はてなキーワード: 歴史的とは
運指どころか五線譜読めない奴に
『原典』みたいな「古典的な曲や練習方法」をいきなりやりこませてどうすんの?
それこそ、「アプリオリ」って何?って奴に「カント読め」って言ってるようなもんでしょ。
技術習得の一番効率の良いメソッドを与えりゃいいだけのお話。それがこの場合の「基礎」。
おまえらあれだけの言語バリエーションを全部原語で読んでるの?って思うわ。
訳書でよんでるなら、和訳した用語がどのように使われてるか先に理解しないと
絶対読めないと思うんだけど。頭の良さとは無関係に。
ちなみに、専門家・研究者としての「基礎」って意味なら、原典読んでるだけじゃ全く不足でしょ。
その原典を取り巻く文脈や歴史的背景、そこから起きてきた議論や現状での統一理解と、解釈が割れてる部分まで
理解してやっと「基礎」じゃない?
あなたの仰る基礎って、初学者にとっては最高に効率の悪いクソみたいな学問の修め方だし
多分、「基礎」の定義が違う。
社会学や政治学(その学習テキストとして公務員試験問題が適切かは疑問が残るが)の
「基礎」だって、まずは概論的な参考書や解説書から入るのが普通。
ピアノも「概論的な参考書や解説書」つまり、「初心者用の基礎」から
入るのが早いってお話。
哲学科の一年生にいきなり「純粋理性批判」読ませたって大抵は読めないよ。
ピアノだって同じでしょ。初心者用にわかりやすく噛み砕いた「基礎」から与えるべき。
「原典」は基礎じゃねえよ。
よくこういう勘違いしたアホが「ひたすら原著に当たった」とかドヤ顔で言うけど
それわりとバカのやることだよね。理解のために必要な前提条件をある程度詰め込んでから
特に訳書の場合は。だって、用語の意味わかってねーと読めないもの。日本語の場合特に。
先日、クリエーター系の友人と東日本大震災が与えた影響について話した。影響と言っても創作界隈に関する話に限ってだ。
一応、立場を明かしておくと僕ら二人はどちらも震災による被害(計画停電を含め)は全く受けない地域にいた日本人だ。
友人曰く「311」がクリエーターの精神に与えた影響は凄く大きくて、震災前、震災後で明らかに作風が変わってくるであろうし、時代を分けるべきだ、とまで言っていた。
友人の言うところによると、震災や津波や原発事故はまさしく震災前に想像された世界の終わりであって、SF作品が書いてきたものだった。しかし、現実には世界は終わらなかったし、被災地以外では何一つ変わらない日常が続けられていた。そのことでSF作家というのは衝撃を受け、あの程度で世界は終わらない、と彼らが描く未来というのは決定的に変化してしまった……、まあそのようなことを言っていた。
その友人は震災というのを大きく受け取っていて、震災の当日や原発爆発の映像、連日の報道は「世界の終わり」に感じられたそうだ。津波の動画を見て涙を流した、と言っていた。
僕はまったく逆で、震災を小さく受け取っていた。友人の前ではそれに同調するように悲しいことだったよね、怖かったよね、と僕は言っていたけれど、内心は違った。僕はあの大震災にドラマを見ていた。僕にとって震災はエンターテイメントだった。最高に楽しく、ドキドキとわくわくの非日常を提供してくれる見世物にすぎなかった。世界の終わりなんて微塵も感じなかった。次の日も普通に日常が続いてたからね。動画を見て涙を流すという感覚が分からなかった。当事者以外にとっては対岸の火事だろうと思った。まぁ、こういうのはサッカーの日本代表が負けて泣いちゃう感覚と似ているんだろうと思う。僕の友人はそういうスポーツとかに感情移入するタイプだったから。僕にはスポーツを見てるだけの面白さがわからないので、津波動画で涙する感覚もわからなかったけど。
初日に津波が全てを洗い流したところに言い知れない高揚を覚え、原発が爆発している動画を見て思わず破顔した、これからこの国がどうなっていくのだろう、という期待感があった。ネットはお祭り騒ぎで、日本中がニュースにかじりついて浮き立っていた。その雰囲気を楽しみながら僕は極めて健全にコンテンツを消費していた。それには、どうせ僕には関係ないという、あくまで観客としての視点があった。僕と友人は被災地にはいなかったという環境は同じにも関わらず、こうも受け取るものが違っていた。友人はどこまでも日本人としての当事者意識があったのかもしれない。僕には日本の遠い一地域であった非日常な、それも歴史的にも珍しい10年単位でしか見れないだろうというようなビッグイベントとして見ていた。
その後は日本人と政府による茶番劇が始まって、この国はもう根本的なところで駄目になっているんだなとせせら笑って、楽しんでいた。そしてこのつまらない日常が帰ってきた。残ったのは日本という国に対する絶望だけだった。そういう意味で、震災は確かに影響があったかもしれない。直接的な影響なんてせいぜいFPSに水浸しのステージが増えたぐらいにしか感じられなかった。
震災はエンタメだったなんて言えば、人格を疑われるだろうからきっと言えないし、おそらくこのような考えを描いた創作物というのは10年経っても出てこないだろう。僕も自分の作品の中でこんな話はおそらく持ち出さないだろう。クリエーターの端くれとして、この感情を創作に取り入れたい、面白いとは思っているけれど、絶対に世に出せないだろうし、出しても正義感の強い方たちに袋叩きにされてひどい目に遭うだろう。それどころか、少なくとも2011年から5年ぐらいは震災を『ネタ』((題材、あるいはインスピレーション、元ネタ、設定の一部としての利用、様々な意味で))にしたエンタメ作品(ルポや感動の復興物語!以外の作品)というのは不謹慎だというので作られないだろう。だから、友人にはそのようなことは一切言えなかった。僕は情の深いふりをして、この場面に僕も胸が引き裂かれるようだったと言った。
