はてなキーワード: 楽器とは
元増田です。
課題曲程度だと、教育的配慮が優先されるから減らすべきところも減らさずユニゾンつけまくったり、
ただでさえ分厚すぎる中音域と薄すぎる低音域のバランスが滅茶苦茶で聞くに堪えない。
オケだと中音域の厚みを担うのはホルンとヴィオラくらいしかいないので、プロはともかくアマチュアの手にかかると往々にして「ダシの効いていない」演奏になりがちだから、中音域が充実している吹奏楽は恵まれていると思っていた。
でも実際聴き込んでみると「過ぎたるは~」な気がしてきた。なんというか、中音が厚過ぎると着膨れしたような、輪郭のぼやけた、大味でいささかクドいサウンドになる感じだろうか。
吹奏楽の低音はユーフォ・チューバ・コンバス・トロンボーン・ファゴット・バスクラ・バリサクと一見充実しているように見えるけど、フルート・オーボエを除く残りの楽器がほぼ全て中音だと考えたらやはり足りないってことか。
でもクラと立ち位置を交換するとなると、音域の問題から2声あるアルトのうちの1つをソプラノに変えるってことだよね?
サクソフォンオーケストラを見る限り、ソプラノはピーピー・キーキーにならない「旨味のある」音を出すのが難しそうで、結構ハードル高いんじゃないだろうか。
今どきモツだベトだ言って聞いてくれる人もお年寄りが増えた。
個人的にも、現代音楽の聴きやすいモノのほうが若い感性には応えられると思う。
その間口を全部吹奏楽が持ってっちゃってるってのはそのとおりかな。
クラシックは一生かかっても演奏しきれないくらい沢山の名曲があって、一度好きになれば死ぬまで病みつきになれるのが魅力だと思う。
反面、その全てが職業演奏家によるパフォーマンスを前提にしていて、尚且つオケに慣れ親しんでいる人達がそういう曲だけで満足しちゃっているのが問題なんだよ。
それがオケの敷居を高くし、特に若い人の間口を大いに狭めているという意味で。同じことはカルテットのような弦楽合奏にも言える。
とはいえ、アマチュア演奏家や若い音楽ファンでも気軽に楽しめる新曲なんて、なまじ過去の名曲があるせいで単純に見劣りするだけというのはある。
でも大河ドラマのOPとか、ああいうののもう少し簡単な曲なら結構いい線行きそうな気はするけど。
まあ長い年月の淘汰を生き残って愛聴されてきたというのが名曲の名曲たる所以であり、そういう逸品がゴロゴロしているのは、他のジャンルから見たら羨ましいのかも知れないが、現実はそんな喜ばしいことばかりじゃないというか。
音楽における自分のホームグラウンドはと質問されたら、自分の場合はクラシック、それもオーケストラだと即答する。
そんなクラオタ兼アニオタの自分は、当然のごとく「響け!ユーフォニアム」にハマり、作品にこもった熱気に当てられてしまった。
とにかくモブを含めた登場人物全員を愛おしく感じたとか、長年アニメを見てきて初めての経験だと思う。
また、オケで目にする管打楽器の人たちはこんな青春時代を送ってきたのかーとか、高校で体育会系な部活だった過去の自分にもあるあるだなーとか、感慨もひとしおである。
そしてアニメをとっかかりに、海兵隊とか錨を上げてとか、アルヴァマー序曲とかカタロニアの栄光とか、吹奏楽で名曲とされている作品もいくつか聴いてみて、オケとの様々な違いを興味深く感じ取った。
以下備忘録ではないが、ニワカなりに感じた差異を書いていこうと思う。
ツッコミ大歓迎。
オケの場合は、こう言っては何だが、弦・管・打の間で殆ど序列と言っていい原則がある。
即ち弦で言いたいことの多くを言い切り、管はそれを補う彩り、打楽器に至ってはスパイスみたいな位置づけである。別の言い方をすれば、オケは弦楽合奏に管打楽器を後付したと考えると分かりやすい。
勿論これは作曲家の個性にも依存していて、ベートーヴェンやブラームスなどで顕著な一方、ラヴェルやリムスキー・コルサコフなどではより管打楽器の色彩感を強調しているが、それでもこの原則はかなりしっかり守られている。
結果、分かりやすい見方でいうと、各楽器の音符の数に大きな差が出てくる。それどころか、楽器によっては出番がないなんてことも起きる。
例えばオケの第一ヴァイオリンの何が一番って、間違いなく音符の数である(第二ヴァイオリンが二番)。
しかもこの中で定席はトランペットとティンパニのみ、他の楽器は終楽章まで出番がないだの、一発だけだの、そもそも曲の編成に含まれないなどザラである。
少なくとも音符の数に極端な差はなさそうに見える。
というか、トランペットやトロンボーンがこんなに色んなところで吹いているなんて驚きである。チューバはまんまオケのコントラバス的な存在だし。
もっと驚いたのは、どんなに静かな場面でも、大抵何らかの打楽器が鳴っていることで、オケではまず考えられない。
その代わりと言っちゃアレだが、ダブルリードとホルンとコントラバスの存在感は正直微妙。てかオケの方が難易度高い代わりに美味しさも桁違いだと思う。
楽器間の音符の数は比較的公平とはいえ、吹奏楽の中核セクションはクラとサックスな気がする。
声部でいうとクラ3バスクラ1、アルト2テナー1バリトン1が曲を引っ張っている感じか?
