はてなキーワード: 考察とは
356 :ソーゾー君:2014/07/30(水) 21:44:44 ID:zDIG//Io
欧米政府や日本政府がガラス張りとまでは行かないが公開してると思ってたよ?
もう詰んでるよ?
「拉致が有ったと言う根拠と証拠が有ったなら俺は日本人は北朝鮮に拉致されたと言うよ?」
「結果、北朝鮮が日本人を拉致したと言う根拠と証拠が無い事が解った・・
全て欧米政府=日本政府=救う会=キリスト系カルト=マスコミ=ロスチャイルドのでっち上げだと解った。」
「拉致が有ったと言うなら目的、理由、経緯、経路を語ってみなよ?自問自答してみな?」
「お前程度の一般人を拉致って得る情報なんか北朝鮮政府は知ってるぜ?」
「昔は普通に通商=貿易をして船が年間数千隻も行き来してるから日本の情報は丸分かりだよ?」
「それに総連も有るし在日も居るよ?普通に電話できるのよ?国際電話だから割高だけどね・・」
「当然、北朝鮮の渡航も普通にできるのよ?在日のように簡単じゃないけどね・・
今も行けるんだよ?w北朝鮮にw」
閉鎖的で情報統制をしまくっているのは欧米政府や日本政府なのw
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1388615873/
逆転させたのは、「相手の身になれ」という意味だろう。
ただし、逆転させると全く違う問題になる事があるので注意が必要。
例えば、人間とクジラの立場を逆転させた映画とか作って捕鯨を批判したとしたら、それは単なるナンセンスホラーであって問題を正しく捉えていないだろう。
まあ、それはそれとして、私はこの映画の問題点はイジメを描いたことだと思う。
それを意図的かどうか知らないが、同性愛を認めない価値観とワンセットとして扱っていることに問題がある。
例えば(←コレ重要だからね)、万引き犯を明らかにやり過ぎなくらいボコボコにリンチして自殺に追い込む映画があったとする。
そこで「万引き犯を許容しないのは悪だ」という印象付けしたら、そりゃおかしいだろ?
それはボコボコにリンチするのが問題なのであって、万引きの問題はまた別だからだ。
同性愛者を認めないことと、認めない対象をイジメることは全く別の問題と考えなければならない。
前いた会社を辞めた時に、部下がくれたアドバイスを思い出した。
同僚の三倍程度の仕事量をてきぱきとこなし、涼しい顔で毎日定時に帰っていく。上司の俺が何も指示していないときに、社内を歩きまわって、同僚や先輩に仕事を「お願い」していた。
けれども、そいつを悪く言うやつはいなかった。笑ったときのえくぼが印象深い奴だった。
経験だけはあったが、他にその役につく人間がいないという理由で、ロケット鉛筆のように押し出されてそのポジションに付いた。
かつて新人だった頃は、プログラマーとして四苦八苦しながら、作る喜びを糧にしていたものだった。
だが月日が経って、机の位置が変わった。プロジェクトを指揮するようになった。部下が増えた。いつしか俺はコードを離れ、代わりに人間を扱うようになっていた。
責任が増えると共に、やりがいも増えた。チームをまとめて、目標に向かっていく。自分一人ではできないことを、仲間たちと力を合わせて達成する。砂漠の中にピラミッドを建てるように。
プロジェクトを完遂すると、メンバーがガラリと変わった。力になってくれた仲間たちは、別のチームでその才能を発揮することになる。俺の元には営業がやってきて、新しいプロジェクトの発足を告げる。
程なくして新しいメンバーがやってくる。俺は別なチームとともに、別のピラミッドを建てるのだ。
そんなループを何度か繰り返したある日、プロジェクト終了直後の閑散とした社内を眺めて、缶コーヒー片手にボンヤリしている時に気がついた。
味がしない。缶コーヒー、ジョージア・エメラルドマウンテン・ブレンド(つめた〜い)の味がしない。
いやもちろん缶コーヒーなので、本来そんなに旨くない。街の喫茶店はおろか、スターバックスで女子高生がカップで飲んでるやつにも及ばない、いわゆる”コーヒー飲料”なのだが、初めの頃はうまかったのだ。
入社当時、Visual Basic の教本を片手にキーボードにしがみついていた時に机に並べていたエメラルドマウンテン・ブレンドは、もっとスカッとした味だった。
抜けた空のような味。
何かが違う。そう感じた。
iPodを作った天才、スティーブ・ジョブズはかつてこう言った。
私は毎日、自分に問いかけてきました。「もし今日が人生最後の日だとしたら、今からやろうとしていることをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、何かを変えなければならない時期にきているということです。
一週間の後、俺は退路を歩むことを決めた。
退社まで残りひと月と迫って、引き継ぎが一段落したある週末に、俺は例の、できる部下と酒を飲むことになった。
そのときの部下は会社の期待のエースとして注目を集め、人より多くの責任と仕事を与えられていた。しかし本人はプレッシャーに怯むことはなく、むしろ水を得た魚のように、やる気に満ちていた。テカッテカだった。
酒の席に誘うと忙しいにもかかわらず、嬉しそうに快諾した。へんなやつだ。
その夜、俺は柄にもなく酔っぱらい、いつのまにか部下に向かってだらだらと仕事上の愚痴をこぼしつづける、情けない中年オヤジになっていた。
聞くと部下も結構酔っていると言ったが、俺は知っていた。こいつは顔は真っ赤になるが、それでいて実態は”ザル”だ。笑顔を崩さず、俺の話に機械的に相槌を打っている。
