はてなキーワード: 外交的とは
最近以前に比べ、心がだいぶ落ち着いて来たので、自分がなぜこんな人間になってしまったかを、ためしに少し文章にしてみる。
ただただ吐きたいので、内容が支離滅裂になったり、とても言葉足らずであったりするが許してほしい。
なぜこうなったかまとめてみると、考え過ぎで人とかかわらなかったからだと思う。
昔から両親は仕事が忙しく、家にはあまり居なかった。その割には家にお金は無く。ほしいものを言葉にしてもかなわない。
昔からこんな家庭環境で育って、人と関わったとしても、周りの人間にも好かれないだろう。そんなことをぼんやり思っていた。
誘われて遊びはするけど、他人の顔色ばかり気にしすぎて、いつしか無難なことしか話せなくなった。
こんな思考をする人間であるから、小中学生のときには、多少いじめられることもあった。
殴られたり、机に落書きされたりしたが、悔しいと言うよりは、
なんでこんなことになってしまうんだろう。
やった人は何を考えているんだろう。
意味がわからない。やはり自分にとって人と関わることがおかしいのかと思っていた。
高校では人間関係が一掃され、いじめなどということは無かった。
しかし、進路を考えると自分は何者になりたいんだろうという考えが頭の中にこびりついて離れなくなり、ついには不登校になってしまった。
なぜ幸せになれないんだろうと思ったり、うまく(適切な表現が見つからない)生きている他人とは何が違うのかなど、ひたすら考えていた。
その後精神科に通い、今まで人に言えなかった本音を話したり、薬を飲んだりして、禅問答をすることが少なくなった。
勉強はできないわけではなかったので、それなりの大学にはストレートで進むことはできた。
ここでも人間関係は一掃され、精神科に行ったことにより気持ちが少し楽になった。
不登校期間の悩みは人と関われば解決すると思えるようになり、少しだけ外交的になれた。
そこでできた友人に自分のことを話してみると、
「他人というのは完全には理解できない、いままでのことなんてそこまで気にしなくてもいいんだよ。」
と言われ、たしかにそのとおりである、自分は何に悩んできたのだと思えるようになった。
精神的に良い方向に向かっているとは思うが、振り返って20年、このような思考を送って過ごしてきた時間と言うものは二度と戻ってこない。
この手の話になるといつも思うんだが、憲法9条を改正するだけで日本の軍事力がいきなり高まるくらいに思ってる人っているよな。
軍備拡大への正当性はある程度獲得できるかもしれないけど、実際にやろうと思ったら金も人も技術も全部足りてない訳じゃん。
歩兵一人にしたって、先進国の歩兵ともなれば十分な教育、最新鋭の装備、充実した訓練、命を賭けるに足るだけの給与と相当な金がかかる。
戦闘機や戦車、艦艇となればさらにアホみたいな金額がかかるし、単純な頭数を揃えるだけでもこれから若者が減っていく日本にとっては大きな負担になる。
その点に対する議論はほとんどされてないように見える(軍オタの人とかはそういうのも気にしてるとは思うけど)
軍事力強化への道筋も定まってないのに憲法9条だけ改正しても無駄に仮想敵国を刺激したり、在日米軍が日本から撤退したり大幅に派遣規模を縮小したりする口実にされるだけなんじゃないのかなぁって思うんだけど。
それに少なくとも対外的には日本が日中戦争→太平洋戦争と泥沼に突っ込んでいったのは軍部の暴走にあるということしてる訳だから、その二の舞を踏まない為の仕組みをきっちり作って抜け穴もばっちり塞いで、そういうことはもうないですよって海外に向けて胸を張って言えるようにする必要もあると思う。
それ無しでは外交的にあまりにもリスクが大きすぎる(あったとしてもハンデにはなる)。
でもそこに対する改憲派の意見やら議論やらあんまり聞こえてこないというのも結構な不安要素だと思う。
現状の憲法のままで例えば中国との軍事衝突を回避しつつ国益を確保するというのは余程高い外交力が求められると思うんだけど、与野党、外務省などを見回してもとてもそんな力量があるとも思えない。
攻撃を受けた際への対処も護憲派内でも意見がまちまちだし、その中にはあまりにも非現実的な考えも多い(端から見ると念仏代わりに9条唱えれば敵が退散するくらいに思ってるんじゃないかって人もいる)
ただ9条を守れと叫ぶだけではなく、9条を維持した上でどう日本という国を守っていくのか? という点に対する議論を深める必要があると思う。
一般人の中で改憲派の人達の根底にあるのは仮想敵国(主に中国)に対する不安なんだからそこを解消しようとしない限り何を訴えても無駄でしょ。
というかこうやって書いてみて思ったけど、改憲派も護憲派もお互いが正しいと思う事を叫ぶだけで相手を説得しようしてる感じ全然ないよな。
俺が知らないだけかもしれないけど、そういう人をほとんど見ない。
