はてなキーワード: パッチワークとは
SNS全盛のこの時代、前評判なしに作品に触れることはほとんどないように思う。
悪いことじゃない。誰だって面白そうな作品を見たいに決まってる。でも、ちょっとだけ、この現状に危機感を覚える自分がいる。
「テセウスの船」という有名なパラドクスがある。船のパーツをすべて交換したとき、それは元の船と言って良いのか?というアレだ。私の覚える危機感はこれに近い。つまり、前評判ありきで作品を見た後の感想は果たして本当に私自身のものなのか?ということだ。
どんな作品なんだろうと検索すれば、耳触りのいい言葉が無数に並んでいる。「どうあがいても●●」だとか、「(作品A)+(作品B)÷2」だとか、「(なんかそれっぽい形容)な(任意の作品名)」だとか。よく考えつくなあと思うし、実際的を得ているのだろうとも思う。一方、この上ない空恐ろしさも感じる。こんな素晴らしい感想を見た後、この作品を見た俺は新しく何か感じ取れるのか?俺の感想はすべてネットの共通解に塗りつぶされやしないか?結局他人の言葉のパッチワークでしかないのでは?自分で思いついたはずのうまい表現もいつかサブリミナルに見た他人の言葉じゃないのか?…。
既に用意されたテンプレを新しい作品に当てはめ、みんなで同じように使うインターネット組体操は確かにすごく楽しい。でもそれだけじゃダメだろという感情はぬぐい切れない。他人の感想で作品を誉めたかと思えば、評価が間違っていれば責任逃れ。次は他人の感想で作品をくさす。自分をオタクと思ってるあなたたちも無意識にこうなっちまってないか?
だから私は作品とタイマンを張る。休日、本屋でじっくりと腰を据え、本棚を眺める。タイトルと、装丁と、ほんのわずかな粗筋。これら一次情報だけで本を選ぶ。読みきるまで他人の感想は見ない。どんなに拙くとも、自分の感想を書ききって初めてネットに触れる。時には多数派と真逆の見解になることもある。正直心臓がバクバクする。そのたび「これは答え合わせじゃないぞ」と念仏のように唱える。すると、意見の違いを楽しむ余裕が出てくる。
ぶっちゃけめちゃくちゃ疲れるし、割に合わない作業だ。だけど、これをしないと自分が自分でなくなってしまう気がするから気の向く限りは続けようと思う。続くかな??
その自由主義的な流動性を高めるアプローチはセーフティネットが盤石で人々に受容されていなければうまく機能しないが、日本人は失敗を恐れドロップアウトである無職や生活保護受給者を蔑視しがちな空気を払拭しきれずにいる、ましてフリーターや派遣社員ですらそれを生む社会でなく当人を責める風潮があるから、純粋な自由主義思想、ひいては資本主義に厳密に準拠する政策を取ることは不可能であり、社会主義的なパターナリズム、介入による裁量的救済、つまり個別的な福祉政策を混ぜ込んでスマートではないやり方をして綻んだそばからせっせとパッチワークし続けていくことで「失敗」自体を誤魔化す道しか選べないのである。日本人には「裁量よりルール」の発想は不可能である。しらんけど。
統合失調症の主な症状。被害妄想、言葉のサラダを作り出すこと。キチガイ看板はこれらを取り合わせた文学か、芸術だと思う。前後の文脈が全く合わなく、更には造語のオンパレードで、他所様を鮮烈に批判する様は、アヴァンギャルドなステンドグラスともパッチワークとも取れる。
もっと面白いのは、それが環境に置かれた時の周りの反応だ。明らかに公序良俗を乱す過激な掲示物が排斥されず残される。もしも会社で同じ文面を叫んだら、オフィスはくしゃみをするように非難轟々となり、そいつを吐き出すだろう。しかし、自分達に直接むけられないキチガイ看板は残る。花粉症にとっての花粉とは違い、魚の目のようにそこに残り続け、コブは大きくなり、文面はマイナーアップデートを繰り返し、字体は破滅していく。
そんな乙なものを楽しむ趣味があった。ただ、最近はそれを不謹慎だとか悪趣味だとか非難されることが多くなった。誰にも言っていないのに、どこにも書いていないのに、周りの人は特徴的な咳払い(これは全員に共通している)何らかのサインの咳払いをする(私はd払いと読んでいるが)のだ。近く、docomoショップにこの件を相談するつもりだ、携帯もセキュリティのために変えたいと思っている。
地方間格差と貧富の差を無視して、外国人技能実習制度を語るのは詐欺だ。
ほんと救えねえコメントが星集めてるな
外国人実習生が作った服着て、外国人実習生が作った家に住んで、外国人実習生が作った食品食いながら、外国人実習生が作ったスマホでクソみたいなコメントする前に
外国人実習生や、彼らに最低賃金で頼らざるを得ない企業がなんのために頑張ってるのかわかるか?
