はてなキーワード: 塩梅とは
誰か教えてくれ
自分は大学の専攻を決める時、最後の最後の最後まで西洋史学か商学か悩んだ。悩んだ末に商学にした。就活を恐れたからだ。西洋史学に進んだ先輩に連絡をした。就職先はどんな所があるのか。その人は学者志望だと言い、次いで西洋史学は他の専攻よりも就職先が少ないと聞いた。ビビった。次に商学に進んだ先輩に聞いた。やりたいことがあればそれを優先していいと思う。まあ、就職の時に夏目漱石を研究しました!って言うよりかはいいんじゃないかなと言われた。その言葉が決め手だった。
ブログを読んだ。19世紀スイスを専攻した人が就活に苦しむ内容だった。選ばなかった未来のようで怖かった。だけどどうだ?商学を選んで何かを得られたか?知り合いはみんな他学部で、サークルも入らずぽつぽつと単位を落とし、将来を不安に思う毎日を送ってないか?送ってるだろう。今年になってもオンラインが充実し、山奥まで通わなくて良い文学部を羨んでいるだろう。極端に史学じゃなくても良い塩梅の専攻があったんじゃないか?今学んでいることを胸を張って言えるほど自分のものにできてないのにこれで就活が有利になるのか?なってくれ。頼む。ガクチカなんて無いけどせめて真面目に登校してるこの苦しみが、オンラインにあぐらを書いている人達より1歩だけポジティブに働きますように。
パスタと絡めてしっかり乳化させてとろみをつけ、塩で絶妙な塩梅に味付けをする
当然塩加減を間違えても美味しくない
しかし、これを素人でも失敗なく常に80点以上のアベレージを安定して叩き出すチートがワンパン調理である
口径が広めのフライパンにオリーブオイルを入れてニンニクと唐辛子を入れ冷めた状態から温める
ニンニクがキツネ色になって香りが立ってきたら水をフライパンにどばっと入れる
水が沸いたらパスタを入れて中火で鍋の中で煮る
パスタが茹だった頃には溶け出したパスタの小麦によってソースがいい感じに乳化しているので、
あとは皿に移して塩で味を調整して完成だ
このやり方なら水を入れた時点でニンニクや唐辛子を焦がすリスクはなくなる
鍋で煮ているうちにソースは確実に乳化してパスタと絡む状態になる
塩加減は味見しながらやっていけば絶対に失敗しない
おまけに洗い物も減る
だからもう明日死にそうって感じになってから生活保護の相談に来られても困るんだ
昨日投稿した記事がとてもありがたいことに伸びたので、調子に乗って別の話をしようと思う。軽い気持ちで書いてたらクソ長くなった。
これを読む前に注意してほしいのは
だ。
YOASOBIの「アイドル」を聞いて、これはすごいと思って推しの子を見た。
そして第一話でアイが殺されて「??????」となった。あまりにも納得がいかなかった。それは以下のような理由による。
偶像としてのIdolを死守する(「嘘が愛」とかアイっていう名前からも推察できるように)というのが最序盤のテーマだったわけで、そこに子供がいるっていう嘘を死守するっていう物語があって、さらにIdolとしてファンを愛してるっていう嘘(本当は誰のことも愛したことがないから)もあるから、その嘘が本当のこと(ファンとほかの人々を心の底から愛することができるようになる)になる、っていうのが大筋のストーリーになるべきだったわけだ。
その重要な過程(アイが少しずつ成長していく)が完全にすっ飛ばされたので肩透かしを食らったという感、殺されるところでいきなり愛してるって言っていて、正直第一話だけだとアイに対して人間としての共感が全くできない。
この物語が評価されている大きな要因としては、まず推しの子に自分がなるっていう第一話のインパクトとコメディ性、次にアイが死んでしまうっていうさらに劇的な展開。
これ自体は別に悪くないと思うが、やはりアイが本当の愛を知る過程をスキップしているので作品としての完成度が低下している。
たぶんその理由として乳幼児だと行動の幅が狭すぎるっていうのがあるのかなーと。簡単に動かせないから話を作りづらいっていうのがあったんだと思う。それをどうにかするのが脚本家の仕事ではあるんだけど。でも子役ルートがあるならそういう問題もなくないか?
