はてなキーワード: 正義の味方とは
吉良姓を受け継いだ吉良上野介の子孫はいない。(後に別家が吉良の名を継いだ形で、子孫の方は上杉家や畠山家等におられる)
三河地方に吉良の領地があったのは元禄16年(1703年)までで、それ以降は吉良と三河地方との関係は無い。
近年「実は吉良上野介は地元では名君」っていう話をよく聞くようになった。
「吉良上野介は名君」って言う説を知っている人も多いだろう。
で、その「吉良の地元ってどこだ?」って話になると
案外、知ってる人が少なかったり誤解している人が多かったりすると思う。
恥ずかしながら私もそうで、
三河地方っていうのは知っていたのだけれど
この辺には歴史的な経緯があるそうで、
その後、これら土地は、あちこちの藩やら寺社、旗本の領地なんかに吸収されて
(こういう状態で「吉良の地元」という意識が受け継がれてきたというのには少し無理があるような)
その後、昭和三十年に 横須賀村と吉田町が合併して吉良町が生まれる。
(余談だが吉良には雲母の意があったという)
歴史を知っている人でも、吉良上野介は大昔の隣の殿様という扱いで
古くからの西尾市の人に「吉良上野介の地元」と言われると変な顔をされたわけだ。
んで、もう少し突っ込んで話を聞いてみると、
西尾藩の領民が、吉良が作った堤防により水害が発生して苦しんでいたので
こういう逸話があるぐらいなんで旧西尾藩の地域の人にとっては、
「吉良上野介は地元では名君とされている」と言われるのに抵抗があるみたい。
吉良上野介を地域の名君として賞賛する教育を西尾市の全域で行っているとのこと。
それで地元とは言えない所の子供達にまで「地元の名君」と教えられているそうな。
(吉良の堤防による洪水で、エライ目に遭ってた所だったりしたら洒落にならんな)
調べてみると、
吉良上野介が黄金堤を作って地域の開発に役立ったのかからして怪しいという。
残された絵図面なんかをみると、この地域にあった鎧が淵の新田開発で
近年になって「吉良つながり」で、吉良上野介が担ぎ出されてきたっぽい。
でも、そういう都合で「新しい歴史」をつくっちゃて
堤防などの治水等で名代官と言われる鳥山牛之助(さきほどでた新田開発のトラブルの調停もしている)
なんかの話が、わりとしっかり記録や文献をたどれるのに殆ど注目されなくて、
「らしい」という話しかない吉良上野介だけが「地元の名君」って言われて教育現場で広められている状況は、
なんだかなぁって思ったりする。
吉良上野介が名君であったという話に「吉良の赤馬」という郷土玩具をセットにする人が多い。
「吉良上野介義央は治水事業に心を寄せ、領内の水害を防ぐため、黄金堤を築き、自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたりました。その姿は威風堂々とし、愛馬も大変立派であったので、領民はこれを称えいつしか赤馬と呼ぶようになりました。領内の村に住んでいた村人が江戸・天保年間に子どもの玩具として作ったのが始まりです」
とある。
いわゆる赤穂浪士の討ち入りが元禄15年末(1703年の1月)。
三河の領地を取り上げられる裁定が下ったのが元禄16年(1703年)になる。
「領内の村に住んでいた村人」と言っても、
その時には吉良領は跡形もなくなっている。
昔、吉良の領民だった人も既に死に絶えた後のはず。
実際の記録では吉良上野介が三河の領地を訪れたのは生涯一回だけだったらしい。
直に吉良上野介を見た村人が、後に玩具を作り出したとかいう話なら、
まだなんとなくわかる気がするのだけれど、
百年以上前に一回だけ訪れた殿様の馬を、
わざわざ玩具にしようというのいうのは変だよなぁ。
天保年間には別の殿様が治めている状況なのに。
調べると、さらに興味深い話が出てきて、
この時点では「白馬」なのね。
もし本当に赤馬と吉良上野介の話が元になっていたのなら、
突然、殿様に白馬ってのは出てこないよなぁ
「自ら愛馬赤馬に乗り巡視にあたった」という話自体が後から出た感じがする。
もちろん、こういうのは商品を開発したり売る人が、
色々面白おかしく「いわれ」を主張するのは別に良いと思うのだが、
このエントリーは「吉良上野介が地元では名君」という説が「ちょっと変」っていう話で、
だからといって、これだけでは「名君ではない」とまで言えない。
(西尾藩の領民に洪水被害を出した伝承とかは、ちょっとふれたが)
「名君だと言うならもその根拠資料を出せ」と言っている所もあるそうな。
「吉良上野介が名君だった」という人は、きちんとした資料を出してやれば良いと思うよ。
それを元にして、地域教育とかを書き直していく必要があるんじゃないのかな。
少なくとも教育委員会とか自治体が、根拠に疑問が持たれる話を持ち出して
へんな形で「地元の名君」を作り出そうとするような状態は良くないなぁと。
もっとも「実は、吉良が名君という話は怪しい」というのは、
中々メディアとかでは取り上げにくい話だと思う。
実は「正義の味方だった」と言うのは受けるだろうが
例えば「イメージ通りの悪い人でした」と言っても、
そこには話題性も何も無いわけだ。
この点は、なかなか興味深くて、
必ずしも同じように拡散するわけでは無くて、
このまま誰も異議を唱えないまま残ってしまうんじゃ無かろうか。
とか思ってたら、wikiとかにもわりと詳しく書いてあったわ。
最初に見た他人のレビューが安っぽく狂気狂気と書き立てるものばかりで失望した。アーサーは狂ってなんかいない。むしろ最初から最後まで一貫して、彼には完全な判断力があったし、正気だった。
僕が一番好きだったのはゲーリーを逃がすところだ。この映画のそれ以外の全てと釣り合うほどに素晴らしかった。映画史に残る名シーンだと思う。
