はてなキーワード: コンピレーションとは
メモ帳アプリの片隅で、四年前の下書きを発見した。せっかくだから供養のつもりでここに書き留めてみることにする。
ちなみに今ではこの状態が当たり前になったようで、過敏な反応はなくなった。しかし音楽に対する興味が大幅に減じたことは変わりがないように思う。そして何とも奇妙なことに、この文章を自分で書いた記憶がほとんどない。自己紹介が一致しているので、確かに自分が書いたのだろうが、それでもまるで他人が書いたかのような気持ち悪さが残る。思い返せば、記憶の健全性が感受性に影響を与えた結果なのだろうと思う。四十歳そこそこの年齢でここまで記憶が薄れるものなのかと、ただただ加齢を呪うばかりだ。
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数日前から、音楽に対する感受性が急激に変わってしまい、困惑している。
この変化をどう捉えるべきか自分でも分からないまま、こうして文章にしてみた。
まずは自分のことについて。30代後半、職業はIT系のエンジニアでほとんど在宅勤務をしている。趣味は映画やゲーム、そして音楽。いたって普通の生活を送っている。音楽に関して言えば、2歳から15歳までピアノを習っていたが、パソコンに夢中になってからは興味を失い、それ以降は真剣にピアノと向かい合うことはなくなってしまった。それでも音楽を聴くのは好きで、日常的にストリーミングで何かしらの音楽を流している。昔はCDを買っていたが、最近は好みのジャンルのMixやラジオを流すことが多くなった。
大抵の場合、それはドラマの挿入歌やお気に入りの曲、直前に聴いたものや何度も聴いたものだろう。自分もそうであり、特に違和感を感じたことはなかった。だが、ここ数日、全く異なる現象に見舞われている。
「覚えのない曲が流れ始め、懐かしさを感じる」のだ。
矛盾しているようだが言葉通りの意味だ。「覚えのない」というのは、音程やリズム、発音がぼんやりとわかる程度で、鼻歌を歌えるかどうかも怪しいレベルと思ってほしい。それでも、その鼻歌に対して「ああ、この感じ、昔に何度か聴いたことがあるような気がする」「何かのコンピレーションに入っていたかも?」という哀愁を伴う感傷的な心情が湧き上がる、なんとも奇妙な状態なのだ。
そして、とにかく次から次へとうるさくて仕方がないのだ。
あまりにうるさいのでいつものようにYouTubeで適当な音楽を流し始めたのだが、ここでも困ったことが起きた。
「初めて聴いたはずの曲に、懐かしさを感じる」のだ。
参考までにその時のURLを貼っておく
https://www.mixcloud.com/catalin-iovu/best-of-trip-hop-downtempo-hip-hop-instrumental-vol-2/
ほとんどすべての曲に対して、さっきの頭の中に現れる鼻歌と同じような感情が湧き上がるのだ。懐かしい(ような気がする)曲が続くので、自分の持っていたCDを丸ごとサンプリングしているのではないかと詳しく調べたりしたが、どうやらどんな曲に対しても起こっていることがわかった。
この出来事を境にして、音楽への向き合い方が激変してしまった。
自分は音楽ジャンルという枠のなかで創造される、音作りの多様さや新規性、奇妙さを楽しんでいた。それらがすべて「懐かしい」という感情に塗り潰されてしまい、素直に楽しめなくなってしまったのだ。
もしかするとこれは、加齢による感受性の変化で、誰にでも起こり得ることなのかもしれない。音楽への思い入れが強かった分、強い違和感を感じただけで、心配するようなことではないかもしれない。
とはいえ、できることなら元の感受性に戻りたいし、その方法が知りたいと思っている。
もし同じような経験をした方がいたら、話を聞かせてほしい。
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
自分が好きだったライブコンテンツがひとりでにどっか行ってしまったという話。
基本的にお気持ちがベースの感想であるので、アレルギー症状をお持ちの方はブラウザバックなり、閉じて頂くなりが幸せに生きられると思う。
私的には世の中には自分が傷ついてまで見る事は無いというのが全てで、何でも見えるネット時代だからこそ、何でも見てしまうよりは知らず生きる幸せをかみしめてほしいと思う。
お気持ちベースで書き鳴らしているので場所によっては乱雑な文章が取っ散らかっている所がありますので、ご容赦下さい。
正確には私も私で時計の針を一歩進めてしまい、どこかへ歩んでしまったが為に私にも原因の一端があるので、
キモオタクの単なる戯言だと思って聞き流してほしい。むしろこのような記事を時間を割いてまで見るべきではないと思う。
世の中にはこういう意見もあるのだなあと思うならばそれは引き止めませんが、結果や貴方の健康までは保証しません。
九月の頭、愛知県での事だった。片日だけのチケットを握りしめた私は高く飛び過ぎたイカロスのように叩き落されてしまった。
片翼では飛べなかったのだ。それも一番最後にだ。私を好きなら今すぐ来てねという声を聴いたっきり、私は明日また会う事が出来なかった……。
