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はてなキーワード: 人間についてとは

2018-02-18

これですら「男」って言ってるのがウザい

お前らの男対女ゲームに乗って差別論理を逆手にとって混ぜ返す戦いに出てるの、

はてなとか言う世間的には隠れ里状態限界集落に住む特殊人間の中でも

さらに一部の好事家や暇人キチガイから


「男」の最大多数はお前らみたいな人間についてはただただ近付きたくないと思ってる

はてなのもじもじ君のように逆手にとるほどお前らのゲーム論理理解もしてない

理解してないのは頭悪いからではなくそもそもお前らの話など聞かないか

耳に入る機会が少ないし入っても雑音として追い出す


「男はー」「女はー」って言ってすごい敵意の目で極端論理こね回す奴

せいぜいネットの隠れ里ではたまにバズったり炎上したりして影響力あるように錯覚したりするんだろうけど

世間的にはただの「なんか語っちゃってるやべーやつ」だぞ

anond:20180218021901

2018-02-14

地頭が良いとは

私は完全に地頭が良くないタイプ人間で、地頭が良いであろう人間を目の当たりにする度自分比較して凹んできた。

(こうして人と自分比較している時点で本当に愚かなことがよく分かる。)

地頭が悪いなりに地頭が良い人間について考えてみる。


本質を捉えることが出来る

物事にはなんでも本質というものがあって、それを捉えることが出来るもの地頭が良いのではないか?と常々思っている。地頭の良い人は的外れなことを言わない。

本質の捉え方は恐らく深い問いかけが必要となる。

問題が目の前にあって、それに対して真の原因を探っていく。

何故だ?という問いかけを何度も繰り返し本質へ近付く。

これはぼんやり生きているだけだと恐らくダメで、考え続けるということを自然に出来る人間が強い。

訓練である程度のところまでいける気はしてる。

幼い頃から疑問を絶やさず自ら思考出来る人はこれを当たり前にやってのけるのではないだろうか。


アウトプットを常にしている

アウトプットするということはトライアンドエラーの繰り返しだ。

アウトプット形態は何でもいいが考えるだけでなく、実際に何かを形に残す、人に伝えるということが出来る能力地頭の良さに関係している気がしてならない。

そもそもアウトプットするということは前述の「考える」ということになるからだ。

何かを作ろうとする視点を持ちながら世界を見ることで考えを深めたり、実際アウトプットすることでその反応を肌に感じてまた次のアウトプットに生かせるのでは。

そうすると考え続ける人生になる。

もちろんアウトプットのためのインプットを常にしているだろう。


・長い目で物事を見ることが出来る

目の前のことだけをこなすことと、一歩下がって視野を広く持ち長期的に問題解決に向けて物事を考えることは大きく違う。

前者は恐らく対処療法しかない。その場しのぎ。

それに対して後者問題根本的な部分と向き合うことをしている。

時間的過去から現在未来までを考慮しながら思考し行動できる。



ふわふわ考えてみたけど結局こんなことは誰にでも考えられるし挙げられる。

実際にそれらを行なっているかどうかが恐ろしく重要なのだ

思考は日々の繰り返しだし訓練だ。ひとつ物事について掘り下げが必要だ。


スマホは怖い。マルチタスク可能なので思考があちこちに飛んでしまう。便利だが飲まれないようなしたい。


考えることをやめたくない。でも自分の考えがひどく的外れであるかもしれないしそのことにすら気付けないのは地頭が悪いことの不幸だし、幼少期から思考を怠ってきたツケでもあるかもしれない。

ツケを挽回すべくどうにか足掻きたい

2018-02-03

痴漢痴漢冤罪女性専用車両犯罪者

身バレ上等な内容、支離滅裂、纏まりがないが我慢限界なので載せる。メモ書きのようなもの

追記修正予定。

私は今男子が9割を占める高校の生徒だ。

工業系の高校で、自分工業系に興味をもった事から入学した。

幼稚園小学校特殊私立で、中学は平均的な女子校に通っていた。

女子校から男子校(私のクラスは男女ほぼ半々の割合)に移ったこから、様々な既成概念を覆されることになった。

私がこの記事を書くことにした理由は「男尊女卑」だの「性差別から逃れたいと疲れた女性」「痴漢冤罪を恐れる男性」を沢山見てきて疲れてしまたからだ。

私はその高校に進学してからすぐに、軽く犯罪めいた男子言動により、元々快く思っていなかった女性性に拒否反応を示すようになってしまって、その後も色々あって今は制服スラックスに変えてもらっている。「中性的」「アイツという生別」という認識を持って貰えて幾分生きやすくなっている。

髪も短いので、黙っていれば中学生男児には見えるだろうし、よく「最早男」とからかわれるくらいだ。

そんな私は、制服がまだスカートだった2年生の春を最後痴漢に遭っていない。

しろ制服日常服装男性的に変更してから2度冤罪を食らっている。

あなたの見た性別が私の性別」というスタンスなので、男子勘違いされたらさせたままにしている。

人において重要なのは英語でいうところのsexではなくgenderの方の性別、そしてsexualityだと思う。

私はNonbinaryのAsexual(どちらかというとQueerplatonic寄り)の人間だ。

自分を「性別がないもの」として考える。そして「性欲も恋愛的な感情を持つこともない」。

憧れはあるし、まだ若いから、将来心境の変化はあるかもしれない。

でも、今、自分自身のそれらを考えようとすると憂鬱気持ちになる。

最近話題の「女しかいない世界」、男性職業、心の性別のズレによるいじり、痴漢痴漢冤罪強姦未遂

程度は軽い方かもしれないが、私は全て経験してきた。

3年間の女子校時代高校で取った土木電気系の資格、女だと思われていれば絶対にその場に持ち出されないような猥雑な話題、尻を意思をもって這う手、「触りましたよね?」と話しかけてくる女性………………私を組み敷いて、「女性の君に抵抗はできない」と脅す中年男性

