然言語における発話パターンの複雑さまでまねしようと試みていることを踏まえるなら、おそらくそれ以上のものと言える。
剣持はプレゼンの際に彼の議論の核心を効果的に実証してみせた。まず彼は、人間の耳とって自然な音をボーカロイドに生み出させるのが、どれほど困難かを説明した。次に英語のボーカロイドソフトSweet Annを使い、極めて短時間でハッピー・バースデーのメロディーを生み出してみせた。そしてボーカロイドは単純に人間の声をコピーしようとしているものではなく、その特別な性質故にある意味で音楽の未来を示しているのだと強調した。極めて広範囲なジャンルにふさわしいものにするため、ライブラリを変更することができる。人間の耳が言葉を理解できないほど速いレートで音を生み出すのも可能だ。どんな歌手より長く引き伸ばして歌うこともできる。最も有名な初音ミク曲の一つ、初音ミクの消失を見るだけでいい。ボーカロイド史の比較的初期段階からソフトが持つこれらの側面を製作者が上手く利用していたのは明らかだ。つまりボーカロイドは、その人間に似たヴォーカルと同じくらい、その機械的側面も売り物になっていたのである。
プロの音楽家とアマチュアの双方に販売されることで、ボーカロイドは間違いなく伝統的に音楽に存在した境界線を壊し、比較的音楽知識の乏しい者たちが数千から数百万ものビューを稼ぐ歌を作り出すのを可能にした。アーティストだけでなく、ネットに詳しい個人がよく知っている視聴者に合わせた歌を作ることもできるようになった。
ニコニコ動画が日本におけるボーカロイド活動の主要拠点であることは否定できない。この動画シェアサイトには、他の種の動画ランキングに加えて人気のあるボーカロイド曲のランキングもある。つまりミクの成功は、彼女自身と製作者あるいはソフトの能力だけではなく、日本のユーザーが新たに作られた歌に関する集計された情報を見つけるのが容易である点にも依存している。
ミクの人気は彼女の声だけにとどまらない。ボーカロイド・コミュニティーから抱き合わせでニコニコ上に出てきた他のコミュニティー、例えば「Utattemita」(歌ってみた)、あるいは「Odottemita」(踊ってみた)などは、それらの人気故に今やニコニコのメーンページにある案内バーにそれ自体のカテゴリーを載せるまでに至っている。国境を越えたアニメ及びゲーム・コミュニティーへのウイルスのようなミクの拡散は、製作者及びファンの双方で似ている情報拡散能力に頼っている。
最初の質問に戻ろう:ヴァーチャル・ディーヴァとはつまり何か?
ミクの「仮想性」は要するにオニキスの言う1番目と3番目の要素に起因する。彼女は世界中の数百数千という人々の想像力に根っこを持ち、一方で彼女の側は人間としてのどのような制約も持たない、骨格だけのキャラだ。同時に、インターネットにおけるファンに基礎を置いて成長するボーカロイド・コミュニティーには、それを統制する法的な枠も基盤も僅かしかないという事実故に、彼女は著作権問題からも比較的影響を受けない。実際、利用者が生み出しファンが作り出す素材に対して日本企業が示す寛大さは、英語を使うユーチューブ・コミュニティーが慣れ親しんでいるものに比べれば衝撃的なほどに大甘だ。技術的にも、誰もが歌わせることのできるミクの束縛のない能力は、有名になるためどんな歌姫にも必要とされる人気と広い支持とを提供する。
理論的にはミクのスターダムへの道は、彼女が完全に作り上げられたキャラではなく、その中身が欠落しているという点にある。オタクの行動様式とポストモダンにおける消費パターンに関する東浩紀の著作から引くなら、ソフトの利用者が作り出した歌と動画に描かれた個人的で小さな物語を生み出すためのデータベースとしてボーカロイドと初音ミクが使われている。同時に人間の声を合成することで達成された技術的偉業が、音楽産業内における伝統的役割に新たな裂け目をもたらした。あらゆる種類の消費者、製作者、ファン、音楽家、個人的技術者が、あたかも300年前にルソーが思い描いた政府のように有機的なコミュニティーへと参加している。
初音ミクとは2つの面を持つ現象だと私は主張する。ミク自身は、情報的に遍在する世界の中にいる個人たちの行動様式に根ざしており、世界的コミュニティー総体の想像力によって生み出されている。一方、ソフトは技術的革新による製品で、それは技術がミクの成長にどれほどの役目を果たしているかを過小評価するのが間違いであろうと言えるほど、過去にあった境界を超越してのけた。
ミクノポリスの会場で照明が落とされ、初音ミクが最初にステージに姿を現した時、聴衆の中で数千のファンが上げた叫びを誤解することは不可能だ。堅実で具現的な光学的幻想を生み出すスクリーンに投影され、ミクはボーカロイド商品の箱を彩る二次元画像という起源から、サイエンスフィクションのポップスターへと素早く進化する。来るべき年月におけるボーカロイド発展への将来性を踏まえるなら、Mirai no Neiroパネルこそまさに新たな造語にふさわしい:「未来の音色」
