はてなキーワード: テニス部とは
これが間違いの始まりだった。
練習できるのは3年生だけだった。
1~2年は球拾い専門。
コートをぐるりと囲んで、飛んでくる球を回収するだけの雑用係。
拾うボールは飛び交っているのだが、球拾い要員の人数が多く(30人近く)、手持ち無沙汰。
明らかな過剰スペック。
ほぼ棒立ちの状態。
たまに飛んできたボールを、トスして回していたら「真面目にやれ!」と一喝された。
練習の最後は決まって、アタックを拾うレシーブの練習が行われる。
球拾いが最も忙しくなる時間でもある。
「早く終わってくれ・・・・」これが1,2年の共通した願いだった。
練習の末期が近づいたと安堵を感じる。
しかし顧問は力任せに思いっきりアタックするため、誰も取れない。
そんなこんなで、「ラスト」は永遠と思えるくらいに伸びに延び、他部活の生徒が完全に帰り、外が真っ暗になった頃に終焉を迎えるのが日常だった。
これが毎日続いた。
月火水木金土日。
平日は16時~19時までの3時間。
土日は弁当持参で丸一日。
問答無用で球拾いだった。
朝6時に起きてランニングして球拾い。
昼ご飯を食べて球拾い。
夜は9時まで球拾い。
1年の秋。
3年生は泣いていた。
でもボレは何とも思わなかった。
感情移入できなかった。
「早く帰りたい」と言う思いしかなかった。
しかし「来年は絶対に勝つぞぉ!!!」という顧問の一言で、その日は夜遅くまで球拾いさせられた。。
3年生が引退し。
2年生が練習できるようになった。
長きにわたり耐え抜いた彼らの顔は、とても生き生きしていた・・・
しかも球拾い要員の数が少なくなったこともあり、ボーっとしていると目立つようになった。
気の抜けた顔で突っ立っていると「やる気だせやぁぁぁああ!!!」、と横からボールを顔面に投げつけられた。
鼓膜が破れたかと思った。
それでも行く気になれなかった。
2年になるころには、全く行かなくなった。
同じような脱落者が何人もいた。
そしてボレ達は3年生になり。
2年間球拾いに耐え続けた英雄達(同期)は、試合で1度も勝つことなく、部活動を終えたと聞いた。
思い返せば。
ボレの人生は、あのバレーボール部の入部で歯車が狂いだしたように思う。
そして2020年。
家賃も払えず、来月末には退去を迫られている。
それでもボレは、文句も言わずただ粛々と生き続けようと思っている。
そう。
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
親友という、なんだか幼稚で滑稽なワードにまつわる、ここ数日起こった話をする。
長文だからな、読まんでいいよ。
私:大学3年生のオタク。酒が1等好き。最近のお気に入りは氷結の超冷感レモン。うまい。
書き出してて思ったがまあつまらん女だな。
日々積み重なるストレスを酒で発散しているのだが、今はコロナで呑みにも行けないので、最近流行りのオンライン飲み会…というかなんというかを高頻度でやっている。
おとといの話だ。まあいつものように友人と2人でビデオ通話を繋げて酒をかっくらっていた。この友人をAとする。
Aはまあなんというか、ひとに好かれる質だ。
特に美人なわけでもないがとにかく聞き上手であり、たまに鋭いツッコミを入れるような。猫を被るのが上手くて、ONOFFのスイッチの切り替えが早い。そういう女だ。交友関係は浅く広く。
私とAとの関係性は9年ほど遡り、中学入学時。名前順に並んだ席が近かったので、私から話しかけ(たらしい、私には記憶が無いがAはそう言っていた)、そこから仲良くなったような仲である。
友人というよりかは悪友であり、高校生の時分は学校をサボってAの家で遊んだりしていた。
彼女と遠いところへ遊びに行ったことは無い。お互い喋るのが好きなので、サイゼやマック、通話等で延々身のない話をするのが常だ。
おとといもいつものように駄弁っていたのだが、Aがいきなり黙り込んだ。どうしたのかと聞くと、彼女は
と、ぽつぽつと就職関連の話をし始めた。結構真面目に話をした。
中身はプライバシーの問題があるから言わないというかまあ関係なくて、いつの間にか彼女の中で私は親友という枠に入っていたのである。