お前らみたいな年収300万円の貧乏人が年収1000万円の生活水準を維持するためだよ
年収数百万の貧乏人が穴一つないキレイな洋服着て、耐震基準を満たした風呂と水洗トイレのある家に住んで、安全で美味しい食い物がいつでも手に入って、当たり前にスマホ持ってる生活水準でいれることに何も疑問を持たないのか?
どうせお前らは
「外国人実習生に頼って低い最低賃金しか出せない地方の中小企業はそもそも淘汰されるべき。その結果3000円のシャツが5000円になっても仕方ないよね」
とか能天気に考えてるんだろ
お前らの理想通り最低賃金時給2000円になって、実習生もこなくなったとしたら
多分お前の勤務先も淘汰される側だ
お前が5万のシャツ、家賃15万の木造ワンルーム、一玉5000円のキャベツ、50万円のスマホといった「低賃金労働者フリー」の商品やサービスを使い続けられる人間ならともかく
そうじゃないなら
服は隣近所と古着を融通しあい、着れなくなったら自分でハサミとミシンを使いパッチワーク
スマホなんて夢のまた夢
結局お前らはヤることヤッたあと
「こんな不安定で危険な仕事やめて、将来のこと考えて真っ当な仕事に就いたほうがいいよ」
外国人実習生制度に対する批判そのものが間違ってるとは言わないよ
でも、自分が風俗嬢説教オジサンと同等の存在だということはきちんと認識しておけよな
ついでに言うとお前ら実際に日本で働く外国人実習生に会ったことないだろ
風俗嬢が皆貧困にあえいでやむを得ず性風俗産業に従事してるわけではなく
外国人実習生の少なくない人数が「来たかった日本に来れて、仕事ももらえて楽しー!」って感覚だからな
元増田はよくわかってるよ
イメージだけで語ってるブクマカと違い実際に外国人実習生に関わるか、外国人実習生雇ってる企業と付き合いがあるんだろう
ここ二十年だか十年くらい、オタク業界に限らず、売り手側が人気に敏感になり流行を見つけるのが上手くなった
次はコレが売れそうだ!となると、「最近これがおもしろいよ」とわいわい言ってる段階で、ちょっと待てや、多過ぎ。ってレベルの商材を突っ込んでくる
一番思い出すのはEVAか
あれは庵野監督の後日の記事でもあったが、金になると思った当時のガイナックスの上層部がクオリティなどどうでもいいからと大量にグッズやゲームなどを出していた
EVAほどではなくても、今は流行はじめの段階で即シュババババ!と金の匂いをかぎつけた奴らが集まり、グッズ!イベント!ゲーム!アニメ!などと盛り上がり、結局気づけばブームはすぐ去っている
売れたのはいいが、売れるとなると特典商法、アニメ、グッズ、などなどの大量の投入になんだか萎えてしまった
いや公式に金を落とすのは公式のためにもなるのはわかってるけどさあ…
せめて書き下ろしの絵くらいだせや…
原典から切り取っただけの絵を貼り付けたグッズを大量に出すって、それもうとにかくなんでもいいから商品さっさと出して金を儲けようってだけですよね
100ワニグッズも、売れてないっていうけど、売れてない理由の一つは絵に全然書き下ろしがないからってのもあると思うわ
まあとにかく載るしかないこのビッグウェーブに、という公式の金儲けの匂いがすると萎える
我ながら何でなのかなあと思うけど、最近はこの「売れそうだと思ったら、寝かせる間もなく怒濤の商業展開で搾り取りさっさと消える」パターンのものばかりで、どんどんオタク業界に興味がなくなっている
まあこの流れが逆になることはないだろうから、単に年寄りのお気持ち表明なんだけども
あれこれ言われているが、長いこと続いているのは、ある程度公式がセーブしながらやっているからだと思うんだよね
型月も、まあいろいろ派生作品はだしはするが、あっちもそれなりに公式がやり過ぎないように調整しているように見える
本当に金が欲しいならFateが売れているときに今やってる桜編まで全部やっただろうし
話が逸れたが、100ワニや鬼滅みたいな「適当に原作から絵をパッチワークしてとりあえず大量に物出して金を搾り取ってやる」系のもんはもう止めて欲しい
あと「これから金儲けをするために、邪魔になりそうな奴は追い出して俺たちが金を稼ぐ」というガイナックスとけもふれみたいなのも止めて欲しい
「後藤さんのこと」を読んでめちゃくちゃ面白いと思ったのがおよそ10年前。大学生の頃だった。
この短編集は今でもかなりの名作だと思っているし、ハードカバーを買って大事に持っている。(小説は絶対に文庫版で買うという決意を持っているこの俺が、だ)
どの短編もこれまでに読んだことのない新鮮な後味で、何度でも読み返した。
そこで読書メーターやレビューサイトを見ると、「数学や物理を使って書かれた純文学」みたいな書評が目についた(ちゃんとした表現は覚えていない)。
そうかな。と思った。