家に二人で訪ねてきた元同僚の片方を滅多刺しにして殺し、もう一人も手にかける——、手にかけるだろうと、そう観客は予想する。しかしアーサーは彼の事は見逃した。行っていいと。しかしドアの鍵が閉まっており、小人症で手が届かない彼が、殺人者である当のアーサーに開けてくれと頼む。アーサーは鍵を開けてやり、彼を送り出す。ただ気紛れに見逃したのではなく、ゲーリーのことは本当に殺すつもりがなかったのだと、ここではダメ押しでそう強く明示して見せているのだ。「優しかったのは君だけだ」と額にキスまでして。
なんて涙ぐましいシーンだろうか。アーサーはただ愛が欲しかっただけだ。誰かに愛されたくて仕方がなかったんだろう。愛されればそれに報いることができる正常な人間だった。正常だからこそ、自分に降りかかった世間の悪意に正しく報いて、彼はジョーカーになったのだ。映画的なレトリックでそれを説明し果せている。この直後に初めて、あの紫のスーツの、お馴染みのジョーカーの姿になり、あの階段を下った。晴れ晴れとダンスを踊りながら。しかしゲーリーとのあの別れの直後だけに、どこか空っぽの乾いた悲しみを感じさせる。
「優しかったのは君だけだ。」アーサーはすべて、ちゃんと言葉にして語っていた。正常な知能と判断力の賜物だ。ウェインを訪ねた時も。金が目的だろうと言われ、違う、そうじゃない、欲しいのは温もりとハグなんだと、言葉にしてちゃんと主張してみせている。しかし、返ってきたのは暴力だった。最後にTV番組に出演した時も、司会者に自分の主張を過不足なく説明している。何もない奴を笑いものにし、足蹴にするとどうなるのか見せてやると。そして銃で撃ち抜いた。
作中の事件を伝えるニュースでは、犯行の動機として「格差」があると触れている。これも良く計算されて織り込まれていたと思う。今この時代に、悪役を主人公としたこの映画が作られたことの必然性がここにある。
証券会社の三人組も、チャップリンの映画を見ているシーンでも、金持ちたちは皆、小綺麗な黒のスーツを着ていたのが印象的だった。これは明らかに意図的なものだ。創作作品一般の「悪者は黒色で表される」という不文律を上手く利用して、アーサーの目から見た世界を描いているのだ。彼にとって上流階級とは自分を疎外し苦しめる悪者でしかなかったから。ここに善悪の相対化が、全くの反転がある。「狂っているのは俺か?それとも世界の方か?」という序盤の問いかけは、敢えてこう言い換えてもいいだろう。「冷酷な殺人鬼とは俺の事か? それはあいつらの方じゃないか。」
小綺麗でピカピカな正義のヒーローが、正しい暴力を振るって悪者を懲らしめる。その昔ヒーローものといえばどれもこんな風だった。単純化されたストーリー。分かりやすい善悪。悪者はボコボコにされて言葉を奪われ抗議することもできない。何故ならその暴力は「正しい」のだから当然だ。
みんなヒーローの方に自分を重ねていた。勿論バットマンを見て育った子供たちも。しかし現代ではこの悪者の側に感情移入する人も多いのではないだろうか。やんごとなき上流階級の人々が、政治的に正しい暴力を振るい、庶民を搾取し痛めつける。この社会にそっくりだ。皆自分が殴られる悪者の方なのだとうっすらと自覚している。小汚い貧乏人には抗議する権利もない。何故ならその暴力は「正しい」からだ。“悪者”は黙って殴られていろと、社会システムが無言で言っている。
誰がやりたくて悪者をやるだろうか。誰が好き好んで罪を犯すだろうかと、今になって分かるのだ。あのピカピカの正義の味方に殴られていた「やられ役」は、生きていく中で仕方なくそうせざるを得なかった「弱者」ではなかったか?
僕はその後、更に他人の書いたレビューを読んでみて、やはり憤りを禁じ得なかった。
何も持っていないゆとりの無い人間に対して、それなりに足りてる奴が、安全な場所から、もっとこうすれば良かったとか、小人症の男と仲良くすれば良かったのにとか、あまつさえ大して不幸じゃないとか、上から目線の薄っぺらい正論を、自己責任論を披露する。それは正義の味方が「わるもの」を力一杯ぶん殴る構図そのものではないのか。
この映画に共感せずに済むような人たちは、自分がどれだけ恵まれていたかに気付いてない。絶望的に愛情に飢えていて、精神的なゆとりを根こそぎ奪われた人間が、どれだけ不自由でままならないか。それを知らずに済んだ幸運な人たちだ。「こうすれば良かったのに」だと? それができたらああはなってないだろ。「お前は怠けている」とでも言いたいんだろうか。できるならとっくにやっているのに。
「不幸すぎないから共感を生んだのでは」という意見は、少し違うと思った。少しズレている。正確に言うとこれは「福祉の谷間問題」なのだと思う。歩けなくて車椅子とか、目が見えなくて杖をついてるとか。誰の目にも明らかな障害者なら公的な支援を受けられるし、みんなに助けてもらえる。でも微妙な障害だったら? 見た目が普通で症状が分からない、健常者と同じように扱われるのに、しかし健常者ではない。実際には軽微な障害があり、仕事や日常生活で「現に」困っている。困っているのに、誰も助けてくれない。こういうのを福祉の谷間という。発達障害やチックなんかがそうだ。或いはアーサーみたいな、感情が高ぶると笑ってしまうという障害もまさしくそれだった。周りからはそれが障害だと分からないのだ。本人はとても苦しんでいるのに。そして誤解と偏見に満ちた視線のせいで二重に苦しむ事になる。それはこの映画に「大して不幸じゃないじゃん」と言い放った人たちの正にその視線である。ここに地獄がある。
“有色人種なら贔屓してもらえたのに” 白人だから何もない、自分は現に困っているのに、何の手助けも受けられない、ホワイトトラッシュと呼ばれる人たちも、谷間問題という意味では本質的に同じだった。彼らは事実ジョーカーみたいな政治家を支持した——。ドナルド・トランプだ。この映画はこういう人たちの共感を生んだのだと思う。だから社会現象になったのは必然と言えるし、解釈に分断が起こり、理解できる人とできない人とで真っ二つに分かれてしまったのも、必然だったのだろう。
犯人だけの問題だったにも関わらず、正義の味方として意味不明な活動をし
でも、それをやっていた奴らは「正義が勝つ!」とでも言うんでしょう?
