はてなキーワード: 「卒業」とは
私は普段反出生主義と安楽死合法化を推進するゴリゴリの過激思想をやっているのだが、それを見た人からしばしば「厨二病じゃん、思春期のうちに卒業しておきなよ」と言われる。
残念ながら、私が患っているのは厨二病ではなく自閉症と二次障害(双極性障害だったり統合失調症だったり診断名は何転かしている)というマジの精神疾患だ。
自閉症の特性ゆえの視野狭窄で小学生の頃から思想は尖り続ける一方だった。多感な思春期に二次障害を併発してからは、主に躁状態のときに思い浮かんだ攻撃的な思想が寛解期や抑うつ期にも正しく思えるようになり、いっそう反社会性の増す思想になってきた。
自分の中でもこんなヤバい主張は精神疾患から来るものだという客観性はまだあるものの、一方で先天性の発達障害を自分の人格と切り離して考えることも難しい。
「この思想は反社会的で悪であり、それを考えさせたのは脳の異常だが、異常者にも思想の自由はあり、これは私という人間が人権を行使して主張したい思想だ」という面倒なロジックで自我を保っている。
私のような過激な精神異常者が「厨二病」というマイルドな言葉でいなされるのは大いに平和的だが、完治のない精神疾患に気軽に「卒業」を要求されても困る。健常者は思春期以後丸くなっていく人も多いだろうが、私のように障害が原因で就職で詰むなどして孤立や貧困に向き合うと、加齢と共により過激な思想に傾倒せざるをえないのだ。
こんな異常者を人として生かし続けるというのなら、病人の戯言と受け流さずに私という個人の思想も聞くのが政治と福祉ではないのか。
https://www.bengo4.com/c_23/n_17438/
2022年8月のある日、佐藤さんは、にじさんじに所属するライバーのプライベートについてしつこく質問するコメントを10数分のうちに100件近く連投するという「荒らし」をおこなっていた。
対象となったライバーは、仲間の配信に迷惑をかけるとして活動を即座に休止。同年中に「卒業」に至り、SNSやネットニュースで騒ぎになった。
「他のライバーの配信において、自分に関する変なコメントが大量になされてしまっている。他のみんなに迷惑をかけることはできない」(このライバーが同社に伝えた内容)
これ、アクシアのことだろ。
アクシアさんに対しては、春ごろから誹謗中傷、偽情報の流布、関係ライバーへの危害予告があったといい、ANYCOLORが8月に活動休止を発表していた。他のVTuberの配信でも“荒らし”行為があり「配信事業に対する著しい業務妨害行為が行われるようになった」(同社)という。
「『母親ヅラしないでくれ』と注意してきた」 にじさんじ所属アクシア・クローネさんが無期限活動休止を発表
「にじさんじ」所属ライバーのアクシア・クローネさんが、8月18日から無期限で休止すると発表。一部のファンについて「『母親ヅラしないでくれ』と注意してきた」などと怒りを露わにしました。
はてなでも「男にかわいいと言うことの是非」論争を巻き起こしたVtuber。
佐藤大輔さん(仮名・30代後半)は取材場所の京都市内にやってきた。交通費を捻出する必要があり、障害者年金の支給直後の日取りが指定された。(記事内には障碍者手帳の写真もあり)
旦那は先生でワイは元教え子、歳の差は10個。辰年と寅年の龍虎図夫婦。
ワイが無理言って卒業後に連絡先もらってしばらくして付き合うようになった。在学中は一切不適切な関係は無かったって誓える。
付き合って初めて一緒に出かけた時、水族館行った後にカラオケに入った。西口のカラ館だったはず。
その時に彼(旦那)が歌ったのが、THE YELLOW MONKEYの「プライマル。」って曲。
上記の通りワイは彼より10個下だから、THE YELLOW MONKEYを聴いたこと無かった。世代じゃなかった。名曲「JAM」も知らんかった。
解散する前の曲らしく、吉井和哉さんの詩は「卒業」とか「さようなら」とか、好意を抱いてた人との別れの曲みたい。
ワイが卒業する時に思い出した曲なのかな。卒業式の後に、感謝の気持ちと好意を伝えたことを覚えてる。ありがとうってしか言われなかったけど、「プライマル。」を聴くと、あの時の先生(彼)の気持ちがわかる気がする。