創作に携わっていた人間なら、あるいはもっと広く、コンテンツを提供している人間であれば誰しもが、あの震災はネタになると確信したに違いない。現にどこかのアフィサイトの管理人だかが上手いこと震災でお金儲けしていたし、投資家や会社員だって、あの震災を利用しておいしい思いをした人は多いはずだ。とあるポンプ会社の社員は、震災の復興需要で業績もいいよと嬉しそうに僕に語ってくれた。あの一大イベントに皆が興奮していた。メディア関係者も視聴率にニコニコして、震災を報道するとき、歴史に残るような大きな出来事に携わり、自分が業界に入った理由を思い出しながら、使命感と臨場感、そしてちょっぴりゲスな気持ちでわくわくしていたはずだ。東北を救おうと盛り上がっていた皆が、日本の団結するときだと、あの雰囲気に、非日常に酔っていたに違いない。不謹慎なネタをネットに書き込み、他方でニコ生で電気をつけてる配信者に電気消せ、pc消せ不謹慎だろ、と書き込んでみたり、そうやって楽しんでいたはずだ。
僕はあの震災で絆だ、不謹慎だなどと喚き散らしたこの国の人々にもう何の愛着も沸いていない。元からそんなものはなかった。愛国心や愛郷心なんて一度も持ったことはなかった。これは僕だけじゃないはずだ。
さあ、もう一度、来てくれ。今度はこの国を吹き飛ばすぐらいに大きな地震を僕は待っている。
滅ぼそうぜ、世界。
あなたは正義感の強い人で、僕は確かに間違っているかもしれませんが、死ねとか言ったり人格否定するのはやめてください。上でも書きましたが人前では常識的な対応をしてます。事件現場で写メとかとりません。たぶん、この人たちと僕は理解しあえないんだなぁと思いました。
この国が吹き飛ぶぐらいの地震が来たら僕も喜んで巻き込まれますよ。もちろん、被害に遭ったときは泣き叫ぶかもしれないし、恐怖に震えるかもしれません、でもそれは僕が自殺願望を持っていたとしても、殴られれば泣いてしまうし、ナイフで脅されれば怖くて動けなくなるのと同じことなんです。実際に遭遇したときの反応と、願望は全く別のところにあると思います。夢を見すぎているかもしれませんが、全てが崩壊した退廃的な光景というのを生で見てみたい、この国なり、世界が滅びる瞬間が見たいっていうのは、現実的かどうかは置いておいて、多少願ってる人もいるんじゃないかなぁ、と思っていたんですけど、世界滅ぼそうという賛同は全然得られなかったのでした。
僕一人じゃなくてよかったーと思いました。
今後の参考にさせていただきます。皆様のクリエイティブな人生を心よりお祈りしております。
911に触れてる方、鋭いです。残響のテロルを見終えた後、911をネタにするなとマジギレしてる人を見て、創作に使って何が悪いと思ったのが、この記事の発端です。阪神淡路大震災はエンタメ的創作物でたまに見かけるのに、東日本大震災がネタになってはいけないのはなぜか、とか事件はいつからネタにされてよいのか、東京マグニチュードが震災後、自粛され扱いが変わったこと、ピングドラムもモチーフにサリンや酒鬼薔薇なんかを使っているが好意的に受け止められていたことなどを友人と話しているうちに3.11が創作に与えた影響という話に辿り着きました。
ほんとは個別で拾ってみたいブコメもあったのですが、慣れてない上に長くなりそうだったのでこのへんで。
東京に行くついでに寄ってみたらショボくて笑った。松江に勝ってるのって、中華街だけじゃん。まず、近代建築がショボい。銀行建築だけだよね、横浜が誇れるのって。松江の武家屋敷みたく、個性豊かな個人の住宅が残っていない。まあ関東大震災があったから仕方ないけど、ちょっと肩透かしを食らった。てか横浜は街並みが汚いよね。松江駅そばのシャッター街のが人が居なくて綺麗。あとさ、みなとみらいにある横浜ランドマークタワーって建造も松江出身者が関わっているんだよね。横浜があまりに労働者がないからって、出稼ぎしてたみたい。真実は知らない。
それに、繁華街も松江のスターバックス前の方が密度があって栄えているイメージ。横浜はでかい箱物って感じ。横浜が誇る人口だって、面積広いだけじゃん。あと、東京のベッドタウン(笑)で稼いでいるだけ。なんかさ、横浜って東京の属国みたいな感じだよね。頭があがらないイメージ。その点松江は、米子や出雲に対しても胸を張って誇れるものがあるし、内心下に見ているよ。
あとさ、横浜はポプラが少ない。松江は多い。横浜に大盛りライス文化が根付いてない証拠。横浜ってガストっぽいんだよ。
過去から脈々と受け継がれるプログラミング文化がない。米子から松江にRuby本買いに行く人は沢山いるが、東京から横浜は全くない。Perl(笑)が横浜の限界だもん。学生向けのRuby教室とか、プログラミング書籍コーナーにおけるRuby本の比率とか松江のがダントツに多い。街ゆく人も、松江の方がRubyistが多い。そういうのは、横浜は全て東京に奪われてる。まつもとゆきひろみたいな言語的分担がない。『初めてのPerl』よりも『初めてのRuby』の方が薄いしね。
だいたい、横浜国立大学ってほぼ単科大学じゃないか。国立なのに早慶に蹴られるし。その点島根大学は総合大学だし、山口大学にも肩を並べる大学。山陰の政財界に多数OBを排出している。レベルが違う。