The Nihon ReviewとAnime Instrumentalityはアニメ・エキスポにおけるミク関連のリポートを協力して提供する。コンサートそのものに対する詳細な報告は、Anime Instrumentalityに掲載されているzzeroparticleのエントリーをご覧いただきたい。
使用画像はPixivにある。この画像がコミケット80で使われたことについて、Moccyにお祝いを申し上げる。
http://www.pixiv.net/member.php?id=191242
この週末にアイデアを論じるという楽しみを分かち合った数十人、同僚のライターであるShinmaruとEternal、同じくAlex Leavittと、そして日本へ戻ったミクノポリス/未来の音色のスタッフに、心からの感謝を。
http://dph.ninja-x.jp/index.html
ミクについてよく知らない人へ、ネット上には利用できる多数の英語資料がある。おそらく外国のコミュニティーを本当に制限している唯一の問題はニコニコ動画への簡単なアクセスができない点であろうが、十二分な興味を持っていくらか賢い検索をユーチューブで行えば、ニコに投稿されたほとんど全てを見つけだせる。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
ちなみにボカロっていうのは例えば初音ミクとかに代表される歌声合成ソフト(ボーカロイド)で、
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv01.jsp
声優さんの声を大量に収録しておいて、
事前に収録した音を切り貼りしてるという点ではエレクトーンとかと同じ。
それがボカロ曲。
で、ほんまか知らんけども校内放送で使うのが禁止されたらしい。
たとえば「機械だから」を「機械のみで生成された楽曲の放送は禁止」というルールと思うと、
そして「歌詞が分からないから」を「歌詞が判別できない楽曲の放送は禁止」というルールと思うと、
誰が分からないと判断するのかという問題がのこるし、
じゃあ洋楽は英語が分かる人と分からないひとで判断が違うという問題がのこる。
これだと結局その教員が禁止するかどうかに委ねられているので、
その人の顔色を伺う以外に判断できない。
しかし、一見客観的っぽい理由を並べて、それが独裁だということを隠そうとしている。
(1) 「(教員の名前)が放送を禁止するかどうかをすべて判断する。」っていう完全独裁か
(2) 「以下のルールに従う曲は放送してよい。」というルールを張り出すか
この二つしかない。
とくに(2) はできる限り厳密にかかれるべき。
うちは震源から遠い神奈川県民で被害もほぼゼロ、強いて言えばお店での買い物に個数制限が出来てしまったのが少し不便なぐらいで、
パソコンをしながらテレビを見て「原発の話ばっかり飽きたなー」と鼻をほじる余裕があるくらい、何不自由ない日常生活を送れている。
そんな大地震の影響で、テレビ CM は AC のものばかり。
子宮頸がんと乳がんの CM。(関係ないけど子宮頸がんって女性の二人に一人はなるんだけど多くの人は発症しないで済むものなんだとか)
オシムが出てる脳卒中の CM。(男に子宮はないから男がなりやすい脳卒中の啓発ってことなのかな)
子どもに手当てを、の CM。(セリフの順番覚えてしまった。お花作ったの、え、何、幼稚園でお花作ったの、キャーおててー……)
極めつけはポポポポ~ン。(これに至ってはドラッグ、ダメ、ゼッタイ。にしか見えない)
AC の CM がバンバン流れるようになってから2、3日は「しつこいなー」とイラつく程度だったんだけど、ここ2、3日はどうも俺の様子がおかしい。
何というか、情緒不安定というか、CM を見ると悲しくなって、胸がキリキリと痛む。
男だけど子宮頸がんか何かにでもなったんじゃないかと不安になって、同様の症状がないか家族や友達にも少し聞いてみたら、けっこう多くの人が同じ感覚になっているらしい。
「なんか元気が出ない」「(震災の影響もあるのかもしれないけど) どことなく生活に閉鎖感がある」「AC の CM を見ると涙が溢れそうになる」などなど。
中でも、「悲しくなる」症状は多くの人の間で共通している。
この悲しさを例えるなら、道端にいるサンドイッチマンやティッシュ配りの人を見て、「皆からティッシュ無視されて、誰からも相手にされてないのに、あの人はめげずに頑張っているなぁ…」と思うときの感覚に近い。
もしくは、電車の中で疲れた顔をしたハゲの中年サラリーマンを見て「家族のためにヘトヘトになるまで働いてるんだろうなぁ…でも家では娘にハゲキモイとか言われて報われてないのかもなぁ…」と悲しく思うときに近い。