政治ってこういう意見の衝突を摺り合わせて現実的な選択を探ることにあると思うんだけど、なんでそういう流れにはならんのだろうなぁ。
豊胸すると男にモテるようにはなるかもしれない。
服を着た時も胸の存在が強調されるから、それに惹かれる男は出てくるだろうし、
本人も自信が付いて堂々とするから、外交的な魅力も増すだろう。
だからといって、胸にコンプレックスを持っているすべての人に「豊胸したほうがいい」とは言わない。
男からしたら、胸のそれが整形だってわかった瞬間のガッカリ感っていうのは言い表せない。
脱がした時もやけに丸いし、寝かせても横に流れないで上に膨らんだまんまの胸なんか、気持ちが悪くて吸い付く気にもなれない。
強く揉みしだこうものなら中のシリコンパックがずれたり破れたりして大事故になりやしないかなんて想像しただけでグロい。
揉んでも重心がずれた変な固さ(柔らかさ?)だから余計に気持ちが悪い。
顔の整形は許せるけど豊胸は許せない男は多い。
とにかく世の男性からしたら 標準乳・貧乳・まな板>>>>・・・>>>>>>豊胸Dカップ ってことを意識しておいてほしい。
可愛い女の子は、全員ノスタルジーで、全員すべからく不幸だと思う時がある。
もちろんそれは、だいたいの気色の悪い男が陥る幻想であり、彼女らにするとアホくさくてやっていられないだろう。しかしながら、ニュアンスというか、感じることは誰にだってあるのではないだろうか、美人は、不幸を香水として纏うのである。
手繰り寄せられるファーストインプレッションに「この人はバカなのだ」という偏見と蔑みがあることも吐露しなければならない。だいたいの場合、陰鬱に浸る奴は阿呆であり、男はプライドから足元までしか浸れないためである。男はいつだってその手の女に、ある種スーパーの半額セールのような、動物園の猿のような、そういう感情を抱く。
女はどこまでも沈む。特に自傷行為の癖は女の特権であるように思う。プライドがないためだと感じる。日本において自殺率が男女に2:1なのに比べて、えらい違いである。
男は、酒にはしる。なぜだかわからないが、そういうことになっている。わたしは忘れたいからではないかと思う。自分を真っ向から否定することを、男は嫌がる。酒は、前進も後退もさせない。留まり、昔を思い出させる薬である。
自己の徹底的な否定と生をみたときに「生きていると実感するから」という理由でリストカットを行う人がいることを発見する。自殺は死ぬために行うが、自傷は生きるために行うと言えなくもない。忘れるために自殺をし、忘れないために自傷をする。
女の方が、総じて外交的である。これも面白い。男は、自己嫌悪の類が強い反面、叱られることを嫌う。大変無様なことに、自分が一番頭がいいといつも思っている。女は、叱られると喜ぶらしい。わからないが、そういう風は確かにある。「わたしはダメなんだ」を、他人に求める節はある。
女のこの外交的な面が、不幸を纏う遠因であろう。そして男の厭世的ななにかが、宗教を生み出し、悟りを生み出し、そして自殺を生み出すのだと、わたしは思う。他人に求められず、いつだって一人きりで、神はそうして生まれるのではないかとわたしは思う。
可愛い女の子はノスタルジーであらねばならない。それはわたしにとって唯一苦しみを理解する神であり、同時にすこしばかりの自尊心を満たすペットである。
ダメだ。
外見パッとしないし、イマイチな見てくれをネタにするヲタトークもできないし、リア充にも非リアにも転べない。
彼女? いないよ。
童貞? そうだよ。
オッサン? もちろんだよ。
タイで性転換する時間とカネはないし、ノンホル女装できる顔と体格じゃないし、ホルモン投与の辛さには耐えられないだろうし、もうオッサン一択しかない。正月は受精卵レベルの怒りを老父母にぶつけようと思う。
女がダメなら魅力的な男。……素敵なオジサマ。そう、それだよ。無理だよ。
外交的な性格とか、センスとか、言葉遣いとか、地頭の良さとか、先天的、あるいは自分では選べない環境に大きく依存する因子ばかりじゃないか。
ヒンドゥー教に改宗しよう。来世に期待しよう。菩提寺にある墓は無縁墓に合祀。年明けからクライマックスだ。
神に讃えあれ
国民よ
この「緑の行進」四十周年記念式典は、いつもの行事や通過的祝典ではありません。それどころか、王国の領土保全を完成させる過程における重要な局面なのです。
我が国土の解放、そして平和と安全の強化の大いなる達成に続いて、我が国はサハラの人々がれっきとした国民となり威厳のある生活を楽しめるようにしようとしてきました。
今日、「緑の行進」の40年の後、我々は、その有利不利にかかわらず、サハラ問題についてこれまで対処されてきたやり方からの、金利生活者経済や特権からの、民間部門の参加が貧弱であることからの、そして中央集権的なメンタリティからの、根本的な決別を求めます。
何故今日、40年の後なのでしょう?
