はてなキーワード: 優等生とは
今日見た夢の話です.
それぞれが抱き合って今生の別れを惜しんでいます.
部屋の後ろには一見眠ったような,綺麗な死体が椅子にたくさん並べてあります.
みな,ある儀式のための準備です.
儀式に適う人間は少数で,キスをして失敗すればゾンビになり,成功すれば,それ相応の見返りが与えられる,というものでした.
勇敢にも先に儀式を済ませた同級生達は,尽くゾンビになってしまいました.
一通りの人間がゾンビになった後,どうやら儀式のための訓練(どんなことをしていたか忘れてしまいました)の中で儀式に適性がありそうな優等生というものがいるらしく,その優等生たちが呼ばれ,儀式をすることになりました.
私もその中の一人に入っていました.
まず死体にキスする前にパンを食べるのですが,そのパンがなんとも言えぬ悪臭と嫌な気配を帯びていて,口に運んでいる間にも嘔吐しそうなものでした.
嫌な気配からかゾンビになってしまう恐れからか分かりませんが,どうしてもキスしてはいけないという予感がしていました.
「オルタナやインディロックやピッチフォーク系を聴いてる奴は暗いナード!」
普通の人なら社会に出てから勝ち取ったステータスを誇りそうなものですが、
ポップやハードロックやダンスフロア系が好きなカースト上位気取りの洋楽親父の一部は隙あらばスクールカースト語りでこんなマウンティングを始めます。
一昔前ツイッターで「成人式でヤンキーが暴れるのはヤンキーが優等生と一緒に過ごす最後の機会だからだ」という論で盛り上がりました。
マウンティング洋楽親父は成人式以降も洋楽という共通の話題で暴れているヤンキーみたいなもんですね。
米研究で高い知能の人はレディオヘッド、スフィアンスティーブンスなどを聴き、低い人はビヨンセという結果があります。
http://sp.ro69.jp/news/detail/112223
もう社会に出た段階でポップやハードロックやダンスフロア系が好きなマウンティング洋楽親父と彼らの言う“オルタナやインディロックやピッチフォーク系を聴いてる暗いナード!”の地位は逆転しているのでは?
http://anond.hatelabo.jp/20160617143210 は、この事件を知らなさそうだが。
ある中学校で家庭に大問題のある生徒が、いじめをしていたんだ。そいつはヤンキーというわけではなく、頭がよく優等生だったんだけど。
先生がそれに気づいて色々対処しようとして、結局そいつは逆にはぶられることになっちゃうんだ。
そこでなんやかんやでソーラン節を文化祭で披露することになって、そいつをセンターに置こうとしたんだな。
クラスの団結は高まっていくんだけど、何度も言うようにそいつの家がもう最悪の最悪で、まわりまわって、思わずソーラン節教えてくれたじいちゃんを刺しちゃったんだなぁ。でも団結を強めてたおかげで、クラスメイト一丸になってそいつを支えていくことができるようになったんだ。
その中学でそういうことがあって、そのあとも転校性のソフトバンクの長女の学年の時にその先生の息子が白血病になってな。
その時に前述の問題あった生徒が、その息子を励ますためにもソーラン節踊ってあげろと頼んで一斉に踊るんだ。
そのあとの後輩生徒もまた問題でな。なんと薬物に手を出してしまったんだよ。元々父親がやってたんだよな。
で、母ちゃんノイローゼでそいつを殴るわけ。逃避のために薬にのめりこんでいくんだよ。おかしくなっていく友人に口出ししたやつが居て、そいつのせいで父ちゃん逮捕されちゃうんだけど、それを責められてその友人、家から飛び降り自殺しちゃうんだよな。平成でJUMPしたいと思ったのかも。だからそいつ自分を責めてさらに薬にのめりこんで、もう大変。
その年も、継承するようにソーラン節を踊ってたんだ。まだ優しいころのアイツがセンターで踊ったんだよ。
だけどそいつ、薬がバレて捕まっちゃってな。本当にかわいそうなやつなわけ。
だからそいつが刑務所行くときに、河原でみんなでソーラン節踊って見送ったわけ。
そのあともなんかソーラン節は続いてたんだけど、その評判がどういうわけか全国に広まってな。
普段 destroy! とか kill! とか fuck! とか Anarchy とか言ったりしてるパンクやメタルみたいな明らかに反社会風な人たちも、SNSで差別は良くないとか、戦争反対とか、暴力は良くないみたいな発言をしてるのを見ると、どっちなんだ、と思う。オレの考え過ぎか。
自分と毛色の違うタイプを見ると攻撃的な態度をとったりする連中が、社会的な意見に関しては急に昔のフォークシンガー風の優等生みたいなことを言い出すのはなんでだろう。