…全ての道理が繋がらない。

ちぐはぐだ。

sex」的性別で分けるから話がおかしくなるのである

sex男性女性という括りは、トイレと浴場、体力的限界のある現場以外に、本来必要あるものとは思えない。

「男だから仕事しろ」は差別

「女だから仕事には化粧をしてこい」は差別


女性専用車両関西で起きた痴漢による事件によって全国的に普及することとなった。

乗車率の高くなる平日の都会の電車で、女性子供障害を持っている方、つまり混雑から弱者」を保護するための措置として存在している女性専用車両

これは差別ではない。

機会平等」の原理と同じである

女性子供よりも、一般的に力のある男性と同じ水準に彼らを持っていくには、混雑時間帯の車両を1つくらい「専用」にしないと間に合わない。

そもそも痴漢がいなければ「女性」専用車両とはならなかったかもしれない。

もっと言えば、痴漢被害に遭うのは女性だけではないし、痴漢を冒すのが男性だけでもない。

私の例からもわかるように、そもそも

痴漢」は女性だけのものではないし、「痴漢冤罪」もまた男性だけのものではないのだ。

痴漢」は「男性」なのではなく、「犯罪者」という括りになる。

ここの主語の違いが、差別だ、差別じゃない、の議論を生むことになる。

私は女性専用車両に賛成するし、女性だけの世界を片隅で考えてしま気持ちもわかる。

また、冤罪に怯えるのも、男性排斥せんとする思想嫌悪感を示したくなるのもわかるのだ。

でも私はその議論が発生する時、どちら側にもいない。

必ずしも分けなければいけないものではないことを、はっきり大きな主語で分けることは、極めて危険なことである

それは差別根底にある思想だ。

痴漢をするのが男性から男性排除せよ」なんて、まるで全ての男性が悪、みたいな言い方をすることはないではないか

それを突き詰めた時に発生する議論は、「人間という生物犯罪を冒すから人間ダメ」だ。

それがおかしいのはわかるだろう?

人間ダメなのは今に始まった話ではない。

社会」「国家」「法」を持った人間については、人間ダメなのではなく、法の下の「犯罪者」がダメなのだ

論点を誤り続けた先にあるのは、底無しの泥沼だけだ。

理性的建設的な議論を求めなければ、真の平等は生まれない。

相互理解積極的になってほしい。

疲れる。疲れた

中間人間も、とても生きにくい。




2/4

思っていたより反応があって嬉しいです

一応言っておきます女性専用車両男性も一応乗れることは知ってます見解を述べる上で最低限の下調べくらいしまから

女性専用車両男性も乗れる」ことと上に既に述べたこから女性専用車両差別だとは思っていません

ここまで書いといてそんな議論展開するコメつくとか思ってませんでした

ちゃんと一字一句読んでたら思ってはいてもそんなコメントさないと思うんですが生きてる年数の問題なんですかね?

ちなみに意図的女性専用車両に乗る男性は「そんな稚拙なことしかできないのか」と個人的には軽蔑しま

先ずは混雑の解消、痴漢追放してから文句を言ってほしいと思う

2018-01-29

 当方おっさん。つーか初老。外見がおもしろい。どれくらいおもしろいかというと、鏡を見た瞬間に「ああ、これは俺に好意を抱く女性はいないですね」と、怒るでもなく絶望するでもなく、ふつうに納得するレベル。そんな人間でもなんかのまちがいで結婚できたので、人間どうなるかはだれにもわからん。ただそれは結果としてそうなったというだけであって、女性と縁のなかった年月のほうがはるかに長い。

 子供のころから自分男性であるということに強い違和感があった。といっても女子小学生になりたいとかそういうことではなくて、というか本当は女子になりたかったのだが、なりたすぎて「現実的女性になるにはどうしたらいいのか」というようなことを考えていた。その結果、顔面おもしろいので女性になるのは諦めた。というのが小学生のころの話である

 そこで、女性になれないのであれば、男性として生きるしかなくなったわけだが、なら、なぜ男性であることがここまでいやなのかと考えた。そもそも性別ってなんだ。ちんこついてるから男なのか。ちんこときで俺を男扱いするのはやめてもらおうか。などと考えていて気づいた。なるほど、俺は「男性として扱われる」ことそのものがいやであったらしい。

 俺が子供のころはまだまだ「男は男らしく」という価値観が相当に支配的な時代だった。「男のくせに」「女のくせに」とかがわりと平然とまかりとおった時代である。つまりはいろんな人たちが押し付けてくる「男性」が気に入らなかったのだ。そう気づいたのは、高校くらいになってフェミニズム関連の書籍を読んでからである。どうやら俺が気に入らなかった「これ」はジェンダーと呼ばれるものであるらしい。いやだったのは自分ちんこがついていることではなかった。フェミニズム思想は、俺を救った。

 しかちんこついていても排尿くらいにしか使いみちがない。なぜなら俺はもてないかである。この「もてない」というのは子供のころからわりと決定的な条件だった。しかしここで「俺を愛さない女が悪い」とかはまちがっても思えないのである。なぜなら、鏡を見るとそこにおもしろい顔があるから。だれよりも最初自分が納得しているのである。なるほど、この顔面はいかん。これはどうにもならねえ。

