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はてなキーワード: 伝統とは

2012-05-17

http://anond.hatelabo.jp/20120517105604

いい。すごくいい。

心理屋さんのクソみたいな揚げ足取りはどうでもいいか

あなたが書いたみたいな批判が真っ先に出るべきだったと心から思う。

こういう論点で騒げよと。


でまぁ、建設的な批判を書いてくれたわけでこのまま何も書かんのもあれなので

せっかくだから少し反論してみようと思う。

わが国の伝統子育てって要するに女が家にこもってつきっきりになって子ども育てるっていうパターンでしょ?

俺もそう思う。要するに幼少期に愛着を形成しろというイメージを持って条例作ったに違いない。

「ちゃんと子育てしない親が増えた」というよりは、共働きでないと食えないか子育てに割く時間がなくなった親が増えただけでしょ?
あるいは子育てしないとならないか共働きができなくて生活が不安定で子どもに接するときに余裕が持てない、とか。
それに子育てが上手くいかないとかそもそも子育てとかしたくないとかで毎日うつうつとしてたり仕事したくてたまらない親とかもいる。主に母親

同意。このご時世に、んな悠長な子育ては出来ん。

だがそれらを踏まえてあえて言う。

彼らに必要なのは彼ら自身が欲してすらいないノウハウの伝授なのか?

必要なのはノウハウだ。理由は書く。


子育てパパ」を定着させるのにはすごーく時間がかかる気がするから

オカルト的な話をするのもアレだが、家父長制ってのが日本人の深層に染みついてる。男は働き女は家を守りっていうアレ。

「その意識を変えていこうよ!」とかそういうレベルでなく、気質みたいなもんだ。

男性育休が定着するのなんて、それはまぁ途方もない時間がかかる。そりゃもはや革命だよ。

テコでも動きそうにないものを変えようとするより、別のアプローチを考えた方がむしろ早くないか?という話。

何事もまずマニュアル必要から

子育てなんてのは千差万別なのは承知だが、何もわからんまま「はい子供育ててね」って、そりゃ無理だろ。

こういうのは一見ノウハウの欠落のように見えるのでそれを補充してやればうまく回るんじゃないか錯覚しそうになるんだけど、
ノウハウってのは知識伝授と同時にやり方そのものを変えてやれなきゃ意味がない。「教わったのにちゃんとやれない」なんてことになったら親は逆に追いつめられるし。

そうは言うが、だからと言って何も教えないのはキツい。

やり方を変える第一歩は、「やり方を知る」ことだと思うわけだよ。

昔はご近所づきあいが盛んすぎたせいで、新人ママは周りのベテラン母ちゃんに世話焼かれながら子育てしたろうさ。

でも今は違う。ご近所づきあいが薄っぺらくて仕方ない。誰も教えてくんねーんだよ。

「だから教える機会くらいは作ります」。別にそう問題はない気がするんです。

思考がぐちゃぐちゃになるのは、何していいかわかんないからだ。

からマニュアル化する。

それでそれなりの数の人間は救われるはずだ。やり方さえ教えてくれたらというのがここ数年のトレンドだしな。

やり方知る親が増えるだけで、虐待の数は目に見えて減るはずだ。少なくとも混乱する親は減る。

もちろん虐待非行ゼロにはならん。人格ひん曲がったバカ親ってのが一定数いるだろうからな。

そんなぶっ飛んだケースを解決するのは、家庭裁判所警察です。




とは言うものの、別に女が働くなと言いたいわけではない。

子育てパパ大いに結構時間がかかってもいいから、この辺の意識改革ちょっとずつやってくべきだとは思う。


でもまぁ、目先の解決法として条例はそんなに悪くはないんじゃないかという結論に至る。

とりあえず言いたいことは分かったか

伝統子育てとやらの具体例と、ノウハウの伝え方と、その伝え方の実施可能性を示してほしいわけだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20120516234841

伝統的な子育て」という言葉が、人によってイメージ違うのに気付いた。

なるほどそうとも捉えられるのか。

これだからあいまい言葉はやんなっちゃうね。

言葉定義をしっかりしないまま公的な文書を書くなと思うわけですよ。

よく考えると、伝統っていつの何だよと思うわなそりゃ。

http://anond.hatelabo.jp/20120516233154

家庭教育支援条例案でしょ?

条例趣旨自体が結構めちゃくちゃおかしいと思うよ。

http://osakanet.web.fc2.com/kateisien.pdf

乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待非行不登校引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる”

“わが国の伝統子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する”

わが国の伝統子育てって要するに女が家にこもってつきっきりになって子ども育てるっていうパターンでしょ?

何ならこんな時代だし、女に限らず親が家にこもって育てる~って風に読み変えて適用するのもありだと思うけど、そもそもこのクソ不景気子ども手当も叩かれる風潮の中で、一体どこのお坊っちゃまお嬢様子育てだけに専念できるの?っていう。

「ちゃんと子育てしない親が増えた」というよりは、共働きでないと食えないか子育てに割く時間がなくなった親が増えただけでしょ?

あるいは子育てしないとならないか共働きができなくて生活が不安定で子どもに接するときに余裕が持てない、とか。

それに子育てが上手くいかないとかそもそも子育てとかしたくないとかで毎日うつうつとしてたり仕事したくてたまらない親とかもいる。主に母親

彼らに必要なのは彼ら自身が欲してすらいないノウハウの伝授なのか?