あと、島根は山があるところが素敵。横浜みたいなぼんやりとした平地とは違う。琴引山(松江市から車で1時間半)ではスキーが出来る。海もあって山もあって、おまけに歴史があって栄えている街なんて松江ぐらいしかない。あと横浜は言葉が汚い。下品。なんだダベって。松江のようなだがぁ、だがぁって素朴な感じがない。田舎の港町そのまま。
まあ総合すると、
メレ子さんのブログに行くついでに寄ってみたらショボくて笑った。アメーバに勝ってるのって、はてブだけじゃん。まず、はてダがショボい。障害の時に出るシナモンの画像だけだよね、はてなが誇れるのって。アメーバのアメピグみたく、個性豊かな個人のアバターが残っていない。まあ闘争の歴史があったから仕方ないけど、ちょっと肩透かしを食らった。てかはてなは街並みが汚いよね。アメーバの芸能人・有名人ブログのが華やかで綺麗。あとさ、はてなブログやってる吉野香織ってオフィシャルも更新頻度もアメーバなんだよね。はてながあまりに著名人がいないからって、貸してあげたみたい。
それに、ニュースもアメーバニュースの方が密度があって栄えているイメージ。はてなニュースはでかい箱物って感じ。はてなが誇る学歴だって、友達いなかったから勉強しかすることなかっただけじゃん。あと、ハフポのベッドタウン(笑)で稼いでいるだけ。なんかさ、はてなってハフポの属国みたいな感じだよね。頭があがらないイメージ。その点アメーバは、seesaaや魔法のiランドに対しても胸を張って誇れるものがあるし、内心下に見ているよ。
あとさ、はてなはアイドルが少ない。アメーバは多い。はてなにファッション文化が根付いてない証拠。はてなっておっさんくさいんだよ。過去から脈々と受け継がれる若者文化がない。seesaaからアメーバにブログ読みに行く人は沢山いるが、ハフポからはてなは全くない。はてな女子(笑)がはてなの限界だもん。オシャレなモデルとか、美容師とかアメーバのがダントツに多い。ブロガーも、アメーバの方がオシャレな美男美女が多い。そういうのは、はてなは全てハフポに奪われてる。文化的分担がない。『ちきりん』よりも『しょこたん』の方がセンスいいしね。
だいたい、はてなブログってほぼ情報商材じゃないか。個人ブログなのにアフィカスばっかり。その点アメーバブログはアフィカス少ないし、mixiにも肩を並べるコミュニティ。アイドル・モデル→主婦ブロガーに多数OGを排出している。レベルが違う。
あと、アメーバはゲームがあるところが素敵。はてなみたいなぼんやりとしたサービスとは違う。アメピグではナンパが出来る。ゲームもあってチャットもあって、おまけに歴史があって栄えているサービスなんてアメーバぐらいしかない。あとはてなは言葉が汚い。下品。なんだこれはひどいって。アメーバのようなモダンでハイソな感じがない。田舎の村そのまま。
まあ総合すると、
横浜と神戸は都市計画的な側面から見ると結構違いがあると思う。
横浜は行政が歴史的背景を踏まえた景観を手厚く、かなり厳しく守っている(野毛等一部地域除く)。だから風景が観光資源としても大切にされているのがよく分かる一方で、それ故に街の風景に独特なタイトさがあって、それが若干の息苦しさや居心地の悪さや疎外感に繋がっていたりするかもしれない。
去年神戸元町三宮辺りを訪れて、その絶妙にゆったりとした街並みに一度で虜になったよ。住んでいる人たちも横浜の様にキリキリしないでゆとりを持って暮らしているのがよくわかった。あの魅力は他の港町にはないかも。
東京に行くついでに寄ってみたらショボくて笑った。神戸に勝ってるのって、中華街だけじゃん。まず、近代建築がショボい。銀行建築だけだよね、横浜が誇れるのって。神戸の北野みたく、個性豊かな個人の住宅が残っていない。まあ関東大震災があったから仕方ないけど、ちょっと肩透かしを食らった。てか横浜は街並みが汚いよね。神戸の旧居留地のが開けてて綺麗。あとさ、みなとみらいにある日本丸って建造も母港も神戸なんだよね。横浜があまりに名所がないからって、貸してあげたみたい。
それに、繁華街も神戸の方が密度があって栄えているイメージ。横浜はでかい箱物って感じ。横浜が誇る人口だって、面積広いだけじゃん。あと、東京のベッドタウン(笑)で稼いでいるだけ。なんかさ、横浜って東京の属国みたいな感じだよね。頭があがらないイメージ。その点神戸は、大阪や京都に対しても胸を張って誇れるものがあるし、内心下に見ているよ。
あとさ、横浜は古着屋が少ない。神戸は多い。横浜にファッション文化が根付いてない証拠。横浜ってイオンモールっぽいんだよ。過去から脈々と受け継がれる若者文化がない。大阪から神戸に服買いに行く人は沢山いるが、東京から横浜は全くない。ルミネ(笑)が横浜の限界だもん。オシャレなカフェとか、雑貨屋とか神戸のがダントツに多い。街ゆく人も、神戸の方がオシャレな美男美女が多い。そういうのは、横浜は全て東京に奪われてる。関西みたいな文化的分担がない。『ヨコハマ買い出し紀行』よりも『神戸在住』の方がセンスいいしね。
だいたい、横浜国立大学ってほぼ単科大学じゃないか。国立なのに早慶に蹴られるし。その点神戸大学は総合大学だし、旧帝大にも肩を並べる大学。関西の政財界に多数OBを排出している。レベルが違う。
あと、神戸は山があるところが素敵。横浜みたいなぼんやりとした平地とは違う。六甲山ではスキーが出来る。海もあって山もあって、おまけに歴史があって栄えている街なんて神戸ぐらいしかない。あと横浜は言葉が汚い。下品。なんだダベって。神戸のようなモダンでハイソな感じがない。田舎の港町そのまま。
まあ総合すると、
正直横浜より博多の方が魅力あるよね。なので、総合的には神戸>博多>横浜くらい。
