はてなキーワード: ダマテンとは
前々から増田やブクマカに対して誹謗中傷および暴言を吐いて気炎を揚げている増田がいることが気になっていた。
直近だとこの人は自分がわりと人間のクズであることを自覚した方がよいとかね。
トラバやブコメによると、どうも「国語力増田」と呼ばれている人物らしい。
前は特定の団体や人物に対しての怨嗟を撒き散らしブコメしたブクマカに対して追記で物申すスタイルだったのが、どうも最近になって対象が増田になっている傾向があるように思うえてきた。
その芸風はそのままにバズったり目についた増田に便乗している形だ。
何でなんだろうなーと分析して気づいたが、どうも開示リスクがあることに気づいたっぽい?
国語力増田のスタイルは相手に対して罵詈雑言を喚き散らし中傷する長文を書き殴ることにある。
実在の人物や団体はエゴサする可能性あるだろうしブクマカもある素性を出していれば同定可能性が認められ開示が通る可能性は高い。
また訴訟や開示だといった話でなくとも、はてな匿名ダイアリーでは「言及された当事者から削除の申し立てがあった場合、発信者への意見照会を経ずに削除を行う」といった規則があり、文中でidが言及されりブコメが引用された場合は、当事者が削除申請したら記事が消去される仕組みになっている。
翻って増田を対象にすれば互いに匿名の為そういった心配はハナからしなくていい。5chのレスバで名無し同士が死ねだの殺すだの言っても殺害予告や名誉棄損にならないのと同じだ。
そこで、うーんと考えて閃いた。
「だったら自分の投稿内容と個人情報を紐づければいいのでは?」
まず投稿内容を非公開/公開に切り替えられる投稿サイトを選び実名でアカウント登録する。また個人情報の塊であるFacebook等もリンクしておく。
そして先ず非公開で投稿しておき、同じ内容を増田でも投稿する。これを1セットにすることを習慣付けておき繰り返していく。
そうやって垂らした釣り竿にダボハゼの如く噛みついてきたら反撃開始だ。
非公開にしていた投稿を公開設定に切り替え、その投稿に対して為された言及だとして開示請求をかけ名誉棄損なり名誉勘定侵害で損害賠償請求すれば良い。
上記の増田から例を引けば文中のアウトワードを上から拾っていくだけでも
・脳まで腐りそう
・知能が低すぎ
・おまんこパワー
・バカ
と錚々たる単語が並んでいる。ただの単語でこれなのだから文脈でアウト判定を食らう箇所もあるだろう。実際、増田が比較として挙げた暇空はそうやって開示を通し訴訟しているわけだからな。
こっちは国語力増田が食いついてこなければずっと非公開にしたままでいいのに対し、向こうは検索で見つけることさえできない。
また非公開にしてたのを公開に切り替えて罠にハメたんだと言い張ったところで、それを証明する術はない。
表示される投稿日時は他サイトの方が先かほぼ同時だし、数多あるアカウント群の中から特定のアカウントに目星をつけて切り替えのタイミングを見張ることなんて原理的に不可能だからだ。
昔まとめサイトに無断でまとめられることを嫌ったネット民がアフィ剥がしのDMCA砲を打つため投稿する画像をnoteでも公開しておくという手段を用いてたことから思いついた。
1989年12月29日、日経平均株価は38,915円87銭(ちなみに翌日のザラ場では38,957円44銭というのがありました。)
その日のPERは予想で61倍でした。益回りにすると1.64%。これに対して同じ日の10年国債利回りは5.616%。1989年12月のCPIは2.6%ですから仮に予想インフレ率も同じくらいとすると実質金利は3%。今より潜在成長率が高かったとはいえ元本保証の国債利回りより値下がりリスクのある株式の益回りの方が低いなんて異常でしょう。直近のブレークイーブン・インフレ率はだいたい1.5%なので、実質金利がマイナス0.5%から3%まであがるとすると名目金利は4.5%になります。今、10年債が4.5%になって、日経平均がPER60倍=148,000円まであがりますか?そんなシナリオを口にしたら頭おかしいと言われるでしょう。でも当時は経済学者や証券会社の社長からNTT株に殺到した庶民まで、誰も気にしていませんでした。