 でまあ、最初から女性となんらかの関係を持つのは諦めていた。諦めたというか、恋愛とかそういうのは魔法やら超能力と同じようなものだと思うようになった。不思議もので、こうなると恋愛異世界ファンタジーである。「俺はそこには行けないが、ここではないどこかには、美しい世界があるに違いない」などと思いはじめる。実際、クリスマスの町中を歩くのが好きだった。俺には関係ない世界だが、だれかは幸せであるに違いない。そうしたものが町にあふれているのは決して悪いことではないじゃないか

 とはいえ、性欲はあるのである。幸いなことにこの世にはポルノというものがあった。まじちんこ助かる。しか現実女性というものをあまりに俺とは無関係ものである判断した結果、二次以外では反応しない体質とちんこになった。そもそも女性性的関係もつ可能性を想定していないのである。ならば、その肉体は男性と同じである。俺にとって男性女性もひとしく「人間」でしかない。青年誌とかのグラビアを見てもなにも感じない。そのころのグラビア記憶として残っているのは、小倉優子が表紙のヤングアニマルかなにかを見たときに「これはすごい。胴が長い」と驚いたことくらいである。

 こうした価値観は、俺の内部に相当の歪みとか恨みみたいのを蓄積させているらしい。個人としてはわりとさまざまな不都合があった。ただまあ、これは結婚できたからこそ言えるのかもしれないが、にもかかわらず、よかったと思っていることもある。

 それは、仕事やらなんやらで出会人間について男と女区別することが絶無であることだ。本当に男女の違いは心の底からどうでもいいのである。具体的には、ある特徴があったとして、それを「性別」という場所に落ち着かせることがない。というかその発想が出てこない。すべて単なる個性である。仮に巨乳だとして「なんか胸のあたりが大きい人間」でしかない。それは俺にとって二の腕ものすごい太い男性と似たような意味しか持たない。結婚してからは、女体を性的目線でみることの意味合いが多少は理解できてきたのだが、しょせん後天的学習の成果である。油断しているとすぐに忘れる。

 もちろんこうした価値観は、どう隠したってかならず漏れる(隠そうとする知恵くらいはついた)。おもしろいのは、このスタンスで生きていると、一定数の女性から蛇蝎のごとく嫌われることだ。理由は単純で、その人が依拠しているものを完全に否定してしまっているからだと思う。俺にとって救いのは、世代が下になるにつれ、このようなやりかたで俺を嫌う人間が減ってきていることである。まあこっちがおっさんになったという観察者問題もあるかもしれない。

 フェミ関連で荒れるようなもんがホッテントリに上がってくるたびに、俺は自分がそれに救われた経験から「違う。フェミニズムってのはそういうものじゃないんだ」と叫びたいような気分になる。男とか女とかそういうの別にいい。ちんこまんこ代表されるものはそれが必要とされる場面以外では出さなくていい。まず人間だ。みんな人間だ。みんなメシ食ってうんこする。その程度のものだ。俺はアゼルバイジャン人間よりもカレーを嫌いな人間のほうが理解できない。しかしだからといってカレーを嫌いな人間をそれだけで嫌ったりはしない。なぜうんこの話のあとにカレー話題を持ち出した。さっきカレー食ったからだ。よけいタチが悪い。

 おもしろ顔面は、俺にもてないという運命を与えた。もちろん外見だけが人間を決定するわけではない。そんなことはいやってほど理解してる。それでも「顔がダメ=もてない」という図式をかつて俺は完全に受け入れた。いまにして思えば、俺があれほど自分性別違和感を持ったのは「自分ではどうしようもない身体的な条件に対して、なにか義務を与える」というこの性別というもの構造のものに対する抗議だったのかもしれない。

 具体的な抗議行動として、今期は斉藤さんになって志摩リンのことを「かわいいなあ」「ほんとにかわいいなあ」「ずっとこのままでいてほしいなあ」などと思いつつ、たまにその感情閾値を越えて友情のふりして抱きしめるという暴挙に出たい。あとあんまり関係ないけど、俺のことをキモいとか言った女子よりも、もてないことを理由嘲笑した男たちのほうが許せない。いまでも許す気ない。

