はてなキーワード: がっかりとは
婚活なんてとんでもない男性しかいない!がっかりした!ひどい目にあった!二度といかない!!!
かつて、婚活を始めるまでの私はそれを真に受け「なんて、おっかねぇ…」と怯えていました。
でも実際に婚活(真面目なマッチングアプリ)を使ってみたら全然そんなことはなくて、びっくりしたという話をしたくて書いています。
マッチングしてなおかつお会いした方との個人的な体験に基づいて書いています。
①見た目が格好良い
同世代~年下の175㎝↑のすらっとした方などがたくさんいた。
10人に1人程度の割合で、写真は若いときのかな?という方もいたが、まあそんな人もいるでしょう。
確かにエスコートがスマートかというとそうじゃない面もあるけれど、私は逆にスマートな慣れている人は苦手だからむしろ良かったです。
②思っていたよりみんな真面目
遊ばれたりしないかと警戒をしていたけど、真剣に結婚を見据えている方が大半でした。最初のアポで名刺を頂いたり、真剣に交際の打診を受けたり。
この人は軽いな!って人もいたけど、気をつけていれば大丈夫かなと。
収入や経歴の面でも、自分と同程度(上位20%程度の区分)の方だと価値観の不一致可能性が低いと考え、そのような方を希望していましたが、そういう方が大半でした。
③嫌な思いをしなかった
たまたまラッキーだっただけだとは思いますが。30歳だしぱっとするような人間でもないし…と思っていたけど、軽く扱われたり傷つくような言動をされたりすることはなかったです。
なんで、こんなに良かったよ!という話を書いているかというと、増田の場合はむしろ日常の出会いの方が修羅だったから。
職場のストーカーで警察沙汰になったり、10歳程度年上の男性にぐいぐい来られた挙げ句「ブスだから俺でもいけると思った」と言われたりしていたので。多分普段は受動的すぎたのだと思います。婚活時はその反省を踏まえ能動的に行動しました。
日常の体験で自尊心がぼろぼろだったから、婚活で何人もの方に誠実に接して頂けて「私でもちゃんとした人として扱ってもらえるんだ、ありがたい」と心底思いました。
最終的には、自分にはもったいないくらい何もかもパーフェクトな方と婚活開始から6ヶ月後に結婚しました。今でも配偶者に対して、「うわぁ…顔が綺麗…心が天使…」って毎日びっくりしている。
そんなこんなで、私の場合、自然な出会いにこだわっていたら間違いなく幸せになれなかったと思います。配偶者に出逢えたのは運に恵まれた要素が大きいですが、婚活をしなければそもそも出逢えなかったので。
婚活をするかしないか、迷っている女性がいたら、その人の選択の1材料として頂けたらと思います。あと、真剣に婚活している男性も、自信をなくさないで頑張ってください。
普通にネカマやってて、相手から「ところでムギたん何歳なの?」って聞かれたときの
ベストな年齢を答えなきゃという圧
「24です〜」とか答えると
「ふーん彼氏は?」と続いたりして
「いる」って答えると、「どんなセックスしてるの?」とか聞いてくるし
「いない」って答えると「身体は寂しくない?」とか聞かれる
あー下ネタで返して欲しいんだろうなーと思いつつ、俺は戦線を上げることに集中したいから、やんわりかわしたいんだけど
かわしたときの相手が、がっかりしたり不機嫌になったりするときのことを考えて、ついおっさん同士でエッチな話で盛り上がってしまう
こっちの精神は盛り下がってるのに
何も楽しくない
ドストレートに性欲をぶつけられる
だから辛い
応じなければならない
本当は応じたくない
つくづく生きづらい世の中だなあと思ったのでメモ。
https://anond.hatelabo.jp/20200724163613 を読んでとても共感したんだけれど、ブコメがまあ地獄だった。
ブコメには増田の人格を否定するようなコメントがずらずら並んでいて、そのどれもに大量にスターがついていた。しかも正論なのがたちが悪い。
確かに、女ならだれでも良いとか言ってる男は引くし、女性としてではなくまず人間として見ようというのもわかる。わかるが、お前は初めからそれができていたのかと聞きたい。
きっとアドバイスしている人たちは普通に恋愛してきて、その過程で普通に成長してきたんだろうなと思う。その結果、恋愛においてはお互いの状況が理解できないほどの差が生まれているんだろう。
この差が、まさに増田が言っていた「学生時代に恋愛経験を積めたかどうかで決まってしまう」のだと思う。
理不尽だなと感じるのが、肝心の学生時代の恋愛は自分の努力とは無関係な要素の影響を多分に受けているということだ。
学生時代は顔が良ければモテる。女ならだれでも良いと言っていようが、性格が最悪だろうが、顔面さえよければとりあえずモテる。
それは運動神経だったり身長だったり髪質だったりするのかもしれないが、学生時代はとにかく中身よりパッと見の印象ばかりが重視されがちで、それは本人の努力では限界がある。
そして誰かと付き合っているうちに顔ではなく性格が大事だということがわかってきたり、相手を異性としてではなく人間として見られるようになってきたりする。
恋愛をする中で努力や経験を積み、実際に実力(という表現が正しいかは不明だけれど)がついてくる。
ブコメで気持ち悪いと思ったのがここで、恋愛経験を経て成長した今の自分はすべて自分自身の努力によって形作られたとでも言わんばかりの態度に吐き気がした。
顔や身長なんかの先天的なアドバンテージを見ようともしないで、今の実力はすべて自分自身で獲得したといわんばかりの傲慢さを感じた。
初めて恋愛したとき、相手を思う気持ちとか、愛されるより愛したいの気持ちとか、本当にありましたかね?