ちなみにオケでは登場年代が新し過ぎたり、弦と決定的に合わない(弦の響きを消してしまう)などの理由から完全にゲスト扱いのサックス勢だけど、吹奏楽では不可欠な楽器じゃないだろうか。
吹奏楽のサウンドに艶とか柔らかさといった要素を付加しているのは、間違いなくサックスだと思う。
オケの管楽器は原則1人1パートでアシはオプション扱い、本来は入れずに済ませるべきという雰囲気がある。
吹奏楽はそこら辺、少な過ぎは困るけど多い分には別に・・・という感じに見える。
これは編成の制約が少ないことを意味するので、ちょっと羨ましい。
弦のピチカートの上に消える寸前の虚ろなクラリネットソロがあると思えば、大人数の弦を含むオケ全員で奏でる音の爆発まで、凄まじい落差がある。
ピュアオーディオのリファレンスに使われるのも道理で、オケのフォルティシモとピアニシモが両方遺憾なく再生できれば、多分不可能はない。
一方の吹奏楽は、とにかく取っ付き易さと親しみ易さが印象に残る。
オケ曲のような難解さはあまりなく、気軽に楽しめる感じである。
それだけ取っても、市民バンドと言ったら吹奏楽に軍配が上がる気がする。
色々書いてきたけど、自分が吹奏楽に転向するかというと、多分ノーである。
毎週熱心に見入っているアニメ「響け!ユーフォニアム」も、気がつけばあと1話でおしまいである。
この作品、プロ・アマ問わず音楽に取り組んだことのある人、更に部活に明け暮れた経験のある人は否応なく引き込まれるのでは?と思わされる。
とにかく京アニブランドの名に恥じない、とんでもなく作り込まれた傑作であり、見どころも沢山あるのだが、その一つはなんといっても滝先生。
主人公たちが所属する弱小吹奏楽部に赴任するや否や、どこまでも紳士的な物腰と笑顔で効率よく、かつ凄まじい勢いで部員たちを引っ張り上げ、それまでのどこかダラっとした集団を、コンクールを戦い抜くガチグループに変えてしまった顧問である。
巷では「あんな人が指導者だったらなあ」という声も少なからず聞こえてくる。
自分も何となくそんな気分でいたのだが、よく周囲を見渡してみたらリアルでそういう人がいた。
既に習い始めて数年経っているせいでそのスタンスに慣れてしまっていたが、振り返ってみるとかなり衝撃的な教え方だったので、それをつらつらと書いてみる。
赴任早々、滝先生は部員たちを集め「どのレベルまで行きたいか」選ばせ、そこで部員たちが大した考えもなく、かなりいい加減な流れで「全国を目指す」と決めてしまったことから、先生の猛特訓が始まる。
翻って自分の場合、レッスンを再開するのは大学受験を機に止めて以来だったが、今思えばなんとも身の程知らずというか、「○○の協奏曲と✕✕のソナタをやりたい」と言ってしまったため、ガチのメニューが始まった。曰く
「実はそんな厳しくやらず『いいですよ~よく出来ましたね』とひたすら言って楽しく教える方法もあるのですが、増田さんがやりたい曲は本当に上手くならないと出来ません。
そして本当に上手くなりたいのであれば、私もそうそう甘い顔はしません(にっこり)」
さて、レッスン再開当時の自分は、高校まで習っていた分の貯金を相当食い潰しテクニック的に荒れ放題、かなりアクの強い音を平気で出すレベルに落ちぶれていたのだが、一番まずかったのはその場のノリと勢いだけで演奏してしまうこと。
それの何が問題か分からなかった自分に、先生は「増田さんの演奏を真似してみますので見ていて下さい」と、自分の楽器を借りて再現してみせた。
そのあまりに破廉恥な音に、しまいには「もう勘弁して下さい」と言って止めてもらったが、ショックで帰宅後泣いた。まさしく「悔しくて死にそう」だった。
それに限らず、あの頃は毎回レッスンが終わるたび「あー今日も上手く出来なかったなー」と思いながら家路についていた。
帰ってからの練習は悩むを通り越し、真剣に苦しんだ。「まだ音が荒い、一体どうしたら・・・」と試行錯誤の日々だった。
また先生は自分の特性を見抜き、かなりフレキシブルな教え方をしてくれている。
例えば練習メニュー。
普通器楽でも声楽でも、練習と言ったら基礎練と曲練がセットである。そうじゃない練習なんて聞いたことがなかった。
それもさらう曲は全てコンサートピース級の名曲ばかりで、さらう過程で問題が出てきたら、問題箇所のため部分的にロングトーンとかの基礎をやってみるという練習方法。
こちらとしてはそんな思い切った練習では不安なので基礎練はしないのか訊いてみたところ、こう返された。
「生徒さんにも基礎練で伸びる人と伸びない人がいますが、増田さんは基礎練では伸びないと思います。
多分増田さんは基礎練のスケールやエチュードをやっつけでこなすタイプでしょう?
