はてなキーワード: 自責の念とは
ななめ読みだが
人のためといっても最終的には自分のためであり、
犯人が苦しむのは自分が重刑を望んだ結果だからという自責の念に
そんな甘い考えをしているからまた蚊に刺される。(これは比喩です、わかりますね?)
痒くなりたくなければ、蚊取り線香をたくなり、見つけた瞬間に殺すなり
するしかない。
やらなければやられるんだ。この世はそんなに甘くない。
生き残るためのサバイバルを我々は常にしているのだ。
と、ここまで書きつつ、トピ主が生き残るための手段として、
犯人を罰しないという選択をしているのであれば、だれがその判断を
咎めることができようか。いやできないと言う他ない。
悪いことをしたら罰を与えることでしか人は学ばない。
罰を受けないのであれば再犯は免れないでしょう。
会社名は伏せておく。
なかなか始まらなかった。
と突然言われた。
一瞬何を言われているのかわからなかった。
しばらくして状況をようやく把握し、
「これはひっかけだったのか。しまった鵜呑みにしてしまった。」
というお叱りをひたすら聞いていた。
そのうちに面接官に
「君の親の職業は?」
と聞かれ、質問内容に疑問を感じつつ素直に答えたら、
「親が一般的な企業で務めたことがないから、こんな非常識な人間が育つんだ。」
と訳の分からないことを言い出した。
少なくてもあなたの会社は面接方法からして一般企業じゃねーよ。
親の職業への侮辱とその子供である私自身の非常識さへの罵倒であった。
その時間は数十分にも及んだ。
正直私自身悪く言われるのは耐えられる。
でも親の悪口は耐えられない。
いい大人になってるのに、
親関係ないでしょ。
ここでいい加減に耐えられなくなり、
実際にサイトを見せて指摘。
手のひらを返したように謝罪(?)。
急に優しくなる。
もうね、非常に悲しかったです。
それ以上に、誰も就職してほしくないです。
いや、違うと思う。
例のブコメで何人もが言っていたが、意図も意識も無意識も関係ない。
意図なくして差別に加担してしまうことは、あると思う。それはあくまでも、行為や言動を受ける側の目線の上にある。
私は意図なく差別発言をしたことがある。在日コリアンの友人にそれを指摘された。
友人のことを信頼していたし、好きだったし、彼女のバックグラウンドは彼女の個性の一部と感じていた。
それでも、私は彼女にとっては背筋にヒヤッとした感覚を起こす発言をしてしまったのだ。歴史や文化に無知だったばかりに。
そのときは「知らなかったんだ!」と心から思ったし、彼女にそれを伝えて謝ったけれど。
意図なくして、好意を抱く人に対してでさえ、不快な思いをさせてしまったという自責の念は強烈で、それ以降、自分の他者への視線に注意を払うようになった。
私は率直に指摘してくれた彼女に、本当に感謝している。同じ間違いをしなくてよくなったから。
だからといって、顔の見えない不特定多数の他者のために常に勉強してスキのない言動をこころがけるなんてことは、日本の日常生活では無理かもしれない。
かつての私のように身近な人との関係をよりよくする必要があれば、その努力を行うべきだと思う。
でもそうではない場合、差別的とみなされる最低限のところには配慮をすべきで、電車のアナウンスのような公的な空間ではクリアされるべき課題だった。
それができない事態があった。その場合、車掌を吊るし上げるのはおかしい。南海電車がこれを糧に社内に周知すればいい。
南海は「車掌に口頭注意した」とされているが、もう少し踏み込んで国際空港と大阪中心部をつなぐ路線を運用する会社として、社内教育の一助としてほしいと個人的には思う。
そもそもの発端になった「外国人が多くて迷惑」とクレームを入れたと言われる男性のような人がいる限り、指摘することは重要ではないか。
あなたにその意図はなくても、それは差別的とみなされる行為です。お互いにとって気持ちの良い空間にするために、違う言葉を選び、より良いふるまいをしてみませんか?と。
現在28歳の男
最近、生きていることがどうでもよくなっている。
自殺願望はないが、生きていることに対して何の感情も得られない。
昨年の5月に新卒で入った職場は精神的に病んで、1年で退職。以降は転職活動をしたり、職業訓練校に通って現在に至る。
今年の2月からはアルバイトでスーパーのバイトをするようになった。大変な時もあるが、それなりに充実感はある。
積み残している本や、来週に行われるコミケにも行きたいとは思っている。ただ、もし行けなくても、そんな人生だったのだろうと割り切っている部分がある。
自殺願望はないが、職場にいた頃に同期からつるし上げに近いことをされ、一度だけ袋を頭からかぶって死のうとしたことはある。
今はそこまで踏みこむことはないから、生きたくもなく死にたくもないどっちつかずなのだろう。
いろんなものを得ても、手放しても、きっと何も感じなくなっているのだろう。
何も無いから、ただ惰性で生きてしまっている。自責の念も特になく、ただただ日々を過ごす。
だけど、このまま生きていても、何かが変わることはあるのだろうか。
菅野完さんから性暴力被害を受けたというXさんからの依頼で、7月14日に「菅野完 noiehoie の性暴力」というエントリーを上げました。
http://c71.hatenablog.com/entry/2016/07/14/153922