また、アクアとルビーの父親に関する伏線が第一話だけっていうのもつらいポイントではある。
どうしてもそこからのストーリー展開が難しくなる。第二話以降の話は割と自由に進めることができるはず(ルビーがアイドルを目指すとか、主人公が父親を捜すとか)で、その辺の先の読めない感じは面白い。
1クール目の最後でアイが殺されたりしてたらもっとよかったんじゃないかなーとか思った。
「え!? この感じなのにこの1クールを全部このOPでやるの!?!?!?!!?」
初めてこの曲を聞いた時とんでもない衝撃を受けた。
それは初めてYOASOBIの「夜に駆ける」を聞いた時に感じた衝撃と同じものだった。
まず、「夜に駆ける」が空前絶後のヒットを叩き出した最大の理由について述べようと思う。
もちろんこれは俺の意見であって、完全に正しいということを主張したいわけじゃない。別の意見があればコメント等に書いてほしい。
音楽というのはほぼすべてが感覚で成り立っているので、それを正確に記述することは本当に難しい。
「夜に駆ける」を語るにはまずコンポーザーのAyaseについて紹介する必要がある。
Ayaseはもともとボーカルとしてバンド活動を行った後、解散したのちいわゆるボカロPになったミュージシャンだ。
ボカロP:Ayaseを象徴する代表曲は「幽霊東京」や「ラストリゾート」が挙げられる。
初めてこの曲を聞いた時の俺の感想は、”よくあるボカロ曲だなあ”というものだった。
正直これらの曲はボカロ曲としては古典的な印象を与えるものだと思う。DTM感が強い、打ち込みで構成されたボカロ曲……という感じだ。
しかしここで重要なのは、実はこれらの曲でAyaseのパーカッション、リズムに関する凄まじいセンスが光っており、それが当時のネット音楽のトレンドにぴったりとマッチしてある程度の人気を博していたということだ。
Ayaseのリズム感に関する才能には目を見張るものがある、というのは上記の二曲を聞けばたぶんわかってもらえると思う。もちろんこの曲が発表されてから時間が経っているので、当時は真新しくとも今では多少風化しているように感じるかもしれないけど。
「夜に駆ける」においてもそのリズム感が遺憾なく発揮されている。ただ、この曲がそれまでのAyaseの曲と大きく違うのは
・繰り返される転調
と
だ。
一つ目の繰り返される転調に関しては「夜に駆ける」を聞けばわかる。最後のCメロのところとか二回くらい転調してる。で、たぶんなんか普通の転調とは違う感じがする。音楽知識がないのでその辺はわからないけど。まずそこの斬新さがある。異論は認める。
まずikuraが持つリズム感についてはもうとりあえず「夜に駆ける」聞いてみてほしい。歌詞の子音がバスドラとクラップに気持ちよくハマっている。
この文章を書くにあたって今一度「夜に駆ける」を聞いていたら、そのikuraのリズム感の素晴らしさについてちゃんと語りたくなったので細かく述べる。興味ない人は飛ばしてください。
・イントロの”沈むように「溶けて」いくように”の「溶けて」のリズム感が良い
・”二人だけの空が広がる夜に”ここのリズム感は全部いい
・”さよなら「だけだった」”の「だけだった」のリズム感が良い
・”その一言で「すべ『て』がわかった」”の『て』が良い
・”日が沈みだした空と君のすが「た」”の「た」のリズムの取り方がマジですごい
・Bメロの”いつだってチックタックと「鳴る世界で」”の「鳴る世界で」のリズムの取り方がすごい。
・Bメロの”触れることない言葉うるさい声に涙が”ここのリズムは全部すごい
・サビの”騒がしい「日々に」笑えない「きみに」”の「日々に」と「きみに」のリズムの取り方がすごい。
・二番のBメロは正直全部リズムの取り方すごい。”信じてたいのに信じれないことそんなのどうしたってきっと これからだっていくつもあってそのたんび怒って泣いてくの”ここがすごくいい
・Cメロの”もういや「だって疲れたんだって」”の「だって疲れたんだって」のリズムがすごい。
ここにリズムの優れた曲を作るAyaseとのシナジーがある。偶然にしては出来すぎたユニットである。
次の”ikuraが持つ自我の顕れない説得力のある歌声”について
これは説明がとても難しい。
と
・なんでも歌える歌手
の二種類だ。一見後者の方がなんでも歌えて優れているように思えるかもしれないけど、事態はそんなに単純じゃない。
まず前者について具体例をいくつか挙げようと思う。
とりあえず例を列挙する。
米津玄師「アイネクライネ」というか米津玄師はほぼ全部自分の話をしている感じがする。
実はほとんどのバンドマンは自分の話しかしていない。ヨルシカが「八月、某、月明かり」の歌詞で叫んでいるように「心を売り出し」ているのだ。
ちなみにヨルシカは「詩書きとコーヒー」でも「寿命を売るなら残り二年」とか歌っていたりして、そういう自分のことしか歌えないナブナ自身をどこか皮肉めいて表現していたりする。
りりあの「浮気されたけどまだ好きって曲」を聞いてほしい。これ絶対自分の話だろと思って調べてみたけど明言してないっぽい。なら自分の話と考えていいのかな?