2018-01-17

anond:20180116233825

自逆風自慢、というのはたぶん、「謙遜してる」つもりなのかもしれません。

日本では、奥さんの事を、愚妻とまでいったりします。

読んで字のごとく愚かな妻だけれど、これは自分の伴侶=奥さんとなった人を本気で貶めているわけではありません。

婚姻した時点で、夫婦や親子は身内なので、身内は他人に話すとき、下げて話すのが良しとされています

これは年長の方になればなるほど、そういう表現をなさいます

たとえば、社外から電話で、自分上司あてだったとします。その場合は「○○は席を外しております」などと言います

上司でも自社の人間については、役付きも敬称をつけない。それと同じ感覚です。

「外に対して内をへりくだる」と表記されている小町があったのでリンクしますね。

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2016/0621/766839.htm

ですので、もう結婚して籍を入れたカップルは、自分パートナーについて、この「身内=へりくだる表現」をします。

お子が生まれたら、どんなに内心天使と思っていても、夜泣きが大変ですよーとか言われたりするでしょう。

出来がいい子供でも、近所の方の前で褒めてくれず、むしろ良くないかのように言われるのは、「身内=へりくだる表現」です。

それはそんな事思ってもいないのですが、過剰な謙遜が、良しとされる不思議因習ではあります

幼少時にそういう表現をされて、自分親の期待に応えていないなどと思うのは、実は違う場合もあります

話を戻しますと、愚痴のように思える言葉も、ただの「身内=へりくだる表現」であり、

まぁ幸せぶりを見せつけるのも上品じゃないので、嫉妬されないようにという気持ちもあるのかもしれないですが、

愚痴に思えるような内容の話も、真に受けないでもいいかもしれません。

本当に愚痴&不満があるなら暗い表情でしょうし、そのあたりは個々の見極めかなぁ。

2018-01-03

すぐ何でも一括りにして見下す人間は愚かだと思うが、そういう人間については一括りにして見下して良いとも思う

2017-12-20

https://anond.hatelabo.jp/20171220005010

当該の論戦にて分が悪いだろうなと感じるのは、相手問題点を指摘して倒そう、倒すことで得られる勝ちを得ようというスタンスはあちゅう擁護派に多い事。


カッコ悪い、それよりも悪い、ゆるされる範囲とそうでない範囲がある、まず順番として、などの手段をとってくることが多くみられる。

自己感情的もの比較して二択しかさない、当該者や環境、状況を除外した基準のない基準値の設定、とりあえず先送りにして現状を優位にする自転車操業、これらは「乗るべき船でない」と直感させるに十分な事由ではないか


片手にハラスメント被害者であるという矛を掲げるならば、もう片手には「自身過去肯定する矛」をもつバランスよりも「謝罪現在の矛の威力を防御する」を選択したいところ。

両手が防御を捨てた状態での攻撃目標が二つにわかれた場合ハラスメント追及と過去追及に対する防御、これを捨てて短期的決着に向いているが攻撃状態を長く維持する両手とも攻撃はそれを維持している分だけ本体への被ダメージ率があがる。

単純計算して敵が二倍になるのは目に見えているはず。攻撃をしているのだから

攻撃をしたら相手が鎮まるはずだという目測であるならそれは戦略が間違っているとしか言いようがない。


謝罪しなくても攻撃できる時間を過ぎて、なお攻撃側を維持しようとしたためわずかな遅れが叩かれる原因であることは今回にいたるまでにネットで多く見てきたはず。

前例を見てきた人は「見ただろう」とだれか認識強要する必要もない。むしろ見ていない人間についてはその状況を長く維持させてあげたいとすら思う。


口汚く罵倒すれば「口汚く罵倒されると嫌だという気持ちがわかるだろう」という共感の共有を強要すると、結果従うようになる事例があるとすれば、それは相手をかなり敬っている状態

自分からみて自分正義であり敬うべき存在なので、他人からみた視点自分再現したとき

自分という敬うべき相手が怒って口悪く言っているのだから、その敬うべき相手に対しては気分を良い状態に戻してもらうべく反省するはず」と自己回答を得てしまう。

自分他人をみたとき、そういう態度でいる人間をみたときどういう反応を返しているだろうか。それが現時点でそのまま他人から評価を下されていることに気が付いているだろうか。


セクハラが悪いと最初に言い出すスタンスに立った人間最後まで擁護しようという根本には自分視点からの情景以外への想像認識が十分でないためそのようなバランスにかけた評価がでてきていない。

自分の言われて不快に感じる言葉相手に投げかけることで相手反省に追い込もうという手段選択してしまう、そういう視点でみれば正義になるという視野は、最初意見を出したものからするとかなり分が悪い戦地である

そもそもハラスメントというもの自己安全であるだろうとの範疇相手との認識に差が開いていて、埋めるべき行動がハラスメント告発というものになること自体認識していないのかもしれない。


叩きなどというものはどこもかっこはわるい。ただそのかっこうの悪い方法を選んででも目的を果たす方法はある。

今回の件については、初手から発言者擁護者を含む全体が目的目的達成のための自己ではなく、自己のための達成目標として話題を決めてかかっているところにあるわけで、叩かれて総崩れをしたはあちゅうとその関係者は「かっこわるい」というスタンスに自ら陥ったというだけだ。

2017-09-15

[]ワンダーウーマンを見た

ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思いますフェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避よろしくっす。

総評

まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション

しかしじゃあ評価低いのかというとそんなこともない。

「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。

なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまたかというと、今年見たアメコミ映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。

無垢子供ダイアナ

PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近ハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。

おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。

それは主人公ダイアナ人物設定にも反映されていて、彼女美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性からといって馬鹿ではないのだ!

しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。

彼女世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレス洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語テーマなので、外せない重要な要素だ。

それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。

言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族地域文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化歴史言語には含まれいるからで、そこに理解無くしては言語意味理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語キーなわけだから理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。

すなわち「知識教育倫理人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。

ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。

けれど、個人的にはダイアナ女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知無責任だ。

ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。

善き大人スティーブ

多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈フェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。

しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものアメリカ外征軍大尉スティーブトレバである

彼はドイツ軍スパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢美女ダイアナエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。

ぶっちゃけ、序盤はただのイケメン俳優だと思っていた。

いやイケメンなのは最終盤まで変わらないけど。

ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。

彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分意見をひっこめたりもする。

物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブダイアナに「外の世界常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。

こうやって説明すると際立つけれど、スティーブイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。

しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。

ド派手なCGバトルアクションとか、世間フェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンスティーブ映画なのだ

