はてなキーワード: バンジージャンプとは
やるぞ!と決意しないと難しい
お金がかかる
時期が非常に限られる
今はまだ無理
逆にあと数年で価値が無くなりそうor年齢的に厳しい
運の要素が強い
まだまだ増える。
おすすめある?
失敗したというか、そもそも成功するかどうかわからない雑さだったので生きている。
それは本気で死ぬ気ではなかったのでは、と思われるだろうが、後にも先にもあんなに「死」に取り憑かれたことはないし、本当に病的に死ぬ気だったのだと自分ではわかる。
当時の自分は、社会人一年目で、新卒の人間も自分の他に一人しかおらず、あまり職場に馴染めず鬱々としていた。
こう書いてしまうとさもありなんと思われるだろうが、それ自体は別に死ぬほどのことではなかった。
仕事の代わりに趣味が充実していたし、楽しいこともいろいろあったし、明確なパワハラがあったわけでもない。
なんとなく職場のことは好きではないが、やってることはまあ嫌いでもなかった。
なかったのだが、色々なストレスが自覚もないまま積み上がっていたらしい。
食事の席で珍しく酒を飲み、少々酔い、気分良く話していたはずが、気がついたら父親と口論になっていた。
なんでそんなことになったのか、全く思い出せない。実際、ものすごく些細な話だったのだと思う。
不機嫌に別れて家に帰った。帰り着いて、風呂に入って、なんでかわからんがめちゃめちゃに泣いて、時間はすでに深夜だった。
あまりにも突然急に、あっ、死のう、と思った。
自分で言うのもなんだけど、正直昔からメンタルが強いほうではなかった。人生のうち半分以上を「死にてぇ〜」と思いながら生きていた。
と言いつつ痛いのも苦しいのも辛いのも嫌なので自傷行為などノーサンキューだった。
生きていたけれども、「死にたい」じゃなくて「死のう」となったのはその時だけだ。
WEBで今できる死に方を検索した。できるだけ苦しみが少ない方法。それらしいのを見つけた。これだと思った。
親しくしてもらっている大家さんに迷惑がかかるとか、今まさに近くに来ている両親のこととかも考えた。
胸が痛むような気持ちを遥かに上回って「死んじゃうんだからどうでもいいじゃん」と思った。
誰かが困っても、泣いても、死んだ後だからどうでもいい。
そのころ私は趣味のWEBサイトを運営していて、そこそこ閲覧もされていた。
親しくなった友人も、慕ってくれる閲覧者もいた。
当時はまだ個人サイトを作る人間も多く、そしてなんらかの理由で更新が止まってしまったところも多かった。
いつかまた更新されるかも、という期待の残る跡地は切ないので、自分がサイトを閉じる日が来たら、ちゃんとその旨を掲示して、これまで見てくれた人への丁寧な感謝の文章を書こうと、ずっと前から決めていた。
お知らせのための新規ページを準備して、文章を2行くらい書いたところで思った。
「これもやっぱり死んじゃうんだからどうでもいいじゃん」
この瞬間の確信は、今思うだに異常だった。
周りが聞いたら些細なことかもしれないけれど、当時の自分の一番の矜持とかこだわりみたいなものが、バツンと切られて散ってしまった。
スイッチが入る、という表現が一番近い。切るのではなく、入るのだ。「死のう」という方向に入ってしまう。
恨んだ人間も、お礼を言いたい人間もそこそこいたけれど、それも全部どうでもよくなってしまった。だから遺書も書こうとしてやめた。
面倒くささのほうが圧倒的に上回っていた。
詳しい方法は書かないが、死に損なって障害が残るのは絶対に避けたかったので、そうなる確率が低い方法をとった。
実行する直前で、就活中に軽い不眠になった時期があり、一時的に処方されていた睡眠導入剤のあまりがあった(このときかかっていたのは普通の内科だった)のを思い出した。
全部飲んでしまおうかと思ったが、胃洗浄などになったら死ぬより辛いという話を聞いていたので、普通より効果が出るだろう、くらいの量だけ口にして首を吊った。
死にたいけれど苦しみたくはない自分が本当におかしかった。けれど、死んでしまえたらもうそういうことも考えないんで済むんだな、と思った。
頭がぼんやりしてきて、手と足の感覚がなくなったとき、ものすごい解放感だった。
死ぬとわかっただけでこんなに楽になるのなら、もっと早く思いついておけばよかったと思った。そのあたりで意識が途切れた。
目が覚めたら翌日の朝で、床にすごい体勢で倒れており、身体中がばきばきに痛くて、首には紐の跡が残っていた。
要は紐の結び方が甘くて、主に薬の効果で意識が飛んだあとに自重で解けて、そのまま床で寝ていたらしいのだけれども、起きたら「死のう」の気持ちは吹っ飛んでいた。
びっくりした。死にたくなくなったことではなく、あんなにも盲目的に死のうとしていた自分のことが、まったくもってわからなかった。