普段の態度がファッションなのか商売なのか、それとも発言がひよってるのか、とにかく好きな感じで目立てれば、内容はどうでもよいのか。
昔大学でマルコムXのTシャツ着て、黒人差別反対と言いながら、地味系学生を口撃して嘲笑っていた女子が、おっとりした良いお母さんになっていて、それはそれで和んだ。
オレの考え過ぎか。
天鏡のアルデラミンの八巻と九巻を読んだ。一部完結時の流れを組んでるからか、比較的重たい話が続いていた。でも九巻の終わりで少し光が差してきたのでほっとした。
八巻は前巻から二年経った状況と人物紹介が主な内容だったので、あんまり内面に踏み込むことのもなく平坦な物語になっていた印象。とは言え個人的にライトノベルの理想形とでも云うべき読みやすさと物語を併せ持っていたので、可もなく不可もなく優等生な小説になっていたと思う。ただ、眠れる子が彼女だったのには少々閉口したなあ。内容的に主人公一行は随分とつらい目にあっているのに、ここに来てまたそれかああって感じ。暗澹たる気持ちになった。始めにも書いたけど、重たいムードで進む内容だったから一層堪えた。
重たい雰囲気は九巻になると更に顕著で、状況がどんどんどんどん悪くなっていく。立花の勇者を読んでた時もそうだったけど、主人公サイドが敵の術中に嵌っているのに気が付かないまま事態が悪化していく様子が描かれると、サビを噛んでるような気分になる。敵方の意図が描写されつつ、作中の登場人物が認識できずに窮地に陥るパターンは、自分には合わないんだと思う。はじめてのおつかいとか、目に見えてトラブルにあるのが分かっているのに見守ることしかできないのって、苦痛に感じてしまうんだなあ。後々のカタルシスのためだとは理解しつつもどうしても苦手だ。
登場人物の思いがそれぞれにちゃんと描かれていてよかった。みんな重荷を背負いながら歩いている感じで、大変だなあって思う。争いなんて無いほうがいいよ、やっぱり。平和が一番。ラブアンドピース。狐は許さないけどね。
とにもかくにもイクタくん頑張れ。まじ頑張れ。九巻の終わりがとっても熱くて、感動的で、十巻への期待が高まる内容でした。親父たちが本当に格好いい。
真面目にやることが嫌いで何事もお気楽にほどほどが一番だと思っている、ほんわか女子高生と
真面目が一番で何事も真剣に取り組んでこそ楽しいと思っている、キビキビ女子高生の幼なじみは、
常にキビキビ女子高生が引っ張って行きお世話をする関係だった、
しかし、ほんわか女子高生はある日自分の才能の有る無し関係なく、ただそれに挑戦したい、と思う「何か」を見つけ、途端に努力を始める、
ところが、そこは毎日怠惰な生活を送っていた、ほんわか女子高生がイキナリ変われるわけもなく、キビキビ女子高生に頼ってばかりいた、
ほんわか女子高生に依存してもらえている関係が続く事に、ほっとしてしまうことで、キビキビ女子高生が本当の気持ちに気付いた場合、
みなさんのキャスティングをお待ちしておりまーす!
宣伝が下手すぎる。
俳優という職業においては自由に発言することは余程の力がないと難しいのだ。
結果としてそのインタビューでは俳優が好きな人にしか訴求できないのだから、キャストインタビューを主体にする宣伝は効果がない。
キャストインタビューはこれから見る人のためのものではなく、見た人のためのものであるべきだ。
お祭り騒ぎをすれば人が集まるという単純思考のために、中身をきちんとアピールできた広告は少ない。
知りたい情報は入ってこないが、他人が盛り上がっている情報だけが入ってくる。
邦画においての宣伝では、認知度をいかにあげるかにこだわり、映画として面白い部分が何かということを全く伝えようとしていないのだ。
そもそも作品がつまらないというならば、本来ならば宣伝する側は、その映画に伝えるべき面白さがないことを指摘して改善させるということができるはずだ。
しかし現実には悲しいことに映画を見る力がない人間が映画をつくっているから、面白さを宣伝のしやすさと勘違いして、どんどん改悪させていくことすらあるのだ。
学校外でもコミュニティに所属してみて馴染めなかったら、自分の居場所なんかないんだ、
でも違うんだよ。
私は友達がほしいわけじゃなかった。
ただ友達がいないやつって思われるのが嫌なだけだった。
人間は敏感で、そういうのを感じ取る。
同級生もそれを感じ取って打ち解けられていなかったのだろう。
友達がいらない自分を受け入れたら、私は勉強が途端に好きになった。
遊びに行きたくないときはそういう気分じゃないと断るようにした。
すると余裕が生まれてきた。
