はてなキーワード: 美濃部達吉とは
最近よく聞くのが、
というもの。
前の天皇誕生日に、天皇陛下自身が「憲法を遵守する立場」を明確にしたことで、左派は右派(というか改憲ノリノリの安倍政権)を批判するための格好の材料を得た。
天皇を奉ずる右派が、天皇自身に諌められたわけで、左派がこの機に乗じないはずがない。
ところが、これを見て左翼でも右翼でもない(と自らを規定する)ひとは、違和感を抱かないではない。
左翼は……天皇とか嫌いでしょう? その天皇の言葉に拠って右派を批判するなんて。批判できるなら何でも利用するのか?
こういう次第である。
しかしそうなんだろうか? これが長らく疑問だったので、頭が悪いなりに考えたこと(独自研究です)を書き記す。
a)ここでは左翼と右翼を、彼らが拠って立つ「価値」に基づいて区別する。
まず、そもそも左だの右だのというのはフランス革命と産業革命にともなう近代化から生じたものだと理解している。
そこから、早計に、左翼は近代個人主義者で、右翼はそうではない、という理解が生じうるが、これはよくない。
(こういう理解から出発するかぎり、「左翼個人主義」は社会や国家の危機に対抗する言説を持ちえないから)
個人主義というのは近代の必然的な産物なのであって、左や右によって決まる「態度」ではない。
高度に産業が発達して、旧来の共同体が失われた世の中で、誰が個人主義者以外でありえるのか!
なので、左翼と右翼を分けるのは、この個人主義に対して、何を対抗「価値」として奉ずるか、という点である。
右であれば、これは過去と伝統を志向する。国家、天皇、王様、なんでもよく、ましてその伝統が捏造されたものであっても、構わない。
とにかく、個を超えた強い価値が置かれる。
左は、では何か。フランス革命は憲法を作った。人間と市民の権利についての法。
つまりこれだろう。人権であり、憲法である。これは別に伝統に由来しない。これを守ろう守ろうと連呼するから保守的な態度に見えかねないが。
人権というのは、頑張って獲得されるべきもので、つねに守りつづけないといけないものである。
したがって規範であるから、超越的だと言えなくもないが、これは個を超える価値ではない。
じゃあ個人主義じゃないか? いやいや、人権を守るためには、社会的なケアが必要ですからね。
むしろ、個人主義が人間を孤立化させていくからこそ、憲法にもとづく保障が必要になる。
もちろん以上の区別は、前提的なもので、これを逸脱するものはたくさんある。
特に共産主義は左翼の代表格みたいになっているが、あれは特殊な理念を抱えているから、しばしば歴史の邪魔者である。
基本的にはこの、超越的な価値/内在的な価値という区別にたよる。
b)人権・憲法という理念に即して考えるとき、天皇制は批判されるべきか?(歴史篇)
最大の要因は、戦時中に軍部と天皇が結びついたという戦争犯罪の問題であって、
この記憶は多くの左翼にとって、天皇制を軍国主義の象徴に変えてしまったきらいがある。
また、第二次世界大戦以前には、天皇主権の国家だった、ということも忘れてはいけない。
憲法は欽定のものと考えられていて、人権は天皇大権のもとで制限されていた。
人権に依拠する左翼にとって、これらの時代の天皇制は、批判されなければいけなかった。
とはいえ、戦前であっても、美濃部達吉の天皇機関説のように、天皇を国家機関と見做して、国民主権を保障するような理念が通用していたかぎりでは、それほど批判すべきでもなかった。
しかし大日本帝国憲法は基本的に天皇主権なので、天皇機関説は法学の世界における「通説」の域を出ず、軍部の台頭ですぐ覆されてしまった。
c)人権・憲法という理念に即して考えるとき、天皇制は批判されるべきか?(現状篇)
とはいえ、いまは日本国憲法、国民主権は通説ではなく確定的事実である(改憲するひとは時々ひどいことを言うが)。
そして天皇は、憲法において「国民の象徴」という正当な地位を保障されている。
だとしたら、なぜ天皇を批判しなければいけないのか? 憲法を愛するかぎり、天皇を愛することは可能である。
逆に、右翼からすれば、現行憲法下での天皇は疎ましい存在でありうる。
右翼は水平的な民主主義を嫌悪するから、それに反する超越的な価値として天皇を求めるのに、
さいわい、右翼からすれば愛着の対象は皇族の個々人というよりその容れ物だから、非国民な天皇(別に天皇は国民じゃないけど)という非難だって胸を苦しませずにできる。
不幸なのは天皇一家であって、左翼も右翼も自分たちのことを条件付きでしか愛してくれない。
左は、現行憲法の枠内にいるかぎりで、右は、現行憲法の枠から抜け出るかぎりで。
c)結論。
こういう次第だから、日本国憲法の枠内にある天皇陛下を左翼が愛し、支援するということには、何の問題もない、と考える次第です。