俺の話が一段落したときに、すべりこむように部下が横槍を入れた。「でもね上司さん。そういうのって上司さんが悪いんですよ。」
失礼ですけど。
顔を上げて確認すると、部下は笑顔の目元に困ったような表情を乗せていた。俺が息を呑むと、覚悟を決めたように、話を続けた。
何から何まで自分のアタマで考えないと気が済まない、そんなタイプの人間がまれにいます(ご指摘の通り、俺がそうだ)。
確かに、自分のアタマで考えるということは、ものすごく気持ちがいいですよね。なにかすごく『意味のあることをした感覚』を得られます。
最高責任者とか芸術家とかでない限り、自分のアタマで考えたことは「誰かに説明して納得してもらう」というフェーズが必要です。
相手が上司さんの上司さんであるなら、例えば説得はこんなふうに行われます…
お偉いさんの元を尋ねて、現状の問題を分析するとこういう構造になってて、どこがどう問題と考えられるので、このようにやりかたを変えれば、このくらいよいことが起こるでしょう、みたいなのを説明して、話の前提をちゃんと共有しないと理屈が通らないから、考えに至る前提条件とかを事細かに説明して、相手との認識が合わなかったら合うように、考え方の違いに注意しながら調整して、ようやく自分のアタマで考えたこと、を分かってもらえたら次は、それって絶対・100%・間違ってたら責任取るの? とか聞かれます、でもそんなん100%なんて世の中にありえないだろ、と思っても言い出したのは自分だし、時間をかけて分かっていただいた手前もあるし、それら有象無象を踏まえて相手のプライドを考慮しつつ、こちらの責任が大きくなりすぎないように、うまく首を縦に振ってもらうように、知略の限りを尽くして言いくるめるんです。
一方で、去年と同じで行きましょう、ならサラッと通ります。
競合他社と同じ戦略で行きましょう、偉い人の方針をまるごと継承しましょう、とかでも。
冷静に、比べてみてください。自分のアタマで考えた場合のコスト。
説明のために、ものすごいコストや苦労をかけてストレスをためこみ、結果自分の責任が増しただけ。
自分のアタマで考えようとして、なんにも結論が導き出せなくなることがあります。
どの因子がどう関わってるのか整理しきれない。どこの範囲まで前提として考慮に入れるべきかがわからない。「Aと言う視点なら正しいとも言えるし、Bという視点なら間違いとも言える」みたいな項目ばかり。
なにを考えても「他人が出した別案」に引っ張られる。なんとかごまかしつつ、ちょっと甘いかな、って思いながら考察した結論を他人に見せる。でも、アタマの鋭い人はどこでもいるもので。
ピンポイントでその弱いところを突かれちゃったりする。自分でも「俺バカなのかな」と薄々感づいてる点を、改めて他人にも認識させられることになります。痛恨の一撃です。大ダメージです。
ゼロから考え直すなら、誰だって結論を間違えたり、推論を見失ったりすることがありえるんですけど、『自分のアタマで考えている俺』に酔っていると、そういう基本的なことは、忘れちゃうんです。
根拠のない自信を持ってる人ほどひどい結果になりがちです。
「自分は天才とまでは言わないけども、周囲の中でまあまあ使える、ほうだし、今は流されてるけど、本気出せば自分で考えて結論出すようなこともできるもんね!」
そんな自信は崩れ去ります。
失った自信を取り戻すのには、より多くの時間が必要です…。ご年配の方ほど、必要な苦労は過酷なものになるでしょう。
その仕事が得意な人、エキスパートに全部お任せする、というのでも。
挫折が無ければ、その間仕事ができた。挫折があるから、周辺分野へ再び手を伸ばすことが、おっくうになった。
例えば、さっきお酒持ってきてくれたの店員さん。カウンターで寂しそうにひとりで飲んでるオジサン。自分のアタマで考えているように見えますか?
たいていの人たちは、流されています。考えが浅いし、近視眼的です。リスク管理の面から見ても、脆弱です。
でも、その人たちって、不幸ですか?
かなり幸せそうじゃない? 自分はすごいという自信のもとに楽しく過ごし、うまくいかなかったことは運が悪かった、また次があるさ、と片付けてポジティブに生きてる。掘り込んだ原因分析なんてしないで、場当たりに生きてる。若者から人生訓を聞かれたら嬉々として語っちゃう、的な幸せさに溢れてるw
偉そうにw 生意気言うやつだなw とその晩は軽くたしなめて別れたけど、
よくよく思い返すといい話ではあった。なんだか、ずっと温めていた感もあるし。
俺は今まで、自分のアタマで考えてきた。それを誇りにしていたというほどではないけど、出来る限り自分でやってみる、が俺のモットーだった。
けれども、それで、何が残っただろうか。
すり減ったり、焦ったり、自己嫌悪に陥ったり。紆余曲折を経て、何が残ったのか。
ひょっとすると、俺は自分の人生の将来や、手に入れられる幸福や可能性から、目を逸らしていたかっただけなんじゃないか。
実感を求めて効率を犠牲にする。それで誰かの足を引っ張る。あるいは、身の程をわきまえて、歯車として、自分に与えられた役割を果たす。その分岐路で立ち尽くしている。アタマで考えても前に進めない。思考停止すれば進める。『結果』を手に入れる。上手く行けば成功できるかもしれない。彼女のように。慣性は惰性だ。だから、プライドは捨てる。直感は捨てる。生き方を変える。
(以上。なんかディティール盛り過ぎてる感があるけど、部下の言いたかった、本筋のところは外していない?)