そんな簡単な気持ちの切り替えで、友達っていうものが逆説的だけどできるようになったんだ。
若いうちは漫画やドラマの主人公に自分を重ねて、汚い自分を受け入れられないかもしれない。
だが、弱さも汚さも含めて自分を受け入れてみてほしい。
報告待ってます。
普通に考えれば、不倫自体が悪い。誰がやっても悪い。当たり前だ。
しかし、ゲス以降の騒動を鑑みるに、どうも不倫した人間が「優等生ポジションの芸能人」だったり、
「わざわざ育児休暇を取るような意識高い系議員」だったから、余計に叩かれた印象がある。
どうも、運動部の奴らが好き勝手するのはしょうがないけど、陰キャラが同じことをするのは許されない、
ベッキーはあれから番組下ろされたり、違約金を払うハメになったり散々らしいが、
例えばプロ野球の監督があれだけ不倫しといて、そのせいで辞めることになった人は何人いただろうか。
角界や梨園なんかその辺乱れに乱れまくっていると聞くが、みんな見てないふりをしている。
育児休暇を取った議員が辞める一方、どこぞのコスプレポピュリストは涼しい顔だった。
サラリーマンなら、不倫が社長にばれれば降格や退職といった罰は免れないだろうが、
不倫の社会的制裁というのは思った以上にガバガバである。一部の世界(の男)に甘すぎる。
ちなみに乙武氏については、叩きたい人は普通の人みたいに叩いていいんじゃないかと思う。
というのも、そもそも彼は「障碍者だからといって固定観念で見てほしくない」という主義でデビューしている。
むしろ望むところだろう。
いろいろ考えられるだろうが、とりあえず最大公約数的に言えるのは、夫が妻子を平気で捨てたり、
誰が親かもわからない子がそこら中にあふれたりという環境は、大多数の人間にとって望ましくないと思われる。
かつての武士階級では、不貞がわかれば重ねて四つに斬るという時代もあったらしいし、
近代までは姦通罪というものもあったが、現代の日本では民法上のみ制裁の対象となる。
ただ、慰謝料の相場は、ケースにもよるが数百万円というのが大半だと聞く。
上で挙げたように、ある程度収入のある立場の人間には、むしろ社会的制裁の方が痛い。
ただ、社会的制裁はどうも命中率が悪いし、かといって金は今の相場だと払える奴にはそこまで痛くない。
それ以外、何に頼って不倫が抑止できるのだろう。そもそも、そこまでしてでも抑止すべきという合意があるのか。
殺されるまでもない、刑法で罰するまでもないから、そういう決まりはなくなったのではないか。
なんだかわからなくなってきた。
http://anond.hatelabo.jp/20160316231324
女性と男性、労働と結婚と出産などの、ここ100年くらいの状況って総括するとどうなるんだろ?
よくまとまってる記事とかブログとか本ってない? なるべく私怨が少ないやつで。
この辺の問題を論じるとき、参加者は背景の共有ができているのだろうか。できてないと話ズレるとおもう。
要点キーワード列挙するとこんな感じ
男女、歴史的経緯、政治の無策、教育、自分で考える能力のなさ(政治の無関心)、権力構造、時代に適応して価値観を変えたり次世代に引き継ぐことができない権力層
■昔
選択の自由がない単純化されたシステムだった。キツいが、役割を果たせば成立しているシステムであった。でも役割がキツすぎたのか反発が起きていく。
男性が労働して家族を養っていた。つまりそれだけの給料をもらえていた。ただ、家庭と職場の両面で社会的重責が課せられた。その反動か家庭内では暴力的だった。
女性は労働しづらかった。だから一人で生活が不可能なので、旦那を見つけて専業主婦するしか選択肢がなかった。たとえ暴力旦那でも。
男女がお見合いで利害の一致によってくっついて家庭になるので必然的に子供もできた。
このとき男性側のメリットって何なのだろうか?メリットというよりは社会的圧力だろうか。
あまり能力がなくても就職できさえすれば年功序列によって救われた。
女性は生きていけないので、旦那がイケメンかどうかとか言ってられない、なりふり構ってられない状況であった。だからブサメン男性も救われていた。
■現代
男性の給料が減り、家族を養うどころか自分一人を生かすのも危うくなった。男性一人の収入で家族を養えるのはごく限られた一部になった。
女性は能力と意志さえあれば働けるようになり、一人で生活が可能になった。とはいえ給料は男性と同じかそれ未満。給料的に置かれてる状況は同じ。金が無い。
このことから、子供を作る場合は共働きでないと収入面で辛くなった。それでも働いているので時間がなかったりしてかなり厳しい状況なので子供を作れなくなった。DINKSという。