魔がさすとか、憑き物とかいうけど、ほんとそんな感じだった。あまりにも明確に「どうかしていた」。
自分のしでかしたことが怖すぎて、トイレで吐いた。ついでにめちゃくちゃ腹が痛くなって困惑していたら、普段の周期より1週間も早く生理が来ており愕然とした。
(一部の女性には、ホルモン作用により生理前の時期に鬱に近い状態になってしまうPMDDという症例があるのだが、このとき生理周期が狂ったことも含め、なんらかのホルモンバランスの不調が原因で、それだった可能性がなくはない)(ただ、一因ではあるかもしれないがそれだけではないし、それが理由とも限らない)
首を吊った紐は捨てた。気に入っていたワンピースのベルトリボンだった。悲しくて怖くて服も捨てた。もう一度泣いた。
仕事は休んで心療内科に行って、薬をもらった。首の残った紐のあとは、夜には消えていた。翌日は普通に仕事に行った。次の日も、その次の日も普通に行った。
で、それでなにが言いたいかというと、人はあまりに突然死に取り憑かれて、急に死んでしまうことがあるだろうということである。
ミステリとかで「あの人は近々こういう予定があって楽しみにしていたから自殺なんてありえない」みたいなシーンを良く見かけるが、結論として全然ありうる。
どんな予定があっても、約束があっても、「死のう」は突然やってくる。
あと、死ぬ前に思い悩んでいたことがあったのではとか、誰かに相談はできなかったのか、みたいな話も出てくる。
もちろん誰かに相談したくて、それができなくて思い詰めて、確固たる意志で自死を選んでしまった人も多いと思う。
でも、自分が悩んでいる自覚もなく、ある日突然「死のう」が顔を出すこともある。
このときよりも「死にたい」出来事なんていくらでもあったのに、それが現れたのは、本当になんでもないはずの夜だった。
人は準備がなくても、杜撰でも、衝動的でも、一瞬の気の迷いでも、タイミングが重なれば、死ぬときは死んでしまうのだ。
たとえそれが自死であろうが、突然の事故と同じくらいに、本人だってわけもわからず、死んでしまうことは、たぶんある。
だから、他人の死に対し、できればあまり物語を見ようとしないでほしい。
もちろん、なんらかの明確な理由で追い詰められた際に、その解明が必要とされる場面もあるだろうけれども、本人や周囲の意思が示されていない限りは。
そしてもし、そんな事故みたいな「死のう」が来たときに、この文章を思い出して、「ああ、今自分はそういう状態で、本当に一過性のものかもしれない」と思えることがあればいいなとも思う。それは私のエゴだけれども。
どちらにしても夜は深いこと考えないで寝たほうがいい。
【追記】
この出来事の前後でなにか変わったことは特になく、びっくりするほど普通の日常が続いているけれども、その何年か後にバンジージャンプやったときにはこのときの何百倍も生まれ変わった清々しい気持ちになったので、最近人生くさくさしてるなと思う人で健康上の問題がなければやるといいと思います。コロナ明けたらスカイダイビングもやりたいんだよな。
ポジティヴシンキングすぎてポジティヴ大会優勝!というかそう言う大会に出場するよりも大会自体を開催してしまう、
あのさー
私やらかしちゃって、
さすがに温かい晩ご飯食べて寝て起きてうんこして朝ご飯食べたら元気になるかなって思ってたけど、
この凹みが沁みるわーって
「なになにみ」ってのがあるじゃない。
「昭和み」とか「分かりみ」だとか「さしみ」の「うまみ」だとかそう言ったまるまるみって言葉なぐらい
この凹みが凄かったわ。
朝起きてもなんかそのクレーム解決部隊を投入しなくてはいけないという
結果はもう解決してから良かったから肩の荷が12トンぐらいおりたからよかったわ。
送り状番号のよくみんなも荷物がどこに届いてるかって調べるときに入力する1万桁ぐらいの数字があるじゃない。
それを私控え忘れて消してしまったのよ。
お荷物自体は正しい住所が記載されて無事に配達はされるんだけど、
ウエブ上では荷物は無いことになってるのよ。
だから困ったなーって
私はグリーンベレー帽を被りながら緑のたぬきを食べていたことが一番の原因であり片手で余裕でお箸で麺をすすっていたのが一番の原因でもあり敗因でもあり
そう言うことだったのよ。
まあよく何を行ってるか分からないと思うけど、
凄い自信だったわけ。
でもちゃんと無事解決してよかったわと撫でる肩を降ろすところよ。
ウエブ上では追跡できずに
一応はちゃんと到着することを温かく親やぎが産まれた子ヤギが立ち上がるのを優しく見守るような眼差しで見届けることが出来たけど、
この凹み具合がもうとんでもない感じで
もうレジ袋どうのこうのっていうあんな小さいことに3円とか5円とか出した方が、