追記
あ、俺は厚木出身神戸在住だから、横浜のことも神戸のこともよくわかってるよ。横浜初めてみたいな書き出ししたけど、実は高校の時に何度も行ってます。その上での評価です。
追記2
おいおい、東京に近いのは、横浜じゃなくて川崎だぜ?だったら川崎の方が都会になるやん。あと横浜は「ぼんやりとした平地」と表現しただけで、真っ平らとは言ってない。まあ神戸と比べて見なよ。横浜なんてメリハリない平地だから。
もっと言うと、今の横浜なんて江戸時代はクソショボイ寒村だったからね。栄えてたのは現在の金沢区の方。横浜市は歴史を偽造するために後から金沢区を無理矢理編入させたって噂。現在の中心部で比べるなら神戸の方が江戸時代はまだ栄えてたよ。歴史を勉強しようか。
それにさ、関西に来てから横浜がウザすぎるんだよね。神奈川出身って言ってるのに「横浜?」て聞き返してくる確率8割以上。横浜じゃないから神奈川って言ってるのに!その度に厚木だよ、へーわかんない、の繰り返し!そりゃ、誰だって横浜嫌いになるって。こっちにきて余計に横浜嫌いになった。
読書メーターだと好評。
個人ブログでもおおむね好評。
これらから想像できたのは、「個人的な記録として残すときには、自分の選"本"眼が間違っていたことを認めたくないから、いいことだけを書き残したい。でも他人に見せることが一番の趣旨の場所ではそんな事気にせずにさんざんにけなしたい」というねじくれた人間の感性。
基本的に風車祭ですごい面白い印象があって、それ以来の久しぶりの池上永一でめっちゃ期待してたのに、これはひどかった。
ハズレだった。
重厚なカバーデザインに騙されて一時期敬遠してたのが馬鹿らしい。
歴史的な琉球についての描写はあるけど、ストーリーに関係ないただのうんちく垂れ流しの文章水増しでしかないし。
会話だけ拾い読みしても十分だった。
劇かなんかの脚本読んでるような感じ。
落ちるところまで落ちてもどうせ復活するんだろうなっていうのが透けてみるからまったくおもしろくない。
主人公を始めとして。信念がないからストーリーも流されるままという感じで終始だらだらしている。
尚氏第一王朝復古を目指してクーデターをするのかと思ったら全然そんなことないし。
周りの天才美男美女どもも人間味がなくてロボット見てるみたい。
唯一よかったのは聞得大君の真牛か。
~じゃっていう言葉遣いで、なんとなくホロとか忍野忍的な萌えキャラに脳内変換されてた。
それに確固たる信念でしぶとく輝き続けた(特に後半)から、こいつが一番愛すべきキャラだった。
メロメロだとかハートがどうだとか、安っぽい横文字が頻繁に入る。
別に使うなとは言わないが、荘厳な世界観を著者自ら台無しにしているようで非常に興ざめ。
あと話しことばがふざけててラノベよりひどく感じられることも多々。
教養って何だろう
http://anond.hatelabo.jp/20140704205502
インターネット暇人どものおかげで教養の様々な側面を覗けた。大変参考になった一方で、当然いくつか疑問が湧いてくる。以下はその疑問について。(なお、私は小説も思想書も哲学書もまったく読まない)
【教養があると自由になれる】
gingger4 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること (参考)家庭環境と読書の習慣のこと/図書館となら、できること http://bit.ly/KWHFw2
showgotch 皆俺流教養論を語るんだけれど微妙にずれててワロタ。歴史的に教養は自由になるための学問なんだけど同時に貴族の学問でもあったためオペラや歌舞伎を楽しむ素地として連帯の道具でもあったわけだ。ハイパーメリト
seachikin 狭い世界に生きてると視野が狭くなるからせめていろんな情報を集めて他にもいろんな世界があるということを知るってことが教養だと思ってる。んで私は本は読むけど教養はあんまりない。
tyshu 全然読書をしなかった自分が、思い立って1年に100冊読書するってのをやってみたことがあったけど、知識と知識がリンクする様な、世界の広がりを感じたのが印象深かったなと。読書はその時だけで今は…
sardine11 ナボコフ流に言うなら良き読者とは芸術的気質と科学的気質が結合した人。つまり客観的な世界に対する主観的認識を多様化させ心を打ち震わせる経験をする、それが読書そして教養の意味。娯楽と知識の境目に教養がある
a22222111544 この世界で起きていることの大部分を「ひとまずは」愛と理性で把握するために必要な古典的知識の体系と、あとはそこにアクセスするための言語能力だと思います。本来的な意味での教養を持っている人はごく少数。
bell_chime_ring238 教養は世の中で起きることを解釈する下地かな。本当にすごい人は、何気ない話題でも全然違う次元で考えてるし、こちらも自分の知らない世界に行けてしまう。体感できれば、教養が人格を作るって理解できるよ
p_shirokuma 己の世界観・娑婆観の構成素子のなかで、事後的に確認できるものの総体が、しばしば教養と言われているような気がする。
exterminator 必ずしも読書量ではない。世界を体系化して見るため/自分を少しでも自由にするためのもの。環境とか文化資産()どうこうより上より下を見て人の足引っ張るような人が多いとこにいると身に付けるのが難しくなる。
なるほど、教養があると自由を獲得できるのか。通時的にも(リベラルアーツ云々)共時的にももっともらしい主張だ。私もそのような側面があるとは思う。ただし、これにも疑問が残る。
