2017-10-18

「糸の切れた凧のように自由

ツイッター検索してみたところ、「糸が切れた凧」を、割と自由度が高いポジティブな例えとして使ってる人が少なからずいて、

しろ不安定状態を指す言葉だと思っていたので、誤用とまではいかないが、人によって言葉の受け止め方は違うのだなとしみじみした。

糸につながっていない=自由ではなく、むしろ風雨などの自然翻弄される、自分の思い通りになど飛べるはずもなく操縦者という保険もなく、自由度安全性も低下した状態しかないと思うのだ。

強い風にあおられ地に落ち、水たまりでぐしょぐしょになったり、ゴミ同然になって踏んづけられたり、するようなものだと思うのだ。

「糸の切れた凧のような」というのは、かつて付き合っていた恋人に言われたことだ。

ある程度安全なところで好き勝手したいんだろう、それならせめて、風雨にさらされ地に落ち踏みつけられてゴミになるような目に会わせたくないと思っているのに、

きみは自分から糸を切りに行き操縦者(恋人)から逃れようとする節があると言われた。

かに言われてみれば、自分から糸を切りに行っている節を自覚はしたが、それは自由を求めてのことだったかと言われると、単に糸の存在自体がうっとおしいだけで、

操舵者とは別に行きたい場所や求めたいものがあるわけでもなく、凧糸一本の保険安全と考えて好き勝手して相手を苦しめる自分への情けなさや

凧糸一本であっても私の安心の場を作ろうとしてくれる恋人に対する自分仕打ちの"悪さ"に、自己嫌悪するだけの言葉だった。

自由を求めるのならせめて己の力で飛べる鳥になろうとする努力ぐらいはしてもよかったのに、それをする能力資質もなく、

凧糸の存在に甘えながらその糸を切ろうとしては一人でぐるぐるキリキリとしていた。なので、自由状態だとはとても思えないのだ。不安不安定

今でもあまり進歩していないのが、やっぱり残念。

そろそろドローンぐらいにはなりたいものだが、糸が無きゃいいってもんでもないし、やっぱり雨風には弱いよなとか充電しないといけない分色々アレだなとか、まぁそんな感じ。あーあ。

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