犯人に対してやっていいのは「被害者のみ」で部外者は出て行くなよ。
勝手に盛り上がって部外者があーだこーだやっていいレベルじゃないだろう。
それで反撃しようものなら「やっぱり犯罪者の家族は」と言い出すだろうからな。
正義の剣を持ちたいやつらでいっぱいなんだろうな。
正義の剣が偽者で、本当は被害者が持って行動するか決める権限があるのに
部外者が振り回して犯罪者だけならず他のやつまで殺しちゃうんだからな。
怖いなぁ。こんな世の中。
ま、すべて妄想だけどあり得るよね。
スウェーデンの16歳少女が国連で怒りのスピーチをしてから、なんだか温暖化に無関心なのは居心地が悪い。
彼女の怒りは理解できる。そんなに怒らんでも、とは思うが、子どもにはその権利がある。
でも彼女への支持を急に表明し始めた大人たちには、なんかもやもやとしたものを捨て切れないでいる。
彼らは、温暖化が進んでいます、どうにかしましょう、という至極真っ当な意見に支持を述べたに過ぎないにも関わらず。
君たち、急に正義の味方するのは結構だけども、これまで知らんぷりだったじゃないか。言っとくけど、君たちも彼女たちから怒りを向けられる側だからね。
例の国連のスピーチと我が国の大臣のアホっぷりで俄かに注目を集めた気候変動は、今に始まった話じゃない。
企業はあの頃からずっと少しずつ省エネだなんだと、曲がりなりにも努力してきたんだよ。
毎年出してるなんちゃら報告書みたいなの読んでみればいい。二酸化炭素〇〇%減らしました、とかどこの企業もやってるよ。毎年。
もちろんそれが十分とは言わないし、評価しろ、とも言わんけど、君たち何もこっちに言ってこなかったじゃない。
そういう話を無視して、例の少女をひたすら持ち上げたり、ちょっと某ショップがデモのための休みを認めただけでエシカルだなんだと褒め称えたり、恥ずかしくないのかな。
例の彼女に賛意を示したり、シンパシーを感じたところで、罪は消えないよ。
君たちは現在目の敵にしてるようなやつらとこれまで散々一緒にやってきたんだよ。
これから必要になる温暖化対策って、こまめに電気消しましょうとか、マイボトル持ち歩きましょう、みたいな小さい話じゃない。技術革新に期待、みたいなタイムラインでもない。
それこそ原発をまた動かそうとか、フランスで起きたイエローベスト運動の原因にあったような炭素税とか、キツい話ばっかだよ。極端に言えば、人を殺す可能性すらある。
そういう話だよ。
これは恨み言。
無邪気で無責任な君たちへの恨み言だ。
また、心を盗まれた。
言うまでもなく、ペルソナ5THE ROYALのことだ。
発売日が決定してすぐに有給を取得し、万全の体制で臨み、5連休が終わる直前にクリアした。(クリアできたのは八十稲羽の大神の力による所が大きかった)
あまりにも、あまりにも素晴らしかったので、2周目に突入する前に、作中の「怪盗信者」である三島のように、テキストエディタを立ち上げ、「僕らの光」を何度も流しながら、支離滅裂でキモいテキストを書き散らしている
ペルソナシリーズの存在を名前だけは知っていたが、普段ゲームなぞ殆どしない自分は、2016年の秋、8年ぶりに同シリーズの最新ナンバリングタイトルが出るという素晴らしいニュースがあったことすら露知らず、どうしてもやりたかったうたわれるもの二人の白皇の為に、PS4を購入して(こちらも言うまでもないほどのADVの大傑作だ)プレイし、Suaraが歌う、ボーカル付のシーンで涙を流していた。
それ以外やりたいソフトも無く、当時大学生で暇を持て余していた自分は、近場の家電量販店に行き、たまたま見つけた赤と黒のソフトを手に取っていた。
それがペルソナ5との、ひいてはペルソナシリーズの出会いだった。その世界にあまりにハマってしまったせいで、ペルソナ5を通算500時間ほどプレイした。そしてペルソナ3で命の答えにたどり着き、ペルソナ4ザ・ゴールデンで霧を晴らし真実を見つけ出した。それでも飽き足らず(無印と2はまだやっていないにわかにではあるが)アニメを見て映画を見て、アリーナで闘い、ダンスを踊った。
ペルソナ5は現実世界と認知世界(というもう一つの現実との)と東京という「現実」にある世界の3要素が絶妙にリンクしていて、ある意味残酷とすら思えるほどの没入感を与えることに成功している。