先生は優しかったから、色んな話をするうちにワイの事を気にかけてくれるようになったんだと思う。それを「好き」って気持ちにしないでいてくれた彼に感謝。
彼はワイの授業を1個担当してただけで、この先もう関わる事なんてない人間だったから、「卒業おめでとう〜」「振り切ったら〜」って歌詞は彼の気持ちだったのかもしれない。もう一生関わることの無いだろう人への未練と応援、自分への決意表明。勿論ワイの深読みの可能性もある。
ワイが卒業した後にやっと好意を認めてくれたのかな。だから「きっと好きだった」なんだろうな。歌い終わった後恥ずかしそうな顔してたのも覚えてる。
ここからワイはTHE YELLOW MONKEYが好き。ファンクラブにも加入してる。他の曲も名曲揃い。彼の気持ちを伝えてくれた存在だからね。
彼との結婚生活はガチで大変。でも「プライマル。」を聴くと彼の気持ちを思い出すから、彼が愛おしく(?)思える。ケンカやばい時でも。
斉藤由貴「卒業」https://youtube.com/watch?v=oSqTaVzqPIk
南野陽子「恥ずかしすぎて」https://youtube.com/watch?v=sFmtotmrYiU&pp=ygUj5Y2X6YeO6Zm95a2QIOaBpeOBmuOBi-OBl-OBmeOBjuOBpiA%3D
浅香唯「夏少女」https://youtube.com/watch?v=laX3goFOuXk&pp=ygUU5rWF6aaZ5ZSvIOWkj-WwkeWlsyA%3D
中山美穂「「C」」https://youtube.com/watch?v=UgxHlo2PJE0&pp=ygUO5Lit5bGx576O56mCIGM%3D
暴走族「御粗魔Ⅱ」退治のことか?
連載当時(1986年)、「聖飢魔Ⅱ」は「蝋人形の館」の大ヒットにより一躍有名になっている。
おそ松くんはこの時点でとくに動きはないが(アニメ第二期は1988年)、単に作者の趣味?
「すきよ!すきよ!キャプテン」
「古いギャグをやるな!!てめえら!!
1975年に双子の女性アイドル「ザ・リリーズ」がリリースした「好きよキャプテン」の一節。
https://www.uta-net.com/song/41024/
当時の小学4年生が生まれた年なので、小学4年生もたぶんわからないのでは……。
ちなみに曲を聞くと「すきよ」の後に「!」は付かないと思う。
当時時点でも例え話として出すには古すぎる気がする……。
ちなみにかなり似ていたりする。
「あれ?先輩は!?」
「トキにされちゃったのよ」
1986年にはトキのアオが亡くなり、国産のトキはミドリのみになってしまう。
このトキは両津市で捕獲されたものなので、その辺を意識したものか。
ちなみにトキそのものは中国で生息しており、後に寄贈してもらい、人工繁殖に成功することで、現在は生息数を回復している。
Back to the 江戸時代の巻
前年(1985年)にバック・トゥ・ザ・フューチャーが公開されている。
前年(1985年)に発売された斉藤由貴のシングル「卒業」のテレカが高額取引され、テレカブームに火が付いた。
ネットで確認できる情報だと30万円なので、実際に500万円で売れたのかはわからない。ちなみに今でも10万円くらいはするそうだが……。
30年前(1956年)にタイムスリップした両さんが発したセリフ。
実際にこの数年後の1961~1963年にかけて、戦後最大の紙幣偽造事件(チ37号事件)が発生し、1963年から伊藤博文の新紙幣が発行されている。
原宿って所は!
原宿は東京オリンピックを境に開発された街であり、両さんがタイムスリップした時点(1956年)では明治神宮以外では米軍やその家族向けの店くらいしかなかった。
金(キン)!!金だ!
メチャクチャ金が値上がっている今から見ると、物凄い先見性のある考えに見える
ググってみると「鴛鴦鸚哥丸 鬱男」なる人物は存在せず、フィクションだそうで。
実際の選挙では個人が認識できる票であればカウントされるので、一票ということはさすがにないか。
「原爆落とし」以上の必殺技「パニック放射能もれ落とし」これは強い!