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後書き:
id:uxlayman さんの元エントリ、分析エントリです。
俺の考えでは、元となるアイデアが良ければ、読みやすくするためにストーリーを与えて、読んでて途中で躓かないように、注意深く、入念に推敲すれば、ある程度伸びます(俺はこの文章の推敲に6時間かけました。ヒマスギシヌ)。
コアとなるアイデアはなんでもいいわけではないようです。というのも、同じようなストーリーで同じような語り口の記事を過去に書いたことがあるんですけど、そっちは全然伸びませんでした。
追記 (7/30 1:35時点):
頂いたコメントより
自分のアタマで考えようという本があったと思います(未読)が、自分のアタマで考えるのをやめる選択肢もあんじゃね?というお話。わりかし実話。
最高責任者とか芸術家とかでない限り、自分のアタマで考えたことは「誰かに説明して納得してもらう」というフェーズが必要なわけですが、これが超めんどくさい!
去年と同じで行きましょう!とか競合他社と同じ戦略で行きましょう!とか、偉い人の方針をまるごと継承しましょう、ならサラッと通ることに対して、「現状の問題を分析するとこういう構造になってて、どこがどう問題と考えられるので、このようにやりかたを変えれば、このくらいよいことが起こるでしょう」みたいなのを説明するがすんごくすんごく面倒。
話の前提をちゃんと共有しないと理屈が通らないので、考えに至る前提条件とかを事細かに説明して、相手との認識が合わなかったら合うように調整して、、、と、この過程も面倒。それで分かってもらえればいいけど、認識や考え方の違いにより分かってもらえなかったりすることも多々あってかなりストレスがたまる。
それでようやく「自分のアタマで考えたこと」を分かってもらえても、今度は責任論になる。それって絶対?100%?間違ってたら責任取るの?去年と同じやり方なら去年と同じ結果になる、ってのは共通意見だけど、お前のはどうなの?的な。
そんなん100%なんて世の中にありえないだろ、と思いつつも言い出したのが自分であるし、時間をかけて“分かっていただいた”手前、しぶしぶ了承せざるを得ないという。
客観的にまとめると、自分のアタマで考えた結果、説明のためにものすごいコストや苦労をかけてストレスをためこみ、結果自分の責任が増しただけ。なにこれ?自分で考えるのなんてやめて、他人の、いつものやりかたに乗っかったほうが楽じゃね?
これ、人によると思うけど「よし、この件は自分のアタマで真面目に考えてみよう!」と思い立った結果、、、、なんにも結論が導き出せねえ・・・ってなったこと、ないですか?
やべえ、どの因子がどう関わってるのか整理しきれねえ。そもそもどこの範囲まで前提として考慮に入れるべきかが全然わかんねえ。「Aと言う視点なら正しいとも言えるし、Bという視点なら間違いとも言える」みたいな項目ばっかりで、結論を下せねえ・・・。なにを考えても「他人がだした別案」に引っ張られちまう。あれ?もしかして自分バカなのかな?みたいな。
そのへんなんとかごまかしつつ、ちょっと"甘い"かなって思いながら考察した結論を他人に見せると、もうなんていうのかな、アタマの鋭いやつってのはどこでもいるもので、ピンポイントでその迷い点みたいのを突かれちゃったりする。自分でも「自分バカなのかな」と薄々感づいてる点を、改めて他人にも認識させられるという、この痛恨の一撃的な大ダメージ!
これの根本的な原因は「世界は自分のアタマで整理しきれるほど単純ではないし、不確実性に満ちている」ってことで、そこからすると結論を間違えたり、推論を見失ったりすることは別に恥じることでもないんけど、そういう大きなこと忘れちゃうのよね人は。
それで、結構多くの人は「自分は天才とまでは言わないけども、周囲の中でまあまあ“使える”ほうだし、今は流されてるけど、本気出せば自分で考えて結論出すようなこともできるもんね!」みたいな根拠のない自信を持ってしまう。それが根こそぎ崩れるのはでかい。歳をとってるほどでかい!
これも客観的にみると、自分のアタマで考えたばっかりに、自分がバカであると発見して勝手に凹んでる、ってだけ。あれ?なにしてんだろうねこの人。
さて、親とか親戚とか近所の八百屋さんとか、そういう身近な大人を見てみよう。自分のアタマで考えてる人って、ものすごく少ない。浅いし、近視眼的だし、人生綱渡りだな、的な印象を持つことすらある。
でも、その人たちって、不幸ですか?かなり幸せそうじゃない?自分はすごいという自信のもとに楽しく過ごし、うまくいかなかったことは運が悪かった、また次があるさ、と片付けてポジティブに生きている。掘り込んだ原因分析なんてしないで場当たりに生きてる。若者から人生訓を聞かれたら嬉々として語っちゃう、的な幸せさに溢れてる。
それに対して、真面目に自分のアタマで考えて、結果すり減ったり自己嫌悪に陥ったりするのって、あまり人生を幸せにする行為ではないんじゃなかろうか。どうだろう?
注:これはある種の実験です。なにかに気づいた人はそっとしておいてください
みたいなバカ丸出しの記事は書かんのだよね。
ネットの匿名性を利用して、こうした嘘の記事を書く心理って一体なんなんだろうか?
安易に推測するなら、
ネット上でエリートに成りきる事で返ってくるコメントが快感なのだろうか?