なお予想益回りが当時の長期実質金利と同じ3%になるとPERは33倍、仮にスプレッドを現在Fedが過去30年のS&P500の予想益回りと10年実質金利の平均とする470ベーシス取ると(今の日本では小さすぎるけど、当時の潜在成長率を考えればまあそんなものでしょう)益回り7.7%、PERは13倍です。当時、私は業界の名もなき先輩の示唆と大学のマクロ経済学の授業で習った流動性選好理論のアナロジーから株式益回りと長期金利のイールドスプレッドについて考え始めていました(これがDCF法と同じ発想で、Fedのバリュエーションにも使われていると知ったのはずっと後になってからのことです。)。そのロジックによると株価は8300円、5分の1ぐらいになるはずです。でも24歳、社会人2年目の私はバブルに煽られ、理論的に突き詰めて考える姿勢にも欠け、異常なバリュエーションを異常と思いませんでした。翌年の大発会から株価はまさに「フェアバリュー」(!)にむかって真っ逆さまに転がり落ちていきます。
もっとも当時は「バリュエーション」なんて考えている余裕がなかった。マーケットもメチャクチャなら、売ってる人も売らせている人もメチャクチャでした。朝6時に独身寮に流れるラジオ体操で叩き起こされて7時に出社、タバコの煙で株価のボードもかすむオフィスで1時間毎に怒号とともに予算(ノルマ)の達成をチェックされる。セクハラだのパワハラだの概念自体が存在しておらず、予算未達のセールスは椅子を取り上げられたあげく、受話器をテープでぐるぐる巻きに手に縛り付けられた状態で電話させられて、集計後に上司に殴られていました。配属された早々客に「週末俺の別荘に来い」と言われた女性(1989年は私の会社で初めて営業店舗に女性が配属されました。)は営業課長に「てめえなんで行かねえんだよ」と怒鳴りつけられていました。
多くのセールスは外回りに行けば客に名刺をビリビリに破かれたり、水を引っかけられたりしていました。でもこちらも数字ができなければ勝手に客の名前で注文を出していたのだから(いわゆる「ダマテン」。会社にはさまざまな苗字の三文判が常備されていました。私はしてなかったけど、研修中で店を離れていた間に営業課長に虎の子の客でやられました。)、そのぐらい当然でしょう。1989年、私の勤務先ともう一つの大きな証券会社が全セールスに号令をかけて売らせていた東急電鉄株。稲川会の会長に17億円も儲けさせるためだったなんてバブルが崩壊して社長が国会に呼ばれるまで知りませんでした。もっともそれを知っても驚きませんでしたけどね。
連日へとへとになって会社を出るのは夜中の12時過ぎ。丘の上にあった独身寮の窓から、その年に開業したみなとみらいの観覧車のライトを眺めて「こんな生活いつまで続くのかな」と思っていました。4年弱の在籍中に死んだ先輩も2人知っています。大学アメフト部出身の偉丈夫だったKさんは寮のベッドで朝起きてきませんでした。Iさんは倒れて、亡くなったのが私が辞めた直後でしたので詳細は知りません。まだみんな20代だったのに。
よくあんな生活送ってましたよ。毎日毎日、生きていくだけで精一杯でした。健康を害さず、精神も病まず、犯罪で後ろに手が回ることもなく転職できただけでもよかったのかも知れません。
今日の日経平均株価は終値で39,098円68銭。34年2ヶ月前を少しだけ超えました。でも今は投資家も、株を売らせている人も、売っている人も、人格、経済に関する識見、人権意識、モラル、マナー、当時を知る者からするとすべてにおいて比較することすらおこがましいほど優秀です。
株価はとても大事な経済指標です。上がるに越したことはない。でも上がれば何をしてもよい、数字さえよければ中身はどうでもよいというものでは決してない。バブル崩壊以後、日本の株はダメだダメだと言われ続けてきました。今日ようやく失われた30年が終わった、34年前に戻ったと解説する人もいます。でも私はそうは思わない。株式市場に携わる人々は、この間に達成した株価に反映されることのない成果を誇ってよい。心からそう思います。
続き
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
それをあなたがケチだ愛情がないとさんざんなじったから、ここに父の直筆遺言状がのこっているんでしょう。