小田嶋 隆さんのコラムに、「唐突に聞こえるかもしれないが、~ 簡単には非を認めないし、謝ろうともしない。」
という記事を読んで、はっと気がついた。
結局、Iさんがやっていることは、これと同じ。小学生レベルだったのか気がついたら、がっかりというか、まあ、期待してるわけじゃないから
お気に入りな人たちには、部門長の座席を増やして、昇格させてあげて、その下の社員は、リストラして減らして
スカスカの部門を増やして(なにせ兼務だらけで、50%人が多いように見せてる)、挙げ句の果てに、
じゃあ、お気に入りの部門長を減らすことから始めてみよっかって感じ。
それ言うと、”簡単には非を認めないし、謝ろうともしない。”ってことですね。
ATMの前で震えたのは初めてだった。謎の中小企業に新卒入社して早3年、ようやく貯金が100万円を超えた。ヤバい。嬉しい。
だがこの場で喜びを表明するのはどう考えても人としてヤバい。ひとまず冷静になろうと領収書を引き出し三度見してからコンビニで一番高いスイーツを購入した。懐は痛くも痒くもない。だって口座には100万円あるから。
100万円はすごい。100万円は強い。なんせ100万円があれば世界一周旅行もできるし、車だって買える。
そこまで考えたところで、ふとどんな車が買えるか気になった。別にそこまで欲しくはないし、現に保有もしていないが、まああれば便利だとは思う。いい機会だし買っちゃおうかな。地元の友達はたしかトヨタのアクア?を買ったと言っていたな。
左手に吊り革を掴みながら、もたもたとスマホを操作する。検索ボックスに、トヨタ アクア 価格、っと………200万。
気を取り直して、そもそもの目的に立ち返る。100万 買える 車、で検索。なになに、現行車で出ている100万円以下の車種、総数は……19台。
え、少なっ!世の中にはあんなにいっぱい車があるのに?!
自分の好みとドンピシャのAV女優を見つけるのって本当に難しい、と思う。
恋愛の対象である女性であれば、顔や性格、雰囲気、価値観などによって惹かれ、そのうちのどれかがある程度の基準で納得できれば、結婚に至り、一生をともにする可能性もある。結婚がギャンブルに例えられる理由でもあるのだろうが、人は意外と簡単に人を好きになり、結婚したりするように思える。
だけどいわゆるオナペット(めぞん一刻の四谷さんから学んだ単語)としてのAV女優は、外面的な要素からして、顔やスタイルに加え、最初からバストサイズ、乳首の色、乳輪の大きさなどが好悪の基準になる。少なくとも自分は、恋愛対象の女性の乳首の色が気に入らないからといって、それが理由でその人のことが嫌いになったりはしない。が、AV女優の場合はがっかりしちゃう。
しかも付き合うわけじゃないから内面的なものは関係ないかというとそうでもなく、おとなしい、積極的、明るい、陰気などといった、一般の恋愛でも重視される性格も重要だ。外見は好みなのに、イケイケのスタイルで萎えちゃうとかないですか?
さらに喘ぎ声だとか、アヘ顔だとか、体毛の濃さだとか、好き嫌いが分かれる要素はいくらでもある。
AV女優と呼ばれる人がこれまでに何人いたのか知る由もないが、これまで20年近くAVを見てきて、本当にドンピシャの女優さんは一人しかいない。引退した人なので名前は言わないが、本当はAVソムリエの方にその女優と同じ傾向の女優さんを紹介してほしい。
でもこうなってくると、その女優さんのことが好きすぎて、好みに合ったのがその女優さんだったのか、自分の好みがその女優によって変えられたのか分からなくなる。
女の子が顔を隠してエロい自撮りを上げるアカウントがあるじゃないですか
出さなかったりするのってなんなんだろうと思う
・会いません
・顔は出せません
これらはわかる。ワンチャン狙う不逞の輩はいくらでもいるだろうし
・写真写りをよくしようとしない(画面が暗いとかピント合ってないとか)
これがわからない。
プロじゃダメだ素人臭さがいいって人もいるけど、それはそれで他にたくさん裏垢があるわけじゃないですか。
ブラウスから見える谷間だけ見ても「はあ、そうですか」としかならないわけですよ。
スマホのカメラでもほんのちょっと気をつければキレイに映るわけですよ。
顔のことになると加工アプリまで使って四苦八苦するのに、顔が映らないエロ自撮りは光源すら気にしないのかと。
見たい人がいるかどうかより先に「見せたくない」とか思わないのかなと。
無残に垂れ下がったおっぱいを見ると「うひょーおっぱいだ!やったぜ!」よりも
「ええ…?」という困惑が先に来る。
(感覚としては、明らかに途中で失敗したイラストを手直しせずに得意げにアップするような感覚。
ここまで書いておいてそれだけ裏垢に詳しいってことはなんだかんだ見てんでしょ?と
突っ込まれるかもしれないけど、探しに行ってるわけじゃなくてTLに出てくるんだよ…
オタク系アカウントなので二次エロはともかく三次エロもたまにTLに流れてきて、
ブッサイクな男のキメ顔自撮りがTLに流れてきたらイヤだろ?