なるほど。確かに、「さかしま」「考速」「ガベージコレクション」あたりには、理系的なモチーフがふんだんに埋め込まれていたし、その中には確かに数学や物理の単語もあった。
どちらかというと情報系分野の香りの方が強く感じたけど。まあ情報も数学の一部だしな。
でもなんか、「数学や物理を使って書かれた純文学」みたいな批評にはなんとなく頷けない感覚があった。
言い忘れてたけど、自分は一応ちゃんとした大学の数学科出身であるので、数学や物理の単語を言われたらそれが何のことかはわかるし、学問においてどういう立ち位置だったりどう使われるか、はおよそ知ってる(あんまり高度なのは無理だけど)。
だからこれらの話はすごく面白く感じた。理系用語が雑に使われてたから引っ掛かったとか、そういうことじゃない。むしろ日本語としてこれ以上ない適切な位置にそれらの単語は置かれていたのではと思う。
次に「バナナ剥きには最適の日々」を買った。これも素直に面白いと思った。
「equal」には妙な居心地の悪さを感じたけど、「捧ぐ緑」は今考えても円城塔の最高傑作なのではと思えるくらいだ。
なので最初に違和感がはっきりと形になったのは、その次に買って読んだ、「Self-Reference ENGINE」ということになる。
しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかると言う保証は全くのところ存在しない。これがあなたの望んだ本です、という活字の並びは存在しうる。今こうして存在しているように。そして勿論、それはあなたの望んだ本ではない。
皆はこの小説をどのように楽しむのだろう。
言っていることは理解できるし、示唆的ではある。人に何かを「考えさせる」文章でもある。しかしそれは「考えさせる」だけで、後に何も残さない文章でしかなかった。
ストーリーもあってないような状態。各章の繋がりもバラバラだし、場面は突然切り替わるし、急に新キャラが出てきて急に退場するし、何もかも説明が不十分で、衒学的な、鼻につく文章だけが延々と続く。
端的に言って、「最初から最後まで何も言っていない」。文字を無駄に消費しているだけの、中途半端な文字列らしき何かだと思った。
そして「エピローグ」を買った。
何故って彼はエージェントで、エージェントとは人間よりも器用にチューリング・テストをクリアすることのできるスマート・クリーチャにしてオーバー・チューリング・クリーチャだからだ。
人間に理解できるのはせいぜい、N文字を利用して作成可能な全ての文章であるにすぎない。Nはある程度の大きさのところに留まり、そこには有限個の文章しかない。
「敵艦影、三。天頂方向より接近。ダミー放出。並列存在を開始。複雑性迷彩が起動しました。オーバー・チューリング・テスト実行。成功。成功。失敗。失敗。失敗。当該宙域には、法則69805f9944ed4298311d0cdaa75da2629d6f3bb3756455d504243fla6c565f75が適用されていません。」
はあ。これでやっとわかった。
彼は詩を書いているんであって、小説なんか最初から書く気が無いのだ。
円城塔の紡ぐ文字列の並びは確かになんとなく美しいと思う。なんか感性に訴えかけてくる。なんか良いこと言われているような気にさせられる。
しかしその実、中身が全くない。その点に限って言えば詩としても程度が低いように思う。詩にも訴えたい内容とかあるからね。
そしてそれに「ていよく」使われているのが、SFだったり、数学や物理の言葉だったりする。
数学やSFが、詩を美しく紡ぐための新しい言語の代わりにさせられている。これがなんとなく違和感を覚えた原因だったのだ。
つまりこれを「詩集」ですと言われて手に取ったら、「おお、面白い詩だね」といえるんだけど、「小説です」と言われたから、「小説か??」となってしまう。
軒並み、「なんだかわからないけどすごい」「深淵」「自分には理解できない新境地と感じる」「文系殺し」といった単語が並ぶ。
端的に口をそろえて「理解できませんでした」と言ってるだけだろうが。理解できないものを、適当に高評価するんじゃないよ。ボーッと生きてるにもほどがあるでしょ。
詩の材料にされている数学や物理の言葉がわからないものだから、その意味不明さに脳が酩酊させられてるだけだよ、それ。酒飲みみたいにその酩酊を楽しみたいなら、いいんだけどさ。
自分は文系だから、知識がないから、それらの語彙が入ってこないだけで、ちゃんと語彙力があったらそこに何か深い意味が込められているんじゃないかと思った?
なかったよ、なんにも!!
さらに頭にくるのはそのやり口で芥川賞なんか取っちまったところだよ!
選考委員も、軒並み騙されてんじゃないか。誰か一人でも意味わかってたんか?「道化師の蝶」のモチーフとなっているという、自己言及プログラムを一人でも書いてみたんか??