その先にあるのは曲練もやっつけ、更には本番もやっつけ・・・それだと何のために演奏しているんだ?という話になります。
レッスンを止めた後、そうやってどんどん音が荒れていったのではないでしょうか。
ですから基礎練はやらなくていいので、その分曲練に集中して下さい。
そもそも曲が仕上がることが一番の目的なのですから、だったら直接曲に取り組むほうが分かりやすいでしょう。
技術は演奏出来るようになるために、必要に応じて身に付けていけばいいのです。
その代わり、一音たりともいい加減な音を出すことは許しません。
どういう音を出したいかきちんと頭でイメージし、それが音になるまで一切妥協せずさらってきて下さい」
・・・とまあ、そんな感じでレッスンを受け続けた結果、どうなったか。
これ以上ないくらい厳しい目で見ている先生をして
「半年でここまで出来るなんて、順応性が良すぎて逆に出来てるか疑いたくなります」
「一年前とは別人です。以前どんな音で増田さんが演奏していたか忘れてしまいました」
と、そんな褒められ方生まれて初めてというアウトプットを得られた。
この先生は本物だ!と思い知らされた。
そうは言っても、目指す高みはまだまだ遠い。
でも結果が出ていると意外と気にならなくなるのだから、「人は単純だ」。
自慢話は男の得意科目などとよく言われる。
そんな俺にとって一番辛い現実は、彼女候補の女性が恐ろしく限定的になってしまうことだ。
事実として、俺は興味や関心が非常に狭いというか、偏りまくっているというバックグラウンドがある。
なんとも物騒な例えで恐縮だが、暗殺事件だったら犯人が使った銃の形式や構造や歴史、弾薬の種類や威力とか、そういうことばかり細かく覚え込んでしまう人間である。
銃に限らず一事が万事そんな感じで、他に音楽だったら珍しい楽器が使われていたら喜ぶとか、明らかに世の大多数とは喜ぶポイントがズレている。
物心ついた時からそんなノリで生きてきたのだから、「薀蓄が人生」みたいなオッサンが出来上がるのは、殆ど必然だっただろう。
おまけに自然言語よりもプログラミング言語のほうが得意だったり、なんでもパターンでしか覚えられない、それ以上の融通が効かないなど、物事の認知においても色々おかしい。
あと目を合わせるのも苦手だしな。
とはいえ、女の知り合いが一人もいないのは寂し過ぎるので「あれ美味しいよね」「わかるわかる」「ま、何とかするけどねw」に終始する会話はこなせるようになったし、「増田さんには悩みとか話しやすい」と評価をもらえる程度に聞き上手は意識するようになったし、バカ話でウケを取ることもそれなりにサマにはなった気がする。
おかげさまで、女の知り合いや友達は何人かできた。全く自慢にならないのを承知で言えば、中には二人で遊びに出かけたり、メールもLINEも盛り上がる仲に持っていけた相手もいる。
しかし、今のところそれ止まり、女友達と女の知り合いしかいない。
俺のイカれた生い立ちからすると、どうしたって会話の中に薀蓄が紛れ込んでしまう。
というか会話に薀蓄を含めるなと言われるなら「出家して世俗を捨てろ」と言われるほうがマシ、それくらい俺には苦しくて無理だ。
でも当然というか、薀蓄が出てきた途端、相手の反応は決まって「へーそうなんだー」である。
そこで我に返ってすごすご話題を変える。その繰り返し。
そして薀蓄が出てくるたびに、お互いのしっくりこない感も繰り返され、結果友達枠が妥当という結論になってしまう。
勿論、それだって友達がいるのは一人より寂しくないというだけで大いに意味がある。
でも、そうやって誰かと親しくなるたび、絶対に彼女になり得ないこともハッキリ示されるのだ。
こんなに虚しいことはない。
悲しくてやりきれないと言ってもいい。
恐らく、そんな俺を彼氏枠に入れてくれるのは、男の薀蓄を「やっぱり増田さんて博識~、話してて楽しい!」と目を輝かせる女性だろう。
これが最低条件というか、多分そうじゃないとお互い辛い。
なので、俺がするべきはそういう女性との出会いの機会を増やすことだと認識しているのだが、こういう女は本当に希少というか、滅多にいない。
ドームは、コンサートを見るにしては会場が大き過ぎる。マイケル・ジャクソンの東京ドームのコンサートに行ったことがあるが、もはや本人がそこにいるのかどうかも確認できない。アリーナ席にいる人間が全員がサクラをやって、影武者がステージに立っていてもばれない。
近年は工夫して、ステージをドームの中央にしたり、本人がスタンド席の近くまで来てくれるようになったけど、それでもそのときだけで、あとはずーっとカメラで映したスクリーンを見ているばかりになる。ドームみたいな巨大な会場か、でなきゃ無名の人が1000人も入らない小さな会場でやっているか、という感じになっている。ふだんからファンクラブに入ってないとチケットが取れない。テレビで見ている歌手は、最後までテレビの中のままになった。いまは不景気の時代なのに、どうしてオレみたいな、たまには歌手をナマで見たいと思うような者のために、歌手本人が確認できる距離感で、県民会館みたいな会場で、チケットを手に入れやすい感じでやってくれないのかな。クラシックのコンサートは、当日席があるのが当たり前だよ。
