はてなキーワード: 必然とは
「子供を産んでこそ一人前」
ということじゃないでしょうか。
でも親になってみないと大人になれない人が多い。
自分の主義主張だけを通して自分のことだけを考えて自分だけ幸せに生きようとする。
子供を産んでから「この子が生きる未来の日本はどうなっているのだろう」と初めて考えました。
アホなりに自分が死んだ後の将来のことを本気で考えました。
私は日本が人口が減って消えてしまってもそういうものだと思っています。
ただ、最後の一人まで幸せでいるために先人が何かを考えるのは必然だと思います。
私たちが先人の恩恵(発展した文化や便利な道具、法律や仕組み)をもう受けているからです。
老人が占拠して、老人のための政治になっているのをどう若返らせるかとか
海外の人に気持ちよく日本で働いてもらうためにどうしたらいいかとか
負の遺産をどうするかとか
子供がいないひとこそ考えてほしい。
行動するのは大変なことですから、まず考えてほしい。
「将来大人になって自分を支えてくれる人たちのことを思ってほしい」
ということです。
そして何か子供達のために行動してもらえれば嬉しいです。
人間が棒上の物体を使って、平面に言葉を表現するっていう時点で、そもそも世界中の文字がだいたい線だけで構成されることは確定なんだよな
顔料だって豊富じゃないから単色で使うこと前提になる。だから文字を書くときに、色の違いは考慮されない(赤い「あ」と青い「あ」はどちらも「あ」という音を表す意味)
もちろん人間の顔だとか表情みたいな複雑な絵は誰もが書けるわけじゃないし、いちいち言葉を記すためだけにそんな面倒なもの書きたくないので、とりあえず「?」で終われば疑問文ということにして、読むときも語尾のイントネーション上げて読む。みたいな規約を作って運用しました。
これがもし入力インタフェースとして棒を使わないで、サクッとどんなに細かい絵も一瞬で書けるような時代になるとどうなるのか。
絵文字とかLINEのスタンプとかが流行ったのは必然だったのかもしれない。昔の人も本当はわざわざ言葉を文字にするのかったるかったと思う。
なぜかというと「少年漫画でできないことができる」一種の解放区だったから
メジャーな出版社は少年漫画、青年漫画とかの建前上の枠に束縛されていた
当時の男の子向けと言ったら
不良、スポーツ、不良、スポーツ、不良、スポーツ、不良、スポーツ、が王道
「どこに需要があるの?」みたいな扱い
しかぁし!
いい例が魔夜峰央とかだろうな。『パタリロ!』から美少年を取ってみろ
国際謀略スパイアクションにホラーに落語に……どこが少女漫画やねん
当然、少年漫画だったらますますもって編集者が相手してくれない
あと
萩尾望都や竹宮恵子が切り開いた初期やおい(「BL」じゃないぞ)ブームは
大いなる追い風となった
(当時の少年漫画でこれはなかなか受け入れられにくい)
そんなわけで吉田秋生のBANANA FISHみたいな怪作も成立した
1980年代当時の少年漫画がヤンキー臭いスケールの小さな不良バトルばかりの中
本物のピストル振り回して政財界の大物の大人と戦う少年の話の方が
よっぽど面白いだろ!! などと思った男子は俺だけではないはずだ(偏見)
小学生でも知ってるメジャーな存在となったのはやっと1980年代後半
これも当時の少年漫画誌だったら許されなかったよな…
・
・
・
↑
【追記1】
「『やおい』ではない」「『少年愛』では?」「『JUNE』では?」
すまん、少なくとも1970年代~1980年代中期「BL」という語句は
【追記2】
「少年漫画誌、青年漫画誌でも実験的なSFやらファンタジーやら作品はあった」
諸星大二郎や星野之宣などのような異才も取りあげた点は評価せねばならん
が、寺沢武一みたいな例外を別にすれば安定した長期連載は少なかった印象
【追記3】
「お前が言ってるのは『花とゆめ』とか一部の少女漫画誌の話だろ」
確かに当時も大多数の少女漫画は普通の中高生男女の恋愛物だったと思う
が、俺はそーいうのに興味なかった
【追記4】
その通り! 今にして思えば、虚淵やら奈須やらその他を輩出した
当時のエロゲ業界こそ、団塊ジュニア世代のオタク系クリエイターにとっての
(1970末~80年代初頭のような)古き良きボーナスステージだったんや