俺は、この世に理系人間と文系人間とやらがいるとはあんまり思ってないけど、もし芥川賞の選考委員がそういったSFや数学物理に疎い人で構成されているんなら、円城塔作品はまさしくその脆弱性を突いたクラッキングだよ。
以下が「道化師の蝶」受賞時に高評価をつけていた選考委員のコメントだ。高評価だぞ?低評価じゃない。よく読んでほしい。
- 今回の「道化師の蝶」で初めて私は、「死んでいてかつ生きている猫」が、閉じられた青酸発生装置入りの箱の中で、にゃあ、と鳴いている、その声を聞いたように思ったのです。
- 小片たちがつなぎ合わされ、一枚のパッチワークが縫い上がり、さてどんな模様が浮き出してきたかと楽しみに見つめてみれば、そこには模様など何も現れていなかった。/もし自分の使っている言葉が、世界中で自分一人にしか通じないとしても、私はやはり小説を書くだろうか。結局、私に見えてきた模様とは、この一つの重大な自問であった。
- それ自体が言語論であり、フィクション論であり、発想というアクションそのものをテーマにした小説だ。/この作品は夢で得たヒントのようにはかなく忘れられてゆく無数の発想へのレクイエムといってもいい/こういう「やり過ぎ」を歓迎する度量がなければ、日本文学には身辺雑記とエンタメしか残らない。いや、この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている。二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。
『二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。』
完全に酔っぱらってるじゃねえか。
あと、円城塔は、いい加減に繋がっているようで繋がっていない短編の寄せ集めを長編と言い張るのをやめて、最初から最後まで一貫して繋がった長編を書くべきだ。詩集だから無理か。
元増田です。たくさんの人に読んでいただいたようで驚きました。
ある程度趣味で続ける人向けにと思ったんですが、初心者向けに続編を書きます。
「職業用高速直線縫いミシン」と言いたいだけな気がしている方もいるかもしれませんが、プロが選ぶとどうしてもそうなってしまいます。
ミシンの機種は代理店やネット販売を含めれば独自仕様や印刷違いが多くメーカーでも全てを把握はできないと思います。
したがって、下記のおすすめ機種ではメーカーHPに載っているリンクを記載しています。
細かな仕様違いもありますが、形と縫模様の数が同じなら中身も同じです。
元増田では少しラジカルに書きましたが、私は用途に合ったミシンが良いミシンだと思っています。
ここではメーカーを3社に絞りましたが、singerやアックスヤマザキのミシンも品質は高く、機能と値段が似ていればどっこいどっこいです。
※工業用と勘違いしがちですが、「職業用」で調べればたどり着きやすいです。
このミシンの大部分は垂直釜という方式で、ボビンにウォーズマンみたいなカバーをかぶせてミシンにセットします。
垂直釜のいいところは、針に対して糸が暴れにくいことです。それによって縫い目も安定するし高速に縫うことも可能です。詳しくはおまけに書きました。
Juki:https://www.juki.co.jp/household_ja/products/list/semipro/tl30sp.html
Brother:https://www.brother.co.jp/product/hsm/professional/nouvelle470/index.aspx
Janome:https://www.janome.co.jp/products/sewing_machine/normal/780db.html
電子ミシン、メカミシン、コンピュータミシンなどいろいろありますが、メーカーの売り文句っぽくなっているところがあるので目的別に選ぶことをすすめます。
Janome:https://www.janome.co.jp/products/sewing_machine/normal/mc4900.html
■文字縫いなし3~6万円程度
Juki:https://www.juki.co.jp/household_ja/products/list/home/hzl310.html
Brother:https://www.brother.co.jp/product/hsm/practical/ms2000/index.aspx
Janome(※):https://kakaku.com/item/K0000955183/
※:例外的に文字縫いなしのJanomeのみ価格.comのリンクを載せています。というのもこの機種は名作で、特に頑丈さが求められる途上国で売れ続けているモデルなのでどうしても推薦したいと思い載せました。職業用高速直線縫いミシンを除けばこの中で唯一の垂直釜です(ただし正面からセットするタイプ)
あまりおすすめしないと元増田でも買いた機種なのでおすすめ機種は記載しません。
とりあえず4つくらいに分けました。
元増田はC.かD.の人向けでしたが今回はもう少し幅を広げて書きます。
ブコメにもありましたが、この類型ではそもそも開封しない人も少なくありません。
とりあえず買ってみたいけど安いものが…という人はここだと思ってください。
おそらくボリュームとしてはこの累計が一番多いです。裾上げや雑巾縫い程度に使う人はここです。
保育園/幼稚園/小学校をきっかけに買うという人はここだと思ってください。
【おすすめは…①職業用高速直線縫いミシン、1台持ちなら③普通のミシン】
この類型は意外に少ないと思います。というのも、裁縫を趣味にする人のうち洋裁をする人はD.に入るし、パッチワークをする人の大部分は手縫いだからです。
コスプレ衣装を作る人はここだと思ってください。やや踏み込んで言えば、かがり縫いをジグザグで始末するのは邪道です。
ネタバレレビューとか読んで適当に感じたことをパッチワークしてみました。ミッドサマー?見てない見てない。
誰かと心が通っていると、芯から実感した経験、あなたはありますか?