全般的人物内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本俳優も素晴らしい仕事をしている。

彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである

彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会奉仕しようとした時、そのモデル軍人だったかである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。

ドイツ軍密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。

その過程ダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。

しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブ情報事実上握りつぶされる。

彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。

講和のためとは言え、前線舞台マスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。

でも隣には精神的に子供ダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。

前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナ神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナスティーブ関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブ父性も強く感じた。その父性というのは、子供しかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪ものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界失望してほしくなかったのかもしれない。

終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレス化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレス洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士ダイアナパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ

そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。

それは「この戦争人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだしかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。

スティーブダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。

彼女戦闘能力があまりにも隔絶してたかスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。

ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。

神々の戦いは神々であるアレスゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。

しか人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。

ダイアナ戦闘能力スティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線部隊凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的義務があったわけではない。戦争悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。

スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。

けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ

こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。

スティーブ大尉からおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。

それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブ人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。

そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。

2017-09-08

上から目線

それ上から目線じゃない?

といって話を妨げるのを聞く。客観的な指摘や主観的な助言に対してよく言われ、なにか自分がいけないような気持ちになる。本に見下すような態度や命令なら兎も角、指摘や助言に上からも下からもあるかと思うのだが、どうだろう。年下からの助言を無意味だという理由はないし、年上からの助言を無闇に信用する理由もないと思う。そこには指摘されるべきものがあって、それを率直に述べただけで「人生の先輩を気取っているのか」と主に同年代に言われるのは馬鹿らしく、また興醒めする。実際のところ、上から目線を感じることは不快であることと同じで、それを感じるのはその人自身であって、その人の認識問題しかないと思う。折角の指摘や助言を「上から目線」で片付けるのはもったいない反論できるならしたほうがいい。昨今、個性を称え、上下関係の束縛が薄らいでいるという。上司や先輩だからといって特別権利を持つわけでないと主張してきた者たちが「上から目線」と連呼するとしたら、それはワガママしかない。

また、たとえ指摘や助言でなくとも、例えば人間について思想視点を持った人なら誰に対しても、あるいはとても落ち着いて発言をする人に対しても、上から目線だという人たちがいる。この人たちはおそらく何か別の理由不快なのだろうと思うが、私の知るところではない。

2017-07-18

https://anond.hatelabo.jp/20170718010701

言ってないよ。「仏教徒であれば「人殺し」と詰られても憤ってはいけない」と言っただけで、仏教徒でない人間については何も言ってはいない。

日本人は米が好きだ」と言ったところで、日本人以外が米を嫌いなことにはならない。

命題の「裏」は真ではない(お前は逆と表現したが、実際には裏)

高校数学ぐらい勉強しようね?中卒なのかな?

2017-06-27

https://anond.hatelabo.jp/20170624130618

だろうとおもうよ。

リアルでもそういう奴ちらほらいる。

ホンマにやばくてかなりキツメに言うと、後でネチネチ嫌がらせしてくる。

人間みんな自分の好きなようにやりたくて、それを否定されるわけだから

江戸末期か、明治初期に、日本人海外行って、「海外では意見が違ってもその後ニコニコしている。日本だと殺し合いになるのに、、、、」

とびっくりしていたが、もうなんか明治以前になってるような気がして仕方ないね立憲主義を取り巻く「言論人」「政治家」の香ばしい発言を見る限り。

ただ、江戸時代学問といえば、人間について学問儒教

儒教は上が自分のことをわきまえて、下がそれに従えば理想的というもの。むしろ、上がどうあるべきかの話のほうがめちゃくちゃ多い。

だが、上がわきまえなければ上の自己愛を満たすためだけの腐った儒教になって、日本会議系とか森友からはその腐臭がプンプンした。

もう日本戦国時代ぐらいまで逆戻りしてるような気がして仕方ない。

2017-06-26

誕生日を祝われるのが苦手

Facebookをはじめとして、SNSなかに自分誕生日友達に通知する機能があるっぽいじゃないですか。あれがすごく苦手。

『この人の全人生の中で俺という人間について思いを馳せる時間って30秒も無いんじゃないかな』と思うような普段ほとんど交友の無い人から当たり障りないメッセージが来たりする。

そういうのがホント気持ち悪く感じてしまって耐えられない。


もちろん自分にとって自分誕生日はめでたいことだし、不特定多数人間に向かって「誕生日メッセージくれないで!」と発信するような野暮なことはできないから、誕生日の直前になるとあらゆるSNS個人設定から誕生日を消すことにしている。

んで、誕生日が過ぎて2,3週間後にまた登録しなおす。それを近年は毎年やっている。

そうすると友達のTLに俺の誕生日が通知されることはなくなって心に平穏が訪れる。


なかには通知がなくても俺の誕生日に気づいてメッセージをくれる人も居る。そういうのは逆にすごくうれしい。

たまに会ったときに「この前誕生日だったよね?おめでと」とか言いながらガムを一個くれたりする人もいる。もう涙が出そうなくらい嬉しい。


なんなら、誕生日関係無く「この前、増田さんが好きそうなパン屋見つけたんすよ」とかメッセージしてくる人も居る。そう言う人って逆に誕生日とかは何にも言ってこなかったりする。

でも俺は、その人が誕生日とか全く関係無く俺の事を思い出してくれて、別にメッセージしなくても何も困らないような話題でもあえてメッセージ送ってくれることがたまらなく嬉しいんだよな。