仕事も育児もなんでもこなすスーパーウーマンなんかはごく一部である。共働きとはいえベビーシッターを雇えるような状況でもない。
親子間での殺人事件、ネグレクト、子供の騒音問題、ベビーカー問題、子供への犯罪、養育費の高騰、核家族化による育児サポートのなさ、大学まで行かせても低い就職率、ブラック企業、日本の将来性など、子供の未来にも暗い影があることも出産を抑制している。
それに子供以前に、結婚をしなく・できなくなった。女性は自活できるので、結婚への圧力は減り、恋愛は自由競争化しお見合いが減った。なので市場価値の高いものを志向するようになった。昔の男性のような家族を養える高収入、アイドルブーム、二次元の発達による美形、などを志向する風潮。
また、労働の能力や意思がない女性は、昔の時代の女性が受けた暴力の反動を根拠とするアジテートからか、都合の良いATM旦那や家事育児旦那を求めたり、痴漢冤罪や恋愛弱者男性の迫害といった、婚前・婚後を問わない男性への社会的暴力を開始した。昔の男性の罪など知らない現代の男性にとってはこれを不服とし、「イケメン無罪」「※ただしイケメンに限る」「メンヘラ」「(イケメンには良い顔をする)クソビッチ」などの揶揄・批判用語を作り出して応戦した。泥沼化している。
※昔の男性の罪は、現代の男性が負うべきなのだろうか。罪というかみんな別々の辛さだったんだけど。その批判なら男性でなく明治政府に対してすべきでは?
男性に対する結婚への社会的圧力も減ったので、男性側も結婚を選択しないで済むようにはなった。というか市場価値不足によってしたくてもできないのも大きい。女性の社会的暴力に辟易してしまう成分もあるし、二次元の発達、性風俗に従事する女性の美形レベルの向上もある。旦那がガンになったら捨てられたりする。熟年離婚。セーフティネット、互助機能が家族から失われている。「病める時も健やかなる時も〜」という宣誓は何だったのか。昔のところに書いたように、イヤイヤでも仕方なく結婚したケースも多いから仕方ないのか。
「労働の意思や能力があり、自活できる女性はDVから救われ自由を手に入れた」わけだが、「労働の意思または能力がないので高収入旦那ATMを必要とする女性」はあまり救われてない感じである。ATM旦那を見つけたとしても、そんな妻をもった旦那のほうはイヤイヤ結婚生活であり苦痛である。鉄道模型を捨てられたりするし。
恋愛市場価値の高い男性は引く手数多であり、未婚率が男性が高く女性が低いのは、そういった男性が再婚をするからである。
恋愛市場価値の高い男性と、低い男性との間でも溝ができた。「恋愛のアドバイスだって?じゃあさ、まず女の子と食事いくとするじゃん?」といった、前提レベルが違いすぎる分かり合えない溝を産んだ。
労働の能力や意思の無い(低い)男性は、強い社会的圧力にさらされている。
昔は年功序列によって無能も救済された。だが、徐々に能力主義になっていくにつれ無能は淘汰され、そもそも入社できなくなっていく。しかし昔の無能は年功序列によって上層部になっていくので、能力主義による淘汰を免れた。いまでは上層部の中・高齢者は無能と有能が混在し、中堅以下の中年や若年には無能が存在できなくなった。そういう組織構成になった。医療の進歩で寿命が延び、高齢化社会になったのもある。
それでもニートは200万人くらいいるらしい。「働いたら負け」の名言も産んだ。デイトレードと新小岩も産んだ。
※ニートはなぜか上限が35歳までで、そこまでしか統計を取っていないようだが、あまり年齢上限の意味はないと思う。
昔から現代を通じて「男性への労働圧力」はなんら改善されていないし、反発もされていないのだが、ニート200万人が無言の反発ともいえる。
昔の男女の役割固定の価値観は、現代の役割や生き方の自由化しようとしていることと相性が悪い。男だって働きたくない、男だって家事育児したい、女だって働きたい、女だって産みたくない。昔の価値観どおりにいくのはごく限られた一部であり、多くの現代人の足かせになり、もはや適さない。誰も得せず不幸にするだけ。
現代人は昔の人に教育をされたわけなので、昔の価値観が教育されている。それがもはや現代人を幸せにしない価値観なのにも関わらず。だから価値観を再構成する必要がある。そこに気づくことのできない、"優等生"現代人が、その意味も理解しないまま社会的圧力の次世代の担い手となり、自分自身をも苦しめている。昔の人の誰得価値観を守るために。20代-30代の労働における自己肯定感の低さと自殺率の高さたるや。棄民された氷河期世代も含まれる。