【追記5】
すまん(50歳)
私は自死遺族だ。
三浦春馬が抱いていた心情について、彼とは何の縁もない私が思索をめぐらせ言及すること自体が無意味で、そして罪深いことは重々承知である。取るに足らない下世話な憶測だ。
彼や彼の身内にとっては迷惑千万だろうが、それでも遺された大多数の人間のうちのひとりとしては、考えても無意味なことを、無意味だとわかっていても、あれやこれや考えてしまうことを止められないのだ。
私は自死に賛成も反対もしないし、これから自死する人、既に自死した人を責めもしない。
だから、できるだけ自分が、そして自分以外の誰かが自発的な死に向かわないようにするにはどうすればいいのか、少しでも手がかりを得たくて、考えてしまうのだと思う。
三浦春馬の場合、「順風満帆な実力派人気俳優」としてのパブリックイメージと、起きてしまった事件との落差が人々に強い混乱を与えている。
理屈をつけて納得しようにも、傍目には原因が見当たらず、どうにも事件へと結びつかないのだ。
一般視聴者も、親しい共演者でさえも、彼以外の誰もが「どうして彼が?」と首を傾げている。
彼は仕事に対して真面目に繊細に取り組み、関係者からの評判も非常に良く、子役から始まったキャリアには一切の不祥事がないそうだ。
前日まで自分の仕事を淀みなく全うし、死してもなお彼を悪く言う者は一人もいない。
命尽きるほど衰弱していたはずなのに、誰にも弱さを悟られることなく、彼は彼を演じ切ったまま終わってしまった、そんな印象すらある。
憶測の域を出ないが、彼は「三浦春馬」を維持することに疲れてしまったのではないだろうか。
周囲が彼の機微に気付けなかったのではなく、彼が周囲に心を許していなかったわけでもなく、ただ彼が、彼自身の最奥部に、誰ひとりとして立ち入らせるつもりがなく、そのまま生涯を終えてしまったのではないか。
立ち入らせることをしない、あるいはしたくてもどう頑張ってもできない、そういう人物だったように思えてならないのだ。
遺書があるという。遺書に何が書かれているのか現時点では知らない。けれどおそらく知ってもあまり意味はない。
遺書にある内容も、公表されても構わないと彼が判断した一部の心情に留まっており、きっと本音のすべてが曝け出されてはいないのだろう。
彼が何に苦しんでいたのか?
彼が何を求めていたのか?
真実は彼の中に閉ざされ、二度と開かれることはない。
それは永遠の謎として、遺された者の前に立ちはだかる。
親を喪って数年が経ったある日、遺された私にできることは「永遠の謎と、無意味に向き合い続ける」ただそれだけだと悟った。
別に向き合いたくはない。正直やめたい。向き合い続けたところで得られるものは何もない。
ただただ、寝ても覚めても死ぬまで自動的に謎解きを強制され続ける、これが自死遺族の宿命なのだと感じている。
過去に戻って何度やり直しても、心中を明かされることはおそらくないだろう。明かせるような人ならそもそも死を選ばなかった。自死は必然だったと認める他ない。
しかしそれは特別なことではなく、相手と死に別れた原因が何であろうと、仮に相手と生き別れていようとも、内面すべてが明らかになる機会などなく、結局他人の考えていることなんて本当のところわからないのだ。
どれだけ言葉を交わしても解消できない圧倒的な断絶、それが可視化されたものが自死なのだろう。
彼が表現者として遺した素晴らしい創作物への称賛を送りつつ、遺された人たちの哀しみを憂いつつ、これ以上の憶測は野暮だと反省しつつ、私は自分に課せられた謎解きに戻りたいと思う。
ナンバーツーの系譜に名を連ねる渡辺明が、次代のナンバーワンの台頭によって久々に注目されている。
長年の将棋ファン的には、歴史の必然というか、ついに渡辺明にもこのときが来たな、という感想を持つ。
将棋界というのは不思議なところで、いつの次代も絶対的なナンバーワンが存在する。
圧倒的な棋力で他の棋士を寄せ付けず、2、30年君臨し、次代のナンバーワンに禅譲する。
次代のナンバーワンはデビュー時点で文字通りのトップレベルの棋力を備え(*1)、また2、30年棋界に君臨する。
"常勝将軍"木村義雄(*2)、"巨星"大山康晴(*3)、"棋界の太陽"中原誠(*4)、"永世七冠"羽生善治、そしておそらくは藤井聡太だ。
