人生の中で、不意に強烈なジレンマを感じるときがあった。それがつくづく不可解だった。
こちらのことを悪く言う人間、他人を貶めずにはいられない人間、他人の不幸を喜ぶ人間について、どうしても、それが卑怯であるとか、浅ましいとか、自分は面と向かって言うことができなかったのだ。まるで口にガムテープを貼られているようだった。
自己愛性人格障害であったり、ハラスメント気質であったり、世間には、その妬みや劣等感を他人にぶつけて生きる人たちがいる。そういう人間に出会ったとき、自分はほどほどに苛立ちながらも、原因が相手の弱さだと分かっているのに、どうして苛立ちを払拭できないのか?と、疑問に感じていた。
専門家や先人たちはどう考えるのかと調べても、やはり、その弱さを攻撃することよりも、距離を置く、関わらないことが勧められていた。
しかし、どうして相手の弱さを攻撃することに強い忌避感があるのか、気付いてみれば簡単である。妬み、劣等感、不寛容、その反対は(恐らく)、祝福、自己肯定、寛容である。優しさは、他人への攻撃性の元となる弱さの反対側にあるのだ。相手の弱さを攻撃したい、するべきだ、と思うこと自体が、自分の弱さから来る。もしそうすると、相手と自分とは同じ高さで向かい合うことになる。
優しさがあるかぎり弱さを攻撃できないのなら、優しさを捨てない人間に勝利はないのか?もしかするとそうかもしれないが、しかし、それでは世の中はもっと強くネガティブに偏った勢力図のはずである。
恐らくだが、優しさはそれそのものが勝利なのではないだろうか?他人を攻撃し、他人がもっと弱くなることを願い、もっと不幸になればなるほど自らが悦びを得られる人々にとって、苦しみとは、自分がどれだけ貶めても、むしろ自分に対して優しさを失わない人間を目の当たりにすることではないだろうか?
すなわち、相手の弱さを攻撃するのは弱さそのものだと悟り、その優しさに自信と誇りを持つことこそが、人の心の弱さに対する真実の勝利であり、弱さと優しさの均衡を自らで保つ始まりなのではないだろうか。