これは自発的に書いたものではなく、一部の人の思惑に沿って書いた作為的なエントリーでした。善意からとはいえ係争中の案件を裏取りもせず、頼まれるまま無責任に書いてしまったことを関係者の方々、ならびに読者のみなさまにお詫びしたいと思います。
この件には私が知る限りでも週刊金曜日編集者の方、係争事件の弁護士の方、濁山ディグ太郎さん、中島岳志さん、山口智美さん、いとうせいこうさん、朝日で女性問題を多く取り上げている林美子記者始め多くの方が水面下で結束しています。私はこの繋がりが純粋に性暴力被害者を救済し、再発を防止するためものなのか、菅野完さんの日本会議批判と関係があるのか、疑問を持っています。
7月14日、Twitterフォロワーであるfさんから性暴力事件についてのエントリーを被害者を助けるために書いてほしいという連絡があり、被害者を名乗るXさんとグループチャットでお話しました。私は自分自身が性暴力被害者であるため、そこで聞いた話と発売前の週刊金曜日のキャプチャの内容に強い衝撃を受け、フラッシュバックで正常な判断力を失ってしまいました。Xさんとも菅野完さんとも面識がないにも関わらず、被害に遭ったというXさんとかつての自分が重なり、無条件で力にならなければならないと思い込んでしまったのです。
見ず知らずの方の係争中の案件に関わることは軽率なのではないか、発売前の雑誌の紙面を大きく掲載したキャプチャの使用が著作権の侵害に当たる場合、その責任は誰が取ることになるのか、そういったことについてさえ十分に話し合うことなく、とにかく発売までにエントリーをアップして拡散させなければと必死で記事を書きあげました。
パートナーは私が本業の準備、食事や持病のための休息時間も犠牲にし、フラッシュバックでふらふらになりながら、ひたすらテキストの加筆修正を繰り返す様子を見て、とても心配しました。彼は当初から先方がこれだけの依頼を出しておきながら、執筆料の申し出を一切しようとしないことにも疑問を持っていたようです。
長文のテキストであることに加え、Xさんと彼女の支援者を名乗る人たち、また弁護士や週刊金曜日編集部からの要望が後からいくつも追加され、私はその度に細かい修正に応じました。加筆修正の度、何度も何度もおぞましい性暴力のについて読み返すことで自分自身の性暴力被害が蘇り、吐き気と動悸と冷や汗でとても苦しかったです。でもそのときは「性暴力被害を許してはならない」「被害者に自責の念を持たせてはならない」ということしか考えられませんでした。
ようやくOKをもらったエントリーはXさんの支援者ではなく、紹介者のfさんを通じてリツイートしてほしいと頼まれました。私と同様事件と無関係のfさんがなぜ?と疑問思いましたが「被害者探しを避けるため」といわれ、「被害者を危険に晒す気ですか?」と脅されているように感じ、何も言えませんでした。
また「フェミのお仲間を通じてリツイートしてほしい」「互助会!互助会のノリで、お願いします!」という言葉には(フェミの仲間なんていません。一人一人が自分の考えで発言しているんです)(互助会なんてありません)と思わずにいられませんでしたが、言い返すだけの気力もなく、上手く言葉にすることができませんでした。
パートナーはXさん、濁山ディグ太郎さんらに新規はてなidを取得してブログを書いたり、増田を使って匿名エントリーを上げてみたりしてはどうかとすすめましたが、誰一人それに応じた人はいませんでした。憔悴している私を傍で見ていた彼は私一人が矢面に立たされることに強い憤りを感じており、それを見ているうちにようやく私も「これは何かおかしい」と自分の感覚の異常に気付くことが出来ました。
私は自己評価が低く、記事の作成を依頼されたときも「なぜ私が?」という思いがありました。そのことについてXさん、naeさんらから「自己評価が低いからこそ被害者によりそういい記事が書けた」といわれたとき、限界が来ました。私自身は自己評価の低さと戦うため、これまで命を削ってきたからです。個人差はあると思いますが、性暴力被害者が自分を無価値であると考えるのは謙虚さとは違います。この苦しさは「だからよかった」といえるものではありません。
記事を書いている間の緊張とエントリーの反響、そして休息や食事を後回しにしていたこと、何よりフラッシュバックで普通の状態でなかったことが重なり、私はXさんの支援者の皆さんに感情的な反応を返してしまいました。そのことはお詫びしたいと思います。
しかしようやく少しだけ判断力を取り戻したいま、パートナーをはじめ友人たちに話を聞いてもらい、この件を伏せておくことは良心的に出来ないという結論に達しました。私は知らずに政治的な駆け引きに加担し、証拠不十分な係争中の事件について、言われるままに一方的な宣伝をしてしまいました。裏で糸を引く大勢の人たちの思惑に従い、とても公正とはいえないやり方で日本会議批判を攻撃する立場に立っていました。
このような事情によってあのエントリーを書いたことを読者のみなさんに知っていただきたいと思います。このような結果になったのはひとえに私の迂闊さと甘さによるものと反省しています。今後は利用できそうな人間は誰彼かまわず利用する人の餌食として踊らされないよう健全な自尊心を持ち、自分と他人の心の境界、責任の所在を明確にしていきたいです。他人の回復の前に自分自身の安全を守ることが、私を大切に思うパートナーや友人たちへの愛情だということを忘れないでいたい。またXさん、菅野完さん、そして日本会議に対する思想や立場について、感情的な思い入れに流されない視点を持ちたい。都合よく踊らされるのはもうたくさんです。