別に良い。それだけ信頼してもらえているのだろう。素直に嬉しかった。
私はAのことが普通に好きであるし、私はAとは別に親友と呼べる友人を持ってはいるが、親友は1人につき1人でなくてはならないなどという話はないはずだ。私は2人目の親友を手に入れた。とても嬉しい話だ。
だが私は、その後衝撃でビールをこぼすことになる。
何に衝撃を受けたかを話す前に、もう1人の友人を交えた長い昔話をしておこうと思う。このもう1人の友人をBとする。
中学入学時のAと私は、特に示し合わせることも無く、新聞部に入った。というか新聞部に体験で入って、あ〜!きみ!みたいな。そこから仲が急に良くなっていった関係だ。
新聞部は特に人数も多くはなく、先輩たちは5人ぐらいいたほど。
で、そこには、もう1人同級生が居たのである。彼女がB。彼女もクラスメイトであった。
Bは綺麗で細くて、すてきなひとだ。しかしまあ、他人とコミュニケーションを取るのが苦手なタイプであり、人見知りがすごい。
私とAは物怖じしない上に誰にでも話しかける不審者であるので、彼女にも話しかけた。
部の中で3人しかいない1年生、かつ全員がクラスメイトとくればそれはもう仲良くなるしか道はない。
そうして、まあまあ楽しく部活を過ごしていた。
私は本当に誰にでも話しかけるので、入学時に大量の人間に声をかけた結果、特にとても仲良くなった子がクラスにひとりいた。彼女はAでもBでも無く他の子であり、今では私の親友と呼べる友人である。なんならCと置いておこう。
ただBは先述の通りあまり人に話しかける質ではない。仲良くしているAと2人で居た。Aはまあ、他にも喋る友達を作ってはいたが。
中学生女子なんてものは、基本的に2人で行動するのが主流であり、互いを特別視する。そうでなければ、1人を崇拝して取り巻く形をとる。そうやってクラスの中での安寧を図るわけだ。
Aは特にそういったことを考えてはいなかったようだが、Bからはその気をとても感じた。
下校時など、3人でいる際に、BはよくAに耳打ちで何かを伝えたり、メモを渡したりしていた。流石に少し、疎外感を感じていた。
とはいえ私はそれで怯む女ではないし、何より私はバカであった。その2人と仲良くなれなかろうが仲良くしているCがいる上、そもそもその疎外感に対して寂しくなることもなかったのである。バカなので。
進級した。
その頃私はある漫画にハマり、なりたてのオタク、引いては腐女子によくある雑食っぷりを発揮していた。多分人生でいちばん楽しかった時期であろう。
AとBはその頃、ある地下バンドにハマっていた。
彼女らはよくライブにも行ったようだし、遠征もしていた。2人ともその話をよくしていた。
またこれがよくある話なのだが、AとBにはそれぞれ想い人が居た。彼らのことを便宜上A1、B1と呼ぶが、A1とB1も仲が良い2人だった。そして、彼らはテニス部に所属していたのである。
新聞部には私1人が残ったが、初めて出来た後輩に浮かれ、特に気にすることもなかった。
記憶が定かではないが、耳打ちやメモ等はこの頃は既に無くなっていたように思う。部活が変わったのもあるのかもしれないが。
と、ここまででわかったと思うが、AとBはとても仲が良かった(ように、少なくとも私には見えていた)のだ。
高校は全員別のところに進学したが、家が近いのでよく出くわしていた。
近況報告を聞いていた限りAとBはその間も仲が良かったようだし、高1の途中でバンドを追うのを辞めたらしい後も、ディズニーや原宿等に行った話をよく聞いていたし、3人で近場のカフェなど行って喋ったこともある。
ここで誤解のないように言っておくが、私は別にBと仲が悪い訳では無い。むしろ良い。
Bと2人きりでカラオケに行った回数は中学3年間で両の指以上だし、高校の通学路が被っていたので会った際にはよく話をしていた。今もよくお茶している。
で、だ。
私は中学の頃からBがAのことを『親友』と称するのをよく聞いていた。
そうかそうか仲がいいんだなと思っていたのはここにも起因しており、実際Bと会った時は、彼女はその綺麗な顔で楽しそうにAと行ったディズニーの話をしていたし、私はそういったBをにこにこ眺めながら顔が良〜〜〜友人で良かったマジ感謝感激雨スパチャ〜〜〜〜〜〜〜などと思っていた。(ちゃんと話も聞いていた)