世界中がびびるぞ
1986年はチェルノブイリ原発事故が起こった年なので、そのネタかと。
こうしてみると、放射能は恐れられると同時に他人事感がこの時点でかなりあったことが伺える。
だいじょうぶ
昔、堀江謙一という男は
ちなみに昔話のノリで語られているが、堀江謙一氏はまだ存命中である。
https://www.suntorymermaid.com/
前述の堀江謙一氏は、ヨットで太平洋を横断するのに94日掛かっている。
むかし、漫画を描いたり同人活動をやっていた。コミケにも断続的に数回サークル参加した。
この道に入った発端は小学校五、六年の時に友達がそっち系アンソロ持ってきたのが出会いだった。なんかテンプレみたいな出会いだけど、こういう世界がやり方があるんだって、ときめいた。ときめいてしまった。
やおいサイトや夢小説のお約束とか洗礼も(なんかその頃は緩くなってたと思うけど)受けた。
その頃から中学にかけて、ニコ動でテニミュMADとかパンツレスリングみてケタケタ笑ってたような、そういう世代だった。
いわゆるホモネタにも勝手に耐性がるとか、そういうネタをやっていることが寛容さなんだみたいに思っていた。
同人とかを通じてそれなりに知り合い友達もいっぱいできた。トラブルにはあんまり会わなかった方だと思う。
でもここで書きたいのは私の活動遍歴じゃない。
IT企業に就職した後、職場結婚して、そしてまあいろいろあって、妊娠した。同人については「理解のある彼くん」で、本当に助かった。
結婚や妊娠で活動が変わったり「卒業」することは、もちろんごく普通にあり得ること。
でも私は子どもを産んでからも出来る範囲で(それがいつから、どれくらいなのか分かんなかったけど)同人やり続けようかなと思っていた。
しかし、女の子を産んでから、自分の過去の活動に対して、罪悪感なのか、それとも憎悪なのか、ちょっと良く分からない感情が芽生え始めた。
そしてなんというか、赤ちゃんやよちよち歩きの時より、こう、一人であちこち行け始める「子ども」ってなった時、一方で自分の過去への暗い感情が強まって来た。
(二次創作そのものの問題はともかく)ただ自分の好きな世界を描いていただけ。カップリングに盛り上がっていただけ。それだけなんだけど。
なんか説明できない。
「自分の過去の活動が、世界を巡り巡って、他の子どもたちに悪影響を与えていて、それに親として向き合う立場になってしまった」・・・じゃないんだよな。
「もし娘が自分の様になってしまったら」・・・あるかも知れない。でもそれは差別というかなんというか。自分が母親に「やおいなんて絶対に許さない!」なんて言われたくないし。
でも、「自分が受容していたというか発進すらしていたオタク的文化を、親の立場になってからいいようのない(遺伝子に刻み込まれたレベルの)不安や嫌悪感で転向して否定したりするのはめっちゃ卑怯じゃね?」という気持ちはある。
この間ガルガル期という言葉が流行った時に、あの言葉叩かれたけど、あの「ガルガル」ということばでしか感情を説明できないお母さんの気持ちがわかる。私もその言葉は知らなかったけどそうだったから。
一つだけ具体的に言うと、去年、知り合いに誘われて数年ぶりに同人イベントにちょっとだけ行ったら、R18もある中で小学生くらいのお子さんを連れて来てる人を見て、ちょっとゾッとした。でもそれは私の勝手な感情。この勝手さにも罪悪感が湧く。
私の出産を祝ってくれたり、成長の様子を聞いてくれた同人の友達(彼女は独身)とこの前会った時に、それとなく、なんかこういうことをやると子どもの顔がちらついちゃうから、卒業かな、みたいな話をした。
そうしたら「子どもとあなたの趣味は別なんだから深刻に考えなくていいんじゃない」みたいなことをいわれた。他の趣味だったら、美談と言うかそうだよねってなるんだけど・・・。
これまでずっといい関係だったのに、単なる卒業とかではなく、自分のやってたジャンルを否定してるのは私。卑怯というか意味不明なのは私。
でも、娘に、ホモネタとかエッチネタとかに接してもらいたくないし今のSNSにいるようななんでもエログロに結び付けるようなオタクとその世界に関わってほしくないと、かつて自分がそうだったのに勝手に思ってる。
多分、私は同人としても親としてもずっと中途半端だったんだろう。もちろん中途半端である事の深刻さは後者の方が上だろうけど。