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いや2~3回したけど、俺は陽性じゃなかったんだけどさ。
HIV告白されてから検査結果出るまでの期間、マジで生きた心地しなかった。3kg痩せた。
で、キャリアの人とは付き合えないから、じゃあ別れようということになったら
なぜか彼女の友人やら何やらから、連日攻撃されまくってる(主にFBで)。
彼女もキャリア(感染者)であることを友人には隠しているみたいだから、
まるで俺が「やり捨て男」みたいなイメージになっているみたいだ。
FBには俺の職場の情報とかもあるし、攻撃内容には脅しみたいなこと書かれ始めてる。
女の結束というやつなのか、相手方は事情も知らずに善意でやっているんだろうけど、
かといって、彼女がHIVキャリアだなんて暴露するわけにもいかないし、
(それの方がよっぽど警察沙汰だと思う)
俺は詰んだのかもしれない。
増田だから書かせてもらうけど、HIVのキャリアはもう恋愛とかやめてくれよ。
何度か性行為した後に、はにかむような顔で「わたし実はHIVに感染していて・・・」と
枕元で囁かれた経験あるの? 俺だって最初は冗談だと思ったよ。でも本人は本気だった。ケロッとしてた。
ブコメにあるように、セックスは避妊具を付けてれば感染の恐れがほぼないとも説明されたが、
そんなの実際にその状況に置かれたら、そんな建前論は吹っ飛ぶぞ。
その後すぐにでも検査したかったけど、最低3ヶ月は間を置かないと正確な検査結果が出ないと医者に言われ、
最初の行為から3ヶ月置くために1ヶ月近く「検査したいけど検査できない」という悶々とする状況に陥り、
その間もずっと「俺はとんでもない間違いを犯してしまったのでは?」と自分の軽率さ、自責の念に苛まれ、
飯が喉を通らないくらい精神的に不安定な状態に追い込まれたんだぞ?
相手方は再三メールやらLINEで「ちゃんと話し合いたい」とかメッセージ送ってきたけど、
行為をしてからHIVキャリアであることをバラすような卑怯者の嘘つきと何を話し合うんだ?
本当に相手のことを思っていたら、まずキャリアであることを伝えてから付き合うべきだろ?
相手に感染のリスクを負わせてから告白するのが「勇気」なのか?それは単なる卑怯な行為だ。
(もちろん、アプローチしたのは俺の方だから、俺にも責任がある。だから死ぬほど悩んだんだよ)
俺だって最初の行為のときに告白してくれていたら、HIVについてよく勉強して、
その上で相手と愛し合う選択肢も十分にあり得たと思う。実際、検査するまでの間、
それなりに病気について勉強して、確かにキャリアとの間で行為ができないわけじゃないことは理解していた。
彼女との行為では必ずゴムを付けていたから、ほぼ感染のリスクはないだろうとは思っていた。
でも、理屈じゃないんだよ。キャリアであることの告白は、ハンマーで頭を叩かれたような衝撃だったよ。
短い間とはいえ、そんなに大きな事実を隠して俺と交際していた彼女をどうやって信用しろと?
ああやって事実を伏せなかったら交際が続かないことを自覚していたからこそ黙っていたんだろう?
別に俺だって性行為するためだけに彼女と付き合いたかったわけじゃないんだから、
すぐには告白できなくとも、半年でも一年でも関係を深めてから告白されて、その上で行為に至るプロセスでも十分だった。
(俺はそんなにモテるわけでもないから、彼女との関係を急ぐつもりは毛頭なかったよ)
でも、最初の行為とき、彼女は全然キャリアである素振りも見せなかったし、
感染の事実を告白したときだって後ろめたいような雰囲気は一切なかった。あっけらかんとしてた。
トラバにあるように、もしかすると友人も彼女のHIV感染を知っているのかもな。
その上で彼女がどんな風に俺のことを説明したのか、友人たちの執拗な嫌がらせを見れば想像できる。
俺が公務員だからなのか、ちょい前なんて「舛添さんも辞めたよね。ね、不祥事は怖いでしょう?」なんて書き込みがあった。
だから、怖くて増田に正直な気持ちを書いたんだよ。不安だったんだよ。
(とりあえずスクショ保存して、いつか警察か何かに相談するときの証拠にしている)
引責自殺?「責任取って自殺します」? 理解できるわけないでしょうそんなもの。だって責任取ってないじゃあないですか。
宙ぶらりんになった責任と、手間と、死体を残してあの世にとんずら。どうしてこれが”責任を取った”ことになるのか、まったくもって理解不能です。
欧米人だって「自責の念にかられて」「将来を悲観して」「批判に耐えかねて」「多額の負債を負って」、それで自殺するってんなら、まあ理解できるでしょうよ。
「取り返しのつかないミスをしてしまいました。責任を取って夜逃げします!」なんてバカなことを言われたら、アナタ、こう返しますよね?
「逃げるな!責任を取れ!」
自殺でも同じです。ただ、連れ戻して責任を取らせるのが不可能というだけで。そして、強く批判しにくくなるだけで。
むしろね、私ね、引責自殺が理解できちゃう方が良くないと思うんですよ。
本来なら、責任者が自殺しちゃったら、宙に浮いた責任はまた別の責任者(達)が背負って処理するんですよ。
そして次がないように、あったとしても被害が小さくなるように、過去の知見として事例として積み上げていくんですよ。
なのに、自殺しさえすれば、責任を取ったことにしてもらえる、なんて了解があったとすれば、宙に浮いた責任はどこに行きます?