だから、AとBは親友と呼べる仲なのだと私は思い込んでいたのである。
現軸に話を戻そう。
Aの相談にひと通り付き合った後のことだ。
難しい話を酒の回った頭ながら必死に色々考えて、なんとか彼女ががんばる!と意気込んだ時。
私に話すぐらいなのだから、まあBにはとっくに話しているものだろうと。親友というのはそういうものだと私は思っていたし、そもそも酔った私の意見だけを参考にしてもらうわけにもいかない。他の、まともな人間の意見も必要であろうと。
そのため、Bはなんて言ってた?と聞いたのである。
そうすると、画面に写ったAはきょとんとした顔を浮かべ、
「え?なんでB?」
と言う。
いや、私に話すぐらいだから他の、例えばBとかには話してるかなって。
そう返したところ、Aは
「Bにはこんな話してないよ、こんな話出来るほど仲良くないし。〇〇(私)と、あと親と教授にしか話してない」
と言ってのけたのである。
衝撃にも程があった。なんなら食べてたさきいかを落とした。
そしてそれに続けて、
「Bには言わないでね」
と念押しされてしまった。
さきいかを落とした焦りと、Aが言った言葉の衝撃で金麦もこぼした。今も私のクッションからはほんのり芳醇な麦の香りがする。早く洗わねば。雨続きだったので洗えていないのだ。
こぼしたものへの応急処置を施す私をAは馬鹿だなあと盛大に笑っていた。
私はそれに文句を言い、またダラダラとつまらないことを喋って、通話を切った。
これはどういうことなのだろうか。
私のことを親友と呼んであの話をしたAは、Aを親友と呼ぶBにはあの話をしていないらしい。
Aは、Bを親友だとは思っていないのか。
私は頭を抱えてしまった。余った金麦を煽りしばらく考え込んだがどうにもならず、仕方ないので寝た。
まあ次の日は容赦なく来る。忘れているはずもなく、もやもやとしていた。
その日の晩はCと通話する予定があり、私は昨晩の話を掻い摘んでした。勿論相談の中身は伏せたが。
するとCは、
と言い始めた。
CはそもそもBのことはあまり好意的に見てはいなかったらしい。発端は例の耳打ちやメモの話だそうだ。
中1の青かった私とCは交換日記なんてものをしており、私はそこに苦言を書いていたらしい。
申し訳ないが全く中身の記憶がないので真偽は確かめようもないが。
その時点で、中1のCは自分の親友に対して何をすると憤慨したらしい。私はこの話を聞いた時嬉しくてハチャメチャに照れたので今ここに書いて自慢しているが、Cは「あんたが特に何も考えてないの知ってるから今なら何も心配しないけど」と冷たかった。
結局色々言っていたが、私に理解出来たのはBが依存気質であることぐらいだ。
彼女がAに張り付いて他の子からウザがられていたのを私はミリも興味が無くて知らなかったし、Cが「あんた今でもBのこと構ってあげてるの偉いと思うよ」と言われたのは正直驚いた。私にとってBは、普通の友人にカウントされているからだ。
これをAかBかが見ているかは知らないし、まあ多分見ていないだろうと思う。
だからまあ、一応Bに言っておくが、
あなたが親友だと言っている人間はあなたのことを親友だと思っていないみたいだよ。あなたが彼女を親友だと言っても、彼女があなたを親友だと言った事が一度でもあるだろうか。あると思い込んでいるならどうしようもないけど。
というか、親友とかいうワードを言いふらして自慢げにするのを、そろそろやめた方がいいと思う。あなたがどうしても幼稚に見えてしまうから。
あなたが彼女に依存する限り、彼女はあなた以外の人間と関わることが出来なくなってしまう。そしてそれのせいで、あなたは他の人から嫌われている。
そろそろ、独り立ちしてはいかがだろうか。
2週間後ぐらいに、Bと話す予定がある。面と向かって言えるだろうか、というか言わなきゃならないんだろうか。
Aにもこの話をすべきなのだろうか。
小中高といった学生時代の平和学習の一環で、太平洋戦争時代を生きていた方にお話を聞く機会が何回かあった。
そこで印象に残っていたのは、戦争中でも普通に日常は続いているということだった。