生肉のジュースがこぼれてエコバッグの中がジューシーな日にちが経ったらなんとも言えないスメルになるぐらい困るから、
実際にはもうレジ袋買った方がいいのよね。
もうそれはゴミ箱にかぶせるゴミ袋かに変身させることが出来るじゃない。
なになにみ、って言葉の発端だったわけで、
あー今日はツイていない1日だなーって今日は終わっちゃうのかと思ったけど、
案外早急に投入した緑のたぬきをすすりながら事件現場に突入するグリーンベレー帽の隊員を派遣してよかったわ。
久しくそういうのを食べてないと
うわ!これ意外とイケるじゃん!って
麺が日々美味しくなってるのよね。
改めてそう思ったわ。
もう自戒としては端末操作するときには緑のたぬきを食べながらしないってことを強く決めて守らなければ!って思った矢先で
藤井風さん風に言うと、
そんなこともうどうでもえーえーよって言いたいぐらいだったわ。
とりあえず
解決してよかったわ。
と言っても違うお店のモノなのでなんか塩気が多いくて塩っぱいかな?って思うけど
一緒にミルクヒーコーをあわせて飲むと
美味しいわね。
私も気兼ねなくおのののかの出産祝いに便乗するかのようにあたたたかいボタンを押すことが出来るのよね。
まだルイボスティーのパックが残っていたので
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
寒くなってくると、なんだか人肌恋しいというか、俄然寂しいような気がしてきて、一緒に長い夜を過ごせる相手がいたらな〜、なんて思ってしまう
夜を過ごすとか人肌とかいうと性欲に満ちた獣みたいな感じがするが、そういう感じではなくて、俺はただ、誰かと添い寝がしたい
女でもいい、男でもいい、イヌでもネコでもOK、デカい湯たんぽでもいい、シリコーンの柱でも大丈夫
……っていうような話を同僚としてたんだけど、結局寝るときって最終的にはひとりになるよな、ってトピックで盛り上がった
手ェつないで寝よ❤︎ とかいって、わざとらしく恋人繋ぎなんかをして寝ても、寝付く前にソっと指をほどく瞬間がどっかにある
久しぶりに会って、抱き合って寝ても、朝起きたらお互い仰向けになってる
血流が止まったり、熱がこもったり、そういう不都合がどうしても現れてくるので、最終的には身体を離してひとりで寝るってことになる
寝る時だけじゃなくて、けっこう万事そんな感じな気がするんだよな
ひとりで死にたくない!つって家族を求める人は多いけど、結局死ぬときってだいたい一人じゃないですか
病院のベッドのうえで家族に看取られるにしたってさ、その場で死ぬ人間は一人しかいないんだ
5人で崖に行って、ひとりがバンジージャンプをする それを「みんなでバンジーやった!」とは言わないんだ
爺ちゃん「と」死んだ、じゃなく、爺ちゃん「が」死んだ、にしかならねー
そういう感じなんだよな 世界
なので、結局一人で寝るのだから、俺は寂しくなる必要なんかないのだ、というのが結論なんですが、実際寂しいか寂しくないかでいうと、まあ寂しいということになる
寂しいっつうか、なんなんですかね
俺はどうしたいんだろうなあ、というのを最近ずっと考えていて、これの答えはわりと固まりつつあり、それは「どうもしたくない」
俺は何も考えたくなくて、どこにも行きたくなくて、何にもなりたくなくて、何も変わりたくない
何もしたくないんだよな
何もせずにただ寝ていたい
そのとき、何か道連れが横にあるとうれしいですね
数年前に、知り合いの男女数人で、バンジージャンプに行った。
私以外の女子は「えー、怖いぃ」とかなんとか言って飛び降りるのを渋ってた
が、私は自分の順番になった瞬間、
「ウオリャア」と言って即飛び降りた。
なぜなら、私の人生で大切にしている言葉、それはBASARA(戦国ではなくて、田村由美さんの漫画)の名シーンのセリフなんだけど
「もうダメかもしれないと思った時に、座り込んではいけませんよ。一度座り込んでしまったら、二度と立てなくなりますからね。その時は、死んでゆく時だと思いなさい。もうダメだと思った時こそ、立ちなさい」
と言うことで、一度ビビると二度と飛べないと思ったので即飛んだ。
おなごにはかよわさも必要なのかもしれんね…
(手遅れ)
あのさ、
近所のうどん屋さんの名物「暴れざるうどん」が大人しくなっちゃって、
なんだかちょっと拍子抜けな感じなのよ。
と言うのもね、
お箸で持ち上げる時に
1本ごとしか持ち上げられないのよ。
それを持ち上げてお猪口のお汁にちゃっと浸けるんだけど、
お箸もねツルツルでうどん防滑り加工がされていないお箸なので、
うどんをマックスの高さまで持ちあげたときにずる!っとお猪口の上にダイブするの。
ぼよーんと伸びて全浸かりじゃなくて先だけ麺が麺つゆに浸けられて美味しく食べられるようなものでしょ?