子どもとの関係が煮詰まりすぎるとどんなにかわいく思っててもストレスの矛先を向けてしまう可能性が高くなる。

予防とか防止っていうんなら、まずはそういうことが起きないように男もがんがん育休とって選手交代したりメイン人員として育児できるようにするのが一番手っ取り早い。

で、さらにその保険として病児保育とか一時預かりのアテを作るってのが妥当だ。

伝統子育て(笑)って感じだよあの条文は。「発達障害」用語使用の件だけで批判が済んでんのが不思議レベル

そもそもケースごとに背景が違うし要するケアも異なる虐待問題と引きこもり問題を同時に解決するという魔法呪文のような「子育ての知恵」なんて実在が疑われるわ。

母親自身が育ちが不遇で親から教育とか愛情とかを受けられなくて、子どもかわいいと思う気持ちとかわいい子だからこそちゃんとしてやらなきゃならないという責任感とちゃんとしてやらなきゃならないのに子どもがしつけ通りにならないという苛立ちとか焦りとかでぐっちゃぐちゃになってしまうような悲惨パターンもある。

というか一時期ニュースで目立った虐待事件の王道だけど。

条例イメージしてる「防止すべき虐待」ってそういうやつでしょ。

こういうのは一見ノウハウの欠落のように見えるのでそれを補充してやればうまく回るんじゃないか錯覚しそうになるんだけど、ノウハウってのは知識伝授と同時にやり方そのものを変えてやれなきゃ意味がない。「教わったのにちゃんとやれない」なんてことになったら親は逆に追いつめられるし。

そういうあたり、やっぱ詰めが甘いよ。

2012-05-16

ちょっと前に、大阪市条例で「伝統的な子育てによって発達障害は予防・防止できる」とか言ったら

猛批判を食らったってニュースがあったけど、未だにバカだなぁと思う。

何がって、論点が全く的外れな点が。

1.批判してたのは、大体がその道の連中

条例が出てから激しくファビョってたのは、いわゆる心理学関係や精神医学の連中、

あるいは自分や身内が発達障害で、要するにそれに関する前提知識があった連中が大半だ。

連中の言い分を乱暴にまとめると

発達障害の子どもは「予防に失敗された存在であるなんて差別だ!」

発達障害ってのは、先天的ものだと医学的に証明されている!」

大阪市発達障害の人を差別している!」

まぁこんな感じ。

びっくりするぐらい「発達障害」という一言に批判が集中していて、当時からなんだかなぁと思っている。

ちなみに、この批判の内容自体は事実だ。さすがは心理屋。

2.論点は本当に「発達障害」か?

条例によると

乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、

 また、それが虐待非行不登校引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる”

だそうで、その結果

“わが国の伝統子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、

 こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する”

だそうだ。

要するに「ちゃあんと子供の時から可愛がってあげないと、子供はグレたりメンヘラになったりするよ」

「だから昔ながらの子育てで可愛がろうぜ」

という話。別に発達障害の人が劣っているだとか、そういう文脈では全くないわけですよ。

ちゃんと子育てしない親が増えたから、子育てさせるぞという話なわけ。

だいそれてるか?別にことさらおかしい主張でもないだろ。

それを「発達障害」って単語一つに批判する側もされる側も踊らされやがって。

3.条例の何が間違っているか

そりゃもぅ何が間違っているって、条例の「発達障害」って単語の使い方がおかしいんだよ。

変にかっこつけて「軽度の発達障害」とか言うから、心理屋がファビョるんだよ。

確かに、発達障害ってのは予防や防止ができるもんではない(らしい)。

でもそれはいわゆるアスペルガーとかそういう類のお話であって、

条例の中で言われている「発達障害」とは別次元お話なわけ。

大阪市も、カッコイイ専門用語を使うときは慎重になるべきだったね。

きっと非行とか鬱とかボーダーとかを指して「軽度の発達障害」という言葉を使ったんだろうけど

発達障害ってのは別モンだ。

4.どんな論争が繰り広げられるべきだったか

でも、こんなもんちょっと条例を読めばわかることであって

「ああ、言葉の使い方ミスってるな」で済む話なわけよ。

からもし心理屋が条例を批判するとしたら

発達障害というのは定義上はこうこうこーいうもんなんで言葉を変更するべき」ぐらいなはずだよ。

まさか子育てしなくていいと思ってるわけじゃあるまいし。

条例趣旨自体は、別にめちゃくちゃおかしいわけじゃないだろ(正しいかは知らんが)。

んで大阪市側も

「ごめんなさい、発達障害って単語は心理屋によると別モンらしいんで言葉替えます

 でも言いたいことはつまりこういうことなんです」とでも弁明する。

この辺が本来あるべき批判と謝罪だろ。

言葉の使い方は間違っているけど、本当に言いたいのはつまりこういうことか」くらいの余裕は持てよ。

あの一連の騒ぎは、不毛だったなとすごく思う。

小学校は、パーフェクトペアレンツを前提とした「愛情確認授業」を止めよ

 モンスターペアレンツが、自分の娘にDQNネームを名付け、

 その娘が小学校入学したが、

 「自分名前意味を知りましょう」という授業を受けて

 「自分名前意味がない」ことを知り、ショックを受け、

 それを知ったモンペが

 「マトモな名前を付けた親に逆キレする」という話が、はてなブックマークにあった。

  http://gasoku.livedoor.biz/archives/51908606.html

  この話の真偽については、一部「ネタじゃないか?」との意見があるが、

  一応事実であると仮定して話を進めるが、

  そもそもこの手の

  「自分名前の由来・意味を調べましょう」という小学校の授業自体に、

  問題があるのではないか

  この授業の前提としては

  「親は、子供のことを考えて、最高に意味のある、最高の愛情を込めた名前を付ける」という

  「素晴らしき親」「パーフェクトペアレンツ」が前提になる。

  しかし、クラス40人の中で、1人くらい、いや数名くらい、

  「適当名前を付けられた」というケースも、あるのが普通では?

