死刑になる基準の一つとして遺族感情があるそうだが、よくよく考えるとおかしな話ではないだろうか。
遺族は被害者じゃない。
何で第三者の感情を量刑を決める際に加味しなければならないのか。
加味すべき感情があるとすれば被害者本人の感情でありそれが死者であればもはや知ることが不可能である以上、
行為の様態と状況と動機と被害者加害者の属性という客観的事実のみから量刑を決めるべきではないか。
「ブサメンだから死刑希望だけど自分好みのいけめんだから無罪希望で」
遺族感情を加味するということはつまり残された者の報復感情を満たすということであるが、
同じように家族を殺された人でも、
復讐はしたくない、したくても更なる報復を恐れてできない、という人もいる。
そもそも家族がなく誰もその人のために報復感情を抱いてくれないという場合もあるし、
被害者を心底大事に思っていて加害者に報復したいと思っている人がいても、その人は家族ではないから報復する資格が与えられないという場合もある。
報復してくれる支援者がいない・少ない人を殺しても罪は軽く、
報復してくれる支援者がいる・多い人を殺せば罪は重い、ということになる。
生命保険の金額にも、家族がいるかいないかで差をつけるということも数学的には正しいことになる。
実際、少年たちのホームレス狩りは上述の理屈が具現化された最たる例である。
「死んでも誰も悲しまない人間など殺してもいい」という理由で殺しているのだから。
遺族感情を加味するということは突き詰めて言えば家族がいない人に犯罪の矛先を向けさせるということである。
家族は経済的な扶養関係があるから、家族を殺されると自分の財産を失うことになるという理由で、
遺族に被害者の代理人としての権限を与えているのだろうか。
ならば「感情」などを考慮するべきでは無く、「経済的な損失に対する補填」を求めるという形にすべきではないか。
司法制度の根底には人間の本能的な感情があるが、量刑は感情で決まるべきではなく、客観的事実にのみよるべきである。
前近代の「今日は王妃の御機嫌が悪いので何人死刑にします」という世界と大差がなくなってしまう。
人間の命の価値はどれだけ他人に愛されているかによって決まるのだろうか。
愛されている人を殺したら罪が重く、愛されていない人を殺しても罪は軽いのだろうか。
毎日大変だな
愛するものを奪われたと言うのは、立派な被害です。 もちろん民事で損害賠償を求めることが出来ます。 刑事は被害者のためのものではありませんが、社会は被害者感情も考慮すべきと...
うん、で、実際に物理的に殺されたり傷つけられたりしたのは被害者本人だけだよね? 被害を受けたとして賠償を求めるというのは権利の回復を求めるということだけど、 物理的に被害...
本当は人類の長い歴史を考えると、遺族感情100%で解決するのが伝統。要は仇討ち。 ただ社会が複雑化すると、無秩序に仇討ちし続けると治安を大層悪化させるのでキリのいいところでや...