…と、いう事で片翼のオタクの戯言を聞いてほしい。私は1日目しか行かなかったので1日目の演目の下、話を進めようと思う。
これは全てのコンテンツライブに言えるが、1日目と2日目が同じタイトルな以上は、両日お互いに対して余計な負荷を掛けたり文脈を持たせるのは間違っていると思うからだ。
同じタイトルである以上、両日はツアーの大トリで無い限りはどちらにも重きを置かずにある程度はその日だけでも楽しめる演目を組んでいただけるとありがたいと筆者が望んでいるからである。
これは、全ての人間に言えるかもしれないが、仕事などの都合がつかずに、或いはチケットの都合上、片日しか行かれなかった場合、翌日に対して意味ありげな演出をされても困るので、
そういう意味では翌日に負荷をかけるトリの演目というのは好ましくない…と思っていたのだが…。演出家は検問所にある計測所において過積載で捕まる心配をした方がいいと思う。
ただ、同タイトルであれ、二日通しでお楽しみ頂けるように組んでいくのであれば二日通し券があるべきなのでは…?と思う。折角チケット先行用のプレミアム会員もあるのに…。
と、いうのがまずはお気持ちの一つ。まあ、ゲームでは毎日会えるので不健康なオタククンはおうちでブルーライトと仲良くしてなさいと言うならばその通りに受け止めるが…。
何曲かは過去の同地で行ったウケの良い演目をオマージュしたいのだろうか、そういう選曲がなされているのは理解しているが、
余りにも毎回やっているのでそろそろ飽きが来たこと、そしてどうせこの曲が来てしまうと言う展開が読めてしまう事に一つある。
特に本年の愛知公演でも1日目13番目の演目は、一昨年に行われた同地前回の2日目に出て来ていて、更に遡ると名古屋市内の公演でも披露していて、
土地=楽曲が著しく結びついて意外性という面白味に欠けると筆者は考えているからだ。方言キャラは多くないのに曲に地域性があるらしい。凄く奇習だと思う。
近年は意外性を売りにしているコンテンツライブだと筆者が受け止めていたばかりに、楽曲が予想の立てられるものでは非常に面白くないという話でもある。
1日目を取っても5曲ほどは過去2年で同地で行われた楽曲が含まれている。なんと演目の約20%だ。降水確率なら雨の心配をするレベルでもある。
思い出話をしたい人には良い話だが、わざわざ遠征までして見たものが過去の焼き直しというのはまったく面白くない話だ。家で円盤を見た方がマシだろう。
それならば百均で売っているHIT曲のコンピレーションアルバムを買う方が安上がりだと思う。実に100分の1の値段で済むというから良心的な話だ。
当コンテンツには――――税と呼ばれるまでに高騰化しているチケット代という概念が既にあるのに、更にコンピレーションアルバムを流されているようでは溜まったものではない。
特に先ほどの13番目の曲はコロナ禍前にも同地域でやった事がある演目が故に、特に薄味として印象深い。5年で3公演に顔を出している。皆勤賞狙いか。
他、強いオマージュを感じる公演としてコロナ禍前最後の大阪での公演の事を強く思うが、今回の28曲の内3曲が被っている。概ね300曲を超える曲数のコンテンツライブとは思い難い被りようだ。
内一曲は演目の場所といい特殊バージョンのイントロといい強くオマージュを感じざるを得なかった。この曲の起用方法に関しても少し思うところがあるが、少なくとも思い出は思い出でじっとしておいて欲しかった。
もっと曲数が少ない所でももう少しいい組み方をする所はあるし、過去の演目同士を切り貼りしてもキモいフランケンシュタインが出来るだけだと思う。これからパッチワーク教室でも開くなら是非頑張ってほしい。
ここのコンテンツのファンは熱心なファンが多く、機会均等法を声高に叫ぶファンが大変多い為しっかり起用に応えてくれたのはある種一つ良かったと思う。ここだけは評価している。
ただ、その陰でこのコンテンツが元来持っていた時に人を傷つけるような美しい鋭さは失われ、特に機会が均等に機械的に割られただけで、
センターの回数までは気が回って居なかったり、楽曲が持つイメージを損なってしまったりしていた演目があったのは一つ残念な点として深く印象に残った。
出場機会の均等を図るくらいならば偏りがあってもセンターをしっかり廻すべきだったと思う。私が応援していたのは果たしてアイドルコンテンツだったのか…?と疑問に思ったくらいに。
あと、楽曲が持つイメージを損なったという点では意外性のある選出やキャラクターの新しい一面を見る為の科学反応の為の選出ならば目を瞑るが、
三角形をイメージした楽曲に6人投入するのはどういう意図なのかは掴みそこねた。六角形は半分にしても三角形にはならないというのに。
こういう滅茶苦茶な演目の組み方をする事が近年の公演で増えており、イメージ先行でのみで組んで、歌詞の割り振りなどの子細にまで目がいかなくなってしまったのかと悲しみを感じる。
どの演目とは言わないが2人がユニットでの相方や一人からの選出に対して、残り一人が公式で絡みがあるだけで特にユニットが組まれた選出ではなかった演目があり、個人的には疑問に感じた。