コンサートに持ち歩く設備機材がバブル時代のままで、トラック数台分とかになってるんじゃないの。ドームのコンサートですら、カラオケと一部ナマ楽器の組み合わせになってて、コストもかからないようになってるじゃん。県民会館でカラオケでコンサートすれば、人員も少なくなってコストも減るはずだよね。クラシックのコンサートに比べれば、圧倒的にコスト安。なのに何でいつもコンサートのチケットは品薄状態のままなんだろうな。売れなくなって昔の人になってから見てもしょうがないんだから。
ちなみに、クラシックのコンサートは、単独で黒字になるものがあまりない。経費の多くをスポンサーが出してくれている。コンサートの看板に『▲▲プレゼンツ』と企業名が書いてある。チケット代収入はコンサートの経費の半分くらいだろうか。だからチケット売り切れ状態にして、コンサートを供給不足状態にしなくてもいい。ポップス業界の興行人は、観客と演者が近くなるための仕組みづくりには取り組んでいないか、取り組んでいてもあまり成功はしていないように感じる。
コンサート見るほうが買主で、興行するほうが売主とか企業で、トラックバックやコメントのアドバイスを見ると、売主や企業の立場にそってコメントしているのも何だか変だと思うよ。服でも食べ物でもクルマでもなんでもいいが、売っている企業の立場を重んじててどうする?みたいに思うんだよね。あいつらに儲けさせてやるべきだというテイストのコメントって、なんか意味があるかな。
そりゃどんな人間か分からないように当たり障りのないことしか言ってないんだから当然だろ
サークルは音楽もスポーツも全く興味がなかったのでやらなかった
趣味はほんとはゲーム以外は何もないからしぶしぶ読書って書いただけ
他にやることないからずっと勉強はしてたけどぶっちゃけ寝てるかゲームしてる時間のほうが長かった
スポーツも音楽も見目麗しい芸能人も全然興味ないんだからほっといてくれ
別にそういうのの話するのも何するのも自由だけどそれを好きじゃないことを異常視されるのすっげえ辛い
ウソつくっていったって限度がある
スポーツ全然知らないのに○○観戦なんて言えないし楽器なんて何も弾けない
祖父が小さいぼくの書いた絵を、全て褒めて全て保存してくれた
上手だね、といわれすぎたせいで
錯覚したけれど
褒められる側ではなく褒める側になっていた
違う、僕は褒められたい
人を褒めたいんじゃない
でも目の前の絵かきは自分より上手いということがわかっている
わかってしまったら、嘘をついてまで、貶すことはできない
思い出せる一番古い記憶の時点でもう、
褒められるのが嬉しくてやってたんだと
ついさっき突然気付いた
だから、
絵が上手い、あなたの絵が好き、と賞賛されている人を見ると無条件で憎しみをおぼえる
褒められることが目的なので
より褒められている人に似せて書くことで
ぼくのほしい結果が得られるんじゃないかと思っては
信念もこだわりもなにもない絵を量産する。
模写の訓練のようなものなので、地味に地味に上手くはなる。
けれど、
自分にはこれしかないと決めるまでもなく確信し、とことん突っ走っている人にはかなわない
エネルギーが違う
幸せそうで、羨ましくて、これもまた憎しみを覚える
そんなに夢中でかける状態に一度でもいいからなってみたい
人の評価なんて気にしなくなりたい
この羨ましい気持ちについて
成功しているように見える人ほど、
幸せなふりに一生懸命で、実はとんでもない不幸な経験をしているんだ
お前のほうがずっと恵まれてる
羨む必要がそもそもない
と教えられた
小さい時に両親に先立たれて家族に憧れながら絵で食いつないでたというし
拒食症害で結局商業デビュー後は連載もままならず、信頼を失い、活動を休止していた
羨ましくなんか無い
羨ましくなんか無い
何やってるんだろう。
なんで祖父はぼくのことなんて褒めたんだろう
その時は嬉しかった
でも嬉しくない期間のほうが、ずっと長い
確かに上達した
同じ努力もせず、持ち前の才能であっという間に追い抜いていった
人の何十倍も結果につながるまでかかるようで
相対的に一生望んだところには行けない気がする
10年ほど絵を書くことをやめたこともある
やめたら執着ごとなくなるかと思った
どうでもよくなる、という感情になることを願ってみた
でもだめだった、結局また書いて、人に見せてしまった
なのに、投稿しては中途半端な評価をもらい、思った結果が得られず削除の繰り返しだ
今日も、身内にだけお情けですごいすごいと言ってもらえるための絵を書く
そいつらは同じ口で、本気の賞賛を、あの作家やあの作家に捧げてる
その温度差くらいわかる
だから言われるほど悲しくなる
でもやめられない
