はてなキーワード: 雑種とは
Twitterが最近ヘイトに加え死ねとか死んでほしいというツイートまで規制してしまった
鍵垢でもあんまり汚い罵倒はAIとかで自動検知して凍結になるのだろう
最近理不尽に出会って境遇を汚い言葉で罵りたくなっても何処にも吐き出すことができなくなった
同期のクソ女が舐めた口を聞いてきた 死ねと思った
帰省で特急乗ったらクソ女が座席に荷物をおいて占領していて座れなかった、死ねと思った
田舎に帰ったらしつけも何もしてないような大型の雑種犬をノーリードで散歩させてるババアがいた 死ねと思った
ラーメン屋の行列に並んでたら数列前のクソジジイが煙草を吸い出して副流煙を浴びせられまくった 死ねと思った
うんこみたいな人格の上司に理不尽にキレられた 1000億回死ねと思った
しかし言えなければ言えないだけ自分の中の死ねという気持ちは溜まっていく
犯罪は起こす気はないよ でも一体俺はこの気持ちをどこにぶつければいいんだ?
鍵垢でひっそりと理不尽に死ねということすら許されない、これが世界の望んだ綺麗な世界なのか?
そんなもんクソ食らえだよ、死ね
確定じゃないんだけど、リンパ腫で何もしないとあと2ヶ月。
柴系雑種でもう17歳だし、白内障で全然見えてなくて、影が動くだけですっごいビビるし。ボケたり歩けなくなったりしたら大変だとは思ってたけど。
元々すごいビビりな犬で、誰が来ても吠えまくってて、閉所恐怖症で犬小屋買ったのに一度も入らなくて。
そんなでも大人になってちょっとは落ち着いて、愛想は悪いけどいつもそこにいて、ずっといることを疑うことなんて無かったのに、やっぱり死ぬんだよね。
いくら犬の時間が人の5倍で進むって言っても癌も5倍速なのかよ。
抗がん剤治療は歳の事とビビりな所でやめといた方がいいだろうって事になってるんだけど、本犬的にはどう思ってるんだろうなって。
こんな閉じ込められてる様な生活ならすぐに死んでもいいって思ってるのか、もう少しでも長く一緒にいたいって思ってくれてるのか。
今から20年前、まだ自分が7歳の頃、はじめてダックスフンドみたいな雑種の子犬がうちに来た。姉(10歳)からの要望で。
その子は姉にポチ(仮名)と名付けられてたいそう可愛がられた。私が「触りたい!」や「散歩いきたい!」といっても姉は許してくれなかった。
その後、3年ぐらい経ち、ポチは姉に甘やかされて育ったためすっげーワガママに育った。
そうなってくると姉もポチを可愛く思わなくなってきたのか(大きくもなってきたし)、その頃はやりの「チワワ」を欲しがるようになる。
そして、姉は親にとても甘やかされているのでチワワの子犬を買ってもらうことになる。
私はポチを一応可愛がっていたし、チワワがそこまで好きじゃないので、命をこういうふうに呼ぶのはよろしくないが、「ポチ」がお下がりでお世話が回ってきて嬉しかったのを覚えている。
姉はもうポチには一切触れず、チワワのチー(仮名)ばかり可愛がるようになる。ただ、ポチみたいにしないとしつけはしっかりとしていたようだが。
ポチは最初はいつものように姉の方にいくのだが、チーとは気が合わなかったのか次第に寂しそうにしていた。
それから姉は、今度はトイプードルがほしいやら、柴がほしいやらで、一時期は5匹の犬が我が家に居た。
私もなるべくお世話には加わったが、基本的に姉は新しい子ばかり面倒をみて、大きくなるとまた新しい子をほしがった。
そうなると、基本的に散歩は私と父親、たまに母親がするようになうになる。
そうしていく内にポチが他界し、私も進学のため家を出て、お世話は父親一人でやっているようだ。
私が帰ってくると、最初は嬉しそうに4匹で出迎えてくれるがすぐに父親のほうに戻っていく。
姉が帰ってくると見向きもしない。
多分、犬は甘やかしてくれる人間よりも、一杯遊んでくれたりお世話してくれる人間に懐くんだなって思いながら、去年の今頃にチーが息を引き取ったのを思い出してこのエントリーを書いてる。
追記
父はそもそも犬大好きなので買い与えているというか、多分姉をだしに使って犬増やしていた感じはしています。母は吠えられるから犬が好きじゃないから飼いたくてもなかなか飼えなかったんじゃないかな。家の子は大好きみたいですけど、やっぱり他の家の犬は嫌いみたいです。
家広いっていうか、ど田舎なので庭が広いと言うべきか…住宅街じゃないから出来る飼い方ですね。チワワとトイプードル以外は里親募集から貰ってきた子ですし、たぶん皆さんが思ってるよりはそうとう貧乏です…。