教室で自分の目の前に座っている杏、竜司とともに食べた荻窪のラーメン、真と共に闘ったパレス、双葉と共に食べたカレー、春と飲んだコーヒー…一緒に眠ったモルガナ…「痛み」を共有した仲間たちとの楽しくどこかくすぐったいような日々だけではない。無気力な大衆、どこにでもいそうなパレスの主たちまで、確かに存在する。
そして、プレイを終えたあと、自分は確かに怪盗団であったこと、しかしこの世界には怪盗団がいないということを実感せずにはいられない。
ペルソナ5の物語は、当事者になってしまった鴨志田事件から、真加入の前半は勧善懲悪的な物語であり、中盤は、大衆の期待に煽られていき、「人一倍許せないこと」があり、それを貫いていく、という怪盗団のポリシーがブレはじめ、絶頂と凋落を味わう。
終盤はその大衆の集合的無意識を切り口として、人々の世界のどこにでもありふれている閉塞と怠惰の中で、それでも人間には前進していく・立ち向かっていく意志と希望があり、(矛盾しているが)それらを自ら選択していくエンドである。
「人間の希望を集めて作られた」モルガナが「人間には、世界を変える力がある。今はそれをほんの少し忘れてしまっているだけ」という台詞であらわされるように、作中には「意志と選択」がありふれている。
その最たるものとして、主人公は獅童の事件の証言者として、警察に出頭し、少年院に入ってしまうことになるわけだが、「痛み」を共有した仲間たちが主人公の冤罪を証明する。
作品の答えが、そして作品のテーマであった「真なる更生」が果たされる。彼らの「意志」はわれわれの現実にも還元され、ありふれた怠惰と閉塞の世界で、「ほんの少し」忘れていた希望と意思を思い出す。
さて、ペルソナ5 THE ROYALでは、そんな「意志と選択」の物語であったペルソナ5から、今回の「ROYAL」な3学期では、異なるシチュエーションで「意志と選択」の物語が繰り広げられることになる
パーフェクトであった物語に、一学期から当然のように追加される新しい登場人物たち。
言うまでもなく、芳澤すみれと丸喜拓人のことだ。ネタバレになってしまうが、二人には共通点がある、「大切な人」を失ったという「痛み」を持っている点だ。丸喜拓人は恋人を、芳澤すみれは、姉であった「芳澤かすみ」と自分自身「芳澤すみれ」である。丸喜は恋人であった留美の家族が殺されたショックで、留美が廃人になる。
芳澤すみれは、世界を獲ると共に誓った姉を、自らの不注意で事故に遭わせてしまい、失う。
丸喜は「彼女を救いたい」という「願い」をもって、ペルソナを覚醒させ、留美を救った代償に、留美は丸喜のことを忘れる。
すみれは「かすみになりたい」という「願い」を持ち、それを丸喜が認知を「曲解」させることで、すみれは自身を「かすみ」と認識して生きていく。その代償にすみれはすみれ自身を失う。
3学期に解禁されるすみれコープにおいて、芳澤すみれは「かすみ」のように凛々とした少女ではなく、いつも姉の背中を追いかけている内気な少女として描かれる。
かすみの影から自ら脱却し自分の意志で歩み始める。彼女のコープで、下していた髪を再度括るシーンは、かすみの持っていた強い目が、すみれの中に宿っていた。
すみれの強さと脆さ、そして主人公や丸喜にすがってしまう点は「怪盗団」の女性にはない、どこかギャルゲーチックなトラウマの向き合い方で大変好みだっただけに、もう少し長く仲間として使いたかったという本音もある。
話しを怪盗団に戻そう。怪盗団が無意識にも願っていた願いが叶えられた世界。「幸福な幻想」の中にいる怪盗団は、自分たちが「現実にいない」ということにすら気が付かない。彼らが無意識にも願っていた願いが変えられた世界。モルガナは人間になり、竜司は陸上を続け、杏は志穂と共に過ごす。真や春には父がいて、双葉には母もいる。かすみはかすみとして、凛々とそこにいる。ただ、主人公だけであるジョーカーは違うかのように描かれる。現実が、現実ではない感覚。彼は同じようにここが現実ではないと気がついていた明智、そしてパレスを見つけていた芳澤と協力して、元の世界へ戻ろうと調査を始める。
パレスを発見したのち、戦力を増やすためにもまず、ジョーカーは一人一人一味を説得していくわけだが、改めてジョーカーの精神的な意志の強さには驚嘆する。彼は問いかける「これで本当に幸せか?」自ら痛みを乗り越え、選ばなければ意味がなかったんじゃないのか?