この曲は浮気された女の子の心情を歌うにしてはリアリティが高すぎる。
汚れた君は嫌いだ
君を汚したあいつも嫌いだ
この歌詞の下のほう、「君を汚したあいつも嫌いだ」ってそっちにヘイトが向く心情を表現できるのすごくないか? 普通浮気された曲って恋人に対する恨みつらみで話が終わると思っていただけにびっくりした。
こんな風に自分のことを歌う曲は”その人の人生の重み”が自然と声に乗っかるので、ものすごい破壊力がある。
でも、こういう歌手がほかの人の作った歌を歌うと、どことなくちぐはぐな感じになる。なんか違うな~とか、ぐっとこないな~みたいな気持ちになる。
あとこのタイプの歌手は一発屋で終わる傾向が多い。劇的な経験がないと歌えないならそうなるのも必然、という感じはする。
歌い手文化はいろんな人の曲を歌うっていう前提があるわけで、そこでさっき挙げたような自分の歌を歌うタイプの歌手は歌い手文化にそぐわない。
自分が共感できる曲だけを歌うことでその問題を解決してる人もいるっぽいけれど。
なんでも歌える歌手の例を挙げる。
・ikura
・Ado
・yama
・suis
ヨルシカはナブナの個人的な、本来だったら本人にしか歌えないような歌をsuisが上手く歌っている感がある。
これらの歌手は限界まで自分の色を出さない。でも無個性とは違う。ただひたすらに歌詞にひたむきに向き合って、そこから読み取れる感情をまっすぐに表現している。だから聞く人の心にダイレクトに届いているように思う。
YOAOBIのコンセプトは”小説を音楽にする”だ。このコンセプトとikuraのどんな曲も歌うことができるという特性は実に親和性が高い。
「夜に駆ける」の元となった小説は「タナトスの誘惑」というものだ。
あらすじをめっちゃざっくりと言うと、死にたがりの彼女を助けた主人公だったが実は彼女は死神で、最終的に一緒による闇に飛び降りるという、中二病要素をこれでもかと言うほど詰め合わせたような物語だ。大学生が書いたらしい、笑った。
さて、どれほどこの物語がチープであろうとしても、この歌を実体験として生々しく歌うことができる人はなかなかいない。テーマが重すぎるし、全体的に闇が深いものだからだ。
ただ、ikuraは「夜に駆ける」を独自に解釈することに成功している。
この作品自体をどことなく俯瞰的に見下ろして歌うことによってそれはかなった。過度に主人公やヒロインに感情移入するのではなく、どこか客観的な視点から物語を淡々と紡ぐように歌う感じ。無機質な――機械的な、ある種ボカロっぽい歌声と、どことなく人間の闇を感じさせるPV(このPVもあの原作小説から作ったとは思えないほどクオリティが高い)が悪魔的に融合した。
これが「夜に駆ける」がヒットした二つ目の要因だと思う。
もう一回PV見てるけどやっぱりいいな。
“制限が新たな芸術を生む”的な言論があったりする。「アイドル」が素晴らしい曲であるのにはここに要因がある。
今回の場合は
・最新の曲調(Adoが歌う「踊」に似てるとか指摘されてるね)
・”推しの子”のOPに要求される、アイドルソングライクな(コールが差し挟まれるなどの)要素
この三つが程よくミックスされた結果、既存の物にはない斬新さを持った曲としての大ヒット……だと思う。
この話をするにあたって、YOASOBI「アイドル」の歌詞について軽く説明する必要がある。
「アイドル」の歌詞は原作「推しの子」とそのスピンオフ小説の「45510」をもとにしたものだ。
医者の主人公のところに推しのアイドル(アイ)が妊娠出産のために入院してくる→出産日に主人公が殺される→気づいたらアイの子供に生まれ変わってた→アイドルなので子持ちはまずい→なので必死に嘘で隠す
というものだ。
そしてスピンオフ小説「45510」の主人公は、アイとかつて同じアイドルグループに所属していた女性だ。
「アイドル」の歌詞の中での主人公は歌の途中で変わっている。二回目のサビまではスピンオフ小説の「45510」の主人公がこの歌の主人公で、その後はアイ自身の歌に変わる。
1サビまでの歌詞は「45510」の主人公の、アイに対する憧憬を描いたものと思われる。同じグループの中でも抜きんでて人気のあるアイに対する羨望を表現している。
ここの歌詞をikuraは上手く歌えている。
問題はその後だ。
我々はハナからおまけです
お星様の引き立て役Bです
全てがあの子のお陰なわけない
これはネタじゃない
からこそ許せない
完璧じゃない君じゃ許せない
自分を許せない
誰よりも強い君以外は認めない
これはアイが所属するアイドルグループ「B小町」の別のメンバー:「45510」の主人公の心情を描写したものだ。正直、この歌詞を書いたAyaseは天才だと思う。
一見、最初はアイに対する強烈な嫉妬心を表現しているように見えて、最後には
完璧じゃない君じゃ許せない
自分を許せない
誰よりも強い君以外は認めない