疑問を述べる前に、自由とは何だろう。ここでは、他のものから拘束・支配を受けずに自分自身の意志に従って行為できる状態、としておく。そして、自由には経済的自由と精神的自由の2つがある、ということにしておく。
経済的自由については、いくつかの専門分野について十分に学習すれば達成できそうではある。逆に、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながらいくら深く広くたくさん行ったところで達成できそうになさそうである(それだけ文学/思想/哲学/芸術に精通していれば少なくとも批評家などにはなれそうではあるが、彼らの年収の最頻値を知らないので、それが経済的自由を獲得できる程度のものなのかについては保留する)。
精神的自由については、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながら深く広くたくさん行っていれば獲得できるのであろうか。いくつかの専門分野について学習をしていくだけでは達成できないものなのだろうか。学習する専門分野を十分に増やしていっても、あるいは専門分野ごとの理解を十分に深めていっても達成できないものなのだろうか?
また、経済的自由なくして精神的自由はありうるのだろうか?フレデリック・ダグラスは生涯奴隷のままで精神的自由を獲得できたであろうか?
フレデリック・ダグラスについて
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-377.html
【締め】
まぁ、お前らの思うところを書いてけや。
なお、他の疑問については分割する。インターネット暇人どもは長いエントリーを読むのに苦痛を覚えるからな。開発をやる人間の口を借りれば、きっと、このエントリーに限らずそもそも増田なんかにはユーザーが何分も滞在する価値なんてねー、と宣うに違いない。まったくである。
立法府による憲法解釈変更は現行の憲法システムの欠陥だ。遅かれはやかれ現行の憲法システムは崩壊するだろう。
今後も今回と同様の立法府による憲法解釈変更が行われるであろうことはほぼ間違いない。なにせ今回の件で前例を作ってしまっただけでなく、なにより「国民のほとんどは立法府による憲法解釈に対して無関心だ」ということが明らかになってしまった。これは日本だけでなく世界にとって歴史的に重要な一事件となる。
当然、憲法解釈の変更ばかりが繰り返されればどこかでそれが問題となり、国は崩壊するだろう。もっともそれが日本で起こるかまではわからないが。
そうなれば、現行のシステムに代わる新たなシステムが出てくるのは時間の問題だ。(といってもそれは現行の憲法システムを完全に置き換えるのではなく拡張するような形になるのではないかと私は想像するが)
ありがとう。「どの文明段階でそれが行われるか、という歴史的段階でわかれてる」というのは知らなかったよ。
個人的に「ものを生産する人が偉い」という思い込みがあって、それが「第一次産業」と「たまたま」言われている事から
「数字が小さい方が偉い」という思い込みに至ってですね、それでさきのような吐露愚痴となったわけでした。
wikipediaみてみたら「第一次産業には、自然界に働きかけて直接に富を取得する産業が分類される。」そうですよ。
自分が育てるかどうかは関係ないんだね。やっぱりn次産業云々を言ったのがまずかったね。
「漁獲高」というと違和感ないんだけど、「生産高」と言われるとイラッとするんだよな。「生産してねぇだろ!」って。
いや運んでくれることには感謝ですよ、うん。
まあ、私の個人的な思い込みですよ。あー心置きなくウナギ食べたい。
それが何をしているか、という産業形態ではなく、どの文明段階でそれが行われるか、という歴史的段階で別れてるから仕方ない。
仮に漁業が運送業だとするとたぶんサービス業で三次産業だということになるんだろうけど、そうすると漁業は先進国でしか行われていない産業だということになってしまう。
第一次産業、第二次産業、第三次産業は、それぞれ文明の発達段階によってこういう産業が行われるようになります、というのであって、どういう事業をしている仕事をこういう産業に分類しましょう、ではないのだから、仕事のタイプと産業分類への振り分けが一致しないのは仕方ない。
(養殖を除けば)確かに漁業者は魚を作っちゃいないわけだし、そういう着眼点は無かったから素直になるほどと思ったけど、最低限彼らが林業農業と並んで「第一次産業」であるのは上記のような理由がある。
でも、例えば、まあ仮にだが、友達が梨狩りに行ってきてそのおすそ分けを貰う時に「○○の梨は今年は天候が良くてとても甘いから、是非楽しんでくれ」と言われるのは、確かにおすそ分けしてくれる友人は生産者ではないがこの一言はあっても良いように思う。とすると、生産者しかモノを紹介しちゃいけないってのはやっぱり変な話のようにも感じられる。
最近よく聞くのが、
というもの。
前の天皇誕生日に、天皇陛下自身が「憲法を遵守する立場」を明確にしたことで、左派は右派(というか改憲ノリノリの安倍政権)を批判するための格好の材料を得た。
天皇を奉ずる右派が、天皇自身に諌められたわけで、左派がこの機に乗じないはずがない。
ところが、これを見て左翼でも右翼でもない(と自らを規定する)ひとは、違和感を抱かないではない。
左翼は……天皇とか嫌いでしょう? その天皇の言葉に拠って右派を批判するなんて。批判できるなら何でも利用するのか?