もしその人の推しであるならば大変申し訳ないのだが、あくまでも公式として謳って出しているものが非公式的に近い事に対しては納得がいっていない為である。キャラクターや演者に罪は無い。
そういったこともあり、深い意味合いで文脈が無くなってしまったが為に演者サイドからのサインを受け取るのも難しくなった。魔法が解けた灰被りのお姫様を見ている気分だ。
私らは吊るされた男ではなく一端の魔術師としてこのコンテンツライブを見に来たつもりなんだけどな…。運命の輪というのは時に残酷なカードである。
結局大きなコンテンツと言うのは人数を収容しなければならない以上、場所を選んでしまうので多少仕方がない事ではあるという事は理解しているがやはり平面と言うのは…。
そもそもハコを見て応募を辞めようとも思えばいい事だというのは重々理解しているが、それはそうとして推しが出ている以上は行ってみるか…と応募したがばかリにこれを強く思う。
と言うのも筆者は身長が約150cmしかなく、とてもではないが前方席を引かなければ170cmや180cmなどの有象無象に埋もれてしまう事に一端があるとしても、多少手心があれば…と。
厚底の靴などで身長を積み増せばいいとは思うが、今回のハコは大変僻地もいい所の絶海の孤島なので動きやすい恰好が望ましいと思った次第でどうにもこうにもならなかったというのが一つ。
是非よろしければ低くなって頂ければありがたいが、強要をするのも間違っているとも思うので、次回から平面の客席を採用する際は竹馬を利用する事をどうか許してほしいと思う。最低限は脚立。
それから、パイプ椅子による指定席で隣の人と距離が近すぎる上に、隣人を選べないというのも一つ困ったという話だと思った。どれだけ身が細くても斜めに立たないと肩が当たる気がする。
卒業式のように姿勢よく座るならまだしも、多少動きの生じるライブでパイプ椅子というのはちょっと狭くないかなあと思うところがある。幸いにも圧迫はされたことはない。
筆者が最近はライブハウスに通う事が多くなり、様々な曲や演目、人間に対してご自由にポジショニングを取る事に慣れてしまったので致し方ない部分はあるが、
流石に外出するに際して見てくれの悪いオタクや二階三列四番の雰囲気を漂わせた隣人を2時間もの間同じ空間に居合わせてしまうのも考え物だなと思ったからだ。
頼むから家を出る前に最低限の見てくれと香りは何とかしてほしい。別にそこさえ担保してくれるなら絵具を混ぜた様な情けないナンセンスなコンテンツTシャツを着てても許すから。
因みにだが、別にオタクが好き勝手自分の頭上や近隣で暴れたり光ってくれる分には特には思わない。その人の推しが居てその人なりの表現があると筆者は考えているので。
むしろある程度元気な方が演者と観客の対話的なコミュニケーションみたいで大変面白いので積極的にやってほしいと考えている。勿論、レギュレーションの範囲内での話だが。
こう明記しておかないとこのコンテンツは勝手に余計な文脈を取って独りでに発狂する大変熱心なファンが多い為にコメントを返信する時の私が苦心するのでここに記しておく。
今回一番良かったと思うのはコンテンツの新人が暖かく迎えられたという事だ。
拍手喝采でこの大舞台に迎えられてしっかりと立っているのを見ると、私のような逆張りオタクではなく、もっと相応しい人が客席に立つべきだと感じたからである。
つい4年前はこのコンテンツの熱心な盲信者たちが私の心地よいインターネットの楽園を荒らしていたと思うともう隔世の感が出てきたが、
そういった逆張りをしなくてもよくなったというのは一つ明るい話であったと思う。もし過去にそういう事をしたと思うならばしっかり反省してほしい。
長々と語ってしまいましたが、無計画な闇鍋によって昔のような歌詞割りや演目による演者からの文脈を感じ取る事が出来なくなり、
過去公演の焼き直しと新曲披露会のような地方の産業館で見る様な薄味の展示会に高いチケット代を支払うのは勿体なく感じてしまった為に
このように文句を垂れているオタクの戯言にお付き合い頂き、本当にありがとうございます。
こうしてみるとこのタイトルは半分くらい間違っていると今思っています。でも正直向こうも半分は間違えている気もしている。私が勝手に。
これは一端のマジョリティでもあります私のお気持ちであり、大多数が今のままでいいと望むならばそのコンテンツはそのように進めばいいと思います。
たまたま持っていた銀河鉄道の切符が、今回で私の終着駅となったからです。今まで楽しい旅をさせて頂きありがとうございました。
これからが目ざましい活躍を見せる推しのオタクはここからが始発駅ですし、勿論ここに至るまでに終点に至ったオタクも居ると思います。
推し方は人それぞれで、私はここで一旦区切りがついたと思っているだけですので、是非どうか私の事は呼び留めずに忘れてください…。
今、私は安いチケット代と共に無計画な闇鍋の極みみたいなフェスなどを空中浮遊しております。別に規模や演者に一切の貴賤はありません。
もし気になれば知見を広めるためにも様々な「アイドル」に触れてみるのは如何でしょうか。素敵な音楽や出会い、様々な人々の熱い思いなど、