それを率直に口に出したら、本気で嫌がられた事が有る。
だから、心の中で「凄いな」と思う様にしている。
それぐらいホントに凄い人は褒められるのを嫌がる。
ネットで「俺自慢」してる行動とは間逆。
アンチfeitaの人がブコメ停止、増田停止の処分を食らった模様。
これを受けて、今後は増田を使った個人攻撃が萎縮していくだろう。
何のとりえもない人が、そんな自分の自意識や価値観を見世物にする。
そうして人気を得た雑記ブロガーらは、オフ会や相互言及によって、
さらに知名度を上げていく。知名度を利用して知名度を稼ぐ。
かつてテキストサイト界隈で起きていたことが、今ははてなで起きている。
そんな状況に対しては、当然批判の声を上げなければならない。
人気のあるブロガーを批判することには大きなリスクが伴ってしまう。
そこで増田が使われていたわけだが、今後はそれもできなくなってしまう。
Facebookで地元の友達とかは全部unfollowしている。彼らバカだもん。
安い感動記事、シェア集めたいだけの動画紹介してるだけのクソページ、占いの結果、ゲームのスコア。
あいつら、こんなのばっか載せてくるんだぜ。
地元のバカな友達以外も、最近はどんどんunfollowしていっている。
自分が東大なんで友達も必然と東大生や早慶などいわゆる高学歴に分類される人が多いんだけど、彼らですら中身ペラペラなリンクのシェアばっかしてくる。
「すげー!」「きれー!」「これは問題だ。」
とか言って何年も前にバズった内容のパクリ記事をシェアしたり、時事話題に関する浅はかな考察を披露したりとかしてくる。
社長とか尖っている人とかのポストは割とinformativeだったりして面白いんだけどね。
いわゆる「普通」の人のポスト、マジで面白くないしそんなのに便乗してくるクソみたいなソーシャル(笑)サービスが増えすぎて気持ち悪い。
もともとオスとメスでは、どの生物もメスがオスを選別する側だが、人間の場合はさらに顕著だ。
というのも
基本的に性行為が出来るということは、能動的に動き回れる一定以上健康な個体であり、つまり群れに貢献する立場の個体だ。
特に原始人類の生命線である炎の管理や、暖を取る衣服を作る技術、動物性と違い切らすと即飢えに繋がる植物性栄養源の採取など、群れのライフラインは概ねメスの管轄にあった。
そいつが一匹無駄に死ぬのは群れにとっての損失となる。社会性が強ければ強いほど、そういう損失は個体が子供を残すことより重要だ。
群れの構成員が一匹増えるか、一匹減るかという、五分五分のギャンブルなので、必然的に成功確率が高い間は挑んで良いが、成功確率が下がる年齢になると、メスはとっとと閉経して、以降生殖から解放され、単純に社会を維持する活動に専念するようになる。
更にそもそも生まれた子供は、これまた二足歩行の弊害で、他の哺乳類に比べ極めて未熟児の状態で生まれてくる。
成体まで持っていくには、多分なリソースを注ぎ込まねばならず、あまり育てるのに乗り気がしない子供は、原始社会では産まれてまもなく母の手で間引きされた。
選んで選んで、なんなら一生産まない方が群れへの貢献になるなら、一生産まない選択肢も下手に産むよりは良いことであり、それでもなお育てると選んだ子供だけを群れに加えて良い。
女性はひたすらに選ばなくてはならない性だ。
一方男はリスクがない。
時間がたてばたつほど精子は劣化し、それを示す加齢臭によって女性に避けられるため、選ばれる確率は落ちていくものの、別にそれでうっかり選ばれたとしても、特に子供が出来ないか、問題児が出来ても間引けば良いので、とりあえず生殖能力を維持し続けても群れの害にはならない。
ひょっとすると上手い具合に年を食っていても、育てるに値する子供が生まれる確率もないではないし、棚ボタ狙いも込めて、生殖能力は維持され続ける。
かくして例え一生涯相手にされないままでも、性的な存在であることから免れない。
選ばれることがノーリスクな分、選ばれるに越したことはなく、逆に一生選ばれないというのは、自身が無価値な存在であるということをダイレクトに突きつけられる。
なんで自分はこんなに求めているのに、向こうは誰もが片っ端から自分を断り続けて、自分抜きの方が幸せに生きられるというのか。選ぶ側になれるものならなりたい。選ばれたがる必死な相手から、自分は断れる立場になりたい。
しかし基本的にリスクがある側が、リスクと天秤にかけて選ぶ形になるのは当然だ。リスクのせいでそもそも、相手を求める度合いが釣り合っていないのだ。
一方そんな女達も、ノーリスクで選ばれる側に立てる男を羨む。
自分ではなく相手が「選んだことによるリスクの全て」を背負う。相手はそれだけのリスクを背負う覚悟を持った上で選んでくれる。そんな立場。
選ぶものと選ばれるものでは、結果は常に選ぶ者の責任になるが、その全てを負わなくて良い。選ばれずともデメリットはない状態で、あれやこれやつまみ食いする自由がある。
出来るものなら何の責任もなく、そういう立場になりたい。そう羨む。
しばらくして時代が下り、人口密度が高まると、部族闘争が増え、男の地位が高まり、やがて男達がライフラインを握って、全てを支配する文明の時代がやってくる。
初期は誘拐婚などで、オスが好きなメスを強制的に選ぶ方式ができる。
ただこれ、選ばれたがる相手の中から、優越を持って自分が選ぶ立場になれるようなものではない。
どっちかっつーと、選ばれるせいで女性は不幸になる。つまり女性としては選ばれないに越したことはない。女が男に選ばれたがってくれない。結局形的には選べても、根っこは元のままである。
あるいは交換婚が発生する。女を村の財産として別の村と交換する方式だ。
村と村の関係の円滑化にはなるが、やっぱり女性は嫌がるので、実質誘拐婚と同じである。
やがて社会構造が複雑化し、階級が生まれたあたりで、なかなか上手い制度が生まれる。
上位婚・下位婚。身分の高い男性が、低い女性を選んで結婚する。
社会の中で一番高い身分は大体男性が占めるので、最下層の男性を除けば、誰もがそれなりに結婚機会に恵まれる。
めでたしめでたし……か?