とアイに対する信仰とでも言うべき強い感情の発露を描いている。この一見相反するようでいて、しかし同一の感情を詳細に表現したセンスはマジですごい。
Vtuberの歌ってみたとかを聞いた時に「お、この曲はこの子とマッチしてるからいい感じだな」とか思ったことがないだろうか? 俺はその現象を”人格一致ボーナス”と呼んでいる。
たぶんikuraはまっすぐに、幸せに育ってきたタイプの女の子なんだと思う。だから、こうした嫉妬などのどす黒い感情にそれほど縁がないのではないだろうか? なので、それを歌おうとしても、どうしてもうわべだけのものになってしまう。
先ほどの話に戻る。世の中には
・どんな歌も歌うことができる歌手
の二種類が存在する、と言った。
の二つがあるのだ。
そして「アイドル」という曲は”とある人間にしか歌えない曲”に属する。それはこの曲が極めて個人的な体験(この場合だと、45510の主人公とアイ自身の体験)をベースに紡がれているからだ。
ikuraのスター性と「アイドル」の明るい部分は極めて親和性が高い。特に一番のサビなんかは完璧に歌えている。しかし、45510の主人公のアイに対する嫉妬などのダークな部分は歌えない。聞けばわかると思うが、なんだか上っ面で歌っているような印象を受ける。
そんな私の嘘がいつか本当になること
信じてる
恵まれないアイの家庭環境を背景とした暗いCメロの歌詞だ。やっぱりここでも、ikuraの歌はどことなく空虚な感じがする。ikura自身にこんな経験がなく、想像することさえも難しいからだ……と思う。
あるいは、
【ikura】今回は、レコーディングする前にたくさん話し合って…。どういうイメージで、どういう声色で、ニュアンスでやっていこうかっていうのを考えながらレコーディングしました。
【Ayase】そしてたどり着いたのが…「最強のかわいい!」です。僕はikuraがレコーディングブースに入って一生懸命歌っている中、勇気づけるようにディレクションブースから「もっと自分のことかわいいと思って!」って伝えていました。https://news.yahoo.co.jp/articles/32691ffa10659b427d43550c4eda76ad09a1ea74から引用
とあるように、レコーディング環境が足を引っ張ってしまった可能性もある。
「アイドル」の歌ってみたをいくつか聞いてみると、この二番を上手に表現する歌い手を何人か発見した。やはり、こうした現代的な嫉妬の経験がある歌い手のほうが歌声に説得力が増す。
しかしこうした歌い手は同時に、サビの部分で顕著に表れるアイが持つ底抜けの明るさ、可愛さを表現することが難しい。
「アイドル」を完璧に歌える人間は存在しないかもしれない、とか思った
連休が終わる。
といっても連休らしいことは殆どしなかったのだが、唯一にして最高の体験として、立川の居酒屋「玉河」行った。
着いたのは16時くらいだったのに、もうしっかり混んでいる。ひとり客のおっさんもたくさんいる。ひとりのおっさんであるおれもおっさんの並ぶカウンター席に通される。文庫本を読むおっさんと、すてきな老人カップルに挟まれてメニューをにらむ。絞られた日本酒のセレクトが素晴らしい。
いい気分になって、序盤から日本酒とカツ煮と麻婆茄子を頼んでしまう。めちゃくちゃだ。
しかしこのカツ煮がすごかった。何これすごいうまい。忘れらんない。
麻婆茄子は意外と普通。その塩梅もおれにはちょうどよい具合だった。明日も行きたい。
一気にお気に入りトップテンに上り詰めた玉河だったが、同じくトップテン入りしている所沢の「百味」とよく似ている気がした。
郊外ターミナル駅の駅近で、長らく生活者を支えてきた、そこそこ大箱の店。だから客も店員も世代交代に成功していて活気がある。
おそらく地元の酒屋とのつながりも深いから、飲ませる酒にこだわりがある。一方で食堂としての機能もあって定食も出す。だから座席のバリエーションが広い。
そのあたりは江古田にあった「お志ど里」なんかも似ている。ただ江古田は学生街で、労働者はあまりいない。だから酒場の担い手まで受け継がれることはなかったんかなと思う。
一方で最近注目しているのは、大久保や上野といったアジア系の労働者が多い街に芽生えた「ネオ酒場」とも呼ぶべき個人店だ。
アジア系の店員が日本的なザ・大衆酒場を受け継いだスタイルで、とにかく安くて旨い。そのうえ中華やタイ料理といった彼らの得意料理をアクセントとして加えている。
客層もバラエティに富んでいて、当初はその得体の知れなさを敬遠する向きがあったが、サービスの質自体が圧倒的に高いから、今後はどんどん主流になっていくだろう。
○ご飯
○調子
○イハナシの魔女
・はじめに
フラガリア開発のノベルゲームで、男女の恋愛が主に置かれつつもそれが世界の命運も左右することになる類のジャンル、コンシュマー版はケムコからの発売。