色んな物を吸収してみるのも一つの栄養ではないか?と思っています。このような場でお勧めするのも私としても大変心苦しいものがありますが…。
また、どこかで亡霊となった私をどこかの会場で見掛けた際は、暖かく出迎えて頂けると幸いです…。本当にお読みいただきありがとうございました。
drink!と、drive!いう酒類と車両のテレビCMで有名になった洋楽のコンピレーションCDがあった(絶版)。
でも添付の歌詞カードを見ると(明るい曲調でみんなが「かんぱーい」してるシーンの曲でも)フられたとか
ちゃんと性教育しようとか歌ってるのあるから全然イメージとちがった。
というかむしろなぜ電通とかはこの曲とりあわせたんだとおもった。天才か。
中で印象深かったのはlove foolっていう緊張感ある始まりでねじれたサビの曲が歌詞みてもちゃんとヤンデレ女の歌だったのと、
toon heroesという曲がものすごい陽キャにみえてアメコミオタクな歌詞だったのと
Cymbalsのベースだった沖井礼二とシンガー清浦夏実によるユニットTWEEDEESより、今月リリースされたアルバム「World Record」 帯の元ネタはThe Style Councilらしい
そんなアルバムの中からの1曲目 いきなりスキャット!鐘!豪華な編曲!沖井礼二のベース!最高~
こうやって12月中に名曲が出てくることがあるので、12月の初めに今年のまとめみたいなことするとちょっと勿体ないんですよね
神保彰の脱退後、新たなドラムスとして有形ランペイジのメンバーでもある今井義頼を迎えCASIOPEA-P4名義でリリースされたアルバム「NEW TOPICS」のこちらも1曲目
ジャパニーズフュージョンのアルバムがこういう景気いい曲で始まると本当に楽しい
大阪を拠点に活動し自らをネオネオアコと呼ぶ2021年結成のバンドNagakumo
ネオにネオつけてどうするんだと感じもありますが、これを聞くと続けて「three cheers for our side」も聞きたくなります 本人たちもフリッパーズ・ギターからの影響を公言していますね
今度は阿佐ヶ谷 2014年結成の5人組バンド、阿佐ヶ谷ロマンティクス
今回のアルバム「大人幻想」はSpotifyでは別の曲がグローバルでバズっていますが、個人的に一番刺さったのはこっち
ピアノで盛り上げるタイプのバラード サビ直前のキメで一人だけ弾き続けちゃうベースも好き
6位にユーミン
過去の自分の声を合成音声で再現して今の自分と一緒に歌うという面白い作品 過去もともあったメロディーに新しく歌詞をつけたとのこと 単に楽曲を聞いただけでも良いし、こういう新しい挑戦をしていることも良い
で、やはり気になるのは「どこの技術を使った合成音声なのか」というわけで、ラジオでは曲は流れてもそんな話は出てこないしググっても出てこない。もしかして歌詞カードにちらっと書いてあるのかもと思って今回のベスト盤発売まで待つわけです。いよいよリリースとなっていざ歌詞カードを開いてみると、全国のラジオリスナーから集められたユーミンにまつわる思い出話が多数掲載されてるのに結局技術的な話は何もない。そんな……と思ってこのタイミングでもう一度検索してみると、CDフラゲ日になってやっと(協力した研究室の)プレスリリースが出ていました
https://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/press/2022/202210032121.shtml
どうしてどうして……
ラジオではじめてこれ聞いた時はこんなん出されたら誰も勝てないじゃんと思いましたが結局5位
そういえば宇多田ヒカルの新曲がすごいみたいな話を年上の人としたんですけど、あの人の親を誰だと思ってんのみたいな返答されたんですね。そうじゃなくて私はこの曲そのものが好きなんですよ。ど~せ私はAutomaticすら後追いで聞いた若造ですよ~~
恥ずかしいことにこの作品を聞くまで原曲を知らなかったのですが、中原めいこの1988年のアルバムから表題曲のカバーです
深いリバーブに気だるそうなボーカルやキラッキラしたブラスとシンセ、並行世界の80年代みたいなサウンドがいい味出していますが、シンガーの寧音は2008年生まれ
編曲のevening cinema原田夏樹はRainychのカバー作品も担当していましたね evening cinema名義でも今年アルバム出てるんですがこっちも良かったです
完全に狙って作ってる感じのジャケも必見
ポスト渋谷系コンピレーションシリーズ「Pastelphonic」に楽曲を提供したこともある、ぺのれり・ぷに電による作品
そういえば、「渋谷百景」などで有名な邦楽系情報サイトのradiodAzeにもこのアルバムの情報が載ってて驚いた
http://radiodaze.g2.xrea.com/KKKva.htm
あのサイトはもう何年も新しいアルバムの情報は書いてなかったようだが、あのサイトに載るだけの影響力がある名コンピであることは確か
そんなアルバムでも活躍していたこの両氏のタッグなので当然期待して聞いたわけですが、まさに大当たり
ここ最近急に影のある曲を出すようになった2人組バンド、エルスウェア紀行(何があった?)
