はてなキーワード: 資質とは
金がないことが問題なのか
個々の要素に分解するとわかるが
(キモさは「『キモさ』という尺度が可変的」かつ「小綺麗な格好をするなど、『昨日よりは今日の方が確実に良くなっている』的な状況に持ち込みやすい」のでモロに個人の努力と資質による)
で
金がないことはもはや政治や経済で解決するしかないことなのだが
政治や経済は(キモさはともかく)金のあるおっさんまたは爺さんが牛耳っている
そして連中はキモ金問題を問題だなどと思っていないので永遠にキモ金問題は解決しない
つまり金のあるおっさんを早急に引きずり落とす必要があるのだが、キモ金当事者はおっさんだからおっさん的価値観すなわち「キモ金問題?それって何が問題なの?要するに自己責任だよね?」みたいな価値観を完全に内在化してしまっていて金のあるおっさんに歯向かえない
金のあるおっさんがキモ金問題解決のモデルケースみたいになっていて他に理想的終着点が見えてこないのもある
そしてキモ金当事者は「おっさん」=世の中牛耳ってる方に近い属性なので政治的にモノを訴えるとかノウハウがなくてできない層なので、他の弱者が救われんとして運動とかしていると嫉妬で発狂しそうになったり実際に発狂したりしてしまう
俺の問題を差し置いて何であいつらが救われるんだ、と、上から目線で
キモ金問題の真の問題点は、キモ金当事者が自分を弱者で犠牲者だと本当には認めていない点、虐げてきたのが金のあるおっさんどもであることを認めて連中を攻撃する覚悟を持っていない点だ
黒人差別も女性差別も同性愛差別もみんな黒人や女性や同性愛者たち、当事者たちが声を上げることから始まって、何百年単位でやっと実を結んできたが
キモ金おっさん達はおっさんなので疲れてしまっていて、もはや強大な敵に刃向かうなんてことはできないのだ
戦うより「キモ金って何が問題なの?」という内なる声になぶられながら鬱々としている方がエネルギー収支が得だと思ってしまうのだ
当事者が全員死んで終わりだ
その構成を具体的に示すと次のようになる。
導入部の後には、まずテーゼ(命題)としてある説・論・主張を略記する。
そしてテーゼに含まれる美点、たしかにと首肯できるところを挙げる。
続いてアンチテーゼ、つまりテーゼの汚点、賛同できない点を挙げる。
最後にジンテーゼ、つまりテーゼの美点は継承しつつも、アンチテーゼとして掲げられた汚点は克服されている、素敵な第三案を提示する。
以上だ。
具体例の挿入とか論拠の提示とかの肉付けは残っているが、論の骨子としてはこの4つが揃っていれば、必須要件を満たしていると言える。
裏を返して逆に見ると、つまり対偶をとると、論の骨子が必須要件を満たしていないという時は、必ず4つのうちのいずれかを欠いていると言える。
ここからが本題なのだが、同時にここからは単なる主観でもある。
経験則で言うと、この4つのうちでもっとも欠きやすいのが「テーゼの美点」だ。
しかし、テーゼの美点を踏まえていないジンテーゼは、美点の継承 + 汚点の克服という要件の前者を欠いたものとなるために、単なるアンチテーゼの焼き直しになる。
そのような論には進歩も深化もなく、ただ話者の言いたいこと投げっぱなしジャーマンの痕跡があるだけだ。
とはいえ、一般人が何かを私的に論ずる時、常にヘーゲル流弁証法的な構成や手続きを踏むのは現実的ではない。
議論の目的が必ずしも進歩や深化を求めるものばかりではないからだ。
議員とは、主権者の幸福度をより効果的に維持・向上するよう、行政と司法をコントロールするための立法に、(少なくとも形式上は)議会での議論を通じて取り組む労働者を指す言葉だと思う。
果たして現実の議員がそのような定義に沿った実態を伴っているかについてはさて置くとして、定義からすれば彼らに求められる必須技能は以下の3つになる。
すなわち、
■ 1. 正しい目的意識
■ 2. 適切な統治能力
= 現況の中での目的への最適解を適切に見出し、行政と司法を最適解に向かうよう制御できる能力
だ。
選挙演説や討論番組を観ていると、どうも耳目にする議員(候補)のほとんどすべてが、その論説に「テーゼ(ここでは議員と対立する意見や政策)の美点」の提示・継承を欠いている。