写りをよくする努力もしてないんだぜ?
裏垢なんてやめたほうがいい。
世間一般で女体は貴重だし、自己顕示欲を満たすにはいいだろうけど、
ここまで書いてエロ垢についてこんなに語って
おそらくキモいとか言われるんだろうなと思ってるけど、
言いたいこととしては
「自己顕示欲のために自分を切り売りするような真似をしてるんだから、
暇つぶしだろうが最低限やる気を出すか、できないならやらなきゃいいのに」
ということです。
’90年代のはじめ頃、オカルト分野に興味を持っていた私は、ある新興宗教団体が主催する(オカルト的な)催しに参加した。
その催しは、参加者の運勢を占ってくれるという類のもので、(新宿駅西口に机を並べていたような)占い師みたいな人が適当に占ってくれたのかというとそうではなく、ガチムチの能力者っぽい人たち(50〜70歳くらい)が現れ、私のリーディングをして、「あなたは2021年の7月頃に死ぬ」そして、「同じ時期に沢山の人が死ぬ」と言い、後者について、とても不思議に感じているという意味のことを私に話した。
それを聞いた当時の私は、『ノストラダムスの大予言』に強い興味を持っていたので、ミレニアム(1999年から2000年)の時期に全然関係のない話で、しかも、2021年という当時の自分にとっては遠い未来についての予言でもあり、とてもがっかりしたことを憶えている。
なお、その能力者の人々には社会常識もあり、会場にいた若い女の信者が私を宗教施設に案内しようとしたのに対して、私が未成年だという理由で、そのまま家に帰してくれた(当時はカルト宗教団体や詐欺商法に対する知識が欠落していたので、オウム真理教でなくて本当に良かったと思う)。
上記の体験についてはすっかり忘れていたが、今年、コロナの問題が生活に影響するようになってきて、マスクを買ったりコロナに効果があるという既存薬について調べるようになって、ふと、この件を思い出した。
当時の(宗教団体の)能力者の人々は、沢山の人々に対して(アカシックレコードの様な感じの)リーディングを行ない、何かを探っていたのだと思う。
どうしてこの件を思い出したのかというと、現在的な知識で解釈すると、「2021年の7月ごろに私が死亡する」「同じ時期に沢山の人が死ぬ」という30年近く前の予言は、コロナの今後を占う上での材料になりうるからだ。
もっとも、それは「曖昧な記憶の上に築き上げられる真偽不明なもの」であり「私が個人的に感じている事柄」に過ぎない。それが前提条件だ。
率直に、その材料を元にコロナの今後を予想すると、「来年もコロナの問題は終結せずに日本で蔓延(第2波)し、しかも、強毒化する」と解釈することが出来る。
私は地方政令都市のベッドタウンに住んでいるので、私が感染して死ぬという仮定だと、東京・大阪あたりの感染爆発では収まらず、地方都市にも蔓延するというストーリーになる。
だが、実際には来年のコロナの蔓延など起こらず、普通にオリンピックが開催されて、私もこれを書いたことをすっかり忘れていて、レスリングや柔道の試合に熱中している可能性もある。
しかし、また、私を含む多くの日本人は、もしかしたら、「ある種の思考停止に陥っている」のではないかな、とも感じる。
どういうことかと言うと、現状として、世界中で1400万人、アメリカで376万人、ブラジルで209万人、インド107万人がコロナに感染していて、未だに感染者の急激な増加が続いている。
そして、フランスにおける致死率は17.4パーセント、イタリアが14.4パーセントでもある。
日本では感染者2万4642人、致死率4.3パーセント、死者1001人。
私もそうなんですが、海外における惨状を、どこか「対岸の火事」だと感じ、自分とは関係のないことだとタカをくくっていはしないでしょうか。少なくとも、私自身はそう。
最近も、豪雨災害がありましたが、自分自身が被災していれば別ですが、そうでない以上、被災者本人の精神的・物質的な痛みに鈍感になってしまい勝ちなのです。
そう、「今年のイタリアやフランス、アメリカが、来年の日本」になる、コロナの問題は「対岸の火事」だとでも感じていたところが「此岸の火事」になる可能性がある。
ところで、発展途上国では浄水施設が整っていないので、ペットボトルに入れた水を6時間位太陽光に曝してから飲用することが推奨されている。
これは、太陽光に曝すことにより、水に含まれている細菌(のかなりの程度)が殺菌・消毒されるからだ。
また、朝、日光を毎日浴びることが健康につながることは常識になりつつある(体内でビタミンDが生成される)。
ところが、その日光の源である太陽の活動低下が科学的に確認されている。
https://www.youtube.com/watch?v=l3QQQu7QLoM
太陽活動が低下すると、スベンスマルク効果で火山の活動が活発になり、地震が多発し、雲が多くなり、農作物が不作になります。経済活動が低下する。
直近では、1645年から1715年のマウンダー極小期に太陽活動が低下していますが、ルーベンスやブリューゲルが『嬰児虐殺』を描いた飢饉の時期(暗黒の中世)にあたる。
なお、スベンスマルク効果、太陽活動の低下については、(国内では)神奈川大学学長の桜井邦朋氏が研究されている。