もう少し具体的に言うと高校生の男の子が同年代の女の子とひょんなことから出会って共同生活を始めて、最初はぎこちない距離感だったのが徐々に互いの良い所を知っていき、サブヒロイン達の課題を解決していくと、急にメインヒロインが日常生活が送れなくなる奇病にかかって、メインヒロインを助ける道を選ぶか世界を救う道を選ぶのかを選択するやつだ。
若干揶揄するような書き方をしてしまったが、保護者に見捨てられ小さな離島で一人生きることになった主人公の西銘光と、パスポートも持たずになんらかの使命を持ってその離島へやってきた異国の少女リルゥの二人の恋愛のお話。
リルゥは日本の常識を何も知らないが魔法が使えるため多少の不便はなんとかなる。
とはいえ家もなく暮らすこともできず、光とリルゥは二人暮らしを始め、光は日本の常識を、リルゥは魔法で衣食住などのサポートをするという塩梅で物語が始まる。
保護者のいない男女が離島で生活することになるんだけど、色々な人の善意でなんとか仕事を見つけて生活をしていく。
この辺が地に足がついた描写になっていて、頑張れ頑張れと応援しながら読み進めた。
嫌味な一面と優しい面の両面がある仕事先の上司や、電気や水道やガスの滞納料金を支払いそれらが開通した時の達成感、家事の分担などなど、生活そのものの描写が多め。
そこに、異国からやってきたヒロインの異なる常識という要素が絡むところが物語になっている。
タイトルの通り魔法が使えるため、水道がなくても水を出す魔法を使えばいいし、お風呂に入らなくても洗浄魔法があれば問題ないと言った具合の、すれ違いと、いざ水道や電気があれば楽しく使う辺りのギャップがノベルゲームしてるなあ感があった。
・真っ直ぐ好意を伝えてくれる
ルート分岐がないこともあり恋愛関係になるヒロインはリルゥ一人だけ。
かなり序盤からもう恋愛感情に自覚的で好きの気持ちを度々表明してくれる。
感情表現に乏しいクールキャラなのに、この辺のデレデレした感情は隠さないというギャップが魅力的とされるんだろう。
他のヒロインへ嫉妬してしまうシーンや、より好きになってもらうために料理を頑張るシーンなど、好きの気持ちを早めに表明したからこそ盛り上がる展開が幾度も用意されているのが話が早い故の見所。
サブヒロインである、声優志望のあかり、保険販売員の紬等のエピソードでは起承転結の転の部分でリルゥから人生観を問うやりとりがある。
この問いかけから、リルゥがそれに相応しい魔法を使い憑き物を落とすという展開になる。
そして、最後のリルゥ本人のエピソードでは主人公である光に対してこの問いかけが行われ、それがエンディングに繋がっていくという構成。
この辺を説教臭いと捉えるか、含蓄があって興味深いと思うか、啓蒙的な面が良きとするのかは、一様には言えないが、やろうとしたことは伝わった。
・リルゥを取るか世界を取るか
そんなエピソードが積み重なっていき順風満帆に思えた二人だがリルゥが日常生活がままならなくなる奇病にかかってしまい、彼女を助けるためには世界を…… という大きな話が展開していく。
とはいえこの辺りも、奇病にかかっても二人で頑張って生活をしていくパートの文量が多く、世界云々は選択の重み付けのような部分で解説はあっさり目。
二人だけの関係値でなく、二人が築いてきた島民との関係値が後押しする展開は数が少ないながらもある程度の社会性を持った恋愛だったことを裏付ける描写になっていて、心配りを感じられた。
・おわりに
テンプレート的展開だと安易に揶揄するつもりはなく、ある程度自覚的に行いつつ改善していこうという気概を感じられた、ちゃんと王道を噛み砕いてこの物語に相応しいように加工していた。
特に序盤の共同生活から始まり生活基盤を整えるところや、主人公とヒロインの関係値だけでなく他のキャラとのそれも後押しになる箇所などは、二人きりの閉じた世界に収めたくなかったんだろう。
パルプ・フィクション:後半のボクサーの章からは割と面白かった。前半のチャプターが絡み始めるからかな。タランティーノらしい会話劇中心の前半と違って、物語が動いてエンタメとしての見せ場が増えたからかな。
タランティーノの家に転がり込むのがウケた。サミュエルLジャクソンの「弾が逸れたり、ペプシがコークになったり、現象は何でもいい。自分の心の中で髪を感じたかが問題だ」みたいな台詞はすごく共感した。宗教に限らず全ての信仰は納得と同義で、それは自分の内から発するものの問題だから。
世間でされてるほどの評価をこの作品のどこから受け取れば良いのかイマイチ分からんかった。繰り返し見て、うむ評価に違わぬ名作だ、なんてスノビズム趣味に浸りたいと思えるほどにはハマらなかった。
アフリカン・カンフーナチス:出オチ。最初の10分が1番面白かった。格闘アクション映画への誠実さというか愛は感じた。
ビッグ・フィッシュ:好青年ユアンマクレガーがかっこよかった。
いつものティムバートンらしい世界観とストレートな親子愛の塩梅が良い感じだった。という点ではシザーハンズに近いけれど、あちらよりもハマれた。