自分には資質があるから票をくれと訴えるプレゼンテーションたる演説ですら、アンチテーゼとその焼き直したるジンテーゼもどきを延々垂れ流す人たちが、どうして議会で対立意見を持つ別の議員たちと健全な議論を繰り広げられるのだろうか。
これは別に「右派は」とか「左派は」とか、枝野氏風に言うなら「上からの人は」とか「草の根からの人は」とか、そういう話ではない。
むしろ、そのいずれに属していたとしても、揃いも揃って議論のお作法が出来ていないという話なのだ。
自公について言うならば、民主党政権には本当に何も功績や合理的取り組みがなかった暗黒時代なのか、あるいは安保・改憲反対派の言うことにはまったく理解できるところはないのか、ぜひ顧みて欲しい。いや、どうせ顧みられないだろうけど。
立憲や共産党・社民について言うならば、アベノミクスは本当にすべてまやかしで格差を拡大しただけの何ら益ないものだったのか、あるいは安全保障上で米国の協力を引き出そうとみっともなくもがくことを本当に完全に無意味と断じられる客観的根拠があるのか、ぜひ顧みて欲しい。どうせ顧みられないだろうけど。
希望の党について言うならば、いや、希望の党はそもそも何をテーゼとしているのか理解が難しいので、何も言うまい。
ともあれ、テーゼの美点を継承しつつ汚点を克服する、真のジンテーゼを提示する不断の努力を見せて欲しい。
そうでなければ、対立するアンチテーゼ同士のどちらが好きかを選択するだけの、単なる人気投票に堕してしまうだろうというか、もうずいぶん長いことずっと堕したままだ。
こんな状況を見れば、プラトン先生も「ああ、やっぱ民主制ってダメだった」とニンマリ笑うだろうし、子どもは政治活動ってのは耳を塞いで言いたいこと言い合うだけのお祭りだと思うし、はてサに彼女はできないし、ネトウヨに財産はできないし、俺はオナニーして死ぬ。
ツイッターで検索してみたところ、「糸が切れた凧」を、割と自由度が高いポジティブな例えとして使ってる人が少なからずいて、
むしろ不安定な状態を指す言葉だと思っていたので、誤用とまではいかないが、人によって言葉の受け止め方は違うのだなとしみじみした。
糸につながっていない=自由ではなく、むしろ風雨などの自然に翻弄される、自分の思い通りになど飛べるはずもなく操縦者という保険もなく、自由度も安全性も低下した状態でしかないと思うのだ。
強い風にあおられ地に落ち、水たまりでぐしょぐしょになったり、ゴミ同然になって踏んづけられたり、するようなものだと思うのだ。
「糸の切れた凧のような」というのは、かつて付き合っていた恋人に言われたことだ。
ある程度安全なところで好き勝手したいんだろう、それならせめて、風雨にさらされ地に落ち踏みつけられてゴミになるような目に会わせたくないと思っているのに、
きみは自分から糸を切りに行き操縦者(恋人)から逃れようとする節があると言われた。
確かに言われてみれば、自分から糸を切りに行っている節を自覚はしたが、それは自由を求めてのことだったかと言われると、単に糸の存在自体がうっとおしいだけで、
操舵者とは別に行きたい場所や求めたいものがあるわけでもなく、凧糸一本の保険を安全と考えて好き勝手して相手を苦しめる自分への情けなさや
凧糸一本であっても私の安心の場を作ろうとしてくれる恋人に対する自分の仕打ちの"悪さ"に、自己嫌悪するだけの言葉だった。
自由を求めるのならせめて己の力で飛べる鳥になろうとする努力ぐらいはしてもよかったのに、それをする能力も資質もなく、
凧糸の存在に甘えながらその糸を切ろうとしては一人でぐるぐるキリキリとしていた。なので、自由な状態だとはとても思えないのだ。不安、不安定。
そろそろドローンぐらいにはなりたいものだが、糸が無きゃいいってもんでもないし、やっぱり雨風には弱いよなとか充電しないといけない分色々アレだなとか、まぁそんな感じ。あーあ。
例えば安倍晋三は国家社会主義、軍国主義の信奉者だが、自分は保守政治家だと言う。
例えば枝野幸男は社会自由主義を主張するのではなく、以下のように言う
現在、日本では政治家は誰もが自分こそが保守政治家であると主張している。自分こそが保守であって他の政治家は実は伝統の破壊者なのだと主張するやり方が一番一般的になっている。
驚くべきことは共産党ですらそうした傾向を見せはじめているということだ。ただこれに関してはどうも志位和夫という個人の資質によるところが大きいらしい。故に民主集中制という最大の弱点を志位和夫は正すことができない。それをやると頑固な共産政党に戻ってしまうのだろう。