だれも責任を取らずに、宙ぶらりんのまんまです!その上、自殺するインセンティブすら生まれてしまうのですよ!
それでは、死体と、被害と、悲哀しか残りません。次にはつながらず、全てそこで終ってしまうのです。未来も含めた、全ての人民にとっての悲劇です。
ではなぜ、にもかかわらず、日本では引責自殺が多いのでしょう?好まれるのでしょう?
それはきっと、「責任を取ること」と「謝罪すること」が混同されているからではないでしょうか?
「謝罪すること」が「責任を取ること」ならば、引責自殺は責任の取り方のなかで、きっと最も強力なやり方の一つでしょう。
いわゆる「死んで詫びる」「セップク」といったやつです。
しかし、それではいけません。謝ることと責任を取ることは別ものなのです!
謝る。責任を取る。両方必要です。大切です。でもどちらかしか選べないなら「責任を取る」べきです。
責任を取っても、謝ったことにはなりません。アナタのハラワタは煮えくりかえったままかもしれません。
でも、謝ったとしても、死んで詫びたとしても、それでアナタの腹の虫がおさまっても、まだ責任がとられていないならば追求を止めるべきではないのです。
今のために、次のために。
スッキリして、それで終わり、ではないのです。それではいけないのです。
私はそう思うのです。
言いたいことは題名の通り。
「自分は○○な人間だから、もし不愉快なことがあっても『ああそういう人間なんだ』と思って許してね」
例えば、後輩にこんな奴がいる。
そいつは人を傷つけたり、不愉快にさせてしまう言動を繰り返しとってしまう。もちろん本人には悪気はない。
しかし、かわいそうなことに本人には『人の気持ちを抉ってしまった』という自覚がある。
だから彼は飲み会の後や、会議の後、そして喫煙所の雑談の後ですら深い後悔にさいなまされることになる。
そんな後輩が初対面の、特に自分より弱い立場の人に必ず言う言葉がある。
「俺は口が悪くてびっくりすることもあるかもしれないけれど、ホントそうしたくてやってるわけじゃないから。
もしそういう時がきたら、『俺さんってそういう人間なんだ』って流してね」
おそらくこれは本人にとって精一杯の自衛。
『人を傷つけてしまう』という一面を、他人に許してもらいたいという気持ちの顕れなのだろう。
自分はその欠点を許しきれなくて、繰り返すたびに自分を責めて、責めて辛いんだ。
人を傷つけてしまう自分の良くないところ、自分はよく分かってるから。反省だってたくさんしてきたから。
……それを君も分かってよ。 分かってくれるよね? だから、許してね☆怒らないでね☆
といった具合に。
そんな風に心を守ろうとする行動は分からないでもないが、ひとつ言っておきたい。
不愉快な思いをさせられた人の負の感情はどこに行くのか考えたことはあるのか。
可哀想な『傷つけられた人』は、最初に魔法の言葉で釘を刺されているから、後輩みたいな人間を攻めることが難しくなっているのだ。
「あっ……そうか、この人って『そういう』人間なんだけ……」
もやもやは残り続ける。
傷つけた方の人間は、他人から攻め立てられることもなく、今まで通り自責の念にかられてベッドの中で反省会を行うだけ。
毎回、毎回その身にならない反省会は行われる。そして相手方の気持ちを知ることはないから欠点は永遠に改善されることはない。
魔法の言葉は『当事者意識』を奪う魔法を、唱えた本人にかけるのではないか。
卑怯。
◆◆◆
「俺って怒ると、つい手が出ちゃうんだよ。
でもお前のこと嫌いなんじゃなくて……ほんと、自分でも止められないんだ。
俺はお前のことほんとに好きなんだよ。だからさ、俺のこと怒らせないでよ。ね?」
◆◆◆
「人のせいにするな」という便利な言葉がある。
無論、本人と怠惰や不注意、あるいは狡さが原因で生まれたトラブルなら。
あるいは、極稀にある「本当に本人が100%悪い」パターンなら、それは事実だ。
だが、世の中のたいていの失敗は「俺も悪いが、他者にも原因や責任がある」というものが多いと思う。
儀式としての謝罪はするべきだし、自分の責任部分はきちんと認識しなければならない。
だが。
この、「他者の責任」から目を反らして全てを自分のせいにして、問題を収めようとするやつは、
何故なら、失敗の再発を防ぐためには、そして失敗を財産にするためには、失敗の「正確な」理解が必要だ。
誰が何をしてどうなったのか。自分がAをした際、他者が何をすると成功し、失敗するのか。
これをきちんと分析することこそ本当の反省なのである。そこを「自分のせい」にすることは、単なる思考停止だ。
繰り返すが、形の上で、気持ちの上で、自分が悪いという自責の念を持ち表明することは大事だ。
だが、「それ」で終わらせない人間・・・俺は、部下にも知人にも、そんな人間になって欲しい。例えそれが「人のせいにするな」教の人から批判される行為であっても。
私の彼は優しい。
時間にルーズな私にあわせてくれるし、重い方の荷物は持っててくれるし、寝る時はいっつも腕枕してくれるし、あんまり怒らないし、私の事ずっと好きでいられる自信があるって言ってくれてる。私もその点信じてる。お互い喪ってのもあるけど。
正直、お互い会う予定のない休日は、何をしていいかわからないっていうくらい、私しかない人だ。
1年半ちょい付き合ってる。
肉体関係でいえば、彼にとっては2人目、私にとっては初めての人だ。