そうじゃなくて、
お猪口の中の麺つゆのつゆ柱が立つぐらいに派手にダイブするのよ。
うどんの麺が。
お猪口の中の麺つゆが全かかりしちゃって、
まあ紙エプロン的な1枚じゃどうにもこうにも防御できない仕組みも欠陥があるところなんだけど
それを楽しむお客さんもいれば、
まあ麺つゆ全かかりかぶりするからあんまりそれにいい顔しない良いと思わないお客さんもいるわけだったのよ。
言うならば賛否両論というか、
老若男女というか。
あらかじめもう麺つゆが饂飩の麺にかかっちゃって器に盛られて提供されるようになったから、
もう暴れるも何もすっかり「暴れざるうどん」の暴れ要素がなくなっちゃったのよ。
でも
そういう名残というか。
かつてのその暴れざるうどんの群雄割拠を思い出す唯一のワードな単語なわけ。
暴れた数だけ美味しくなれる!
暴れた数だけ美味しさを知る!
暴れ暴れ暴れまくれゲットアップ!
暴れ暴れ完食するまで!って
かつての「暴れざるうどん」説明書きにも暴れキャッチフレーズのワードがメニューにそのまんま残っちゃってるから
暴れてる?ってどういうことなの?って首をかしげる人も多いみたいよ。
言うならば賛否両論というか、
老若男女というか。
そんなわけで、
暴れうどんがお行儀良く食べられるようになって、
服が麺つゆでびしゃびしゃにならなくれよかった!ってね。
で、
お店の壁にミラ・ジョヴォヴィッチさんのサイン色紙が飾ってあって、
へーここにミラ・ジョヴォヴィッチさん来店したんだーって
暴れうどんの麺つゆ全部浴びる全かかりしちゃって
ミラ・ジョヴォヴィッチさんが
麺つゆで濡れてジョヴォジョヴォヴィッチになったなんていうから、
大将それちょっと話し盛ってるでしょ?うどんのザル盛りだけに!って思うけど本当だったら、
彼女にとってはとんだ災難だったわねって
ちょっと同情をしちゃったわ。
そのミラ・ジョヴォヴィッチさんの書いてくれたサイン色紙に麺つゆの染みが残っていて、
もうだいぶ薄くなってきてるけど、
遠い昔のようでその当時のことを思い起こさせるわ。
今日は帰って
『フィフス・エレメント』でも観るわね。
うふふ。
たまにまたこれ食べると美味しいわね。
朝のサンドイッチのタマゴ要素は1日のパワーの源でもあり元気の源でもあるわね。
朝はまあちょっとは食べて1日頑張りましょうってな具合よ。
ミントの風味がこの時期のミント感をより一層引き立ててくれるわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
◎前置き
X日後に死ぬことが分かっているとしたら、僕は残された日々をどう過ごすだろうか。
いくつかの仮定を置いたうえで思いついたことを書き連ねてみる。
・X日後に死ぬことは確実であり、僕はその事実を受け入れている
この前提がなければ、僕は何とか生き延びる手段を探すだけで、残りの時間を使い切ってしまうかもしれない。
何か災害や天変地異で多くの人が死ぬわけではないということだ。僕以外の人々や環境は、僕の死以外は何一つ変わらず日々が続く。そのため、他の人を救うために時間を費やす必要もない。
この2つの前提を置くことで、僕は残りの時間を純粋に自分が満足するためだけに使うと想定する。
◎1日後に死ぬ僕
平日なら、仕事を休まなくてはならない。仮に大事な仕事があったとしても、何かと理由をつけて休むだろう。残念ながら、僕にとって今の仕事は、24時間しか残されていない状況で時間を割くには及ばない。事情を説明して別れを惜しむほど、会社の面々とは親しくない。みな僕の死を知ったら驚くだろうと思いながら、事務的に部長に有休申請を行うまでだ。
明日死ぬと思って毎日を生きよう、そんな格言を聞いたことがある。そう思うことで、本当に望むことに取り組むことができるという意味だそうだ。しかし、本当に1日しか残っていないとしたら?できることはあまりに少ない。選択肢はとてつもなく刹那的になってしまいそうだ。僕には好きな友人や家族はいるが、特別日々を一緒に過ごす類のパートナーはいない。仮に恋人や妻がいれば、最後の1日を普通に過ごして見送ってもらうだけで終わるかもしれない。だが、そんな相手はいない以上、個人的に満足に過ごす方法を考える必要がある。