※眠りにつく太陽――地球は寒冷化する(祥伝社新書215) (amazon)
https://www.amazon.co.jp/dp/4396112157/
※太陽の活動減退で「ミニ氷河期」が2020年から2050年にかけて到来する可能性(GIGAZINE)
https://gigazine.net/news/20180217-global-warming-solar-cooling/
※あと5〜10年で地球は極寒に? 最新の太陽研究が予測(WIRED)
https://wired.jp/2015/07/14/mini-ice-age-earth-sunspots/
https://www.afpbb.com/articles/-/3004321
この太陽活動の低下により、日光による地表に対する浄化・殺菌作用が低下している、また、個々人の浴びる日光の力が弱まることにより、健康改善作用が低下している可能性は高いと感じる。
また、そのことが巡り巡って、人間の免疫力が低下するなどして、コロナウィルスの蔓延につながっている可能性も「なくはない」。
ちなみに、マウンダー極小期の前後の時期と、(主にヨーロッパで)ペストが蔓延した時期は重複している。
【おわりに】
冒頭の体験は、過去の体験を記憶に基づいて記したのみであり、私自身が、来年自分が死ぬということを予言・宣言しているわけではありません(だから、来年、再来年頃、私が普通に生活していても怒らないでくださいね。ちなみに、全く収入が無くなっても2〜3年生活する分くらいの蓄えはあります)。
コロナが終結して、東京オリンピックが無事に開催され、街なかに活気が満ち溢れるようになり、この国が繁栄していくことを願っています。
また、現代社会がディストピア化し、死亡イベントが多くの人間にとって「生地獄と化した現世からの解放」だと感じられるようになる、そのような未来が現実化するような事態は避けなければならないでしょう。
コロナに対する上で何かのヒントになる、少しでも役に立てば幸いです。
今日は久しぶりに晴れて、溜まっていた洗濯物が一気に片付いた。喉が渇いて、近くの自販機にコーラを買いに歩いた時、今年初めて『真夏の空気』を感じた気がする。体全体に容赦なく熱い空気がまとわりついて、何かの拍子に堰を切ったように汗が流れてきそうな感覚だ。
毎年、この感覚を初めて感じる時、決まって小学生高学年の頃の記憶が呼び起こされる。夏休みが始まって少し経った、学校のプールの日の事だ。
僕達の小学校では夏休みに入ると、週2回ほどプール登校の日があった。通常の教室授業は無く、学年別にプールに直接集まり、終わったらそのまま放課となる。水温や気温が低くて中止になる日は、国旗掲揚台に白旗が上がった。
地元は比較的暑い地域だが、その年は例年より涼しく、夏休みに入っても気温がなかなか上がらず、2階の窓から白旗を確認してがっかりする日が続いていた。ドラクエ、FF、ロマサガと家での暇つぶしには事欠かなかったが、やっぱり友達とプールで遊ぶ時間が待ち遠しかった。
そんな中、7月ももう終わりに差し掛かる頃にやっと気温が上がり、その夏休み初めてのプールが開催された。クラスメート達も、皆僕と同じような浮かれ気分でプールに集まった。水泳指導の先生もそれを察したのか、水泳練習の時間を早々に切り上げて大半の時間を自由時間としてくれた。ただの真四角な25mプールだったが、ゴーグルを付けて水中ではしゃぎ回るだけで時間は過ぎていき、すぐに僕達の学年の時間は終了になった。
更衣室では友達と午後遊ぶ約束をしながら、木製のロッカーを隔てた向こう側の女子の声に耳をそばだてていた。でも、窓から流れ込んでくる大音量のセミの鳴き声のせいで、内容はほとんど聞き取れなかった。
校門を出て、ビーチサンダルをパタパタ鳴らしながら家の方向に歩き始めると、正午を告げるサイレンが鳴り響いた。その音に驚いたように、電柱のカラスが1羽、はばたいていった。電柱のうしろの空はかき氷シロップみたいに青くて、雲は綿アメみたいに白かった。今日は夕立が来そうだな、と思った。
2つ目の角を曲がろうとすると、同じクラスのA子が立っていた。薄い水色の袖無しワンピースは、濡れた髪で肩のところが少し濃い青になっている。A子とは隣の席で良く教科書を見せてもらっていたが、夏休みに入る前の席替えで席が遠くなってしまっていた。女の子として意識する事は無かったけど、優しく透き通った声の朗読を近くで聞けなくなったことを、僕は少し残念に思っていた。
僕がA子に挨拶すると、A子は、少し言いづらそうに、「この後、うちで遊ばない?」と言った。
その時、響き渡っていたセミの鳴き声が一瞬止んだ気がした。僕は彼女の顔が見れず、2つに縛られた髪の片方を見ていた。僕は女の子の家なんて遊びに行った事が無かったし、高学年になってからは他のクラスメートからもそんなの聞いたことがなかった。僕は少し言いよどんで、「いや、この後○○の家に行く約束してるんだ」と言った。A子は、「そっか。」と言って踵を返し、こちらを見ずに「じゃ、バイバイ」とつぶやいて歩いていった。プールのシャワーで汗は引いていたのに、真夏の熱気が僕の全身を包んで、汗が吹き出してくるのを感じた。