私は無いです。
同じ気持ちを分かち合えていると、実感できた瞬間なんて人生で一度もない。
どんなに楽しい瞬間でも、相手に無理をさせてないか不安が残る。
どんなに悲しい瞬間でも、誰かの顔色を窺っている。
だからまあ、人の様子ばかり気になるから、一つの感情に染まり切れないのが問題なんですよね。
だから、私は「誰かと同じ一つの感情を分かち合い、その感情に浸り切れる」そういう瞬間を夢見ているんです。
現代社会が失った、ハレの日という昂りを分かち合うための時間。
その光景の美しさを、鮮やかな花々で彩って私たちに見せたのです、アリアスターは。
姉妹の不安の受け皿となるしかなく、彼女自身は弱音を吐こうとも周りの目が気になってしまう。
そうして事件を迎え、全てを失い、頼りたい彼は素っ気なく、歓迎されることのない旅路。
寄る辺ないとはまさにこの事で、彼女は、彼女が属する社会から完璧に切り離されていました。
ああ、これ私だ。
ミッドサマーの評価が分かれるのは、ここにあるのではないでしょうか。ダニーを、自分のことと思えるかどうか。
ここで、ダニーに共感できる要素がなければ、ミッドサマーは、ただのホラーで終わり。
変なカルト宗教が若者を美しく殺していく…のだけれどもちょっとスリルにはかけるかな?という雰囲気なんだろうか。
ダニーを若干好意的に見てる、という人はまた少し話は違ってきて、おそらくエンディングは「高校の頃の友人がマルチ商法にハマってた…」みたいな絶妙な感覚になるんじゃなかろうか。
ダニーに、どこか自分の孤独感を重ねて見てしまった人。そういう私のような人が、一番この映画を楽しめて、そして一番この映画を見てはいけないのだと思う。
だから、あのエンディングの後に、きっとダニーも殺されるのでしょう。
メイクイーンとなった人々の写真の枚数の割に、かつてのメイクイーンが登場しないことを照らし合わせると、なんらかの形でメイクイーンを始末しているのでしょう。
ホルガが近親相姦を避けるために外部から人を招き入れていることを考えると、ホルガの血を引かないダニーに、下卑た末路を思い浮かべてしまうのは私だけでしょうか。
だから冷静に考えるとダニーはどこまでも悲惨なのです。側から見れば今まで生きた社会から切り離された挙句、薬漬けにされカルト宗教に堕ちてしまった女なのです彼女は。
でも、そうまとめたくは、ないじゃないですか。
あの弱音を吐くことも、自分の居場所を得ることも上手くできなかったダニーが、全てのしがらみを抜けていって、新たな世界で出会う人と心の底から楽しみ、歓び、そして泣き叫ぶ。
ありとあらゆる感情を迸らせようとも、それを奇異の目で見られることもなく、それどころか共に笑い、共に泣いてくれる人々がいる。
それは、やっぱり、私に取っては夢のような光景だったんですよ。
ダンスの最中、スウェーデン語を話せるようになった彼女の姿が、あまりにも眩しかった。
と喜び踊るあの姿は、本当に美しかった。
あのホルガという村は、何もかもが嘘だけれど、あの誰かと心を通わせようとする力強さだけは、本物だって信じたくなったんですよ。
どんな感情であろうとも率直にぶつけられる村。
どんなエゴであろうとも、それをむき出しにすることを許される村。
どうにも現代社会というのは、距離感を取りたがる文化らしく、感情をむき出しにするとおかしなものとして処理されるんですよね。
そういう小さな我慢たちを「理性」として持てはやすこの時代に、私は寂しさとか疲れを感じてしまった。
家族という強烈な繋がりを失い、
薬によって現代人としての理性を失い、
そうやって、現代社会との繋がりをひとつひとつ失って、まっさらになった彼女に、あの問いかけがやってきます。
どちらの世界で生きるかを決めたんだ。
そりゃ、たくさんの人が死にますよ。残虐に殺されていく。
でもいいじゃないですか。ダニーは確かに、救われてるんですから。
ダニーを、私を苦しめてきた粗暴な世界が緩やかに壊れていくだけのことで、そこには喜びしかない。
そうやって、彼女を押し込めてた世界がようやくほどけていく。それならば、かつて愛した彼であろうとも、犠牲にしたっていいだろう。
クリスチャンは村人とセックスをしたから、恨みで燃やされたわけじゃない。
今までの世界の名残、今までの私という汚点の象徴だからこそ殺したんだ。
やっぱり私は、ミッドサマーが大好きです。
もしあの後に殺されるのだとしても、いいじゃないか。
この居場所のない世界で心を殺しながら細々と生きながらえるよりも、あんな美しい世界で誰かと大いに心を通わせたという一瞬を得て、死んでいく方が大いにマシだ。
だからきっと私も、揺らめく火を見つめながらにっこりと笑えるだろう。
一話に関しては後に幼少期の出会いがフォローされてるし、森での一人喋りも単なる性格上の伏線にしか感じられなかった。リトルウィッチは同感かな。あれはスージーの中の話とか、そういう小話を積み重ねるだけで良かったと思う。
あとなんかトラバしつつ怒ってるみたいだけど、俺はダリフラがエヴァ、エウレカに比肩したなんてこれっぽっちも思ってないよ。今どきの気持ちで翻訳したらああなるよなあ、というつもりで「系譜」と書いてる。個人的には両作ほどではないけどちゃんと抑えられていた、が自分の所見。完成度的にはたしかに及ばないけど、パッチワークとは思えないね。