異世界の住人との触れ合い、分かり合える事、やはり住む世界が違う事を描いた悲恋は女好みっぽくて、色々あった親子関係を解きほぐして、果ては空想の素晴らしさをも肯定的に描いた本作は捻くれオタクにも輝かしく語り掛けてくるのかな。知らんけど。
もうね顔つきがギリギリ普通の人のフリしてるだけで、ちょっと喋るとそういう顔になるの。ずっと不機嫌そうで、喋ってる言葉もよく聞こえない。でも頑張ってるんだろうね。頑張って馴染もうとしてるのに相手は「は?」って顔するからそりゃ不機嫌になるよね。「僕ちゃん頑張ってるもん!」って顔に書いてあったよ本当。
歩くときもびっこ引いてるんだよね。膝の関節がまるフィギュアスケートの選手がジャンプする寸前に溜めるときみたいっていうか、普通に歩く時には曲げないレベルまで斜めにしてるの。やたら両足をクロスさせて斜めに蛇行するような動かし方をしてるから、足の動きに対して前方方向の歩幅は普通なの。でも斜めの動きでは大股に歩いてる。普通に歩くっていう事自体が生まれつき出来ないんだろうなって動き。
そんでまあとにかく色んなお客さんに対して覚えた呪文をゴニョゴニョ言ってるんだけど、お客さんがそれに対して普通に回答しても「は?何言ってんだテメエ?」みたいな顔と声で次の回答を言うの。
お客さん「転出の方です」
その人「…………………そうですか💢では💢こちらの書類に手続きしてください💢」
みたいな感じ。なんでそうなっちゃうんだろうね。最初のフレーズは機械的に言えてたでしょ。そこから二択のIF分岐に行くだけの処理でなんでそんなテンパっちゃうの?ちょっとマジでヤバイよー。
それでまあその人の管理してるっぽい人がちょくちょくやってきて「君。頑張ってるね」みたいな事言ってるわけ。もうね……職場全体で何とかこの人でも出来る仕事をやらせて仕事から干してる訳じゃないって状態に持ってくために必死になってるのが伝わるわけ。こりゃ凄いよ。福祉だよ福祉。
自分は別の若手のネーチャンに相手してもらってマスクの舌で「グヘヘヘかわええのう」って鼻の下伸ばして横目で見てただけなんだけどさ、この人に案内してもらわなくて良かった―と内心ほっとしてたんだよ。いっそ窓口業務にこんな人置くとか狂ってんのかこの役場ぐらいに思っていたわけ。でもさこういう様子を見ちゃうとさ、本当にこの人は頑張って生きてるし、こういう人が社会から切り離されて中途半端な知性から自分の置かれた境遇の不公平を呪って殺人鬼になったりしないようにするのって大事なんだよなと感じたわけよ。
いや凄いね。自分の職場は規模的にもしょーもないから障害者雇用なんてやってないけど、役所はそういうのから逃れるのは無理だもんなあ。大手企業だったら他の会社と一緒になってまとめて働かせてるふりをさせるシステムに組み込むんだろうけど、役所がそれやったら問題だもんなあ。生で見せられるとかなりのパワーがあるよ。やっぱね障がい者であっても1人の人間だから感情も人権もあるし、戦闘能力やそこそこの頭脳も持ち合わせているわけ。それをなんとかして社会の中で存在させ続けなきゃいけないってのは中々骨だなと。
世の中には結構な数の障がい者がいるはずなのに、街で見かけるのは電車で車掌さんごっこしてる人や分かりやすく杖をついてる視覚障害者ぐらいじゃん。車いすの人が一時的に車いすなのか麻痺しているのかは外からじゃ分からんしさ。でもいざ仕事先や各種の店舗に行くとどこにもいないんだよね。行き帰りの電車にはいたはずの障がい者が社会から急に消えるわけ。彼らはどこで何をしているんだろうかっていうと、こうやって周りがサポートしながら何とかかんとか組み込もうとしてるんだねえ。周りがだけどね結局。それらをまとめて集めて障がい者雇用の補助金を一緒に中抜するシステムが少し前に話題になったけど、いやいや正直あっちの方がまだ人道的なんじゃねえかなって思うよ。健常者の社会に無理に組み込んでも可愛そうなことになるだけだわ。球技大会に参加した運動音痴、いやもっとひどいことに合唱コンクールの音痴のごとく、やれば責められやらねば責められ何をしても存在そのものを疎まれるだけというのはお互い苦しいもんだよ。こっちとしても目の前に置かれて楽されててもきっとムカツクだろうし、かといって自分がそれとやり取りしていい気持ちで終われるかっていうと自信がないね。
怖いね。
もし自分がああ言う立場だったとしたら、なったとしたらどう生きれば良いのか全く分からない。全ての感情と思考をいっそ捨て去って、ただ漠然と日向ぼっこだけして暮らしたいけどそれはやっぱズルいから許さないよとなるんだろうね。じゃあどうしろっていうんじゃの答えが無理やり働かせて皆で苦しむ道か。それでも自分や相手にとって都合がいいぐらいのバランスになれたらいいけど、その塩梅を判断するほどの知性が失われているならもう運任せだ。昔読んだ小説で、知性の失われ始めた青年が、せめてその後の自分の面倒をみる相手ぐらいは自分で選ぼうと障がい者施設への手続きをするシーンがあったな。まさにそれなんだな。でもきっといつか老人にぼくもなってニンチショーでホームというところのおわせになるだんろうな。