こういう次第である。
しかしそうなんだろうか? これが長らく疑問だったので、頭が悪いなりに考えたこと(独自研究です)を書き記す。
a)ここでは左翼と右翼を、彼らが拠って立つ「価値」に基づいて区別する。
まず、そもそも左だの右だのというのはフランス革命と産業革命にともなう近代化から生じたものだと理解している。
そこから、早計に、左翼は近代個人主義者で、右翼はそうではない、という理解が生じうるが、これはよくない。
(こういう理解から出発するかぎり、「左翼個人主義」は社会や国家の危機に対抗する言説を持ちえないから)
個人主義というのは近代の必然的な産物なのであって、左や右によって決まる「態度」ではない。
高度に産業が発達して、旧来の共同体が失われた世の中で、誰が個人主義者以外でありえるのか!
なので、左翼と右翼を分けるのは、この個人主義に対して、何を対抗「価値」として奉ずるか、という点である。
右であれば、これは過去と伝統を志向する。国家、天皇、王様、なんでもよく、ましてその伝統が捏造されたものであっても、構わない。
とにかく、個を超えた強い価値が置かれる。
左は、では何か。フランス革命は憲法を作った。人間と市民の権利についての法。
つまりこれだろう。人権であり、憲法である。これは別に伝統に由来しない。これを守ろう守ろうと連呼するから保守的な態度に見えかねないが。
人権というのは、頑張って獲得されるべきもので、つねに守りつづけないといけないものである。
したがって規範であるから、超越的だと言えなくもないが、これは個を超える価値ではない。
じゃあ個人主義じゃないか? いやいや、人権を守るためには、社会的なケアが必要ですからね。
むしろ、個人主義が人間を孤立化させていくからこそ、憲法にもとづく保障が必要になる。
もちろん以上の区別は、前提的なもので、これを逸脱するものはたくさんある。
特に共産主義は左翼の代表格みたいになっているが、あれは特殊な理念を抱えているから、しばしば歴史の邪魔者である。
基本的にはこの、超越的な価値/内在的な価値という区別にたよる。
b)人権・憲法という理念に即して考えるとき、天皇制は批判されるべきか?(歴史篇)
最大の要因は、戦時中に軍部と天皇が結びついたという戦争犯罪の問題であって、
この記憶は多くの左翼にとって、天皇制を軍国主義の象徴に変えてしまったきらいがある。
また、第二次世界大戦以前には、天皇主権の国家だった、ということも忘れてはいけない。
憲法は欽定のものと考えられていて、人権は天皇大権のもとで制限されていた。
人権に依拠する左翼にとって、これらの時代の天皇制は、批判されなければいけなかった。
とはいえ、戦前であっても、美濃部達吉の天皇機関説のように、天皇を国家機関と見做して、国民主権を保障するような理念が通用していたかぎりでは、それほど批判すべきでもなかった。
しかし大日本帝国憲法は基本的に天皇主権なので、天皇機関説は法学の世界における「通説」の域を出ず、軍部の台頭ですぐ覆されてしまった。
c)人権・憲法という理念に即して考えるとき、天皇制は批判されるべきか?(現状篇)
とはいえ、いまは日本国憲法、国民主権は通説ではなく確定的事実である(改憲するひとは時々ひどいことを言うが)。
そして天皇は、憲法において「国民の象徴」という正当な地位を保障されている。
だとしたら、なぜ天皇を批判しなければいけないのか? 憲法を愛するかぎり、天皇を愛することは可能である。
逆に、右翼からすれば、現行憲法下での天皇は疎ましい存在でありうる。
右翼は水平的な民主主義を嫌悪するから、それに反する超越的な価値として天皇を求めるのに、
さいわい、右翼からすれば愛着の対象は皇族の個々人というよりその容れ物だから、非国民な天皇(別に天皇は国民じゃないけど)という非難だって胸を苦しませずにできる。
不幸なのは天皇一家であって、左翼も右翼も自分たちのことを条件付きでしか愛してくれない。
左は、現行憲法の枠内にいるかぎりで、右は、現行憲法の枠から抜け出るかぎりで。
c)結論。
こういう次第だから、日本国憲法の枠内にある天皇陛下を左翼が愛し、支援するということには、何の問題もない、と考える次第です。
日本政治のセクハラ、子を持つ女性に世界最悪の賃金差別=男性のわずか39%、OECD30カ国平均の半分
http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20140621-00036611/
統計数字だけ見ると絶望的な国に見えますね。私も絶望してます。
理想を言う割に何でこうなるのかをちっとも勉強しない人の多さに。
理想だけ言ってれば誰かが何とかしてくれるという姿勢が染み付いているのかもしれません。
お金に余裕がある大組織orお金の心配しなくていいお役所とお役所的な組織、
歴史的慣習的に女性労働者が主であったため産後育児と業務の両立に対応した業務形態をとっている産業企業、以外は
やはり労働法規での規制が多い http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/bukyoku/koyou.html 女性労働者の正規雇用を敬遠するでしょう。
ポジティブ・アクションだとか、安全圏からバカが何かわめいても前線の人たちは聞き流すだけです。
従業員の給与は販売費及び一般管理費で、多ければ多いほど企業の利益を圧迫する。
http://kabukiso.com/apply/zaimu/pl.html
何とかならないのか?と思う人が多いかと思いますが、私のようなアホでも思いつくくらい解決策は単純です。
でも、もしかしたら福島原発事故まわりを収束させる程度に面倒なので誰もやりたがらないだけです。
どうするか。それは、高度経済成長期~バブル期の方法を全否定すること。