だいたい挿入中は気持ちいいんだけど、本当はもっといろんなとこ触ってほしいし、出来ることなら毎回といわずとも、数回に一辺でいいから最後まで気持ちよくなりたい。
なのになかなか叶わないことに疲れた。
昨日は、彼→私への前戯がほぼなく、多少パンツの上からガシガシとまさぐられただけで十分濡れていない状態で挿入したので、気持ちよくないどころかだんだん痛くなってそれ以上はやめてもらった。
ただ「濡れてなかったから痛くなってしまった」と伝えたら、「体調によってそんなこともあるよ」と優しく頭を撫でられたので、思わず泣いてしまった。
「だいじょうぶ?」も「ごめんね」もない。
その時は彼の腕の中で泣くことしかできなかったが、後日「前戯がなければ濡れない」「少しは責任感じてほしい」という点を泣いて説明して、理解してもらえた。
もちろん私にも、ちゃんと正しいコミュニケーションが取れていないという自責の念があったので、その事は謝った。
再三言うが、私の彼は優しい。
前に「私は中イキできないのに、〇〇君はいつも射精して終わっちゃうのが寂しい」って泣いた時も、ハウトゥ本を買ってくれて、挿入時間を長くして、長い時間気持ちよくしてくれたりとか、前戯も挿入中もクリ触ってくれるようになったりとか、努力してくれてる。
そもそも私の要求自体がどれも自分勝手っていう自覚はあります。
そこでいつも怒らずに、「気をつけるね」って言ってくれる優しい人だから、っていうのにつけこんでる部分もある。
でも、私がイッたイかないに関わらず、向こうが出たらハイおしまいっていう構図、本当に腹が立つほど悲しい。
中イキ出来なくてナーバスになって、いろいろググってみたけど、どれもこれも『セックスはコミュニケーション』『女の努力次第』『愛していれば必ずイケる』みたいに書かれてるの、「おまえはコミュ障だし、努力してないし、相手を愛してもいないから、セックスする資格なんかありませ〜〜〜〜ん」って言われているようで最高に落ち込む。
『イくことがセックスの全てじゃありません』?ウルセーーーー俺はイキてぇんだよ!!!!!
膣トレはちょいちょいやってるけど、効果あるのかはよくわかんない。
彼はわりとマイノリティな性癖を持ってて、彼が装着するそれに関するグッズを一緒に選んであげて、半分お金出したりもしてるんだけど、逆に私が気持ちよくなるようなグッズって、いままで提案されたことない。
パンツの中に手を突っ込まれたことないし、指を入れられたこともない。
いっつも前戯は私7:彼3くらいで終わっちゃうし、首筋も耳も鎖骨もすごい感じるってわかってるはずなのに、まったく触ってもらえないことがほとんど。
これを全部相手に伝えて、いっこいっこ実践してもらっていかなきゃいけないんでしょ、コミュニケーションて。
もう、ほんと、めんどくせーーーーー
でも彼のことは好きだし、セックスもしたくなる。
どうすればいいのかわからなくて、2ヶ月くらいに1回は泣いている現状、どうにかなるならどうにかしたい。
そこまで男やオタクに罪悪感を植え付けてどうしたいわけ?
いや、どうしたいわけって聞いておきながらいちおう分かってるよ、罪悪感によって彼らの加害行動を自制させたいんだろう。
でもその結果はどうよ。
罪悪感と自責感を植え付けられた奴らが、結局その罪悪感をかかえかねて、それに現実人生にも適応できなかったりして、ミソジニーとかフェミ叩きとかに行っちゃってるじゃん。
そんで、自分に罪悪感を植え付けた奴らから抑圧され続けてきたって気持ちを抱いて、オタクvsフェミだの、弱者男性vsフェミとかやらんでもいい対立構図を男やオタが考えちゃって、考えちゃったから半ば実現してる。
お前はダメな子だ、悪い子だ、常に反省と自責の念を持ちなさいって育てられた子供が、メンがヘラって人生ブチ壊れたあげく親をめちゃくちゃ憎悪してる、毒親問題と似たようなもんだよ。
フェミの人らがオタや男たちに対して「私たちはお前らのママじゃない」って言うけど、ある意味ママなんだよ、「毒母」なんだよなあ。
クリスマス(2017)だしもう別れたんでこっそり復活させとくわ
まさか三十路を越えた童貞の俺に恋人ができるなんて思わなかった。
インターネットでリア充を気取る輩どもも、非モテをこじらせてリア充をうらやむ芸風の輩どもも、俺は気にくわなかった。
だから、そういう話で場が盛り上がる度に「そんなことより聞いてくれよ、うちのオカンがさ!」と、だれも聞いていないオカンネタをツイートしてどうにか居場所を確保していた。
おかげでオカンは毎朝起きるとアルミホイルをシャクシャク噛みながら口笛でダイアルアップをしてインターネット株取引にいそしむ化け物になってしまった。この場を借りて深くお詫びしたい。
だが、インターネットでしずかにこじらせていた俺にも好意をむけてくれる奇特な女子が現れたのである。
快活でやさしくてユーモアと好奇心を兼ね備えた年下の才女であり、たいへんかわいらしい。性格カタログと化した往年のエロゲでもなかなかここまでストライクなものはないだろうという高級物件である。
もちろん、俺は三十路童貞よろしく魔法使いとしての矜持をたずさえ、しずかにはげしくこじらせていた。
これはもう確実に騙されているに違いない。
三十路超えの売れないふぁぼられないブクマもつかない顔も目と鼻と口と耳がワンセットついているだけでたいしたことはなく、悪いことに肉は最近落ちなくなってきたうらさびれたインターネット芸人崩れを好きになるわけがない。
そうだろ?