私視点からみても姉はヤバイとは思いますが、まぁ、大きくなった犬見るとたしかに子犬のような可愛さがないからそう思ってしまうのも理解してしまうんですよね。自分たちが見ていた動物番組(ペット番組)って基本赤ちゃん動物メインですし。
私はそういう番組よりもどうぶつ奇想天外みたいな野生動物を見るほうが好きなので、姉が犬に求めると癒やしと、私や父が犬に求める癒やしは全然別物だと思います。
うちには猫が3匹いる。性格がそれぞれ違い、好物もそれぞれ違い、懐き方もそれぞれ違う。
みんな違ってみんな可愛い。
しかし、その内の一匹に昨夜マジギレされた。
その猫N(仮名)は雑種だが、長毛で姉妹より巨体(手とか耳とかパーツ自体も大きめ)。毛皮の下のボディーは平均より少々ぽっちゃりめ。
性格は、基本的にはマイペースである。猫なんて多かれ少なかれマイペースだけど、相対的にみてもNはとてもマイペースである。
かといっておっとりとかのんびりというよりかは、謎の風格がある。走って逃げたりはせず、歩く時もゆったり威風堂々というか、まぁ態度はでかい。
そのご尊顔は飼い主のひいき目もあるが、長毛ゆえに優雅で金持ちの猫といった感じの美人である。ただしふてぶてしい表情がデフォルト。
好きな食べ物はいちごやいちじくなどのフルーツ系で(OLかよ)、好きな場所は箱の中。最近は暑いので床でだれていることも多い。
この時期の猫は抜け毛がすごい。N様は毛が長い分、量は多いわ絡まるわで、ブラッシングするのも大変。
しかし撫でろとその金の目が命じれば、拒否する事はできないわけで。
顔・首周りから背中を撫でられているしばらくの内、N様は目を細めていた。尻尾が「くるしゅうない、もっとやれ」と語っている。
その内N様が伸びをして、いわゆるエジプト座りの対象になった。ふと目が合う。
あれぇ、N様の目がマジだぁ。
真ん丸になっている(可愛い)。一向に瞬きをしない。こっちが目をつぶっても逸らしてもウインクしても、ひたすらガン見、真顔である。
めっちゃ警戒されている!N様いきなりのマジギレモードである。(なんで猫ってあんなに「私怒ってます」の顔分かりやすいんだろうな、猫なのに)
えぇー私さっきまであんなに尽くしていたのに!!
恐らくゆらゆらしていた尻尾がパタンパタンしだした時が辞め時だったんだろうけど、それに気付かなかったんだろう。
にしても、たまに目線が妙に上にずれる。なんだ、何を見ているんだ?と思ったら妹がひとこと。
そういえば先日のこと。N様は機嫌ななめで、手を出そうもんなら威嚇された挙句引っかかれそうな具合だった。
しかし大好きな母に手を拘束されたまま抱かれたので、これなら安心とN様に顔を近づけた私。
すると私のおでこに、N様ががぶっと一撃。
『パンチができないなら噛みつけばいいじゃない』
衝撃で皆が思わず笑う中、N様がフンと鼻を鳴らした。私のおでこからは血が出た。
もうちょっとこう、手とか腕とか、自分の近くに出されそうで警戒しなくてはいけない、かつ、引っ掻いたり噛んだりしやすい場所はあると思うんだ。今回は拘束されているわけでもないし。
それなのにちらちら投げかけられる頭部への視線。何故。
あの時の衝撃と痛みを忘れるなとおっしゃっているのか。
N様が何を考えているのか、私には分からない。が、とにかく、おでこへの攻撃が癖になっていない事を願うばかりである。
そんなこんなですが、猫様はとても可愛いです。ちなみに一番仲の良い猫は靴下にゃんこのC様(仮名)です。いつも玄関でおかえりって出迎えてくれる。
僕はこの犬から色んな事を学んだ。
ある日彼女の寝床に血痕を発見し、母にひょっとすると酷い怪我をしている可能性があると訴えたが、大丈夫だよとの根拠の無い回答にイラついたが、犬はなるほどそういう物なのかも知れないと諦め、世の中には自分の知らない事が結構有りそうだという予感がしたのだった。
我が家には雑草の生い茂る4坪ほどの空き地があった為、この四方を鉄柵で囲って彼女が自由に活動できるようにしていた。
小学三年の頃になると、餌をやりに鉄柵を開けると一目散に彼方へ逃げて行き、朝まで戻ってこないという事案が頻発するようになった。
帰ってきた彼女を父が叱責し、体中から悲しみのオーラを出し服従のポーズを取る彼女の姿が忘れられない。
しかし彼女は脱走をやめなかった。時には鉄柵の下に穴を掘って抜け出していた。