スローテンポにどんどん熱くなるギターが目立ちますがベースがずっと忙しそうにしてるのもGood
1987年にデビュー、角松敏生プロデュースを経て自身もソングライターとなる今井優子によるキャリア35周年のアルバム「Spell of Love」(実は今井優子も今年知ったアーティストなのですが)
その中の1曲目かつ表題曲
シンセも担当する安部潤による編曲で、いかにもフュージョンなイントロから始まり、ラテン風味かつフィル満載のドラム・パーカッション、スラップしまくりのベース、よく練られたコーラス……と豪華なバックトラック それに負けてない今井優子自身による作曲 今年のベストトラックです
https://open.spotify.com/playlist/21kp6A9R6hUBijiEe2ia4Z?si=46236e3810db44da
洪水のように新しい音楽に出会い続けることができている人間です。
ワールドミュージック、グローカルビーツ等と呼ばれる、主に非英語圏の伝統音楽やポップス
いくつか紹介してやるのでかいつまんで聴いてみてくれ。
わかる。
iTunesに『Ridge Racer』というプレイリスト作ってる。
プレイしてたのは、最初のアーケード版から始めてPS2のVが最後だけどその後のシリーズはアルバムだけは手に入れている。
Ridge Racer3dくらいまでのアルバムを持っていてコンピレーションは持ってないけど、
いまだに聴き続けてる。重複している曲も多く初出がどれかがわかんなくなってるけどひとまず星の多い奴だけ。
Synthetic Life RIDGE RACERS direct audio [Disc 1]
ゼビウスとかドラスピの3面とか流れる奴。過去のナムコの名作BGMを何曲も織り交ぜて上手い事アレンジしていてるのが大変好き。
Galactic Life RIDGE RACER 6 direct audio (Disc 2)
同じく、往年の名曲尽くし、ギャラカのイントロから始まってギャラクシアン、ギャラクシアン3、サンダーセプター、スターブレード等、とUGSF系の曲を詰め込んだ奴。
R4のアルバムの完成度は自分的には他のジャンルの音楽含め、かなり上位でこれ一枚で独立して延々聴ける。
特にカブるけどPearl Blue Soul, Motor Species, Move Me, Your Vibe あたりが好き。
RIDGE RACER 6 direct audio (Disc 2)
Radiance
あとオマケ的にデイトナUSAとリッジレーサーを混ぜて光吉猛修氏が唄ってるのが、レースゲームのアベンジャーズみたいで好き。
年と性別は察してください。思い出しながら、自分の音楽遍歴を書く。
姉が19のファンクラブにいた影響で、19を聴き始める。真面目に音楽を聴き始めたのはたぶんこれが最初だ。あとは、姉が定期的にヒット曲のCDをツタヤで借りていたので、それをちょいちょい聞いてみるなどしていたが、ヘビロテしていたのは19だった。朝早起きして「音楽」をリピートしながら勉強するのが楽しかった。
中学生の自分にとって326の歌詞はやたらと心地よく、将来は作詞家になりたいなどと本気で思ってしまっていた。
ひょんなことからブルースハープを始めることとなり、その関係でゆずを聴き始める。ゆずのブルースハープのパートはハーフベンドができれば大体の曲はコピー出来るので、ゆずのCDと一緒に楽譜も買い漁った。なお、ギターはFコードをうまく押さえることが出来ず断念している。ブルースハープをやっていくうちにハイロウズと山崎まさよしもちょいちょい聴いていたが、ヒロトは化物だと思った。個人的にはボディは木より樹脂のほうが好き。
また、やはり姉がミスチルのベストをツタヤから借りていたので、その影響で自分もミスチルを聴き始める。ファーストから最新までのフルアルバムとミニアルバムを全部借りて聴いていた。桜井和寿は天才だと思った。
椎名林檎は、中学時代から姉がCDを持っていたので、その影響で聴き始めた。当時好きだった女の子も林檎が好きだったので、相乗効果でやたらと聴きまくった記憶がある。虐待グリコゲンとか発育ステータスとかツアーメンバーにバンド名をつけてるんだぜ!って自慢気に高説を垂れていたので、今思えばとても恥ずかしい。あと、「一期一会」を聴いて、スピッツもちょっと聴いていた。「花鳥風月」と「フェイクファー」でお腹いっぱいになった。
ゴイステは、当時やっぱり童貞ソー・ヤングが流行っていたので、「さくらの唄」をヘビロテした。捨て曲がまったくない!と思った。峯田最強だぜ!って思った。
ちなみに、ゆず/ミスチル/林檎(事変)/ゴイステのヘビロテは、大学の2年くらいまで続く。
どうでもいいが、受験シーズンはなぜか大塚愛にドハマリしてファーストのPretty Voiceをヘビロテしていた。
先にも書いたが、当時はやたら大塚愛が流行っていたからか、可愛かったからか分からないけど夏ぐらいまで大塚愛をヘビロテしていた時期があった。ただ、夏が過ぎたら飽きた。
大学に入ってからは、CDだけではなくライブDVDにまで手を広げるようになっていた。当時は桜井和寿がBank Bandでライブなどをやっていて、ライブDVDを傷だらけになるほど見た記憶がある。東京事変のライブDVDも見まくった。透明人間を見て、ヒイズミすげーってなってた。そこからPE'Zを聴くようになった。