でも、このタイミングでこのテーマならたくさん褒められそうだと思うと手が動く
褒められたい
やめられない
つらい
「子供の割に」ダンスが上手い、絵が上手い、楽器が上手い、を無闇に褒めてると
世の中のお母さんお父さんおじいさんおばあさん
覚えておいてくれ
惨めで辛くて終わりがなくて
そんな気持ち、我が子に味あわせたくないだろ
こと才能が絡んで、手を動かすしかなく、しかも1回1回にそれなりの時間がかかるものは
簡単に人生を潰されるなと思う
つらい
ライブ映像が好きで、好きなミュージシャンのライブ映像をよく漁っているんだけど、彼らが若いころの(若いってほどでもないかもしれないけど)映像を見ていると、表情や全身から大量の熱を振りまいていて、そのエネルギーを見ていると泣けてくる。あるいは、今となっては見せない一生懸命感とかね。
そんなわけで、おれが涙した映像を紹介させてほしい。
それぞれのファンにとっては既知のものばかりだろうが、その辺はご容赦願いたい。
https://www.youtube.com/watch?v=3od114a4o7Y
1982 のライブ映像らしい。彼は 1949 生まれらしいので、33 かそこら。年をとっても自信たっぷりで確信にみちた表情は変わらなかった彼だが、晩年はやはり体も縮んで声が出てないところも多かった。このライブ映像では声はもちろん、表情からも体からも、あらゆるところから熱を発しており、その輝きはおれの涙腺を強烈にキックするわけです。残念なことに彼は 2011 に他界。
彼を知らない人はまずは 49:40- の Alien を聴いてみてほしい。ついでに言うとこの映像に含まれない名曲もたくさんあるので興味あれば掘り下げていただければ。
https://www.youtube.com/watch?v=9ZNVhiOY_ug
ギターを手にする人にとってはスライドギターの人として、映画好きの人にとってはヴィム・ヴェンダースの劇版の作家として、もっとも一般的にはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの仕掛け人として知られる Ry Cooder。この映像は日本の BS で流れたモノらしく 1987(日本語字幕では88と表記されてるけど。。) のライブ映像とのことで、このとき彼は 40 かそこら。
ゴスペル/テックメックス/カリビアン といった要素のミックスなんだけど、それぞれのプレイヤーがズブズブに土着音楽をやってる感が強い。それを一つにしているのは Ry Cooder の才能という他なく。。それぞれのプレイヤーがそれぞれのバックボーンから全力で音を発しているにもかかわらず、たった一点に収束するその集中力と音楽への愛情はおれの胸を深く打つのです。
https://www.youtube.com/watch?v=EkM3Wiy7j5Q
ジャズを聴かない人にとっては「誰?」って感じかもしれませんが、長年にわたって最重要プレイヤーの一人。ジャズ界隈で活動してるんだけど、彼もまたアメリカンルーツミュージックの求道者。(ただ、多作で時期によってやってることが全然違うため一言で説明しずらい人でもある。)
この映像は彼が 42 ぐらいの時のものでボブ・ディランのカバー。カバーを良くやる人で、いずれもオリジナルのもっとも重要なエレメントをきっちり握っている。
また、彼は客演で非常に良い仕事をする人。驚くほどあちこちに顔を出しており、どこに行っても自分の世界全開にもかかわらず、それがその曲の重要な要素を際立たせるという触媒のような人です。
映像の演奏は奇をてらわないアレンジで、美しいコードの上で朴訥としたメロがフォーキーさを増しており、それはやさしくおれの心に触れるのです。
結構大変そうなアレンジを楽器にかじりつくように弾いていて、弾き終わった後に見せる表情は今となってはあまり見られないものではないかと。
https://www.youtube.com/watch?v=lYbrrbbnXnA
現在では WAR と LOW RIDER BAND の 2つに分裂してしまった WAR の 76 年(だそうだ) gypsy man のライブ映像。キンキンに集中したライブ演奏は 70年代の WAR の特筆すべき点の一つだと思う。なかでもこの映像の BB ディッカーソン のガッツあふれるベースは何度聴いてもおれの胸の奥に熱いものをあふれさせてくれるのです。
個人的には、ディッカーソンはソウル/ファンクにおいて最重要ベーシストの一人だと思うんだけど、あまり注目されない(おれが知らないだけで、ベーマガなんかで特集されてるのかもしれないけど)のでぜひ。
WAR は主要メンバーの何人かはすでに他界しているが、ディッカーソンは LOW RIDER BAND で健在なもよう。
https://www.youtube.com/watch?v=wln_zQsynNY