広島で原爆被害を受けた方も当日まで勤めていた工場の人間関係が普通に大変といった話を聞いたし、
私の祖母は受験で東京に一人飛んで勉強が大変だったとかテニス部に入ると腕が伸びると聞いてやめたとか、そんなどうでもいい話が印象に残っている。
現在はいうなれば戦時下だ。それでも経済は回さねばならない。義務は果たさねばら習い。むしろ制限も多いからしんどい。戦争になったら戦争のためだけになるわけではないのだ。戦争第一なうえで今までやっていたこともやらなければならないのだ。
それはそうだろう。太平洋戦争中の個人商店も政府に土鍋を納めながらも商売はしていかなければならなかっただろう。
話が変わって申し訳ないが、私は現在大学4年生、就活中だが全然うまくいっていなくて困っている。授業再開の見込みは今のところない。友人は内定を頂いているらしい。
この困っている状況下だが頑張るモチベーションが続かない。人の目が無いと頑張れない。エントリーをせねばと思いつつ先延ばしにして期限が切れいている。仕事をさばくのがへたくそである。自分で仕事の締め切りを設定するのがへたくそなのである。夏休みの宿題は最後1週間で裁くのだ。毎週レポートの締め切りがあった平時はむしろ順調に過ごせた。むしろ説明会に出かける用事とかがあった方がメリハリがついて頑張れるのに。
これはまずい気がする。このまま内定をもらえず学校に復帰もできず留年中退コースかもしれない。ヤバイ。そんな予感がビンビンしてきた。
・毛の壁
テニス部。高校から初心者で始めた割に飲み込み早く先輩からは期待されているが
壁打ちしている間は実は常に増田でどんなことを書き込むかしか考えていない。
インターハイをかけた大事な試合でサーブを打った途端ふと名前は3文字がいいと思いたち、早くその名前を考えたいがために
普段からは考えられないアグレッシブさで強豪校を下し、しっかり道頓堀で打ち上げを楽しんだあと
半値を真剣に考えるあまり、就寝時間はいつもより2時間も遅くなってしまったが
それでも夜一時であり健康な生活そのものを送る文武両道な増田だが
肝心の名前は思い浮かばず、コンビニでpaypay支払いを使用とアプリを開いた瞬間に「毛の壁」という名前を思いついた。
まるで天から降ってきたかのようなインスピレーションだったがこの不思議な体験と名前のカッコ悪さが釣り合わず、誰かに話したくても話せない割に
中学生の頃、とある地方都市に住んでいた俺は、毎日電車通学をしていた。
ある日、学校からの帰り道、駅のホームで電車を待っていた。いつも一緒に帰る友人達とは別行動で、一人ベンチに座って本を読んでいた。遠くの方で同学年の女子達が何やら騒いでいる。どうやらその内の一人が名札を線路に落としてしまったらしい。
本当なら駅員を呼んで拾ってもらうのが正しい行為だろう。だがその時の俺はそうしなかった。ホームから線路に勢いよく飛び降りて、名札を拾い上げた。
あの時の俺は漠然とした不安の中にあった。クラス替えで仲の良い友達達と離れて、反対に気に食わない奴等が集うクラスに放り込まれて磨耗していた。好きだった子に振られた。父が単身赴任で家に不在がち、その代わり母とぶつかった。進学校を自称するくせにやけに厳しい校則が煩わしかった。在学している中高一貫校を抜け出して、別の中高一貫校への進学を考えていた。
今になって思えば、どれも瑣末なことでしかない。でもあの時の俺はその一つ一つが重なり合って、漠然とした不安の中にいた。ふと自分の命が消えてしまってもいい。そんな感覚だった。
あの日、名札が線路に落ちているのを見かけて、死ぬ理由を見つけられた気がした。線路に飛び降りて、名札を拾おうとして、轢かれて死ぬ。あっけない最期。
でも現実はそう上手くいかなくて、地方の路線だから電車が来るまでには時間があった。難なく名札を拾い上げた俺はホームの上までよじ登ると、別のクラスでほとんど話したことがなかったテニス部の女子に名札を渡した。一連の動きを見ていた彼女は驚いた表情で、ありがとうと言った。
片田舎の学校の最寄り駅だからか、ホームには人もまばら。一般客、ましてや駅員さえも俺の行為に気づいていなかった。端から見れば格好つけた中学生の危なげな善行は、誰にも咎められることはなかった。