しかしオスにとっては、メスとくっつければそれだけでプラス事象だが、メスにとっては自分が選んだ相手以外とくっつくのは、一生独身であることよりも悪いマイナスでしかないことは、どうあがいても変わらないのだ。いくら文明が発達しても。
女は嫌な相手と結ばれるマイナスを帳消しにするだけの、生活環境の向上が約束されてようやく選ばれたがるようになる。
いずれの場合も、金や地位が女を選ぶ権利を持っているのであり、男は金や地位を持つことは出来ても、女を選ぶ権利を手にすることはないのだ。
相手が地位があれば、それを失うリスクが発生する、と一瞬は考えられる。
男がリスクを推してでも女を選ぶ、そんな幻想が成立するように。
しかし実際のところリスクなんて形式的なレベルくらいしかなく、大した障害もなく男は女を選べてしまう。大した覚悟もいらないままだ。
結局このシステムは、擬似的に男を選ぶ者に、女を選ばれる者にしようとはしてくれるけれど、本質的にお互い選ぶ立場にも選ばれる立場にもなれないものだ。
全員が全員、生物的なくびきと無関係に生きられるほど、余裕に溢れているわけではない。
そして中には、膨らんだ幻想を現実とごちゃまぜにしていく人たちもいる。
今でもはてなには、女同士では絶対に仲良くなれないのがデフォだとか、婚期逃して後悔する女とか、あり得ない女の幻想物語を書き散らす人がいる。
今でもブログ界隈には「仕事と私どっちが大事?」的な質問で自分を選んで職場での不幸に耐えたり、複数の女性をリスクなしに渡り歩いた結果職を失う、ありえない男の幻想物語を書き散らす人がいる。
「お前らも男に選ばれないことで不幸になれよぉぉぉぉ」という男の怨嗟と「お前らも女を選ぶことで不幸になれよぉぉぉぉ」という女の怨嗟が漂っている。
どちらも現実には叶わない夢であるがゆえ、怨嗟の声は終わらない。
女にとって独身より下手な男に目をつけられることのほうが不幸だ。女性は嫌いな男をどれだけ断り続けても、無事閉経すればむしろ男に目をつけらずに済む平和な状態になり、後は女同士で楽しく年を取っていくものだし、男性は女をどれだけほいほい軽率に選んでも、まったくリスクを背負わず、何度失敗を繰り返そうが男性社会での信用を失わず、そのまま平和に生き続けるものだ。
考察が合ってるかどうかはしらんが。
いやでも本当に、ハーレムものはいかにして、主人公に選ばれない女の子を不幸にするかに血道をあげて、逆ハーものはいかにして、主人公を選ぶ男の子を不幸にするかに血道をあげてるからなぁ。
基本ハッピーエンドものだから、両者とも不幸になる可能性を匂わせた上で、概ね結ばれた上で不幸を回避するけども。
ハーレムものだと大体、女の子は何かしか問題抱えていて、主人公と仲良くなりつつも、問題が肥大化して行き、何とかしなければならないと思った主人公の行動が、彼女を救ってめでたしめでたし。
逆ハーだと地位が高かったりするキャラは、大体それを失うリスクを犯してでも主人公を選ぶ展開、ってのをやるためにその地位持ってる。地位を失っても二人で新しい人生歩んで、それはそれで幸せ、的な結末がデフォ。
それぞれドス黒い感情を、上手く綺麗な世界に昇華しているというか。
あ、あと青年漫画・少女漫画の、異性の三下悪役とかも特徴的だよなぁ。
青年漫画でヒロイン苛める意地悪な女の子が、主人公とかに声かけた挙句振られて「女として屈辱」みたいな。
ねーよ。声かけた男に選ばれないのは、大した屈辱でもないよ。はんっ、空気よめねー奴、って思う程度だ。
どっちかっつーと声かけてもいねーキモイのに、声かけたと勘違いされて付きまとわれるほうが、よっぽど屈辱的で不幸だ。
逆に少女マンガで、ワルな男の子が所属するワルな組織で、そいつが主人公選んだせいで、「掟破りだ!!」って、男の子ボコボコにしにくる悪人仲間の男。
ねーよ。ボスの女ちょろまかしたとかでもない限り、こいつが食い扶持に困ったら女のところに転がり込ませときゃいいな、いざとなったらソープに沈めて金づるに出来るし上手くやっとけよ、ってくらいだ。
FF5のラストダンジョンで、キングベヒーモスとゴーキマイラがセットで出現した時の対処方法。
キングベヒーモスは自身への攻撃に対するカウンターでしか行動しない(ごくまれに通常攻撃はする)ので、キングベヒーモスは放置で、ゴーキマイラ→キングベヒーモスの順に落ち着いて各個撃破すれば良い。
FFのカウンター系のシステムって、基本的に自身への攻撃に対するリアクションでしか発動できないことが多いけど、仲間への攻撃に対しても発動できるようなカウンターシステムがあったら、もっと戦略的なバトルが出来るんじゃないかと思うのよね。もしもキングベヒーモスが、ゴーキマイラに対する魔法攻撃に対してもいちいちメテオをぶっ放していたら、攻略難易度がグッとはねあがるはず。
このようなシステムを果たして「カウンター」と呼んでも良いのかという疑問はあるので、まずは「カウンター」という用語に関する解釈を変える必要はあるかもしれないけど。
娯楽の少ない生活を送っている人がネズミーにいったら、なんだかすごく異様な気持ちになるのではないか。
子供の頃不思議の国のアリスがあまり好きではなかったのが、美少女なのにあの常にヒステリックな不機嫌面が怖かったからだと思うが、考えてみれば常人が不思議の国に行ったらあんな面になるのは当然なのだ。
だからネズミーは、来客の遊び上手さ加減を試しているとも言える。遊びを理解できない子には面白いはずがない。
でも周囲は彼女の感受性や常識なんてもの知ったこっちゃなくて、たたただ勢いに任せて流して行く。
アリスは夢に常に流されている、史上希に見るカッコ悪いヒロインなのだ。美少女なのに。美少女だというのに。
うん、そんだけ。
かなり以前の出来事になるが、学生時代の一時期に日東駒専の一角である東洋大学のII部漫研に通い詰めて活動していた。
きっかけは東洋大生であった友人の「コミケ用の薄い本の表紙手伝ってくれ!」みたいなちょっとした誘いだったと思う。
自分の居た大学が思ったよりもオタクがおらず、げんしけん的なキャンパスライフを大学に求めていた身としては極めて欲求不満だったのもあり、