社民党は相変わらず社会民主主義を強く提示し続けているが、共産党と比較した際の党勢の劣勢は否定できない。
たしかに、過去日本の政治は実は大きな失敗をしてこなかったのかもしれない。少なくとも侵略されることはなかったし、ジブチのあれを数に入れなければ侵略することもなかった。経済はそれなりに成功し、格差が広がった今でも iPhone をみんなもっている。餓死する人もいない。水道、電気、ガス、道路、治水に失敗したということもない(比較対象としてはイタリア南部の道路整備の酷さを見よ)。
とはいえみんながみんな保守政治家であろうとするのが健康的なこととは思えない。結局それでは縮小均衡に向いつつある現状の追認にしかならないからだ。そして、結局のところ皆が「リベラリズム」「自由主義」を名乗ることによって自由が空虚化していくからだ。
釣りかどうか疑うくらい頭悪いな
そこまで信念を持って水泳しなくてもいい社会を作り上げる前に信念持って学校休むほうが費用対効果高いだろ
最近になってブレイクしたらしいアズールレーン、自分も興味があって、艦これからの乗り換えを検討している。
そうは言っても、すぐにではなく半年は待つつもりだが。
というのも、今現在、途方も無くプレイが面倒になってしまった艦これの、結果的には面倒なプレイを強いる実装の始まりだった「重雷装巡洋艦」の超火力が、艦これ最初期の半年の間に登場したからだ。
つまり、艦これが今の体たらくになるきっかけとなった「シンプルな仕様の崩壊」或いは「終わりの始まり」が、サービス開始から程なくして起きたのだ。
以後、際限なくパッチを貼るかのごとく、あらゆる方向から艦の強化を重ねに重ねてゲームバランスを保とうした結果、今の超絶面倒な仕様になったと。
なので、アズールレーンでも同じ兆候がこれからの半年で起きたのなら、当然プレイなどするわけがないと。
というか基本的にネトゲというのは時間とともに、一部の廃人しか積極的に楽しめなくなるような面倒な仕様に変質していくのが普通である。
だから何年も、シンプルだけど面白い仕様をキープすることで盛況を保っているゲームは、文字通り神ゲーである。
即ち、アズールレーンにも神ゲーの資質が備わっているかを見極めたい。
クソ化したかつての良ゲーというパターンに付き合うのは、金輪際御免蒙りたいので。
あとはあれだな、仮にプレイするとしても、以下の方針で遊ぶことが可能かどうかは結構重要。
艦これで飽きるほど日本艦の相手をして正直食傷気味で、他のゲームで使うことを強いられたらかなり苦痛なレベルなので。
というか、世界的に見たら性能でも戦歴でも、アメリカの新鋭艦や武勲艦に完全に後れを取っている日本艦が、少なからず高レアリティに設定されている意味もよく分からないし。
というわけで、半年後まで期待せずに見守ろうと思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/hakata.ed.jp/highschool/_common/pdf/20171002.pdf
について。校長の文章に不可解さを覚えている人が多数いるようなので解説してみたい。結論から言えば、「SNSにアップした生徒を更に強く指導する必要がある」という見解は十分ありうる。というか、教育現場の判断としては十分正しい。
今回の件、講師が新任だということで納得したが、一般人として見るなら大変気の毒な先生に見えるとは思うが、教員として見るならあの対応は未熟の誹りを免れない。動画を見る限り、クレームをつけている生徒を無視して授業を継続しようとしているようだが、実際に店舗などでクレーム対応に従事した経験のある人なら分かるとおり、この「黙殺」という対応は悪手だ。相手が社会的経験を積み忍耐力が十分以上にあることを期待できるかあるいは力関係で圧倒的に弱い相手に対してなら有効かもしれないが、いきり立って席を立ち教壇までやってくる生徒には、明らかにそのどちらも期待できない。ここは、少なくとも授業を止めて相手と向き合い、一対一で目を見て、相手に椅子に座るよう指示し、その上で話すなどの対応が必要だった。にも関わらず、相手を黙殺した上に、背中まで向けるとは!!