結婚・出産への社会的圧力は減ってはいるが、無くなったわけではなく、むしろ昨今の年金問題と少子化問題が深刻化するにつれて圧力が復活しているようにも見える。政治的失策を国民に責任転嫁する形で。
先述の「昔側の男性」に属する為政者による発言にもそういった圧力が増えた。産む機械発言とか。それが、男性へは収入(労働)への圧力、女性へは収入(労働)と出産への圧力となっていて、男女間でのさらなる火種となっている。というかすでに炎上しているところに油を注いでいる。
キングカメハメハ産駒。母はGI馬のエアメサイア。圧倒的なスピードと操縦性の良さが売り。それまで3戦全勝だったシュウジを一蹴。名手・武豊を背にクラシック制覇を狙う。
2歳新馬 | 1着 |
デイリー杯2歳S(G2) | 1着 |
朝日フューチュリティ(G1) | 2着 |
報知杯弥生賞(G2) | 3着 |
キングカメハメハ産駒。母はエアメサイアのライバルだったGI馬シーザリオ。わずか1戦のキャリアで2歳王者決定戦に出走、エアスピネルを強烈な末脚で破って世代の主役に。
2歳新馬 | 1着 |
朝日フューチュリティ(G1) | 1着 |
報知杯弥生賞(G2) | 2着 |
ディープインパクト産駒。馬主が父と同じ。ここまでのレース選択も父と同じ。先日のクラシック前哨戦でリオンディーズを差しきった豪脚も父譲り。
2歳新馬 | 1着 |
若駒S(OP) | 1着 |
報知杯弥生賞(G2) | 1着 |
ディープインパクト産駒。「2億円対決」と騒がれた新馬戦を制し、上記三頭とは別路線で圧勝を重ねてきた。「欠点がない」「完璧」と評される優等生ぶりが特長。
2歳新馬 | 1着 |
2歳500万下 | 1着 |
きさらぎ賞(G3) | 1着 |
そもそもの話、池田晶子だったら、「女性差別はいけない。むきーっ」なんて言わないんじゃないの?
彼女は人権や思いやりとかの良識については、大衆がこだわるくだらない常識だと見下していて、自分だけが真実を分かっていると言いたげに罵倒するのがわりと好きな人だった。
その意味で池田晶子は、曽野綾子に似ている。右翼的じゃないという違いはあるが芸風は同じだ。
凡庸な意見のくせに勘違いして偉そうに説教するというか、いい年して常識に反発する天邪鬼(あまのじゃく)というか、そんな感じである。
これはどこで読んだか忘れたが、ああいう説教本の読者は「他人は所詮馬鹿ばっかりだ。自分は賢いから世間の常識を疑うことができる」という尊大な意識を著者と共有しているらしい。だから説教本を読むとき、自分が説教される側じゃなくて説教する側に共感し、気持ちよくなれるのだという。なるほどと思った。
しかし、そういう中二病みたいな考えは誰もが心の中で思ったことぐらいあるはずだし、あえて現代社会への批判を著述するならばそれこそニーチェのように深い哲学的洞察が必要となるだろう。
また、そうやって人権とか思いやりをあざわらうのが行き着く先は、つまるところ現実社会における差別や貧困を放置するシニシズムじゃないかとも思う。「建前や綺麗事を疑うことができる自分はすごい」みたいな人、よくいますよね?たぶん本人は賢いつもりなんだろうけど、じつは言っていることが極めて軽薄。私の中で池田晶子はそういう位置付けでした。
あまり熱心に読んだことないので、こう断定して間違いだったらすみません。
ただね、人権や思いやりをふくめて社会の常識をトコトン馬鹿にしてみせる芸風で人気になった作家さんを讃えるための賞なんだから、その式に参加した元増田が「女性差別はよくない。セクハラをやめよう」という優等生のような意見をふりかざすのはカッコ悪いです。
追記。そういえば池田晶子って、元モデルらしいし、美人の女性ということも売りにしていたな。
http://anond.hatelabo.jp/20160221211517
ブログではその後、キャラクター描写の観点から批判が展開されている。自分がアニメラブライブのキャラクター描写について感じたことについては既に言及した部分が多いが、この部分の論述についても内容的には概ね同意できるものである。
ただ、だからこそそう考えるのであれば、突っ込みたい箇所がある。
以下では、以上で書いてきたのと本質的には同じことを別の観点から論じてみたい。それは、キャラクター描写という観点である。
(中略)
このように8人のメンバーの主体性が奪われてきた一方で、それと反比例するかのように各メンバーの薄っぺらいキャラ付けは強化されてきた。(中略)