そういう話を知人にすると『うわこいつめんどくせ』みたいなリアクションされるけど、とにかくSNSの通知越しに誕生日を祝われるのは苦手です。

2017-06-22

何度も同じ質問してくる人間について

「これってどういう意味?」という質問に対して答えても、

また別の日になって同じ質問をしてくる。定期的に全く同じことを繰り返し質問してくる。

その度、理解たかのような反応をするが、本人はまた気になって確認してくるようだ。

そういった人間性質を考える。とりあえず2つ考えた。

1. 質問に準備が必要なことを知らない。またはその準備ができない。

人に質問する場合は、前提として何が問題理解している必要がある。

そして、問題のどの部分がわからいか問題解決できないか理解できている必要がある。

抜けたピースを埋めるべくして質問する必要があるが、それが出来ていない。

しかし、単純に本人に質問の準備をさせようとすると、準備する技量がないため質問をしなくなってしまう。

2. 問題を多段階に分析する方法を知らない。

問題の完全解決の前段階で、しばしば問題解決は多段階に分析される。

全体像理解、全体の構築、7, 8割方解決、完全解決 といった具合である

各段階は、それぞれ順に解決される必要がある。

こういった段階分析は、問題解決する人間自分で行う必要がある。

問題解決者がこれを行う必要がないような問題は、事実確認で済むものや、自明問題に限られる。

しかし、多段階に分析する方法を身につけていない。

自分分析して、解決までのストーリー仮定しなければ解決できないが、その必要性を知らない。

問題解決の最終形についてのみ同じ質問として繰り返すことをするのみで、

段階分析ストーリーが適切かであったり、各段階について正しいかと言った質問ができない。

2017-06-20

ゆっくり霊夢Fランク大学就職課に就職したようです」は倫理的には間違ってるよという話

ゆっくり霊夢Fランク大学就職課に就職したようです(ゆっくりFランシリーズ)をいくつか視聴してみた。

視聴した率直な感想でいうと、この動画根底に流れている作者の人間観に俺は全く共感できなかった。

ゆっくりFランシリーズ動画作成者根底に流れているのは、「いわゆる一般論」に理論武装された自己責任論と、人間の発達(青年期のおける課題、等)を

無視した「人とはこうあるべき」という人間観の押し付けであるように思えてならない。

また、俺がゆっくりFランシリーズを視聴していて抱いた感想は以下の通り。

Fラン大生は努力しないク〇」「Fラン大生は総じてク〇」「Fラン大に入ったのは自己責任

Fラン大生は何をやったところで無力で無能なので、頭は使わず死に物狂いで生きていくしかない」「努力できないのは能力問題ではないので自己責任

…こう感想を書き連ねてみるとはっきりわかるが、この動画作成者そもそも人間の発達」についてどれだけ勉強してないんだ?と思う。

それとFラン大生のような立場に置かれている人間について、どれだけ理解しているのか疑問符がつく箇所がちらほらある。

この動画作成者には、まず「そもそもなぜFラン大生は勉強ができないのか」という素朴でわかりやす問題について勉強していただきたい。

もっと簡単に言うなら、「なぜ勉強できない奴が世の中にはいるのか」について勉強して欲しいと思う。

そういう問題を諸所考えていけば、「どうして勉強が不得意な奴が世の中には存在するのか」ということや、

「どれだけ学習意欲を喚起させてもFラン大生が勉強しない理由」であったり、「Fラン大生がやる気を出さな理由」が

みえてくるんじゃないかと思う。

…まあ、結論だけをいうと、Fラン大生は小中高を通じて学習意欲や適切な学習機会を奪われたある種の社会的弱者だということがみえてくるのだけど。

…少し話が逸れたかもしれない。閑話休題

俺、このシリーズ動画作成者人間観は、はっきり言って間違ってるし人として腐ってると思う。

この動画作成者は、学生一人一人の人生を本当に慮って就労支援しているようには思えない。

この動画作成者は、人材右から左スライドさせていく、さながら人材コンサルタントのようにしか思えない。

最後に。

こんな動画を見てしまって鬱になっているFラン大生よ、こんな動画、気にするな。

君は君の思うままでいてもいいんだ。

から大学生の間、君は君がやりたいと思ったことを、思うままにやるといい。

そして幾つかの年月を過ごしたある日、君はきっと気付くだろう。

『君の人生は、親のためでも世間のためでもなく君のためにあるということ』に君は気付くだろう。

その時になって初めて、君は「思うままであれ」という言葉真意に気付くだろう。

思うままであれ。

主体性を取り戻そう。

そして、このつまらなくも面白い世の中という大海原を、思うままに生きてみよう。

ゆっくり霊夢Fランク大学就職課に就職したようです」は倫理的には間違ってるよという話

ゆっくり霊夢Fランク大学就職課に就職したようです(ゆっくりFランシリーズ)をいくつか視聴してみた。

視聴した率直な感想でいうと、この動画根底に流れている作者の人間観に俺は全く共感できなかった。

ゆっくりFランシリーズ動画作成者根底に流れているのは、「いわゆる一般論」に理論武装された自己責任論と、人間の発達(青年期のおける課題、等)を

無視した「人とはこうあるべき」という人間観の押し付けであるように思えてならない。

また、俺がゆっくりFランシリーズを視聴していて抱いた感想は以下の通り。

Fラン大生は努力しないク〇」「Fラン大生は総じてク〇」「Fラン大に入ったのは自己責任