ある日母から、彼女が赤ちゃんを産むことになったと知らされた。なるほど犬はそういうものなのかも知れないと思ったが、家族の話を聞いてると、どうも夜な夜な脱走している事と関係があるらしい
とにかく子犬が早く産まれて欲しかったので、細かいことはどうでも良かった
冬の寒い時期に無事出産したが、5匹産まれて、1匹はすぐに死んでしまった。
目のまだ開かない彼らに小指を差し出すとちゅうちゅう吸ってきて可愛かった。
地方紙の通信・広告欄で里親を募集、4匹とも引き取られていった。
何やかんやを繰り返し、小学5年の頃に彼女は2回目の出産で4匹の玉のような愛らしい仔犬を産み3匹は引きとられ、1匹は貰い手がつかず、育てる事となった。
この二世は毛の模様が母親そっくりのメス犬で、2匹は楽しく暮らしたが、
体の大きさが同じくらいに成長した頃、母親は車に轢かれて死んでしまった。
中学2年のある朝も彼女は居らず、今日もどこぞの馬の骨に抱かれに行ったかと思いながら歩いて登校していると、道端からぴょこっと現れて、どこまでも付いて来たので、最悪な気分で家へ連れて帰ったということもあった
じきに生涯一度だけとなる出産を経験し、やはり4匹がこの世に生を受けた。
体格がよく、毛並みのいい3匹は里親に引き取られて行ったが、大人しいハイエナみたいな毛並みのメス犬が残った
三世として伝統を受け継ぐはずであったが、二世と一緒にハイキングに出かけ、翌朝二世だけが帰宅し、その後三世が戻ることは無かった。
個人的に0から1を生み出す「くりえいたー」になりたい。憧れてる。
そういう人結構多いと思う。
でも多いからか、何か「くりえいたー」じゃないのに「くりえいたー」的な事言いはる偽物も多い。
純血を貶める、なんちゃって「くりえいたー」ども。
純血の「くりえいたー」と一緒にしてはいけない。
歌うだけのヤツは偽物。純血ではない。作詞だけ、作曲だけも同じ。
最終アウトプットが歌である以上、一人でそれを構成しなくてはいけない。
曲も歌にするなインストで売れ、歌うだけの奴はオペラとか古典歌って歌声だけで戦え。
それができない格下だから徒党を組んでいるのに純血ヅラするな。
・漫画家
こちらも同じく最終アウトプットが漫画なので、一人でそれを構成してこそ純血。
原作が純血ヅラしたければ小説家になれ。作画家は絵描きになれ。
一人で漫画家になれないから徒党を組んでるくせに純血ヅラしてはいけない。
また、一人で書いていたとしても企画先行モノは論外。
受注制作しているものは純血ではない。ビジネスに飼われた負け犬。
・絵描き
最近数多いる有象無象の商業イラストレーターの多くは純血ではない。
二次創作は純血どころか、かなりの劣等種。なぜかそのくせ声はでかい。
その多くが純血。
0から自分の体だけで感動を生み出しているので「くりえいたー」と言っていい。
己の体をくりえいとしている。
・写真家
どちらかと言えば「くりえいたー」の成果を掠め取る、「ぷろでゅーさー」に近い。
シャッター押して出来合いのフィルタかけるだけで作った気になれちゃうインスタグラムがいい例。
・映画屋
・アニメ屋
・ゲーム屋
勘違いされがちだがこいつらも偽物。
なぜならば、これら全て産業が巨大で一人で作り上げるのが不可能だから。
商業に染まり、多人数で創るものはどうあがいても純血ではない。
ただ、産業が巨大なので中にいる人間のプライドは高く純血ヅラするものが多い。
でもたまに一人で作っている人も少なからずいる。
純血の定義は一つ。
それ以外は すべて偽物。まがいもの。
純血ヅラしている人間は、今一度胸に手を当てて考えてもらいたい。
そして、
純血は純血のみとしか通じ合えない。
尊敬と畏怖と共に、肝に銘じなければいけない。
トリマーがうさんくさいし小さな犬を飾ってる。しかしそれが仕事な人なんだよなーと思って見ていたら、マツコがトリマーのカットをかわいくなーい!と言いまくってた。それにカリスマトリマーはそうですかね?と返事する。嫌な雰囲気だなと思った。マツコは純粋に可愛くないと思っただけだろうけど。
マツコのことは、出てる番組をほとんど見ているくらい好きだが、さすがに失礼な対応だなと思い世間ではどう見えてるのだろうとなんとなくツイッター検索してみた。
しかし出てきたのはこのトリマーは犬をおもちゃにしている!犬は物じゃない!ってので溢れ帰っていた。
えー。そこなのかー。うさんくさいカリスマトリマー、クライアントありきのサービス業なのにな。
ペットを○○風だの流行だのにカットだのエクステすることが怒りを買うのか。普通のカットはいいのに?