仲間たちは気がつく。竜司の言葉でいうなら「あいつの言葉が正しいと思ったからなのかも」
その瞬間、幻想は打ち砕かれる。
丸喜は「みんなが幸せに暮らす」世界を作りだすことによって全てを救おうとする。そのことに気がついた時、怪盗団は今まで考えていなかった、改心することの是非を問われる。という問いにぶつかる。しかし!目を覚ました怪盗団の答えは自明である。「幸福」よりも「意志と選択」を尊ぶのだ。例え、その現実が幸福なものでなかったとしても。
丸喜は叫ぶ「僕は君たちも救いたいんだ」そして、共闘している明智という存在が「ジョーカーがもう一度闘いたい」という願いに丸喜が応えたことによって生まれた存在だということを明す。そして、明智は自らの存在のことを知りながらも、主人公に、自らの「意志」を貫くよう勧める。明智らしい、突き放すような言い方で。
その時、私はそうか、と少し嬉しくと思う。ジョーカーにも、きちんと願いがあり、後悔があったのかと。あまりにも強靭な精神を持っているので忘れていた。私ははじめてジョーカーが真なる意味で「我々の仮面」になったような実感を得た。
そこから先はもう言うまでもなく、「歪んだ善意」と「まっすぐな意志」との対決である。本来怪盗団に改心することの是非や葛藤など必要ではない。大義名分を気にしてるようでは怪盗団なんかやってないからだ。確かに今回の丸喜は根っからの悪人ではないし、どこか衛宮士郎を彷彿とさせるような一種の正義の味方だと思う。それでも、怪盗団にとっては悪人なのだ、自分の力でまだ見ぬ未来を切り開いていく障害になるものは。
ラストバトルで、ジョーカーは仮面を外し、丸喜といかにも陰キャな殴り合いを行う。少し狙いすぎるきらいはあるが、その青臭さと眩しさを再度確認できただけでも、ペルソナ5THE ROYALは最高の物語であったと私は言える。
エンディングムービにおいて、丸喜はタクシー運転手として主人公を駅まで載せていくシーンがあり「大人になってから失敗しても、もう一度やり直せる。それが僕の復讐かな」(大意)丸喜も見事に未来をつかむことが出来たのだと思い、うれしくなる。
見送りの際にかすみが現れないのも、怪盗団の見送りがやけにあっさりしている所も、自らの「意志」によって、自分だけの道を歩みはじめたことの証左だろう。新幹線のホームで、「前を向いて歩けよ」という声がする。前を向くと、強い目をした「すみれ」がいる。「それでは」という挨拶だけを交わして、二人はすれ違っていく。前を向いて進む、だが、二人は同じ方向を向いていない。なんと素晴らしい別れ方だろうか。
かすみと、怪盗団と、もう一度会いたいと思わずにいられない。もう一度、ありふれた閉塞と怠惰から、未来を切り開くために。そして別れをする為に。その為に何度もペルソナ5THE ROYALを周回し、そのたびに、自分自身の心の中に怪盗団があることを確認するだろう。
大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件の前田恒彦が、「痴漢や盗撮、児童買春までも 皇位継承で55万人に「棚ボタ」恩赦、時代遅れの遺物では」というタイトルで記事を書いていて、相当悪質なんだが。
https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20191022-00147838/
この前田恒彦を見ても、痴漢、盗撮、児童買春と、性犯罪を出せば正義の味方のフリして自分が免罪されるだろうとか思ってるんだよな。
(性犯罪は再犯率が高いから?それはデマで、前の関係ない軽犯罪の窃盗とかも含めてるからだよ)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1355016583
時代遅れなのは、前田恒彦のように公権力側の悪質な捏造への犯罪が凶悪犯罪だと認識されずに、刑が軽いことだろ。
前田恒彦って、検察もそうだが、犯罪率が高い警察の犯罪も言わずに、
「庶民がこれだけ悪いことをやってる、特に庶民の性犯罪を見てください」と言って、検察や警察の犯罪を隠蔽しようとしてるわけよ。
時代遅れの遺物なのは、公権力での前田恒彦のような悪質な犯罪者を、世間が許しすぎてることだろ。
警察も性犯罪を利用して、性犯罪対策をしてるんです!だから、警察への批判はやめろ!という態度が透けて見えるんだよな。
まじめに言うと、「主人公たちが完全な善ではないから」「正義に対して疑問符をつけながらも、少年漫画の王道だから 」。
主人公のルフィは海賊なので、世間的には正義の味方ではないんだよ。
むしろ海賊と敵対する、海軍のほうに世間的な正義がある。文字通り、海軍は背中に「正義」 と書かれたマントを背負ってるしね。
だけど、正義を背負っているはずの海軍も、完全な善性を持っているわけではない。立場に甘んじて、ズルをしたり支配したり、弾圧をしたりする。こういうのってリアルだよね、権力の描き方として。
あと、主人公たちが求めるのは正義ではなくて、自由。ルフィたちが何と戦っているかというと、支配に対して戦ってる。体制をなんとか維持しようとする海軍はじめ権力と、それに囚われず、自由を求める海賊の戦い。
これ、いつの時代も変わらない、少年のための熱い物語じゃない?
もちろん欺瞞でもあると思うけど。
今は悪い事をした人が幸せになれる時代です。みなさん、悪い事を進んでしましょう。一日一悪、三日で千悪。
そこに停められた一台のキッチンカーの中で、俺は粗末なアイスを売っていた。
風が吹けば桶屋が儲かるのは大した理屈じゃないけれど、夏になったらアイスが売れるのは真理だ。
そして、悪者が出てくれば正義の味方が現れるように、夏になればアイス売りが沸いてくるのも自然の摂理である。
「あの、この『プレーンソーダ味・ソーダ抜き』って何ですか?」
「着色料や甘味料などを加えていないソーダ水からソーダを抜いて、それをアイスキャンデーにしたやつです」
「うーん……つまり、それって氷なんじゃ……」
「まあ、実質的には氷ですね」
「こらマスダ! マスダこら! 何を言うとねん! 氷に棒は突き刺さってないやろ!?」
もちろん、こんな足元を見た商売、俺自ら進んでやっているわけじゃない。