…そこから見るに、今回の件は、おそらく普段の人間関係などからくる油断もあったのだろう。生徒も、怒りに我を忘れて暴力をふるうというよりは、ただ駄々っ子が親に手を挙げるような甘えたつっかかり方に見える。このことから、普段から冗談に任せるように背中を叩いたりパンチの真似をしたり(そういうことをさせては絶対にいけないが)するようなコミュニケーションがこの二人の間にあったのではないかと想像する。講師の側では生徒とコミュニケーションをとっていたつもりだったかもしれないが、それは実はマウンティングである。生徒の中には、「相互に信頼や敬意を持ち合う」といった人間関係を形成できず、ただ身分の上下や力の強弱といった人間関係しか理解できない生徒もいる。新任(身分が低そう)や気の弱そう(力が弱そう)な「センセイ」に、からかうようにマウンティングをしかけてくるのは、大体そういう生徒だ。そして、それは今回のようにエスカレートしたとき「暴力事象」として大事になってしまう。が、本人としては普段のマウンティングが少し行きすぎたという程度のつもりなので、改めて「暴力をふるった」と言われても十分指導が行き届かない。想像でものを言うことにはなるが、こういう場合も、実は指導者の側の未熟のためにこういう事態に立ち至っているのである。
ここまで述べたことは、この講師の先生を責めたいという趣旨ではない。本来責任を負うべき立場にはない講師の先生がこういう生徒に対応しなければならないほど大変な現場なのだろうし、それだけに教諭と管理職の方々は、いっそう忸怩たる思いでこの事件を受け止めているのではないかということを言いたいのだ。
今回の動画を見て、大半の方は「修羅の国の暴力教室」みたいなイメージを受けたのだろうか? 警察沙汰にしろ、とか、厳しく現実を教えるべき、みたいな意見を見るに、多分そうなのだろう。だが、個人的にはこれは「やや指導規律の甘い学校で、かつ講師が若いため生徒をコントロールし切れていない教室の状況」であり、極論すれば「ごくありふれた」日本の高校の一風景に過ぎないように感じる。全国どこでも、学校の指導規律が数年間甘くなり、そこに生徒をコントロールし切れない(個人の資質能力だけでなく「講師」や「新任」という肩書きも含め)教員が配置されれば、簡単にこの風景は現出する。おそらく生徒指導のプロフェッショナルな先生なら、このビデオを見て「そりゃそうなるだろうよ」と思ったことだろう。
要するに、これは「起こりうる/よくあること」なのだ。この生徒は持って行きようによってはまだ「なんとかなった」生徒だし、教員も「もう少しなんとかしないといけない」、その意味で忸怩たる思いを抱える、それが教育関係者の実感ではないだろうか。これは「教育の悲惨な現状」などではなく、いわば「ケアレスミス」に近い、教育現場によくある失敗の一事例なのだ。自分自身のちょっとした認識の甘さ、生徒把握の甘さ、指導規律の緩み、態度や言葉の綾のせいで、大丈夫だと思って対応していた生徒が突然牙を剥いてきて、あわや大事になりかけて慌てる……それなりに経験のある教育関係者なら、一度や二度は目にし経験しもしてきた風景なのではないだろうか。
そう考えるなら、教育関係者の目線が、暴力を振るった生徒と講師の方にではなく、今度は周囲でこれを笑っている生徒たち、そしてビデオを撮影しネットにアップした生徒、そちらにある大きな問題に向かっていく、ということも理解できるのではないか。なぜか。まず笑っている生徒たちは、激昂している彼が「次に何かしたら退学」と言われていることくらい知っていただろう(そういう話を内にとどめておくことの出来る子はああいう荒れ方をしない)。多少荒れた学校であっても、そういう生徒が教員につっかかっていったら、普通は何人かの生徒がそれを止めに入らなくてはいけない。なのに、止めるどころか「笑って放置」されている。つまり、彼はクラスメイトに完全に見放されているということだし、クラスメイトはそんな彼が高校をやめることになるだろう状況を見て無視ならまだしも冷笑し、(こう言ってよければ)自分たちの気晴らしネタとして消費している。クラスがこのような状況にあるというのは、率直に言って担任によるクラス運営の失敗だ。あのクラスの担任は今頃泣きたい気持ちでいると思う。「あの教室の生徒全員を指導しなくてはいけない」と喝破したブコメもあったが、おそらく教育関係者と推察するその意見、真にもっともである。少なくとも、あの場に自分の子どもが座っていると想像したら、誰しも自分の子育ての失敗を真剣に疑うのではないだろうか。
そうして、件のSNSに投稿した生徒である。彼のことを「内部告発者」扱いしている人が多いが、これは失礼ながらただ事件を外部から眺めているだけの立場からの意見と感じる。この生徒は、上に上げたようなクラスの一員であって部外者ではない。彼はこの状況を、他のクラスメイトのように無視し冷笑するにとどまらず、積極的にネタとしてインターネットに放流したのである。ネタとしてそれが炎上するであろうことは想像に難くない。単純にその場でネタとして消費する以上にやっていることは悪質である。それだけではない。彼はその行為によって、暴力を振るった生徒の退学を世間に宣伝し、振るわれている教員を晒し者にし、それらをネタとして消費しているクラスとクラスメイトの退廃を笑いものにしているのである(しかも自分は姿を見せずに)。彼が善意の人であることは期待できない。なぜなら、彼もまた、使うはずのない授業中にiPadか自分のスマホを取り出して撮影しているのであるから。自分のやっていることは件の生徒と同じ行為だということを、彼が認識していないはずがないからである。その意味で、この生徒はそもそも件の生徒を馬鹿にしたり批判したりする立場には全くない。にも関わらず、暴力をふるった生徒、教員、クラスメイトを嘲り傷つけるような行為を行っていることになるのだ。