Fラン大生は何をやったところで無力で無能なので、頭は使わず死に物狂いで生きていくしかない」「努力できないのは能力問題ではないので自己責任

…こう感想を書き連ねてみるとはっきりわかるが、この動画作成者そもそも人間の発達」についてどれだけ勉強してないんだ?と思う。

それとFラン大生のような立場に置かれている人間について、どれだけ理解しているのか疑問符がつく箇所がちらほらある。

この動画作成者には、まず「そもそもなぜFラン大生は勉強ができないのか」という素朴でわかりやす問題について勉強していただきたい。

もっと簡単に言うなら、「なぜ勉強できない奴が世の中にはいるのか」について勉強して欲しいと思う。

そういう問題を諸所考えていけば、「どうして勉強が不得意な奴が世の中には存在するのか」ということや、

「どれだけ学習意欲を喚起させてもFラン大生が勉強しない理由」であったり、「Fラン大生がやる気を出さな理由」が

みえてくるんじゃないかと思う。

…まあ、結論だけをいうと、Fラン大生は小中高を通じて学習意欲や適切な学習機会を奪われたある種の社会的弱者だということがみえてくるのだけど。

…少し話が逸れたかもしれない。閑話休題

俺、このシリーズ動画作成者人間観は、はっきり言って間違ってるし人として腐ってると思う。

この動画作成者は、学生一人一人の人生を本当に慮って就労支援しているようには思えない。

この動画作成者は、人材右から左スライドさせていく、さながら人材コンサルタントのようにしか思えない。

最後に。

こんな動画を見てしまって鬱になっているFラン大生よ、こんな動画、気にするな。

君は君の思うままでいてもいいんだ。

から大学生の間、君は君がやりたいと思ったことを、思うままにやるといい。

そして幾つかの年月を過ごしたある日、君はきっと気付くだろう。

『君の人生は、親のためでも世間のためでもなく君のためにあるということ』に君は気付くだろう。

その時になって初めて、君は「思うままであれ」という言葉真意に気付くだろう。

思うままであれ。

主体性を取り戻そう。

そして、このくだらなくも面白い世の中を、思うままに生きてみよう。

2017-06-19

優しさと弱さの表裏一体の性質について(弱い人との付き合い方)

人生の中で、不意に強烈なジレンマを感じるときがあった。それがつくづく不可解だった。

こちらのことを悪く言う人間他人を貶めずにはいられない人間他人の不幸を喜ぶ人間について、どうしても、それが卑怯であるとか、浅ましいとか、自分は面と向かって言うことができなかったのだ。まるで口にガムテープを貼られているようだった。

自己愛性人格障害であったり、ハラスメント気質であったり、世間には、その妬みや劣等感他人にぶつけて生きる人たちがいる。そういう人間出会ったとき自分はほどほどに苛立ちながらも、原因が相手の弱さだと分かっているのに、どうして苛立ちを払拭できないのか?と、疑問に感じていた。

専門家や先人たちはどう考えるのかと調べても、やはり、その弱さを攻撃することよりも、距離を置く、関わらないことが勧められていた。

しかし、どうして相手の弱さを攻撃することに強い忌避感があるのか、気付いてみれば簡単である。妬み、劣等感不寛容、その反対は(恐らく)、祝福、自己肯定、寛容である。優しさは、他人への攻撃性の元となる弱さの反対側にあるのだ。相手の弱さを攻撃したい、するべきだ、と思うこと自体が、自分の弱さから来る。もしそうすると、相手自分とは同じ高さで向かい合うことになる。

優しさがあるかぎり弱さを攻撃できないのなら、優しさを捨てない人間勝利はないのか?もしかするとそうかもしれないが、しかし、それでは世の中はもっと強くネガティブに偏った勢力図のはずである

らくだが、優しさはそれそのもの勝利なのではないだろうか?他人攻撃し、他人もっと弱くなることを願い、もっと不幸になればなるほど自らが悦びを得られる人々にとって、苦しみとは、自分がどれだけ貶めても、むしろ自分に対して優しさを失わない人間を目の当たりにすることではないだろうか?

すなわち、相手の弱さを攻撃するのは弱さそのものだと悟り、その優しさに自信と誇りを持つことこそが、人の心の弱さに対する真実勝利であり、弱さと優しさの均衡を自らで保つ始まりなのではないだろうか。

2017-06-06

年をとると意図せずとも差別する側に回ることが多々ある

なかなか悩ましい。

具体的には独り身の独身貴族だったころと家族子供ができてからでは価値観が大きく変わる。特に子供」という自分よりも大事存在ができると昔のように能天気に寛大な対応は取れない場面が多々ある。

わかりやすいたとえだと、たとえば福島産の農作物である震災から6年以上たって除染もしっかりできていると散々報道されているのに、いまだに「放射脳」と揶揄される行動で福島産の農作物を忌み嫌う傾向がネットでも見られる。

これは子供ができる前だったら純粋軽蔑してたのだが、子供を育てる身になるとなかなか悩ましい。俺個人福島産の食材を食べることにはなんら抵抗がない。ただ何も雑念なく自分の子供にも与えられるか?と問われると正直悩む。頭では「市場に出回っている食品安全」だとわかっていても、わざわざ数ある選択肢の中から福島産のを選んでそれを子供に与えるのか?というジレンマがある。

正直現時点でわざわざ福島産の農作物を選ぶのは、いまだに風評被害に苦しむ福島農家応援しようという気概が一番の動機だろう。だからそれを自分で買って自分だけで食べる分には何の問題もない。でもそれをわざわざ意図的子供に買い与えて食べさせるのは、逆に親のエゴなんじゃないか?というジレンマが生まれしまう。