  言い方を変えれば、「40人の中で、パーフェクトペアレンツでない親が数人程度いる」のである

 

  本人は「パーフェクトペアレンツ」である意識していても、傍目には

  「全然パーフェクトペアレンツじゃない」というケースも同様。

  まさにモンスターペアレンツDQNネームの親なども、それに該当。

  しかし、今の小学校の授業は

  「皆が皆、パーフェクトペアレンである」という「神話」を前提として組み立てていて、

  それゆえに

  「パーフェクトペアレンツの無償の愛を子供体感させる」という授業がなされる。

  「パーフェクトペアレンツの無償の愛を体感させれば、子供情緒プラスになり、

   パーフェクトチャイルドになる」という目論みなんだろうが、

  この授業計画は、パーフェクトペアレンツでない親が混ざっている時点で、見事に破綻する。

  その場合、後に残るのは

  「パーフェクトペアレンツ(とその子供)による、ノンパーフェクトペアレンツ(とその子供)への差別イジメ」だけである

  

  最近流行りの

  「10歳になったときの、2分の1成人式」も同じ授業展開。

  「親の愛情子供に取材させて、体感させる」という授業展開だが、愛情希薄場合

  あるいは愛情をうまく伝えられない親の場合、授業計画は破綻する。

  で、

  「お父さんお母さん、いままで僕を愛情一杯に育ててくれてありがとう」と子供に語らせるのが

  この手の授業の「予定調和的展開」であるが、これって保守トンデモの「親守詩」と、

  やってることが何ら変わらん。

 

  いい加減、

  「パーフェクトペアレンツっぷりを子供体感させる授業」は、止めにしてはどうか?

  現実世界は、文部科学省教育委員会が期待するほど、パーフェクトペアレンツは多くない。

  そもそも、「古き良き日本」では、結構子供はいい加減に命名されていた。

  一番目の子供だから太郎」、二番目だから「次郎」、てな感じ。

  女児の命名なんか、もっとヒドイ。

  「もう子供なんかイラネ」「男児が欲しかったのに、女が産まれやがって」というホンネを隠さずに、

  おおっぴらに「トメ」とか「ステ」と命名されていた。

  これは現代インド女児命名も同じですね。

   

  突飛な仮説だが、

  「名前に親の愛情が込められるべき」という思想は、

  ゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」のヒットに起因するような気がする。

  あの歌以降、「●子」のような伝統名前が減って、個性的名前が増えた気が・・・

http://anond.hatelabo.jp/20120516001654

本当は人類の長い歴史を考えると、遺族感情100%で解決するのが伝統。要は仇討ち

ただ社会が複雑化すると、無秩序に仇討ちし続けると治安を大層悪化させるのでキリのいいところでやめさせるよう国家が統制した。

で、世の中の治安を悪化させないギリギリのラインで過去仇討ち権利を生かしているのが

死刑やら懲役やらで加味される遺族感情ってところなんじゃないでしょうか。

2012-05-07

児童虐待は「3丁目の夕日が明るかった頃」の方が多かった疑いもある】

 大阪の「維新の会」が親学押し付け条例を画策し、世論の猛反発で引っ込めるようだが、

 そもそも「昔の伝統子育てでは、児童虐待なんてなかった」というのは、一種の「神話」ではないのか?

 「現代は、児童虐待が増えている」というのが「社会常識」となっているのには、

 2つの「要因」があると思う。

 1.行政の「問題可視化認知機能

 2.マスコミによる「アジェンダバイアス機能

 

 1.は、例えば発達障害なんかが典型例だが、

 「医学の側、行政の側の検査体制が充実してきた結果、従来だと見落とされてきた症例の把握率・捕捉率が上昇してきた」

 というもの

 発達障害などは、かつては検査体制が未整備だったので、認知件数も少なかったが、

 最近では行政側の検査体制が整ってきている上、市民の側も「大人の発達障害」なんて本などの影響で、

 症例の認知度が高まってきているので、検査に出向く市民・親が増える、そういうことで認知件数が増える、という関係にある。

 これを「児童虐待」に当てはめると、

 「数十年前に比べて、児童虐待を把握する行政の体制が整備されてきていて」、

 その上

 「市民の側にも、児童虐待社会問題として認識するようになってきている」ので、

 「市民通報も増え、行政認知も増える」という関係になっている。

 2.は、「マスコミニュースネタに取り上げると、今まで顕在化していなかった社会問題可視化されて顕在化する」という話。

 例えば以前からパワハラ」「アルハラ」なんてのは社会存在していたが、

 マスコミの方が「それは問題だ」としてこなかったから、問題が可視化されなかった。

 しかし、マスコミ社会学者が「問題だ」と問題提起(=アジェンダセッティング)することによって、

 可視化されて、問題意識社会に共有化される。

 もっと平たく言えば、

 「児童虐待は、数十年前にはアジェンダセッティングされていなかった」ということ。

 問題としては存在していたが、マスコミが報じなかったため、それが可視化されなかっただけではないのか?

 ・・・ということで、例えば「3丁目の夕日がまだ明るかった」昭和30年代と、現代とで、

 「虐待発生度合いを定量的比較する」というのは相当に難しい作業ではないか

 行政データも、報道データも、比較データとしては不適だから

 それでも聞き取り調査とか、医学データとかから、強引に定量比較してみたら、

 「実は昭和30年代の方が、児童虐待は酷かった」という結果が、出そうな気がする。

 

2012-05-06

親の愛情不足が発達障害を引き起こす?

今更ながら、大阪市の「家庭教育支援条例案」の事を知った。「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因」で、「わが国の伝統子育てで予防、防止できる」だそうだ。

寝言は寝てから言え。

私は発達障害当事者で、成人してから診断を受けた。

実は診断を受けるまでは、ずっと自分ボーダーパーソナリティと疑っていた。育ちが原因で、ねじ曲がった人間になったのだと思っていた。育ちというか、「自分自分のせいでこんなダメ人間になったんやろう…」と、10代の時は、自分が嫌いでたまらなかった。

でも、それを親とかに言ったり、精神科に行ってボーダーであると診断される事は避けた。

ーー出来る訳がないじゃないか! だって想像して欲しい。お医者さんに、

「娘さんは、おそらくパーソナリティ障害です。原因の1つとして、今までの親子関係が考えられると思います。それで今、娘さんは、生きる事に苦しんでいます

等と言われたら、貴方が親だったらどうする? こんな言葉、聞きたいか

 

私は確かに、親と揉めたこともあるし、憎んでもいた。でも、親と喧嘩したり、反発したりすることなんて、健常者にだって有るはず。それに、親を憎んだこともあるけれど、ずっと尊敬だけはしていた。尊敬できる親だったから。

