SNS全盛のこの時代、前評判なしに作品に触れることはほとんどないように思う。
悪いことじゃない。誰だって面白そうな作品を見たいに決まってる。でも、ちょっとだけ、この現状に危機感を覚える自分がいる。
「テセウスの船」という有名なパラドクスがある。船のパーツをすべて交換したとき、それは元の船と言って良いのか?というアレだ。私の覚える危機感はこれに近い。つまり、前評判ありきで作品を見た後の感想は果たして本当に私自身のものなのか?ということだ。
どんな作品なんだろうと検索すれば、耳触りのいい言葉が無数に並んでいる。「どうあがいても●●」だとか、「(作品A)+(作品B)÷2」だとか、「(なんかそれっぽい形容)な(任意の作品名)」だとか。よく考えつくなあと思うし、実際的を得ているのだろうとも思う。一方、この上ない空恐ろしさも感じる。こんな素晴らしい感想を見た後、この作品を見た俺は新しく何か感じ取れるのか?俺の感想はすべてネットの共通解に塗りつぶされやしないか?結局他人の言葉のパッチワークでしかないのでは?自分で思いついたはずのうまい表現もいつかサブリミナルに見た他人の言葉じゃないのか?…。
既に用意されたテンプレを新しい作品に当てはめ、みんなで同じように使うインターネット組体操は確かにすごく楽しい。でもそれだけじゃダメだろという感情はぬぐい切れない。他人の感想で作品を誉めたかと思えば、評価が間違っていれば責任逃れ。次は他人の感想で作品をくさす。自分をオタクと思ってるあなたたちも無意識にこうなっちまってないか?
だから私は作品とタイマンを張る。休日、本屋でじっくりと腰を据え、本棚を眺める。タイトルと、装丁と、ほんのわずかな粗筋。これら一次情報だけで本を選ぶ。読みきるまで他人の感想は見ない。どんなに拙くとも、自分の感想を書ききって初めてネットに触れる。時には多数派と真逆の見解になることもある。正直心臓がバクバクする。そのたび「これは答え合わせじゃないぞ」と念仏のように唱える。すると、意見の違いを楽しむ余裕が出てくる。
ぶっちゃけめちゃくちゃ疲れるし、割に合わない作業だ。だけど、これをしないと自分が自分でなくなってしまう気がするから気の向く限りは続けようと思う。続くかな??