まだ昨年はマトモだったけど、今回のやり方には少し呆れている。
「ちゃうちゃう、これは『氷塊』やなくて『氷菓』。ただの氷に『プレーンソーダ味・ソーダ抜き』なんて書くと思うか?」
大した理屈じゃないし、当人もそれを分かった上で言いくるめようとするから性質が悪い。
「コミケかて“販売”やなくて“頒布”っていうやろ? 繊細な言い方がモノの価値と、物事を確立させんねん」
「それは欺瞞なんじゃ……」
「百歩譲って欺瞞やとして、それの何が悪いねん。建前のない、厳格なルールでしか成立しない社会なんぞ誰も得せえへんわい」
「それに、これ一本だけでやっとるわけちゃう。本命は、こっちのフレーバーや!」
そう言って、カン先輩は別のアイスキャンデーを突き出してきた。
ドドメ色で美味そうには見えないが、これ見よがしに出してきたので自慢の商品らしい。
作り方はこうだ。
まず色んなメーカーのジュースを数種買ってきて、それらを混ぜる。
「配分に関しては企業秘密や」
そう言っていたけど、買ってきたジュースは余すことなく混ぜているし、恐らくテキトーに作っていると思う。
そして、それを専用の型に流し込み、棒を刺しこんで凍らせれば完成だ。
ジュースを混ぜただけなので味は悪くないが、ガチガチに凍っていて食べにくい、粗末なアイスキャンデーだ。
さらに型も棒も知り合いからタダ同然に手に入れたらしいので、元手はほぼかかっていない。
「や、でも冷凍にかかった電気代だとか、キッチンカーの維持費だとかはあるで」
それを加味しても、これ一本に缶ジュースより高い値段をつけるのは、控えめに言っても強気だろう。
「正義かどうかはともかく、そりゃあ氷菓だから需要自体はあるでしょ」
厚生労働省によると、アイスの分類は乳固形分や乳脂肪によって決まるんだとか。
多い順にアイスクリーム、アイスミルク、ラクトアイスとなり、ほぼ含まれていないものは氷菓と呼ばれる。
プレーンなんていうふざけたメニューがあるのも、本命商品と対比させるためだろう。
まあ、買う奴も、買う奴だが。
「儲けの9割はアホな奴から得るねん。商売の基本や。賢い消費者をターゲットにするんやったら、こんなところでアイスなんか売らん」
下記ブログに感銘を受けたので、噂のセッションを聞いていた女性エンジニアの一人として、乱雑になるかもしれないですが意見を書かせてください。
https://anond.hatelabo.jp/20190902021257
まず、8/29当日の話をしようと思います。最初から最後まで前夜祭にいた私はセッションに散々笑ったり、内心ツッコミを入れたりしつつ、大満足で帰宅しました。
残念ながら婚活アプリにもマッチングアプリにも興味がないので、CROSS MEが何かは知らなかったのですが、『黒髪メガネ女子とマッチング』辺りで内容は普通に想像できていましたし、概ねその通りの内容でした。
概ね、と言ったのはCROSS MEの「近くにいた人と出会える」という仕組みについて、ふうん、登録した人がただひたすら延々と出てくる感じじゃないんだー、と感心しつつ、想像していたマッチングの仕組みを脳内修正したからです。
この時点で大した反感も持たず、普通にセッションを満喫していたことがわかってもらえるのではないかと思います。
また、仕事の都合で来ることができなかった友人に前夜祭の各セッションについて実況のようなものを送りつけていましたが、彼女も普通にすべて面白がり、笑い転げているスタンプを大量に送り返して来ていました。
翌日、TLに何か不穏な雰囲気が漂っていました。
何事かと思って経緯を確認して、最初に私が抱いた感想はこうです。
「何勝手に主語を大きくして人のこと哀れんでくれてるんです???」
チケットを自分で購入して、仕事の都合を付けてウキウキ参加しようとしているイベント。
前夜祭もとても面白かったし、明日も明後日も楽しみだな〜(*´ω`*)と思って、寝て、起きたら、男女の人数比が偏った場で女性ゆえの苦労をしている不遇の女性エンジニアに進化していたんです。もうわけがわからない。
感受性の高い方がセッションを聞いた結果、女性エンジニアの不遇(?)を思い出したり思いを馳せたりして号泣し、辛くなったのでブログに書いて想いを昇華しようとしたわけですが、それは何も問題ありません。何せ、それはただの個人の感想であり感情です。人の感想を制限する資格も、感情を制限する資格も、誰も持っていません。
それが、本当に全くこれっぽっちもなんでそんなことになったのかわからないのですが、セッション自体の"正しさ"だの、"ジェンダー問題"だのの議論に波及しました。
しかも、イベントに参加したら人事や営業に間違えられた、だの、マウント取られた、だの、関係のない話まで浮上していたわけです。やっぱりわけがわからない。それ、何か関係あります?
引っかかることがいくつかあるので、一つずつ取り上げさせてもらいます。
もっとスマートに反論できればいいのですが、そもそも論点が切り分けされず、いつまでもセッションとエンジニア業界の男女比と男女差別問題と運営の方針とetc……がごちゃごちゃとしているので仕方ありません。
マッチングアプリは男女の人数比がある中で発表に取り上げられることが憚られるような、男女差別に繋がるようなものでしょうか?
もちろんそんなことはありません。マッチングアプリは男性が女性を探すことができますが、逆に女性が男性を探すことも可能です。
男性しか女性をスキップすることができないのか? いいえ、女性も同様に男性をスキップすることができます。
マッチングアプリは性差別を助長するものではありません。むしろ、昔の恋愛観を考えると、女性から能動的に恋人候補を探すことができる仕組みを生み出したことである意味恋愛における男女平等を進めた、と言えるかもしれません。
そもそもマッチングアプリを取り上げた背景としては、登壇者が(少なくとも)3年ほど彼女ができないエンジニアコミュで彼女を作ろうと頑張っており、その過程でマッチングアプリのヘビーユーザーになってもいたからです。
馴染みのあるものを主題に取り上げるのは当然かな、と思います。
それがなんらかのアイコンになるのでしょうか?