あいつらのやり方って
グルーピングして、主張しあって戦争しあって、結果いい塩梅に落ち着いて、その思想を広める
みたいな感じ
全員が遠慮することでいい塩梅に落ち着いて、その空気を広める感じ
どっちでも社会は上手くいく、前者は多様性が強い社会に向いてるし、後者は逆
でも混ぜると後者は壊れる
前者は上手くいく、と思ってたけどジェンダーとかポリコレとかSDGsとかの動向を見てて、最近は地獄になるんだなと思った
日本で言うところのツイフェミみたいなのが各分野に大量に居るような状況になってる
何が地獄って、ツイフェミ見てればわかると思うんだけどまともな意見もあれば酷い意見もある、学者もいれば陰謀論者もいる
でも全体的に攻撃したもん勝ちになってる
どうでもいいことなんだけど、どうして2月は28日までしかないの?って考えたことあるよね?
ローマ皇帝アウグストゥス(オーガストの語源?)が8月生まれで8月を31日にしたから2月の日数を減らしたとかどうとか。
ま、それは置いといて。
普通に考えれば、1年は365日だから、ひと月30日だとすると12つきで360日。
2月4月6月8月10月11月12月を30日にすればいいわけ。
うるう年だけ奇数月が31日、偶数月が30日になって、ちょうどいい塩梅になるのよね。
で、今のカレンダーって2月だけが極端に短くなってておかしくない?って思うわけよ。
ユリウス暦とかグレゴリオ暦とかカレンダーの歴史ってあるわけだけど、もうそろそろ新カレンダー作ってもいいころじゃない?
20××年1月1日から全世界一斉に新カレンダーに移行ってならないもんかね?
みんなそこんとこどう思ってるんだろうって思って。
ま、どうでもいい話なんだけどね。
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「良くも悪くもモリカケサクラ問題と同程度に問題」ってだけの話じゃないかね。
モリカケサクラ問題の時に「陰謀論w」と笑ってた連中はcolaboを追求する資格は無いし、モリカケサクラ問題の時に騒いでた人たちはcolaboを擁護する資格は無い。
元増田はモリカケサクラ問題もcolaboも両方「問題がある」と考える人ってだけじゃないかな?
一貫していればどっちでもいいと思うよ。
「擁護する資格は無い」は言い過ぎかな。擁護するにしても、やり方があるよね。「追求は虐めと一緒!」みたいな言い分はなぁ。
「私たちの見る限りでは、問題のある活動をしていたとは思いません。colaboの活動を信じます」と公式見解を出す、くらいがいい塩梅の援護だと思う。
昨日、昭和世代と現代を比較したダウンタウンの特番で、取説無しの抜き打ちで20代男性出演者がレコードプレーヤーでドーナツレコード?を再生させるまでを苦戦していたんだけど(下手すると壊しそうなぐらい苦戦してた)、昭和当時の女子や主婦ぐらいの年齢の女性でさえレコードプレーヤーを使いこなせれてるというのもあって意外だった。(偏見だが、機械音痴が多いのが昭和の女子だろうから。それで平成生まれ世代が機器操作で負けていたっていう。)
それで、当時の昭和の女子学生や主婦でも多数が使えこなせてたが、ゆとり世代の若者とか平成初期生まれの男性ですら、今の機器みたいにちょっとの手探りだけでは動かせれない昔の機器って、他に何がある?
自分で候補を考えてみたが、やっぱり「レコードプレーヤー」が難易度といい知名度といいバランスが良い塩梅。なので、そのあたりを基準にすると「撮影完了後フィルムの手巻きが必要な頃の(銀塩?)カメラ」ぐらいしか「レコードプレーヤー」の次候補として浮かばない。
ちなみに、除いた候補例として、
ちなみに「令和の人が知ったかで使うことができない平成の家電機器」がもしあったら、
がいい塩梅だと思う。
最近ずっと考えている
俺は近場のビジホに泊まりたいのか、否か
泊まるとして、いくつか候補がある
まず、まさに住んでる町の、チャリで10分ちょいで行ける駅の前にある、ややショボいビジホだ
ここには実のところ泊まったことがあるんだけど、そのときはまだこの町に住んでいなくて、しかも受験で来ていたから、今泊まればまた違う感慨がありそうだ
ただ、駅前の景色は見慣れてるし、あのあたりにはマジで何もないということは、もうよく分かっている
あるとするなら役場の近くのパン屋だけど、あそこには結構な頻度で行ってるからな
ただ、今度、ビジホのごく近くで飲み会があるんで、その帰りに「じゃあ僕は、ここ泊まっていくんで…」つってホテルに消えていったら、かなり楽しいだろうなと思う 二次会を断る口実にもなる
難しい 難しいところだ 朝飯バイキングは悪くない感じだけど、大浴場はない
大浴場は欲しい気がするなあ!