そしてそこから「そういえば俺も両親に面倒臭がってそっけなくしたりして、ロクに親孝行もしないで迷惑かけてるなぁ…今日帰ったら、せめて優しく話しかけよう…」と切なく思うときの感覚にも似ている。
CM を見ているときに感じるのも、これらに似た、悲しさ、切なさと同時に、わずかに愛おしさも含まれた、妙な感覚である。懐かしさにも近いものがあるかも。
CM の中でも特にその悲しさを感じるのがポポポポ~ンの CM で、あの「無難に子供ウケしそうなキャラクター」が笑顔で出てくる感じ、
キャラクターたちがランラランとスキップしているようなカットの「死後の世界っぽい」「この世とは思えない」「無機質な」感じ、
動物を使ったキャッチーな歌、そして長いバージョンで「おはよう」の部分だけやたら優しく歌う感じ、
それら全てが、最初はしつこさでイライラしていたのに、最近はなんだか切なく感じてしまい、
胸が (正確には喉から胃にかけての食道あたりが) キュ~ッとなるような悲しい感覚になる。
悲しくなる理由については、俺個人的には
「子どもたちに挨拶のことを伝えるために、可愛らしいアニメキャラクターを使った CM にしよう!」と考えた企画者たちが、
それなりに汗水流して大変な思いをして作り上げたあの CM を「しつこい」「ウザイ」と酷評されてしまっているという事実を思うと
その企画者たちとこの作品のことを思って悲しくなる、という、先ほどの例えに近い悲しさがあるが、どうもそれだけの感覚ではないようだ。
また、「遊ぼうっていうとでっていう」の BGM に流れる寂しげなピアノと、「思いやりは見える」で流れる儚げなヴァイオリンの音、
そしてそれらの CM のナレーションの口調、声の音程などからも、同じような悲しい感覚が起こる。
基本的に CM の内容が明るいものではないので、全体の雰囲気が楽しげにはならないことは分かるんだけど、
この CM のしつこさのせいか、はたまた何かサブリミナルメッセージでも刻まれているのか、
意図しない部分・要素で悲しい気持ちを引き起こしてしまっている。
別に無理にこの感覚を共有して欲しいわけでもないし、どう言って欲しいとかも思ってないし、
AC に対して文句を言うのは筋違いなのも分かってるのでそもそも何が言いたいのか分からないんだけど、
どうもなんか悲しくなって、情緒不安定になっているのある。はやく AC の CM が減りますように…。
追記:(実は匿名ダイアリーの投稿初めてで使い方よく分かってないので、追記でちょっと書かせてもらいます)
「しつこいと嫌だよね」
確かに、「バイバーイ」って幼稚園の子供がやるリサイクルの CM は頻度が少ないからか嫌な感じはしてないなぁ (ロリコンではありません)。オシムと子宮頸がんはまだ自分も「イライラ」レベル。思いやりとポポポポーンは完全にもうダメだ…。
寂しくなるというか、悲しくなるというか、という感覚については、サザエさん症候群で感じる不安感に近いことにも気付いた。学生生活のことや将来の就職に関する不安など、人並みな不安はあるものの、これといって深刻な悩みもないのに、何らかの不安に駆られて落ち着かなくなる感覚。
「CMになったら、テレビ消すとか チャンネル変えるとか。そういうスキルを身につけたほうがいいんじゃない?」
「見かけたらチャンネルを変える」という手間は現実的じゃない。あなたが実際に毎回そうしてるのだったら大変几帳面な人なんだなとは思うけど。
それと俺の場合、この症状は CM を見るたびに感じて、1分後には元通りになる、といったものではなくて、たとえ CM になってチャンネルを変えて見ずに済んだとしても、その CM がやっているという事実だけでも同じ症状を引き起こすことを、さっき発見した。CM を見ること自体を回避しても、あの CM を回避した、という経験が積み重なると、同じように不安感も蓄積されていく感じなんだよね。
だからどうしろとかそういうつもりはないし、この感覚が分からなかったらそれで別にいいんだけど、この泣きそうになる気持ちをどこかに吐かずにはいられなかったので、友人、家族、そして匿名ダイアリーに吐き出してみた次第です。
えっと、興味のないことは全然頭に入らない・身に付かない反面、興味があることには病的に凝る人です。
4歳からヴァイオリンやってるくせに練習嫌い、それでも奇跡的に先生に破門されず、
高校でそこを卒業するまでなんとなく続けてきた程度のヘタレです。
残ったのは経験年数だけ食っている状態、絶対音感も最近狂い気味
(正しい音程の調性を、自分の基準より半音ほど高く感じるようになった)と、
他人が見本にするところは全然ない、そんな非コミュのおっさんです。
そんな俺が今のオケに入ったことをきっかけに身に付けた、クラシック曲の合奏で