少なくとも主人公の失ったところから手に入れるきっかけまで、という一話は喪失的な経験がある人からすればとても共感しやすかった。後半を言えば傷だらけの二人の関係性がどう改善するのか、追いかけるのが個人的には好きだったので。俺ね、なんか家族が韓国歴史ドラマ見るんでシナリオ分析してみたんですよ。あの人ら記号を組み合わせるのはとてもうまいんだよね。まあほぼスクリプトドクター的な手法。でも毎回週刊漫画みたいに盛り上げなきゃならないから、意味不明なEPを作って無理に劇的にする。あれに比べると日本のアニメは感情大切にしてるなって思う(まあ、感情とエンタメ性は相容れないとかそういう話は置いといて)。
いろんなものを分析してると、凄く上手いのに凄くつまらない作品とかも沢山あるので、作品って遺漏の有無や過多ではない、と思ってる。
上と同じ答えになるが、それならここで小清水をあんな風にやる必要なくない?
幼馴染っぽい少女が涙ながらになんかを訴えたあとあっけなく目前で死す、というイベントは
おおまかに「主人公に深い衝撃を与える」か「たいして衝撃も受けないサイコな主人公」かを導く訳で
ここだけちょっと。嫌々でも最後まで見たんだろうか。ラスト付近で幼少期のゼロツーとヒロが出てくるシーンからして、またダリフラのセクシャルな設定からしても、ヒロが死んだナオミに共感しづらいが責任は重く感じてるってのは別に問題ないように思えるけど。
全部見てない……?
どうも、というかトラバが見づらくなっちゃった……。それと別に君のことは知らない。エヴァってところに反応したのだろうけど。そもそも俺の言いたいことと噛み合ってないし。
たとえ映画だとしても、戦中の30-40年代日本が舞台なのに戦争関係の描写が一切なかったらおかしいでしょ?
どういう意図なんだ?って思うはず。
で、フォレストガンプはその取捨選択がすべて、アメリカ極右の歴史史観なの。
左翼を馬鹿にし続けて、右翼が気持ちよくなるように捏造したりパッチワークした展開だけが続く。
日本でいえばポツダム宣言を受諾しなかったりGHQが存在しないみたいな。
しかも、アラバマが舞台なのに公民権運動が存在しない=黒人に人権は認めないとか、かなりヤバいやつ。
(言い訳としてババって黒人キャラを出してるけど、これもよくある卑怯な手法)
当時文革を批判してたジョンレノンを実際の映像に吹き替えして「中国万歳の馬鹿アーティスト」として笑いモノにするような映画だし、他にも色々やばい描写が腐るほどあるから調べてみるといいよ。
バックトゥザフューチャーもロックという黒人発祥の文化を、チャックベリーが白人からパクったものとして描いてたり、レーガン政権の思想そのままだったりと、こっちも実は結構ヤバい映画。
10日発売の『文藝春秋』に芥川賞の選評が載っていて、二回連続で落選した古市さんがいろいろ言われている。
候補作は単行本で出版されているが、まだ読んでない。だが、高学歴なのにビルの窓の清掃員をやってる主人公の話で、参考文献が詳細にあげられているらしいことは、なぜか知っている。
参考文献については、前回だったか、候補作の剽窃問題があって、その辺の対策らしいと噂されていた。
で、選評である。
まず山田詠美はこう書く。“(参考文献の)木村友祐作「天空の絵描きたち」を読んでみた。
そして、びっくり! 極めてシンプルで、奇をてらわない正攻法。候補作よりはるかにおもしろい”
“候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっとずっと巧妙な、何か。それについて考えると哀しくなって来る”
続いて川上弘美。“結論からいいます。わたしは悲しかった。木村友祐さんの声がそのまま「百の夜は跳ねて」の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです”
“古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持にかける行為であると、わたしは思います”
吉田修一。“本作に対して、盗作とはまた別種のいやらしさを感じた”
“あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う。”
堀江敏幸。“他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか”(原文では「かっぱいでも」に傍点あり)
要するに、古市さん、文芸誌に掲載されたが出版されていない佳作を探してきて、うまいこと翻案して小説書いたようである。
いや、具体的にどの程度の参考具合なのは確かめてないので、なんとも言えないが、当代きっての作家先生方が、かなり憤っておられるようなので、相当なものなんだろう。
是非比較して見たいところだが、「参考文献」の方は、『文学界』2012年10月号、だそうなので、確かめるには、図書館でバックナンバーを出してもらうしかなさそう。
にしても、古市さん、お忙しそうなのに、純文学の文芸誌まで必死にあさって「参考文献」集める努力は大したもんだが。
まあ「情報集め」は嫌いじゃなさそうだしな。
まさかとは思うが、担当編集者がうまいこと見繕って選んだのを古市さんに読ませてるとか、そういうことじゃないよね?