僕はきっと24時間を一人で過ごすだろう。もうすぐ死ぬことが分かったうえで、友人を呼びつけて一緒に過ごしてもらう気まずさには耐えられそうにない。両親との関係は悪くないが、この状況では会うには気が引ける。そんなことができる距離感の相手なんて、それこそ恋人か妻か子供ぐらいしかいないのではないか。残念ながらそんな相手はいない。誰かに電話くらいはするかもしれない。でも、友人には普段電話などしないので、何か問題ごとでもあるのかと勘繰られてしまいそうだ。何かの用事にかこつけて、母親の声でも聞ければそれで十分だろう。
最後の1日を刹那的な快楽のために使うか、何か意味のあることに使うか、悩むところだ。刹那的な快楽を得るならば、とにかく美味しいものを食べるとか、綺麗な景色を見るとか、性欲を満たすとか、そんな過ごし方になるだろう。できるなら最後の食事は美味しいものが食べたい、でも一人で食べるなら何でも一緒に感じてしまう気もする。そもそも残り時間を考えれば、栄養にもならない食事に時間と労力を割くのはもったいない。食事に限らず、もう何も思い残すことがないと思えるほどの快楽なんてあるのだろうか?どんなに刹那的な快楽を満たしたとしても、最期の1分1秒には、どこか虚しい気持ちになってしまうのでは?
そうだとしたら、死ぬ瞬間に満たされた気分になる1日の使い方とはなんだろうか。やはり「善いことをした」「この世界に良い影響を残した」と思うことで、自らの人生を肯定できるようになることではないか。残念ながら、僕が仮にこの文章を書いている今この瞬間に死ぬとして、僕は何かこの世界のために役に立ったのかと問われると、自信をもってイエスとは言えない。たいして他人に迷惑をかけずに生きているという自負はある。しかし、周囲との干渉が少ない故、特別人助けをしているわけでもない。仕事だって、給料に見合う働きを提供するだけの等価交換で、社会に対してプラスを与えている気はしない。そんな認識を塗り替えるようなことが、24時間で成し遂げられるだろうか?
一つ、すぐに取り組めそうで最も「自分が」やる意義がありそうなことは、近しい友人たちに手紙を書くことだ。僕は29歳で、同年代の友人たちの多くは、若くして死ぬということに実感がないと思う。僕自身もそんな実感はない。そんな友人たちに向けて、身近にいる人間として、心を込めたメッセージを残せば、きっと彼らは限られた生を実感して、より有意義に過ごしてくれるのではないか。そう思いながら昇天するのは悪くない気がする。
一応、死因は自殺ではないことが皆に分かるように手配しておきたい。僕の世代の死因に占める割合は自殺が多いはずなので、事情を知らない人には勘違いされる可能性もある。僕自身はこの際どう思われても構わないが、勘違いのせいで周りの人が嫌な思いをしてしまう事態は避けたい。
◎1か月後に死ぬ僕
1か月は新しいことを始めるには短いが、1か月はちょっと長い。休まず有意義に使い切ろうとしたら息が詰まりそうだ。それでも、1日でも労働に費やすのは惜しいと思ってしまう。やっぱり仕事は無理やり辞めるしかない。お金が必要でないのなら、働かないに越したことはない。そもそも現状で何故僕は、嫌だと感じている労働に多くの時間を割いているのだろうか。
別に誰かに命令されるわけでもなく、僕は自分の意志で一挙一動を選択してきたはずだ。その積み重ねで生きてきたはずなのに、何故不本意な結果となっているのだろうか。僕は必要に駆られて働いているのであって、労働から精神的な充実を得られると期待するのが筋違いなのかもしれない。とはいえ、身の回りを見渡してみれば、仕事を楽しんでいる人はそれなりにいる。今の職場に就職した理由に思いをはせると、僕は仕事の内容や会社の状況について多くの誤解をしていた。さらに言えば、自らが求めているものもよく理解できていなかった。分からないものが多すぎたので、正しい選択ができていなかったのだ。そして、今も自分が求めているものはよくわからない。
1か月もあるのなら、できるだけ面倒を残さないように、いろいろな手続きを済ませておきたい。仕事を辞めて、部屋を片付けて、もろもろのサービスを解約しておけば、あとに残された人も困らない。ついでに恥ずかしい日記を処分しておこう。あと、年に1度ぐらいしか帰省はしていなかったが、顔ぐらいは見せておこうと思う。