そう、何年もの犠牲と、政治的かつ開発志向の努力の後に、我々は成熟を達成しました。
今、国家の一体性統合過程における新時代の夜明けと、我々の南部地域の祖国への完全なる統合の達成のために、機は熟しています。
「南部地域開発モデル」の実行と進歩的地方分権化の適用は、その過程の一部です。
国民よ、
私は是が非でも、南部地域の我が国民達へ彼ら自身の仕事をこなすのに必要なすべての手段を与えて、彼らが彼らの地域を開発できることを確かめたいのです。
太古の時代から、このサハラの人々は学者や季節的交易者として知られてきました。彼らは額に汗をして生計を立て、威厳と誇りを持って暮らしていました。厳しい生活環境にも関わらず、誰からの助力も期待していません。
私が話しておりますのは真のサハラウィ、彼らの祖先とモロッコの王との間にいつも存在していた忠誠の絆へと身を捧げて続けてきた本物の愛国者のことです。
我等が敵たちのものの見方に乗せられて彼らを支持する少数の者についていえば、それらを許す余地は我々の間にはないのです。しかしながら、本心に立ち返り悔い改めた者に祖国は、概ね寛容かつ寛大であります。
国民よ、
「南部地域開発モデル」を実行することは、これらの地域の我が同国民への我等の義務を果たすことに我々がどれほど身を粉にするかを示すもので、それゆえに統合的開発のモデルとなるでしょう。
我々はこの「開発モデル」に、統一祖国へとこれら地域を統合すること、そして、経済的ハブとして、またモロッコとそのアフリカのルーツとの間の決定的な絆として、サハラ地域の影響力を拡大することを望んでいます。
そのために私は、利用できる全ての手段を集めること、全能の神の御恵みにより、ラユーン=サキア・エル=ハムラ、ダフラ=オウド・エッダハブとゲルミム=オウド・ヌーンの諸地域にて社会・医療・そして教育のプログラムとともに、多数の主要計画を遂行することを決断しています。
インフラに関しては、この地域の道路ネットワークが拡大されるとともに、国際標準に準拠した二車線道路がティズニットとラユーン、ダフラを繋ぐために建設されることになります。
私はまた、アフリカ各地とを結ぶハブ空港を南部地域に設ける検討をすることも、政府に求めました。
私の念願の一つに、アフリカ他地域とモロッコを繋ぐためにタンジエとラグイラを結ぶ鉄道を実現することがあります。今日のマラケシューラグイラ線完成のために今必要となっている資金の確保に助力いただけるよう、全能なる神に祈ります。
我々にはまた、「偉大なるダフラ大西洋港」を建設し、南部にて主要太陽光及び風力エネルギー・プロジェクトを遂行して、ダフラと国立送電網とを接続する意思があります。
我々の目標の一つは、これらのネットワークとインフラをアフリカ諸国へと繋げて、これにより諸国の発展に寄与することであります。
もちろん私は、これらのインフラが、それ自体では、国民の生活状況を向上させることができないと理解しています。それゆえ私は経済発展を推進し、人間開発計画にてこの行程をサポートすることを切望しているのです。
強調しておきたいのは、この点について天然資源からの収入は、この地域の人々の便益の為、そして彼らとの協議と協力にて、この地域へと投資され続けるであろうということです。
地域の資源と製品の利用と振興のために、ダフラの主要海水脱塩プラントや、ラユーン、エル・マーサ、ボジュドーの産業区と施設類の設立のような、幾つかの計画が遂行されるでしょう。
これらのイニシアチブをサポートするために、国内及び海外の投資家のために明快さと競争力とが共存して、彼らがこの地域の発展に貢献できるよう、投資しやすい法的枠組みが制定されることを切望しております。
経済構造を拡大し、事業と社会経済をサポートし、定収入を発生させ、特に若い人々の雇用を創出するために、経済発展基金も立ち上げることになりましょう。
国民よ、
私にとって、最も重要なこととは、サハラにおける我々の同国民の尊厳…とりわけ、若い世代の尊厳…が保護されることを確実とし、彼らの愛国心と祖国への傾倒を強めることであります。
よって私は、人口の殆どのセグメントで要求されている公平と社会的正義の原則を維持するため、社会保障システムに立ち戻り、これをさらに透明で公平なものとするよう、政府に求めています。
さらに、サハラの人々の心臓と心の中で特別な位置を占めているハッサーニ文化を考慮して、サハラの伝統の保存と推進のために必要となるメカニズムを、とりわけ、この国の南部に劇場、美術館、カルチャーセンターを建設して、強化することを切望しております。
人権についてですが、モロッコは、全能の神のお恵みにより、国家の動員、良好な治安統制、そして国民社会組織との建設的連携を通して、たくみに我が敵の目論見を打ち砕きました。
そのうえ、憲法にて定められた機関であります国家人権協議会とその地域委員会は、権利と自由の保護を任務としておりますが、如何なる違背があろうとも、これに対し、公的機関、市民社会組織、そして国民との対話と協力を通じ、取り組んでおります。
国民よ、
進歩的地方分権化を遂行して、モロッコの信用を強化するとともに、公約を重んじる国であることを示すのです。
私が国会開会式で強調したように、この地域で選ばれたオフィシャル達は、国民によって民主的に与えられた正当性により、国家機関だけでなく国際社会とも向かい合う、南部地区居住者の真なる代表者となります。
進歩的地方分権化の遂行は南部地域が最優先であることを確かなものとするために、一連のプログラム契約が、中央政府と本地域との間で、開発プロジェクトの実行に関する其々の義務をはっきりさせるために、締結されることになりましょう。