最近どころかかなり以前から、〇〇テロとかいうスラングが流行っています。流行りというよりももはや、定着してしまっているみたいですね。例えば「飯テロ」とか「バイトテロ」とかです。TwitterとかSNSとかでスラングとして広まりもしましたが、マスメディアや広告代理店が流行らせたのとどちらが先か、私にはよく判りません。
そもそもテロリズムというのは、テラー・イズムだからテロリズムなのですから、つまり目的のために恐怖を与える手法のことをテロリズム、略して「テロ」といいます。こうした語彙の意味もおそらく解っていない人が、〇〇テロとかいう造語を安易に用いているのでしょうね。
「ゲリラ的」と言っていた場面でさえも「テロ的」とか言う人が出てくるようになって、意味が全く判りません。そのうち、「緊急企画」などという大げさな表現がありますが、それも「テロ企画」って言うようになるかもしれませんね。
世界的に見てもおそらく通じない、恥ずかしいことだと思います。冗談では済まないんです。テロというのは、大量殺戮と恐怖なんですから。
昔からそうなのでしょうけれど、今の日本人はさらに、言語の扱い方を解っていないと思います。昔から、字はせっせと教えられ、習字、言い換えれば「かきかた」は執拗にやりますよね。
けれど、修辞をやらないんですよね。
「国語教育」とか「日本語」とかいう語彙が明治期以降なのでしょうが、広められ定着させられました。けれど、古来の言語は「やまとことば」(和語)で、中国から漢語を書きことばとして受容し、やまとことばを書くためにも漢字をあてるようになったものです。だから、「古文」(「古語」)と「漢文」という各教科が、意識的に設定されていました。しかし今って、ほとんどの人は、「日本語」と称するものがいったい何なのかを解るのではなくて、むしろ単に「コピペ」で話したり書いたりしています。
「ゆとり」とかいう以前から、丸暗記、思考停止のコピペ教育なんですよ日本って。
何が変わったかというと、戦後から今にかけてずっと、都会へ引っ越してきた世帯が増え、いわゆる核家族化もし、同時に会社人間化(社畜化)、学歴という階級差別で親が教育をやらなくなり、さらに(貧困への退行による)共働きが増えたわけですね。だから、親や祖父母が教えなくなった、そもそもの教える能力もなくなった。本に書いてあること、新聞やテレビにあること、学校や塾や予備校でやることばかりが、皆に刷り込まれるようになりました。
我々は戦後から今に至るまで、食べ物にしても人為的に大量生産されたものを食べることが多くなり、生きたものを調達して最初から調理することは減りましたし、「外食」のように他人が作るもの、それもチェーンやフランチャイズの均一規格品を食べることが多くなりましたよね。
実は、野菜ですら、人為的に交配・生殖されて共通の遺伝形質をもつ第1世代交配雑種(F1種)が多くなっていて、遺伝子組み換えでなくたってもう、均一規格品化が進んでしまっています。ましてや、霜降り牛肉とかブロイラーとか、言わずもがなです。そして我々の肉体は、そうしたものを食べたり(飲料を)飲んだり(気体を)吸ったりしたものから形作られています。ですからもう、肉体の共通規格化や、生物としての異変が、そのことに気がつくか否かを問わず進んでいます。
同じように、精神、人格も、共通規格化が進んでしまったわけです。教わることも、人生経験も、ワンパターンになっていきました。そうして我々は、大量生産の共通規格品になっていったわけです。
それが生物として、人として異常だから、本能的あるいは意識的に、抗おう、闘おうとする情動が沸いてくることもありはしますが……。おそらくたぶん、その多くは本能的なものにすぎないのではないかと思います。
ともかく、考えずにコピペで言うようになりましたから、その社会通念がたとえ間違いであったとしても、差別やヘイトであったとしても、自覚なく平然と言う社会になります。間違っているという自覚が起こらないんですよね。固定観念なんだ、偏見なんだという自覚がないままに、皆が平然と酷いことを言うんです。
実際には、人それぞれ異なるわけですから、どうやっても完全には共通規格化はしません。もしもかりに皆完璧に同じになったとしたらパンデミックで滅ぶんでしょうけれどね。完璧に同じではなくとも、皆同じことしか考えられない世の中は創造性がなく、トラブルの解決能力もなくなります、既にそうなっています。
完璧には同じになりえないのに、社会全体に広まっている偏見を我々全員に適用しようとするから、うまくいくわけがありませんし、間違っていますし、軋轢も起こります。その軋轢に耐えることを事実上強制されるのは大概、権力や数の圧力をもたない方。
それで事件が起こることもありますし、人が死ぬこともあります。かりにそこまでいかなかったとしても、人というものは、大半を言語で思考する生物ですから、言語が荒廃していると精神や人格も荒廃します。そして社会とは人々で構成されていますから、荒廃した人々で構成されている社会は荒廃しています。