しかし、そもそも日本の経済成長自体がアメリカに国防丸投げして予算を浮かせ、戦争特需で儲かったカネを経済振興に突っ込んだだけのごっつあんゴールです。
考えることから逃げるために働くのやめましょうよ
成熟期に入った日本国に適用して存続する方法であるわけがありませんね。
『高度経済成長期~バブル期の方法の全否定』とは?箇条書きにしたいと思います。
・・・ね、誰もやりたがりたがらないですね。
親元から遠く離れた土地に核家族世帯を作るライフスタイルは専業主婦と同様に戦後の一時期だけのものです。
地域密着人口 http://tmaita77.blogspot.jp/2011/08/blog-post_03.html
共働きと親世代との同居はセット http://allabout.co.jp/gm/gc/12462/4/
行政が何とかしろ ⇒ 実現するためのカネはどこにあるの? http://www.kh-web.org/fin/
また、勤続年数が永ければ無条件に昇給する年齢給の賃金システムを採用しているのは
日本くらいであるらしく、http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20090416-90006696-r25
実はこれが新卒フリーターや中高年無職、育児のために離職した女性の再就職を阻んでいます。
「○○歳なら、これぐらいの業務能力がなければならない」とリアルで言われたことがありますが、少し考えただけでもキチガイ沙汰ですね。
でも企業はお金儲けのために人を雇い、人を退職に追い込むわけで、制度を変えれば必ず被害を被って不平不満を言う人が出てきます。
勤続年数=年齢が高いほど高賃金のシステムで得をしてきた人々をどうやって説得するか。企業だけを悪者にすることは難しい。
定年までの生活を保障しないんなら、年齢給をやめれば良くね?という発想に至るのは自然であるわけですが、
そうするとおびただしい数の既得権益層=中高年世代が猛反発して口にしただけでもそのような政治団体は選挙で負けてしまうわけですね。
あと、公的年金制度。歴史を紐解けばわかりますが、本格的に整備されたのはGHQがやってきてから。
サラリーマンとお役人優先で、それ以外の人は後回しにされるという特徴が日本の社会保障制度にはあります。
厚生年金のモデル年金は、これまで、片働き世帯、すなわち夫は財政再計算の基準年当時の現役男子の平均的な標準報酬月額を得ている被用者であって、
厚生年金に標準的な期間加入しており、妻は厚生年金にまったく加入したことがないという夫婦世帯を標準的な世帯として、標準的な年金額を示してきている。
わけですが、共働きが増えて妻子持ちであろうが定年前に容赦なくリストラされる時代には全く合っていませんね。
徐々に変わりつつ有りますが、国民年金より生活保護のほうがお得というシステムを是正するには時間がかかります。
もう読む方もめんどくさいでしょうから結論を言うと、女性の雇用形態及び賃金の現況は単一でない、複数の要因による構造的なものなので
改善しようと思えばMacのPCを中身だけwindowsにしましょうというような事が求められているのですよ、ということです。
個人的にはバブル経済で良い思いをした世代が自力で投票に行けないくらい老いた時代にならないと変わらないのでは?と思っています。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9484.html
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2473.html
また女性に産まれたいと思っている
易きに流れるのも手かもしれませんね。
艦隊これくしょん(通称艦これ)、要するに例の戦国武将の女体化シリーズで、人気を博したモノらしいけど、
別に日本人だから軍艦も知ってて当然のような空気があって、加えて艦これ可愛いという風潮が気に入らない。
ゲームに喩えるなら、モンハンを知ってて当たり前のような価値観の押し付けが艦これにはあった。
最近は色んな媒体や企業が模造品も含めて様々な艦これモノを作りだしているし、需要も多いと聞く。
事実、俺が勤めてる会社でも女子たちがこれのピンバッジや菓子入り缶かんを売り出そうと企画を出している程だ。
世の女体化ブームといい、逆に全員イケメン化といい、アニメ色の強い事。
アニメじゃなければ見ないと言った人達、艦これブームの火付け役はもしかしたら昨今の聖地巡礼者(といってもおねティやらきすたの類でなくて俄か的なブームに乗る人たち)のそれに
近いかもしれないし、歴女が自信満々にブームに乗っかったとも考えられる。
歴女といえば、2~3年前に厳島神社にオクラを奉納した事(戦国BASARA 投書でググるといい)でも非常にアニメ色に染まり易い人達だと分かるので、
恐らくこういう色に染まった人たちが一連のブームの最前線にいるんじゃないかと思う。
問題は、こういうブームというのが、一過性の物であるのにやたら押し付けがましいと言う事に尽きる。
どうにもこうにも、これが今のブーム、トレンド、常識なのだと周囲に吹聴する人達は、どうして個人で楽しもうとしないのだろうか。
元々オタクという言葉は個人で楽しんでいる人を指していたのだが、昨今の〇〇オタクというのは社交的でコミュ能力も比較的高く、
やたら商品を押し売りする営業マンよろしく素敵な営業トークで周囲の人たちに自身がハマったのはブームの一過性だと言う事を吹聴してくるのだから、
ブームの火付け役を自称する電通・博報堂・読売広告社の如き広告代理店の回し者だと疑うのも無理はない。
話を戻すが、艦これも同じで一過性のブームを周囲に押し付けるように宣伝するのはどうかと思う。
女体化した時、その元に歴史的偉業を果しているとかであれば、そのブームも一過性のモノではなくなると思われるが、
とはいえ艦隊の女体化なんて、黒光りのエースGの女体化と何が違うのだろう?