私はそれゆえ、王国の他の地域の経験が繰り返されることを期待して、権限委譲の立法文書の採択を急ぐこと、適任な人的資源と資金とを移転してこれをサポートすることを、政府に対し命じています。
我々はまた、地域部局に対し、この地域の物事を地方レベルで動かしていくのに必要な特権を与えるための、本当の行政権限移譲勅許状の準備を急がねばなりません。
私はそれゆえ、我々の南部地域の居住者とその代表者達が、彼らの責務を遵守することを期待します。今や、彼らが自らの物事を執り行って自身の要求を満たすために、制度化された開発関連のメカニズムを設定しているのですから。
国民よ、
モロッコが何かを約束するときは、言行をともにします。我が国は、履行できないことは公約しません。
ですから、我々は世界に向けてこう言いたいのです:他とは違って、我々、モロッコに居る者は、空疎なスローガンを使うこともなければ、幻想を売ることもしないのだと。我々が何かを公約するときは、その内容を履行して、大地の上で物事を執り行うのだと。
今日、モロッコは「モロッコのサハラ」をサブーサハラのアフリカ諸国との通信及び通商のハブとすること、そしてそれを達成するのに必要なインフラを建設することを誓いました。そして今一度になりますが、我が国はこの約束を守るでしょう…敵たちが好むと好まざるとにかかわらず。
ところで、ティンドウフでは…アルジェリアのですが…人々が、貧困や、絶望、収奪そして基本的人権の侵害に苦しみ続けています。ですから、私はこう問うべきと思うのです:
「何百万ドルもの人道的な援助はどこに行ってしまっているのか…一年あたり6千万ユーロも?…分離主義者たちの装備、プロパガンダ、そして弾圧に費やされる莫大なユーロについては言うに及ばず。」
「分離主義者の主導者たちが腹立たしくも裕福で、欧州やラテンアメリカに不動産や銀行口座を所有しているという事実を、どう説明できるのか?」
「どうしてアルジェリアは、人口がせいぜい四万人のティンドウフ・キャンプの生活条件を…例えば、アルジェの中程度の人口の区域と同程度にまで…向上させようとしないのか?」
これはつまり、彼らの威厳を守る住宅6,000軒を、アルジェリアは建てることができていない…もしくは建てるつもりがないのだ、40年にも及ぶのに…ということなのです。
どうしてアルジェリアは…モロッコに軍事・外交で対抗するために莫大な額を費やしているのに…ティンドウフの住人達をあのような恐ろしい、非人間的な状態で生活させておくのでしょうか?
かのサハラの、自由で立派な息子たち・娘たちを、人道援助を乞う者に変えてしまった者どもには、歴史が裁きを下すでしょう。
彼らがサハラの女性や子供たちの集団の悲劇を利用して、彼らを戦利品に変えてしまっており、違法な商業活用だけでなく外交的論争のための道具としても使っているという事実を、歴史は物語ることになるでしょう。
ティンドウフのキャンプに居られる人々に問います:ご自分たちの生活状況がすさまじいというのに、あなた方はそれで良いのでしょうか?このキャンプに居られる女性は、息子さんたちや娘さんたちの間に広がっている絶望と落胆の意味を理解しておられるのでしょうか…期待できる展望も未来もないというのに?
あなた方は、このような非人間的な状態などよりも良い扱いを受けるに値するものと、私としては信じております。あなた方がこういったことに耐えるのだというなら、誰を責めるわけにもいかないでしょう。そうしている間にも、あなた方の目前でモロッコは、その南部地域の発展を強力に推進していき、この地域の居住者が自由で威厳のある人生を楽しむのを確実にしていくのです。
国民よ、
この「サハラ問題」は、モロッコがその歴史のなかで初めて直面した問題ではありません。この国はシバ(無法)と混沌を知っています…保護領統治のもとで生きながらえ、占領を耐え抜きました。この国は、現代国家を築こうとして独立を勝ち取るうえで、不和と争いの時季も経験しました。
困難な状況に直面する度に、モロッコがいつも昂然として、強固であり団結していることが判ります。何故かといえば、モロッコ人は、自分たちが同じ運命のもとにあると信じ、自らの普遍の価値と領土の保全を維持しており、この王と民との間にある密接な絆と団結へと、全面的に委ねているからです。
進歩的地方分権化の遂行と開発モデルの適用を開始することにより、モロッコは、我々の領土保全に係る不自然な論争に対する不変の解決策を見出す機会が多くなることを望んでおります。
そのように信ずる理由はただひとつ、2007年にモロッコは、国際社会の呼びかけに積極的に応じ、この袋小路から出る道を見出すための案を編み出したからです。
そうして我々は「南部地域の為の自治イニシアチブ」を提案しました。その国際団体からは、真剣で信頼できる提案であるとの判断が出ております。
昨年私が「緑の行進」の記念日を祝う式辞にて指摘したように、このイニシアチブは、モロッコが提供できる精一杯のところなのです。その遂行は、国際連合機構の枠組みでの最終的な政治的解決の達成にかかることとなります。
モロッコの一部について何か別の譲歩を待っている者たちは、思い違いをしています。それどころか、モロッコはそこで与えるべき全てを与えています。モロッコは、このサハラを守るために、自らの息子たちの血を惜しみなく捧げています。
我々は、それ以上の譲歩をしなければならないのでしょうか?一部の国際非政府組織たちが、我々に望んでいるような?