そしてそれで、そんな日本人が世界に通用すると思っているとしたらおかしいでしょう。己の母語もまともに扱えない者が、他人とどうやって対話するのでしょうか。それどころか、欧米の論理ですらも全人類には通用しません。人類の自己中心的な論理も地球や宇宙には通用しません。だから、日本人と称するものは救いようのない低レベルだと思うんですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20161005192648
飼って良いのは飼われる覚悟のあるヤツだけだ。
彼女がオマエに対して、次のような「紹介」をした際に、受けとめる必要がある。
「犬のおまわりさんって困ってしまってわんわんわわんわんわんわわんだったんだって。で、メタモルフォーゼできる犬の出るカートゥーンが……」
「桃太郎に出てきた犬ってきびだんご一個で鬼退治させられたわけでしょう?それで、こんどPETAが……」
「渋谷駅の銅像のモデルになった、ハチ公っていう忠犬がいて……」
「N.W.Aてドクター・ドレーが所属してたんでしょ?それで、will.i.amのCD持ってきたんだけど……」
「『アーティスト』のアギーちゃんが出てた『俺たちスーパーポリティシャン』って映画……」
こういう「非犬好きの彼氏に勧める」「犬興味ない彼氏を」「散歩不精の」「雑種未体験の」「飼いたい犬を」みたいな、
彼女がオマエに対して「自分の犬を紹介して、できれば一緒に飼ってほしいな」という願望に対して
オレは犬にも犬にも犬にも犬にも犬邦画にも興味はねェヨって言わないヤツだけが
次のオススメ一覧を参考にできるし、その上で勧めても良いし、勧めなくても良い。
アレは犬がかわいそうでとっ散らかってる上に、全体的に「神経を試す」要素が強い。
「甘え」とまでは言わないが、「科学の発展」と言う割に、相手にだけ負荷をかけていると思う。
想像して欲しい。
「混合ワクチン接種は現在のペットを飼う上ではどうしても外せない。どう思ったか聞くのが狙い」
現実世界は徳川綱吉じゃねえから、病院のベッドの上でイヤイヤされたら二度と仲良くなれねえぞ。
彼女と一緒に「君の名は。」を観に行って、相手が「犬出てなかったじゃん!」となっていること。
犬を嫌悪しない
犬に忌避感がない
犬なら付き合ってくれる
目標は「自分が勧めたら、アフガンハウンドでも一緒に飼ってくれる」ところに持っていくこと。
いきなり超大型犬かよ!とか言わない。
必要なのは「相手の飼いたいもの」と「自分の趣味」とがクロスしている部分を探す努力だ。
『アルプスの少女ハイジ』でもおなじみの犬種で、基本的に性格はおだやか。
こどもに対しては人間にも犬にもやさしくて頭のいい、よく出来た犬種だ。
大きいイヌは威圧感があった怖い……みたいなベタ先入観を茶化しつつ、ベタベタにじゃれてくる。
オタクとして観るなら「換毛期に落ちた毛をどうやって回収するか」に着目してみよう。
昨今観ることのなくなったデカい犬の一挙手一投足に注目するのもおすすめ。大型犬すげえぞ。
たまに大型犬が嫌いな女性もいるが、普通の犬なのでそこまでマイナスになることもない。
(ただし、相手に負荷をかける意味は全く無いので、イヌがのしかかってきたら配慮してあげること)
一見気品ある、気位が高そうな見た目ながら、実際飼ってみるとに(彼女にとって)親しみやすい要素を多く含む。
しなやかな肢体と、すらっとしたチャーミングな体躯で目をたのしませてくれ、
ガチャガチャとした被毛や、実は意外とヌケている性格をスッキリ見せる。
オタクとして観るなら「ロシア貴族に猟犬として愛されてたころの名残」を一つでも多く探そう。
彼女に「ボルゾイちゃんと今日も一日がんばるぞい」と言わせられれば目的達成。
オマエまた超大型犬かよ!とか言わない。
ドッグショー要素を排除しつつ、あくまで人間のパートナーとしての遺伝子を挟んでくる犬種。
親父の都合で引っ越しを余儀なくされ、アクシデントにも前向きに取り組むものの、
転校初日の自己紹介で情緒不安定になってしまう少女ライリーちゃんにもきっとやさしくしてくれる犬だ。
人見知りやすい割に、ちゃんと身内にはなついてくれて安心できる。
「『フランダースの犬』のパトラッシュとちょっと違うけど、みてて面白い」と相手が思えば目的達成。
「ブリアード」→「ボーダーコリー」→「オールド・イングリッシュ・シープドッグ」
(コーギーを完走できれば、ほぼ教化は完了している。ペンプロークとカーディガンを一緒に飼えるだろう)
ジャックラッセルのテリアじゃないけど、かなりのガッツもある。
「『デレステ』の渋谷凛のテリアとは方向性が違うテリア」を違和感なく観てもらえればOK。
この辺で多少、飼い終わったあとに在りし日の思い出が言い合えればベストだけど、どうかな。
いまさら柴かよ!とか言わない。
偽装飼い犬になるバイトを憧れの人間から持ちかけられたわんこが、
人間の実家でかわいいかわいいと親戚一同にモミクチャにされながら
「かわいかったけど、犬は苦手かな」と言われたらここで一旦諦めよう。
皆様おなじみシベリア生まれの雪玉野郎だけど、ちゃんと血統をつなでいるのがエライ。
前提知識が要らない、極端にじゃれにいかないけどじゃれも入れてくる、
紛れもなく犬オタ向けであり、歴史ネタ(最初に南極大陸を踏んだ犬)もちゃんと入ってる。
あとは好きにしろ。
犬から入って、犬、犬、犬、犬、そして犬。
おおよそ、20年~100年半ほどかけて、いわゆる犬オタの好む犬に寄せて行こう。
毛並みの綺麗な犬や上級者向きの野犬ばっかりの構成では意図するところが達成できず