かろうじて足を引っ張らないくらいに弾けるようにするハウツーのお話です。
と言ってもドヤ顔ではありません。むしろ「こんなんで正直ごめんなさい」みたいな告白。
まずAmazonやオケ仲間の評価を元に信頼できる音源とスコア、信頼できる楽曲解説を入手する。
そんでスコアと解説片手にひたすら曲を聴く。
そうすると「そもそもこの曲はどういう曲か」というのが頭にイメージできてくる。
その作曲家の音で常に弾けそうな気分になってくる。
楽器同士の絡みから、どこの場面で何を聴いて合わせればいいかも見えてくる。
そして「だから俺はこう弾きたい!」と思えてくる。
そこまで行って、初めて合奏練習を楽しく感じられて、調子が出てくる。
あとは全体から細部にブレイクダウン。
曲全体の流れのうち、絶対に弾けないと許されない箇所は真っ先に押さえられる反面、
細かいところは最後まで弾けなかったりする。やっぱりヘタレだ。
こんな面倒なことするヒマがあったら百万回さらえばいいのは分かっている。
それに他のアマオケプレーヤーから見たらかなり甘いやり方と思われるだろう。
でもこういう面倒なプロセスを経由しないと興味のベクトルがそっちに向かないし、
興味が湧くまで右から左に抜けていく状態なのだから仕方がない。
そもそも不勉強な状態で出す音なんて頓珍漢過ぎて聴かせられたもんじゃない。
当初そのオケに入ったときは、メンバーのあまりの上手さに圧倒され、
とても追いつけないがなんとかついて行くにはどうするか、楽しむにはどうするかを真剣に悩んだ。
その結果編み出したのが上に書いた方法。
もちろん、周りから見て本当に何とかなっているかは今でも分からない。
でも楽しむと言う目標は達成できたし、さっぱり理解できなかったクラシック曲の面白さが
分かったし、それは大きな収穫だった。冗談抜きでQOL上がったんじゃね?という感じ。
あ、雑談のつもりで「この曲って、作曲家が○○で(中略)それが音に出てていいんですよね~」とか
「(オペラの抜粋をやったとき)ここって、ステージでは××が(ry」とかオケ仲間に話しかけたら
「何でそんな詳しいの?」と相手にドン引きされたことが何回かあったっけ。
自分みたくいらんことを知らなくたって弾ける人がほとんどということですね。
それに音なんて結果が全てなので、別に知らなくても悪いわけじゃないし。
なので最近はそんな話はほとんどしていません。
てか非コミュでごめんなさい。
海外のblogで初音ミクについて熱い(長い)文章を書き込んでいるのを見かけたので試しに翻訳してみた。無断翻訳なので匿名で。urlは以下の通り。
http://deliciouscakeproject.wordpress.com/2010/09/20/hatsune-miku-and-the-magic-of-make-believe/
=====以下翻訳=====
そこにはバルトロメオ・クリストフォリって名前のすげえヤツがいた。こいつの得意技は楽器を作ることだった。何でも作ったわけじゃない。当時はひどく弱々しいちっこいもので、しょぼい羽柄が並んだ弦を引っかいて金属的なチャリチャリした音を出すもの、つまり鍵盤楽器を作っていた。いわゆる「バロック・ミュージック」ってヤツだ。クリストフォリが音楽技師として、また機械技師としてやったのは、弦を異なる強さで叩くハンマーを使った仕組みづくりで、それによって演奏家は小さい音(ピアノ)や大きな音(フォルテ)で演奏できるようになった。だもんで皆それをイタリア語でピアノフォルテと呼んだ。もちろん、今ではお前も俺もそして誰もがクリストフォリの発明品をピアノと呼んでいる。
イタリアはピアノを発明することによって、日本が初音ミクを発明するための扉を開いた。
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俺は今、ここサン・フランシスコの150席しかない小さな映画館で、秋のアイドル公演を待っている。チケットが完売した「39[ミク][[Sankyu!]] Giving Day」コンサートの上演を見るために、愚かな時間の無駄遣いをする連中が集まっている。コンサートじゃ電子的に創造されたポップアイドルつまり緑の髪をした女神が、ゼップ東京のコンサート会場で生演奏するバンドにあわせて踊り歌っている様子がスクリーンに映し出されている。それはまるで、一部はライブなんだが、本当はそうではなく、「本物」のボーカロイド・コンサートでお目にかかれるのに近いものだった。言ってみればゴリラズを見に行くのとそれほど違いはない。伴奏は本物のミュージシャンが作り出しているが、客が見ているのはいわば巧妙なごまかしの表層であり、音楽に命を持たせるために使われる動くペルソナだ。これがミクの魔法である。それは見せかけの魔法だ。
