2012-05-16

小学校は、パーフェクトペアレンツを前提とした「愛情確認授業」を止めよ

 モンスターペアレンツが、自分の娘にDQNネームを名付け、

 その娘が小学校入学したが、

 「自分名前意味を知りましょう」という授業を受けて

 「自分名前意味がない」ことを知り、ショックを受け、

 それを知ったモンペが

 「マトモな名前を付けた親に逆キレする」という話が、はてなブックマークにあった。

  http://gasoku.livedoor.biz/archives/51908606.html

  この話の真偽については、一部「ネタじゃないか?」との意見があるが、

  一応事実であると仮定して話を進めるが、

  そもそもこの手の

  「自分名前の由来・意味を調べましょう」という小学校の授業自体に、

  問題があるのではないか

  この授業の前提としては

  「親は、子供のことを考えて、最高に意味のある、最高の愛情を込めた名前を付ける」という

  「素晴らしき親」「パーフェクトペアレンツ」が前提になる。

  しかし、クラス40人の中で、1人くらい、いや数名くらい、

  「適当名前を付けられた」というケースも、あるのが普通では?

  言い方を変えれば、「40人の中で、パーフェクトペアレンツでない親が数人程度いる」のである

 

  本人は「パーフェクトペアレンツ」である意識していても、傍目には

  「全然パーフェクトペアレンツじゃない」というケースも同様。

  まさにモンスターペアレンツDQNネームの親なども、それに該当。

  しかし、今の小学校の授業は

  「皆が皆、パーフェクトペアレンである」という「神話」を前提として組み立てていて、

  それゆえに

  「パーフェクトペアレンツの無償の愛を子供体感させる」という授業がなされる。

  「パーフェクトペアレンツの無償の愛を体感させれば、子供情緒プラスになり、

   パーフェクトチャイルドになる」という目論みなんだろうが、

  この授業計画は、パーフェクトペアレンツでない親が混ざっている時点で、見事に破綻する。

  その場合、後に残るのは

  「パーフェクトペアレンツ(とその子供)による、ノンパーフェクトペアレンツ(とその子供)への差別イジメ」だけである

  

  最近流行りの

  「10歳になったときの、2分の1成人式」も同じ授業展開。

  「親の愛情子供に取材させて、体感させる」という授業展開だが、愛情希薄場合

  あるいは愛情をうまく伝えられない親の場合、授業計画は破綻する。

  で、

  「お父さんお母さん、いままで僕を愛情一杯に育ててくれてありがとう」と子供に語らせるのが

  この手の授業の「予定調和的展開」であるが、これって保守トンデモの「親守詩」と、

  やってることが何ら変わらん。

 

  いい加減、

  「パーフェクトペアレンツっぷりを子供体感させる授業」は、止めにしてはどうか?

  現実世界は、文部科学省教育委員会が期待するほど、パーフェクトペアレンツは多くない。

  そもそも、「古き良き日本」では、結構子供はいい加減に命名されていた。

  一番目の子供だから太郎」、二番目だから「次郎」、てな感じ。

  女児の命名なんか、もっとヒドイ。

  「もう子供なんかイラネ」「男児が欲しかったのに、女が産まれやがって」というホンネを隠さずに、

  おおっぴらに「トメ」とか「ステ」と命名されていた。

  これは現代インド女児命名も同じですね。

   

  突飛な仮説だが、

  「名前に親の愛情が込められるべき」という思想は、

  ゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」のヒットに起因するような気がする。

  あの歌以降、「●子」のような伝統名前が減って、個性的名前が増えた気が・・・

  • 事前にわかっていれば、手を打ってくれるところが多いよ。 たとえば、お母さんのなんとか、という課題の時 お父さん or お母さん がいない子がいる > ご両親どちらかの 両方いな...

  • 「愛情を受けていない」ということを否定するんで無ければ それはそういう事実を確認出来たってことで良いんじゃないの。 「愛情を受けていない・与えていないからあの家族は駄目だ...

記事への反応(ブックマークコメント)

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