このことを彼が自覚しているかどうか分からない。だが、自覚していようがしていまいが、彼のやったことはそういう行為だということに「なる」。彼はこの後も学校生活を普通に送るはずだが、それだけに、自分がどのような行為をしたことに「なる」のか、厳しく彼には自覚を求める必要がある。でないと、クラスメイト、退学になった生徒、そして件の教員が彼をどういう目で見るか、理解できないことになってしまう。
我慢の効かない子どもが保護者にかんしゃくをぶつける行為と、一時のかんしゃくを世間に永遠にさらして笑いものにする行為と、どちらが罪深いか? 人によって感じる罪の軽重には差があるかもしれないが、「より自覚が少ない」という意味で、後者をより「厳しく指導」することは、教育的判断としては十分ありうることである。でないと、この生徒のこの後の学校生活は真に悲惨なものになりかねない。
以上を踏まえて、考えてみるとどうなるだろうか。校長が的外れだとか、更には「馬鹿」だとか気楽に罵っている方々には、こういう教育現場の緊迫感は遠い世界の話なのだろうとは思うが、今回の件に関する学校のこの声明から、事件の正確な分析、原因への理解とともに、今後行うべき対応をしっかりと考えていることが伝わってくるのではないだろうか。更に言えば、上で上げたような事件発生への「無念さ」も。それと共に、このようにモノがよく分かっている人がいてもこういう事件が起こってしまうほど、学校が大変な状況にあることについて、どうしていけばいいのか少しだけでも考える人が出てくれれば、この文章を書いた意義があったことになる。
今回の件は、大事にするような話ではないし、できれば速やかに消え去ってくれればよい。暴力を振るった生徒、振るわれた先生だけでなく、あのクラスの生徒、ネットにアップした生徒のためにも、それを祈っている。
長々と拙文におつきあいいただいたことに感謝したい。筆の走った部分も多々ある。また、こうして文章を書くこと自体が晒し上げの一種というご意見、これもごもっともである。
それらを含め、ご批判は甘受したい。
(追記)
福岡県内の中学校で、男子生徒(14)が、男性教員(46)の顔を拳で数回殴る暴行を加え、顔面打撲の傷害を負わせた
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171003-00010010-nishinpc-soci
子供を公立幼稚園に入れているんだが、今園児保護者達と自治体の教育委員会が揉めている。揉め事の詳細は話せば長くなるので省略。
揉め事を通して分かったのは、揉める相手が教育委員会だと、PTAは全く役に立たないという事だ。これは本部役員個人の資質の問題ではなくて、PTAそのものの仕様がそもそも教育委員会とは戦えないものになっているという事。
ご存じの通りPTAとは保護者と教師が加入する団体な訳だけれども、教師も加入しているということが、公立校においてはどんだけヤバイ事なのかっていうのを、私は今回の揉め事が起こるまで考えた事もなかったが、考えてみれば相当ヤバイ事だったのである。
PTAに教師が入っている事によってPTAは教育委員会に逆らえなくなる。何故かっていうと教育委員会が実質教員の天下り先になっているからだ。
先生達は教育委員会に逆らって自分のクビが飛ぶのを恐れているし、身内贔屓で教委の肩を持ちたがる。
今回の揉め事の場合、揉め事の発端となった件の保護者説明会よりもずっと前に、教育委員会がPTA本部役員を呼び出しその口を塞いでしまった。園長らがグルだったので本部役員は園の子供達やその担任達を人質に取られた格好で口をつぐんでしまった。
本部役員の中に役場職員がいたのもまずかった。たぶん本部役員選出の際になり手がいないからって引っ張ってこられたのだろうが(なり手がいない場合、園長から適当な人物に電話で声かけがあるらしい。前年のPTA会長副会長は個人情報保護とか保護者達の自由を侵害しない様に=保護者同士の軋轢や喧嘩を防ぐようにかそういった事はしないらしい。)、教委ひいては自治体そのものを敵に回すと仕事がなくなるので当然戦う事は出来ないし、むしろ積極的に教委の肩を持ってもおかしくない(まぁなあなあでスルーしてるとは思うが)。
何も知らない一般の保護者達は教委の卑劣な遣り口に怒り、教委に対して抵抗しないPTA役員達を責めて疲弊させてしまった。
実はPTA本部役員ほど子供達の事を考えるやる気のある人達ばかりだったりするのだが(なり手不足でほぼ無理矢理入らされた役場職員以外は)、まさか教委相手だとどんな理不尽な事でも園側から圧力がかかるとは就任時点では思いもよらず、こんな時は子供達の為に保護者の皆の先頭に立って戦いたいのにそれが立場上出来ない事とその立場を選んだのは他でもない自分だという事に絶望している。
一方、動けなくなってしまった本部役員のかわりに何かしたい一般保護者の有志は、保護者達の中でももっともやる気と能力とリーダーシップと人脈のある人達がPTA本部に吸い上げられてしまっているので苦戦中。
大抵の保護者は誰かが何とかしてくれると思っているし、何とかならなくても最長たった三年我慢すればいいので、遠巻きに見守っているだけだ。多くの人達が教委のやり方はおかしいと思ってはいるのだが、園を敵に回せば子供達に何をされるかわからないから黙っている。
正直今回は既に詰んでいると、密かに抵抗を企てていた有志のメンバーは諦めモードだ。
しかし、子供を公立校に通わせている以上は教委とは関わっていく事になるというのに、こんな風に教委の横暴に易々と屈していていいのか?という思いがある。くじけそうだけど。
今回の件はイジメや虐待や事故など子供達に直接の危害が及ぶ事案ではないので、一般保護者達がいまいち吹き上がらないのだが、我らがこんな容易く負ける姿を見せつけていれば、子供達に危害が及んだ場合にも教委はのらりくらりと責任を回避するばかりか被害者本人とその家族に罪を擦りつける様な事をしかねないのではないか?