島田雅彦曰く“ナルシスト的私語りが中心で、リアリティ構築に必要な細部も情報のパッチワークに終始しているのが気になった。”
どうやら評価したのは奥泉光だけで、“今回自分が一番押したのは、古市憲寿氏の「百の夜は跳ねて」だったが、選考会の場で評価する声はほとんど聞かれず、大分弱った”そうである。
“外にあるさまざまな言葉をコラージュして小説を作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた”そうだ。
ここには、小説における“オリジナリティ”とは何か?という問いが含まれている。
ま、小説なんてそもそも「すでにある言葉」の組み合わせでしか書けないじゃん、というのはある。
で、ありもののコラージュでも新しいものが生まれればいいけど、山田詠美は「参考文献」の方が「はるかに面白い」って言ってるしなあ。
吉田修一は、「参考文献問題」以外にも手厳しくて、“凡庸で差別的な価値観の主人公を小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、とすれば、作家としては致命的ではないだろうか”なんて言っちゃってる。
これは、社会学者にして人気コメンテーター(タレント?)としての活動にも少なからず影響しそうな評価だと思うけど、ま、芥川賞の選評なんて、今時の世間に影響力なんかないのかな?
古市さんという人、本をちょっと読んだことがあるのと、時おりメディアでお見かけするだけで、どんな人か詳しくは知らない。
ただ、妙に芥川賞を取りたがっているらしいという噂は聞く。
なんでだろ?
“気鋭の若手社会学者”も“テレビで毒舌が人気の論客”も、実に空虚で脆弱な肩書きで在ることに、ご本人が一番気づいているということだろうか?
そこで、「学者として研究に力を入れる」ではなく、「いい感じの小説を見つけてきて、うまいこと翻案して芥川賞ねらう」って辺りが、実に薄っぺらいけど。
テレビで知名度得た人が芥川賞狙うって図式では、又吉直樹といつ成功例がある。
あの「火花」という作品が、そこまで傑作かどうかはともかく、この人は本当に、太宰治を筆頭に、文学というものが大好きで、おそらく文学に救われたという経験を持っていて、文学をリスペクトしていることが端々から伝わってくる。
あんまり文学とか語ってるのを聞いたり読んだりした印象がないのだが。
前回の選評では、「ナルシシズムが過ぎる」とか「自己肯定というより自己過信」とか、これまたかなり厳しい言葉が並んでいたと記憶する。
単なる自分語りの舞台として小説を選んでいるのだとしたら、ずいぶん旧い、日本文学における「私小説」偏重な文学観をうすっぺらくなぞっただけかもしれないが。
なんだろうなあ?
社会学者もコメンテーターも、ありものの言葉を組み合わせつつ、持ち前の地頭とセンスと要領でなんとなく現在地位を掴めちまったっぽいだけに、「小説? これくらいなら、ボクでもかけるじゃん」とか思っちゃったんじゃないかなあ、という疑いを禁じ得ない。
【追記】
えらくブクマついてる。文藝春秋なんて読んでないけど、中身は気になるって人は多いのかなあ、と思ったり。
「参考文献」の著者、木村友祐さんがtwitterで発言されておられるので、追記しておく。
本件、「古市さんが窓拭きに興味をもち、取材依頼があり、応じました。窓拭きの達人を紹介しました。古市さんはその取材をもとに書いてます。」そうだ。
お詫びしたい。
なお、「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。そしてぼくは、〝知名度がないゆえに作品を利用されたかわいそうな小説家〟ではありません」とのこと。
にしても、選考委員の先生方は、どの程度経緯をご存じの上で選評を書かれたのかは分からないけれど、えらく憤っておられるようで、なにがそんなに山田、川上、吉田各氏に火を着けたのか、検証してみたくはある。
元増田にグダグダ書いたけど、俺が一番違和感を持つのは例えばこういう運動のこと。
「少女像」展示再開求めデモ集会に200人「表現の自由の弾圧だ」名古屋 - 毎日新聞
デモに来た埼玉県の女性会社員(25)は「作品を見たかった。主催者側へのひどい脅しなどがあったので続けられない状態になったのだろうか。悔しい」。上滝浩子弁護士(京都弁護士会)は「公権力を持つ立場にある人が干渉的なことを言えば、表現活動が萎縮する。そうさせないために憲法は表現の自由を保障している。許せない」と話していた。
繰り返しになるけど、表現活動が委縮したのは、ガソリン持ってくると脅されたからでしょう。
で、それに対して通常、対処しうる危機管理以上のことが現場で可能だったの? 例えばガソリン怖いのをみんなで耐えるの?主催者だけではなく客も巻き込むんだよ?