たとえばこの劇場版において花陽が最も目立つシーンは、花陽がいつも通りにお米キチガイであるということがこれでもかというぐらいにしつこく描かれるシーンである。この劇場版において、花陽がどういう想いでアイドル活動をやっているのかとか、メンバーとのあいだにどんな新しい人間関係が生まれたのかとか、そういうことは全然描かれない。その代わりに、とにかく花陽はお米が大好きで白米が食べられないと気が狂ってしまうほどだということだけが強調されるのである。端的に言って、この映画を作った人たちは小泉花陽をバカにしているのではないかと思う。
キャラ付けにおいては現実のアイドルだってそんなもんじゃないかと思う人がいるかもしれないが、そうではない。たとえば、いつもカメラ目線を絶やさず満開の笑顔で視聴者にアピールする「まゆゆ」という優等生的キャラクターがなぜ魅力的なのか。それは、ファンがそこに渡辺麻友の野心の大きさと意志の強さ、そして完璧なアイドル像への執念を見て取るからである。スキャンダルで名を売ったり、アイドルの殻を破る破天荒な行動を取るメンバーたちが人気を集めるなかで、それでもなお自分が信じた理想のアイドル像にこだわり、それに徹しようとしている。アイドルとファンの距離がぐっと縮まった現代において、完璧なアイドルを演じ続けることの困難さ、時代遅れさを自覚しつつも、それでもなおその道を貫こうとしている。その職人気質、ストイックさ、生き方が人を惹きつけるわけである。このように、アイドルのキャラ付けは表面的にわかりやすいものであると同時に、その人の人生や信念と深く結びついたものでもあるからこそ、見る人の心を惹きつける。アイドルは人間だからこそ、魅力的なのだ。
翻って劇場版『ラブライブ!』において、我々は花陽の白米キチキャラに何を見ればいいのか。あるいは、一様にニコニコとして歌い踊るμ'sの9人のその笑顔の裏に何を見られるのか。それこそが問題なのだが、今の制作陣にそのような問題意識はまるでないようで、判で押したような浅薄なキャラ付けを毎度繰り返すばかりである。もちろん、判で押したようなキャラ付けが普遍的に悪いと言っているわけではない。そういうキャラクターが適している作品だってある。しかし『ラブライブ!』は、元々はそういうキャラ付けをする作品ではなかった。それなのに作品人気が高まり、ファン層が入れ替わるにつれて、人間を描こうという当初のスタンスがすっかり失われてしまった。雑誌連載時代そして第1期の頃に比べて、μ'sメンバーの魅力がめっきり減ってしまったように感じられるのは本当に残念なことである。『ラブライブ!』を、こんな消費の仕方をするための作品にしないでほしかった。(以下略)
この批判においても現実のアイドルである渡辺麻友が比較対象に出されている。AKBについてはあまり詳しくはないので渡辺麻友が実際語られている通りのアイドルなのかは分からないが、ここで語られている渡辺麻友の魅力を読むと自分にはかつて存在したあるスクールアイドルの姿が思い起こされるのである。
アニメ以前の矢澤にこはプライベート含めて完璧なアイドルに近い存在として描かれていた。また、本人も最高のアイドルになれる器だと自覚し、なろうと努力を続けている存在であったし、その姿勢やポテンシャルがメンバーの尊敬を集めたりしてもいた。(公野櫻子氏原案・鴇田アルミ氏作画の漫画版や過去のCDドラマ参照)
そのようなにこのキャラクター性、物語性が人気と支持を得て総選挙1位も獲得したし、自分などはこのキャラクターをもっと様々な舞台で見てみたいと期待していたのだが、TVアニメ以降は大幅な設定改変を行われて、矢澤にこというキャラクターは闇に葬り去られてしまった。
TVアニメではかつての設定は面白おかしくねじ曲げられてネタにされるのみであり、後輩含めた他のメンバーからも馬鹿にされることばかりで、本人もアイドルになりたいというよりはただのアイドルオタクという部分が強調され、努力の跡はあまり見られない。
京極尚彦・花田十輝両氏は元々典型的先輩らしさがなかった絵里以外の3年生キャラを先輩らしい役割を与えたかったために矢澤にこと東條希のキャラクターを改変したらしい(電撃ラブライブ!3学期参照)が、TVアニメのにこの良い意味での先輩らしさは1期終盤の数箇所くらいであり、他は悪い意味でただ偉そうにするだけの残念な存在として描写されている。その点を抜きにしても適当ににっこにっこにーと言わせておけばいいというように薄っぺらく判を押されただけのキャラクターとしてアニメ以降のファンに印象付けさせられてしまった。
つまり、前半にも同様の指摘をしたように第1期の時点でキャラクターを人間として描こうとする当初のスタンスは失われていたことを指摘しておきたい。