雑誌がある年齢層にターゲットを絞ってるから、読者が自然と卒業して別の雑誌に移っていく
セブンティーン→ノンノ→MOREみたいに(選択肢は山ほどあるので一例)
少女漫画もそう
少年漫画も、コロコロずっと読ますに少年ジャンプとか行くようになってる
ターゲットを「特定の生まれ年の読者」ではなく「特定の年齢層」に絞るんだ
例えば2000年代生まれにターゲットを絞るのではなく、「20代」に絞るというように。
それができてないのがいわゆる週刊誌系。
これらは「特定の生まれ年の読者」をターゲットにしてしまったから、新規層は入って来にくい
今回のスープストックに関しては、どちらかというと「特定の生まれ年の顧客」をターゲットにしてしまっていて、あまり良くない傾向ではあると感じる
家族層もターゲットに入れたのは、あまり売り上げが芳しくないんだろうなと推測される
調べてみると、首都圏やオフィス・駅構内の店舗の売り上げは在宅勤務等で落ちる中で、郊外型は家族連れが増え、高齢者も利用して好調らしい
マストトドンはより蛸壺的でどこも風通しが凄く悪くてあっという間に腐っていく。
Discordとかの音も扱うタイプのSNSは文字情報と比べるとペースが遅いから合わない人は全く合わない。
Facebookなんて全く代用にならないし、インスタはそもそも拒否反応が出る。
匿名掲示板なんて今更やる気にもならないし、ブログはミニブログとは全く別物になる。
そもそもいい加減ゆるいI/Oではなく学び直しや創作に本腰を入れたい人も多いし、逆により高密度なコミュニケーションを求める人はチャットやリアルへと向かうんだと思う。
まさに「卒業」って感じだ。
一部の亡霊だけが残って、それぞれが全然違う道へと去っていく。
大部分はもう会うこともないんだろうな。
実家を除けば人生で一番長く過ごした場所がこれから無くなっていく。
でもいい時期だったんだろうな。
緩い繋がりに甘えてつまらなくなっていくフォロイー達の姿にいい加減疲れを感じてきていた。
それからどこかでまた会おう。
よい子の増田さん、おはようございます(芸能界は昼でも夜でも「おはようございます」でアイサツします)。
いよいよ本日2023年1月20日(金)から「アイカツ! 10th STORY 未来へのSTARWAY」が全国のイオンシネマ系列を中心に上映開始です。
詳しくはネタバレになるので27日まで話せませんが……見終わった後席を立てませんでした。劇場を後に出来ませんでした。
今まで増田で散々アイカツ!がどうこうゾンビがあれこれ駄文をしたため続けた、ファン歴歴10年の私が、帰りたくないと本能が訴えておりました。
正直初めてです。今まで色々な映画を見てきましたが、席を立てなかったのはこの作品が初めてです。
なんで席立てないのかなとグッチャグチャになった感情を隅にやって考えますとね、やっぱり私が初めてアイカツ!に触れてから今までの積み重ねが一気に昇華されたからなんじゃないかなと。
自分にとってのアイカツ!の影響力って半端なかったんですよ。自分語りしますとね、これきっかけで同人誌描いてコミケ参加しましたし、ガレキ作ってワンフェス参加しました。来月も出ます。
夢のままじゃ違うなって、夢を夢じゃなくした何者でもなかったいい年したキモ・オタクがなんかやりてぇ!って手動かし始めたんですよ。もうね、彼女たちを見てたらなんかしたくてたまらなくなったの。
俺はこの作品めっちゃ好きなんだ!これからアイカツ!を知る幸運な人に向けてなんかやりてぇ!って。アイカツ!きっかけで始めた事って割と多い。
あとね、本編見てて何度感情を破壊されたか分かんないですよ。アイカツ!ってもう大河なのよ、ここまで話数があればそれぞれの人生の軌跡を見てるから。
あかりちゃんなんて見てみなさいよ、ただの一人の少女がトップアイドルになるまでの過程を全部見てんですよこっちは。親以上にだよ。その人らが見てないとこも見てるの見守ってるの。
そりゃ感情移入しますて。「卒業」なんてただの羅列かもしれないけど、いちご達の「卒業」ってそれ以上の意味を持つじゃないですか。10年後の卒業ですよ。そら立てんくなりますよ。
あとね、アイカツ!スタッフにはこの作品をきっかけでいい方向に人生が分岐したり、自分の仕事に誇りを持つ人もいたでしょう。パンフレットのインタビューを読むとね、ひしひしと伝わってきます。