だから当然の帰結として、生身の人間に触れずにオッサンが考えた二次元の女子の一挙手一投足に日夜情欲を昂ぶらせていた自分であるがゆえに、生身の女子がくれる好意の質を勘違いしてとらえているのだろうと手前勝手に得心した。
さもなくば、その好意に乗せられて暴走する俺をどこかで観察してあざ笑っている集団がいるのだろうと考えた。
そういう面白い催しがあるのならば、どうせなら観察する側にいたいものだ。
三十路半ばで人生に対するそれなりのあきらめを身につけた俺は、半ば自嘲とともにイグアスの滝にノーロープで飛び込む芸人になったつもりで好意に乗った。
手もつながずにデートは終わった。中学生男子よろしくゆだった頭がその重要さに気づいたのはデートが終わった後だった。
好意を向けられた相手にデートに誘わせたあげくなにもしなかった俺に、相手は失望しただろう。したはずである。
なにもなかったということは、さすがにかけるコストとして俺が笑いものにされている可能性は低い。
というかそもそも俺は罠にかけて笑いものにされて面白いようなキャラクターではなかった。
こうして浮かれて血迷った頭が人に決断の時を誤認させるのだなあと深夜の公園で砂山に頭をうずめて泣いた。
ふがいなさが、自責の念となり俺を毎夜責め立てるようになった。釣り逃した魚は大きいのであるし、俺はこうしてこの失敗を人生における最大の失敗として二月に一度くらいの頻度で悪夢に見ながら死ぬまで一人であることを責められ続けるのだろうなと覚悟を決めた。
いい夢を見たのだと思って、宝石箱にしまって生きよう。そう思っていたらまたデートに誘われた。
あるデートの時、意を決して家に呼んだ。
向けられていた好意につきあってみたような気持ちでいたはずなのに、いつしか呼吸ができなくなっていた。
胸は本当に苦しくなるのだと知った。右室ブロックの気があるらしいです。ヤバい。
さすがにこの頃になると、お互いにお友達同士のおつきあいではなく異性として認識しているに違いない。
何度となく繰り返された三十路のくたびれたオッサンの咲きかけの恋と葛藤、不完全燃焼のデートの度に膨らんではしぼんでいるのである。
他人事としてみるとこんなに気色悪いものはないのだが、明らかに相手も俺のアタックを待っているのである。
恋に狂った本能はそうだと断じている。しかし、「騙されるな、社会性を失うな」とこじれた理性もまたささやくのである。
「貴様の薄汚い下半身由来の欲求がそういう自分に都合のいい思考を招いているのである。一緒に居て楽しい女子と二人でいられるだけで身に余る幸福だというのに、お前は自分からその幸福を靴で踏みにじろうとしているのだ」
と大脳皮質に棲む天使(メイド服)と悪魔(ブレザー)がドルビーサラウンドでささやく、最近二人の意見が食い違うことがなくなってきた。
いやいや、とはいっても、女の子家によんで、お茶とお菓子だけ飲んでおしゃべりだけして帰るわけないでしょ、平成何年だと思ってんの。
二一世紀に生まれた若造どもが青い性欲をもてあまして図書館トイレ駐輪場でよろしくやってるんですよ中学生じゃないんだからそんな――
――手も、つながずに、デートは終わった。
待ってください、みなさん。ウンコを投げないでください。座布団を持って行かないでください。
みなさんのおしかりはごもっともです、自分でも、こんなに恋愛に向いてないとは思わなかった。
ふがいない右手を切り落としたい衝動を押さえつけて、メールで謝罪文を打ち、その勢いでおつきあいをお願いした。
リンゴが地面に落ちるがごとくオッケーがでた。
客観的に見るとなんなのこのウブなネンネちゃんとしか思えないし、実際そうだ。
相手もここまでつきあってくれるというのは相当の変人か暇人だし、この際もうちょっと押していこう。
ここにきてようやっと足が動きはじめて恋人的な段階が進んでいくわけです。
話が長くなってきたんでノロケはこの辺にしまして、タイトルの伏線を回収したいと思います。
途中段階はとばしますけど初行為をするべくホテルに行ったわけです。
泡の出る風呂とか照明とかで遊んで、テレビをつけて、AVはやめようってんでNHKにしといたんですよ。
あとは存分にイチャイチャして、照明を落として、消毒剤の臭いがするシーツの上に彼女の身体を横たえて、服はうまく脱がせなかったけど、ブラのホックは一発で外せて。いざや鎌倉うちてしやまんって時テレビの音が耳に入るわけです。
非常に耳慣れたBGM。そう、俺はこのBGMをよく知っている……荘厳で重厚で、悲哀をたたえた力尽くで精神をゆさぶってくる力強い音楽……!