そういう考えがあるとすればあらゆる黒髪メガネの女性に対して失礼なので認識を正した方がいいでしょう。
黒髪だろうが茶髪だろうが青メッシュだろうが、眼鏡だろうが、サングラスだろうが、裸眼だろうが、そんなものは数ある属性のうちの一つです。それ以上でもそれ以下でもありません。
また、黒髪とメガネという属性を持っていることは、美醜の問題とは無関係です。
これが「美人とマッチングする方法」とか「タイプじゃない女子とマッチングしない方法」とかであれば、明確に誰かを傷つけるものとして不快に感じたかもしれません。
それこそ技術の無駄遣いですが、バストアップの画像から胸のサイズを予測して女性を選ぶ、といったセクシャルな内容であればドン引きしたし、率直に言って最悪なセッションだと登壇者にフィードバックしたでしょう。
しかし、黒髪メガネはそういった類のものではありませんでした。
また、データに関して言えば、顔認識で拾える情報なんて微々たるもので、その中から髪色とメガネ有無という特徴を選んだことになんら疑問はありません。
そんなことはありません。
感想を言うこと、発表に対して良い感情を持つことも悪い感情を持つことも自由です。
そもそもご本人もセッション自体についての是非を問うものではない、という風に書かれていたかと思います。
あえて問題があるとすれば、その投稿に目をつけて拡散する人が現れ、ビルコン参加者に限らず、ビルコンになんら関係のない、その場でセッションを聞いてすらいないにも関わらずセッションなどに対して非難の声を上げる人が出始めたことです。
恐らく間違えられた人はむっとしたのでしょう。悲しいと思った人もいたのかもしれません。
例えば、ひと目で女性エンジニアだと外見から判断することはとても難しいと思います。私自身、普段の服装を考えてみても、特に人事や総務の方と一線を画するようなものは着ていないと思います。客先に行く機会も多いので、カッチリ目の服を着ている関係もあってか、営業に間違えられることは少なくありません。
服で判断はつかず、勉強会であってもスポンサー企業の広報の方なんかが訪れる可能性がゼロでない以上、目の前の女性が何者であるかなんて聞いてみないとわかりません。というか、女性である私にも見分けなんて付きませんし、間違えたこともあります。ごめんなさい。
それとも、勉強会や技術系イベントにいる女性に対しては常にエンジニアだと思って接するべきだ、という話でしょうか? それは些か乱暴ではないでしょうか。まさかとは思いますが、自分が間違えられたくないから、エンジニアの活動場所に入ってきた人事(マイノリティ)の方が間違えられればいい、それが当然だ、というのであればとても怖い話だと思います。
また、例えば私の見た目上のエンジニアの判断基準は、「このままじゃ絶対客先に行けそうにない服装」というのが一つの基準ですが(笑)、ひと目でエンジニアとわかってほしいですか? 本当に?
業界の男女比の話に絡めると、女性エンジニアが現場に一定数いる職場って案外少ないのではないかと思います。(少なくとも私は現在含め、女性エンジニア一人の職場ばかり経験しています)
とすると、「知っている女性エンジニアの服装」と一致しなかった場合、職種の誤判定するのは仕方ないと思いませんか? 今ビルコンでもいくつかのセッションで取り上げられていたAIと同じで、一定量の学習データがなければ人間も正しい見分け方が身に付くはずがありません。
これは……うーん……。正直、(相手の性別年齢に限らず)マウンティングされても全く気づいていなかったということが多い(後で他の人から大丈夫だった? とか言われて初めて気付く)私には何も言えません。
ただ、体感として、上から目線でものを言いたがる人は自分より若いと見れば言うし、自分の得意分野である特定のジャンルに話が及べば言うし、相手の知識レベルなど気にせずに言うイメージがあります。また、エンジニアの中には(全然そんな気がないのに)威圧的な言い方になってしまう単なる口下手がいれば、説明が過剰になりがちな説明下手もいます。
それが本当に"女性だから"マウンティングしてきたのかは私にはわかりません。
少なくとも議論が十分になされていない状態で、差別・倫理・品位といった単語を出して非難することは望ましくありません。
言うまでもなく、差別は悪いことであり、倫理や品位は人間として大切にすべき重要な要素です。だからこそ、非難する人が「差別を嫌う人、倫理観を持ち合わせている人、品位のある人はこれを問題にするのは当然だ」というスタンスに立ってしまうと、反論ができなく、あるいは少なくともしづらくなるなります。また、非難する側は反論に対する切り返しが非常に楽という一面もあります。
反論することで差別主義者扱いされるかもしれないし、倫理や品位に欠ける人間扱いされるかもしれないのです。それを覚悟して反論したとしても、非難する側はいくつかの魔法の呪文を唱えることでそれ以上の反論を封じることができます。
「なんて冷たい人なんだ」
「自分さえ良ければいいのか」
「傷ついてる人のことはどうでもいいのか」
正常な議論になんてなるはずがありません。
正義の彼らからすると、このセッションに疑問を抱かなかった人、セッションを普通に楽しんだ人は良識とか倫理観とか品位に欠けてるということになるかもしれません。私も女性なのに女性差別主義者なのでしょう。
論点がとっ散らかっているのが良くないのですが、そもそもセッションに対して正しい・正しくないという視点で論じること自体が誤りだと思います。好ましい・好ましくないという個人の意見であれば好きに言えばいいし、活発に議論しようと構いません。
しかし、正しさを主軸とした場合、先に相手が悪だと言った方が勝ちかねないのです。言ったもの勝ち、非難したもの勝ちの世界です。
そうなったら表現の場としておしまいです。当たり障りのない、お上品な、冒険心のない、発見もないセッションがビルコンを占めるでしょう。誰か声の大きい一人に目をつけられただけで自分の発表が悪にされる。そんな怖い舞台に誰がユニークなものを抱えて上がりたいと思うでしょうか? 安全を取るなら誰もがうんうんと頷くだけで終わる内容に留めておくのが1番だと思いはしないでしょうか?