我々は、こういった敵対的態度の裏にある理由を知っています。彼らの狙いは、この国を分割することなのです。しかし当の彼らには我々のことに干渉する権利などないことも、我々は知っています。
これは、国際組織内のある団体がモロッコの歴史を知らないままシナリオを創り出そうとするのに対処するうえで、我々が支持しているのと同じ原則です。そうしたシナリオは、エアコンの効いたオフィスで創り出され、現実から遠く離れて、モロッコ・サハラに係る地域紛争の解決のための提案として示されているのです。
モロッコは、如何なるものであれ、深刻な結末をもたらしかねない愚かで危険な行動方針も、「自治イニシアチブ」で生まれた前向きな趨勢を転覆することが狙いでしかない実行不可能な提案も、いずれもお断りいたします。
モロッコ製品への敵対的キャンペーンに対しても、モロッコの団結と不変の価値を守る政治と防衛のセクターで発揮されたのと同じ、犠牲と献身の精神に則って、立ち向かっていくことになります。我々の製品のボイコットを求める者たちについては、歴然とした国際法違反でありますが、彼らにはそうさせておきなさい。とはいえ、彼らは自ら決めたことの責任を執らなければならなくなるでしょう。
モロッコには、立ち上がるであろう大規模プロジェクトの恩恵で、この地域に生まれる投資機会から利益を得るために、自らのパートナーを…国家も、グローバル・カンパニーも…招待する権利があります。
丁度、我々がモロッコの北部と南部とを何ら区別していないように、トマトにおいてアガディール産とダフラ産の間でも、イワシにおいてララシュ産とボジュドー産の間でも、燐鉱においてコウリブガ産とボウクラア産の間でも…広く知られるデータで裏付けられているように後者が我が国の埋蔵量の2%に満たないとしても…我々の目には何らの違いも、みとめられないのです。
同様に強固な意志と揺るぎなさをもって、モロッコ・サハラの法的状態を疑おうとする企てにも、この国の北部地域でと全く同じように、この土地、この南部地域にて力と特権の完全なる行使を行う我が国の権利へ疑問を投げかける企てにも、モロッコは立ち向かっていきます。
これはつまり、我々の正当性を良く知らしめ、我が国がなしている進歩をスポットライトで照らし、我々の敵のもくろみに対抗するための、取り組みの強化と警戒の維持、これら全てを、我々は総動員で行っていかなければならないということです。
国民よ、
緑の行進を特徴づけたのと同じ献身と犠牲の精神を保ちつつ、我々の南部地域の開発を推し進め、その地方の息子たちや娘たちの尊厳を護ること、そしてこの国家の領土保全を維持することは、我々の集団的責務です。
そのようにすることが、「緑の行進」の考案者…私の尊敬する父であって後の王ハッサン二世陛下…安らかにお眠り下さい…と、この国の栄誉ある殉教者たちへの、忠節の証しとなる筈です。
アッサラーム・アライクム・ワロマツロー・ワバラカア-トゥ
ICJとかユネスコの件でまたぞろ「松岡洋右の再来か!!!!」と腐れ外交官の代名詞みたいな扱いを受けている松岡洋右さん。
しかし、彼はゴリゴリの右派とはいえ、「なるべくなら国連脱退したくない派」でした。連盟を脱退し、国際秩序へ挑戦状をつきつけるヤバさは認識していたのです。
国連を説得できないなら脱退しろ、と言ってきたのは本国政府のほうで、
アメリカに遊学した経験を持つ松岡さんにとっては「無茶振りにもほどがあるだろ」だったらしいですが、
そこはホモ・シャチクンスである日本人であるかなしさ、負け戦とわかっていながら国連へ赴きます。
で、一縷未満の望みに賭けて国連で大演説を行うわけですが、そもそもの満州国擁護からして無理筋もいいところなのですから
いくら弁舌さわやかな松岡さんも無理なものは無理。無茶振りやっといて、やっぱりダメした、からの暴発。このへん古きよき日本の惨敗パターンをなぞってますね(rf. 沖縄戦)。
彼も「全権」と名前はついてるとはいえ、実態としては本国の使い走り。大臣でもなければ現役の外務官でもない。「A(無理な命令)ができないならB(脱退)をやれ」という指示に従うしかありません。ここで本国に楯突いたらそれこそ独断です。
(無茶振りとはいえ)使命を果たせず、日本を孤立化への道に導いてしまった松岡の挫折感は相当なものでした。
彼が肩を落として議場を退場する様子を「堂々退場す」と書き立てたのは新聞でした。
国民は帰国した松岡を旗振って出迎えます。外交的には大失敗を犯した人物を立派な外交官として歓迎したのです。
「国益」と「浪花節」を取り違える国民性はこのころから変わっていません。
落ち込んで帰ってきた松岡さんでしたが、英雄として出迎えくれる国民を見てすっかり気をよくします。その後、右派から更に針を倒してファシスト的な方向へ進みます。
国連脱退により軍部のおぼえよろしきを得ていたこともあって、40年には外務大臣に就任。
