その構成を具体的に示すと次のようになる。
導入部の後には、まずテーゼ(命題)としてある説・論・主張を略記する。
そしてテーゼに含まれる美点、たしかにと首肯できるところを挙げる。
続いてアンチテーゼ、つまりテーゼの汚点、賛同できない点を挙げる。
最後にジンテーゼ、つまりテーゼの美点は継承しつつも、アンチテーゼとして掲げられた汚点は克服されている、素敵な第三案を提示する。
以上だ。
具体例の挿入とか論拠の提示とかの肉付けは残っているが、論の骨子としてはこの4つが揃っていれば、必須要件を満たしていると言える。
裏を返して逆に見ると、つまり対偶をとると、論の骨子が必須要件を満たしていないという時は、必ず4つのうちのいずれかを欠いていると言える。
ここからが本題なのだが、同時にここからは単なる主観でもある。
経験則で言うと、この4つのうちでもっとも欠きやすいのが「テーゼの美点」だ。
しかし、テーゼの美点を踏まえていないジンテーゼは、美点の継承 + 汚点の克服という要件の前者を欠いたものとなるために、単なるアンチテーゼの焼き直しになる。
そのような論には進歩も深化もなく、ただ話者の言いたいこと投げっぱなしジャーマンの痕跡があるだけだ。
とはいえ、一般人が何かを私的に論ずる時、常にヘーゲル流弁証法的な構成や手続きを踏むのは現実的ではない。
議論の目的が必ずしも進歩や深化を求めるものばかりではないからだ。
議員とは、主権者の幸福度をより効果的に維持・向上するよう、行政と司法をコントロールするための立法に、(少なくとも形式上は)議会での議論を通じて取り組む労働者を指す言葉だと思う。
果たして現実の議員がそのような定義に沿った実態を伴っているかについてはさて置くとして、定義からすれば彼らに求められる必須技能は以下の3つになる。
すなわち、
■ 1. 正しい目的意識
■ 2. 適切な統治能力
= 現況の中での目的への最適解を適切に見出し、行政と司法を最適解に向かうよう制御できる能力
だ。
選挙演説や討論番組を観ていると、どうも耳目にする議員(候補)のほとんどすべてが、その論説に「テーゼ(ここでは議員と対立する意見や政策)の美点」の提示・継承を欠いている。
自分には資質があるから票をくれと訴えるプレゼンテーションたる演説ですら、アンチテーゼとその焼き直したるジンテーゼもどきを延々垂れ流す人たちが、どうして議会で対立意見を持つ別の議員たちと健全な議論を繰り広げられるのだろうか。
これは別に「右派は」とか「左派は」とか、枝野氏風に言うなら「上からの人は」とか「草の根からの人は」とか、そういう話ではない。
むしろ、そのいずれに属していたとしても、揃いも揃って議論のお作法が出来ていないという話なのだ。
自公について言うならば、民主党政権には本当に何も功績や合理的取り組みがなかった暗黒時代なのか、あるいは安保・改憲反対派の言うことにはまったく理解できるところはないのか、ぜひ顧みて欲しい。いや、どうせ顧みられないだろうけど。
立憲や共産党・社民について言うならば、アベノミクスは本当にすべてまやかしで格差を拡大しただけの何ら益ないものだったのか、あるいは安全保障上で米国の協力を引き出そうとみっともなくもがくことを本当に完全に無意味と断じられる客観的根拠があるのか、ぜひ顧みて欲しい。どうせ顧みられないだろうけど。
希望の党について言うならば、いや、希望の党はそもそも何をテーゼとしているのか理解が難しいので、何も言うまい。
ともあれ、テーゼの美点を継承しつつ汚点を克服する、真のジンテーゼを提示する不断の努力を見せて欲しい。
そうでなければ、対立するアンチテーゼ同士のどちらが好きかを選択するだけの、単なる人気投票に堕してしまうだろうというか、もうずいぶん長いことずっと堕したままだ。
こんな状況を見れば、プラトン先生も「ああ、やっぱ民主制ってダメだった」とニンマリ笑うだろうし、子どもは政治活動ってのは耳を塞いで言いたいこと言い合うだけのお祭りだと思うし、はてサに彼女はできないし、ネトウヨに財産はできないし、俺はオナニーして死ぬ。
プラトンってそんなに民主制を賛美してたっけ?
支持政党なし、ってのがあるが、最適解は、議論だけで見つけられるほど、世の中は単純ではないんだろうな。
単純でない部分を最後に割り切るために多数決原理がある。 とはいえ、それは最後の手段で、基本はディベート。 議論やって、問題についてステークホルダーの全員が十分に理解した上...
民主主義の多数決は全会一致が基本です