発達障害の可能性を指摘されたとき、驚いた。でも、同時に嬉しかった。

少しは知識があったから、これが先天的もので、「見かけ上マシには出来るけど、本質的には『治療』という概念のものじゃない」というのは分かってた。だから、今の自分を、親のせいにしなくても済むかもしれない。親を恨んだりしなくて済むかもしれない。それが嬉しかった。

生まれつきなら、誰が悪い訳でもない、そう言えるから

ただ、私の母親は障害を告げた時、育ちが原因だと誤解した。特に、私は先天性股関節脱臼で生まれてきて、幼い頃は不自由な生活をせざるを得なかったので、それも含めて誤解した。

いや、誤解と言うより、負い目なんだと思う。普通に育てられなかった、普通にしてあげられなかった、私への負い目。 

その時、精神科先生と2人で必死に説明した。「発達障害は生まれつきの脳機能の障害ですよ。海馬とか前頭葉とか、詳しい部位まではまだ特定できてませんが、先天性の可能性が高いと言われています」とか「股関節脱臼で生まれた子の8割、……いや、6割でもいいけど、彼らに私の様なコミュニケーション障害があったら、相関関係があるとか、育ちのせいといってくれてもかまわないよ。でも、実際は多分違うでしょう?」とか。

言いながら、辛くて泣きそうだった。

発達障害を持って生まれたことを、私は不幸だとは思っていない。だって、私はそれを持って生まれて生きてしまっているのだもの、仕方ない。

でも、親に負い目を持たせていることが辛かった。

今回の条例案読んで、自分よりも自分の親が否定された気がして哀しかった。

2012-05-03

#伝統子育ての例

twitterで #伝統的育ての例 が賑わってるが、極端な揶揄カリカチュアばかり。みんな親への恨みつらみが溜まってるんだなあ。

からみんな、親との縁を切りたがるわけか。

そうすると遺産も貰えないわけで、ジジババが年金を貰っても我々は得せず、「60-70代は逃げ切り世代で卑怯だ」と恨み言を言いたくなる、と。

2012-04-11

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.6

【vol.5「規範意識を変容させる集団」】はこちら

 これまで四つの観点からカルトについて述べさせていただきました。しかし、「入会防止」の目的なので、それに関連する内容に言及されており―学問的に説明が不十分でもあります―。オウムのすべてが網羅されているわけではありません。ましてや、私はカルトのすべてを論じることのできる立場ではありません。その意味では、本文は「オウムへの入信を防止するための手紙」でしかいかもしれません。

 この理由で、カルトへの入会を防止するためにも実学としてカルトのすべてを知るためにも専門家による著書『マインドコントロールとは何か』(西田公昭 著 紀伊國屋書店)お勧めします。

 また、本文にはオウムの教義の概念が氾濫しているので、皆様にどのように受け取られるか気掛かりでもあります。これまでも、私は多くの方々から質問を受けてきました。説明責任があると思い、できる限り回答させていただきましたが、私どもの愚行をお伝えすることには失敗することが多かったです。殊に宗教経験に係わる話になると、その方の人生経験に沿うように別の解釈をされてしまうことが多々ありました。人は自身の経験に基づいて物事を理解するものですから、無理もありません。

 ですから、この度は説明方法を変え、具体的な描写とそれを説明する文献の引用を加えました。それでも、理解が困難な点があると思いますが、ご容赦願います

 現在、私はオウムの教義や麻原の神格を全否定しています。その正当性の根拠だった宗教経験について、脳内神経伝達物質が活性過剰な状態で起こる幻覚的現象として理解しており、教義のいう意味はないと考えているからです。

 それだけに、いかなる理由があれ人間として許されない罪を犯したことは、慚愧の念に堪えません。亡くなった皆さまのかけがえのない生命は取り戻すことができないこと、ご遺族の皆さま、重傷を負われた皆さまやそのご家庭の皆さまの苦しみが今後も続くであろうことを考えると、後悔の念ばかりが浮かびます

 また、オウムの教義や麻原から心が離れた今、私は無信仰の状態にありますしかし、宗教価値は認めています信仰によって人格を高められた方々が多数いらっしゃるからです。人間には超越的な存在を感じる資質が備わっているのでしょう。それは、人類誕生して以来、いかなることがあっても―権力から弾圧されても、科学が発達しても―、宗教が存続していることが証明しています。その資質によって人格を高めることは、決して否定できません。そして、超越的存在自体も、私などが否定できることではありません。

 「超越的存在も否定できない」と申し上げると、これまで私が述べてきたことと矛盾していると思われるかもしれません。実は、「宗教経験脳内伝達物質が活性過剰な状態で教義のいう意味はない」ということも、私の個人的経験によってそう感じているだけであって、客観真実ではないと自覚しています。私の経験に基づいて、多くの方々にそれを納得していただける程度の説明をすることは可能と思いますが、科学的に厳密な証明は不可能です。元々、この種の概念は、科学的な証明が可能なように定義づけすることができないからです。そのため、カルトの超越的世界観についても、それを科学によって排斥することは、極めて困難です。

 また、前に「禅」の瞑想の例を挙げましたが、それは、オウム技法本質な違いはありません―もちろん、教義は大違いですが―。つまりオウムは多くの文化遺産採用―濫用というほうが正確かもしれません―してきたのです。この場合伝統的に承認されており、有益性もある瞑想技法と“オウム的なもの”として排斥したら、社会問題になりかねないでしょう。そして、この事情はほかのカルトについても同様でしょう。このように、社会的要因によっても、カルトを構成する要素を排斥しきることは難しいのです。

 これらのエアポケットにおいて、カルトはいつまでも生息し続けるかもしれません。

 たとえば最近は、「スピリチュアル」が話題になっています。これはいまだ「カルト」とはいえないかもしれませんが、その超越的世界観が有益なもの有害ものか注意深く見守る必要があると思います。もし、恐怖を喚起する概念が含まれているならば、影響を受けやすい人は日常生活に支障をきたすでしょう。また、「スピリチュアル」が集団化すれば、個人の価値観が相当受容して、社会通念から逸脱した行動をとる人も現れるかもしれません。

