はてなキーワード: 伝統とは
土曜の夕方に届いて、ほぼ一日使ってクリア。
良かったところ:
伝統を踏襲しつつ、新たなギミックを加えて、プレイヤーを飽きさせないよう工夫がなされている。
今作はいろんな仕組みでコインが取れ、大量に取れるところは爽快感がある。
特にゴールドファイアは爆発の範囲が広く、チート級だがそれが楽しい。
ステージを越えて持ちこせないのもうなずける。
しっぽマリオのPバーの貯まる音は懐かしすぎて感動。
残念だったところ:
「目指せコイン100万枚は目標高過ぎ」今作のマリオはゲーム中に手に入れたコインすべてを通算でカウントする。一通り終えた(プレイ時間約10時間)時点で約3万枚。百万枚には単純計算で後300時間必要だ。そこまでやってられない。コインラッシュをほとんどやってないので、そっちで多く稼げるのかもしれないけど。
「ラストの作り込みの細かいところが残念」ラスボスは毎度の如く第二形態があるんだけど、第一形態から第二形態へのデモが1分くらいかかる。ミスをしてやり直すたびに、そのデモを見せられる(スキップ不可)。3Dランドみたいに5秒程度ですぐ復帰が良かった。また、ラストステージ+αにて、定期的に画面の背景が白くフラッシュする演出があるが、あれは目に痛い。
「さすがにマンネリ化」新しいギミックは本当に楽しんだけどその一方で、Newマリオ1からほぼそのままの移植も多くみられた。特にステージBGMはアレンジが加えられているとはいえ、Newマリオ1のがほぼそのままで用いられている。FCのスーパーマリオブラザーズから30年近く。さすがにネタギレしてきたか?
不満も長くなったけど、全体的には満足。3Dランドを星5つとするなら(個人的にも星5つ。もちろん5段階評価で)、Newマリオ2は星4つといったところ。
以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、
文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。
産経の記事によれば、
橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース
同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。
記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。
公開されたメール記録から。池末浩規参与の3月24日付メール。
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化・芸術に関する補助についての委員会(名称未定)により決定する。
③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。
ただし、同じく池末参与の6月5日付メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)
文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります。
文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。
→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。
そうなると若手育成も国では?
→本来はそういうことになります。
また若手育成について、国 と地方の役割はどうなのでしょうか?
→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪も奨励金を出す考え方もあるかもしれません。
市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。
文楽は伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実は文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。
文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。
そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。
こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。
例えば歌舞伎演目のコピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。
またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトにコンパクトにまとめられている。
その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家の人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。
昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場の舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。
この反響の大きさに驚いたのが、本家の文楽座である。人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹の大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲を担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである。
よく復曲といわれるが、昔通りの演奏曲復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七のコンビ、主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。
これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人、ハムレット、テンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書の福音書物語を文楽で、といった試みまである。
つまり、文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。
したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである。
しばしば、歌舞伎や落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。
まず、文楽は音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎の竹本葵大夫さんが軽く書いている。
人形芝居で創りだした演目も歌舞伎に流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中のお召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。
今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。
もちろん実力の裏付けがあってこそで、
ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎の演目に文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本が演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。
ということになる。
葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃は皇室と関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣いの吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年に松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき、松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。
繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。
しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか。
また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。
義太夫節の構造そのものは簡単で、決まったメロディーのパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。
ところがそう簡単にいかないのは、文楽の古典の場合、演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。
以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうものを継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。
やや話がずれたかもしれないが、たしかに落語や歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽の場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。
この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。
大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュース・マネジメントが必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。
ただし、それには一定の限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。
音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育がほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。
一定の限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。
つまり、観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。
私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目は文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。
そこで西洋音楽と比較した場合、文楽に匹敵するものはワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。
それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。
その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。
ただ、一方で、ヨーロッパのオペラにしろオーケストラにしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっともなのだ。
文楽に匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去の歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人がワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないからワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナーはドイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。
大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。
彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉だけが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。
ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術の価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)
現代の大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。
そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。
それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽は文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。
もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。
もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミングで文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財や世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか。
そして同様のことは、なぜ国が補助金を文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。
予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しかも大阪の場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄なプロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長は文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。
日本の偉大な芸術、しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本の市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。
(追記)
これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。
したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。
また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki
友達に新聞配達始めるよと言ったら「職業に貴賎はないけど・・・」って言われた時は聞き流してたけど、その時の僕はまだどれだけブラックか理解してなかったのです。
新聞配達所いくつかに適当に電話。Y社とA社は間に合ってるよと拒否されたんで、3番目のM社に電話すると即刻面接へ進むことに。
面接して即刻合格。とにかく受かりやすいイメージがあったので、この時点ではなにも思わず。
カッパとヘルメットは配布、新しく買い替える時は各自の負担だそうで。
2:30に新聞配達所に着くようにバイトを始める予定だったけど、伝家の宝刀初日寝過ごし。
3:22ごろ到着。
配達のバイトはまず到着したらタイムカードを切り、チラシを新聞に挟み込み、バイク(or自転車)に積み、配達し、帰ってきてタイムカードをまた切ってお疲れ様でした。
まずはバイク、スーパーカブに乗る。オートマの原付に乗るのは初めてだったんで楽しかった。
先輩について行くだけで、初日はとくにぼくが直接配ることも順路表(配達する家が記されてる紙が束ねられてて伝統的なクソIF)を見ることもせずとくに疲れもせず終わり。
6:00ごろ解散。明日もがんばろう。
2:20到着。貴重な新聞搬入シーンを見る。続いて新聞にチラシを挟む。暇ができたんで新聞ヨミヨミ。
3:30 指導担当の先輩到着。なんと1時間遅刻。大丈夫かコイツ(ブーメラン)。
3:50 出発。「今日は順路表を見ながらやっていこうぜ」(先輩精一杯のドヤ顔)(震え声)
片手で順路表を持ちながら運転したんで体力と神経の消耗が激しかった。しかもガス欠で途中で押して帰る。
5:50 配達所に到着。昼から空回り(明るいうちに回って家や入れる新聞の種類を確認すること)を行う約束をする。
17:10 配達所到着。バイト条件の詳細をもらう。そこで衝撃の事実を目にしたのです。
研修中時給換算664円。職業に貴賎はないけどって言われたのはこのためか。
通常の時給も896円で、2:30~5:00は深夜料金換算のはずなのに、足元見られてる。我が県の最低労働賃金に深夜料金を加えたものをわずかに下回ってたのよ。
20:00 頭痛のため明日(7月X+2日)休みますごめんねテヘペロと電話。辞めたいけどまだ言えず。
12:00 先輩から、今から空回りしよう!な!とラブコール。まだ外出できるレベルじゃないと言うと、お前の家に行くからな!と言う。恐怖を感じる(not ケツに)。どうやら温厚な先輩の逆鱗に触れたらしく、態度が豹変する。ヤクザかお前は。
お前これからどうするねん、なにかすることあるんか。続けられるのか。
この程度で弱音を吐くレベルのため、今後も続くかどうかはわからないと返答。
話の流れで、バイトをやめることに。
13:00 先輩から電話。最初に配布したヘルメット、カッパを返却してくださいと。どれくらい働いたらもらえるのかのしきい値が気になりますね。
ニート最高(^O^)v
http://anond.hatelabo.jp/20120704205323