目の前の日付の違う数枚の「全額妻に」の部分が私をにらんでいるじゃないか。
で、本当に検認などしていないだろうね? 私は一回「検認が~」という話をきいたぞ。
あとから裁判所からみつかったら相続人協議書つくらなきゃいかんのだぞ。
やっぱり司法書士よばなきゃ。そんなに高いわけじゃないんだから専門家をいれたほうがいい。
「うわーん!(=30分ほどの恨み言)」
これだ。 🫲😫🫱
んで分けたい額は?「孫の学費がかかっている子に600万円。私は家屋敷あればいい」でもねぇ、だまってそれやると来年贈与税で15%以上は持っていかれるよ。
「じゃあいくらにすればいいの」贈与税の無課税枠は一年に110万円だね。一人に一度に600万円は無理だ。
「私は遺産とってもうれしかった、おとうさんにパッとつかいはたした浪費家といわれたけど学費にあてられて本当にうれしかった」
ありがたいけど。今の私たちは子供(母の孫たち)の学費にそう困ってもいないんだよ。「うわーん!(=30分ほどの恨み言)」
翌日きた親戚が言い合いの横でぐぐって、実家の家屋敷の路線価評価額が(見積もりの10分の1の)数百万円ていどであることがわかって全額無課税枠で相続可能だし、
ダマテンフリコミ(麻雀用語。まあ普通に贈与税無課税枠)でいいんじゃないのとあいなったんですけどね。
父もこの癇癪にほんとうによく耐えたとおもうよ。マジで。
つまり相続権は愛情のカタにとられていただけだったのである。バカみたいな痴話げんかで役所を巻き込もうとすんな…。
父は読書好きでものしずかで有能で公平だが、ひょうきんであり、派手好きであり、ズルは嫌いだが、クーポンや法律の抜け穴は見逃さない程度にケチであり、ガメつく、ド田舎とはいえ家を二軒も妻にたててやる程度にはお金持ちで、片道一時間以上の通勤に耐えるほと忍耐強く、有能で、母にあたまがあがらず目をほそめてうんうんとうなずき、でも母が理に合わないことや浅はかな法律違反(すぐみつかるやつ)をしようとすると声をあらげることもあり、子や孫を外に連れ出す父である。
なんだこれ。チャットGPTがこれをなんと要約するのか昭和の子供は知らないが、さしずめ「昭和の父」とでもするしかないのか。たれ眉の我慢強い大型犬みたいな感じといえばいいか。
(おそらく外ではクライアントに陽気で気さくな愛想笑いをしながら物件を紹介・提案していたと思われるのだが、母の前では本当に怒りっぽい先生の前の子供のように静かだった)
母は料理と庭いじりと手芸とすべてのリアル育成が好きであり、必要に応じておぼえた自己流断捨離で必要な指輪と書類(葬儀領収書)まで捨てようとする。公的な書類と機械とインターネットでは、今の小学生以下の常識しかない女である。ポメラニアンかチワワかな。ああよく鳴くのはスピッツというのがいたな。
二人とも善良で先走りであわてもので甘えるくせに優しさの表現が下手で、あまりにも能力が凸凹なので今となっては発達障害などといわれるのかもしれない。
ソクラテスはよくいったものだし、片方になっても幸せにしろ、再婚だってしていいんだ。母ももうそろそろ自分勝手に幸せになれよ。
増田は父に似ているし子供のころからハッタツくさい母をささえた(教育虐待を友人にしか訴えないことによって)し
いってみるなら伴侶も子も仲のいい友人もハッタツくさいし増田本人だってハッタツくさいけど
それでも言わせてもらえるのなら、カサンドラはもう終わり!というようなハレバレした気分だよ。
こっそり続報
「私郵便局のおじさんにきいたのよ!夫の口座からでも現金をおろしてかまわないといわれた!贈与税がかからないかをたずねたらそれは税理士に聞いてくださいっていわれた」ああああああ
「で、この車の遺産分割協議書を『ダウンロード』したいんだけどダウンロードってどうやるの?わからない、怖くて出来ないからあなたやって」ああああああああ
こないだファックスしたやつが『ダウンロード』でつくった包括的な分割協議書だよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
メアドあてにワードでも送ったけど「ダウンロード」できなかったんだろうねええええ
ついでに分割案が全部ずれたよおおおおおおおお
ぜんぜん晴れ晴れしない