 以上の状況においては、結局、各個人が「カルト」を理解し、その基準を定めるしかないでしょう。本文が少しでもそのお役に立てれば、幸いに思います

 平成二〇年六月二五日  

 広瀬健一  

 平成二〇年一〇月二七日改訂


【vol.1「カルトに係わる契機」】へ戻る。

 

 

◆参考記事リンク

 『広瀬健一 - Wikipedia』

 『摂理資料』

 『駅長日記:サリン事件実行犯広瀬健一氏の手記をUPしました』

広瀬健一氏の直筆手記、PDFへの直リンク

 『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)

 『オウム真理教元信徒広瀬健一の手記を一部公表。順次追加』(2011年~公開)

◆皆さんに読んで欲しい記事リンク

 『悪い知識は大切 - レジデント初期研修用資料』

 『やる夫とAAで学ぶオウム地下鉄サリン事件』

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.2

【vol.1「カルトに係わる契機」】はこちら。

宗教経験

 カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。

 オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。

 このように、宗教経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。

 以下、宗教経験検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います

 前述のように、高校三年生ときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイト忙殺されていたのです。

 そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年ときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱悟りが気になりました。

 最終的な解脱悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。

 不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。

 また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教インドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。

 前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。

 しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムほとんど無名の団体でした。)

 私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生ときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。

 この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。

 このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。

 ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。

 眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。

クンダリニー覚醒―」

 意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニー覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。

 続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくり背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。

 「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒危険だ」―オウムの本の記述別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。

 クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。

 突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。

オウム真実だ」

 オウム宗教世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル修行指導する師)として、解脱悟りを目指すことが私の「生きる意味である確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニー自然覚醒したのは、前世グルの著書を読んだために、修行者だった私の前世記憶が甦ったからだと思いました。

 このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています

 突然の回心は、被験者のものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。

 漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである

 すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。

 二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。

 この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。

 漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。

 私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。

引用英語で分からず。)

 このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています

引用英語で分からず。)

 私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。

 オウム宗教世界観現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニー覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニー覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑広瀬から感じた。」と法廷証言しています

 こうして、オウム真理教在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。

 オウムの教義と修行目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。

 教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に地獄餓鬼動物の三つの世界三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。

 それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。

 私たちは自己存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。

 これらの煩悩行為過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己カルマが身の上に返ってくることを「カルマ法則」といい、これも重要な教義でした。

 カルマ法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですからオウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。

 [なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人日常的な行為ほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]

 また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界幸福世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですからカルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。

 麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウム世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。

 回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますますまりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。

 その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。

 なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)

 なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教経験をしていたのです。

 現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教経験」のほうがリアリティがあるのです。

 このような宗教経験作用について、文献には次のように述べられています

 アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システム概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存宗教を粉飾する。

 超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。

 宗教経験コンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。

(前出 引用英語で分からず。)

 (A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。

西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九

プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間情報処理一定の方向に誘導すること)

 瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニー覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想伝統によれば、非常に深刻になるものだ。

引用英語で分からず。)

 また、宗教経験が起こる状態においては、世俗的なことに対する関心が薄れるという報告があります

引用英語で分からず。)

 以上のように、宗教経験およびそれが起こる状態は、非現実的な教義の受容や日常生活から離脱を促進するようです。


※「輸血拒否事件」1985年6月神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。

【vol.3「宗教的経験(後半)」】へ続く。

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.1

オウム信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年大学生へ向けて書いた手紙忠告)をまとめました。

目次はこちら

【vol.1「カルトに係わる契機」】

【vol.2「宗教的経験(前半)」】

【vol.3「宗教的経験(後半)」】

【vol.4「恐怖心の喚起」】

【vol.5「規範意識を変容させる集団」】

【vol.6「まとめ」】

初めに

Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET

上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして

若者たちの超常的ニーズに応えたオウム真理教ナウい教化法

が挙げられていましたね。同様に

若者宗教志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。

と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしま人間側の“信仰生成過程不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまます

では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者宗教志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?

この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。

ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉TVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災TVニュースの方が記憶に残っていますしかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネット検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分カルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教人間信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。

『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)

※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています

この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウム無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教ナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近オセロ中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳マインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルト存在洗脳信仰に対する認知を深めてもらいたいです。

そしてできるなら、FacebookTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルト存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)

最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています

学生の皆様へ

 「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。

 この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。

 オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方からカルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。

 私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います

カルトに係わる契機

 前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトメンバーとしては、私はオウム真理教信徒経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります

カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。

 しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。

 ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウム世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族学校会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。

 このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。

 私自身は、高校三年生とき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。

 このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。

 スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています

 一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るもの存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るもの存在しないかどうかを探求してみようと。

スピノザ『知性改善論』畠中尚志 訳 岩波文庫

 トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています

 何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。

 この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。

 「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。

 自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。

トルストイ『懺悔』原久一朗 訳 岩波文庫

 以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います特に自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。

 その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。

 哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。

 こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。

 結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想なのは半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。

 このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。

 次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。

 思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない

 人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”

引用英語で分からず。)

 また、心理学者ウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教哲学に向かうことを指摘していますウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫

 「生きる意味」に対する問いが純粋知的ものならば、それは当人に健全精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。

 それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。

 ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います


【vol.2「宗教的経験(前半)」】へ続く。

2012-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20120404134913

父親越えという神話時代から続く伝統的なストーリータイプがあってな、

他には、ピカレスクとかな

そういうのって大昔から人間は皆大好きなわけ

典型的には、主人公は若く反体制側だったり、恵まれない出自だったり、何がなんだかわからねえって場に巻き込まれたり、するわけ

年齢が若いってことは、それだけで権力に対する力がなかったり、無知で、立場がわるくて

これから沢山の経験をして、出会いをして、なりあがらなければならない

若いキャラが置かれた環境というものが、そのキャラ内面的な強さを強調させ、それに人は惹かれてしま

時に見せる子供からこそ許容される弱さや不安定さや攻撃性も、ストーリーを味付けする

若いキャラは、大人では世間を気にして取れない態度、本音、悔しさ、といったもの代弁者にもしやすい

今の日本の大人は特に世間というものに囲まれすぎてるから

最近アニメも、ジャンル萌えなんやらというものに隠されてしまっているけど、

ストーリー根本のおもしろさを生み出してるものは、大昔からあるものと大して変わってない

スポンサー意向で、主人公を~歳にしろ、もあると思うよ(おもちゃがうれない等)

あと単純に目の保養目的っつー話だと

人間ってもともとそんなに長生きじゃないから、昔は15歳で結婚とかしてたわけ

人間五十年、下天の内をくらぶれば~って言うしな

生物としては、高校生にもなれば生殖能力もあるから、そのくらいの異性に性的健康的な魅力を感じるのはおかしくないんだよ

結婚年齢がだんだん遅くなってるのは社会習慣による後付の効果

俺はロリコンじゃないから、別に16歳じゃないとだめはないけどさ

創作20歳超えちゃうと、もう誰かのものになっていていい年齢だから

そういうのがだめな人はいるんじゃないかなーって思う

逆に、ある程度年齢のいった登場人物に未亡人であるとか、結婚できない過去の理由をつけるとかすることで

魅力的なキャラにするパターンもあるよね

キャラおっさんでも、組織が巨大だったり敵が巨大だったりすると

同じようなおもしろさが演出されやすい(島耕作シリーズとか銀河英雄伝説とか歴史ものとかな)

逆に、主人公が非常に若ければ、なにげない日常でも主人公にとっては刺激的で読者にも心の動きを与える(よつばととかな)

http://anond.hatelabo.jp/20120404184648

某H社の事なら伝統から気にするな。

あの会社人間歯車から

朝出るときに灰皿を部屋の外に出したり、ブレーカーを切らないといけないのはデフォ

最近はさすがに冷蔵庫HDレコーダー類のタイマーのは免除されてるらしいけど

4人部屋とか6人部屋でないだけ良いと思え。

2012-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20120328111710

性格

仕事熱心な事と、好奇心の旺盛なのが、大きな特徴です。社会の仕組や伝統無視しないが、常に何か新しい物を探し求める性格です。斜めに構えた常識タイプと云えるかも知れません。貴方のようなタイプ場合は、意気込みばかりが先行して、整合性の有る行動力が伴って行かないと云う場合が少なく有りません。地味な努力を忘れないようにすると共に、興味本位で出しゃばり過ぎないように、注意する事も必要です。

恋愛結婚

貴方は恋人配偶者に対して、何時も賑やかに振舞い、相手がそれに従って呉れる事を望んで居ます。それかと云って、相手が貴方に輪を掛けた馬鹿騒ぎをする人では、又旨く行かないでしょう。貴方の批判眼は鋭いので、はしゃぎ過ぎの襤褸を見逃さないからです。貴方はかなり我儘なタイプなので、相手に対して何時も自分の意に叶うような動きを求め過ぎる嫌いが有ります。心すべきでしょう。

職業適性

職業の選択には困らないタイプです。大概の仕事は一応こなすのですが、性格的に最も適性の有る仕事は、独創性と表現プラス探求心が要求される仕事です。カメラマンデザイナー、芸能、芸術全般、企画宣伝業、美容師モデルその他です。堅くて地味な仕事では、貴方の本当の良さを、十分に活かし切れない恐れも多分に有ります

対人関係

自分のペースで動き過ぎる嫌いこそ有りますが、一寸行き過ぎ位が、貴方の持味なのですから、それはそれで良いのだと思わなくてはいけません。但し、失敗を他人の責任転嫁したり、真剣反省しなかったり、と云うような生き方は宜しく有りません。絶えず自省を繰り返しながら、尚かつ前向きに、どんどん突っ込んで行くと云う生き方が、貴方のようなタイプには、最も似つかわしいのです。

芸術全般を捨てて資格に走ったのが間違いでした。

人生やり直したいわ。

2012-03-26

君の中には自分が求めるものがなかった

今週の1位は、このところバラエティー番組にまで進出して、教育論をぶったりする、居酒屋チェーン大将の「不倫スキャンダルである

事の発端は、渡邉美樹ワタミ会長が、居酒屋で儲けたカネで03年に理事長に就任した、伝統高校「郁文館」(1889年創立)で起きた。

彼の側近だった「郁文館」の石田勝紀常務理事(41)が突然辞表を出して辞めてしまったのだ。

「実は昨年秋から石田さんは学内のある女性から悩みを打ち明けられていたのです。渡邉理事長と数年にわたって交際してきたのに、『君の中には自分が求めるものがなかった』と、たった一通のメールでフラれたという話でした。自分は単なる"性の道具"だったのかと、彼女は激高していたそうですよ」(石田から直接、事情を聞いたという学校関係者・「朝日」より)

この女性相談には、学校と取引のあったK氏なる人物も登場し、話は少しややこしくなる。K氏も数年前からこの女性プライベート相談に乗っており、昨年12月頃には女性精神的に追い詰められ、渡邉さんにケジメをつけるようK氏から働きかけてほしいと頼まれたという。そこでK氏は渡邉氏に「このままじゃタイガー・ウッズなっちゃうよ」とメールをした。すると本人から電話があり、直接彼女と話し合って、一旦は決着がついたかのようだったという。

元木昌彦の「週刊誌スクープ大賞」第41回

第1位「渡邉美樹ワタミ会長 禁断の『不倫』騒動」(「週刊朝日4月30日号)

http://www.cyzo.com/2010/04/post_4350.html

 

さすがワタミ

性の道具の減価償却方法を身をもって教えたのだね。

2012-03-23

なたの重さ

毎年毎年なたを持って子どもを脅す仕事をやっている。

大好きなこどもから、泣き叫び忌み嫌われる仕事だが、

まぁそれはいい。

問題は親の方。

こんな田舎伝統行事ですら、なんてことするんですか!?