口座に200万円はある。これを一体何に使えばいいだろう?1週間で使い切るとすれば、なかなかの贅沢ができる。どうせならぱーっと使ってしまいたい。僕の貯金は社会に影響を与えるには雀の涙すぎるし、このお金を寄付するほどの聖人ではない。それに、個人的に残してあげたい相手がいるわけでもない。しいて言えば、会社勤めをしながらイラストレーターの夢を追う弟にはちょっと残してあげてもいいだろう。全部残すと重たいし、あぶく銭は彼のためにもならないかもしれない。残高を気にせずに、旅行したり、いいものを食べたりして、残った分は弟に渡すくらいでちょうどいいかもしれない。
僕はかねてから死ぬ前に一度バンジージャンプに挑戦してみたいと思っていたが、1か月のうちの半日ほどを費やすに値するほどではなさそうだ。リストに入れるべき項目は、手紙を書くよりは重要でなくて、バンジージャンプよりは重要なことにしよう。残り1か月があるなら、無理を言ってでも友人たちに会って、直接思うことを伝えることができる。
そういえば、残り24時間しかない場合を考えているときは、お金のことには思い至らなかった。僕にとってお金は最優先事項ではないのかもしれない。ある程度長い期間生きるとして、なくてはならないものであって、それ以上のものではないのだろう。少なくとも、残されたお金の使い道を考えながら死にたくないとは思う。
◎1年後に死ぬ僕
1年残っているなら、少しはきれいに仕事を辞めてもいいかもしれない。2週間ぐらいは引き継ぎに費やしてもいいし、そのほうが残りの1年間をすっきりした気持ちで過ごせるだろう。残りの期間で仕事の関係者に出くわす可能性が上がるので、あまり気まずい思いをせずに済ませたい。これくらいの長さがあると、「将来のために今は多少我慢をする」といった発想が生じてくる。
きっと、仕事を辞めた理由を誰もに聞かれるに違いない。親しい人たちには正直に話すほうが良さそうだ。残り1週間ならともかく、1年間あれば段階的に別れを受け入れることができる。何度か会ったとしても、そう重苦しい雰囲気にならずに済みそうだ。でも、どうやって伝えたらいいのか分からないし、伝える瞬間の気まずさに耐えられなさそうだ。Twitterにでも書き込もうか。
貯金を取り崩すだけでも、何とかやりくりして生きていけるだろう。まず、会社に行かなくていいなら、家賃はできる限り節約しよう。決して余裕があるわけではないので、計画を立てて、慎重にお金を使っていくことになるだろう。食事だってそんなに贅沢はできない。それでも、僕にとってはお金よりも時間のほうが大切であって、贅沢をするためにより長く働こうという発想にはならない。
1年もあるならば、全く新しいことを始めたとしても、何かを成し遂げられる気がする。果たして僕は特別に何か成し遂げたいことがあるのか?と考え始める。そして、今までの日常の延長線上でしか考えられないことに気づく。思うに僕は無趣味なのだ、無趣味な故、急に働かなくてよくなったら、何をして過ごしたらいいのかわからなくなる。働きながらだって休みはあったけれども、寝て体力を回復したり、家事をしたり、友達と遊んだり、ランニングしたり、漫画やアニメをダラダラと見たりしていたらあっという間に時が過ぎた。漫画やアニメを見るのは好きだが、あと1年で死ぬとしてずっとそれに時間を費やしたいとはあまり思いつかない。それはリラックスを兼ねた娯楽であり、積極的に取り組んでいるというよりは、消去法的な時間の過ごし方だった。
もともと、人生を捧げられるような対象が欲しいと思っていた。しかし、そんなものは見つからず、とにかく生活のために労働し、疲労と惰性で考え事をするのもままならず、暇な時間ができたら途方に暮れる有り様だ。そんな対象がなくても、愛すべき人がいて、その人と過ごすだけで楽しく満ち足りた日々になるなら、それまた幸福だ。しかし、1年しか残されていないのが分かっていながら、新しく親密な関係の相手を探すのは残酷めいている。残される相手のことを考えると、残り1年で愛すべきことを見つけるなんてハナから期待すべきでない。
