2024-10-13

幸せについての考察

幸せや充実に飢えてるだけの虫。

他者幸せや充実の匂いに敏感で彼らの営みの上っ面だけでもなぞり幸せを感じようとしてもなかなか幸せというものは感じない。

幸せな外見情報、見聞情報は作ることができる。取り繕える。


だが幸せを感じることはない。


幸せというもの集団幻想であり、古代の人が考えた鵺や麒麟、龍のような幻の生き物の感情バージョンなんじゃないかと俺は思う。

みんなで幸せコスプレをしているにすぎない。

しかし、まるで幸せというもの存在するかのように振る舞うヒト・モノ・情報、が多すぎて俺はいまだによく勘違いをしてしまう。




他者には当たり前に幸せ存在していて、俺だけが幸せ』という快楽状態で生きられていないんじゃないか?」ってね。



安心してください大丈夫です。幸せ存在しないです。

俺はバカからよくこの前提を忘れて病んでしまうけれど、存在しないものと割り切ってください。存在しないんだから


現代では幸せであることは一種ステータスと化しており、物的証拠がなくてもその人が幸せですとさえ証言すれば、他者から見てそいつは「幸せを感じている、幸せを知っている、満たされい幸せ人物」となる。

他人から見て幸せという尺度は、いろんなもので図られる。

性格容姿清潔感配偶者や子の有無、趣味、年齢、性別学歴、好み、社会的地位など。それらを複合的に見て他者幸せを図られることが多いと感じる。

snsなどを眺めていてふと幸せでない人間を蔑むみ憐れむ傾向が人間にはあるのではないかと気づいた。

幸せになる方法を知らない馬鹿」を「幸せを知ってる私」は哀れみ説教する資格がある。そういった感性を感じることが多い。

これに気づくとリアル人間関係でもこのような仕草他者への評価の節々から感じるものであることに気づいた。


このことから不幸であることや満たされていない存在他者からの下衆な蔑みや哀れみをとても受けやすく、

まり幸せであることで他者からの下衆な蔑みや哀れみの対象から外れることができ、人間としての名誉尊厳を守ることができるのである

幸せであるような振る舞いをするのは自己尊厳を守ることに直結するとして、現代社会で『幸せな振る舞い』が力を持ったのだろうと考えられる。




存在しないはずの「幸せ」を人々が取り繕わなければいけなかった理由だ。

それによりまるで「幸せ」が実在し、身近に存在するモノかのような不可思議存在になったのではないかと俺は考えた。


まり他者から評価などで被害を受けるような生活仕事性格などでなければ幸せになろうとする必要は全く持ってないのである

噂に聞く「幸せ」はとても尊く気持ちのいい安らかな感覚らしく、自分も生きている間に手に入れたいと求めてしまうだろう。

しかしなかなか幸せになれずに自己嫌悪に陥ってしまう。




尾ひれのつきまくった「幸せ」を追い求めるのはネッシーを探すようなものなのだからやめておいたほうがいい。

だって存在しないんだから

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