中には全盛期にナンバーワンに勝てなかっただけみたいな棋士もいる。
ナンバーツーに誰を入れるかは2ch将棋板でも議論になるところだが、升田幸三(*5)、米長邦雄(*6)、谷川浩司(*7)、渡辺明は間違いない。
これに加藤一二三(*8)、佐藤康光(*9)、森内俊之(*10)あたりを入れるか、あるいはもっと色々な棋士が含まれるか、そもそもナンバーツーと言えるほど絶対的な棋士は谷川だけ、2番手集団で十分、以下略。
印象的なエピソードが数多あっても、決して色褪せない圧倒的な数字には及ばない。
むしろ万年2位の悲喜こもごもにこそ、心動かされるのが人の性ではなかろうか。
俺はそういうエピソードが好きだ。
木村義雄名人に糞と言い放った升田幸三。そのくせ陣屋事件を引き起こした升田幸三。(*11)
大山にいじめられ続け(と中原にまで言われる)、大山が衰えてやっと短い全盛期を迎え、中原と互角にやりあい名人も奪った加藤一二三。(*12)
二十歳そこそこの森下卓に頭を下げてまで自らの将棋を鍛え直し、49歳にして中原を下し名人位についた米長(*13)。
7番勝負の最中に阪神大震災を被災し、関西の将棋ファンの期待を一身に背負った王将戦で羽生六冠王の挑戦を退けた谷川(*14)。
羽生と初代永世竜王をかけて戦い、棋界初の三連敗四連勝で竜王を守りきった渡辺明(*15)。
そして藤井聡太の初戴冠において、カメラを背負う側となった渡辺明。
一方で、羽生さんは本当にすごい、と語る。
自身がナンバーワンに連なる存在でないことを自覚し、自分は羽生と藤井聡太の間の棋士だ、と、悟ったようなことを語る。
そして、あまり語ってはいないが、名人に対するこだわりは絶対にあると思う。
ただまあ棋士なんて常識が無い人間ばかりなので、それはそれでいいんじゃないですかね。
渡辺明が悲願の名人を獲り、そして藤井聡太の挑戦を受けたりしたら、クッソ盛り上がるだろうな。
谷川、渡辺明のプロ入直後の成績は中原、羽生、藤井聡太と比べると劣る。当時のトップレベルから少し(渡辺明は大分?)落ちるようだ。
名人8期(現役晩年まで名人しかタイトルが無かった)、十四世名人。
十三世名人関根金次郎の弟子。十二世名人小野五平や坂田(阪田)三吉からも指導を受けたらしい。
本文では中原デビュー後すぐにトップ棋士の座を譲った風に書いているが、中原誠に勝てなかっただけで他の棋士には変わらず勝ちまくっていた。
中原デビュー後の10年間は大山・中原時代と言っていいだろう。
佐瀬勇次名誉九段門下。膝に扇子を突き立て肘を乗せるスタイルは木村王位ら一部の佐瀬門下に受け継がれている。
タイトル通算12期、十八世名人資格保持者、永世名人(名人通算5期)を羽生より先にとった。
第1期王将戦(木村義雄名人対升田)は升田の4勝1敗で王将獲得となったが、第6局が木村名人の香落ちで行われることになっていた。
升田は対局場である陣屋旅館まで来るも結局対局を拒否し、大騒動に発展する。
真相は不明。升田は自身の子供のころからの夢「名人に香車を引いて勝つ」と名人を侮辱するかのような香落ち対局の間で葛藤し、このような行為に至ったのではないかとか言われている。
棋士総会より一任された木村義雄の裁定により、升田の処分はお咎め無しとなった。
ちなみに大山王将(名人)との第5期王将戦では升田は香落ち上手も指して勝った(http://www.ne.jp/asahi/yaston/shogi/osyo/osyosen/05/osyo05.htm)。
翌年21歳の谷川に奪取された(史上最年少名人)。谷川によると、「加藤先生には申し訳ないが、名人は中原先生であって欲しかった」。
名人就位式で「来年はあいつ(羽生)が獲りに来る」と予言し、翌年本当に羽生に奪取された。
翌年羽生は六冠を保持したまま再び挑戦者に名乗りを上げ、さすがの谷川もついに土俵を割る。寝癖の七冠王誕生時にカメラを背負った。
当時渡辺明は竜王連続4期、羽生は通算6期であった。羽生が卓越した大局観を見せつけた第1局、渡辺明が激戦を制した第4局、第7局が名高い。
でも渡辺明は他タイトルは挑戦もろくにできないまま永世竜王になったため、当時の将棋ファンの評価は微妙な感じだったように思う。