実際、過去に自治体内で起こった事件の数件では責任を問われた教委は逃げたり教師側を庇い被害児童を見殺しにしたという噂も聞く。
今回の件はそういう人の命がかかるものではないが、役場内や自治体内の政治ゲームに幼稚園が利用されている感があり、何とか取り繕って誰も損しないで済んだとしても、黙って見過ごしては不味いのではないか?ここは保護者の意地の見せどころではないだろうか?
だが、結局は政治とはそういうもので、役場や教委は子供達の為にーとかうまい事言って来るが我々も子供達も所詮誰かの権力争いの駒に過ぎず、駒が何を言おうが権力者達は勝手に我らを良いように動かし遊んでいるのかもしれない。
ま、本当に子供達の為を思うならPTA本部役員にはなってはいけない事は分かった。どんなに頑張っても園の下請けでしかない、そういう不自由な立場立と分かった。
園から直接手出し口出しの出来ない保護者達だけの団体が必要なのだ。
しかし、PTAが園の道具で教委の犬で自治体のお偉いさんのオモチャに成り下がってしまった一因は保護者達自身にある。PTAの仕事や人間関係を面倒がり忌避するあまり大事な本部役員の人選を園に丸投げしたのは私達だ。
そんな私達にこれから教委とも対等に渡り合える新団体を立ち上げそれを運営維持出来るかというと、かなり疑問なのである。
ともかくPTAはもう要らない。どんなに真面目にやっていてもここぞという時にむしろ子供達や一般保護者に牙を剥く様な団体なんか要らない。あったって誰も幸せにならない。子育て支援をうたって票取り合戦してる地元の有力者以外は。
うちの園ではPTA活動は園の運営には必要不可欠だったし、これまで適切に運営去れているいいPTAだと思っていたから、ネットでPTAが槍玉に上がった時はどちらかと言えばPTAの擁護やそれでも必要であるという方向性のブコメをしていたけれども、これからはPTAは不要、絶対に不要だと言い続けてやる。
安倍首相が、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と憲法記念日のビデオメッセージで発言したことが、改憲論議を活発化させている。
安倍首相が改憲の焦点として挙げているのは第九条だ。また、第九十六条を改正して改正発議要件を緩和すべきという議論もある。しかし、第二条をめぐっては、天皇の退位の問題に関連して言及されることはあっても、改正すべきという議論は聞こえてこない。しかし、第二条ほど改正を必要とする条項は他にないのではないだろうか。
問題は、皇位を世襲のものとしている点だ。世襲制度の採用が合理的か否かはケースバイケースだが、現行の天皇制が世襲制度を維持することに、果たしてどんな利点があるのだろうか。むしろ弊害のほうが大きいのではないか。
本稿は、皇位の世襲制度は廃止すべきであるという立場から、この問題を論ずる。
日本国憲法第二条が定めている皇位の世襲制度には、次の二つの点で瑕疵がある。
以下、詳論する。
ワタミフードサービス、電通、ゼリア新薬、ベネッセコーポレーション、LDHのような、長時間労働の強要、洗脳、退職勧奨、暴力行為といった、社員に対する人権侵害が常態化している企業は、「ブラック企業」と称される。企業の社員とは言えないが、天皇が置かれている境遇もまた、あたかもブラック企業の社員のごとく、人権侵害が甚だしい。
天皇に対する最大の人権侵害は、職務の過酷さだ。天皇の職務が過酷だと思わない者は、所功『天皇の「まつりごと」』を読むとよい。そうすれば、天皇の仕事量がいかに膨大であるか理解できるだろう。
信教の自由を奪われていることも、天皇に対する人権侵害の一つだ。天皇が信仰を許される唯一の宗教は神道だ。明治維新までは仏教の信仰も許されていたが、それ以降、天皇が仏教に帰依することは暗黙のタブーとなっている。
天皇の職務の過酷さも、信教の自由の侵害も、その原因は世襲制度だ。天皇の職務が過酷であるのは、天皇という一人の人間に二人分の職務が課せられているからだ。すなわち、国家の機関としての天皇が果たすべき職務と、祭祀王としての天皇が果たすべき職務は、それぞれが一人分の仕事量に相当する。天皇が信教の自由を侵害されているのも、天皇が祭祀王を兼任しているからだ。
皇位の世襲制度を廃止するということは、国家の機関としての天皇と、祭祀王としての天皇との分離を意味する(後者の呼称は「天皇」以外のものに改称されることが望ましい)。天皇が二名に分離すれば、職務の過酷さの問題も、信教の自由の問題も解決する。新たな制度における国家の機関としての天皇は、宮中祭祀の重責から解放され、信教の自由も獲得するだろう。