spilit が凄いのでこちらもぜひ。ダルな前半からサックスソロをきっかけとして風景が変わっていくこの流れは WAR にしかできないと確信できる。
https://www.youtube.com/watch?v=zSnbV1FrIhA
最近ではベースはTMスティーブンスに弾かせて、自分は歌ったり叫んだり、ライブハウスの壁を登ったりしている Bootsy ですが、ただただ全力で音楽をやっていたころがあったようで。
I'd Rather be with you は今でもライブのハイライトなわけですが、若いころは熱の入り方が全然違う。映像は 1976 年とのことで、51年生まれの彼は 25歳?ですね。。そら熱も入るわ。wiki 見ると、75 年ぐらいまで P-funk 界隈とかかわっていたようで、映像は初リーダーアルバムが出た年。
funk 独特の時間をかけてじわじわ熱を込めていく前半のあの感じから、キックとコーラスがモゴモゴと盛り上げていく中盤、そしてついに歪んだベースソロに入って行く流れ、もう涙腺崩壊するしかないという。
の元増田です。
『思い当たるフシ』というやつをリストアップして持っていこうと思います。
既に検査が明日に迫っているものの、「増田に上げる」という目的意識でも持たないといつまでも先延ばしにしそうなので……。
【現在の状況】
■普段の生活で困っていること
■あまり困っているわけではないがADHDの特性に当てはまりそうだと思うこと
こんなところでしょうか。書き連ねてみるとひっどいものですね……。
私は大人になってピークがくるピアノを教えています。 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/821776
これ読んだ。
僕は子供の頃、エレクトーンを習っていた。足に鍵盤がついてるキーボードみたいなものね。
その時は確かにコンクールとかに出させられて演奏していたけどちっとも面白くなかった。小学生の頃は楽器をやっていることは隠していた。
中学に入って、理由をつけてやめた。月謝2万円で8年ほどやったけどどこにお金を消してしまったのだろうか。
中学校の授業で打楽器というシンプルなモノに触れ、楽しかったので高校では軽音楽部に入ってドラムを演奏した。
全て独学だった。幸いに本も先輩もたくさんいたから学ぶのには苦労しなかった。
だけど打楽器が難しいということに気づくのに3年かかった。
結局はベロシティの問題なんだけど、5年かけてそれを修正していった。
今はライブなんてほとんどやらないけどジャズとかを演奏したりして楽しんでるよ。
ギターのソロにぶっこんでみたり、ベースとキメを作って遊んでみたり。
元増田です。
「自主性を重んじる」って事は、指導を放棄することではないとは思います。
滝先生がずるいのは「君たちが決めたことだよね?」と表面上装いつつ、自分のやりたい吹奏楽部を作り上げているようにも見えるところ。
そういう意味で滝先生は1巻の時点では語りきれていないキャラクターだと思います。2巻以降は未読なのでその後どうなってるのかは私も知りませんが。
話を戻すと、じゃあ自主性を重んじつつ指導するってのはどういう事なのか、と考えると、
2.やりたいことができたときに実行に移せるような環境を整える(基本技術の指導体制の確立、楽器・資料等の充実)
4.その上で、生徒の中で「やりたいこと」が育つのをあせらず待つ
ってあたりかなあと思います。多分、滝先生は4が怪しい。かつ、結果を優先なら(英才教育とかそういうものが世の中にあるように)4は割と邪魔。
物心や判断力が付く前に精神性まで含めて「技術」を仕込んでしまうべきって話になるわけです。
ただ、これらの最大の問題は、指導者を教師が勤めることが多くて、部活の顧問(ほぼ無給)にリソースを割ける教師がそうそういるもんじゃないってとこなんですよね。一部のそんなことができる教師たちが異常なので。これは部活という制度が抱える構造的欠陥だと思います。指導の平均化をするような制度が存在せず熱心な一部教師の手弁当に頼りすぎなんですよね。生徒の指導だけじゃなく、お金の調達のために父母会を組織して協力を求めたり、地域の学校が集まる吹奏楽イベント(コンクールもその一つ)の運営を手伝う必要もあるし……
なんか隊長が最近荒ぶってるらしい雰囲気を感じ取って、隊長の記事やホリエモンコムの見解表明やCINRAの人のアツい記事及びそれらのブコメを読んだんだけど、
CINRAの人のアツい記事の人気ブコメがいくつか、「ん…?」となって、その手がかりからネイティブアドの真相に辿り着けそうなのでちょっとやってみる、
最近ダンガンロンパにハマっているので、手がかりから真相に近づくのに憧れているの
http://b.hatena.ne.jp/entry/taichisugiura.com/685
この何十年の間で挙げることのできる優れたクリエイティブというのが全て「これは広告です」と堂々と見せていることから、考えるべきことがあるんじゃないかね?