A子とはその後、学校で会っても何となく気まずくなってしまい、一度も話す事が無いまま小学校卒業を迎えた。僕は公立、彼女は私立の中学に進んだため、その後会うことはなかった。
去年、当時のクラスメートB(男)と飲んだとき、久しぶりにA子の名前を聞いた。高校のとき学習塾でA子と再会し、共に都内の大学に進学した後2年ほど付き合っていたらしい。お互いのアパートに入り浸り、朝そのまま大学に行くこともあったみたいだ。
Bによると、彼女の家は当時複雑な事情を抱えていたという。小さな会社を経営する父親は外に女を作って家に寄り付かず、母親は自分が通うジムのインストラクターと不倫していた。両親とも幼い弟の方を可愛がり、A子はときに暴力を伴う厳しいしつけを受けていたらしい。
ところであの暑い日、A子は僕を家に呼び何をして遊ぼうとしていたのだろうか。夏の熱い空気を感じると、いつもあの日の事を思い出す。
実家は地方で、学校や仕事の都合で東京に住んでる人が「今年のお盆休みは帰ってこないでって言われた……」と言っているのはネットで何回も見かけたし、会社の同僚何人かからも、今年の夏は帰省しないことにした、と聞いた。がっかりだけど仕方ない、とはみんな思ってるようだ。
でも、倒産や閉店が多くなってきてる中、収入がなくなった場合はどうしてるんだろう。
失業保険はすぐにもらえるだろうけど、奨学金の返済などで苦しかったり、家賃払うのが厳しかったり、そもそも寮を出ないといけなかったり、親から仕送りするのも無理だったりで、今までであれば、親も子も「一回実家に帰る」を迷わず選択するような状況な時、差別のある土地(首都圏ナンバーを排斥するような、コロナに感染したら個人情報がバラされるような)でもそれは受け入れてくれるのだろうか。
例えば、親が車で迎えに行って車で帰って、迎えに行った親共々、自宅内で14日間隔離、なんならその後、PCR検査受けて陰性でした、となれば、東京差別するくらいコロナ恐怖がある土地でも、大手を振って歩いていいんじゃないかと思うんだけど、あの差別、実際の感染危険度とはリンクしてないな?と思うこともあるので、これは実家も住まいも勤務先も差別される側(首都圏)にある人間の感覚なのかもしれない。
少年野球の監督をしている父が、この時期に千葉に行くと言い出した。なんでも少年野球の全国大会があるそうだ。
心底がっかりした。そこまで家族よりも野球を大切にするのかと思った。
母は保育関係の仕事をしている。もし父が千葉に行ったら、数週間休まなければならないからと行って欲しくない旨を伝えたところ考えておくとだけ言われたらしい。少年野球ってそんなに大切なんだろうか。というかこの時期に千葉で大会をやるとはどういうことなのか。甲子園も中止になったのに、少年野球はいいのだろうか。父親が分からない。少年野球の子供がコロナにかかってもいいのだろうか。私たちの生活に影響を及ぼして良いと思っているのだろうか。
私は野球が大嫌いだ。
実行力や経験値から、実際の政権運営を任せるには頼りなく思うが、
れいわや山本太郎現象の盛り上がりが、日本の反緊縮を象徴していることは確かだ
日本は右から左まで、既存の有力政党は軒並み経済政策がダメダメで、
明らかな富裕層優遇や財政再建至上主義という狂気、あるいは無関心という、それはそれはひどい状態だった
どんな屁理屈をくっつけようが、日本の経済政策がダメだったことは、失われた20年が実証している
山本太郎とれいわ新撰組は、これら状況に対する有力なカウンターとなる可能性を持っているのだが、
今回の大西つねきの除名処分にはつくづくがっかりしたり不安を感じさせられた
しかし大西がれいわ新撰組における有力な経済政策論者であったことは間違いない
れいわの反緊縮傾向をよく思わない敵対勢力、利害の相反する代議士や財務省に、
この文章は実際に起きた出来事をもとに書いています。誰かを批判したり糾弾する意図はなく、事件の備忘録として秘匿で公開することをご了承ください。
また、特定を防ぐため一部事実と異なる記載もしていますが大元の筋は変えていないつもりです。
SNSで死んだはずのフォロワーが転生した。ちょうど一年前の7月の話だ。以降便宜上転生する前のそのフォロワーをAと仮称する。
Aとは今から三、四年くらい前にTRPGのセッションで知り合い、何度かオンラインで卓をし、作業通話などを行ったこともあった。声を聞いたり私生活を聞く限り、とても若いなという印象があった。
今から一年前の5月。その日は私と何人かのフォロワーがプレイヤーとしてAにTRPGシナリオの続きを回してもらう予定だった。ところが時間になってもGM(ゲームマスター、シナリオ進行者のこと)であるAは現れない。連絡しても反応がない。心配に思いつつシナリオ進行者であるAがいない以上卓を行うことなどできないので結局その日は解散となった。
Aのアカウントが沈黙して数日後、Aの親族を名乗る人物がAのアカウントを使いタイムラインに投稿した。なんでもAは腹痛で病院に運ばれたのだという。さらに数日後、A自身が自分の身体に癌が見つかった、初期の発見ではあったが命に関わるものだという旨のツイートをした。