ほんとうにだれにこの危険物のおもりをおしつけたらいいんだよ
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
友人4人とオンラインで麻雀をすることが最近増えてきたんだけどなんか楽しくないっていうか、だんだんやりたくなくなってきた
そもそも自分がそんなに麻雀が上手くなくて、友達がやってるからってオンライン麻雀始めてなんとなく「あーリーチ打てるんだ。リーチしよ。」とか「タンヤオでしか和了れない気がするから鳴いちゃお。」みたいな雑な打ち方するタイプなんだ。
現物以外の安牌とか全然わかんないし、2副露されたら聴牌してるんだろうなくらいしかわかんない。ダマテンされたときなんてこれっぽっちもわかんない。
麻雀終わった後で牌譜検討みたいなことを友人たちはしてて、そのときに「なんでこれ切ったの?」とか言われると自分がした選択は間違いだったんだって言われてる気分になって落ち込む。
最近一番落ち込んだのは4巡目リーチとかに一発で振り込んで18000点持っていかれた時。河がほぼ字牌しかなくて唯一あった現物は切ったら自分のアガリがめちゃくちゃ遠くなる牌で、これ切るなら目を瞑って9ピン切ったほうが当たんないんじゃないかって切ったら放銃した。
「こんなん耐えてたら他の人出してたじゃん!」って牌譜検討で言われたけど他の人の手牌なんてわかるわけないじゃん。それについて何回も言われて泣きたくなった。
自分の中での麻雀って歌衣メイカがやってるような漢気麻雀みたいなイメージで、笑いながらコミュニケーションツールの一つとしてやるもんだと思ってたからなおのことしんどいのかもしれない。
自分の親番がよく1000点とかのアガリで流されるのも「それ狙ってやってる」とか言われたらもうやりたくなくなっちゃうじゃん。格下狩りと何が違うんだよ。
鳴いてる相手がいるときにリーチするのはよくないっていうのと、自分が鳴いてるときにリーチされたら降りろってなに基準で言ってんだよ。矛盾してんじゃん。もうなんもわかんねえよ。
なんで俺を麻雀に誘うんだよ。「お金賭けてるわけじゃないしいいじゃん」って言うけどなにもよくねえよ。なんでわざわざ気分悪くなりにいかなきゃいけないんだよ。
通話が嫌なわけじゃないから通話にはいきたいけど通話に参加したら「人数そろったし麻雀するか!」って言われる。なんもそろってねえよ。
ほんとになんで誘うんだろ。やってて楽しいのかな。カモだと思われてんのかな。
やってるうちに上手くなると思ってるのかもしれないけど麻雀について牌効率とかなんだとか勉強する気は今のところないから上手くはならないんだよ。
「上手くなるつもりないならそんな怒んなよー」って笑いながら言うけどじゃあ誘うなよ。半ば無理やりやらされてんのにボコボコにされたら気分いいわけないだろ。
こういう体験談は役に立ちそう
一応役にたたないとおもってだまってた実家の父の話もしておく 昭和40年ごろの話
→その企業の「大学留学」制度一期生で給料もらったまま国立大学へ(つまり実質返還不要の奨学金制度)
→それでも生活費のお金足りなかったので麻雀で手堅く稼いでた(即リーかダマテン、すぐ降り)自分のころはパチンコだったなぁ
→そこでうちのママと学生婚約して卒業後はわりとすぐ結婚。そのころ一~二件は大学知識で特許書いたらしい、ジェイぷらっとパット叩くとでてくる
→地元では最大手だったけど繊維不況といわれる業界不況にまきこまれ転勤族
→全く大学専攻と違う業種に配転。バブル期はどこいっても不動産が手堅かった
→そこでも資格とってもはや建築学科卒ですかっていわれる人になって不動産部門ごと他の会社にかいとられたりして最終的には別の会社で定年を迎えた
紆余曲折あったけど大学にいかせてくれたしママに出会わせてくれた最初の就職先企業にめちゃくちゃ恩を感じてた
ビールとかを系列で選んだりするサラリーマンいるけどそんな感じ
自動車とかも特定のメーカーがいいっていってた(たぶん内装に製品買ってくれたことが数度ある自動車会社)
さらに化学系はのきなみ高機能プラスチックで医療だの食品衛生だのに進出してるんだけど
医療器具も介護用品レンタルもその企業の名前のがあれば絶対そこを選んでる
はじめはリーチしか使えなくて、というかリーチ以外を使おうとすると大体あがれない状態からはじまって。