バンプは、先輩が聴いていたからだと思う。ヒット曲バシバシ飛ばしているのに厨二くさい歌詞と曲が、遅れてやってきた中二病患者の自分にとっていい感じでマッチしていたと思う。ただ、ユグドラシルより後あたりから、なんか曲がポップになってやる気がなくなっていった。
ちょっと前に遡るが、ピロウズ15周年だかでコンピレーションアルバムを出したときにミスチルも曲を提供していて、久々に聴いてみたらStrange Cameleonいいなあ、おっ、ベスト出てんだ、んじゃそれ借りて聴いてみようってなったのが最初だったと思う。ベストなんで良い曲ばっかりなのは当たり前だよね。いろいろなアルバムを借りては聴いてを繰り返した。個人的には巴里の女性マリーが好き。
音速ラインは、ナツメが良かったのでちょいちょい聴いてた。ジャケットが盗作じゃねーのって噂にはなっていたけど、そんなのはどうでもよく、逢いたいを聴きながら手塚治虫のMWを読んでいた。
銀杏は、そもそも忘れていた、っていうのはある。銀杏のアルバムが出てから何年か経ってたけど、峯田が新バンド!?んじゃ聴いてみよう、ってなってた。冬の寒空に東京をヘビロテしながらタバコを吸っていたのは本当に良い思い出だった。
あとは、スキマスイッチ/レミオロメン/7188/エルレ/テナー/ART/ブランキー/アジカン/ミドリカワ/時雨など、数えたらきりないけど、なんかそこらへんの所謂ロキノン系をいろいろ聴いて回ってた。十把一絡げにロキノン系で括るのは良くないかもしれないけど、なよいロックでインディーズから上がってきたのはだいたいロキノン系でいいんじゃないかなって今でも思っている。
この頃からだんだんとマイナーなバンドばかり聴くようになったため、メジャーどころはあんまり聴かなくなっていった。
「とりあえずガッツリ邦楽を聴いてから洋楽に行こう!」というなんだか良くわからない縛りを設けて音楽を聴いていた。
きっかけは忘れたけど、どこかの動画でミドリを発見して、後藤まりこYABEEEEEEってなったのが春先での出来事だったと思う。アドレナリンがヒルルク状態のままわりとすぐにライブハウスに赴き後藤まりこを生で見た。パンツが見えるとか見えないとかはわりとどうでもよかった。山本直樹画のTシャツをわりと愛用していたけど、大学卒業と同時に処分してしまった。もったいない。このあたりから、「ライブに行く」というのをちょいちょいやるようになる。
向井については、ちょうど向井秀徳が大好きな烈海王そっくりな奴がいたので、その影響でちょいちょい向井秀徳バンドのCDを聴いて回った。その関係でイースタンとかブッチャーズとかをヘビロテして回った。当時の心境を振り返ると、「アジカン?イースタンと向井のパクリじゃねーか!」というひっじょーに恥ずかしい理論を脳内で展開しており、脳内で展開するだけならまだしもmixiで毎日のように「◯◯はすごい、☓☓はクソ」といった日記を書いていた。すんごい恥ずかしい(ちなみに今はもう退会済み)。今思えば、イースタンもブッチャーズもナンバガも、夏の日の午後とか7月とか透明少女とかすっごいヘビロテしたし人にも勧めたい曲はちょいちょいあるのだけど、アルバムを通しで聴くとすっごいダレる。
どう贔屓目に見てもクッソ痛々しい中二病患者のクソ理論をmixiで展開しつつmixiで情報を拾うという蛇が蛇を食うような生活をしていたある日、ゆらゆら帝国を知ることとなる。経緯は忘れたけど、mixiで「このバンドがおすすめ」みたいなコミュがあってそこから知ったと思う。はねるのトびらにゆら帝の曲が使われていたのは、ゆら帝をちゃんと聴き始めてから知った。メタルとかフュージョンみたいにバカテクではないけど上手い演奏、なんだか良くわからない歌詞と歌、耳をつんさくギター、そして一グラムも人気になろうと思ってないルックスとビジュアル、どれもがやばくて、深夜、学校帰りに「なましびれなまめまい」の星になれたをアホみたいにリピートした。数年に1回くらいのペースで亀川ベースがすっごい変態的になるイメージだった。
もうここまで来ると流れがお分かりかと思うが、亀川千代が灰野敬二にそっくり、という流れから灰野敬二もちょいちょい聴き始める。「わたしだけ?」の捧げるが個人的にはスーパーフェイバリットなのだが、試しに友人に聴かせてみたら大不評であったため、このあたりから自分の音楽の趣味を人に言わなくなる。
そしてCasiopeaだが、亀田誠治って本当に上手いよね。って思っていたのだけれど、2chのスレを漁っていたら、もっと上手い人がいるんだ!?ってなって、どうやらこのテのスレで頂点に君臨するのは櫻井哲夫で、彼はCasiopeaのベーシストらしい、という流れでCasiopeaを聴き始めたのだった。だが、最初に見た動画はライブ中満面の笑みでチョッパーを連発しつつ客席に乱入する変なおじさんだった。このあたりから、所謂「フュージョン」というジャンルに手を染め始め、Jaco Pastoriusに出会うこととなる。
並行してなんかロキノン系もちょいちょい聴いてたけど、もういいや書くのめんどくさい。ベボベの例の動画からヤマジュンを知ってヤマジュンパーフェクトを買ってしまったのが大学生時代最大級の黒歴史ではないかと思う。
当時ジョジョを読んで、なぜか四部だけのスタンド名の元ネタバンドのアルバムを聴きまくった時期もあった。
あと、相対性理論の自主制作盤を買ったけど、見た目がすごくしょぼいCD-Rで、数年後売ろうとしたら「売り物なのか自分で作ったのかこちらでは判別出来ないから買い取れない」と言われたのは良い思い出だ。