他大のオタサーに対する興味から友人の誘いにホイホイ乗って東洋大まで向かった。
結果的には非常に良かった。
総合大学であるためか美大のような偏った単科大学には居ないタイプのオタクも数多くおり、強い刺激を受けた。
(美大は…というか在籍してた大学では、少なくとも自分の交友範囲では先鋭的重度消費型オタクや、ブログ等で延々と作品考察したり持論を展開するような文筆型オタクはまず見なかった)
秋葉原へ皆で繰り出したり、コミケにサークル参加したりするような典型的ではあるものの楽しく充実したオタクライフを送れたし、
ある意味では自分の真のキャンパスライフ/オタクデビューは東洋大から始まったと言ってもいいくらいの勢いだったと思う。
youtubeでふと目にした大学祭の動画で学生時代の思い出が今更ながら蘇ってきたので、
■夜間学生(II部学生)を対象としたサークルのため、多様な人々が居る
実際これは大きかった。都内の大学はインカレサークルを筆頭に、他大学の学生でもわりと抵抗なくサークルに受け入れるという土壌があるが、
それでも部員の殆どが学内の現役学生で占められるようなサークルに他大学生が入っていくのはなかなか難しいもの。
しかしII部漫研は違った。一度社会を経験してから大学に入ってきたような20代後半の学生や、
卒業したのにまだサークルに来ているような長老(20代末)と称される先輩、そして近隣の現役大学生が少数と、
正規の学内生以外のメンバーがすこぶる多様であり、良い意味でのカオスが形成されているのだ。
だからこそ、ありがたくも自分のような他大学生でもすんなりと受け入れてもらえ、楽しい活動を送ることが出来た。
様々なバックグラウンドを持った人々がいるため、メンバーの個性が均質化せず、アニメ雑談一つとってもバラエティに富んだオタトークが出来て充実する。
■夜間学生(II部学生)を対象としたサークルのため、遅くまで活動出来る
これには驚いた。さすが夜間学生のためのサークルだと感じた次第。
一度自分の大学の授業を終わらせてから東洋大まで電車移動し活動参加するような物好きにも優しい時間設定はありがたい。
後述するハイクオリティ学食で腹ごしらえしてからゆっくりサークル訪ねてもまだまだ時間的余裕はある。
日もとっぷりと暮れるまでモンハンにうつつを抜かすことも出来る。
冬の寒空の下、夜遅くに皆で部室を出て美しいイルミネーションに彩られた学内林に目にやりながら大学を出る時の良い気分ときたら!
しかしまあII部漫研だからこその時間設定だとは思っていたが、隣のボックスでは昼間部学生メインのゲーム研究会も23時頃まで延々とスマブラや格ゲー対戦など行い連日奇声をあげておりよくわからない。
漫研に通うということは当然その大学の門をくぐり触れるということであり、そこで東洋大学自体の良さにも色々気付かされたので振り返りたい
■学食が凄い
白山キャンパス6号館のワンコインランチの圧倒的充実ぶりはネットでもよく話題に上るので周知とは思うものの、それでもなお語りたくなるほど東洋大の学食は凄い。
何と言ってもコスパが最強。【外に出たら軽く1000円は取られるだろう外食レベルの味+運動部所属大学生の腹でも満足な量】で、
ジャンルも本格インドカレーからイタリアンなパスタ、ハンバーグ、鉄板料理、ラーメン、和食など、
ここはレジャーランドかと思うくらいに一施設に様々な料理が入り乱れており初見ではまず腰を抜かす。何を食べればいいか本当に迷う。
しかし学内生の話では三ヶ月もすれば飽きるそうだ。それは「美人は三日で飽きる」と言っているに等しい贅沢発言ではないだろうか……一般的学食しかなかった他大学生としては本当に悔しく羨ましい限り。
ここの学食メニューを満喫したいがために、自分の居た大学の学食を数ヶ月まったく利用していなかったなんてのはザラ。
個人的にはインドカレーのナンがお気に入りだった。間食としてよくナンだけ注文して部室に持ち帰り食べながら作業してた。
■学内が綺麗すぎる
自分の在籍してた大学とは比較にならないくらいピカピカ。そして広い。
図書館も素晴らしい。やっぱり都心にデカいキャンパス持ってる私大は違うなーと感じさせられる次第。
■冬のイルミネーションが綺麗すぎる
大学正門すぐから緩やかな階段を経て校舎へ向かうわけが、そこにある甫水の森と呼ばれる道中の学内林がイルミネーションによって美しく照らされる冬の夜が素晴らしい。
学食がレジャーランド級だったことからも、ここにも某ネズミの王国のようなレジャーランド的にメルヘンチックな夜の華を感じて凄く良い。
何かまあ色々とっちらかって思い出してはみたものの、白山キャンパスはマジで良かったと思う。
一度専修大にもお邪魔したことあるけど、明らかに東洋大の方が綺麗だったし特に学食は比較にならないレベル。
色々言っても部外者の感じたことだから本当の内部事情の比較になるとよくわからんけれど
あーもう一度あの楽しかった日々に帰りたいなー
http://blogos.com/article/88464/
「ポップソングが「閉塞感」ではなく「楽しさ」を共有する時代へ」という文章を読みました。
強い違和感を覚えたので備忘録代わりに書き残しておきたいと思います。BLOGOSのコメント欄だと字数が足りないので。
柴那典氏(@shiba710)の文章は間違っていると思います。
理由は以下の三点になります。
まず第一にアベノミクスが将来への希望を本当にもたらしているのかという疑問があります。
消費税増税や過去の景気状況から国民が景気に対し、継続した右肩上がりの希望的観測を持てるとは思わないからです。
加えて失業や高齢化、原発等、解決しない社会問題も山積する上、庶民の不安はむしろ拍車がかかるのではないかと思います。
つまり人々は楽しさや楽観という価値観のもとに生きていないのではないでしょうか。
第二に日本のミュージシャン(特にメインストリーム)は"カナリア"のような存在ではないということです。
これは楽曲への批判ではありませんが、翼を広げ瞳を閉じ桜舞い散る季節の中で君に出会えたキセキを歌うJ-POPには時代が反映されることはなく、それを許されてもいません。