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クリストフォリがピアノを発明した頃、J・S・バッハは平均律クラヴィーア曲集を書いた。そこでは要するに鍵盤楽器の各音程間で一通り数学的な調整をすれば、突然どのような調号でも十分演奏できるようになるということが言われている。言い換えれば、何か妙なことをしようとした際にいつも調子はずれの音を出すのではなく、初心者から中級までのピアノの生徒がやらかす糞を抑えるような5フラットとか7シャープとかそういったことが完全にできるようになる。これによって18世紀の鍵盤楽器は初めて、いちいちくそったれな調律をしなおすことなく新しい楽想を試すことができる原始的なワークステーションとなった。
数十年後、ようやくピアノの価格が下がり十分なほど生産できるようになったことで、それは非常識なほどの大金持ちだけの特別な楽器ではなくなった。代わりにそれは有名な王族たちのような常識的な程度の金持ちが購入できるものとなり、彼らは好んで地元の作曲家を雇い自分たち(とその客)を楽しませるために音楽を書かせた。こうした作曲家の一人があのヴォルフガング・A・モーツァルトであり、彼の特別な才能は主に下ネタと女性の音楽生徒に対する性欲の面で発揮された。もちろん鍵盤楽器からふざけた音を引き出す才能もあり、その短い人生の間にモーツァルトは最も好きな楽器をピアノに決定した。彼が書いた27のピアノ協奏曲(本当に素晴らしいのは最後の10曲ほど。アニメのシリーズのようにモーツァルトのレパートリーは後半になるほど良くなった)は、単に協奏曲の形態にとって画期的な礎石となっただけでなく、ピアノ音楽の基礎を築いた。モーツァルトの協奏曲はこう言っているようなものだ。「これこそピアノにできることだ! ピアノだけでなく、オーケストラと一緒でもいい! まさか今更ハープシコードに戻ろうってんじゃなかろうな?!」
モーツァルトより後の時代の人間は皆彼に同意した。ひとたび音量の大小を調整できる鍵盤楽器を手に入れてしまえば、弱々しいチャリチャリした機械になぞ戻れっこない。これが230年ほど前の出来事だ。ミクへの道は一日にして成らず。
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ミクの公演にやって来たファンの男女はいろんな連中の寄せ集めだ。彼らの5分の1ほどは当然ながらボーカロイドのコスプレをしている。何人かはケミカルライトまで持ち込んでいる。コンサートは全長1080ピクセルの巨大なスクリーンで始まり、全劇場用サウンド・システムが炸裂し、観衆は最初はためらいがちに見ていたが、最初のいくつかの歌の後は雰囲気が盛り上がってきた。彼らはスクリーンの中の群衆と一緒にリズムに合わせてケミカルライトを振り、曲が変わると歓声を上げ、各ナンバーが終わると拍手をした。単なる録音と録画じゃねえか、などというたわ言は知ったこっちゃない。理論的にはゼップ東京の群衆だって同じように録画を見ていたんだ。本当に「ライブ」で演奏される音楽など、現代においてはクラシックのオーケストラと民族音楽の演奏くらいしかないし、それにシンフォニー・ホールですら今日ではマイクが使われている。誰もが電子的な助けを借りて音楽を聴いている。ひとたび電子機器を楽器として受け入れることを覚えてしまえば、ミクを愛するのは簡単だ。彼女がモーツァルトの魔笛のアリアを歌っている動画を聞いてみよう。
http://www.youtube.com/watch?v=gr9fbQzNpqA
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19世紀欧州で、もしお前がピアノの演奏ができない作曲家だったとしたら、お前は存在していなかっただろう。それはもはや単に大小の音量で演奏できる楽器にとどまらず、巨大な和音構造物であり、多音パッセージワークであり、一人の演奏家の手で「あらゆる音符を見ることができる」ものとなっていた。もしピアノがなければきっと「2人のバイオリニストとビオラ及びチェロ奏者各1人をかき集めて旋律が上手く行くかどうか調べにゃならん」てなことが起きていただろう。そしてもちろんチェリストは、ある音符について「どぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん」と演奏するようお前が何度も何度も何度もお願いするのにうんざりして1時間後にはそこを立ち去ったことだろう。
少なくともピアノがあれば、お前の小さな指以外に迷惑をかけることなく「どぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん」とやることができる。