だから、城下町の武家屋敷地域を除けば、農村地帯は全域が部落地帯。単に士農工商の農民しか住んでなかった集落のことに過ぎないから、いわゆる被差別部落の部落とは全く違って補助金なんて当然出ない。部落という言葉はありふれて誰もが馴染んでいる日常用語だし、それ無しではどんな社会生活も成り立たない。小中学校時代も全員が部落の子供達だから、部落差別問題は教育として取り上げようがなかった(子供が変な勘違いしたら大変なので)。
なのに近年、関東以西の部落差別問題のせいで、東北の部落まで名称変更をさせられて非常に面倒。
「ここから〇〇部落」の道路標識は一枚も余さずことごとく「ここらから〇〇町内会」に建て替えられた。老朽化していた訳でもないのに何故わざわざそんなことするのか。県庁と教育委員会の人達の話を聞いたら、他の地方の人達が持つ部落意識への対策ということだった。東北の部落に部落問題の差別は無いとアピールして全国に浸透させる労力よりも、自分で自分の名称変更する労力の方がまだ少ないと判断したらしい。東北の部落は被差別部落では無いというアピールは、それこそが被差別部落に対する差別になるからできないし。
お陰で、あらゆる行政や教育や市民活動で、部落消滅のための名称変更が大進行中だ。「〇〇部落」と書かれた古くから伝わる記念碑や神輿も「部落」のところだけ修正された。「〇〇部落PTA」と書かれた交通安全旗とかも回収。今まで全部「部落」で習慣的に統一されて便利だった呼称が、何の決まりも無くバラバラに、一部は町内会と変更されたり、また一部は地域や地区と変更されたりしている。全くもってゴチャゴチャと名称乱立でみんな大混乱。「消防団の場合は〇〇部落が〇〇区域になったんだっけ?〇〇町内会?何だっけ?」と書類書くのもいちいち新名称を確認しなくてはならないので面倒臭い。そもそも、部落差別なんて過去の遺物になってるであろう今の時代にガンガン推し進める必然性なんてあるのか。それに何より、これらの名称変更には、税金だったり部落の共同出費だったりして相当に無駄金がかかってる。
そんな訳で、どこかの意識の高い人達が部落差別問題と騒げば騒ぐほど、差別を無くす教育よりも、部落は差別対象だったという知識の方が広まって、今まで差別なんて無かった関係ない東北の部落までもが差別対策をすることになってしまっている。余計な金払って伝統的名称を排除した挙句に大混乱で、こんな面倒な羽目になってとんだとばっちりだ。
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
細かいことは直に読んでもらえばいいので特に言わないが、少し書いておきたい。
最初に、市長とその周辺の人たちが何を考えているのか、手短にまとめておきたいと思う。
まず、大阪府市の負担軽減を視野に入れた、文楽に対する姿勢の見直し。たとえば橋爪紳也顧問が、
と書き、あるいは池末浩規参与も、
大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく、市が出金するとすれば、それは市民や来街者、観光客から見て魅力になっているような文楽に、必要かつ可能な範囲で援助をするというものになるはずです。
と書いているように、大阪府市としては文化保護名目での補助はしない、ということだ。(ただし、国が負担を認めるまで育成費用の補助4000万程度は出すそうだ)
そして、
再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する
と参与も書いているが、観客動員に一定の目標をおき、その達成のためより効果的なプロデュース・マネジメントが必要であるからそのために改革をしようとなる。
この点については実は私も同感で、文楽を全体として統括的にマネジメント・プロデュースすることができてないのではないかという不満は以前から感じていた。それに、どうしてもお役所仕事なのでスマートとは言い難く、大阪弁で言えば「もっちゃり」した感じにならざるを得ない。
さらに技芸員の意識改革を促している。旧来の殻に閉じこもっていてはダメではないかというわけだ。「意識改革」の具体的な中身としては、ミニ公演などのプロモーションはタダでやるべきなんじゃないのかとか、もっと観客の声を聞くべきだなどなど。
あるいはメールで技芸員の公務員化について触れられているのももっともなところで、たぶんこの辺りの感覚は長年のファンをやっている年寄りなら分かると思うし、東京歌舞伎座近くの某所で同様の会話をして嘆きあったりもした経験が私にはある。
つまり、全ては、
今回橋下市長のリーダーシップのもと、文楽は「無形文化財として淡々と維持する」(旧来の考え方)ものから、「再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する」(新たな考え方)というものにシフトしようとしているところです。
という参与の意図に集約されるのであって、これは賛否様々な意見があるところではないか。
私は、過去、文楽劇場に足しげく通い、図書閲覧室へもよくお邪魔をして勉強させてもらい、職員の方々にも大変にお世話になった経験を持っているけれども、文楽に関しては非常に悲観的な立場をとっている。
文楽はもうすぐ死に絶える。事実、文楽協会ができたころ、「文楽という芸は苔むした立派な梅の古木のようなものであって、じきに枯れる運命だが、無様な姿で枯らしてしまうのは忍びない。だから、せめて姿かたちはそのままに美しいまま死んでもらおう」という発想が背景にあったように記憶している。
文楽というのは本当に維持が難しい事業で、語り一つとっても、過去と現在でこれだけ音楽環境が変わってしまうと、語りを成立させる音感がまるっきり違ってしまう。成長してから訓練でどうにかなるレベルの問題では、おそらくないはずだ。もちろん、浄瑠璃を理解するための前提知識なども違う。
だから、近い将来、死亡宣告を言い渡す時期がくるし、税金を投入するならなおさら、本物・本格の保存が不可能になったときに、とっとと文楽の維持なんぞやめるべきであり、それこそがこの偉大な芸の先人たちを辱めない、唯一の道だと、私は思う。
その意味で、安易に文化を守れ伝統を守れと言ってみたり、反橋下の立場からついでに文楽を守れと言ったりする人たちとは、私は全く異なる。税金を投入する以上、真に偉大な芸としての文楽の古格が維持されなければならないし、それが無理なら文化だろうが伝統だろうが、潔く捨ててよい。今に生きない伝統など意味はない。本当に感動的な人形浄瑠璃は、過去の記録映画となって保存されている。無意味に惜しむ必要も必然性も、どこにもない。