次に「役牌を鳴く」って技を覚えたらリーチしかできない時よりちょっとだけ楽しくなって
その次あたりに「タンヤオ」「喰いタン」覚えたら役牌無くても鳴けて一気に自由度広がるじゃん。
その辺りでうっすらと牌効率のパッシブ取得してさ、しばらく雀魂の胴の間あたり満喫して
攻撃面はこれでいいから次は防御だと「ベタ降り」覚えて、ついでに「ダマテン」も会得してさ
今は「筋読み」を覚えたいなと思いながら銀の間で遊んでる。楽しい。
「ピンフ」はまだ覚えてないけど。
あと「点数計算」とかまったく覚える気配もない。
具体的にどこのサークルとまでは聞いてないけど同じド田舎の大学で会った。
男性:そのころはニヒルで役者みたいだった父(高卒で就職して企業内留学)。タバコは吸わない。背は高い。読書家だがアウトドアも好き。寡黙(多人数兄弟から養子に出されて一人っ子の育ち、すごく静かな家庭で育った)。麻雀で授業料の足りない分や生活費を稼いでいた。即降りダマテンピンフのみで負けない麻雀(つまらないのでよく呼ばれたなと思う)。
女性:めちゃ頭のいい高校から進学。長女。背は低めでかわいいが気が強い。よくしゃべるし喜怒哀楽が激しい。たぶん女性側から声をかけて付き合った。
男性と女性はド田舎高校の同級生で美男美女カップルで高校のうちに結婚しようという勢いだったらしいがのちにいろんな理由で書類上離婚した事実婚状態。
1,2を身近に知っていたがめちゃくちゃ面食いでダメな異性をひいて2~3回離婚。最終的に年金を分けたくない独占したいという理由で離婚されてもういいや的一人暮らし。
工業高校卒と高校卒が中小企業でであった。男性側が8歳年上(に見えない)小柄な女性に惚れこんだが年の差が気に食わない実家にめっちゃ反対されて半ば駆け落ち状態で結婚し専業主婦へ。営業職で転勤・転職が多く家族で全国を10回ほど引っ越しで渡り歩いたが男性はわりと根っからお祭り男なので引っ越しをあまり手伝わないので呆れられていた。それ以外は喧嘩一つなし、実家とも孫の顔をつかって和解。
上の世代の年の離れた末っ子で20代なら昭和50年代ごろには結婚していたはずだが忙しくてなにもできず。同じ職業の人の娘さんでよくわかってる人とお見合い。結婚してからも忙しくて家庭も育児も全部おまかせ。よくわからないお金の使い方をしている(あれだけ稼いでいて赤字すれすれ)ようにみえるが幸せならそれでよいとおもう
同じ専攻やサークルのコンパやカラオケや試合旅行などで絆を深めた。
おなじ職場で同僚だったりセンパイだったりで絆を深めた。(たまに患者と看護師とかのクライアントとの結婚もあり)
平成:なぞ×3
「お見合い」や「結婚相談所」や「居酒屋ナンパ」だった結婚式は出会いが謎っぽくぼかされる(当人にあまり出会いについてつっこまないでねっていわれた)けど披露宴ではちゃんと「運命の出会い」とさらっと流されて祝われます
# 麻雀歴について
月々のお小遣いが300円なのに、1日に100円負けて(点0.1でやっていた)毎回大泣きしていた記憶がある。
中学生から同級生に麻雀仲間ができて日々楽しく打っていた。放課後に、ほぼ毎日のように打っていた。部室で牌やカードを使って打つこともあったが、当時はゲームボーイアドバンスの通信ケーブルを繋いで打つことが多く、そのために中古のアドバンスSPを購入した覚えがある。一応同級生の中では打っている期間が長いこともあってそれなりに打てるつもりでいたが、ある時から、いつものセット仲間がフリー雀荘に通い始め(今はどうか知らないが、当時は高校生でもフリー雀荘で普通に打てた)気づいたら全然勝てなくなっていた。こいつだけには一生勝てそうに無いなあと思うほどの差を感じた。
大学にはいかなかった。就職してからはたまに学生時代の仲間と卓を囲んだり、職場の同僚と打ったりしていた。たまにふらっとフリー雀荘に行くこともあったが、大体勝てないし、緊張して普段通り打てなかったり、点数計算間違えたり、大体負けまくっていて全然良い思い出がない。