と、怒り狂うモンスターピュアレンツが結構いる。

鬼の格好で謝るときまりが悪いか逆切れアピールをするんだけど、

そうなると警察が出てきたりする。

鬼も住みにくい世の中になってしまったなァ。

2012-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20120318232042

中国共産党独裁は勿論問題だと思うけど、

歴史を見れば見るほど、体制がどうであっても中国のあの残虐さや猥雑な民度拝金主義は同じだったんじゃないかと思う

歴史文化は素晴らしいけど要するに長いものの上澄みが素晴らしいのであって、酷い面もとんでもないからね

伝統文化遺物をたくさん破壊した文化大革命最近は悪く言われるけど、そもそも革命と大破壊虐殺こそ伝統だし


韓国尊敬できる部分や好感もてる部分が一切無いな

大韓民国にも民族にも

2012-03-16

共産主義の勝利

共産主義は敗北したと思われているが、それは大きな間違いである。世界に誇る偉大な共産主義国家は、依然としてそのひどく夢想的な理想を実現しつつある。東洋にあるその国では、

国民みな勤勉で、同じように教育され同じようにものを考え

情報は厳しく統制され、国民は総じてメディアのいうことをよく聞くよう訓練されており

政府の方針に批判的な人間さりげなく舞台から消えていく仕組みになっている。

「他の棒よりも突き出ている棒は、平らにならされるものである」という、その国に古くから伝わることわざ通り

誰かが突出して富を独占することは許されず、また、国民はそれぞれ誰かよりいい服を着ているということすら否定するために

その国でもっとも豊かなメインストリートでは、国民がみな同じように着るための味気ないデザインの安物の衣服が配布されている。

その国でもっとも人気のある芸能人は、頼まれもしないのに制服を着て、互いにほとんど区別のつかない容姿をしたグループである

その国の国民の多くは、霊や神の存在を信じることをせず唯物論的であり

その国で政治にさえ関わる「自称宗教団体は、死後の救いでなく現世利益を語り

文化古典伝統には深く興味をもたずその価値を認めず

むしろそれを積極的に破壊してやまない。

そして惜しむらくは、共産主義の多くの先達国家がそうであるように

その指導者層は外見的には品性を欠いており、本人たちはそれによって「庶民派」を装っているつもりではあるもの

実態は貴族のもので、おおむね世襲によってその地位を得ていることから分かるようにひどく腐敗しており

権力闘争にあけくれ、また、結託した商人たちとともに富を独占する存在である

しかし、それでも愛すべきその国の国民たちはその実態を直視せず

自分たちの国は世界に誇るべき理想を実現した偉大な国であるという自負のもと

実態はともかく制度としては一通りそろっている社会福祉医療制度感謝しつつ

なけなしの給金すら国債として投資し、「老後は国家が私の面倒を見てくれる」という幻想を抱きながら

たとえ国家に見放されても国家を恨むことなく、ひっそりと自殺する。


そんな理想的な共産主義国家が、東洋のどこかにあるらしい。

2012-03-07

靖国神社って、歴史も浅いし、伝統的な神道から乖離した存在なのに、

古き良き日本の伝統を愛していると言う人ほど、

伊勢神宮出雲大社より靖国神社の方が大好きなのはどうして?

2012-03-01

http://anond.hatelabo.jp/20120229232627

からさ、その見方、言い方が一方的すぎるという指摘だけで、それが間違っているとは言わないよ。

中韓海外訪問者って蝗の大群みたいなモノで、一カ所に大量に行くから、そりゃ目立つよ。

でもそれは有名観光地と、最近経済勃興地くらいだろ?

それに俺が書いたのは、本当に日本を追い抜いたのなら、もうそれ以上「追い抜いた!」と言う必要は無いだろ?てこと。

しか日本人はどうかっつーと、世界中のどこにも、本当に世界秘境と呼ばれているようなにも行くしいるんだよ。

日本人海外旅行に行って

「こんな所まで来たんだ、日本人なんて見たくない」と思ってもホテルから出たら日本人出会うのはよくある話し。

「まずテメーがいるだろ!」というツッコミ以前に、本当にいる。

小林信彦という作家が「つむじ曲がりの世界地図」というエッセイを出したときからそうなんだから

少なくとも1979年から

また日本学生運動が挫折して、海外理想国家建設の志に燃えて井戸掘りなんかボランティアしにいった

左翼学生がいて、これが1970年代前半。

日本人認知度は量で知られたのは、まぁ農協のツァー旅行だな。今の中韓と同じ。マナー問題とか。

けどそれ以前から日本人オソロシサ、少数精鋭は世界規模で知られている。

トランジスタラジオが現地で「sony」と呼ばれていた歴史なんか、今の若者は知らないかなぁ…。

1950年代日本人クラシック音楽家、楽団、指揮者欧米演奏に言ったら、歓迎されたけど

「なぜ日本人の貴方たちが私たちの音楽をやってるの?なぜ自分たちの国の音楽クラシック伝統邦楽)をやらないの?」

というチャレンジャー扱いだったんだよ…。

量より質、大衆より一定層という視点に立てば、日本人認知度は中韓なんて比べものにならない。

2012-02-14

http://anond.hatelabo.jp/20120214110424

白鵬ヤオやってねえよ

でもヤオやったほうがいいってのは同意

相撲ヤオについては余程酷くない限り容認すべきだけど

相撲ヤオを叩く奴等って普段相撲なんか見てない奴等だからなあ


はてなでも酷かったよね

ただのミーハー好奇心ちゃんならまだいいけど

日本の古い伝統・格式」「日本国技」を貶められるのが嬉しくて仕方ない!