かくして1800年代においてピアノは中心的な作曲道具となった。そして同時に社会の中産階級が暇と屑な時間を持つところまで進化し、そしてもし彼らがスポーツやゲームを発明しなければ、彼らは音楽その他を演奏したいと望み、そんでもって家に持ち込むためピアノを注文できるようになった。欧州だけでなく日本でも、少なくともウィリアム・ペリーが彼らを開国して西洋化が始まった後には、同じことが生じた。基本的にピアノは文明化の証と見なされ、そして有名な山葉寅楠ってヤツがイケてる連中のため日本製ピアノを作り始めた。
19世紀末と20世紀は音楽制作にとって黄金時代だった。楽譜を買って他人の歌を演奏する方法で「音楽を作る」こともできたし、あるいは作曲と理論について十分に学び自分の曲を創造するというやり方で「音楽を作る」こともできた。そうした取り組みの多くはピアノの周辺で起きた。ピアニストが力を得た。鍵盤があれば、お前はスターになることができた。
そして、とんでもないことが起きた。
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ミクだけじゃない。巡音ルカとリンとレンも公演に出てきたぜ! 全ボーカロイドのパーティだ。彼らの異なる声質と、ミクと組む様々なやり方は、見事な音の見本集になっている。他のキャラクターが登場するのを見た観客たちは熱狂している。異なるシンセサイザー・プログラムのマスコットに過ぎないにもかかわらず、彼らはまるで我々の友であり家族であるかのようだ。ようつべとニコ動を使って彼らを我が家へ招待しよう。彼らの声を我らの生活のサントラにしよう。電子的に作られたアニメキャラが本当のミュージシャンになれるのかって? おk、ならお前に聞いてみよう。魂のない箱がお前の周囲の空気を震わせているけど、それは本当の音楽なのかい?
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それこそが実際に起きたとんでもないことだ。録音された音楽。録音された音楽こそ、音楽史の中で起きた最悪の出来事だ。
ひとたび蓄音機を、ラジオを、レコードプレイヤーを、カセットプレイヤーを、CDプレイヤーを持ってしまえば、音楽を楽しむのに「音楽を作る」必要はない。コンサートホールのチケットを手に入れる必要もない。単に座って、電気を使った箱にお前を楽しませればいい。ピアノは専門家のための道具に成り下がった。それは淑女が結婚に必要な才能を覚えるためのものに、あるいは子供が(1)それを憎んでいることに気づく(2)両親が子供に才能があることに気づいてプレッシャーを積み上げ始める――まで稽古を受けるものとなった。もし(2)の現象が起きたなら、最後にはピアノを本当の演奏楽器あるいは作曲用の道具として使うようになるだろう。しかしそれはもはや「音楽制作」の中心にはない。
さらに悪いことにロックがギターをポピュラーにしてしまった。ギターが人気になり、ピアノは役立たずとなった。お前が鍵盤楽器を学ぶのは、ビートルズにしてくれるものを持てずバッハやベートーベンにしがみつくしかないある種の意気地なしだからだ。誰が決めたルールか知らねえが最低だ。10代のころ、俺はピアノを使ってランキング上位40の曲を弾けたおかげで女の子たちに「いくらか」いい印象を与えられた。けど、結局はクラスの野郎どものうちその曲をギターで弾けるヤツがいつも勝ちやがった。くそったれ。
だがここで思い出してくれ。俺は、イタリアがピアノを発明したことが日本の初音ミク発明への扉を開いたと言ってきただろ? ピアノは21世紀に飛び込むときに今一度変革に見舞われたんだ。
http://www.youtube.com/watch?v=-7EAQJStWso
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もし音楽を生み出す小さな電気の箱が「本物」であるなら、録音済みのコンサートに向かって「アンコール! アンコール! アンコール!」と叫ぶのは極めて正常だ。その音楽はお前を感動させたんじゃないのか? もっと聞きたいと思わないのか? というわけで映画館の観衆はもっともっとと叫び、そして彼らはアンコールを聞けることが分かっていた。なぜならそういう風に録音されていたから。ミクが公演を終わらせるため最後の舞台に出てきた時、もう一度鑑賞力のある人々から歓声が上がった。それは人工的なものだが、とことん楽しむため我々はそれを本物だと見なした。まるでドン・コッブが[ネタバレ注意!!]インセプションのラストで回転するコマから歩み去るかのように。ミクは夢のような存在だ。サウンド・エンジニアとCGアーティストと音楽家が作り上げた美しい夢であり、決して卒業することも年を取ることもスキャンダルを起こすことも業界から追放されることも惑星上から姿を消すこともない完璧なアイドルだ。彼女は実際、いくつもの「映像」を持っている。我々は皆、この音楽的見せかけの共犯者だ。過去の聴衆がモーツァルトのオペラを、ガーシュウィンのミュージカルを、あるいはかのすさまじいレ・ミゼラブルを本物であると信じたように。我々は十分深く信じられるようになるまで偽りの世界を本物だと信じるふりをする。その世界を感じるまで、見せかけの魔法を感じられるようになるまで。