あれから10年以上。しょうもない希死念慮が湧き上がってきた時、あの日のように死ぬ理由をこじつけられないかと考えてみる。物事はそう上手くいかないもので、理由はどこにも転がっていない。死ぬ理由に遭遇することはなく、かと言って積極的に命を絶つほどの勇気は持てず、そのままだらだらと生き長らえていく。
今のもののように閲覧できることはご存知だろうか。
ここでは50年前にどのようなことがニュースになっていたかを取り上げ、
吉本興業株式会社所属のタレント(現在のYOSHIMOTO)が、
仕事を受けることとされているが、
各IDも割り振られていなかったとのこと。
調べなくても、良かった時代なのかな。
テレビの件は、多くの方がすでに取り上げられているので解説しないが、
いまだに大きな影響力があったことが見受けられる。
つまり、企業の宣伝コマーシャル(コンテンツの間に宣伝映像を流す)も、
誰でも自分の素性を隠すことができる時代だったのかも知れない。
日夜報道される様々な不幸などは起きなかったのではないかと思う。
この闇営業問題については、各種メディアでも取り上げられていた。
おそらく、日本中の人たちが注目していたらしい。
まさにマスコミュニケーション全盛期ならではの光景だ。
どれだけ暇なのか。何考えているんだ。
2022年の前なので、このようなことになっているとは思うが、
このことが日本を騒がせていた時代があったのかと思うと感慨深い。
どうでもよくないか?というか、君たちやるべきことがあるだろ。
この記事が面白かったと思う方は、RYコイン(@iinuma_jp073)か、
ピアノひきたい。電子ピアノじゃ嫌だ、アップライトでボロボロのでいいからクラシックなやつがほしい、なんでもお手伝いするから、と小学生の子供に泣かれちゃってさあ。
俺に金があったら、もっと広い家に引っ越して、メンテナンス代含めてアップライトピアノ買える余裕があれば、こんな衝突もフラストレーションもなかったんだよなあ。貧乏なのは子供の責任じゃないし。
中学の頃、テニス部入って、イトコのお下がりのフレームが剥げてる古いラケットなのが死ぬほど恥ずかしかったのを思い出した。みんなピカピカのラケットでさ。子供も、お友達は広い一軒家でクラシックピアノ持ってるのを見てる。悲しい。何度も言うけど貧乏なのには子供はなんの責任もない。
昔から、他愛のないコミュニケーションをするのが一番つらかった。
そこまで内向的な方ではなかったので、ある程度の話題作りはできて特にコミュニケーションを始めるのに苦労したことはありません。会話もよく続くし、皆で笑い会える会話はできる方だと思います。
そういうコミュニケーションを続けていくうちに、段々とお互い気兼ねなく発言できるようになっていきますよね。僕が一番苦手なのはその段階からです。仲の良い友達になってくるとお互いに遠慮がなくなり、多少棘のあるような発言や煽り、イジりなどが出てくると思います。
学生時代に所属していたテニス部で、部内戦で負けて気持ちが落ち込んでいたときに、その時信頼していた友人から、おそらく励ましだったと思うのですが「あそこであんなミスするとは思わなかったわ笑」と言われたことがありました。きっかけ、とまで言うのは言いすぎだと思いますが僕が人間不信気味の傾向を作るのに十分なシチュエーションだったと思います。それ以来、その友人とはあまり気兼ねなく話すことは出来ていません。
大学でスノボーに初めて行ったとき、周りの皆はある程度滑れる人たちだったので僕はある程度外れた初心者用のところでゆっくり一人で練習していました。お昼に合流したとき、面白い動画を撮ったと言ってそれを見せてくれたのですが、それはたどたどしい木の葉で初心者コースをなんとか滑り降りている僕を撮った動画でした。コースの脇にそれてしまって、深い雪から抜け出そうとするも中々抜け出せない姿までしっかり撮影されていました。スノボーにはもう二度と行きたくなくなりました。帰ってからもう行きたくないと話すと友人たちはとても不思議そうな顔で「なんで?」と聞いてきたのが印象的でした。