性犯罪児童虐待前科がある人間についても、以前はどんなにひどい罪でも刑務所で罪を償った以上はちゃんと彼らが社会復帰できるように協力するのが大事だと純粋に思っていた。しかしいざ自分にも子供ができるとやっぱそういう前科者には家の近所に住んでほしくない。できれば欧米のように顔写真つきで位置情報ネットで公開してほしいと思わずにいられない。

これらの感情を「気持ちはわかるけど差別」といわれてもしょうがないと思う。少なくても「自分がしてることは家族を守るための社会的区別差別じゃない」なんて思い上がった台詞をはかない人間であり続けたいとは思う。ただ人間というは自分より大事存在ができると、それを守るためには差別する側に回ったり、時には犯罪を犯すこともいとわないものなのだなと痛感する。なぜ世界宗教という存在が生まれたのか最近よくわかる。

こうの史代の「夕凪の街 桜の国」という漫画被爆者差別されるシーンがある。でもそれは被爆者を忌み嫌うというより、自分たち大事な娘が被爆2世の男性結婚したら悲しい思いをするんじゃないか?生まれてくる孫は大丈夫だろうか?という娘を思う親心からまれ差別なのがとても印象的だった。ときには同じ被爆者でありながら、自分の息子には被爆者結婚してほしくないといったシーンもあった。中二病風にいえば「愛が差別や憎しみをうむ」というやつか。

大人になるというのは思ってたよりもしんどいものだな。

2017-05-09

http://anond.hatelabo.jp/20170509113056

そういう性的嗜好幼児だけでなく乳幼児妊婦病人、老人、死体ですら)を持った人間一定存在していることは当たり前のことでしょ。

ただ、それが周囲に居るかどうかは分からん。というのも児童に対する欲情性的行為社会世間絶対に許さないので、そういう嗜好を持っている人はそれを隠すし行動にも起こさないから。で、たまーにペドエロ漫画でのオナニーじゃ満足出来なくなった奴が出てきて、犯罪を犯して注目を集めると。

あと男ばっかり注目されるけど女にもいるよね。まあ行動に起こす割合が男よりかは低いんだろうな。

でそういう人間については、それが生まれつきなのか、それとも後天的になったのかは分からんけど俺は可哀想だとすら思うよ。だって自分の性欲を満たすには犯罪に走るしか無いんだから

俺は自分と同年代の異性との、フッツーのセックスが好きなフッツーの性的嗜好/指向を持って生まれることが出来て良かったよ。社会的に許されない性癖持ちは大変だな。いつか全ての性欲が被害者無しに満たされる(仮想現実とか)、もしくは矯正できる世界になるといいね

2016-11-14

[] #6-1「タケモトさんの嫌いな人」

社会で生きていく上で、多くの人に好かれるように、或いは嫌われないようにするのは大切なことだ。

でも八方美人が嫌いな人がいるように、全ての人に嫌われないように生きるのが無理だってことも、ほとんどの人は知っている。

そういうとき、どのように折り合いをつけるべきなのだろう。


タケモトさんは、俺たちマスダ家の隣に住んでいる人だ。

ちょっと露悪的な言葉遣いが目立つが案外度量の広い人格者で、ハロウィン作戦での出来事記憶に新しい。

「買いかぶるな。オレだって、嫌いな人間の一人や二人や三人や四人いる」

謙遜にも聞こえたが、タケモトさんはそう思われることを見越したように、とある人間について語り始めた。

「オレが、学生やってた頃の話だ。当時、オレが住んでいた町には、とある嫌われ者がいた。勿論、オレもあいつが嫌いだった」

「どんな人でした?」

「そうだなあ……控えめに言って、人に嫌われるために生まれてきたようなやつだったよ。非の打ち所しかない人物だ」

タケモトさんから語られる『あいつ』に関するエピソード些細なものから壮大なものまで様々だった。

あいつの口癖は『悪いけど』なんだが、そう言うわりに全く悪びれているように見えない。そうやって、あいつがやたらと使うもんだから、俺の住んでいた町では『悪いけど』ってのは、本心では悪いとは思っていないときに使う言葉として認知されるようになった」

そうして語られるエピソードによって、『あいつ』の人格は俺たち兄弟の中でどんどん形作られていった。

あいつの言ったことで今でも思い出すのが、『自分がされて嫌なことを他人にするなっていうけどさ、大した理屈じゃないよなあ。他人に嫌がって欲しいか自分がされて嫌なことをするんじゃん』ってセリフだ。あいつの性格の悪さの象徴している」

なんだか随分とタケモトさんが雄弁に語るものから、俺は案外『あいつ』のことを嫌っていないんじゃないか、だなんて思うほどだった。

弟がそんな邪推をしてみると、タケモトさんはそれすらも見越して語る。

「いや、間違いなく嫌いだよ。嫌いであることを忘れないために、悪感情を持続させるのさ」

そのときの俺たちは、タケモトさんのその言葉意味をよく理解できていなかったんだ。


家に帰ってからも、弟は『あいつ』のことが気になって仕方なかったらしい。

怖いもの見たさなのか、『あいつ』のいる町に行くと言い出した。

タケモトさんの話を聞く限り、とても俺には興味が湧くようなものではなかったが、こうなったら弟は止められない。

そして、弟一人に行動させてロクなことにならないのは容易に想像できる。

仕方なく、俺が付き添うことを条件に、『あいつ』のいる町に行くことを了承した。

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