ディンゴとの邂逅で絶縁されかねない。
ティーカッププードルとかカニンヘンダックスあたりですら「ちゃちゃい活発な犬種」ってだけで
いきなり見せたら、かわいい!マジで!このわんちゃん以外みんな(おまえも含め)死ねば良いのに!って思われても仕方がない面もある。
(ボクサーとかブルドッグとか、その手のきもカワ犬からの距離を考えよう)
みんな麻痺してると思うが、結構一発アウトになる犬ってあるんじゃないかな。
シャーベイとかチャウチャウとか、非犬オタから見たらアビシニアンと同レベルだと思う。
(正直、ワイマラナーも一発目はムリ)
段階さえ踏めば犬は好きなので良いと思うんだけど、
いわゆるオタク向け犬に慣れてもらうのって大変だと思う。
ポルテュギーズ・ウォーターとかオバマが飼いはじめたことで知名度あがったけどまだ貴重だし、
ペキニーズみたいなアクの強いのもアレだし、
書いてて思ったんだけど、「勧めたら一緒に飼ってもらえる」信頼を得つつ、
『101匹わんちゃん』観てても「ああ、なんかダルメチアンばっかりのアニメだけど、面白いのかな」って思ってもらえるって
すんごいハードル高いな。オレの友人はついに犬のきぐるみを購入することに成功したらしいが。すげえな。
やべー。
うちの犬について書くの忘れてた。
おまえらにはやんないけどな。
健闘を祈る。
最近の若い子はみんな可愛いが、その理由は実はミネラルウォーターにある。
水素水とか人工的な訳わからん水じゃなくて、田舎の湧水のことだ。
今までの人生の中で、可愛いと思った子ってのは田舎者が多かった。
それも山に囲まれて、田んぼの横に住んでるような筋金入りの田舎者だ。
都会の女を見てみろ。
服や化粧で着飾っているが、地が汚い。
はっきり言ってブスだ。
さらには、いろんな地方から出てきた人間と掛け合わさって交雑して、いかにも雑種くさいブスになったのだ。
まあ、それでも美人率はマシになった方だ。
30年ほど前は、ミネラルウォーターなんて買うのはバカな金持ちくらいだった。
増田アースに大きな月はない。たまに近傍小惑星が捕獲されて小さな月になる程度である。
すると何が起こるかと言えば、潮汐の原因が恒星に限定されるため、
潮の満ち引きのタイミングが単調になる。
海岸の地形にも影響されるが、零時と十二時より少し後の時間がいつも満ち潮になるのだ。
しかも、二つの天体の引力が重なることがないため、大潮や小潮などの変化も存在しなかった。
海の生き物は潮の満ち引きに影響されて産卵などをおこなっているのだが、
潮汐の単純な増田アースでは、これも単調にならざるをえなかった。
結果的に生物活動のタイミングが被って海の中は幻想的な大混乱になる。
素数ゼミ的な回避方法はあるものの、それだけではいかんともしがたいところがあった。
結局、ベントスたちの産卵と放精、巣立ちのタイミングが被りまくり、過度に雑種が誕生しやすい環境になっていた。
増田アースに大きな月がないことは種の多様性にとってブレーキなのだった。
増田南蟹もその一種であり、腹に抱いた幼性を海中に放つタイミングは子供たちの育ちかた次第。
そのおかげで意外に有利な時期にあたって進化の可能性を開く場合もあったが、
うんを天にまかせて放り出される小蟹たちにはたまったものではない。
ただし、行動パターンが読めないマスダナンカニの幼生を専門的に付け狙う捕食者は少なかった。
之の字運動の無意味に思える小さくランダムな変針も、行動を読ませない役には立つみたいなものか。
特におそろしいおそろしいのが鯖鰈である。常に増田海を徘徊している鯖鰈は口に入るものなら何でも食べてしまう。
マスダナンカニには若干の毒もあったのだが、鯖鰈は腹を壊した獲物を食っても、自分は腹を壊さない。
知的生命体の無思慮な活動によって生成されるspamのみが鯖鰈の胃袋にダメージを与えることができるのだ。
鯖鰈は海に送り出されたばかりの増田を食い荒らし、ついでにマスダナンカニ本体も食らう。
他にも月のない海には悪食派の生物が満ちあふれていた。
一方、陸には毎日野菜350gしか食べない偏食派のシマウマがいた。
All Dogs Go to Heaven (邦題:天国から来たわんちゃん)は、1989年11月17日公開のフルアニメ映画。
元ディズニーのアニメーター、ドン・ブルースにより製作された。アニメ内の舞台は1939年のアメリカニューオリンズになっている。
この映画はイギリスの投資家Goldcrest Filmsにより資金提供を受けアイルランドのSullivan_Bluth_Studiosにより製作された。
公開日がディズニー映画『リトル・マーメイド』と競合したこともあり『アメリカ物語』や『リトルフット』などの前作に続く
大ヒットには至らなかったが、その後のVHSでの家庭用メディアの好調な売り上げにより劇場作品の続編とテレビシリーズのリリースが
行われている。
1939年のアメリカルイジアナ州ニューオリンズで雑種のシェパード犬チャーリーとブルドッグのカーフェイスは犬用カジノを
経営していた。しかし儲けの半分を分けることに嫌気のさしたカーフェイスはチャーリーとその相棒であるダックスフンドの
その後チャーリーとイッチーは脱獄に成功しカジノに舞い戻るが、カーフェイスに嵌められたと気付いていないチャーリーは