自分もその一人…なんておこがましいことは恐れ多くて言えませんが、確実にアイカツ!によって人生がいい方向に分岐した人間の一人です。
10年ですよ10年。二桁だよ?そんだけ追いかけ続けたアイカツ!がね、終わっちゃうの。
永遠に醒めない幸せな夢、私たちがずっと変わらない想いを抱き続けることで未来永劫存在し続けることを宿命付けられたコンテンツにすることも出来たの。
でも制作側は見送った。娘の晴れ舞台と未来を創ってやったんですね。
それを見届けさせてくれたんですよ、「アイカツ! 10th STORY 未来へのSTARWAY」で。
そしたらよ……立てなくなっちゃったよね。
茫然……とはまた違うと思う。なーんにも考えられなかったけど充実感はあった。
ただ少し寂しかったかな。キャッチコピー的にもまぁ…そういうことなので。
劇場を後にしたらきっと、いつもの日常が始まってしまうから。大切な、いとおしい光景が、朝の空気に醒めちゃうから。
正直ね、見るの怖かったんですよ。
「アイカツ! 10th STORY 未来へのSTARWAY」を見終わってからも今の熱量のままファンでいられるのか?って。愛し続けられるのかなって。
今まではこの映画を糧に生きてきたけどさ、それが無くなっちゃうんですよ。食べたら消えるの。
アイカツ!が無くなってからの人生なんて正直全く想像できませんでした。公式からの供給が無くなるなんて、今までなんだかんだで続いてたわけですし。
そんなん分かるわけないのに。なってみないと分からないですよね、不毛ですよこんなん考えるの。
でも考えちゃう。アイカツ!がなくなる生活に耐えられる気がしない。意味の分からないよく分からないことで悩んでた。
アイカツ!という作品が思い出になるのが怖い。昔は楽しかったなんて振り返りたくない。
もう分かんないんですよ、どういう心境で見ればいいんですか?あいつらの卒業をどういう心持で迎え入れればいいんですかって。
時を重ねるごとに一つずつアイカツ!を知っていってさらに時を重ねて一つずつ分からなくなるんですよ。
けどね、「アイカツ! 10th STORY 未来へのSTARWAY」にはあの頃の楽しい想い出が、今でもいっぱい詰まっているんだって気付いたんですよ。
「思い出は未来のなかに」なんてうまいこと言ったもんですよサンライズさん。
1週間、一か月、一年。どれだけ時間が経過しても、この作品を好きな気持ちは永遠に色あせないと確信できた。
TVシリーズでもいい、漫画でも、ライブBDでもいい。DCDカードでも、グッズでも、自分で作った二次創作でもなんでもいい。
それらを手に取れば、その時好きだったあいつらに逢えるんだから。
ゾンビは今日で卒業です。10年とこれからの楽しい想い出が私の血となり肉となりました。
ある趣味とか、あるいはオタクとかアイドルマニアとかのコミュニティの内情を指して
「いつまでも仲間がいる、趣味が続くと思っていたのに、周囲がどんどん結婚したり就職したり「大人」になっていって取り残される奴プギャー惨め」みたいな話とか画像
昔のネットにはよくあったじゃん
多分その悲惨な光景というか原風景みたいなものはたぶん実際にあったことは簡単に想像できるし、まあ妥当な部類の話だとは思うんだよね(私としては2chやまとめサイトで説教されてもなとは思うが)
でも最近は、違うんだよね
もう、比較できる周囲にすら「結婚したり就職したり」といった比較対象が無かったり、それ自体に何ら魅力や成長というものが見出せなかったり、そもそも「大人って何」ってことで
昔の言い方で言う「取り残され」が発生しない場合が増えてるじゃん
SNSとかで(刺々しいやり取りばかりの2chやゲーテッドだったMIXI以上に)同好の士もそれなりに見つかるようになったけど、昔みたいにせいぜい行ってOFF会みたいなコミュニティとは違って互いの「何となく続いてる」日常が見えてる訳で
昔だったら上の話のなれの果てだったであろう「いつまでも変な趣味追っかけてるキモいオッサン」が普通の域になってるし何か負の「卒業しなければ」圧力がうまれることは無い訳だし
まあ結局個人の好き嫌いや飽きを「卒業」って美化しただけの話は今でもそれなりにあるけど(芸能人が不祥事起すとか・・・)、その去りも静かなものでしかないし