Jaco Pastoriusについては多くは語らない。件の烈海王がやたらプッシュしていたので、聴き始めた。彼については、Weather Reportに加入するときも超上から目線で「君の音楽すごく良かったYO」「俺は世界最高のベーシストなんだZE」と言って門前払いされたのは最高にロックだと思う。その関係で、Sex PistolsとかJoy Divisionとか早世アーティストのバンドをやたらヘビロテしていた。
ゆらゆら帝国と灰野敬二は引き続き聴いていたが、ゆらゆら帝国はどうも昔のバンドのごった煮らしいぞという情報をキャッチしたので、このあたりからクラウトロック/プログレ/USパンクやらに傾倒していった。MagmaとかAmon Düülとかいろいろ聴いて、CANはすごくいいぞ、ってなって、当時海外で生活していたけども、ずっとCANの「Tago Mago」と「Ege Bamyasi」を聴きまくっていた。ダモ鈴木を愛でまくっていたし、けいおんのMMDでCANのPaperhouseとか出来ねーかなとか思ったものである。Thiefをヘビロテしながら就活して回った。
当時はやたらとけいおんが流行っていた。けいおんのメンバーはだいたい実在するミュージシャンの名前をもじったものであることは周知の事実だが、HTTのモデルであるP-MODELは知らなかったので、その絡みでP-MODELとヒカシューとPlasticsが競演している動画を見て、ヒカシュー、というか巻上公一YABEEEEEEってなって、オーガス02などを見て、アニメにハマり始めた。あと、テクノ御三家ってことで、YMOもちょいちょい聴き始めたのがこの頃だったと思う。
なぜ古代祐三にハマり始めたのかは詳しくは覚えていないけど、確か世界樹のサントラ動画を見たのが最初だと思う。そこからイース→ソーサリアン→スキームなどといろいろ聴いて回った。並行してファルコムのゲーム音楽にもハマっていったのを覚えている。
バレスタイン城の埼玉最終兵器アレンジのイントロがStratovariusのHunting High And Lowにそっくりとか、偉大なる試練がYngwie MalmsteenのFar Beyond The Sunのモロパクリであるなどといった理由から、ちょいちょいメタルを聴くようになる。
特に事故前のインギーのJet to Jetは本当に圧倒的で、音の弾幕がすごくて、なんだろうこの人、なんでこんなにいろいろ弾けるんだろう、すごいなあって思った。そんなある日のこと、たまたまハンターのアニメを見ていたらEDが思いっきしメタルで、バンド名もGalneryusで「あっ…」てなったりした。バイオリンの名前がバンド名って絶対メタルだよね。
そんなに数は多くないし、XとかIRON MAIDENとか超メジャーなところは意図的に避けてたけど、所謂ネオクラとかメロスピとかにカテゴライズされるバンドをちょいちょい聴くようになった。特にガルネリはANGEL OF SALVATIONあたりから入っていって、Silent Revelationを聴いたら「あれっ、ハンターの人じゃない」ってなって、YAMA-B超SUGEEEEEEってなってちょいちょいコミケでYAMA-BのCDを買うようになった。ジョジョ四部の主題歌はYAMA-Bやってくれないかなって今でも思う。
Jet to Jetの動画を漁っていたら、横山やすしみたいなおっさんが歌を歌ってるぞ!となり、Alcatrazzにハマった。比較的クリアなハイトーンボイスに慣れていた自分にとってグラハム・ボネットのだみ声は最初はハマらなかったけど、聴くうちに良いと思えるようになった。
やっぱり多くは語らないけど、「メタルといえば革ジャン」みたいな風潮にあって横山やすしみたいなリーゼント+スーツ+グラサンで自分を貫き通したところが最高にロックで、聴けば聴くほどハマる声と合わせて、最近のフェイバリットになっている。
振り返ってみると、なんかいろいろな音楽を聴いているなあって自分でも思った。ただ、mixiでクソ理論を展開しまくっていた黒歴史と相まって、自分の音楽の趣味をあまり人に語らなくなったし、ライブにもいかなくなったけど、かなり前から動画で気に入ったらアルバムはレンタルせずにお店かiTunesなどで買うというサイクルは徹底しているため、数多のミュージシャンに対して幾ばくか活動の足しにはなっていると思う。
これからどんな音楽が自分を待っているのか楽しみでしょうがないのです。
stone rosesは神。
「blurはリア充くさいから、アホそうなoasis派でいこう」と中二病的に思っていた。
いまそれぞれを初めて聞いたらblur派になるような気がする。
massive attack - blue lines
http://www.youtube.com/watch?v=PKtTmZnVhhI
と squarepusher - feed me weird things
http://www.youtube.com/watch?v=bpig1xHqUTQ
マッシヴアタックはポップなんだけど適度に暗くて
最高の打ち込み音楽の入口になってくれた。
でも今思うとスクエアプッシャーはあんまりクラブミュージックじゃない気がする。
マッシヴアタックにはまって、いろいろ聞いてみたいと思い
portisheadを買ったら、日本版の解説にロキノン系女性ライターが