ナンバーワンの系譜なんてホントのところは偶然の産物でしかないと思うし、当たり前だが将棋に神様はいないし選ばれた人間だけが名人になれる訳じゃないと思うけど、現実にそういうことが起きると人間はなんか運命的なものを感じて面白がるよね、ってだけの話。
渡辺が告発者だっていうのもちょっと違って、告発者は別にいたけど、渡辺が棋界を代表する「竜王」として声明を出しただけだよな。
もちろん渡辺も疑ってたからそういう行動を取ったんだろうが、もともと将棋界は棋士の自治に任せるようなところがあるわけで、渡辺が出しゃばったことをしたわけでもない。
連盟としたら、後からでも不正が確定すればその時点で竜王戦はおしまいなんだから、疑惑が「グレー」に留まっていても出場させるわけにいかない。
スポンサー様に向かって「不正疑惑のある棋士が竜王になりましたが今後不正が確定してもスポンサーを降りないでね」なんて言えるか?
たらればを言うなら、ソフト>棋士が確定した時点で、迅速に不正対策を構築すべきだった。
それまでの将棋界がおおらかすぎたというところに尽きる。
日本の正規雇用の年収中央値が430であるのに対して非正規を含める360である。月額の給与に換算すると30であり、手取りだと24前後。
こんな中でコロナだの増税だのレジ袋有料だの物価のデフレ施策だのを考えたらそりゃぁ貧困率も高くなる。
この政権では夢も希望ももちろんないし、お金がなければ電車を使用する場所にあるような投票所に行く気力もわかないだろう。若者には現政権をどうすることもできないのだ。
こういった状況を鑑みると家からでなくて済みそうでかつ高単価が得られそうなYouTuberやITエンジニアを目指す若者がでるのは納得がいく。
俺の独断と偏見で(主にWeb系)プログラミングにまつわる神を感じるものを挙げる。
まずDocker。これがない頃はパソコンの中の開発環境はグチャグチャで、特にライブラリの依存関係の管理がとてもしんどかった。今はDockerのおかげでいくつも開発環境を持てる様になったんでマジ便利。作った人は神に違いない。
次にオブジェクト指向。これがない頃からプログラミングしてた訳じゃないけど、プログラミング始めたての頃に取り組んで訳分からなくて放置して、手続き型のプログラムをそこそこ書いた後でオブジェクト指向に戻ってくると何これ!データと手続きをひとまとめにできる!めっちゃ便利やん!ってなった。アルゴリズムとデータ構造っていうのはそんなタイトルの教科書があるくらいにひと続きのものだからこうなるのは必然かもしれないけれど、その必然を形にした人は神の様な目を持っていたのだろう。
そしてGit。これセーブポイントが作れるだけでしょ、なんて思ってたけど、GitHubと連携させて複数人でひとつのプログラムをいじり始めると途端に神ツールと化す。それにセーブポイントが作れるだけでも十分に神だった。
あとUTF-8。Shift-JISやらEUC-JPやらが混在していた世界は端的に言って地獄だったのに、こいつのおかげで文字コードを基本的に気にすることがなくなった。神。
他にもいろいろあると思うけど、俺としてはこれらに頭抜けて神を感じる。
センセイに言わせると、これは「いずれ起こりうる問題」だったという。
この一件は非常に突発的なもののように思えたが、水面下ではフツフツと沸きあがっていた問題だった。
その沸点を突破したのが偶然あの日で、それに巻き込まれたのが俺というだけ。
結局、この一件が決定打となって栞サービスは終了を余儀なくされた。
店が繁盛してハイになっていたマスターも、さすがに暴力沙汰が起きたとあっては目を覚ますしかない。
「店の雰囲気も悪くなる一方でしたし、対処せざるを得えんでしょう。電車には座席と空調を、ホームには自販機と立ち食い蕎麦を、トラブルにはルールとマナーを。それが無理なら運営なんてしない方がいい。場末のサ店にも同じことは言えるでしょう」
栞サービスがなくなると客足は自然と遠のき、店には古参の常連だけが残った。
こうして、このブックカフェは以前の穏やかな雰囲気を取り戻したんだ。
「個人的にはホッとしたけど、バカがバカやったせいで台無しになるってのも気の毒な話ですね。もしサービスの利用者が健全な人間ばかりなら、終わるにしても“こんな形”ではなかったでしょうに」
「散々オレらが忠告した結果の“案の定”だから同情はしないけどな」