http://anond.hatelabo.jp/20160306121908
高校生の頃、うちは犬を飼ってた。
雑種犬の子を譲り受けたのだけど、赤ん坊のころはそりゃ可愛かった。
餌をやる(ごはんの残り物だったけど)のは母の仕事、散歩に連れて行くのは俺の仕事だった。決めたわけじゃないけどそうなった。
でも今思えば、俺は随分手抜きしてたんじゃないかと思う。
生え替わった毛を掃除してたのも母だし、シッポの傷口にばい菌が入り込んで痛がるのを一晩中さすってやって、獣医に連れて行ったのも母だったからだ。
都会の大学に進学して、俺は犬の面倒をみれなくなった。散歩も母の仕事になった。
しばらくして、母から電話があった。シッポの傷から入ったばい菌が全身にまわったらしく、あの子は安楽死させたと、涙声で言ってきた。
もう動物は二度と飼わない、こんな辛い思いをするのだからと泣いた。
俺は黙って聞いていた。
この法案を覚えている人、いらっしゃるだろうか? 10年程前、日本で人権委員を設立し、ヘイトスピーチを取り締まろうとした法案だ。
この法案が出た当時、表現の自由の観点からさまざまな批判が行われた。選抜基準が不透明であり、実質的な言論弾圧になりうる。そうした批判が主だったように思える。
当然……と、言うか、なんというか、2ちゃんねるでも、当時山ほどあった個人サイトでも人権擁護法案に反対する運動が起こった。
人権擁護法案反対の同盟(あぁ、「同盟」って単語も懐かしい)も作られた。
そして、その反対運動は、最近の言葉で言えば「カジュアルな差別」とともに行われた。
「実質的な言論弾圧になりうる」という、その一点をきりとれば、至極尤もな主張は「在日や利権を持っているマイノリティだけが得をして、普通の日本人は損をすることになる。それどころか、実質的に、やつらに日本の言論を支配されることになる」という、明らかに間違った被害者意識、と言うか差別的な主張とセットで行われた。
当時、世界各地で、人権委員の設立が行われていた。具体的な事例は、当時は法務省のHPに掲載されていた。現在ならば、師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(岩波新書)やエリック・ブライシュ「ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか」(明石書店)などで、当時の流れをつかむことができる。
だが、そうした観点から、実際の外国人での人権委員の活動や議論を調べ、紹介するような者はいなかった。
結局、振り返ってみれば、当時の人権擁護法案の反対運動とは、「『他人の自由や尊厳を侵害しない限りは』何を言ってもかまわない」と言う本来の表現の自由ではなく「カジュアルな差別をしたい」と言う欲望を守るための言論だったのだろう。
別段、驚くべきことでは無い。
YAHOOでホロコーストについて検索すると、悪名高き世界史コンテンツが真っ先に出てきた。
中国人は王朝の変わり目に数千万、あるいは億単位で人口が増減し、現在の漢民族は漢民族でもなんでもない得体の知れない雑種と言う、どこから突っ込めば良いのかわからない発言をすることが、「中国史通」の条件だった。
当然、教科書に書かれている、日中戦争ならびに太平洋戦争当時の日本軍の問題行為はすべて中国と朝鮮のでっちあげと主張する連中が、面白い人、そして、「一方の情報を鵜呑みにしない人」の条件だった。
保障された権利を行使する連中を冷笑し、「プロ市民」とあざけり、スイスの民間防衛を引用しながら中国のスパイ呼ばわりすることが、「良識的で政治に関心がある人」の条件だった。人権の保障などあきらめ、あるいは現状で満足し、お国の迷惑にならないことを第一に考え、軍事増強を唱える。それこそが、「知的」な人間と呼ばれるための条件だった。
現在、そうした妄言を垂れ流していた個人HPのほとんどは消滅している。
だが、うっかり信じてしまった連中は残った。おそらく、掲示板に書き込みをしていたヘビーユーザーは氷山の一角で、その何倍ものROM専の人間が、上記、カジュアルな差別で塗れたデマを信じ、「新しい知見」と考えたであろう事は想像に難くない。
やっかいな事に、そうした連中のほとんどは、当時自分が疑問に思った事について、情報の更新を行っていない。ヘイトスピーチ、そして、その規制法案について語るとき、上であげた該当問題の入門書を読むこともせずに、人権擁護法案反対のコピペを唱え続けている連中のなんと多いことか。
挙句、何の根拠も無く「日本は外国と違う。日本においてヘイトスピーチと呼ばれているものは、虐げられた日本人の正義の怒りであり、理由の無い差別ではない」などと恥ずかしげも無く言ってみせる。言っていることとやっている事はネオナチとほとんど変わらないのだが、彼らに言わせれば違うらしい。
ホロコースト否定論は相変わらず上位に出てくるし、トンデモ中国史は倉山満によって、よりおぞましい物に進化を果たした。
そして現在、twitter、togetterには、それらトンデモを真に受けた馬鹿共が今日も元気に、それも大量に発言を投稿し続けている。
だが、忘れてはならない。
彼らを作り上げたのは、10年前のわれわれだ。中公文庫や講談社学術文庫の中国の歴史を読むこともせず、