「嫌なことがあった日は、一人で部屋にこもりお香をたいてportisheadを聞いてとことん落ち込むの」
みたいなこと書いてて、クラブミュージックファンに申し訳ないと思った。
http://www.youtube.com/watch?v=f2eJplBTjZE
スクエアプッシャーが気に入ったのでドラムンベースをいろいろ聞いてみた。
当時4hero,roni size,photek,μ-ziq等、ドラムンベースのアルバムが日本版CDで出ていて買いやすかった。
「でもビートのパターンが出尽くしたらおわりじゃね?」とか中二病的に考えていた。
http://www.youtube.com/watch?v=ggeu5vhbueo
squarepusherを貸してくれた友達と小箱のドラムンベースのパーティに行った。
初めてのクラブにドキドキワクワクしていたが
そのパーティは初めから終わりまでずっと同じビート(に聞こえた)の曲ばかりで
かなりガッカリして帰った。
「CDでアルバムをだすアーティストとフロア向けの曲をつくるアーティストは志向が違うのかも」
http://www.youtube.com/watch?v=R7eAQOYSXmY
ドラムンベースではまった4heroさんがインタビューで「自分のルーツはドラムンベースじゃなくてデトロイトテクノ」
と言っているのを読み、さっそく聞いてみることに。
4heroさんが選曲したテクノのコンピレーションdeepest shade of techno I+IIを購入
その収録曲 UR - jupiter jazz を聞き、頭をバールのようなもので殴られたような衝撃を受け
中二病やロキノン厨に親和性の高い野田努さんというライターの良質なハイプもあり、完全にはまった。
http://www.youtube.com/watch?v=NN2YRtNIIv4
ドラムンベースの反動もあり四つ打ちビートの有無を言わせぬ力も魅力的だった。
友達に「テクノの新譜きくならレコードじゃないとだめだよ」っていわれて
ここでターンテーブル2台とアメリカンDJの安いミキサーを買った。
レコード収集がはじまった。
まだ途中だけどここでいったんやめ
未だ完治しない中二病。
このブログを読んで、音楽大好き人間のおれからすると、「あぁ、こういう人が音楽業界をダメにしたんだな」と思った。
http://kasakoblog.exblog.jp/18220333/
この人が言うのは、要するに「ある金の範囲で稼げ」「最高の品ではなく、売れる品を作れ」ということだろ。そういうふうに端的に書くと「そんなことは言っていない」と言いそうだが、端的に書くとそうだろう。「ビジネス感覚」というのうが、まさにそれを表している。芸術としての音楽じゃなくて、ビジネスとして音楽を見ているわけだ。そこには「売れれば良い」という思いしかない。
ちなみにおれは音楽家ではない。趣味で音楽をやっているけど、本当に趣味でやっている範囲だから収入など全くない。そんな身分から見ても、本当に昨今の音楽業界って終わってんだよ。で、なぜ終わっているかというと、ビジネス至上主義の氾濫に尽きる。音楽には消耗品と芸術品がある。消耗品というのは、アイドルの曲だ。芸術品とはアーティストの曲だ。例えばAKB48の曲は消耗品。ビートルズのように、解散してもなお歌われたり演奏される曲は芸術品といえる。
なぜAKB48を消耗品というかというと、一定期間経つと売れないからだ。これはCDショップをみれば分かる。AKB48のようなCDはある一定期間経つと売れない。それにリアマスターやらコンピレーションアルバムも出ないだろう。それは音楽的に価値がないからだ。有名なアーティストは曲そのものに価値があるから、リアマスターやらコンピレーションアルバムが出る。そして、解散した後でも売れる。それはアートならではといえるだろう。
まぁ、ぶっちゃけるとAKB48とアーティストを比べるのも間違っているが。AKB48は「アイドル」であって「アーティスト」ではないからだ。アーティストとは同じは畑で稼いでいるだけで、実際は別物なのだ。
で、ちなみに「売れれば良い」という企業やら業界は基本的に死んでる。「マスコミ」もその1つだ。売れれば良い記事を書き続けた結果、「マスゴミ」といわれるほど信頼を失った。ちなみに先ほどの挙げたブログの筆者も、ライターというマスコミ関係者らしい。なるほど、だから「売れれば良い記事」を書いたのか。まぁ、このライターが説くビジネス至上主義も、彼の立場上仕方のないものだろう。なぜかというと、ライターの記事も消耗品だからだ。ライターは「いま売れる文を書く」という消耗品を作成するのが仕事だからだ。ちなみに、これと相反するのは作家だ。作家は文学的芸術家で、「いま売れる文を書く」ということはしない。その結果、何年にも渡って読まれる文を書き上げる。音楽家も同じだ。モーツァルトのハイドン・セットは2年の歳月をかけて完成した、ベートーヴェンの交響曲第5番は作曲から演奏までに4年、交響曲第9番については、10年の歳月をかけて作られている。これは極端な例だが、アートというのはこういうものなのだ。
音楽業界が残念なのは、アートな部分を無視してビジネスに走って自爆したことだろう。ビジネスも大切だが、アートを無視しすぎた。ちなみに音楽業界では著作権のことが話題だけど、これも結局ビジネス的な発想なので、自爆するんだろうなと思っている。