みたいなアホサヨの手合いが大騒ぎ

普段から相撲見てる相撲ファンは「相撲は元々こういうもんだし国技じゃねーよ」と落ち着いてる

架空の格式相手にハッスルしてるサヨやリベラルの人相手じゃ

なんでヤオが必要なのか説明する気も起きない

もちろんやくみつるみたいなのも死ぬべきだが

2012-02-11

情報の値段:論文出版社学者ボイコット

2012年2月4日

The Economist

雪崩は、たった一粒の小石によって引き起こされることもある。

1月21日ケンブリッジ大学数学者 Timothy Gowers が、

長年に渡ってエルゼビア社の論文誌をボイコットしている理由について、ブログに書いた

オランダ本社を置く同社は、一流誌 CellLancet をはじめとする定期刊行誌を2000誌所有している。

ノーベル賞数学版とされるフィールズ賞を受賞した Gowers 博士は、この状況を望ましくないと考え、

今回のブログ記事が他の学者ボイコットに参加するきっかけになれば、と望んでいた。

実際、それが起こった。

Gowers のブログに感化されて、数学者 Tyler Neylon がオンライン署名サイトを設置し

そのサイトを通じて研究者2700人以上(訳注日本語執筆時点では5300人以上)が署名し、

自分研究をエルゼビアの論文誌に投稿せず、エルゼビアに投稿された論文を査読せず、エルゼビアの編集作業にも協力しない、と誓約した。

その数は、数学者表現を借りるならば、指数的に増大している。

実効性をともなっていくとすれば、大出版社にとってこれは、革命をつきつけられたようなものである

Gowers 博士による非難は3点に集約される。

第一点として、エルゼビアの製品の料金は高すぎるということ。

第二点として、論文誌の「抱き合わせ」が広く行われているために、図書館はある論文誌を購読しようとするとき、興味のない他の論文誌もセットで買わなければならないこと。

第三点として、公的資金による研究に対して政府フリーアクセスを要求することを禁じる法案(たとえば米国議会で審議に入る Research Works Act など)を支持していること。

エルゼビア側によれば、これは誤解を招く言い方だと言う。

同社の経営状態はよすぎるほど良好なのは確かだ。

2010年には、20ポンド収益に対して7億2400万ポンド11億6000万ドル)の利益を得た。利益率は36%。

しかし、同社の Director of global academic relations の Nick Fowler は、

購読料水準は業界の平均であり、ここ数年の値上げ幅は他社より低いとしている。

Fowler 博士によれば、人もうらやむエルゼビアの利益率は、同社の効率的経営の結果以外のなにものでもないという。

Neylon 博士による動議は、より広い文脈での学者出版社の衝突の表れのひとつと見ることができる。

その衝突は、オンライン出版の台頭によって、ますます鮮やかに描き出されてきた。

学者情報の自由と流動性に重きを置く文化に属しており(そもそも論文の査読と編集を無償で行っており)、

商業出版社との付き合いには、これまでも難渋してきた。

出版社情報へのアクセス課金して利益を最大化しようとする組織であり、

同時に権威ある論文誌の(すべてではないにしろ)ほとんどを掌握しているかである

一触即発の状況は長年続いていた。

2006年には、 エルゼビアが出版する数学論文Topology編集委員会の全員が、アクセスの囲い込みと料金高騰への懸念を表明して辞任した。

ドイツ出版社シュプリンガーによる論文K-theory編集委員会2007年に解散した。

多くの人は、ことが荒立てられるまでにこれほど長くかかったことに驚いている。

学者インターネットもっとも早く取り入れた人々であり、

出版社をそのサイクルから追い出すことができる環境は十分に整っていた。

実際、商業出版代替物をつくろうとする動きは何度か起こった。

コーネル大学ウェブサイト arXiv (X はカイの音のギリシャ文字を模しており、「アーカイブ」と発音される)は1991年にできた。

研究者は、まだ論文誌で出版されていない物理学論文をそこに投稿することができ、

日々数千件を越える論文投稿されている。

Public Library of Science (PLoS) は2000年にできた。

そこでは生物学医学の分野でフリー論文誌が7誌出版されている。

こうした動きへの熱意があったにも関わらず、伝統的な出版社の支配が続いたことには理由がある。

arXiv論文は、公開後に容赦ない批判にさらされることは確かなものの、投稿前に正式なピアレビューは行われない。

したがって品質はまちまちである

PLoS は一部を寄付金でまかないながらも、論文1件あたり2900ドルの掲載料を課す。

これは著者の負担となり、金策に悩む大学にとっては無視できない金額である

少なくなりつつあるとはいえ、電子版のみの出版に対する偏見もある。

ウェブ出版は紙よりも権威が低いと見なされがちなのである

こうしたことが重要なのは大学と個々の研究者が、出版した論文の数と掲載された論文誌の名声に応じて評価されるからだ。

ともすれば新しい道具に挑戦することが期待される若手研究者は、その前に既存権威ある論文誌で出版しなければならない。

さもなければ、発言力もなく昇進もない。

そして、新しい論文運命を決める力のほとんどが権威の高い論文誌にあるために、「権威」の定義は少しずつしか変わらない。

商業出版社は、たとえば読者ではなく著者から料金をとるなどといったオープンアクセスアイデアを試そうとしている。

しかボイコットが広まっていけば、ことは急激に進展する可能性もある。

けっきょくのところ、学者出版社を必要としている以上に、出版社には学者が必要なのである

突然失脚する直前まで、えてして体制側は無敵に見えるものだ。

来たる学術の春にはご用心を。

2011-12-19

http://anond.hatelabo.jp/20111219174938

同意

容姿に触れるのは災いの元という伝統があるのに

増田のクソみたいに積極的に触れたがるキチガイ

問題。

容姿に触れる系はご法度だろ

そんなの日本暗黙の了解。ところが最近日本は顔のことをめちゃくちゃ言い出したから色々な犯罪が起きてきた。秋葉原事件だって犯人容姿を気にしていたときネット掲示板の書き込みが逆鱗に触れて無差別殺傷を思い立った。容姿のことは言わないのが日本の暗黙の正義なのにその伝統が崩れている。増田にいるような悪が伝統破壊しているだけ。悪は根絶やしにすべき。

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