この話を聞いた時、私よりはるかに若いAが重い病を患う事実は正直にショックだった。A本人からはしばらく卓ができない旨の謝罪があったがそれより元気になってほしいと思った。私自身、昔上司を癌で亡くした経験があり、癌の恐ろしさはある程度知っているつもりだった。癌というのは本当に、ぞっとするほどあっという間に命を奪う。
しかし、Aの体調によりAとの交流がストップし、AとはSNS上のタイムラインを見るだけのやりとりとなった中で小さな違和感が芽生え始めた。
AはA自身のSNSによれば抗癌剤による治療を受けているとのことだった。その中でAはかなり頻繁に他のフォロワーと通話を行っていたようなのだ。それも夜遅くまで。私には入院経験がないので病院のきちんとしたスケジュールは把握してないが、就寝時間が深夜に設定されている病院を私は知らない。それに抗癌剤治療はものすごくきついと聞く。それこそ毎日通話する余裕があったのだろうか、と。ただこの時は多少違和感があった程度でAを疑うまでは至らなかった。何よりフォロワーの病を疑うのは失礼だと思っていたから。
一ヶ月後、再びAの親族を名乗る人物がAのアカウントを使用し報告した。Aが亡くなった。
この報告を受けて私の中の違和感は確実に膨らんだ。癌は若い人ほど進行が早いと聞くが、いくら何でも早すぎる。それに腹痛で運ばれたにも関わらずAの親族が告げたAの死因は腹部や消化器系の癌ではなかった。Aの死を悲しむ気持ちと違和感だらけの事実に頭がごちゃごちゃになった頃、同じくAがGMを行った卓にPLとして行き、卓が中断していたフォロワーから連絡があった。「Aのことどう思う?」。
私はAの訃報は悲しいが、違和感があり正直信じられないと答えた。フォロワーも同意見だったようだったが、それ以上言及することはなく、私はAの訃報にお悔やみの言葉を送った。
数日後、SNS上で中断していた長期卓のGM募集をよく見るようになった。私がAの訃報で中断となったシナリオの卓もけっこうあった。私はこれらがAの一件によるものだと知り、その多さに愕然とした。Aは確かに時間のかかるシナリオやキャンペーンシナリオをよく回していたが、とある一人のフォロワーがAに対して6つの中断したシナリオを抱えていると聞いた時は慄いた。
私はAのSNSに連絡を取った。Aの訃報に対するお悔やみの言葉、その上でAに対する違和感、もしAが生きているなら返事をしてほしいこと、もしAが亡くなっておりAの親族がこれを見ているのならこれはAに対する言葉なので返事をしないでほしいことをAの個人チャットに送信した。
Aと私は竹馬の友と言う訳ではない。せいぜい数回遊んだ程度の、何かあれば簡単に縁など切れてしまう程度のフォロワーだ。それなのに今でも馬鹿な連絡を入れたと私は思う。Aにもまだ誠意があると少しでも思ってしまった。この時Aに連絡を入れたことは今日に至るまで誰にも話していない。
私が文章を送信してから三時間ほど後にAの親族から返信が来た。あなたの送った内容に憤りを感じている。私(Aの親族を指す)も嘘だと思いたい。もAに生きていて欲しかった。そんな感じの内容だった。
私が考えていた中で最悪のパターンだった。同時に私はAは生きていると確信した。
私はAに嘘でもいいから生きていてほしかった。だからA本人から連絡がくるのが最高のパターン。次にこのままDMが動かす読まれることなく終わる、もしくは返信なくブロックされるのが想定内のパターン。どんな親切な親族だろうと身内の死を疑う内容の文面にまともな返事を送らないだろうと考えていたからだ。そもそも本人以外返事をしないでほしいとわざわざ書いた。
Aは私という他人の前ですら、誠実なふりをすることすら辞めたらしい。親族という皮をかぶり本当に身内を喪った親族からすれば気分を害する内容の連絡にさほど時間を置かずに返ってきた妙に丁寧な文章、「あなたは誠実な人なのですね」という一文がただただ気味悪かった。私はこれ以上の言及は無意味だと適当に連絡を打ち切った。
それから一ヶ月後、とある匿名アカウントが現れる。警告アカウントと題されたそれにはAが別のアカウントを使い、別人としてシナリオを制作し卓の募集をしているというものだった。死んだフォロワーが転生した。ちょうど一年前の7月の話だ。
私は特に驚かなかったが心底がっかりはしたし憤りもした。新しいアカウントとやらに見に行くと確かに作成したシナリオはAと酷似している。というかほぼ同じだ。もうちょい上手にやれよと呆れざるを得ない。警告アカウントが広まり始めるとAの新アカウント(仮)はアカウントのみ残して消えた。
そこからさらに数ヶ月、とあるTRPGシナリオを目にした。それはAの新アカウント(仮)が作成していたシナリオそっくり、というかほぼ同じで、あっと思った頃には警告アカウントも再び動き出していた。転生、アゲイン。ここまで露骨に分かると笑ってしまう。笑い事ではないのだけれど。
ただ前回と違うのはその新アカウントはめちゃくちゃ人気を博しており、現在に至るまで消えていないということだ。Aが生きていた頃から感じていたことだが、Aには「信者」なるものがいるらしく、以前Aが問題ごとを起こしたときも指摘をした人がAの信者らしき匿名アカウントにものすごく叩かれたのだという。今回も新アカウントにコンタクトを取った末叩かれたり脅迫されたりした人を何人か見た。