時代を反映する曲を歌うということはつまり、楽曲がある種の政治的側面を帯びるということです。
現代の日本人にとって音楽の政治性とは最も嫌うものです。よって必然的に時代性(政治性)は排除され、似たような要素を持つ楽曲が量産されることになります。
日本ではSex Pistolsの「Anarchy in the U.K.」もGrandmaster Flash and The Furious Fiveの「The Message」のような楽曲は生まれないでしょうし、また生まれてもチャートの上位に入ることはないでしょう。
そこから導ける結論としては、J-POP等日本の音楽の特徴はむしろ「時代を反映しない」ことにあるのではないでしょうか。
現在の楽曲と10年前、20年前とを比較してそこに主題(テーマ)の大きな変化はあるでしょうか。
せいぜい電話やポケベルがLINEやメールに変わったくらいで、その根本は大した変化はないというのが実情ではないでしょうか。
「いいくらし」「ええじゃないか」等、氏の挙げる楽曲はどれもJ-POPのスタンダード、「励まし系」の枠を超えるものでもないと思います。
これらの楽曲に時代的必然性を見い出すことははっきり言ってできません。
当然それが悪い訳ではありません。繰り返しますが楽曲の善し悪しとはまったく別の話です。
日本のポップミュージックの作り手は、時代の空気を先端で感じている“カナリア”のような存在ではないのです。
第三に「ミスターチルドレンがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」という考察が完全に間違っています。
氏はその代表例として「マシンガンをぶっ放せ」を挙げています。
本当に「ミスチルがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その「マシンガンをぶっ放せ」は彼らの代表曲であるべきです。
しかし、一般人にミスチルの代表曲を挙げてみて欲しいと質問しても「マシンガンをぶっ放せ」と答える人が果たして何人いるでしょうか。
せいぜい「イノセントワールド」か「Tomorrow never knows」か「シーソーゲーム」くらいでしょう(最近なら「しるし」や「HANABI」かもしれません)。
「マシンガンをぶっ放せ」は、出せばミリオンを達成できた時代に唯一100万枚を割ったシングルです。
加えてその曲が収録されたアルバム『深海』は前作『Atomic Heart』から100万枚もセールスを落としています。
私はそもそもミスチルが現代社会の閉塞感を曲として昇華し、それを「売り」にするバンドだとは全く思っていません。
仮に100歩譲ってそのようなバンドだったとしても、本当にその「閉塞感」とやらって「共有」されていましたか?
ちなみに氏の言う「時代の閉塞感を内面化させていたミスチル」のセールスは、CDバブルに沸く世間とは対照的に見事なまでに右肩下がりでした。
アルバム『Q』は遂にミリオンを割ります。
しかし、仕切り直し的な意味を持つベスト盤とそのツアーを挟んでの次作、『IT'S A WONDERFUL WORLD』で彼らは文字通り“蘇生”します。
世の中のCDセールスが頭打ちになる中、セールスは前作から50万枚も回復するのです。
このアルバムからミスチルのメロディーは「ポップで王道的に」、歌詞は「前向きな内容」になり、彼らの得意分野であった「ラブソング」が完全に復活します。
ものすごく簡単に言ってしまえば「ハッピー」な作品になります。
以後、今日までの彼らの方向性はこの延長線上にあります。
嘘だと思ったらアルバムのクレジット欄を片っ端から調べてみて下さい。前作『Q』まで二転三転してきた制作環境やスタッフが、このアルバム以降基本的に統一されます。
この事実が意味するものは、この『IT'S A WONDERFUL WORLD』からバンドが目指す方向性が「確立」されたということです。
しかも氏の言う「時代の閉塞感を共有する」とは真逆の方向で。
その後の活躍は説明するまでもないでしょう。氏の方がご存知ではないでしょうか。
さて、本当に「ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のでしょうか?
改めて見てみましょう。
00年代に売れたシングルは上から順に「四次元」「Sign」「youthful days」「しるし」です。
「ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その楽曲は社会批判的な世を憂う内容のはずです。
「自分を信じたならほら未来が動き出す/ヒッチハイクをしてる僕を迎えに行こう」(「未来」)
「傷つけ合う為じゃなく/僕らは出会ったって言い切れるかなぁ? /今 分かる答えはひとつ/ただひとつ/I love you/and I love you/and I love you」(「and I love you」)
「繋いだ手を離さないでよ/腐敗のムードをかわして明日を奪うんだ」(「youthful days」)
「ダーリンダーリン/いろんな角度から君を見てきた/共に生きれない日が来たって/どうせ愛してしまうと思うんだ」(「しるし」)
一体このどこを聴いたら「時代の閉塞感を共有している」などという言葉が出てくるのでしょうか。
楽曲の内容は至って前向きなものか、もしくはラブソングの括りに入るものかと思います。
本文の「終末のコンフィデンスソング」に関するミスリードも目を覆いたくなるような酷さです。
本文では「たまに不吉な夢見るんだよ/走っているのに進まない/ひょっとしたら実際に起きてることを夢の中で知らせるメタファーかも」という歌詞のみ引用されていますが、この曲の結末部分はこうです。
「今僕らの目の前で起こってること/楽観も悲観もなく/ちゃんと捕まえたら/足元に落とした視線を/上にあげ/胸を張れ!」
なんと前向きで力強い、ハッピーエンドな曲なのでしょう!