できないものを無理じいして、できなかったら検閲だなんだって騒いで無理な注文をして困らせるのが表現の自由を守るってことなの?
そういう理由で起きる表現活動の委縮って誰かのどんな努力でどうにかできるものなの?というのが俺の最大の疑問。
委縮しないようには何をすれば?という観点でいうと、例えば、テロを抑止する、という話とよく似ていて、
社会にあふれる憎悪を鎮静化させる、みたいなフワっとした話にしかならない。
****
行政が危機管理対応としたという話と、行政が言論を弾圧した、という話を混ぜるなよ。ナイーブすぎるだろ。
****
もう少し思想的な背景に突っ込ませてもらうとさ、
そもそも、脅迫含めて暴力的な言論というのは、表現の自由の副産物として、
そういう過激な行為が起こりうることは覚悟しておかないといけないかもしれないんだよ。
アメリカを例にとる。意見が異なる者同士が過激な形でぶつかり合う、というのは、17世紀のヨーロッパがプロテスタントの宗派争いで経験済み。
たとえ激しくいがみ合っていても、政府はどちらか一方が正しいとは言わない、と。
その経験があって、アメリカに渡った巡礼始祖が社会の約束事として決めたのが、合衆国憲法修正条項に引き継がれ、表現の自由の原型となっていく。
1970年代の連邦最高裁の言葉を借りれば、社会が不協和音に満ちていることこそ強さの証である、みたいな覚悟をもって、
ヘイトなど多少の過激な言動を認容していく、というのがアメリカ的な背景としてはある。
つまり、もし仮にアメリカ的な感受性で対処するとすれば、脅迫があったが、ま、今回は引きますが、へこたれずまたやりましょうね!ということなんだよ。
ところが日本の場合、そういう歴史もなければ、不協和音のなかで生きる覚悟もない。
むしろ日本の空気として強いのは行政による言論弾圧の記憶なんだよね。
それならそれでいい。表現の自由を基礎づける歴史的な記憶というのは、その国の歩んできた歴史文化によって異なるのは当然だからだ。
でもその背景について、客観的な整理と自覚がないと、ただ無意識にオブセッシブな態度を表明しているようにしかみえないわけよ。
だいたい横から出てきた名古屋市長なんてそもそも中止となんの関係もないじゃん。
そこはちゃんと危機管理対応と弾圧を冷静に切り分けてもらわないと。
展示が表現の不自由がテーマということで、ついでにひとつ言及しておきたいんだけど、
ムハマンド風刺画問題というのがあるよね、フランスで大きな騒ぎになったりもした。
これは、暴力行為が表現の自由の副産物だという文脈では読み解けない。
アメリカとはかなり異なる歴史的な背景があって表現の自由の価値が基礎づけられているからだ。
簡単にいうと、カトリックの絶対正義が猛威を振るっていた時代に、
こんなんじゃ、まともな社会設計ができん!という問題意識からスタートしている。
まずはカトリックを批判する権利が必要だということで「神を冒涜する権利」として始まったのがフランスの表現の自由であり、例の過激な政教分離なんだよね。
だからムハマンド風刺画事件でも、フランスのメディアは「涜伸の権利はいずこに」という形で問題提起をしたりしたわけだよ。
ただ、おれは別にそんな話を今回の展示に期待しているわけじゃ全然ないんだけどさ、でもなぁ。
そんなたいそうなタイトルを銘打っておきながら、さまざまな国の作品を展示しているのに、他人の作品をコピペみたいに持ってきてパッチワークかよ。
ネットでみつけた一般客のコピペした解説文や評価をみても、テーマである”不自由”の背景がよくわかるものではなかったね。
そのうえ雲行きが怪しくなったら中止と。芸術監督は残念がってメソメソと泣いて、みっともないってちょっと思ったりした。
行政もだよ。リスクを想定したうえで、あらかじめ退避の基準を明示しておくんだよ。この場合、判断と行動のスイッチとなりうる事象をリストアップしておくんだよ。
そのうえでリスクシナリオと判断基準について主催者と合意しておく。
そうしないと、あ、ヤバいと思ったんで引き揚げました、みたいに、行き当たりばったりな説明しか主催者にできないだろが!
そりゃ、突然中止に追い込まれたと思うわな。
まとめると、
表現の自由という観点でも主催者の問題意識は感覚的なものでしかないし、
表現の自由についての問題整理とリスク管理、この二つをしっかり持っておかないと
なんだだ危なっかしいだけだ。
という感想をもった。
追記:
大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES
まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」と厳しく批判。
おおむね間違ってはいないんだけど、このあたりに、日本人が感覚的に扱う、表現の自由の手つきの危うさがある。
検閲というのは、基本的には”発表前の事前抑制”を指す。特に最高裁の定義はそうだ。憲法違反だとか裁判で負けるとまでは言い切れないのだよ。