つまり歴史的文化的価値に乏しい上に、下手をすれば歴史的文化的認識を誤解してしまうような物を女体化する意義が分からない。
例えば、女体化に伴う二次創作の類は全般的に無許可の物であるし、その価値観には商魂のような普遍的にある価値観とは別の何かを感じてしまうのである。
艦これが商業的に成功するのであれば、いっそ全ての事象を女体化ないしイケメン化をして、日本の電波的文化を世界に喧伝すればいい。
かといって、俺はそういうのに巻き込まれたくない。
というか巻き込もうとするな、個人でやれと言いたい。
「統合失調症がやってきた」の松本ハウスが来るというので、行ってみた時のこと。
狭い会場に二百人以上が詰めかけて、それに加えて立ち見のギャラリーもイル。
会場に掲げられた白膜には「精神科医療における松本ハウスの歴史的意義」だって。
司会をしていた精神科医いわく、100年以上にわたる、排除の歴史から統合失調症がやっと地域社会に帰りつつある。我々は、ハウス加賀谷=松本キックが、統合失調症をめぐるタブーを打ち壊す歴史的瞬間に立ち会っている!
精神疾患をお題に名披露目した松本ハウス(とくに当事者であるハウス加賀谷)は、その象徴的存在であるそうだが。。。
ハウス加賀谷は「統合失調症がやってきた」という本を昨年の8月に出版した。私はとくに興味もなかったし、そういう「商売」にのる気もなかったので、買っても読んでもいないが、彼らが言うには初発の症状は中学2年のときだとか。
夏の暑いある日のこと、教室でふと振り返ったとき、友だちが下敷きで顔を仰いでいるのを見てしまった。友だちは自分の臭さを吹き飛ばすために下敷きでパタパタやっている、彼は一瞬でそう理解した。
それ以後、「加賀谷、クッサー」という声が聞こえるようになったという。
以後、事実でもない声が聞こえてくる彼は精神科とのつきあいをはじめる。ようは、通院がはじまったということ。
それでもビートたけしが好きで漫才師になりたかった彼は、17歳のときオーディションを受け、松本キックと出会い、「松本ハウス」としてデビューした。
――――ある時、鞄いっぱいの薬を見つかり、病気を告白。その症状を聞いた相方が、それ、漫才に使えんか? ということで、すでにこの時代に、病気をネタにしていたらしい。
幻覚、幻視。病気の症状を面白おかしくしゃべる加賀谷にキックの方が突っ込みを入れて、笑いを誘う。
それって是か非かどっちだ?
病気の症状で笑いをとることに不快感を表したある統合失調症患者の女性が、その思いを自分のブログに書いたり、松本ハウスのブログにコメントを入れたところ、ファンから袋叩きにあったというエビソードもある。
確かに話としては面白いが、当事者として症状で苦しんでいる人には笑えるものではないだろうし、侮蔑と感じる場合もあるだろう。
「昔のような切れはもうないけれど、今できることを探していこうと思っている」と相方の松本キックはいう。
「薬のせいで感情が平坦化していて、昔のように言葉のキャッチボールはできないけれど、いまは、その鈍さを笑いにしてしまえばいい。僕はそんなふうに思ってます。笑いには計り知れない力がある。病気だってできることはたくさんある。みんな、統合失調症だって、こうして働けるし、社会復帰だってできるんです」
そして、「統合失調症」の当事者として本の出版とともに復活し、その体験をネタに、現在の「地位」を築き上げたのである。ネットを見渡せばわかるが、ソーシャルサイトの囲い込みも検索エンジンのSEOも広報マーケティングには抜かりがない。病気で稼ぐ、精神疾患ネタで稼ぐ。彼らにとって「統合失調症」は一種の鉱脈なのかもしれない。彼らは鉱脈を見つけた者として、その権利を決して手放さず、「精神村」にいつづけるに違いない。