逆に言えば、まだ今の年寄りの技芸員が生きている間、なんとか細々とでも古格が出来ているならば保存するべきであって、それは与えられたミッションが達成されているとして認めればいいんだろうと思う。
観客が入るか入らないかは、この際どうでもよい。文楽は昔から客の入らない芸で、貧乏話極貧赤貧エピソードに事欠かない。問題は本格ができるかどうかだ。それに尽きる。
そこで、大阪市のプロジェクトに話を戻すと、これをそのままやると、もちろんマネジメントの改善など賛成できる部分もあるのだけれども、人形浄瑠璃の中身そのものに大きな影響を与えると思う。
ある大物タレントさんが、これまた大物歌舞伎役者に歌舞伎に誘われて歌舞伎を観に行きましたが、つまらない、分からんと言ってすぐに帰ったそうです。その歌舞伎役者さんは、この大物タレントさんにどこがつまらないのか、どこがダメなのか必死になって聞き出し、これまで自分では気付かなかった新たな視点での指摘事項を改善しつつ、歌舞伎の面白さを説き続け、誘い続けたそうです。この大物歌舞伎役者さんは、観客からの厳しい指摘が公演を面白くする一番のカギと言われています。
全くその通りで、歌舞伎ならこれでいい。だから歌舞伎はどんどん変質していった(いっている)し、古格を守ることはそもそもできず、またそれで構わない芸能だという一面がある。
わざわざ語り手である太夫と三味線弾きの前に毎日座る客というのが大昔はいた。誰が出てきてもとりあえず批評批判する怖い客として知られ、しかし語り手も三味線もこういうお客を大事にしたらしい。
今でもこの種の客気質は、こと大阪の年寄りに関する限り健在で、今の源太夫が綱太夫のころ、あるお爺さんが私に、
「織太夫でまだ若かったころは将来どんなもんになるかと思てたけど、綱太夫はホンマあかん。感動がないわ」
と言い、また、文楽の人間国宝としてたびたび言及される住太夫についても、
「もう限界やっちゅうのは本人がよう分かってるやろ、あの年やし」
と言いきっていたものだ。あるいは別のお婆さんは、
「綱太夫の発声は変や。高音に行くと喉がつまってくる。あんな語り方はあらへんよ」
とばっさり批評したものだった。ちなみに、この綱太夫はその後人間国宝になってしまうわけだが。
そういう厳しいことをいう熱心なファンがいたからこそ、この芸に携わる人たちは鍛えられていったわけだ。
しかし、そういう耳も目も肥えた客の厳しい意見と、観客動員を増やすための批判は異なる。観客動員を増やそうとすると、中身が変質して古格が維持できなくなるのは、火を見るより明らかだ。そこで上演されるものは、300年続いてきた人形浄瑠璃ではない、何か別のモノだろう。
実際のところ、今でも中身は変質している。例えば、もっとも重要な場面を語る「切場語り」を今やっている人たちのあと、一体だれが後を継げるのだろうか。おそらく、有資格者は誰もいない。
あるいは、今は文楽を「見に行く」というが、そもそもは「聴きに行く」ものであった。人形浄瑠璃と単なる人形劇は違うが、視覚の刺激に慣れた現代の観客にとって「見る」を重んじた方がはるかに分かりよくなっている。
その他、細かい部分で古格と言えるものが本当に継承できるのか、できていたのかどうか、はなはだ疑問だ。
とはいえ、それでも歌舞伎とは比べ物にならない程度に本格の古格を守って来たのが文楽であって、それはかつてある歌舞伎ファンが文楽を見て「古いのが残っていていいなぁ」と言ったように、もう比較にならないと思う。
そこに、この大阪市のプロジェクトとなると、人形浄瑠璃は完全に変質してしまう。本当に守るべき古格は、もうどうでもよくなってしまうだろうし、決定的に死んでしまうだろう。
と書くと、やや刺激的かもしれないが、なんのことはない、文楽の死なぞ最初から知れたことであり、それがちょっとばかり早くなるに過ぎない。「苔むした立派な梅の古木」がもう枯れると、知れ切っていたことなのだ。
このプロジェクトを書いた池末参与は善意に違いないし、文楽の再興が魅力ある観光都市としての大阪にとり大きな資源だと考えているはずだ。また、文楽に携わる人たちも、継承にはチャレンジや変化が必要だとする人たちも少なくないだろう(私は、文楽がいろいろなチャレンジや、同時代に観客に受け入れられる努力もされてきたこともまた知っている)。
よく分かる。
もしこのプロジェクトをそのまま実行するならば、人形浄瑠璃・文楽という看板は取り下げてもらいたい。
300年続いた本当に偉大な、世界のどこにも負けない本物の芸は死に、何か別の人形劇、「文楽のようなもの」が続いていくことになるだろう。そこで「人形浄瑠璃・文楽」の看板を掲げることは、ウソだし、なによりも文字通り命を削ってこの芸に打ちこんできた偉大な先人たち、まさに大阪の先人たちに対する侮辱に他ならない。
この人形劇を観光資源としてどう活用したって構わない。だけど、文楽はもう死んだことを認めてほしい。いや、認めるべきだ。そうして、過去のものとなった文楽の真の偉大さだけは、せめて守ってほしい。それだけが、せめてもの私の小さな希望だ。
(追記)
以下は私のTwitterアカウントなので、もしご意見などがあれば、ぜひ遠慮なく私に書いていただきたいと思う。文楽は私にとってただ好きというだけでなく、重いものでもあるから。
https://twitter.com/#!/SignorTaki
自分がやっている弓道は、人類が生み出した武器の原型の一つである弓を扱うこともあり、大昔からの積み重ねが生きている・・・と思っていた。
ところが調べてみると、いわゆる現代弓道は、それまでの諸流派のごった煮に過ぎないことを知った。
大雑把に言えば、日本で最も普及している正面の射法は、行射は本多流、体配は小笠原流が概ねベースになっているらしい。
勿論弓懸のチョイスや取り矢の有無、身のこなしを「初心者のうちはそれでも構わない」とされる容易なやり方で良しとしているといった、細かい違いはあるみたいだけど。
しかし本多流は日置流尾州竹林派の射法をベースに、明治年間に生み出されたもの。したがって、現代に至るまで最低でも数百年の人智が生きている他の流派に比べて、本当に体育学的・実用的見地から理に適っているのか、素人考えながら非常に気になるところだ。