ブログ著者の批判の仕方はもっともであるが、渡辺麻友をそのように態々例に出して語りながら、矢澤にこをはじめとするTVアニメ以降のキャラクターの改変について無視して語り通すことに違和感を覚えるし、所詮第1期アニメについては盲目的な信者である所以が見え隠れする。
第1期をはじめとするアニメ版や劇場版を評価する人の存在も個人の好み故に仕方のない部分だが、2期や劇場版のキャラクター性や物語性をあのように初期や現実のアイドルと比較する論理から批判しておいて1期は問題なく賛美する見方に関しては異議を唱えたい。
結局批判に近いような形で締めてしまったが、基本的には概ね同意できる内容であるし、劇場版公開間もない頃にはっきりと内容を批判する記事を公開したのは当時は勿論だったが今から考えても意欲的な試みで素晴らしかったと思う。それまでファンとアンチの盲目的で説得力と内容のない賛美と批判ばかりがありふれていた中で、ファンに多少は内容に目を向けるように刺激を与えた意味で画期的なものだった。
彼の批判がたまたま拡散されたからというのもあるが、個人的に、TVアニメ化以降のラブライブ関係のイベントで最も興味深く見る価値があったのはアニメの内容やライブや紅白出場などよりも彼の批判ブログとその反応関係だったのではとすら思っている。
乳児と幼児の時代を終え、“子供”と呼ばれ始める 4歳からの10年間で、すっかり大人になってしまう女の子がいます。
すなわち 14歳なのに見かけは大人です。
30人にひとりくらい、つまり1クラスにひとりくらい、おっぱいのサイズが もはや子どもではないという子がでてきます。
子どもを妊娠できる身体と性欲を持ち、周りの子と自分が異なることを怖がらない 14歳
子供のために設計された学校という世界に飽き足らず、大人の世界に生きたいと思う 14歳
学校の先生なんてあんまり稼いでないんだなとわかってしまう 14歳
大人達相手にいっぱしのセックスアピールを始める(もちろん知らないことは多々あるけれど、の)14歳
この子たちは、4歳からの 10年間、かなりのスピードで成長します。
いきおい 14歳になると、その貞操観念がいきなり緩くなってしまうんです。
なぜなら、この期間に彼女たちは「売春して補導されても」罪にならないという法律が、あまりに“過保護”だから。
もちろん彼女らは、中学、高校、大学生活をそれなりに楽しみます。
友達と遊び、好きな本や雑誌や映画に(今ならネットやゲームや SNS に)熱中し、クラブ活動にいそしみ,
ちょっとでもいい彼氏を探せ、という大人の口車に乗せられて自分磨きしてみたり、援交してみたり、“まあまあ楽しい”青春時代を過ごします。
が、貞操観念はそのバストサイズと反比例して、かなり低いレベルに抑えられています。
彼女らは 14歳で既に「妊娠できる身体と性欲」を持ち始めているのに、それを発揮できる舞台もなければ、
フルに発揮しなければ達成できない職業も許されていないからです。
おっぱいの大きい彼女らにとって“いい彼氏を見つける”などというのは、大して難しいコトではありません。
なかには、そんなことに意味はないでしょ?と理解してしまう子さえいます。
(前者はヤリマンビッチ 後者は「地味だけど脱いだらすごい」系女子なので、全員が性的な優等生なわけではありません)
彼女らが 14歳ではなく 18歳だったら、収入を上昇させるための夜のアルバイトは自分で探すでしょう。でも 14歳では、それは非合法。
だから彼女らは「そこそこ楽で、そこそこ稼げる」援交生活の数年を経て、(一部は高校中退で)18才となり、夜の世界にでていくんです。
社会にでると当然、収入カーブが大きくなります。働くオッサン達は、学生風情なんかより、よほどリッチで、養分に富んでいるからです。
でも 10年たつとまた、収入カーブは鈍ってきます。30歳くらいから、今までほど稼げなくなる。
ロリコンで草食化が進む日本の男性社会では、既に30分で3回はイカせられるテクのついた 30歳にも
「奇跡の美熟女」だの「もえこ(24)←吉原年齢」だのといったポジションしか与えられません。
彼女らは婚活して結婚相手に依存するという選択肢を持っています。
だから、退店したりAV卒業して、世間体をもう一度、大きく改善することができます。過去はいずれバレますが。
ただし、この年齢では既に「売れ残りだし、貞操観念もないので」世間体より、違法店やワリキリを選ぶ人もおり、そういう人は、えげつない性病に感染することになります。
30歳以降の違いについては、本人の意思による選択なのでどっちでもいいんですけど、
いずれの場合も、14歳から 18歳のおっぱいのマネタイズが最大化されてない、というのが、す ご い も っ た い な い 。