しかもこの曲が収録された『SUPERMARKET FANTASY』というアルバムはリード曲「エソラ」に象徴されるような、とても「カラフル」で「楽しさ」を前面に打ち出したアルバムなのです。
今まで挙げた事例を見て頂ければ分かる通り、残念ながらミスターチルドレンは氏の望むような「ポップソングを通じて閉塞感を共有する」音楽活動は行っていないようです。
仮にそうであったとしても「ポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」ことは一度もないのは明らかです。
このような基本的な事実を踏まえずして「アベノミクスで失われた20年は終わった!これからは楽しさを共有する時代だ!ミスチルという閉塞感を共有する時代の一つの終わりだ!」とか炎上目的のゴシップ誌の見出しのようなことを得意げに抜かすのが、私が日頃愛読している「musica」という音楽雑誌と関係の深いのライターの方なのです。
私は情けなくて仕方ありません。これが「プロ」の書く文章なのでしょうか。
ちなみに同じ筆者が書いた「なぜBUMPは「国民的バンド」になれないのか」という記事も酷いものでした。
願わくばこのような暴論を振り回す音楽ライターが、私の敬愛するミュージシャンと音楽に関わらないでくれと祈るばかりです。
炎上している案件をみると、「世の中の関心が高いこと」が何か良くわかる。本音はいえないけど匿名だからこそ本気で関心があることはなにかということがでる。
結論勝ち組は下の5要素。一つでも満たせなければ負け組。足切り的基準。
1.適度な高収入
年齢×20万円以上ですか?以下ですか?
2.伴侶がいますか?
3.学歴はそれなりですか?
4.健康/身体
デブですか?ハゲですか?五体満足ですか?障害もってませんか?
5.裁量
同世代と比較して時間の使い方の融通がきく仕事/ポジションですか?
同世代と比較して「何をするか」の選択権が多いほうですか?多くないですか?
まあこの5項目でだいたい、社会生活での勝ち負けは判断できるようだ。
http://anond.hatelabo.jp/20140604180448
キャリアウーマン+有名外資+早期リタイア+ブログによる好き勝手な意見
それ以上でも以下でもない。
この考察は間違っていると思う。
実際、かのブログが有名になったころは、筆者プロフィールについて知られていなかったし、現在においても極力隠そうとしている。
記事の多くは、最近読んだ本、昨日見たテレビ、日々感じたことで、その意味ではたしかに日記。
この国をどうしようとか、義憤なんかじゃなく、本当に日々思ったことを正直に書いていた。
ただの思考実験で、それ以上でもそれ以下でもない。
強烈な若者煽りでお先真っ暗という風に受け取られるような書き方をしているけれど、本心からこの国の経済がお先真っ暗とは思ってない。
本当にそんなことを思っていたら、日本株なんか買ってない。
(2011年あたりから株主総会に行ってきたとか、株主優待をもらったとかのエントリーが急に増えた。みなが悲観していた最安値でたっぷり仕込んでたんだろうな。あ。今頃ホクホクだろう)
二枚舌だとか、ブレてると批判するのは筋違いだ。
だって、あれはただの思考実験、皮肉、ギャグであって、本気にするほうが悪い。
世にも奇妙な漫☆画太郎に本気で反論するくらい煽られ耐性がない。
煽りっぱなしで、じゃあどうすればいいかが抜けているという批判もおかしい。
こうすれば金持ちになれますよ的な具体的な解決策を聞きたい人は、アムウェイの会員になればいいのだ。
夢も希望も金持ちになる方法もこれでもかってくらい語ってくれるはずだ。
この理由は、やはり彼女がブロガーを本職にしてしまったことが最も大きなことなんじゃないかと思う。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100413
ちきりんは文章を書くのも好きです。だからこれを職業にしたいとも思いません。ライターで食べていこうと思えば、関心のない題材でもニーズが高ければ記事にする必要がでてくるし、媒体の担当者の意向にも気を遣う必要がでてきます。
アフィリエイトで生活しようと思ったら、アクセス数を維持するために“ウケること”を書かなくちゃいけなくなり、読んでもいない本を紹介しなくてはならなくなります。
幾ばくかのお金のためにそんなことをして、文章を書くことが“つまらないこと”になってしまったら余りに馬鹿げています。
いつまでも、自分がおもしろいと感じることだけを書いていたい。それをおもしろいと思ってくださる読者分だけのアクセスがあれば十分です。
第二に、書くことよりも面白いことを知ってしまったのではないかということ。
仕事を辞めてからというもに、将棋やら格闘ゲームやらのエントリーが目立つ。
仕事をやめて、今まで触れてこなかった世界を楽しんでるように思う。
以前は旅行にしたって、家事代行サービスにしたって、美味しいレストランにしたって、サービスの質についての感想はもちろんのこと、考察は必ず経済とリンクしていた。
文章化はモデル化であって、思考実験はモデルのパラメータを極端に振ってみる作業だった。
パラメータをふったらどうなるか、そんなことは意味が無いし、文章としてアウトプットしなくても、ただ没入しているだけで楽しい。
とはいえ、たまに読む。