香港工作など平行していわゆる三国同盟を推進するものの、そのドイツとの同盟が仇となって日米関係は悪化。ついには真珠湾へと至ります。
ところが、何をどうしたらそういう思考になるのかしりませんが、松岡さんはまさかアメリカと戦争になるとは考えていなかったらしい。日米が開戦すると男松岡は「陛下や国民に申し訳のしようがない」と泣きながら辞任。アメリカとの国力差を認識していたのはアメリカ帰りらしい慧眼でしたが、いかんせんその他が無能すぎました。その後、終戦までの四年はあんまりぱっとしない生活を送ります。
終戦後はA級戦犯として裁かれ、本人も死刑になる気まんまんで望みますが、ここでも彼らしいヘタレぶりを発揮。持病の結核が悪化し、法廷から「まあとりあえず裁判とか後でいいから病院いけよ」と病院送りにされ、そのまま不帰の人となります。享年66歳。最後まで、なんだか咬み合わない人でした。
実に日本人的(笑)な下手くそな謝り方をしていると思いました。
1.事件発覚
↓
2.世間から責められるも、「弱気になったら負け」と毅然とした対応すべしで組織全体で全力擁護
↓
3.なおも責められ、次第にボロが出てくる
↓
4.内部で「まずいんじゃね?」な雰囲気が出て責任をどこに負わせるか考えはじめる
↓
↓
6.世間に対し「まあこいつに責任負わせるからかんべんしてくれや」としっぽ切りをポーズで見せて組織と責任は無関係であるとアピール
↓
↓
8.誰も得しないし誰もすっきりしない。恨みとモヤモヤが残る。
こういうこと繰り返してるから外交的になめられてきたんだなってなんかよーくわかった。
ばかか。
これは以下のブコメに対する指摘です。
『これまでの報道の中で、韓国が登録に反対したという話は出てこないのだが「反対工作」って何?』
http://b.hatena.ne.jp/coper/20150714#bookmark-259345801
工作というにはあまりにも大っぴらすぎますが騒動の初期には次のような動きがありました。
2015年5月12日、韓国は国会で世界遺産登録に反対する決議をしました。
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_9446700_po_02640116.pdf?contentNo=1
『慎重を期するよう丁重に要請する。』とありますが、先に『外交的挑発行為と規定し、強く糾弾する。』とあるので、登録するのを考え直しなさいという意味でしょう。
『朴槿恵(パク・クネ)大統領は20日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)のボコバ事務局長との会談で、日本による「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録申請を「世界遺産条約の精神に反し、国家間の不必要な分裂を招く」と述べた。』
http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2015/05/21/0400000000AJP20150521001200882.HTML
6月の上旬は外相が韓国の立場に立つようにドイツやクロアチアへ訪問していました。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2015/06/11/0400000000AJP20150611002700882.HTML
当初、韓国はオール韓国というレベルで明確に登録に反対していました。
しかし、仮に登録されてしまったら外交的敗北が明らかになるため強制労働を認める文言を入れさせることを表向きのゴールとして設定したようです。
もちろん、表向きのゴール変更し、日本と直接交渉に入った後も、表に出てこないところでは登録阻止できればラッキーという気持ちで動いてた可能性は充分にあると思います。
大きく吹っかけて妥協点を有利な点に持っていくという交渉上のテクニックを考えると、韓国の望んだ文言を入れさせる交渉と登録反対の交渉を明確に区別することは難しいです。
報道だけでもこれですから、交渉の現場の人間が工作をされたと感じるのに充分な、苛烈な外交戦があったのでしょう。
それから、これは政府の工作だと結論付けることはできませんが、日韓の協議が始まった後も一部の国会議員や団体が登録阻止のために動いていたという報道があります。
http://blog.livedoor.jp/rakukan/archives/4895744.html 引用元URLは会員登録しなくてもhttp://archive.org/web/ を使えば見れます。
『韓国側がユネスコの諮問機関(イコモス)の全審査委員国を訪問し、産業革命遺産の全施設を批判する文書を渡すなどしていた』というのは、韓国政府側が手引きした可能性もありますが、こういう団体の働きではないでしょうか?