おめでとうございます、ちょっと尖った発表を見られたかもしれないビルコンの終焉です。
……もちろんそんな風にはなってほしくありません。
ダイバーシティと絡めての意見も散見されましたが、ダイバーシティとは単なる正義の味方ではないと考えています。セッションに対して嫌な気持ちになった人もセッションを楽しんだ人もどちらも区別なく受け入れられるのが、理想のダイバーシティではありませんか?(犯罪などが絡んでいたら別ですが)
もう一度繰り返しますが、今回のセッションは面白かったし、女性エンジニアとして問題に思うことは何もありませんでした。
どのセッションも「日本最高峰の技術の無駄遣い」の名に恥じない、最高にくだらなくて、発想力に笑うしかない、すばらしいものでした。
具体的に抜き出して引用してみ?
これはマストな
話逸らして答えなかったら聞き続けるから
そんでそういうのもまさに君みたいな思考力薄弱な正義マンのテンプレパターンでさ
そうやって「迫害者」みたいに悪のレッテルをはりつける以外の議論能力はほぼゼロ
なんでそんな無様な状態かというと、普段から正義マンで楽をしてるからだよ
「真面目に考えた形跡はない」ってのは、結局君が気に入る考えが出るまで「形跡はない」って言い続けるだけだろうし。
そういうことは1案でも2案でも真面目に考えたアイデアを出してから言うことだよ。
でなければただの居直り。
君のは
「ケアすればいいだけのこと!」(どんなケア?どう施行する?)
「ケアしたくない貶したいって言ってる悪い奴がいる!」(現実的なこと考えるのは出来ないけど”悪い奴”を責めるは簡単ラクチンだねー)
そもそもまともな答案を1度でも出してから偉そうな口を叩くこと。
そして君は答案を出せない。
自分は正義の味方で、悪い奴を責める、そういう気持ちいい世界感でオナニーがしたいだけだから。
宿題もまとめておいてあげるね
仮面ライダーに限らず、なんとか戦隊とか、ウルトラマンとかも全部観たことがなかった。
僕の場合は別に親が厳しかったとかではなく、単純に観る習慣がなかっただけの話だった。
僕もそれなりにオタクなので、人気があるのは知っていた。
でも特撮ってよく分からないし、タイトルが多いし、実写だし、あと独特の文法がある気がするし、大人になってから観るとなるとよほどのきっかけがない限り、着手するのは難しいことのように思う。
多くの人に愛されているということはおそらく面白いのは間違いないのだけれど、やはりどこかで子ども向けだし…と思っているところがあったのかもしれない。
食わず嫌い…とまでは言わないけれども、やっぱりなんとなく敬遠してしまっている節があった。
その日は突然訪れた。
いつか観ようと思ってアマゾンプライムのウォッチリストに入れていた「仮面ライダーOOO」を突然観始めた。完全になんとなくだった。
作業用BGMにでもしようと思っていた。
思っていたのだ。
ビックリした。
作業がてら観るつもりだったのが、観がてら作業をする勢いになった。
映司が、アンクが、比奈が、後藤さんが、伊達さんが、人々が成長していく様子があたたかく、嬉しかった。
キャラクターがいつのまにか大好きになっていて、最終回付近ではいい歳して泣いてしまった。
それから1年ほどの間にクウガからビルドまでのタイトルを全部観た。アマゾンズも観た。
何度も男の子の心がくすぐられ、それ以上に人間としての心がゆすられるのを感じた。
僕はこれまでヒーローに馴染みがなかったので、ヒーローって常に正しいものだと思っていた。
仮面ライダーを観た今、案外そうでもないのかもしれないと思っている。
主人公サイドにはそれなりにまっとうな感性を持った人間が多いが、別に仮面ライダーが全員が全員平和のために戦っているわけではない(これも視聴前の僕が勘違いしていたポイントだった)。
例に挙げるのはズルい気もするが龍騎なんて「永遠の命がほしい」とか「恋人を救いたい」みたいな理由で戦っている奴らもいたくらいだ。それは正義ではないかもしれないが悪でもない。
表が善なら裏が悪というわけでもないのだ。そんなに単純なものではなかった。
漠然と思ったのは「これを観てきた子どもたちはどんなふうに育ったんだろう」ということである。
もしかしたら大人になってからのほうが感じ取る要素が多いのかもしれない。それほど大切なことが織り込まれている。
男とか女とかではなく、人間として相手を慈しみ、共感し、影響しあう関係。
大切な人が大切に思ってくれる自分も大切にしなければならないと自覚すること。
そばにいてほしいと願うこと、自分の目の届かない場所でも構わないから笑っていてほしいと願うこと。
たくさんのものを失い、背負って、それでも進まなければならない使命。運命。
正しいこととは何か。人間とは何か。生きるとは何か。
子どもの頃だったら気が付かなかったこともたくさんあるだろうと思った。
現に名前は知っていても触ることすらなかったくらいだし、仮に当時の僕がこれらを観ていても今みたいには理解できなかっただろう。
でも多分それでもいいのだ。きっとそれでも面白い。
大人になっていろんなことが分かるようになって、読み込んだらさらに面白い。これが良い。
僕には子どもがいないけれども、きっとこういう作品って、大人になる前の人間が観て、その人間を育てる人間が一緒に観るものなのだと思うから、きっと子どもには子どもなりの、大人には大人なりの楽しみ方がある。
そうできるように作られている。少なくとも僕はそう思った。
現に僕だって、観ている最中何度もつらくて泣いた。クウガとか、アマゾンズとか、ドライブとか。
しかしその何倍もの回数、登場人物の愛おしさのあまり泣いた。龍騎とか、Wとか、オーズとか。枚挙にいとまがない。
かなりみっともないが、たくさんの人間の人生の欠片を受け止めてきたのだから、多少の痛みは仕方ない。
令和が始まって、ゼロワンからはみんなと一緒に観ることになる。
老若男女みんなで日曜の朝からツイッターに集まって、あのキャラ良い!とかあの展開エモい!とか言ってる空間こそが平和そのものだ。
ヒーローにあこがれ、愛する人間の一人に、僕もなろうとしている。