また体配は小笠原の男子の作法を、女子にも適用する形になっていると聞く。そりゃ女の弓引きなんて昔は皆無だったから、女向けの弓の作法がそもそも存在しなかったという意味では仕方ないんだろうけど、作法としては不自然な気がする。
そういう事情を汲むに、とても「礼射と武射の融合」なんて高尚なものではなく、むしろいいとこ取りをしたつもりが中途半端で意味不明な結果になっている、まさしくごった煮と形容せざるを得ないというか。
これは弓矢が昔ながらの竹製じゃないから味わいに欠けるとか、斜面の射法をやたら珍しがるとか以上に、根本的な問題ではないかと思う。
そして皆、意外にそのことを知らず「昔からの伝統が・・・」などと言っている。
本当にそれでいいのだろうか・・・。
例えば、春画。普通の小説や昔の教科書で全裸の女性が川で洗濯する場面で、木の陰から男性が覗いてる絵があります。また普通にセックスしてる絵のついた児童書もあります。
またその関連で、韓国で伝統的衣装とされている「チマチョゴリ」がありますが、昔は乳房を露出してぶら下げてました。今は何故か(笑)現在の民族衣装に統一してます。
あと、地図測量の話で、実は日本の陸軍測量部が正式な地図を作成するまで非常に歪な測量の元作成された用紙を四つ繋げたものが昔の朝鮮図絵でした。
あんまり言いたくないですけど、韓国が毛嫌いしてる日本に皮肉にも文化を矯正され、それを公式の文化として持ち歩いています。
また、レイプ文化で有名なのがベトナム戦争において韓国軍によるベトナム人女性集団強姦事件が発生しており、これはいつまで経っても謝罪していません(ちなみに戦争における強姦世界一の称号を持ってます)。韓国の国技ですから謝罪する必要がないのかもしれません。
レイプ文化は恐らく韓国固有の文化なのは世界のだれもが認める事実だといえます。最近ではレイプが死姦だったり枕強要だったりとバリエーションが増えてます。韓国人は否定していますがなかなかツンデレ屋さんのようです。
本質は、食っていけるかどうか、生きていけるかどうかでしょ。
資源とかエネルギーとかにたっぷり頼らないと生きられないと思い込んでいるのもおかしい。たとえば、同じ電力量でないといけないとか思っているのも明らかにおかしい。
生きていくために必要な技術ならばつづくし、不要ならば淘汰される。それは、先端技術だからどうというわけでもなく、伝統技術だからどうということでもない。生きるのに必要なものであると見いだす能力がうちらにあれば、伝統工芸だろうが基礎技術開発であろうが廃れさせずに打ち込み続けるだろう。
カネとかコストとかいうものは、道具である。手段にすぎない。それなのにいまの連中は、手段を目的ととりちがえている。とことん馬鹿だと思う。社会的な仕組みとか、経済システムとか、「常識」とか、教育のあり方とか、構造的に破綻している。
近代的工業部門と半封建的零細耕作との対比,生産水準と生活水準との離反,あるいは伝統的文化と西洋文明との融合せざる共存,等の指摘の中に,二重構造の発想はすでに存在していたといってよい。しかし,二重階層的構造という用語をはじめて用い,人々の関心をこの方面に向けた最初の人は,有沢広巳であるといわれている。雑誌《世界》(1957年3月号)に掲載された論文の中で有沢は,神武以来の好況にもかかわらず,低賃金・低所得層がますます増えている事実を強調した。そのため,彼の議論全体には,二重構造の解消をきわめて困難とみる悲観的展望の色彩が濃厚である。だが,第2次大戦後の高度成長過程を通じて,規模間賃金格差が急速に縮小し,低所得者層が減少に向かったことは,今ではよく知られている事実である。
俺もひどい鬱で会社辞めたんだ。
鬱だったのは前からだけど頑張って大学院行って就職したけど辞めた。
んで病院行ってから薬貰ってるだけじゃ治らないって思って、色々調べてから初めて、
要はしっかりしたカウンセラーに、君の全てを肯定的に、安全に受容してくれる人に、
じっくり話を聞いてもらう機会が必要なんだよ。で、そういう人は探すの大変なんだけど、確実にいる。
出来ればそういう臨床心理の人を見つけて欲しい。言っとくけど医者は心理の人じゃないから色々
話を聞いて貰おうとするのはやめときな。そういうのができるのは所謂カウンセラーなんだ。
まあ、増田が客観的にいくら恵まれていようと、幸せを感じられるかどうかっていうのは
増田の主観が全てなんだ。特にこの国は、個人の主観は伝統的に重視されない社会だから
色々言われるのは無理もないけど、自分で立場的に幸せだとか、甘えてるんじゃないかとか思い込むのはやめときな。
寧ろ後述するけど、増田には安全に安心して甘えられる存在が必要だと思うよ。
「~は甘え」ってのは俺の嫌いな言葉なんだが、あれは正常な甘えを受けてきた人間が言える言葉なんだ。
増田はここまで主観的な言葉をため込んでいるってことは、不特定多数の人間に甘えざるをえないほど、
身近に弱音を吐いたり、思った通りのことを言っても否定せずに聞いてくれる人がいないってことなんじゃないかな。
一番端的に言えば親だね。正味な話親くらいしか子供に本当の意味で甘えさせてやることができない存在なんだが、
どうもそうじゃないんじゃないだろうか。
河合隼雄とか、斎藤学とか、精神分析の関連の本とか色々読んだけど、
増田みたいなケースは珍しくない。「死にたい」ということでしか、
生きたいという気持ちを表せられなかったっていうケースも読んだな。
そういう本を読んで、増田みたいに答えが無いけど考えてしまうような問いをもってしまう人にたいして、
真剣に向き合っている人がいるってことを知った。出来るなら諦めずにそういう問いを突き付けても
一緒にかんがえてくれる人を探してほしい。
あと、なんか好きなことやれよってコメントあるけど、
そんな簡単にすむ話かよって俺なら思うね(笑)
勿論それでリフレッシュ出来ればいいけど、それは正常な心理の場合だ。
社会に対して恐れを抱いたり、他人の言動が気になったりする人間が
純粋に自分の好きなことをして開放的で自由な気分になれるとは思えない。そこも繋がっている。
そういうのを少しずつ改善していけるのは人とホントの意味で繋がりを持ててからなんだが、
そこまで重くて深い問いをもってしまって抜け出せないなら、それに耐えられるだけ