あるいは、出版されている本を読み、自分が攻撃する相手が具体的にどんな主張をしているのか調べることもせず、
そのくせ、井沢元彦「逆説の日本史」や小林よしのり「戦争論」を読み、新たな知見に目覚めたとか大それた事を考え、検証の手間を惜しんで、自分のHPで全世界に発信してきた私たちだ。
入門書一冊読まないくせに、そのくせ上記の本を読んだだけで満足し、自分は知識欲旺盛な人間だとのぼせ上がり、そのうぬぼれをwebで全世界に公開した、厚顔無恥な私たちだ。
私たちの馬鹿を信じた結果、今の、肥溜めのようなweb界隈がある。それを作ったのは、間違いなく、私たちだ。
かつて、ネットは誰でもメディアと呼ばれた。その文句のとおり、私たちは多くの情報を発信した。
だが、振り返ってみて、10年前の私たちは、後世に胸を張れるような情報を発信してきただろうか。
紀州犬射殺に関する上記のような批判を聞いて、ウン十年前の出来事を思い出した。
わたしの小さい頃、日本犬混じりの雑種を昔おばあちゃん家の庭で飼っていた。
ずいぶん前に亡くなったひいじいさんが何処から貰ってきたらしいけど、
きちんとした躾のされないまま大きくなった犬は、家に来た時からお手もおすわりもできなかったらしい。
女所帯だったおばあちゃん達には手の負えないワガママボーイとなっていた。
(まあ「犬=家族」の認識が全国に普及して、躾が義務教育レベルに達したのも、ここ20年くらいのものかと思う。
祖母宅は田舎だったこともあるせいか中途半端なオツムの犬がまだまだ多かった)
ある日、何かで興奮した犬に妹が噛まれた。
妹の叫び声が庭から響き、慌てて縁側に出ると、犬が妹に襲いかかっていた。
リードを引っ張っても、スリッパで顔を叩いても、びくともせずに妹に向かっていく犬。
犬の吠え立てる声と、泣き叫ぶ妹の声で私は縁側に立ち尽くしていた。
犬はどうにか引きはがされ、叔父にバチバチにシバかれておとなしくなったが、その日から私はその犬に近づけなくなった。
いまはもうほとんど目立たないけど、妹は顔に咬み傷が残った。
犬はガチ切れすると冗談抜きに手が付けられない。下手すりゃこっちが死ぬ。
愛玩用のチワワやトイプードルなんかですら、興奮するとめちゃめちゃ恐いし動きも速い。
ましてや日本犬はハンター気質。紀州犬は単独で巨大なイノシシを追いつめるほど獰猛だと聞く。
しかも射殺されたのは、体長120cmで21キロだったというじゃないか。
そんなの丸腰で押さえつけようもんなら速攻で首噛まれてお陀仏確定だわ。
さらに言えば時間は深夜帯。人には見えず、犬には見えるという無理ゲーステージ。
よく発砲の判断を下したし、よく13発で止めたと思うよ。
くだんのニュースで、タイトルのような批判が相次いでいるが、頭のなかお花畑すぎて震える。
「撃つより抱きかかえた方が早かっただろ」とか「取り押さえて保護しろよ」とか、
ナイフで刺し殺しにかかってる殺人鬼を、「かわいいんだから優しく抱きしめて許せ」とか、
「イケメンなんだからキスして耳元で愛を囁け」って言ってるくらいにはヤバいと思う。
確かに多くの犬を飼う家庭にとって、犬はかけがえのない家族だし、生き物を大切に思う気持ちはよくわかる。
わたしも妹も幸いにして犬そのものを嫌いになることはなかった。ワンコまじかわいい。
最近は野良犬もいなけりゃ、飼い犬もしつけがされてる場合が多いから、その実感がわかないんだろうけどさ。
もちろん、人に怪我させるなんか殺されて当然!なんて言うつもりはない。
射殺された犬は不憫でならない。躾をきちんとしなかった飼い主に、全ての元凶はあるのだから。
雑種の犬というのは大変すがたがよくない。
「雑種でも可愛い犬はいるよ」という声がある。確かに小型犬のミックスとかいう純血と純血の組み合わせは人気がある。可愛ければ。
しかし、中型犬以上の雑種というのは本当に可愛がられていないし、醜い容姿だ。
京都で古い木造住宅に住むジジババに雑に外で飼われている醜い雑種の犬を見た後、家の中で大切に飼われている黒柴犬を見た時は強烈な格差を感じた。
しつけや去勢などもあるのだろうけど、黒柴犬は人間に懐いているし、愛想を振りまいている。しかし、雑に飼われている醜い雑種の犬は吠えるだけだ。
黒柴犬は自分が可愛い姿で人から愛されているのがわかっているように、雑種の犬はその逆にみえる。
そのマンションから太い道路を挟んだ先にはトタン屋根の汚い家があって、それまた雑に飼われている雑種の犬がいた。
可愛くない姿をしていたし、吠えてばっかりだった。
ある夜、幼い自分は眠れず、太い道路をみていると、毛色がものすごい汚い、野良犬が足をすこし引きずって飼われている雑種の犬の前まで歩いてきて止まったのだ。
すると、飼われている犬は野良犬にものすごい勢いで吠えたのだ。吠えられた野良犬は、飼われている犬を通過して、またどこかへ歩き始めた。
子供のときは野良犬がかわいそうと思ったが、今は一番恵まれている犬というものを考えるようになった。
部屋の中で大切に大切に飼われているダックスフンドやらには、全く関係ない世界だ。
あの犬は雑種の盗まれる心配のない価値のない犬であるため、野良犬と遭遇したのだ。
犬というのは容姿である程度の一生が決まっている。醜く生まれたら負けなのだ。
人間もある程度そうかもしれない。