「これは広告です」と堂々と見せている、っていうのは、多分テレビCMとか新聞の一面(or見開き)記事やポスター、看板のこと言ってると思うんだけど、それに対応するのはウェブではアドセンスやバナー、フラッシュ広告(ニュースサイトとかでよくある、最初に記事開くときに出るスキップするやつ)だと思う。
で、CINRAの人やネイティブアドの人たちがやってる(orやりたい)のは、テレビでいう情報番組、雑誌で言う記事広告だと思うので、ちょっとこのブコメのツッコミは食い違ってるのではないか。
ガイアが夜に明けろと囁くやつとか、パッションコンチネント、マ◯コの知りたい世界は面白いって言ってる人多そう。WBSや王様のブラジャーとかも。レイントークの「家電芸能人」好き。
テレビ以下です宣言?CM枠でクリエイティブな映像なんていくらでも見るだろ。文章だって雑誌の広告エッセイとか、明らかに広告だけどジンとくるものもあるし。
一個目のブコメと一緒で、CINRAやネイティブアドの人はクリエイティブなバナーやフラッシュ広告を作りたいってわけではないので食い違う。
広告なのが一目瞭然なJR東海の「そうだ、京都行こう」を引き合いに出して、広告でないように見せかけるネイティブアドへの【広告】表示を批判するのは筋違いというか詭弁。
それはそうかも。テレビや雑誌の暗黙的ペイドパブリシティコンテンツを引き合いに出して、「マ◯コの知りたい世界は【広告】って出してないのになんで俺たちは出さなきゃいけないの?」なら筋が通ると思うけど、それはきっとなんか圧力とか力関係でできなかったんじゃないだろうか。
マスメディアには「新聞広告倫理綱領」というのがあるし、広告記事はきちんと明示してある。只の素人?http://www.pressnet.or.jp/outline/advertisement/
本当に広告記事は全部明示してあるのだろうか?自分はファッション誌や楽器・音楽情報誌について一部の記事や特集には懐疑的。
CINRAの人がアツくなってるのって、「なんで俺達だけ【広告】とかダサい表記しないといけないの?TVや雑誌のインタビューとかは【ここからの特集は広告です】って入ってないじゃん?」ってことなんだと思う。
が、自分はメディアの人間ではない素人なので、TVや雑誌はそういうステルスなのは本当に一切してないのかもしれない。
だとすれば「マ◯コの知ってる世界」やその他列挙した番組に対してはとんだ風評被害をしてしまっていることになる。
今世の中にある、金銭のやりとりが発生するコンテンツ全てに【広告】表記を強制したら、けっこう鬱陶しくなりそう。
マジックマジカで赤いのが青いのにポッキー渡すシーンで【広告】とかいうテロップ出てきたら興醒め。
ツイッターやフェイスブックやはてブが、TVや雑誌やニュースサイトがやっていたコンテンツ広告をやりたいって思った時に、
それらSNSは自分がフォローしてるユーザーのコンテンツしか見れないから、他のコンテンツが混ざってたらもう【PR】なんて書いてなくたって、広告なのがバレバレなので、潔く【PR】って書いてはじめたやつを「ネイティブアド」って呼ぶことにした。
古いやつだと、LDRの広告フィードは今思えばネイティブアドだった。
ニュースサイトやTVや雑誌ではペイパブがネイティブアドで、これは【PR】って書かなくても、発信者が限られているのでバレバレではない。
と、なんかペイパブでぐぐったら5年前や7年前の勉強になりそうなやつ出てきた。
http://nabokov.blog.jp/archives/1105285.html
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0810/06/news075.html
まあドラクエ直撃世代だったオッサンの懐古趣味なんだけど・・・実は、自分はロト3部作を友人がプレイしているのを見たことはあっても、自身は全くの未プレイだったりするのだ。
当時を知っている読者なら「ウチはファミコン禁止」なんていう奴がクラスに一人二人はいたのを覚えているだろう。
自分の家もそれに含まれる。オマケにビデオも禁止、食事中のテレビも禁止と来たもんだ。
どういう教育効果を期待した方針だったのか今もって全く意味不明だし、かといって今更親に聞く気も無い。
結果、友人のプレイで遊んだ気になり、そのまま視力が急降下したのも今となっては良い思い出。
しかしそんな自分が昨年、趣味の楽器でドラクエの音楽を演奏する機会があり、そこから少しずつ、あの頃の未練がぶり返してきてしまったと。
そこへ
「今年のGWどうすっかなー、艦これイベントやるらしいけど、ぶっちゃけ先行入手のためだけにオール丙でサクッと終わらすか」
「でも余った時間でどっか行こうにも、GWじゃどこ行っても混んでて当たり前だし」
というわけで、今年のGWは自宅警備員しつつロト3部作で行こうと。
とはいえ、当時のファミコンもカセットも売っているわけがない、当たり前だけど。
そうなるとリメイク版の中から可能な限りオリジナルに近い仕様のモノを、合法的手段で入手することになるのだが、どうしたものか。
正直言ってスマホでプレイするのは癪というか、絶対に、何があってもやりたくない。
今更据え置き機とは言わないが、やはりこういうゲームはゲーム専用ハード、百歩譲って例のコントローラもどきで遊びたいのだ。