「あのサービスは人々の漠然とした発露欲をくすぐり、悪意の種を蒔く播種機だった。その側面があった以上、ああなることは必然だったといえる。マスターにとっては不本意な話かもしれませんが?」
タケモトさんは悪態をつき、温厚なセンセイも心なしか当たりが強い。
そうはいっても、未だ常連を続けているから情は残っているのだろうけれど。
少なくとも、この件で素っ気なくなった奴らよりはマシだ。
「しかし、パタリといなくなりましたね、あいつら。サービスやめたら文句つけてくると思ったけど」
「別ん所でよろしくやってるようだぜ。隣町のネットカフェで、似たようなサービスやってるみたいで」
「はあ、懲りないなあ」
あのサービスが悪意を育てる手助けをしたのは確かだけど、種そのものは彼らが元から持っていたものだ。
土壌があれば根付き、そこで実となり花となる。
それは超自然の摂理であり、今回たまたまマスターの店が狙われたってだけなんだろう。
花粉症の人間には傍迷惑な話だが、これからも彼らは栞のためにページを捲り、巡らせていくのだろう。
階はただ延々続く 話しながら 謳いながら
いりませんNONON 僕ら
あの向こうの もっと向こうへ
僕らの栞を 僕らの言い分を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう
気にしないゼ 自分語ろう
気を抜いたら ちらりと わいてくる
僕らは熱さを 僕らは付け込みを
お気持ちの表明と けして枯れない舌先を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう
誇らしげに言うのならば きっとそういう感じだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20200703193938
■七瀬サイドの人間はなぜ対価システムに至るのか(おけけパワー中島)
https://anond.hatelabo.jp/20200704211736
上記の続き(蛇足)的な内容である。まずは、追記第2段まで足を運んでくれたことに感謝する。また今回の内容は、前回以上に漫画に関係ない。申し訳ない。
言い訳がましくなるが、私は心理学のプロではなく、公平性や正確性、サンプリング対象などに偏りがあることは、あらためてご容赦願いたい。
「なぜ対価システムに至るのか」で書いたが、対価システム保持者――陰キャは、基本的に自己肯定感を持たず、自分を卑下しがちである。その価値観を内に秘めているうちは鬱々とするだけだが、いわゆる陽キャとかかわると起こることは、自虐と肯定、価値観の衝突である。
自己肯定感のない女性がDV彼氏ばかり作るという傾向は有名だが、同じように、自分をほめられると反射的に心の防衛反応が作動し、”どうしようもない自分”という解釈を守るため、「自分のことを何もわかっていない」「おべんちゃらもいいところだ」と悪意的にとらえてしまう。
自己肯定感がないなら自分の考えも疑うはずなのだが、なぜかおのれの解釈に固執する、もっと言えば自他の区別がないため、異なる価値観が目の前に現れると、「この人はこう思うんだな」ではなく、自分の持っている価値観が脅かされるような不安にさいなまれ、結果拒絶に至ってしまうのだ。
また、私見なのだが、心の底から自分に価値が無いと思っている人はそう多くない。心の底で白馬の王子様のお迎えを待つ人が、七瀬サイドの大半を占めるだろう(小ばかにしているように聞こえるかもしれないが、生きる希望を持つこと自体はとてもいいことなので、是非とも白馬の王子様概念を大事にしてほしい)。
ではなぜ執拗に自分を卑下するのか。それはやはり、前回書いた「世界公平仮説」にあると思う。
世界公平仮説は一般的に、「これだけやればきっと報われるだろう」「努力は確実にものになる」という前向きな願望をイメージされるが、「ひどい目に合うのは○○だからだ」「○○だから報われないのは当然だ」という捉え方もある。
具体的な理由ではなく、前世の因果などの見当違いなものや、理由の一つではあるがそこまで重要ではない要因を○○に当てはめることを、「負の公平仮説」と本項では呼ばせていただく(セルフ・ハンディキャッピングという概念に近い)。