○参考人(鷹司信輔君) 私は神社本庁の鷹司として参りましたので、神社、神道のものの考えといたしましてこの点を申上げたいと思います。
この問題につきましては、是非日本の伝統を保有して行きたいと考えております。併し私共は決してキリスト紀元を排斥するものではございません。キリスト紀元の便利なところもございますので、現在のように元号式の年代表示法と、キリスト紀元法とを適宜に併用して行くのがよいと考えております。日本の元号は千三百何年の長い伝伝統を持つておりますのでありまして、それは国民の象徴と仰ぐ陛下の御名によりまして常に公布せられました。これは決して天皇主権などというような権力関係のものとは思われません。朝廷から兵馬の権も政治の権力も全く消え失せた時代にありましても、日本人は元号だけは朝廷の公布せられましたところに従つております。官公文書はもとより私人の往復文書、日記等何にでも元号を用いておりました。神社人も仏教徒も又キリスト教徒もこれを用いて怪しまなかつたのでございます。国民のあらゆる党派、教派の人々が如何なる対立関係に立つた場合でも、多くは元号だけは同一のものを用いておりました。このあたりに国民統合の象徴というような意義も感ぜられるのでございます。英国におきましては、公文書にエドワード七世第何年とかジヨージ六世三年とかいうように、君主の在位年限を以て年代を表示する方法が用いられておるようでございます。法学書や歴史文献におきましても、そのような年代表示法がキリスト紀元と併用されて用いられておる例が決して少くありません。その一般的な普及程度においては、大小の差こそあれ、これは日本の現行の一世一元の制と本質的には同様のものであろうと思われるのであります。英国では外交的文書や條約文書等は勿論キリスト紀元一本で君主の年号を用いないのでありますが、日本におきましても同様でよいと思います。外交文書には現在でも公式にキリスト紀元が用いられております。キリスト紀元を採用せねばならんからといつて必ずしも日本式の元号を廃止せねばならんとは考えられないのでございます。
我々神道人といたしましては、キリスト紀元による年代表示の方法が外交文書で用いられようと、学校の教科書や年表で用いられようと決してこれに反対するものではありません。我々の間におきましても年表的な場所では大いに利用しておるのでございますが、あらゆる場合にキリスト紀元一本に統一されて強制されるということは到底承服しがたいのでございます。キリスト紀元一本になるという法案は、必ずしも政教分離の憲法に反するものではないという理論は、理論としては成立ち得ると思います。政教分離の米国におきましてもキリスト紀元を用いております。又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチス、ドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者の指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります。元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。併しながら我が日本の国民感情を考えますと、決してドイツやソ連と同様には行かないと思うのであります。ドイツやソ連では、過去におきまして長いキリスト教文化の伝統がありましたので、国民はキリスト紀元を用いても、それがキリスト教という一宗教に特殊な関係を持つておるということを全く感じない程までになつておるのでございます。非キリスト教的な宗教教派が別段に存在しないからでありましよう。ところが我が日本におきましては、国民の圧倒的多数が神道と仏教に属しております。キリスト教徒は全日本人口のうちの僅々百分の一に過ぎんのでございます。ここで今後は一切キリスト紀元を用いる。少くとも公式文書ではキリスト紀元以外のものを用いてはならんということになると、神道人や仏教徒は何んだか、国家が特にキリスト教を支持しておるように感ずるでありましよう。これは法理論的に申すのではございません。感情の問題と申すべきでございましようが、政教分離の憲法の円滑なる連用という点から考えますと、このような感情問題も極めて愼重を要することと存じます。
今日では国家の公式文書に用いられるのと同様の元号が、神道人、仏教徒、キリスト教徒のいずれによりましても用いられておりますが、国家がキリスト紀元一本で行くことになりますと、神道や仏教では自然国家と別の年代表示法を持つことになりましよう。神社の祝祠などにキリスト紀元を用いたり、仏教寺院の墓碑銘にキリスト紀元を用いることは、我々宗教人として想像し得ないことでございます。現にこの問題が新聞紙上に報道せられますと、全国の神社人や氏子、崇敬者から随分と熱心な反対意見を申し送つて参つております。過去の東京新聞社の世論調査でも、現在のままの元号を存置するがいいという意見が、キリスト紀元一本の意見よりも二倍以上も多いということを報道しております。これはキリスト教文化の伝統が浅く、神道や仏教徒の多い日本の世論としては当然のことであろうと存じます。元号とキリスト紀元の便利、不便利の問題や法理上の問題や議論は多いここと存じますが、私は全国の神社、神道人を代表する宗教人の立場といたしまして、神道人も仏教徒もキリスト教徒も、如何なる敵宗派に属する人も極めて自然に受入れることのできる元号を存続させて頂きたいと切に希望するものでございます。日本人のあらゆる政派、教宗派の人々がひとしく国民統合の象徴として仰いで来た皇室と縁りの深い元号が将来も尚用いられて行くことを我々は希望するものであります。右のような考えを持つております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00703020804008c.html
集団的自衛権承認に対して批判的なメディアの論調は、認めてしまうと、まるで今にも戦争をおっぱじめるような論調。しかし、実際に今行われようとしていることは、法律整備のための準備、実際の武力行使に踏み込めと言っているのではない。仮に、将来具体的な危機が発生した時、その状況を踏まえて行使に踏み切るべきか、とどまるべきかが判断される。その判断ができるよう法律を整備するのである。
しかしながら、主要なメディアまでが、故意にか法律整備の前段階にも拘わらず、ヒステリックに反応に終始し、まともな議論すらできないように世論誘導することは、それこそ民主主義の危機ではないかと考える。「いつか来た道」に逆戻りといった批判があるが、かの真珠湾攻撃ですら、奇襲部隊が日本を出港した後も、米国との交渉が成立すれば、全艦引き返すことになっていたことを思い出してほしい。まさに「100年兵を養うは、ただ平和のためのみ」なのである。武力を備え持つことと、それを実際に使うことには、かの時代においても大きな壁があり、慎重に決定されていたのである。
では、現在はどうか。自衛隊は戦う装備は持っている。しかしながら、法律で手足を縛られ、自らが攻撃されるまでは手出しが出来ない。攻撃されるということは、自衛官に実際に死傷者出るということである。まして、同盟国が攻撃されていても救援すら支障があるのである。
相手側から見ればどうであろうか。立派な装備をもっていても、それを使うことが出来ないとわかっていれば、なんの抑止的効果もないのでは?