今夏、数年間勤めた広告業界から他業界へ転職することになり、しがない中小企業だったけれども仕事を通じて大手との交流もあったので、誰得だしもう関係が無くなるのでテキトーな事を言うが、感じた雰囲気をまとめてみる。
とにかく体力、とにかくコミュ力。有名大学運動部の部長クラスも多い。会社を挙げて富士山タイムトライアル。もちろん取引先へは登頂記念に絵葉書を出しましょう。
平日のほとんどは遅くまで仕事、深夜まで飲み、タクシー帰宅。契約社員も終電帰宅。会合では男も女も伝統的に一気飲み。飲んでは吐いて、飲んでは吐いての繰り返し。
ギラギラピカピカしていて上には絶対服従だが、中身は純粋筋肉バカでかわいい奴もいる。でも同業他社とあまり喋ってはいけなかったり。
なんだかお坊ちゃまとお嬢さま。
理屈で考えたり、文化に造詣が深かったりする人の率は高め。なぜかぼんやりしていて翌日一同謝罪レベルの大きなミスを引き起こす率も高め…。
D社よりは色んなタイプの人がいる。お客さんとのやり取りは受け身で、うまくコントロールできないイメージ。
純粋に広告好きな人が多いイメージ。ときたま業界のワークショップなどに参加したり、意識の高い人を見かける。コミュ力その他に特筆すべき所は見当たらない。
いわゆるマーチ出身も多く、仕事のできる人からおばかさんまでピンキリ。そのため、頭からつま先までおばかさんな人が上司になる場合も多々あり注意。トップは基本的に本社出向なのでやる気に乏しい。最近耳にするのは、30代以下の離職率が高いこと。
より一層のピンキリ。何から何まで自分一人に任されることもしばしば。仕事をうまくまわし、小さな中で上の役職に就いてブイブイいわせている50代もいるし、現場で長いこと仕事をし、名物おじさんとしてキャラが立っている50代もいる。社風がマターリならば自分で仕事を調整して更にマターリすることも可能。上の人の頭の古さには注意。
元増田です。
マジレスするなと書いたのは、「農家はそんな甘いものでは~」「そんな甘い気持ちで仕事やめるやつは~」的なお説教とか論争みたいなのはいりません、
って意味なので、増田さんのように現状を教えていただけるのはとても嬉しいし興味があります。
トマトトーンはホームセンターにも売ってるし、家庭菜園やってるだけのド素人ですよん。
そっか、ハウスか。
近所の路地栽培みたいのだとハウスじゃないから、そういう発想がなかったな。
大規模でやるには大概ハウスがいるのね。
そうかー、お金かかるな。
黒田硫黄では、水茄子やれば捗るぞみたいに言われてたけど、水茄子って末端価格じゃ単価なすの5倍くらいのようだね。
品種だけやなくて、産地も含めていかにブランド化するか、ってとこがポイントなのかな。
俺は大阪出身でいま福岡に住んでるんだけど、大阪じゃ福岡みたいな1メートル近い長なすって売ってないから、
こういうのを流通経路確保したうえで採算がとれるようにできたら、価値がでるのかも。
俺の後輩は、懸崖菊っていう、京都の名産らしいけど、伝統的な菊アートみたいなのをやってます。
菊農家らしいです。
TDLにも花いれているそうな。
ああいうのが儲かるのかもねー。
まったく同意。
というか、意図的に混同する輩が多くて情けない(日本人として、というか、日本語話者として、というか)。
少し歴史を振り返る限りでは(いつからか正確には知らないけど、知ってる範囲では明治ぐらいから)
「多勢を占めると思われる既得権益の保護に賛成かどうかの対決軸」を持ち込んで
魔女裁判に移行させるという暴挙をやらかす者が出没するのが多数を占めるケースになっていて、
ディスカッションが正しくディスカッションのまま推移することがすごく珍しいことと思われる事態になっている。
また腹が立つのが、そういう不逞の輩は、他の人は全員ディスカッションとディベードとの区別がついていなくて混同してもバレないと思っていることだ。
うちの上司が「それ」で毛嫌いされているのだが、本人はまだ嫌われていないと思ってる。でもってその路線の手助けをしろと迫ってきている。周囲に告発したい。
っと、話がそれかけた。
ともかく、係る悪徳は撲滅されるべきであり、その為には、議論の展開の手法についての評価も広く行われるのが良いと思う。
サイト横断的に某スラッシュ○ット風のモデレートシステムが適用できないかとよく思うのだけど、囲い込みが激しい現状ではそれは難しい話。
(国語の教育はまずこの問題に対処するための改善を全力でやって欲しいと思うが、当の役所がこの悪習にドップリだからなぁ・・・。)
何やら我々が「伝統的子育て」という言葉に踊らされている感があるので
はしょりながら返答するよ。
各人が微妙にイメージの異なる言葉についてごちゃごちゃ言うのも不毛だしさ。
でも、この条例はそういうの認めないだろなー。だって親の愛情(=注意関心手間のかけかた)だけで子どもの問題行動減らそうとか思ってんだもんなー。しねばいいのになー。と、思うのですよ。
基本的なことだけど「愛着形成」ってのがとっても重要だよーとボウルヴィって心理学者が示した。
臨床心理学分野で、愛着が人格形成に多大な影響が云々って事例研究が腐るほどある。
親の愛情だけで問題行動が減るか?という問いに対して、多分減ると答えても構わないレベル。
アプローチする箇所としては、いい線いってると思うのよ。
条例見ると、結構あいまいな支援方法が書いてて(道徳教育がどうとか)、そこも批判点になりそうだ。抽象的でわけわかんねーよと。
でも、俺はむしろあいまいで問題ないと思うのだよ。
何故か。
ほぼ全員の見解が一致してる部分として「子育ては千差万別」ってのがあると思うけど
まさにその通りで、マニュアルが適用できる部分ではあるまい。100人子供がいりゃ、100個の育て方があるだろうさ。
「愛着形成にはこんな意味がある」「親の愛情って超重要です!」というのを学ぶだけでも
むしろそこが狙いだろう。
マニュアルという言葉が悪いのかもしれん。「子曰く…」みたいな、道しるべ的なイメージといえば想像つくだろうか?
で、問題の条例は何というか、マニュアルどおりちゃんとやればはみ出るはずはないみたいなのが大前提になってる感がするのよ。
くどいようだけど、「愛着形成しっかりしようね!基礎基本はこうだから、各人で応用頼む!」的な敢えてあいまいなマニュアルを守れば
少なくとも「小さいころに愛着形成できずに、非行(引きこもり)になっちゃった」ケースは減るんでないかい?