愛する人もいないし、やりたいこともない。そんな自分の現状は不甲斐ないが、ないものはないので仕方ない。とにかく何がしたいのか考えてみよう。かといって急に机に向かって考え始めたからといって、何か思いつくわけではない。12か月もあるのだから、1か月ぐらいは思い切って、考えるために時間を使ったっていいではないか。いったん、何もかも放り出して、どこか海沿いの旅館にでもこもって何をしたらいいか考えることにしよう。それ以上のことは今は思いつかない。
10年間生きるならば、すぐに仕事を辞めるわけにはいかない。自分がやりたいこととは別に、生活費を稼いでいくということを主軸に据える必要がある。仕事をどうすべきか、という問題に正面から向き合わなくてはならない。この問題については、大きく二つの方向性を考えることができる。一つは、多忙でもハードでも、とにかく給料の高い仕事に転職してお金を稼いで、一日でも早く仕事を辞めようとすること。もう一つは、仕事をしている時間を無駄と感じずに済むくらい、意義のあるものにすることだ。残念ながら、現状の仕事はどちらにも当てはまらず、ただ金を稼ぐため、辞めて履歴書に傷をつけないために惰性でぶら下がっている状態だ。よって、残り10年間を前提とするならば、すぐにでも転職活動をして、より有意義な時間を過ごせるようにしたい。
例えばかなり無理をして、3-5年間ハードな場所で働いて、残りは働かずに暮らせるのなら、悪くはない。この選択肢は、どう転んでも仕事をすることは苦痛なので、とにかく短期間で済ませるという考え方に基づく。貴重な10年間のうち多くの時間を割くに値するような労働はあるのだろうか?そんなものが見つかりさえするのなら、すぐにでも飛びつきたい。そもそも、そんな仕事があれば、残り10年とか関係なくやってみるべきなのではないか。
10年あれば、適当な理由をつけて別れることを前提に、恋人を作ってもそこまで罪深くはないだろう。すべてを語るような深い関係にはならないかもしれないが、一人で過ごすよりは日々に彩りが生まれそうだ。それとも、ふとした瞬間に虚しい気持ちになるだろうか?
◎30年後に死ぬ僕
10年ではなしえず、30年かけてしかできないものというのはそう多くはないはずだ。仮に僕が職人か何かで、同じことを一筋やり続けるのであれば、その時間の差は歴然となって現れるのだろうか。そんなことを考えると、今すぐ何かの道に入門して、極めてみたいものだという気持ちが湧くが、僕は飽きやすい人間であることをすぐに思い出す。僕はタイムマシンがあればすぐに30年後に行って、知識と経験の蓄積による果実を得たいと思う怠惰な人間だ。その蓄積の過程自体を楽しみ、こなしていくことができるなら、とっくに僕は何かを身に着けているはずなのだ。
残念ながら職人道を極めることはできなさそうだが、それでも少なくとも2つほどは新たな可能性が思いつく。まず、結婚して子どもを育てることが選択肢に入る、30年あれば、子どもが成人するまで面倒をみることができる。そして、家を買うかどうかも真剣に検討する必要がある。
僕は子どもが欲しいのだろうか?正直、残りの人生の期間について考えなければ、そんなことをまじめに自分に問う機会もなかった気がする。具体的に結婚するような相手ができて初めて、欲しいかどうかを考えればよいと思ったのだ。しかし、成人するまでは面倒を見ておきたいという条件を付ければ、残された時間は結構短い。相手ができたとして、すぐに子どもができるかどうかだってわからないのだから、30年のうちの最初の5年くらいで、一連の仕込みを済ませておく必要があるだろう。そのような前提を置くと、恋愛や結婚は残り時間から逆算したうえで、極めて計画的で無駄のないプロセスで行う必要がある。そう考えると窮屈に思えてきたが、女性であれば出産できる年齢が限られている故、同じような考えを持つのだろうか。一通り考えを巡らせたところで、そもそも子どもが欲しいかどうかすら分からないことに気づく。別に、残りの30年を考えたうえでそれが最優先事項というわけでは無ければ、窮屈な思いをしてまで計画的に「仕込み」を行っていく理由もない。
30年もあると考えると、途端に今すぐには現状を変えなくても良いかという思いが芽生えてくる。僕は現状の生活に満足しているわけではない。それなのに、変えなくてよいと思うのはなぜだろうか?変化にはきっかけとエネルギーが必要なのかもしれない。そこそこのストレスや孤独があるにせよ、安定しており、ある種の均衡状態となっている僕の生活を変えるには、何らかの外的なショックが必要なのだろう。