余談だが、現行の天皇制において人権を侵害されるのは、皇嗣として生まれてきた者のみに留まらない。その者の配偶者もまた同様だ。
皇嗣の配偶者になることは自身の自由を放棄することだ。誰が喜んでそんなことをするだろう。雅子さまも、本人の意思によって浩宮さまと結婚されたわけではない。Newsweek誌は雅子さまをThe Reluctant Princess(不承不承のプリンセス)と呼んだが、この言葉は彼女の身の上に何が起こったかを的確に表現するものだ。来る悠仁さまのお后選びでは、このような悲劇が繰り返されないことを願いたい。
子供は親のクローンではない。ゆえに、鳶が鷹を生むこともあれば、逆に鷹が鳶を生むこともある。世襲制度を厳格に運用した場合、もしも生まれてきた者が鳶ならば、鳶が何らかの地位を継承することになるが、これは悲劇を生む蓋然性が高い。
次のような事例がある。
https://twitter.com/osakadenshi/status/863981952474300416
ウィキペディアによれば、この学校がこれまでに輩出した卒業生の数は3万人だそうだ。しかし、現状がこれだとすると、4万人に到達する日は永遠に来ないだろう。
この学校が急激に衰退した原因は、世襲制度だ。生まれてきた者が鷹ではなく鳶だった場合は、どこかから鷹を連れて来て禅譲すべきだった。世襲制度に拘泥した結果がこの悲劇だ。
現行の天皇制もまた、鳶が皇位に即く危険性と無縁ではない。皇位の世襲制度に固執し続けるならば、日本はいつか、鳶が天皇に即位する日を迎えるだろう。天皇が庶民の前に姿を見せる必要がなかった時代においては、鳶であろうと雀であろうと問題はなかったかもしれないが、象徴天皇制における天皇が鳶に務まるかどうかは心もとない。
皇位の世襲制度を廃止すべきという主張に対して、おそらく保守派の人々は、「万世一系の血統」乃至「皇室の伝統」というような議論を持ち出すだろう。しかし、国家の制度において血統や伝統を維持することにはいかなる合理的な必要性もない。さらに、皇室の伝統には宮中祭祀という宗教的活動が含まれているが、これは憲法第二十条に規定される政教分離に抵触しているおそれがある。
おそらく日本の国民の大多数は、皇室が保有している血統や伝統にはいかなる価値もないという主張には賛同しないだろう。ゆえに、それを維持すべきであるという主張にも一定の合理性がある。しかし、何らかの組織が血統や伝統を維持するために、それが国家の機関であることを必要とするだろうか。血統や伝統を維持している民間の組織は枚挙に遑がない。
「皇位の世襲制度を廃止するということは、国家の機関としての天皇と、祭祀王としての天皇との分離を意味する」と上で述べたが、それらが分離されたとき、それと同時に皇室は民営化されるべきだ。そうすれば、憲法第二十条に抵触することなく宮中祭祀を維持することができる。
本稿の目的は、皇位の世襲制度は廃止すべきだと主張することであり、それに代わる制度について述べることは本稿の目的ではない。しかし、世襲制度に代わる制度について、付論として筆者の見解を述べておきたい。
世襲制度に代わる制度としては、公選制度が望ましいとする意見が出されることが予想される。しかし筆者は、皇位の公選制度には反対だ。その理由は、天皇の人選には反知性主義的な見解が反映されるべきではないと考えるからだ。天皇は、今上陛下がそうであるごとく、正しい歴史認識を持つ者でなければならないが、公選制度によって選出された天皇がその条件を満たすとは考え難い。
世襲制度に代わる制度を設計する上で参考となるのは、元号の選定の制度だ。なぜなら、元号の選定もまた、反知性主義的な見解を避けなければならない制度の一つだからだ。元号は、漢文学や国文学関連の有識者が候補を考案することになっていて、決して一般公募ではない。しかし、これに対する異論は寡聞にして知らない。大多数の国民はDQN元号やキラキラ元号を望んでいないからだろう。
浦沢直樹の漫勉の回を見ていて、それで、数コマは見ていたが、どんな話かは、良く分からなかった。1年以上前にみていたのに。
今まで、読まなかったのは、残念だった。
なんだか、スラダンみたいな話だったな。
彼女の描く登場人物の女子が、鹿児島県エピソードを連発してたので、てっきり、鹿児島出身だと思っていた、騙されたな。