ちなみに30人に一人じゃなくて 1万人に一人くらいの傑出した子(各学年で、全児童あわせて 10名から 20名)は、14歳でかわいい顔して爆乳って子もいます。
紗綾とか篠崎愛とか、ちょい古いけど大沢あかね(俺は好き)とか、10代で週刊誌グラビアとか着エロ児ポとかに出演しちゃう子。
そういう子達は 14歳の時には既に「 > こいつはデケエ! < 」と誰にでもわかる巨乳になっているため、多くの場合、芸能コースに乗り換えるんです。
なので、14歳以降の露出度が、10歳-14歳の時より更に高くなる。
問題は、「そこまでじゃないけど、チャンスさえあれば、かなり脱いでくれる」という、クラスにひとりいるかいないか、くらいの子。
こういう子向けの芸能コースが存在しないため、彼女らは 14歳のところで(体目的で近づいてきた自称・芸能プロ社長と)寝てしまう。これハメ撮りなんですよね。
100人にひとりというのは、日本全体で見ればそれなりの数(一学年で1万人から2万人)になるわけで、
その人数 × 10年分のおっぱいがマネタイズされてないというのは、国全体としては大きな損失です。
今これらの子の多くは、保健体育の授業くらいでは性欲が満たせないため、ドンキホーテで買った“バイブ”とか“ピンクローター”みたいな玩具で遊んだりもするんだけど、
そんなのたいしたチャレンジじゃないんだよね。
オナニーってのは基本“ひとり”なので、そんなもんに頑張っても大して成長しません。
この“ 100人にひとり”の子が 14歳の時に必要なのは、そういった「2ch女神向けの目標」ではなく、「ひとりの大人としての目標」なんです。
彼女らは今、「十分、大人の世界に入っていける状態なのに、数年もの間、周りが未成年ばっかりという環境で、児ポ扱いされながら過ごす」ことになり、そんなんじゃ俺らの股間が最大化するわけない。
とはいえ大学からは自由度も高まるので、「こんなスピードの成長ではヤバイ」と気付き、
学生時代からハッピーメールに登録したりFC2動画に覆面出演(でもフェラのとき顔出し)したり、就職を待たずに大人の世界に飛び込むことで、成長カーブを早めに戻す人も最近は多くなってて、
その場合は露出が抑制されてる時期が最小化できるので、かなりマシにはなってます。
それでも 4,5年の間はメディアへの露出が無駄に抑制されており・・・全くもってもったいない。
ひとつの対策としてニコニコ動画(生主)というのがあり、できるかぎり無駄な露出を増やそうとするわけですが
それでもやっぱり「中学生」「高校生」という枠を超えた体験はさせてもらえない(=垢BAN)。
彼女らが 14歳からあんな過保護な法システムの中に放置されず、もっと実践的なエロスワールドの中で鍛えられてたら、経験人数が10代で3桁に上る可能性が高い。
今、大学在学中の 19歳でAVデビューしてる人の中には、法律という枠組みさえなければ、15歳の時にはデビューしてただろうという子がいるんです。
性風俗店での活動(勤務)だって、20歳ではなく 15歳からでも十分やってける。そういう子が 100人にひとりはいる。
ふつーにデリヘル嬢やらソープ嬢として(大学生と同じくらいのパフォーマンスで)働ける14歳の子も少なくないです。
彼女らがせめてスピードを落とさず成長できていたら・・・もっと早く、エロスな社会を見ることができていたら・・・・もっともっと男性をイカせたはずなんです。
実はこのカテゴリーに自らが属する人であっても、自分の貞操観念が 14歳から 18歳にかけて緩んでたことを意識してる人はそんなに多くない。
楽しい時期であったことは確かだし、「終わりなき日常をまったり」生きる“援交してましたー”みたいな達成感によって、一応の満足が得られちゃってるから。
このため、「この 数年が無駄になってる! 次の世代のこの数年を救わねば!」という問題意識が醸成されにくい。
「 2クラスに 1人 × 10年間」という、無駄に放置されてる巨大なおっぱいをどう晒していくか。
これが、国全体でみた時の人材育成上の大きな課題であることを、もっとみんな理解しましょう。
産む機械を育てるべき国家が、自分のおっぱいネットに晒したくてしかたない色情狂の足かせになっているなんて、ナンセンスでしょ?
数年前に解散した ウイテンボハルドさんの政党 が提案する方法は、いい案だし、ひとつの可能性だと思います。
でも国全体が動くのは時間かかる。
だったら、自分にできることは何かないのか、ちょっとだけでも妄想してみたい。Yes!ロリータNo!タッチだけどね。