以前だったら絶対後ろ指刺されまくったであろう、女児向けアーケードゲーム筐体に噛り付いてるオタクとか
普通にSNSで緩く繋がり合ってて常に仲間がいる状態なら、「自分を顧みる」「周囲の同年代の人々の挙動を見る」なんて機会自体は今もあるだろうけど、別に「僕には帰れる場所があるんだ」でしかない
何もネット説話とかスカッと・胸糞コピペみたいな話も生まれない
以前はなんかギャグみたいな存在だった(大御所作家みたいなものではない)ただの60代70代老人のオタクとかどんどん増えてるし「オタクが老人ホーム入ったら何すれば良いか問題」が本気の問題になってる
はるかぜちゃんから分離して単身で活動するようになったはるかぜちゃんママがしょっちゅうやらかすこの頃。
ママが宿っていた頃の昔のはるかぜちゃんのツイートを漁っていたら、中学生だった3年間のツイートがごっそり削除されていることに気づいた。
中学入学前のツイートは見つかったので、古すぎると検索に引っかからないというわけでもない。
多分、検索システムの問題で引っかからないのではなく中学3年間のだけ消したんだ。
https://togetter.com/li/484435
例としてはこのまとめはセルフまとめで、内容も読んだ数分後にはすぐ忘れるようなあたりさわりのないものだ。そんなものまでツイート元を見ようとしたら削除されてる。
中学生は人間が一番黒歴史をつくる時期。オタ方面にせよDQN方面にせよ。
はるかぜちゃんの中学時代といえば、「生理中の女子はプールを休むとスクワットさせられるので、しんどくても嫌々泳ぐしかない」という「生理スクワット騒動」が浮かぶ。
これはブラック校則を語ればバズるという目論見で編まれた嘘であり、在校生や保護者から嘘だと顰蹙を買い中学校側がそのような処置は取っておらずちゃんと生徒の体調に気を使っているとコメント。
はるかぜちゃんは「アンチに学校を特定されたのでもう行けません」と堂々と不登校になり、真っ昼間や深夜2時3時にもツイートをするようになった。
昼間に起きて明け方に眠るというスタイルだったことがうかがえる。
数年後には「中学時代に不登校だったというのはアンチのデマ」と言うようになったが、大して仕事もないのに普通高校ではなく通信制に進学したのは深刻な学力不足があったのだろう。
生理スクワット騒動前から、はるかぜちゃんの所属していた放送部の生徒が「たまにしか学校に来ないのに親が抗議してコンクール枠取ろうとした」などと愚痴っていたりもした。
その中学校の放送部は全国的な強豪校だが、中学校の裏サイトでは何故か部員が大量に辞めた事件について触れられ、その数年は受賞歴もない。
中学時代のはるかぜちゃんはひたすらTwitterに依存していたわけではなく、一時的に「卒業」していた時期もあった。
当時所属していた大手事務所にTwitter禁止令を出されたのである。
だがツイートをしなくなっただけで、「いいね」は活発につけていた。
「Twitterをしてこそのはるかぜちゃんだよ」「事務所はひどい」「禁止されてもいいねで主張する裏技賢いw」というファンのツイートをひたすらいいね。平日の昼間や深夜に。
ツイート禁止令が耐えられなかったのか結局その事務所もやめた。
事務所は所属タレントが通う用の、芸能人向け高校を備えていた。
通信制への進学は、勉強しなくても事務所の高校に通えばいいやという算段があったものの、Twitterの方を優先した結果ではないだろうか。
Apple Musicの自動選曲で流れてきたので聴いた。
この歌はサビの部分で盛り上げてから
と締めくくる。
この部分を聴いた瞬間に「古っ!」と思ってしまった。
昔はそんなふうに感じたことはなかった。この変化はなんなのだろう。
『管理社会の象徴としての学校に反抗する少年/青年』という図式がもう現代では通用しないというか、
不良として荒ぶっているのだけど、どこか純なところを残した、ある種の真実に向かっていく、はぐれ者としての少年/青年、みたいなものを無批判に称賛することの度外れなこっ恥ずかしさというか。
何かわからないけれど、聴いていて異様な気恥ずかしさと、現代の感覚とのずれを感じた。
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!