あと、超絶美人のモデルの主人公のマンガ、主に泣いてます、ってのモーニングで読んだのが初めてだったけど、確かに、なんか、めぞん一刻みたいな感じだったんだが、絵のモデル主人公ってどういうことかと思ったが、なんか、納得が出来た。
それから、絵の才能よりは、コミュ力が優れていることが漫画家としてアシスタントさんと一緒にマンガを描く上で非常に良い資質となっているとか、なんか、冷静に自分の良さを分かっている人なんだーと思った。
この間、京都のマンガミュージアムで山岸涼子展をやっていたので、見に行ったついでに、漫画家の手形も見てきた。
①親が子供を苛めて憂さ晴らし→甘やかすか、試練を与えるかの違い。苛められた動物は生存能力が強化される研究結果。長寿化で生涯に費やす消費額はさらに伸び需要喚起により経済効果も。
②歩行者横断中でもどんどん車やバイク通行、加速。→目的地に少しでも早く到着し経済を回すスピードの高速化により、日本経済悪化を食い止めている。弱肉強食の体現で社会の競争力を高めている。
③各種ハラスメントで弱者を苛める。→弱肉強食の体現と弱者に試練を与え生存能力を高める指導効果。自身のストレス発散により開放的な消費動向に変わり経済効果も。弱者にストレス与え、アニメやSNSほか欲求代替やストレス発散消費で経済効果。
④葬式や結婚、通過儀礼の価格競争によりワンコイン葬式など厳かな儀式のカジュアル化→価格競争により新サービス創出。行き詰まった日本経済に光を与える独創性。世界からの評価であるクレイジージャパンのブランド力を高め観光需要を喚起する。総合的に経済効果が高い。
迷惑をかけるほど、サービスが創出される。対処にコストがかかる。それにより経済が活性化される。以上により、アンモラルは経済国家を支える重要な資質。子どもたちには幼い頃から身につけさせるべき朕である。
アンモラル達成度が低い子どもは少年法により厳しく規制し、将来世界に羽ばたく日本人として恥ずかしくない競争力のある人材に育成するのが経済国家として好ましい。
彼はあの場に残れなかったのだ。
いい経験になった?別の場所での活躍?嘘つけみんなそんなこと本心じゃ思ってないくせに。
ここがきっと踏ん張り時だったんだ。踏ん張ったけど、残れなかった。
実力とか人気とかどうでもいいんだよ、運営が人気出させたくてかつそれに応えらえる資質がある子を引っ張り上げて押すだけ。
金ならある、お金を出させてほしい。
ずっとこの世界で彼に生きながらえて欲しい。
悔しい、本当に悔しい。どうしたらいいんだろう。
どうすべきだった?いつが分かれ道だった?
夏が終わって秋がくる。この箱の担当たちが沈黙しせっせと冬に備えて働く秋が来る。
しかし今年の秋は少し違う。そう別の人間がその箱で公演をする。
今だ彼らが出演するということは発表されていない。
出て欲しい、なんで別の奴らがやるの。なんで…
秋、出れるかどうかはこの際どうでもいいとしよう。
本当の闘いは冬だ。
例年通りか、土日と平日で出演者を変えるのか。
そして彼は出るのだろうか。
私だって手放しで冬を楽しみにして生きていきたいけど、どうしてもチラつく「今年の夏は出られなかった」という事実。
早く冬になってほしい。何も考えられなくさせて欲しい。
昨日ツイッターで興味あるアカウントを探っていたら整形垢の大群に辿りついてしまったたんだけど、彼女たちは本当に大変そうだ。
昨日見たほとんどのアカウントたちは自らのことをブスだといい、ブスやデブだと愛されない!価値がない!だから可愛くならなきゃ!と言っていた。
そりゃ美人な方が生きやすそうだろうなと私でも思うけれど、その考えに縛られている(ように見える)彼女たちが可哀想で仕方なかった。
私は上中下でいうと下だと思うし、お世辞でいっても中の下だろう。それでもそこそこに人生は楽しいと自分では思っている。例え整形で可愛くなったとしてもメンテナンスとか大変だろうし整形した芸能人たちを見ていると次はここ次はここと際限なく大金をかけて整形を繰り返すんだろうなーと思うと哀れで仕方ない。それに比べて私は自分を受け入れ諦めて自分として人生を楽しんでいる。それは自分の資質の問題ではなくて、それでも良いと思わさせてくれた両親や今の旦那のおかげだと思う。
私が彼女たちを可哀想だと感じて自分の方がマシだと感じるように、彼女たちもブスな私を見て自分の方がマシだと思うのだろうなと想像すると案外win-winの関係なんじゃないかと思った。