2年ほど前に始めた。一人で地方で住むことになり、仲間がいなくて寂しかったのかもしれない。特段勉強はしなかったが、特に壁に当たることもなく380戦程で5段になった。その後1000戦ほど費やし苦労して6段になったが酔っ払って打ったりコンディションが悪いとすぐにレーティングを溶かしたので、少し真面目に打つことを心がけた。同時に放銃率などの数字も気にして、たまに牌譜を見直して反省してみたりして、天鳳で勝つための方法を探り始めたのはこの頃だったように思う。
# 伸び悩み そして降段
少し専門的な話になる。
当時の記録を遡ると、5段昇段時の数字が
放銃率13.5%
副露率38.4%
平均順位2.36
対戦数379
1位29.6%
2位27.2%
3位率21.1%
4位率22.2%
端的に言えば、めちゃくちゃ仕掛けて上がりまくる麻雀だった。放銃率はギリギリ及第点だが、特上卓(4段以上になると打てる)に移ってからレベルが上がったので、なかなか上がらせてもらえず、和了率が下がった分放銃率が上がった。フリーやセットのような、1着の価値が高い麻雀では正しい戦略だが、圧倒的にラスを引いた時のマイナスがでかい天鳳ルールには適さない。このあたりまでは、学生時代にそれなりに打っていた蓄積だけで戦っていた(日常的に麻雀を趣味とする人で、それなりに自分が打てると自負する多くの人が、おおよそこの辺りのレベルだと思う)が、その後伸び悩み(結局7段昇段までに2000戦程度を要した)自分の打ち方を変化させることを迫られた。
6段になると、ラスを引いたときのマイナスがシャレにならなくなる。例えば特上卓東南戦だと、1位+75、2位+30、3位±0、4位-120。1位から4位まで一回ずつ引くと、15点もマイナスする(セットだとトントン)。一度は運で6段に昇段したものの、その後負けまくって一瞬でレートを溶かし、一気に4段まで降段した。放銃率も14%を超えた。一度は心が折れそうになって、天鳳から離れていた時期もあったが、時折思い出したように打ち始めた。牌譜を検討して改善点を洗い出したり、いくつか戦術本を読んで、いろいろ打ち方を変えてみたりした。
振り返ってみると、実戦と反省、試行錯誤の成果が大きかったように思うが、中でも参考になった戦術本をいくつか挙げてみたいと思う。
リーチ判断、押し引き、ベタ降り手順(対リーチの危険度比較)の参考にした。ひと昔前にネット麻雀で強いとされている戦術について、統計的な裏付けをした本という認識。最新の戦術とは少し違いはあるかもしれないが、今でも十分な教材として通用しうる。特上卓を抜けられない中級者にとって、自分の判断を改めて見直すためには良い教材だと思う。
副露率が35%を超える人にとっては有用な教材になりうる。副露率が高いと、中終盤での押し引きを単純化しやすいが、その分いつの間にか損な選択を強いられているケースが多発する。親リーに対して2者が降りている状態で1000点愚形を無限押しせざるを得ない状況は泣ける。そんな人にとって、面前で柔らかく構えて先制リーチには14枚からベタ降りする、副露手には危険牌を吸収しつつ、面前で押し返す戦略を取れるようになると、戦略の幅が広がる。そんなきっかけをくれる本。
参考にしたというほどでもないが、初中級者が読むには良い本だと思ったので推薦。ネットで無料で読める。最近実写化もされた。多少戦術が古い感も否めないが、麻雀覚えたての人にとっては、今でも十分な教材になるかと思う。
お知らせさんの鬼打ち天鳳位の麻雀メカニズムも読んだが、少し内容が難しすぎた。難読の上に、書籍に書いてあることを実戦で活かせるようになるまでに、数百から数千戦の実戦が必要になると思う。超上級者の思考が垣間見えるという点では良書。
# 確かな手応え そして7段へ
4段に降段してから、400戦ほど試行錯誤を重ね、ようやく再び6段に復帰することができた。相変わらず放銃率は14%を超えている(四人打ち7段の平均放銃率が12.5%なので、せめて13%台、可能なら13%台前半まで下げたいところ)し、褒められる成績ではないが、はじめて6段に昇段した時よりも微かに手応えを感じていた。その間に主に以下のポイントを中心に修正を心がけた。