最近だと、皆でスマブラ(ストック3)をやっているときに僕がちょっとしたミスをしてやられたことがありましたが、その時悔しくてしばらく黙っていたら「おい〇〇〜どうした?たかがゲームでメンタル弱すぎ笑」と言われたことがありました。負けて落ち込んでいる僕をイジって場を盛り上げようとしたのでしょう。ですが、僕はその発言はどうしても無理でした。スマブラの後にご飯を食べに行こうと誘われましたが断りました。その日は食事が喉を通りませんでした。
僕はこの手の発言が全て悪意から来ているものではないとはっきり理解しています。当たり前ですが、この友人たちは悪気もなく発言しているでしょうし、当然今回題材に取り上げたテニスもスノボーもスマブラもたまたまです。
ですが、僕はどうしてもこの、煽りというかイジりというかその手のコミュニケーションがどうしても無理に感じるときがあります。どんなコミュニケーションが取られるべきだったのかわかりませんが、僕をイジって笑いを取るその一瞬はいつも時間がスローになり心臓が締め付けられます。
そんなふうに感じている僕自身、煽ったり弄ったりしたことがまったくなかったかと言われると言い切れません。人並みに、”場を盛り上げ”たり"励ます"ために煽ったりイジったりをしていると思います。そう自覚してしまうと僕は僕自身が許せません。
でも同時に、仲良くなってきたらそういうコミュニケーションにもなるだろうとも思っていて、その程度のコミュニケーションにも耐えられない自分があまりにも脆弱だし、自分は脆弱なのに誰かとのコミュニケーションでは平気で煽っている。なんて自分はひどいダブルスタンダードを持った人間なのだろう。そう思います。
煽ったりイジったりするのやめてくれと訴えて被害者面をしている僕自身が、誰かを多分傷つけていてそれに気付いていないふりをしている。じゃあもうどうしたらいいのだろう。そう思いながら今日もなんとか人間をやっています。
https://anond.hatelabo.jp/20171016202910
の4つ目です。
https://comic.pixiv.net/viewer/stories/22913
その芸能会復帰に合わせた手記のゴーストライターとして、本人から指名された売れない小説家が主人公。
「なんで俺が?」と怪訝に思いながらも、彼女の話を聞く中で距離は縮まっていき……。
と、あらすじだけを読むと平易な内容に見えるものの、描き方が圧倒的。
女優・真咲遥の天真爛漫さと冷たさを上手く絵に落とし込み、密度の高い内容をテンポよく読ませるのは染谷先生の力量あってこそだと思う。
2冊読み終えた後にはいい邦画を1本見終わった後のような感覚を得られる素晴らしい作品。
https://viewer-bookstore.yahoo.co.jp/?cid=840990
虫愛づる姫君をテーマにした昆虫ホラー『エンブリヲ』の小川幸辰の描く、民俗学に着想を得た河童バイオレンスホラーアクションマンガ。
作者の地元でもある千葉のニュータウンを舞台に、原住民である河童たちと、土地の有力者との軋轢が徐々に広がっていき・・・という、
どこか「平成狸合戦ぽんぽこ」を想起させるようなストーリーライン。
まさにこの人にしか描けないであろう内容と、描線の古っぽい手触りが上手くマッチしている。(女の子の描き方は大分変わってましたが。)
本当は5巻くらいで読みたい内容が2巻にまとまっており、2巻のジェットコースター感が凄まじく読後に謎の爽快感が残る。
https://viewer.bookwalker.jp/03/3/viewer.html?cid=2b96f115-5160-44ee-a6bc-9750a0817bb0&cty=1
妹に連れて行かれたライブをきっかけに男性アイドル「ハピネスハニー」にどハマりしてしまった男オタクの日常を描いた作品。
「好きなものは好きでいいんだ!」ということを全力で肯定してくれて、読むたびに清々しい気持ちになる。
メイン曲が「チュルチュルうっど〜ん」という最高のセンス。
こんなに面白いのに2巻が出ておらず作者さんのツイッターも止まってしまっていてとても残念。