負の公平仮説の例を上げると、「自分は背が低いからもてないのは当然だ」「流行を知らないからぼっちになるのは必然だ」等々。この2例は、モテや友達作りにまったく関係ないわけではないが、他にもっと深刻な理由があることを見逃してしまっている可能性が高い。
しかし、”本当に深刻な理由”を見つけ出すのは実に苦しい。どこまでも自分という存在を真正面から見つめなおさなければならないし、見つかれば、それがなぜ改善できないのかも考えなければならない。表層的な、わかりやすい欠点を理由に挙げるほうがはるかに簡単だし、深刻なダメージから身を守れる。
そして同時に、負の公平仮説を用いる人は、そのかりそめの欠点を改善する努力に、そこまで意慾的になりにくい。そのかりそめの欠点を改善し、なおも状況が変わらない場合、”本当に深刻な理由”に向き合わねばならなくなるからだ。負の公平仮説は、一種の心のブレーキ機能である。
まず言っておくが、負の公平仮設による逃避を私は否定しない。現実の曲解で自分を守るのは当然のシステムであり、善悪ではなく「そうなってしまう」ものだからだ。
しかし人と関わるうえで負の公平仮設を持ち続け、他者にもその理解を求めるのはかなり負担を押し付けることになってしまうのも事実であり、「周囲と最低限のコミュニケーションは取らねばならない」「周囲の人を困らせたくない」という目標があるならば、自分のネガティブを飼いならさねばならない。必ず改善すると約束するものではないが、参考までに私がとった方法を紹介させていただく。
誉め言葉はできるだけ素直に受け取り、謙遜は多くても1会話に2回までほどにとどめる。謙虚も過ぎれば相手を困惑させるし、検挙のつもりが相手の好意を踏みにじる失礼ムーブになっていることを自覚したほうがよい。また、否定ばかりしていると、否定した本人にネガティブなイメージもついてしまう(今更多少嫌われたってどうってことない、という自嘲はやめよう)。
もちろん私のような濃いアスペ人間は、言葉を額面通りに受け取りすぎて事故ることもあるためある程度の謙虚さは必要なのだが、せめて、誉め言葉を口に出して否定するのはほどほどにしておくのが吉だ。
やはり生兵法は大怪我の基である。本気で悩んでいて、改善したいと思っているなら、こんな素人の放言だけ読んで済ますのではなく、専門機関を頼ったほうがいい。
友人や家族に苦しさを吐き出すのも手ではあるが、(こんなにしてもらっても返せるものがないからしてはだめだ)という対価システムが働いて全く話せないか、逆に負担をかけすぎて共倒れになる可能性が高い。
医師相手にもコミュ障発揮してしまう人は少なくないだろうが、向こうはプロである。(こんなこと言ってお医者さんは困るんじゃ……)と思える程度の人間ならば、もっとすごいのを向こうは普段から相手にしているため、まったく負担にならない。気負わずに吐き出してほしい。
前回、「最後に」を「最"期"に」と誤字していたせいで、何人かに「お前……消えるのか?」と突っ込まれてしまった。推敲不足で申し訳ない。自戒も込めて、あえてそのままにしておくことにする。
また、最初の増田は漫画から起こったムーブメントを主体に書いたので同人女界隈と言っていたが、対価システム事故は古今東西老若男女問わず起こりうるものである。女性差別目的で書いたものではなかったのだが、改めてここに明言させていただく。
おすすめいただいた小説「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」はさっそくポチらせて頂いた。好みに刺さり、かつ余裕のできたときに書かせていただきたい。
私からはこちらの「謝るクズと赦すバカ」をおすすめさせていただく。https://www.youtube.com/watch?v=1bbjwz3drJw
今回で、経験と推測から書けることはだいたい書ききったと思うので、ひとまず対価システムについて論じるのはひとまずこれで最後とする(感想や悲鳴を見て、またひょっこり書きたくなったらご容赦願いたい)。
レジ袋もタダでは無いのだから、必要な人が相応の代金を払えばいい。
割り箸なんかもそう。
業態によっては実質的にレジ袋を提供するのが必然の場合もあるかもしれない。
とはいえ、売り上げからしたらレジ袋の代金は微々たるものなのかもしれないが、レジ袋のコストが見える化されたことは意義のあることだったのではないか。