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真空管からトランジスタを経て迷宮のような電子回路まで。もしピアノの鍵盤が「あらゆる音符を見る」ことのできるインターフェイスだとしたら、それは作曲家に最も未来を感じさせるインターフェイスだ。そして我々にはシンセサイザー・キーボードとMIDIコントローラーとワークステーションの世界が与えられており、そこでは遂にピアノが単なる「楽想を試す場所」から超越した。ちょっとした波形の調整によって、ハンマーと弦の機構に制限されることなくこれらの楽想を正確に響かせることができる。新しい音を作り上げることもできる。楽想の断片を記録し、他の楽想をその上に並べて電子キーボードを個人的な架空のオーケストラに仕立てることもできる。ピアノはピアノを超えた。それは作曲家の手の延長どころか、作曲家の心の延長となったのだ。
一つだけ欠けているものがあった。声だ。
そして、ご存知の通り、日本は日本であり、彼らはやってのけた。彼らは人工物を誰よりも巧みに操った。彼らは本物の料理だと見栄えが悪くなるからという理由でプラスチック製の小さな食品サンプルを作った。本物の労働者は間違いを犯しがちだから製造ライン用のロボットを作った。本物の音楽家を家に入れるのは大変だから編曲家のために電子キーボードを作った。そして、人間の声を合成する技術が十分に発達した時、そしてそれが人工音声のためのペルソナを創造するというアイデアと衝突した時、ミクが見せかけの音楽における21世紀のスーパースターになるのは当然のことだった。
中にはボーカロイドというアイデアが音楽家の全てを破壊するという人もいるだろう。全ての仕事をソフトウエアがやってくれるのに、誰が人間を必要とするんだ? 俺が思うに、ボーカロイドってのは偉大なる民主化の旗手であり、音楽家のために沢山の扉を開いてくれるカギなんだ。過去において、もしお前が作曲家、編曲家あるいはプロデューサーになりたければ、まず自分の曲を書いてそれから演奏家を探し見つけ出すしかなかった。何しろお前の傑作に生命を吹き込みたければ、5人編成のバンド、20人編成のオーケストラ、そして3オクターブ半の音域を持つ歌い手がいないとどうしようもなかったのだから。マジ悲惨。だがミクがいれば誰もが作曲家になれる。誰もが自宅のスタジオで曲を作り、正しい機材があれば、電子機器を使った完全なポピュラーソングを生み出せる。ボーカロイドは音楽家の仕事を奪うわけじゃない。それまでミュージシャンには決してなれないと思っていた人々の中からミュージシャンを作り出すんだ。動画投稿サイトで毎日そうしたことが起こっているし、こうしたコンサートではそれまで決して聞いたことのないような人々が突然電子王国の宮廷音楽家になれる。非常識なほどの大金持ちだった王家の人々の手にあった手製の楽器から、平民たちの手に握られた緑の髪の女神へ。それがこの大きな3世紀の違いだ。
何であれ多くの人々が音楽を作ることは、単に大人しく聞いているだけよりもいいことだと俺は信じる。俺は魔法を、ボーカロイドを、ミクを信じている。
=====以上翻訳終了=====
誤訳は当然あると思う。でも面倒なので修正はしない。
音痴にも二種類あってさ。
雑に言うと、耳に問題があるのと、喉に問題があるのなんだよ。
喉のやつは正確に音程を聞き取れてるけど、発声が不慣れなせいで音痴になってるから、歌うことを続けてれば確実に上達する。
お手本データが頭の中に入っているから、それを上手く再現できるようにしていくだけなんだ。
最初から歌が上手い奴っていうのも居るには居るが、たいていはこの種類の音痴からスタートして徐々に上手くなっていったパターン。
ただ耳のやつはダメだ。何年カラオケ行ってもかけらも進歩しない。
歌手が歌うお手本を聞いている段階で違うように聞こえてるから、違うように歌ってしまうのも当たり前のことだ。
コミュニケーションがヘタクソなのにも二種類ある。
よくある「コミュニケーションが苦手だったけど、なんだかんだで友達が出来ました」話っていうのは、アウトプットに問題があるパターン。
楽しいと感じているときでも無表情だったり、普通に話しかけたつもりなのにケンカを売っているような口調になったり。
表現したい感情が、不慣れなせいで正しく伝えられない。これは練習すれば直る。
とにかくたくさんアウトプットし、たくさんの人と関わることで、感情を誤解のないよう伝えられるようになる。
でもインプットに問題があるパターン。これはどうしようもない。