まとめると、鳴きすぎ、副露手と対リーチ時の他家に対するケアが甘い、ケイテン取りすぎ(某氏の「ケイテンは勝負手」という独り歩きした言葉を鵜呑みにするとひどいことになる)といったこと(結果として放銃率が高い)を自分の弱点と認識していた。無論いまだに上記の弱点はあるが、多少改善していると信じたい。あと、それまでは特東赤速で打っていたが、多少東南戦の方が勝ちやすい気がしたのでボリュームを増やした。6段になってからはほとんど東南戦しか打っていない。東南戦のほうが時間はかかるが、局数が長い分強者が勝ちやすく、上振れを引いたときの上昇幅も大きくなる。それまで特東で2000戦近く打ちまくった経験が、南場での条件戦で相対的に有利に働いた感もある。
6段に昇段して100戦くらいした頃、某Microsoft製のAIとマッチングした。たまたまトップを取れたが、牌譜をみてびっくり。今までみた牌譜で圧倒的に衝撃を受けた。色々と特徴はあるが(勢いでお知らせさんのsuphx本を買ってしまった)中でも最も凄いと思ったのは押し引き。特に副露手に対する速度計算とケア。自分よりも数段階前倒しでケアしていることに驚いた。次に中盤の手組み。スリムに構え、終盤で手詰まって損な選択を迫られるケースがほとんど無い。そして手役とドラに対する意識、特にホンイツ。その他細かいところではション牌字牌の先切りと、一枚切れ自風への価値。2,3巡目でもsuphxはション牌字牌より1枚切れ字牌の価値を高く見積もる傾向(この判断が勝率に直結しているとは思わないが。suphxの最も優れた点は押し引きだと思う。)がある。
以後、副露手に対するケアと中盤の手組みを意識して改善した結果、ラス率が2%程度減少した。たったの200戦程度なので数字自体は参考にならないが、これまでに無い手応えを自覚した。結果として、おそらく多少の上振れをひいてはいる気はするものの、再度6段になってからは300戦程度で7段に昇段することができた。直近200戦のラス率は21±2%前後で推移していたはず。この位の数字をキープできれば、おそらく数百戦で7段に昇段できるはずだ。
# 7段昇段時の成績
放銃率14.1%
副露率37.3%
リーチ率18.9%
平均順位2.48
対戦数2425
1位25.9%
2位24.8%
3位率25.1%
4位率24.2%
R2060
昇段まで残り20ptで3ラス引き、残り20pt再挑戦でsuphxに連対を阻まれ、その後2ラス引いたときは泣きそうになったが、最後はあっさり3トップで昇段することができた。長かった。本当に長かった。
技術向上のためにやったことと言えば、とにかく実戦。そして自分の打った牌譜を見直して再検討。とにかくこれの繰り返しに尽きる。戦術書はいくつか読んだが、中でも上にあげたものが役にたった(ように思う)。強者の牌譜をみて検討するなど、他にもっと良い手段があったかもしれないが、自分にとっては、今一つ自分でない人の牌譜をみて検討するという気力が起きなかったでやっていない。他にプロのリーグを観戦したり、youtubeで麻雀関連の動画を漁ってみたりはした。どれも楽しくてタメになるコンテンツだったが、果たして自分の技術向上に活かされているかという微妙なところ。辛うじて、うに丸さんの押し引きと、鳴き読みに関する動画、渋川難波プロの天鳳名人戦牌譜検討動画の切り出しコンテンツで、ケイテンの方針などは参考になったような覚えがある。
ちなみに天鳳7段は、ゲームの中では上位3000番付近、競技人口全体では上位0.3%に入るかどうかというところ。プロ雀士と言われる人の平均的な実力はこの付近だと思われる。麻雀知らない人(がここまで読んでいるとは思えないが)向けに説明するとこんな感じだと思う。もし大きく違っていたら訂正してほしい。
昇段して数日たった今になってじわじわ嬉しさを噛み締めている。たかがゲームとは言え、最後の数百戦は寝食を忘れ死に物狂いでコミットしたことが結果的に運良く実を結んだことへの実感と自信。代償に、ただでさえギリギリだった体重が6kg減ったこと。費やした概算1000時間。今となっては、本気で取り組んで心底良かったと思っている。
一方で、麻雀というゲームの果てしなさ、というかある種の不毛さを感じないでもない。例えば特上卓で平均順位2.50と2.45の人では、スポーツ競技に例えると地方トーナメントで1回か2回勝ち上がれるかどうかという選手と、シード選手ほどの明確な差がある。ところが、両者が仮に100戦戦ったとして、前者は1着から4着を25回ずつ取るものとする。後者は、前者が4着を取ったゲーム2回分を、それぞれ1着と2着で終える計算になる。着順の合計の差はたったの5。