彼女の肌の色がまぶしくて目をつぶるだけで経験したはずもない二〇世紀中盤の白黒映像が走馬燈のように流れ去っていく……。
『映像の世紀』
この文字列見るだけであのテーマソング「巴里は燃えているか」が耳に蘇る方多いんじゃないでしょうか。
わかりますよチャンネル変えるとか、音量下げるとかすればいいんですよ。そんなことはわかってるんですよ。
でも壮大な音楽と、うすっぐらいナレーションをバックに慣れない愛撫とかしてるんですよ、背中にファスナー付いてないかとか、カメラがしかけられてるんじゃないかとか、この反応は演技ではないのか、とかそういうことを考えるのに三十路半ばおじさんは必死なんですよ!! チョビ髭の男が演説してる中、ゴムを付け替える俺の身にもなってくださいよ!! ていうか早くしないとこのままだとあのシーンになってしまうじゃないですか!! だが焦るほどになにもかもうまくいかない!! 東京が焦土に!!
なかばやけになってテーマソングのリズムに沿って腰を動かしてたら、新型爆弾が落ちました。
人間としていろいろ申し訳なくなります。この映像とBGMが強力すぎて、俺は今後彼女と肌を重ねる度に「巴里燃え」が自動的にかかる身体に改造されてしまったわけです。
ちょっとした背徳感は恋のエッセンスとかそいういうおためごかしをすっとばして不謹慎きわまりない初体験です。ヒンズー教徒だった前世の俺が牛肉でも食ったのかと言わんばかりの仕打ちに心折れつつも、焦土となった都市の映像に負けない励起状態を維持しようとしている俺に、彼女がようやく口をひらいてくれます。
そう! 俺はずっときみの一言を待っていたいまからでも遅くない助かった! このいまいましいテレビ消そう! 消そうと言ってくれ! この状況がちょっと面白いのはわかるが俺のチキンハートはもう耐えられないんだ!
枕元にあるリモコンをたぐってなんでもいいからチャンネルを変えてくれ――! はやく!
このままでは俺の爆弾が――――
「ん、――不発弾?」
イケませんでした!
(最後の部分をオチ補正のため追記しました、わかりにくくてすみません)
(まだわかりにくいですよ)
(オチがなくて無理やり付け足すからこういうことになるんですね、わかります)
(うるせ-!)
子をもうけるか否かに関する議論を見ていると、不要派が「周囲からの圧力」を不自然なまでに巨大で苛酷なものとして受け止めていることに、違和感をおぼえる。
子ありという既成事実をもつ立場から言わせてもらうと、不要派に対しては別に何の関心も感情もない。
一方、自分自身は自然な流れでそうなっただけで、当時も今も特に強い信念があってこうなったわけではない。
我々も生物であるからには、結婚して子を成すのは生老病死の一部みたいなもんで、そこに思想も信念も何もないと思う。
多くの子ありは、この程度の考えで人生の流れに乗っているだけではないだろうか。
裏を返せば、子を成さずに生きて行こうと思ったら、あのくらいしつこく理論武装して、強く念じて、虐待に耐えても頑張っていると思い込まないと、自分に言い訳が立たないのかもしれない。
こういう傾向は、少子化が進み始めてから特に顕著な気がする。自分が子を成さなくても誰かが成してくれるという回避的思考ができなくなったせいだろう。
子どもがいれば、そういう自責の念から完全にフリーなことは確かで、そこは得といえば得かもしれない。
でも、だからといって子なしの怨嗟を受け止める筋合いはないと思う。
砂に埋もれてくしゃくしゃ
地は侘しく平らかに均された
跡なき力強い御手によって
遺跡に遊び
ポリ袋を叩いて鳴らした
勇敢なる男たちと女たちは神を敬愛し
朽ちた襤褸たちの知るところとなった
口ずさむ:私を愛していますか?
私をおぼえていますか?
私のうえに雪がつもる
幾重にも幾重にも層を成して:
これも神の掌のうちなのか
他の娘たちは埋葬される
無縁墓地*4の土のなかへ
日々を刻んで通りすぎる
二万の死者たちがあなたの歩みに寄り添うところ
気だるい鳥達のさえずりのなかで失われていった彼らの死因
彼らの残した記録はどうしたって謎めいている
すべては廃れて消えた
蛍光なしではね
私もがんばってきたんだよ でも
私の愛していたものを思い出して、私を抱きしめて、なんて言わない
なんどもなんども医者を呼んだ
そして絵の中に生きる
彼は言った:
「大丈夫」
「もう終わったよ」
そして飛行機に乗った
ベルトを締めずに
彼はとんでもない向こう見ずで有名で
“ぼうや”と呼ばれ
落下へと突き進んでいった*7
そして私たちは水準をあげる
狩人たちは
そして驚きをもって見つめて
私たちの髪をピンと逆立てると誓って
慈悲を! 神よ!