地獄への道は善意で舗装されている、という言葉をまざまざと見た。新しいアカウントでのフォロワーは1000人を超え、再びいくつもの長編シナリオを回す予約を取り、さらにシナリオの販売まで始めたAは次はもう転生できないだろう。前回と異なり金銭が絡んでいるのだから。なのに転生したAはまた同じようにいくつもの卓を立て大量の長編キャンペーンシナリオを制作し、そのどれもが制作途中に関わらずすでにプレイヤーを募集している。
私は転生したAを見つけたときとてつもなく怒りの感情があった。他人とのコミュニケーションと信頼の上で成り立つゲームを途中で放り出され、癌という最悪の部類の嘘を吐かれ、批判覚悟で送った文章を足蹴にされた。その上すぐにバレるような形で転生し、なんの反省もなく同じことをくりかえしている。
だが転生を繰り返すAを今はただただ哀れだと思う。嘘をつき続けるというのはすごくしんどいことではないだろうか。それとも息をするように嘘が吐ける体質でもあるのだろうか。それはそれで嫌な人生だ。
私はAと関わりのありそうな全てのアカウントをブロックし、以降は目に入れないようにしている。警告アカウントも流れてきたものを目にするだけで特にリアクションしない。警告アカウントも警告アカウントでAの新アカウントの作品動画に直接警告文を送るなど、段々過激になっていることに少なからず嫌悪を抱いている。これらAに関する一件に触れたくないフォロワーもいる。私は真実かどうか分からない薄い正義より今でも一緒に遊んで元気に生きてくれるフォロワーの方が大事なのだ。
フォロワーがAの新アカウントをフォローしたりAの新アカウントが作ったシナリオで遊んだりすることも特に何も思わない。警告アカウントができた当初はフォロワーへの注意喚起として拡散したりもしたが、フォロワーが誰と何で遊ぶかはフォロワーが選ぶことだ。フォロワーに対する余計なお世話である。
ただ何も思わないっちゃ思わないのだが、新アカウントの動向を軽く見た限り恐らくその人は同じように大量の長編シナリオの予約をしてすっぽかす可能性が非常に高いので苦労するからやめとけとは思う。ちなみにそれなりに募集はかけたが一年が経った今も私達が放棄された卓の続きを行ってくれるGMは見つかっていない。
ここまで書いておいてなんだかAが死んだと嘘をつき、新アカウントで猛威を奮っているという確たる証拠はない。もしかしたらAは本当に亡くなっていてAによく似たシナリオを描く誰かなだけかもしれない。そうであってほしいとも思う。
Aの訃報を聞いた時、嘘でもいいから生きてくれと思った。Aの新アカウントを見つけたとき頼むから死んでいてくれと願った。今はもう嘘が本当か分からない夏の怪談話の一つを手に入れたような気分だ。
私はAの転生を見て様々な学びを得た。計画性なく卓を詰め込みすぎないこと、できないと思ったら素直に申告すること、心からの謝罪の大切さ、過ちを庇うだけが思いやりではないこと、人はそう簡単に変われないこと。
皮肉なことに不幸中の幸いなのはAが家族でも親友でも恋人でもない、ただ数回遊んだ程度の、何かあれば簡単に縁など切れてしまう程度のフォロワーであるということだ。もしも家族や友人がAのようだったらと考えるとぞっとする。家族や友人が善意で舗装された地獄への道を歩いているとき、多分私は何もできない。
せめて、私が大切だと思う人たちが嘘による転生などを行わないことを、嘘の繰り返しで誰かを傷つけないことを、ただただ願う。
私はお刺身を食べる際あまり醤油をつけないのだが、それは別に通ぶっている訳ではなく、実家に居た時に使っていたお刺身用の醤油と、世間一般の刺身醤油が全く違った味で、ただ単に塩っぱくて気に入らなかったからだ。
白身魚やイカ等淡白なお刺身にたっぷりかけ、むしろ漬け込み、ご飯に乗せ、勝手にプチどんぶりを作って食べるのが大好きだった。
ホタテはそのまま何もつけずに食すのが1番美味しい。それは変わらない。
だがしかし、今朝何故かあの甘い醤油の存在を思い出し、どうしてもあの醤油で食べてみたくなった。
大好きなホタテと大好きな醤油のコラボレーション。美味しくない訳がない。
とりあえず検索をした。
普通の刺身醤油やたまり醤油が並ぶ中、「九州の刺身醤油は甘い」という情報が目に入った。
記憶が少し蘇った。母がそんな事を言っていたような…。言ってないような…。
確証を持てなかったので、直接母にLINEを送って聞いてみることにした。
「熊本の刺身醤油、あんたが気に入ってそれでしかお刺身食べなかったから、永嶋さんに頼んで送ってもらってた。もう付き合いもないし、手に入らないよ。」
永嶋さんとやらが誰なのか全くわからないが、とにかく熊本のお醤油らしい。
問題は銘柄だ。どうせなら実際食べていたブランドそのものがいい。
パッケージに「さしみ」とひらがなで書いてあった事は覚えている。画像検索で出てきた、これかなと思える2枚を母に送ってみる。
「あまり記憶にないけど2枚目のほうな気がする。どっちでもいいんじゃない?」
全然違ったらがっかりするのはこっちなんだから真剣に考えていただきたい。どうせなら完璧を求めたい。あの甘味…コク…。
だがここで問題が起きた。
これじゃないかと思われた醤油が鹿児島産なのだ。熊本産ではないのか。