そもそもスマホ版の1・2はSFCリメイク版ベースなので、コレジャナイ感が半端ない。
結局、Wii Uにセンサーバーと、25周年記念のやつを一式どーんと買う以外に選択肢がないけど、結構な値段になる。
本当にこういう乗り遅れって罪深い。
結構勉強してた気がするのだけど、どのくらいやってどのくらいやらなかったのか忘れてきたので備忘録かねて勉強法かきます。なぜならTOEFLを受けようかなとおもっているので。あまり増田には書かないし、文章も下手だし、備忘録っぽい感じになるとおもうので、あとで消すかも。
もともとのスペック:
社会人になってから、英語の勉強自体は2010年ごろからやっていたけどまったく結果がでず3年くらいずっとTOEIC600。
そのあいだやっていたのは、N○C綜合英語学院に通学1年、skype英会話半年、洋書を読む、とか。
skype英会話、洋書読書はたのしいけど即効力はなかったとおもう(文法力、単語力がないと意味がない、ザルに水)
N○C綜合英語学院は勉強法が身に付いてよかったけど、英語力はつかなかった(クラス分けに対して基礎的な文法力が足りてなかった+テキストが自分にあってなかったとおもう)
て感じで、ちょっと見当違いな感じで3年ほど勉強して、2013年に中学校の問題をといたら、7割くらいしか正解じゃなかったのにショックをうけて(高校問題にいたっては4割)、TOEICテストをうけるのはしばらくやめることにして、中学校の文法書(自由自在)から勉強をやりなおし
N○Cで教わった勉強法は、日本語をみて英語を声に出して言う、というのをひたすら繰り返す方法。これは本当にいい。最初はもちろん答えられないけど、ひたすらまわして言えるようになるまでやる。余裕があったら、英語から日本語にもする。さらに余裕があったら、1文30回のペースでシャドーイング(音声を流して、それにあわせて文章をみないで言う)。これは今後の英語の参考書すべてでやることにした。
参考書:
中学文法書(自由自在)3回まわし→高校文法書5回まわし(forest)→DUO6回まわしで1年たったので、そろそろテスト勉強をしようということで、
つかった参考書は、ヒロ前田の究極のゼミシリーズ(5回まわし)、公式問題集5冊(3回まわし)
解けなかった問題は、文章全体を抜き出して、日本語ー英語ができるようになるまで3回まわした。リスニングは、できなかったリスニング素材のみ30回シャドーイング。最初はすべてシャドーイングしていたがつらくなってやめた。
勉強時間は、朝起きて30〜1時間、電車のなか行き帰り40分、昼休み15分、帰宅して30〜1時間、土日3時間くらいというペース。基本的に土日に公式問題集を解く、というプラン。
テスト結果など:
3月末にIPテスト初めて受けて800点とって、いきなり目標点に達してびっくりして、勉強を続けるべきか、すでに申し込んでたのを受けるか悩む。
4月末の公式で850点、5月末のIPで850点、ここで目標を860点以上にして勉強はつづける。
8月はうけないで、9月公式で890点とったのでひとまず勉強はおわり
問題を解くコツ:
TOEICのコツはすごいたくさんあって、知るのと知らないのとでは、100から50点くらい変わると思う。コツ関係は、ヒロ前田の本が一番くわしいとおもう。
試験でのTOEICのリスニングのコツは、問題といっしょに自分でもぶつぶつと口のなかでシャドーイングをすること、こうすると選択肢を解くときに内容をおぼえている。シャドーイングができないのなら、問題はとけない(聞こえてない)
試験をおわって:
いくらTOEICの点が高くても、本当にしゃべれないなーと痛感する。文章は勉強する前よりも楽に読めるようになったし、メールも込み入った書き方ができるようになったけど、ネイティブや帰国子女との壁は非常に高くて厚い。恐ろしい。よく言われることだけど、TOEICは入り口で到達点ではない…。
こんご:
スピーキングができないのは、TOEICにスピーキングのテストがないから勉強していないというのもあるので、いまはTOEFLを受けようかなと思っている。
TOEFLは、TOEICにくらべて日本ではあまり資格として魅了がないし、進学するわけではないけど、
• 短期留学するよりは身に付きやすそう • IELTSに比べて参考書がいっぱいある • 目標をたてたほうが短期間でのびる ので。半年くらい悩んでいま決めた。
TOEICに関して:
文法と基礎的な単語を覚えるのは1年かかってしまったけど、それさえ愚直にやってれば、TOEIC対策をすれば3ヶ月で800点はとれるよ、逆にしっかり中学レベルから叩き込まないと、何年勉強しても変わらないよ、という事でした。単語は、DUOと、問題集にでてくる単語を覚えれば十分。
テスト勉強自体は、短期間で一気に問題をときまくる、読みまくる、聞きまくる、というのが大事かなー。
あとは、TOEICの勉強してるときは、英語の勉強というよりはゲームの攻略みたいでおもしろかった(やれば点がのびるので)
世の中には、TOEICマニアみたいな(毎回うけて満点、傾向と対策を語り合う)という人もいて、勉強中はすごい参考にさせてもらった。
基礎の部分で、同じ事を愚直に繰り返す必要があるのは、スポーツとか楽器の練習に近い。その感覚がある人は、勉強しやすいかもと思った。