おおよそ軍隊というのは、やってはいけないことが規程されているものであり、自衛隊のようにやっても良いことを縛られた軍隊はないと言われる。実際の戦地において、身を守るためには、臨機応変な対応が必要なのである。しかし、我々の議論は、真面目にも今だやってもいいことを規程することからすら脱していないのである。
日本の領土・領海に対する安全に対するリスクは、ここ数年で急激に高まりつつあるのは、誰も異論のないことと思う。
当然、外交的手段により解決することを目指すのであるが、真に平和を望むのであれば、冷静に合理的に考える必要があるのではないかと考える。
1)論破厨
特徴:
自己承認欲求が強く、満たされていない。そのため論破して下を作りたがる。好戦的な性格。
2)正論厨
特徴:
正論をかざすのが好き。物事の表面や全体像しか見ていない。楽天的。やや権威的であり頑固。
3)現実主義者
特徴:
正論厨と対立しやすい。現場ではこうだろという目線から、現実的な話をしてしまい、正論厨から嫌われる。<4.4追記>現状追認を好み露悪的。やや視野が狭い。
4)夢想家
特徴:
ニートや学生や主婦に多い。正論厨と仲が良い。正論厨と違うのは現実主義者の意見を「そういう世界もあるのか!」と感心するが、自分の身近なものとは認識できず、自分には不幸は起こらないと信じ込めること。時々、否定されると激しく噛み付くことがある(自分の世界観が強い場合がある)増田の中で反対意見が多くなり、劣勢になると、自演乙とか、洗脳乙と言い始めやすく、逆に自演によって自分の世界観を擁護し始めることもある。場合によって成り済ましも多い。一般社会では普通にしてると人当たりもよくいい人が多い。
5)釣り師
特徴:
孤独感が強いのか、極論を投げるのが好き。脈絡がなかったり、論理的にわざと破綻させたりする。自演やバカ、クズなどの発言が多い。いわゆる構ってちゃん。
特徴:
悲壮感のある投稿が多い。現実主義者と相性がいいが、リアルにはポジティブで外交的で友達が多いことが特徴。その点現実主義者とは違う。ただ、根っからのポジティブではないので時々吐き出すために増田を使っている。人生を楽しめないちょっとかわいそうなタイプ。でも友達にしておくと良いタイプ。
7)真面目
特徴:
所詮は増田は匿名で語り合うだけの場であるにも関わらず、社会勉強の一貫に思っていたり、問題提起をしたつもりになっている。夢想家とつるむことが多いが、粘着気質がなく、ほとんどトラバやブクマもせず読んでいるだけ。夢想家はしつこく主張(というか自分の世界観を防衛)するので、行動は違う。
8)毒吐き厨
特徴:
単に日常の鬱憤を言い返せないから書き込むだけ。社会的弱者がほとんど。単発的であり、常駐はしていない。Twitterの匿名アカウントに類似の厨が多く存在する。
9)変態(ムッツリ)
特徴:
変態のくせに日常生活ではオープンにできない。だから増田となる。あまり他の文章は読んでいない。
特徴:
人畜無害。草原で言うとシマウマみたいな感じ。今日はスーパーでなんだったとか、そんなレベルの感想。たわいのない会話をする相手を持つと、聴く方もやらないといけないので、増田に書くことにした人。
特徴:
世間の反応を試してみたいセミプロと、頭の中がポエムで構成されていて増田文学になってしまうもので構成される。
特徴:
7の真面目と対立しやすい。増田を娯楽、遊び、暇つぶしと割り切っており、一般的な良識のある人間が多い。リア充か、遊んでもらえる相手がいない寂しがりか。
ただし、時々ユーモアのあるトラックバックをつけることがある。増田の発展には欠かせない。真面目以外には敵はいない。
13)通り魔
特徴:
相手は誰でもよくて噛み付きたくて仕方ない。ストレス発散を目的に読んでそうな相手にとにかく噛み付く。性格が悪く、周囲からも嫌われてるタイプ。
14)改変コピペ厨
特徴:
正論厨に類似。自分の正当性を説得できないため、一般論かのようなコピペを用いることによって説得を計る。
2chまとめをつくるやつのように、コンテンツを生み出す能力がなく、かつ権力もないために、そういうセコいことに走って自己満足をもとめる。通り魔や論破厨に絡まれやすい。