本当にこれなのか。永嶋さんに騙されていないだろうか。
「そこまで知らないよ。そんな事よりそっちコロナで〜(以下略)」
もう完全にどうでもいいという返信になってしまった。もう母には頼れない。
Amazonに1000mlサイズが売られている事を確認。しかも今頼めば明日届く。迷わずポチった。
うちは母子家庭で、決して経済的に恵まれていた方ではなかった。
そんな中でも食に関してだけは豊かだったと勝手に思っている。
好き嫌いが激しく、幼少期は病弱で、保健の先生に「ご飯食べれてる?」と心配されていた私に、それなりの量を食べさせる事は苦労したであろう。
とにかく食べろと色々試されたり甘やかされたりした結果、今でも好き嫌いが激しく拘りが強い。だがしかし、色々なものを食べさせてくれたお陰で、何故かはるばる鹿児島から送られてきていた醤油でお刺身を食べさせてくれたおかげで、
ありがとうお母さん、そして永嶋さん。
印刷会社の者ですが
事前人気に頼らざるを得ないというのはわかります。
確かに刷り部数の決定は駆け引きというか…当初は3万部という話が、出版社内の営業と編集で争った結果5000部になりました…。
とかよくありますよね。
編集さんがプレゼンしなきゃいけないのは、買い手である読者に買ってね、書店さんへ良い場所へ置いてねこの本よろしくね、以外にも多く、
営業や社内へ向けて「出版するか」「何部刷るか」のプレゼンが大変そうです。
それには確かに、数字としての実績や人気を示さないといけなくて…「Twitterで話題で人気の原作(作家、漫画など)です!RT数、フォロワー数はこれくらいです」もひとつの指標ですよね。
「売るための下地」がなければ「部数を刷れない」のは、たしかに現実として正しいことです。
これは事務所や代理店の関わる「売ろう」と決められた本なので、あらゆる媒体で宣伝され、広告がうたれ、「売るための下地」をお金をかけて作りました。
初版1刷は2万部です。
公表につき再刷!増刷!重版(厳密にはちがいますが)!○万部突破!
これもまた実売数を売るための下地であり、刷り部数を増やすテクニックです。
元増田さんは文芸でしょうか?なかなか下地の難しい分野ですよね。
部数を多く、という以前に発行に漕ぎつけるまでが。
コミックスであれば、現在は3000できれば5000部というロットで刷れるようになったため、とりあえず出してみよう、が以前より多く感じます。
POD(オンデマンド)本を勧めてらっしゃる方もいますね、弊社も承っておりますよ、書店サイトから注文が入り即日C1000でプリント、手作業でPP貼りし、手作業で製本して手作業で断裁、そして発送。
正直こちらは一般に流通する書籍などと同等とは言えませんし、刷り部数が確保できないほどの小ロットにしか向きません。
印税(率、または単価が高いことによる額)が良くても総合的には部数が稼げる商業印刷には収入としてはかなり劣ります。
宣伝して売るための予算を取る、初版部数を増やす、これらは買い手への宣伝ではなくて社内へのプレゼンです。このためには、事前の評価が必要なのは事実です。
どんなに編集さんが熱心でも、その予算が取れず部数も減らされてがっかりされていることは日常で、私たち印刷会社も以前より部数が絞られる傾向を感じています。
刊行タイトルが増えて、抱える作家さんが多くなったせいか、宣伝できるタイトルが絞られている印象です。
タイトル数が増えて、個々の実売数が減っている…そうすると人件費率も経費率も爆上がりですからね…。
(印刷会社から見て、印税10%は妥当かなと思うのですよ、物価が高くなったとは言え製品原価自体は微々たるものですが、あまりに一冊をつくるのに人手と時間がかかるので…。)
(売れる本だけ大量に刷れるなら別ですが、大半の利益の出ない売れない本の経費や赤を、売れる一部のベストセラー本が補っている現状です。)
作家さんが増えて「経費」も絞られていますよね、校正校閲を省くという荒業から…作家さんへの接待なども。
我々業者は、作家さんの花見の席取りや、作家さんの趣味の観劇チケット取り、打ち合わせで行きたいとリクエストのあった予約制飲食店の予約…などによく駆り出されたものですが、新人の方への接待で呼ばれることは少なくなったように感じます(大御所さんはいまだにありますが)。
これを言うと角が立つわけだが、ひとことでも感想がコンスタントにもらえる状態なら、少しひねって今後の参考にしたいからどこが特に好きだったか教えてくれると嬉しいと明示しておくとか、アンケート置いとくとかしたらよかったんじゃないか。
あとは好みの感想を送ってくれたひとに報酬をあたえるとかか。長文感想の人のリクエストには都度答えるとかフォローをするとか、好みの感想にコメントするとか。これが極端になると(さらに追記)ひとりの長文感想マンに推しカプ界隈を支配された話のようになる気もするが、そういうのには「私は好きにした、君らも好きにしろ。」でいいんじゃないか。
水は低きに流れ、人は易きに流れるって言うだろ。人は楽な方を選びがち。
だからそういう感想がほしいときに、人間の習性に素直に従う読者を責めるのではなく、読者がそういう感想を書きたくなる工夫をするべきなんだと思う。