出て行って、狩人が石碑を解読するのを待って*9
この街の下に何が横たわり、去っていったのか
見よ、そして絶望せよ
見よ、そして絶望せよ
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1 シェリーの詩『オジマンディアス』より。古代エジプトの「王のなかの王」オジマンディアスを詠った詩。このあと続く砂漠や遺跡のイメージはシェリーの詩に準じている。全体をつらぬくモチーフでもある。
3 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作の絵画についてのエピソード。この作品は長いあいだ、旧約聖書外典トビト記を下敷きにしたポピュラーな宗教画モチーフ「トビアスと大天使ラフェエル」の絵だと信じられてきたが、のちの研究でもともと「母親と子供」の図として描かれたものをティツィアーノの弟子が宗教画へ改変したものと判明した。
ちなみに「トビアスと大天使ラフェエル」はこんな話。ユダヤの盲人トビトの息子トビアスは、父親から昔貸した金を回収するように命じられてメディアの地まで旅をする。そのとき同行者として大天使ラファエルがトビアスについてくる。トビアスは旅から帰るまで、自分の同行者がラファエルだと気づかなかった。
4 歌詞では「potter’s field ポッターズフィールド」。無縁墓地を指す。語源は新約聖書のマタイの福音書。銀貨三十枚でキリストを売ったユダは自責の念からクビをつって自殺。ユダから押し付けられた銀貨のあつかいに困った祭司長たちは陶器職人(potter)の地所を購入し、行旅死亡人の墓地に定めた。
5 ワシントン・スクエア公園のこと。パリの凱旋門をモデルにしたワシントン・スクエア・アーチが建っている。もともとは貧困者用の無縁墓地で、今もその下には2万人以上の遺体が埋まっているという。
6 オーストラリア人画家アーサー・ストリートンの絵『Spring』の元ネタになった人物のこと。ストリートンの恋人だったらしい。
7 「ニューヨークの市長坊や」の異名を取ったジョン・パーロイ・ミッチェルは1914年から17年までの三年間、ニューヨーク市の市長を務めた人物。彼は当時ニューヨークを仕切っていた悪名高き集票マシーン(一種の政治団体)タマニー・ホールと激しく対立し、17年の選挙で落選するや第一次世界大戦に参加するため空軍へ入隊した。入隊の翌年、彼は飛行訓練中の事故で死亡。原因はシートベルトを締めなかったことによる落下事故だったという。
たとえば中二病。これは中学生で発症して成人前に治った場合と、成人後に発症した場合で、その後の人間関係に与える悪影響はかなり違うのではなかろうか。
恋愛や性関係の痛い行動についても似たことが言えるかもしれない。私はこれについては成人発症さえしていない人間なので、何も述べられないが。
大まかに言って、成人前の失敗や挫折については社会は比較的寛容である。
失敗・挫折する方もまだ精神に柔軟性があり、方向修正が可能だし、復帰のためのサポートも得やすい。やり直す時間と体力もある。
若いうちに一度軽く痛い目を見て、取り返しのつかない失敗する前に学ぶというのは、とても重要なことに違いない。
西伊豆電気柵の件のニュースを見て考えたのだが、これは鬱状態に関してもある程度当てはまるのではないだろうか。
ミドルクライシスという単語があるように、40代・50代の中年男性で自殺や鬱が増えるのは知られている通り。
もちろん、年齢的に様々な責任を抱えて悩みの増える時期だというのもある。が、人生それなりに順調だった人が中年以降に鬱状態に陥ると、鬱が悪化し易いということも考えられるのではないか?
若いうちに鬱状態を経験していると、希死念慮は症状の一環であることや、その手前の段階で「これ以上悪化すると死にたくなる、休まねば」と思うような、自分を鬱患者として客観的に見る視点が出来る。
そうすると、後年になって何か問題が発生し鬱状態になったとき、自責の念に駆られて自殺する前に、病院へ行くという選択肢を持つことができるのではないか。
もちろん、だから若いうちに鬱になっておきましょうという意味ではない。
だが、もしこの考えが当たっているなら、周囲の人間の心構えとして「人生順調だった人が死にたいなどと言い出したら本気でまずい」という認識を持つことは大切だ。
また過去に鬱になってそれを越えることができた人は、人生の後半に訪れる危機に対して備えが出来たのだ、と考えてもいいのではないだろうか。
回答:
理性では自殺と無関係とわかっている「完全自殺マニュアル」の 編者に対し、
仕事のクライアントであるにも関わらず「文句」をいってしまう。
これは残された者が苛まれるであろう理不尽さや苦悩を表しており
『絶歌』の筆者により被害にあった被害者および遺族のいる立場を暗示している。
そしてこのことは中川氏が『絶歌』の筆者に「あぁ、何もわかっていない」という
感情を抱いたことに理解を促すエピソードとして作用していると考える。
元増田はこの理解が出来ておらず(もしくはブックマーク獲得のため
わざと無視して)結果、『絶歌』の筆者を擁護する論旨を表すに至ったと考える。
<324字>
別に、自分が仕事の都合で自殺しても、他人には知ったこっちゃない。
だから、自分には、好きな時に仕事の都合で自殺する権利がある。
自分が自殺することによって相手が自責の念に駆られようが、恨まれようが、俺には知ったこっちゃない。だって、相手は、俺の仕事の都合を理解しなかったのだから、お互い様だ。
自分が本当に自殺するのなら、別に、その前に何が起こったって、自分には知ったこっちゃない。
だから、生前に、「お前は俺に死んで欲しいんだろ!人殺し!」と相手をなじってから自殺する権利も自分にはある。遺書に、「お前のせいで死にました」と書いて自殺する権利も、自分にはある。
自分が自殺することによって相手が自責の念に駆られようが、恨まれようが、俺には知ったこっちゃない。だって、相手は、俺の仕事の都合を理解しなかったのだから、お互い様だ。
だから、他人を「人殺し!」となじる権利が、自分にはある。自分が自殺するまでの間が、ただ、ちょっと長いだけなのだ。
「お前のせいで俺は自殺しました」と俺が遺書を書いて死にさえすれば、相手は「人殺し!」となじられてもおかしくない状況に追い込まれるのだから、俺が自殺する前にそう言ったところで、ちょっと前後するだけで大差ないはずだ。