欲を言えば分厚い文書マニュアル渡して「ハイ読んでおいてね」ってんじゃなくて、「こうやったけど上手く行かない」「こうやれって言われてるけど加減が分からない」っていう相談を受け止めて「じゃあこれ試してみて」「加減はね、こんな感じ」みたいなアドバイス渡して、「お子さん元気に育ってますね、いい子ですね。お父さんお母さんの頑張りがあってこそですね」みたいなフォローまでくれるくらい欲しい。
ここには超同意。教えっぱなしで、「出来なかったら親が悪い」とか言い出たらアウトですな。
既に他の増田が指摘してるけど、産婦人科とか自治体の検診とかでハウツーやってるとこはやってるのね。
そして今やネットがこれだけ蔓延ってるんだから、情報だけなら探せば出てくるのよ。
ブログやらツイッターやらで子育て奮闘記晒してる人間はたくさんいるし、とても周りには言えないような愚痴でも一応2ちゃんとかに吐くだけはタダになってるし。
まあ正しい情報は何かとか取捨選択が要るとかそういう別の問題になってくるけど。
子育てパパはあれです、純粋に頭数が要るんで。って感じ。ネコの手も借りたいくらいなんだから女の細腕に丸投げしてないで男の手も動かせよ、的な。
個人的には、問題の条例では何つーかとんちんかんにも程があるのでまともなノウハウとか期待できないと思うの。予防とか防止に主眼起きすぎて求めるものが無駄に厳格って感じ。
だってちょっと貼ったPDF開いて読んでみ。冒頭で「ながら授乳」とか叩いてるでしょ。
でも子育てなんてそれこそケータイとかテレビのためだけに子どもから目はなす瞬間作れないくらい忙しいとかデフォでしょ。
なんか授乳とか二十分とか三十分かかるらしいじゃん。その間基本動けないわけでしょ母親。他の家事とかできないでしょ。
「じゃあ子ども眺めてろよ」って思うかもしれないけど、毎回?
そりゃ我が子の様子が変わってないかとかの観察は重要ですよ。でも毎回見るほどか? すごい頻度あるんじゃないのか授乳って。
たぶん条例はケータイやテレビが出現する以前の伝統的子育て(笑)の時代には母親は片時も子どもから目を離さなかったー! とか理想化してるんだろうけど、俺さあ高校のときだったかな、美術の教科書か歴史の教科書かちょっと記憶が曖昧なんだけど、授乳する女の絵が載ってるの見たことあってさあ。写実画っつーの?
農村だか漁村だかの貧しい生活のワンシーンみたいなコンセプトで、かーちゃんが子どもに乳ふくませてるんだけど、その目がめっちゃうつろであらぬところをぼんやり見てんの。
子どもなんか見てないの。ありゃどうみても何も見えてない。ものを考えたり注意してみたりとかいう気力が全然ありませんって感じ。
生活に疲れた母親の表情がどうこうみたいな解説がついてたよ。
と思うと、ケータイでも雑誌でも消音テレビでも、母親がそれなりにリラックスしたりできるって環境としては素晴らしいと言ってしかるべきなんじゃないかとか思うわけ。
でも、この条例はそういうの認めないだろなー。だって親の愛情(=注意関心手間のかけかた)だけで子どもの問題行動減らそうとか思ってんだもんなー。しねばいいのになー。
と、思うのですよ。
思考がぐちゃぐちゃになるのは、何していいかわかんないからだ。
それでそれなりの数の人間は救われるはずだ。やり方さえ教えてくれたらというのがここ数年のトレンドだしな。
やり方知る親が増えるだけで、虐待の数は目に見えて減るはずだ。少なくとも混乱する親は減る。
マニュアルっつーけど、犬のしつけのマニュアルだっていろいろ出てんだぜ。人間育てるのなんて必ずどっかでマニュアルからはみ出るような気がするよ。
で、問題の条例は何というか、マニュアルどおりちゃんとやればはみ出るはずはないみたいなのが大前提になってる感がするのよ。
それすなわち「はみ出た部分があるとすればそれは親が加減を分かってないんだ、親が悪いんだ」に帰結するということになる。
でも必要なのは逆の発想なのね。はみ出るところを見て削るんじゃなくて伸びたとこ評価する方式じゃないと親はマジに潰れるよ。
欲を言えば分厚い文書マニュアル渡して「ハイ読んでおいてね」ってんじゃなくて、「こうやったけど上手く行かない」「こうやれって言われてるけど加減が分からない」っていう相談を受け止めて「じゃあこれ試してみて」「加減はね、こんな感じ」みたいなアドバイス渡して、「お子さん元気に育ってますね、いい子ですね。お父さんお母さんの頑張りがあってこそですね」みたいなフォローまでくれるくらい欲しい。