相手が何を言わんとしているのかどう感じているのかと全く理解できず、的外れなことをアウトプットしてドン引きされてしまう。
音痴にも二種類あってさ。
雑に言うと、耳に問題があるのと、喉に問題があるのなんだよ。
喉のやつは正確に音程を聞き取れてるけど、発声が不慣れなせいで音痴になってるから、歌うことを続けてれば確実に上達する。
お手本データが頭の中に入っているから、それを上手く再現できるようにしていくだけなんだ。
最初から歌が上手い奴っていうのも居るには居るが、たいていはこの種類の音痴からスタートして徐々に上手くなっていったパターン。
ただ耳のやつはダメだ。何年カラオケ行ってもかけらも進歩しない。
歌手が歌うお手本を聞いている段階で違うように聞こえてるから、違うように歌ってしまうのも当たり前のことだ。
コミュニケーションがヘタクソなのにも二種類ある。
よくある「コミュニケーションが苦手だったけど、なんだかんだで友達が出来ました」話っていうのは、アウトプットに問題があるパターン。
楽しいと感じているときでも無表情だったり、普通に話しかけたつもりなのにケンカを売っているような口調になったり。
表現したい感情が、不慣れなせいで正しく伝えられない。これは練習すれば直る。
とにかくたくさんアウトプットし、たくさんの人と関わることで、感情を誤解のないよう伝えられるようになる。
でもインプットに問題があるパターン。これはどうしようもない。
相手が何を言わんとしているのかどう感じているのかと全く理解できず、的外れなことをアウトプットしてドン引きされてしまう。
しかも職場の、別の部署の、年上の皆様(つまり、さほど仲良くない人々)と。
30年生きて来たけれど、増田はかれこれ4〜5回ほどしかカラオケに行ったことがない。高校時代、初めて行った時はマイク回されても1回も歌わなかった(歌えなかった)
仕事柄、カラオケに行く機会が本当は多い筈なのだが、よっぽど近しい友人とでないと歌えないし、仲いい友人から誘われても、なんやかんやと理由をつけちゃ断って来た。が、昨日は「もう、どーでもいいや」と思って勇気を出して参加してみた。
カラオケ嫌いな理由のひとつに、「いまどきの歌を知らない(かといって懐メロも知らない)」ってのがあった。レパートリーが異常に少ない。小学生時代、まだカラオケを知らない頃に口ずさんでいたドラマの主題歌とかならかろうじて歌える(可能性がある)のだが、同年代と行くと「古い・・・」「・・・なんでその選曲なんだ?」「その歌手、好きだったっけ?」と突っ込まれるほど一貫性がまったくなし。だが今回、増田以外は40〜50台の男女バラバラなメンツであったため「おそらく増田さんは我々にもわかりそうなものを選んで歌ってるのだろう」と好意的な解釈をしてくれてた・・・ような雰囲気だった。参加者が5人だったので、レパートリーが少なくても時間が持ったことも幸いだった。途中で理由つけて早退しようと企んでいたのだが、なんだかんだでお開きとなるまで3時間同席してしまった。これまでは友人と行っても「あ、終電なんで」とか言って1曲歌って早退が定番だったのに。
幹事だった先輩(子持ち)は昔のアイドルソングや子供の好きなアニメの歌を歌っていたし、最年長の部長は陽水からはじまり、何語かわからない歌を連続しまくり。「しばり」もないおかげで、人目を気にせず自分も結構適当な曲をマイペースで選べた。
カラオケ嫌いな理由のふたつ目に、音痴なことがある。でも、テレビで「カラオケ大好きタレント」がたまに歌ってるのを見ると「あれ?こんなによくカラオケ行ってる人たちなのに、歌ひどくないか?」と思うことが度々あり、これも、勇気を出すきっかけとなったかも。増田は歌う経験が少ないこともあって音域が狭く、自分の声を思うようにコントロールできないのであるが、別に「音程」や「リズム」を知らないわけではないので、歌いながらズレの修正は可能だった。初めて歌う曲も、自分の音域に合いそうなものをカンで選べた。おかげで、初めて歌ってみた数曲も、「こりゃ次回持ち歌にできるかな?」と自己評価できるぐらいには歌えた。「歌が上手い」と評判の主任さんも、本業歌手でないから当然うまく声が出し切れなかったり、ちょこっと外すこともあった。それを聞いていると、「そーか、適当でもいいんだよね〜」とかまえずに参加できた気がする。
なお、今回の成功の一番の要因だが、アルコール入れてたことかもしれない。増田はアルコールに弱いのだが、部屋に入ってから空きっ腹にビールをかけつけ3杯いった。「酔っちゃいました〜あはは〜」といかにも酔っぱらった雰囲気を醸し出していたので、他人の目線も自分の恥ずかしさも気にせずいられたと思う。ま、実際酔ってたけど。
嫌い嫌いといっても職業柄、カラオケに行けたほうがよいのだし、歌うことはストレス解消にもなる。これを機に、いやがらずにもう少し踏み出してみようかなと思った。