レジ袋に限ったことではないが、必要な人が金を払うという流れが進んでくれることを期待する。
でも有料化するなという声のほうが大きいだろうから、受益者負担の実現は簡単ではなさそう。
「それを言い始めたらこれも」という話になるので、どこまで同じようなことをするかということもあるけど。
https://asagei.biz/excerpt/17942
誰でも判る事だけど、こんなものペットボトルがそれまで主流だったガラス瓶に比べて軽量且つ割れにくいからだよとしか言えない。
しかしこの手の短絡的な規制論こそ経済社会活動全ての衰退を招く事にいい加減気づいてほしいもの。
そもそも海洋汚染に関してならば、ペットボトルに対してならば、ゴミ箱なり回収箱を増やす方が余程対策になる。
これら短絡的な規制論自体が、経済、社会、場合によっては技術の発展や文化活動すらの衰退すら招き、逆に業務自体への弊害をも与えるのは事実だしねぇ…。
それはこの手の環境問題に限らず、ドローン規制やダガーナイフ規制、そして当時の児童ポルノ禁止法や青少年条例等の創作物規制またはネットカフェ規制やネット規制、著作権問題におけるネット規制、それこそ民間においてはフェミニストや特定の団体が行ったコンビニに対するエロ本の販売規制や近い所では赤十字やJAに対する業務妨害とかバイク界隈に対する3ない運動等々例をあげればキリがないものだからね。
それと少し前に問題になった、農家に対して規制をしようとしている種子法とかの問題もある意味ではその規制による弊害そのものの問題だしね。
本当、特定の団体や業界、議員や官庁とか自身のプライドや利権関係だけを見て、その後の弊害があると言う声すら聴く耳を持たずに短絡的に規制し続けていたらそりゃ日本もここまで落ちるのは必然だよねと思う。
何にしても今回のレジ袋有料化自体悪手であり、最悪なタイミングでやらかした事は間違いなく、これは世間一般に対して、環境対策と言うもの自体、消費者に不利益や負担をもたらし、不潔で、消費活動を停滞させた結果、経済的衰退をも招く碌でもない代物であると言う認識を一層強めさせただけの結果に終わる事だろうね。
これまでも環境性能を謳った余り、価格は上がったけど自動車やバイクの性能を落としたり、電球や蛍光灯の廃止を強行しLEDを強引に普及させた結果、少なくない人達に多大なる迷惑ばかりかけ続けたのは事実なのだから。
https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/06/3e864d496ae32141.html
普通にトランプ大統領が経済的視点からパリ条約の離脱を決め、環境問題から距離を置いたのはある意味正解だと昨今の状況を見ていて思うよ。
昨今の環境問題とやら自体、やっている事は消費抑制ばかりであり、結果、国家そのものに対して、経済的衰退や社会活動の停滞を招くだけの代物であったのは明白だったし、排出権辺りから本気でおかしな方向に向かい始めたからね。
少なくとも国家の経済活動を重視するのならば離脱するのは正解であったとは思うよ。
何しろ今の俗にあの方々の言う環境問題に対する活動自体、生産、消費抑制から来る経済衰退活動でしかなかったから。
こう言うのを見ていても消費社会は豊かさの象徴であるのに対し、環境問題は国家を貧しくする象徴であるよなと思う。
それから日本は経済云々言いながら、コロナの流行っている時期にも関わらず、この手のレジ袋有料化と言う経済衰退策を平然とやらかしたり、普段は偉そうに言っているくせにいざコロナ禍においては企業に対しての支援もまともにしなかったせいで多くの倒産を招く結果になったりと色々な意味でかっこいいポーズだけがしたい口先だけの人達しかいない中途半端な人達ばかりだなと見ていて思うよね。
事実これにしてもタイミング的にどう見ても五輪のポーズでしかないのは明白だったしね。
確かにトランプ大統領自体おかしな側面も少なからずあるけど、最近はそれ以上にあの界隈が黒人デモ以降世間に対して、自らの権利を盾にして、逆に表現や言論の抑圧をしだしたり、環境問題にしてもグレタ氏以降、あの手の団体の方々が更におかしなことをしでかしたりした結果、相対的にまだまともに見えだしているのも皮肉だとしか言えないよね。