http://www.moae.jp/comic/hyoujounocrown
クアドラブルアクセル(4回転半ジャンプ)に挑む主人公と、彼に影響を受ける冷静なヒロインを描くフィギュアスケートマンガ。
この伸びやかな線でスポーツマンガを描きあげた事自体素晴らしい。
ロマンを追い求める主人公と、ソツなく演技をまとめるヒロインの対比と物語の中でのバランスが良い。
ジャンプの解説もわかりやすくて、フィギュアスケートの見方が多少なりわかったのも個人的には良かった。
https://www.alphapolis.co.jp/manga/official/798000187/1907
おっかない魔女に恋心を持たれてしまった女義賊を描く、中世ヤンデレ百合ダークファンタジー。
ヤンデレ側と受け入れる側の心情それぞれに説得力があり、それぞれの正義を貫こうとするほどにボタンの違いで最悪の展開になっていくのが最高。
売れれば続刊が出るとのことなので、お気に召したら買ってみてください。
https://comic.pixiv.net/viewer/stories/16119
高校の頃から片思いしてきた本命の親友と、彼の代わりに抱いている今のセフレが入れ替わったら?という作品なのだけど、
タイトルの通りでそう単純な話ではなく、予想を裏切って展開した後の最終話がストレートに良くて普通に泣くという。
自分の抱いていた愛情は何だったのか?を問う、繊細ながらも重厚な作品。あととにかく絵がきれい。
https://comic-walker.com/viewer/?tw=2&dlcl=ja&cid=KDCW_AM01000002010001_68
友人が隠れオタクであることを偶然知り、彼が持っていた同人誌を馬鹿にしてしまい、
その場にいたオタ仲間の少女・ハイジにビンタされてしまうところから物語は始まる。
脳筋テニス少年を主人公に据えた同人青春マンガといった趣で、誓がオタクの側に歩み寄り、
同人制作に触れる過程の中で描かれる誓の人間関係の再構築と、それぞれの姿勢で二次創作というものに向き合うキャラクター達は見るべきものがある。
上で挙げている『ハピネスハニー』にも通じるところはあるのだけれど、好きな作品を好きと言うことを全力で肯定してくれる作品だと思う。
https://shonenjumpplus.com/episode/10833497643049550329
語り継ぐべきジャンプGIGAの遺産。1巻、全4回を無駄なく研ぎ澄ませた作品。
スポーツならなんでも器用に「こなせて」しまう主人公が、男性の鬼門とも呼ばれる薙刀と出会い、選び取るまでを描く。
ストーリーが濃密でありながらメインキャラ以外の作り込みや台詞にも手抜きなく、とにかくマンガとしての完成度が高い。
マンガってやっぱいいな!と思わせてくれる。
今年はこんな感じで。
集団行動:集団から外れたものを罰したいのか、ミスすると腕立て伏せをさせられた記憶。
短距離走:ただ走るだけなので楽っちゃ楽。しかしどのように走れば速くなるのかなど、テクニカルなことを教わった記憶がない。
長距離走:ただ走るだけだがげんなりする。例によってどのように走れば長く走れるのかなど、テクニカルなことを教わった記憶がない。
サッカー:手を使ってはいけないくらいしかルールを教わった記憶がない。
テニス:テニス部だったから良かったものの、ルールを教わった記憶がない。
バレー:サーブで詰んでた。あんな重いボールをどうやったら飛ばせるのか。ルールを(ry。
何が言いたいかって、体育教師から学んだことが一切無いということ(その理不尽をカウントするなら別だが)。
「増田君どうですか」って担任が急に言い出して、みんなが賛成~ってなってやってた学級委員だから。
いつも面倒なことを押し付けられる。
思い返すと中学のテニス部部長もやりたいやつがいなくて皆勤だからって理由で押し付けられて
団体戦のメンバーでもないのに部長だからって理由でいつも遅くまで練習付き合わされて
小学校の少年野球も監督の家が近いからって御用聞きのリーダーやらされて
生徒会役員も先生から電話があって断ったのに母親に強制されてやらされた。仕事内容はただのパシリ。