ところがこのくらいの着順は、麻雀の運要素で軽く吹き飛んでしまう。仮に東南戦を打つとして、1戦あたり平均40分程度。100戦程度でも、4000分=66.6時間かかる。大体月一でセット麻雀打つ人が一年で費やすくらいの時間だ。仮に毎週打つにしても年間400戦程度。その程度では両者の差は運で吹き飛んでしまう。実力差がある程度数字に反映されるためには最低1000戦、できれば2000戦ほどは必要になってくると感じる。この認識は間違っているかもしれないので、統計に詳しい諸兄がいれば教えてほしい。
そんな競技、言ってみれば運ゲーの世界で数千、1万数千と打数を重ね、天鳳位まで上り詰める人は一体どれほどの鍛錬を積み重ね、神経をすり減らしているかと思うと途方もない。反省して改善を施そうと努力したところで、その微差を改善した結果が数字に現れるのは少なくとも1000戦以降。単純計算で666時間もの時間がかかる。果たしてその間ブレずに方針を貫くのは非現実的で、仮に結果が数字に現れたところで、本人は何が数字を良い方向にもたらしたのか検証する術がない。ものによっては時の運に吹き飛ばされ、永遠に結果が出ないものもあるかもしれない。こんなブラックボックスの中で、競技プロ含めガチ勢は日々細かい努力を重ねているかと思うと本当に凄いと思うし、不憫でもある。
いったん満足したし、仕事も忙しくなるのでしばらく麻雀から離れようかと思っていたが、1日休んだだけで鳳凰卓への興味がむくむくと湧いてしまい、結局課金して遊んでしまった。たった鳳南を6戦打っただけだが、ひとまず現時点では戦えている感触はあって一安心している。散々不毛だと書き散らしたが、麻雀自体は楽しいし、友人とセットもしたいし、今後も適度にゆるゆると楽しんでいきたいと思う。
たかが新人7段が偉そうにと思われる方が大半だと思うが、麻雀好きの誰かの参考になれば幸甚である。もう少し初心者にも寄り添った内容にしたかったが、申し訳ない。
最後になるが、改めて。麻雀は素晴らしい。いつか増田諸兄と同卓した際には、お手柔らかにお願いしたい。
(追記)
麻雀やる人に聞きたいんだけど、麻雀用語から一般にも普及してる言葉っていろいろあるじゃないですか。その中には麻雀用語と一般用語でだいぶ意味の変わっちゃってる言葉も多いですよね。
テンパるなんかは一般ではヤバい時やパニックになりそうな時に使われがちだけど元の意味を「あと一歩で終わる」というように解釈するならば意味が変化した流れとしてなんとなく腑に落ちる。しかしどうにも納得できないのが仕事の場で使われる「ダマテンでやる」なのです。
「必要な作業が手順書に漏れてる。簡単だからダマテンでやってしまえ」
「何度も訂正しましたというのは印象が良くないからダマテンで訂正しよう」
といった感じで使われている。今の会社だけではなく他業種の知り合いも使ってたから広く普及してる言い方だとは思う。
この意味なら「ダマでやる」でよくない?
東京のとあるベッドタウン。俺は引っ越してから地元とは仲良くしておきたいと思っていたので、飲み会とかよく行っていたし、アパートに人が来たこともしばしばありました。いつしか同人作家であることは周知の事実になっていたし、それは別に恥ずべきだとは思わなかったですね(死ぬまでダマテンすべきだったと言われたらそうだったかも知れない)。だが、私生活に色々言われるようになると、さすがにウザイんですよ。
話を元に戻すと、あなたは別に私の私生活に文句をつけないかも知れませんが、私の経験では、恋愛しろという人は他人の私生活を破壊しようとします。だって彼らは世間一般の人で、彼らがそういうのなら世間一般はそうなんだろうとしか思えない訳ですね。
あーなるほどね。
http://anond.hatelabo.jp/20090411123751 ←使用前=関係構築中と捉えて励ます。
http://anond.hatelabo.jp/20090411124359 ←使用後=関係性の絆(相手への関心・興味関心の共有)崩壊と捉えて終わりを宣言。
個人的には、後者の関係は相手に求めるものとしては理想的だけど、相手に黙ってやられるとちょっとへこむかなあ。