◎53年後に死ぬ僕
今29歳の僕は、52年後に日本人の平均余命といわれる81歳になる。すなわち、52年後くらいに死ぬという前提は蓋然性が高く、それをもとに人生の計画を立てることはひとつ筋が通っている。しかし、正直なところ、年老いた自分がどう過ごすかなんて、今から計画を立てるのは馬鹿げている。そこに至るまでの不確定要素が多すぎる。
とはいえ、一つ考えるに値することは、日本にずっと住み続ける前提で人生を考えるか?ということだ。何せ、この時期までに日本の人口は2-3割くらい減る推計になっている。今だって、社会保険料と所得税と消費税が大きな負担になっているが、今後ますますその負担が増えることは間違いない。5-10年先の未来だけ気にすればよいのなら、別に自分にとっての影響は大きくない。でも、より長い期間を考えると、例えばまともに医療が受けられなくなったり、預金が没収されたりするリスクだってあるかもしれない。少なくとも、今現在の高齢者が受け取っているのと同等の価値の年金をもらうことは全く期待できない。
僕は家族や友人たちがたくさん住んでいて、最高のアニメや漫画を生み出す日本が大好きなので、できることなら日本に住み続けたい。しかし、生活があまりに苦しくなるようなら、泣く泣く国を離れるというのは、世界中のどこにでもある話だ。かといって今すぐに海外に移住することが賢明というわけではない。とにかく英語くらいはできるようになっておき、いざとなればよその国でも食べていけるような能力は身に着けておく、それくらいの「投資」は残り53年くらい生きるなら、多少今を犠牲にしてでもやっておいたら老後の安心に繋がるかと思う。
◎あとがき
現在僕は、感染症が広がり外に出られない状況で、友人と会う機会も減り、社会とのつながりが徐々に切れていく感覚を味わっている。もともと、仕事に追われて、生活のために生きているような感覚を覚えていたが、そこから抜け出すことを難しく感じていた。一日中家で仕事をして、終わっても何もしたいと思えることがない。あまりに空虚な自分の生活に一種の絶望を感じている。
そんな中いつものようにTwitterを目的もなく眺めて時間をつぶしていると、「友人は少なくていい、3か月後に死ぬとしたら一緒に過ごしたいと思えるような相手さえいれば十分」というような記事にたどり着いた。そこから着想を得てふと自分の生活を振り返ってみると、3か月後に自分が死ぬのならやらないであろうことであふれていた。短い間に自分が死ぬことを考え出すと、僕は気が楽になった。これは僕自身にとってのセラピーになった。ある種のミニマリズムや断捨離に近い感覚で、「3か月後に死ぬのであれば不要」と思えることを生活から切り捨ててみる。例えば僕はいつか読んでおこうと思っていた大量の本をその基準に従って捨てた。すると、僕の人生は前よりも少し方向性が定まったように感じたのだ。
とはいえ、それと同時に、自分の空虚さを改めて実感するきっかけにもなった。自分の寿命の想定をどんどん伸ばしていくほどに、可能性は広がっていくはずなのにやってみたいと思うことが思いつかないのだ。まるで、遠方ほど霧が濃くなっていくような感覚だ。この問題は僕が、「いつかは役に立つだろう」と思われる仕事や資格の勉強に時間を費やしがちだったことと関係があるかもしれない。その時々に自らの欲求に耳を研ぎ澄ませてこないできたら、欲求をとらえることができなくなってしまっていた。
平均寿命から想定して、老後の安心や家庭を持つ可能性なども考慮した貯金やらライフプランとやらをある程度は考えなくてはならない。それでも、僕のようなタイプの人間は、3か月後に死ぬというぐらい過激な想定をしてでも、素直に最もやりたいと思えるようなことを考えていくべきでは、というのが今のところの結論だ。
僕の文章は思いつきを並べただけでまとまりのないものになってしまったが、もっと多くの人にこの思考実験をやってもらって、その結果を読んでみたいと思う。ぜひこれを読んだあなたも試しに3か月後に死ぬとしたら何をするか考えて、記事を上げてみてほしい。