何回も書いてる話だが、3年越しで好きだった女子とせっくすができた。彼女は処女だった。全裸で寝ている彼女を正常位で見下ろしてた。彼女は目を開けて横を向いてた。確かに僕のちんこは彼女のまんこに出し入れしてるけど、全然エロくなく、このまま続けても射精にいかない。綾波レイのシチュエーションを考えたけど、無理そうだ。彼女も痛いかもしれない。動き止めて、ため息つくように彼女のおっぱいを揉んだとき、『あっ」って声が漏れた。
せっくすをしたかったわけじゃないんだ。好きな女子とは必然にせっくすしたいんだけど、せっくすは「終着点」なのかな。せっくすを終着点にしたくないなら、せっくすをするシチュエーションでせっくすをしないことなのかな。
一部の常連客の不安をよそに、栞サービスは存在感を強めていった。
「ホットで」
客たちは本を片手にペンを握り、黙々と栞に何かを書いている。
それが当たり前であり、しないほうが変だというくらいの勢いだ。
「近くに座りたくないな。なんか」
「あ、タケモトさん」
「よう、マスダ」
「やあ」
どうやら考えることは同じらしく、そこにはタケモトさんとセンセイもいた。
「そうか、参ったな。他にいい席あったっけ……」
「別に相席でも構わんよ、私は」
「遠慮すんな。“あそこらへん”に座るよりはマシだろ」
「……そう、ですね」
円卓を囲んだ俺たちは、それぞれ年齢も違えば趣味嗜好も違う。
共通の話題として、栞サービスの話を始めることは半ば必然といえた。
「それにしても、あんなに需要があったんですね。あのサービス」
「まあマスターも色々と工夫してるみたいだぜ。例えば、これとかな」
タケモトさんが、おもむろに星型のシールを取り出した。
「それは?」
「これを他の人の栞に貼るんだよ」
「ええ? なんでそんなことを」
タケモトさん曰く、その星型シールはSNSにおける「いいね!」みたいなものらしい。
栞サービス利用者の間で交流を望む人がいて、それに応える形で提供し始めたんだとか。
「何てことないシールだが、ユルく繋がれるってんで意外とウケはいいようだ」
「まあ、悪くないアイデアだと思いますよ。ニーズには基づいている」
やってみることに無駄はないのにやっても無駄なのでやらんけどというからいつまでもやれないしやり方がわからないんじゃん
やらないならそれでいいだろうしやりたくないならしなくていいしそれに意味がないなら別に気にすることはないでしょ
つまりバーなんて行かなくていいだろうし行ったとしてもだれとも話さなくてもいいんじゃないの?
仕事でとか付き合いでとかそうせざるを得ないことがあるのだとしたらそれ断ればいいいとおもうよ 意味ないもん
意味ないんでって断ればいいとおもう
それで問題がおきるからいやいやいくんだけどってなるんだったらそれ意味なくないし無駄ではないからその付き合いがあるんでしょ
無意味で無駄なのにしてることがその言葉どおりなら存在してないはずじゃん
あなたにとって意味がなくて無駄なわけだからそれをしっかり主張したほうがいいとおもうよ だってそれがあなたの人生なんでしょ
結果みんなからあなたのことが意味がなくて無意味なのでここにこなくていいよとなるかもしれないけどそれは必然なんじゃないのかな
放送していたのは予備校講師の林修先生が高学歴ニートに説教する企画だ。
林先生はおおよそこんな事を言っていた。
やりたい事とやりたくない事、できる事とできない事の2つの軸がある。
やりたい事とできる事が重なる人は幸いだ。
やりたい事を優先するのか、できる事を優先するのか。
高学歴ニートはやりたい事を追い求めている。
やりたい/やりたくないは偶然の産物で、絶対的なものではない。対して、できる/できないは必然だ。
林修先生は高学歴ニートに対して、できる事を軸に人生選択してみてはどうか?と提案する。企画の内容としてはこんなところだ。
今この世の中でこれを実践できている人はどれだけいるのだろうと思った。
皆やりたい事を2、30年間くらい探してる。
昔は親や学校の先生が進学先や就職先まで指示する事も少なくなかった。ある意味第三者が客観的に選んでいる。結婚もそうだ。
いつしか社会は個人の意見を尊重する社会変わっていった。そうすると皆自分のやりたい事にパワーを注ぐ。ネットの普及は拍車をかけた。