電車で30分くらいの、ギリギリ"町"ではなく"街"という感じがする場所にあるビジホだ
本質的な都会度が低く、風景的にはいま住んでる田舎とおんなじ感じで、建物も低いし、気を抜くと田んぼが目に入るような街並みなんだが、ショッピングモールがありその中にはカルディすら備えるという点で、やはりちょっと格上だ
そういう街に出かけて、広い道をプラプラ歩いて、ビジホに泊まり、モールに行ってカルディで買い物
悪くない気もする一方で、すべてが半端だ
半端に金を出して、半端に移動して、半端な街で、半端に過ごす そういう時間も悪くはないだろうけど、良くもないんじゃないか?という気がどうしてもしてしまう
駅直結のモールに行けば、ファッションに興味のない俺でも楽しめる店がいくつかはあるだろうし、最近カルディがデカくなったなんて噂も聞く
ドーミーインに泊まって、ひとりで夜泣きそばを食ったら、かなり満たされるだろうな
県庁所在地からさらに電車に乗って、南にある温泉街に行く 温泉もあるし、植物園もある
これは実際プランとしてはかなり魅力的である一方で、全然近場じゃねえし、普通に旅行だし、ビジホらしいビジホもねえ、という根本的な問題がある
この前泊まって思い知らされた
行ったら楽しかろうと思うが、問題は上述のとおりこの前泊まっていること
前は家族と行ったので、一人で行けば気分も違うだろうけどな
間違いなく楽しいだろうけど、近場か?というとやや疑問だ
近場すぎると虚しくなりそうで、遠すぎると完全に旅行だ
インデックス投資での資産形成が流行しているようなので国債を買うことにした。
色々と調べた感じでは、資金拘束のあるiDeCoは、以前より個人年金保険で積み立てしている増田にはちょっと合わない感じだった。
そこでつみたてNISAを活用しようと考えて、全世界株式のインデックスファンドを積み立てることにした。
増田は40代半ばで、年齢的に多少はリスクをとっても大丈夫だろうと考えて、債権を含まない株式100%のインデックスファンドをピックアップした。その中から、多少なりともリスクを軽減するためにS&P500じゃなくて全世界株式を選んだ(全世界株式と言いつつもアメリカの株を多く含むので、アメリカが風邪をひいたら確実に巻き込まれるけど、それは仕方がない)。
増田は小心者なので、最大損失額を-50%と悲観的に見積もって、「最悪、溶けても耐えられそうな金額」の2倍を積み立てることにした。
積み立て予定分の資金は全額確保済みなので、実のところ一括投資できるし、理論的にも一括投資の方が正しいはず。
なんだけど、投資初心者で小心な増田は「本当に『最悪、溶けても耐えられそうな金額』が溶けたときに、果たして自分は耐えられるのだろうか?」と疑心暗鬼に陥っている。なので当面は毎月積み立てていき、どこかで踏ん切りがついたら一括投資する予定は未定――その頃には新NISAに切り替わっているだろうから、全額を非課税枠に突っ込むことになると思う。
リスク資産については当面の道筋が見えたので、今度は(元本保証という意味での)安全資産について考えてみた。
現状では、安全資産は全て金融機関の預金として保有している。金融機関の口座を5つ開設しているのだけど、利率の高い口座はペイオフに引っかかるギリギリまで入金済みで、これ以上は積み込みたくない。他の口座はまだまだ十分な空きがあるものの、金利0.002%としょっぱい感じで、これから新規に積み込む先としては微妙すぎる。管理の手間を考えると、これ以上口座は増やしたくない。
こんな塩梅で、これから安全資産を積み上げていく場所を考えないとマズイ感じだった。
色々と考えた結果、個人向け国債の変動10年を毎月3万円ずつ買っていくことにした。1年で36万円、10年で360万円……10年後に満期償還されたら償還金で再度個人向け国債を買うつもり。こんな感じで、安全資産のうち360万円を個人向け国債でプールする予定だが、総額については適宜に調整するつもり。個人向け国債はNISA口座を開設した証券会社で購入できるので、口座を増やさないで済むのも良い。
個人向け国債については以下のようなデメリットが言われているけど、増田のユースケースでは許容範囲に収まっていると考えている。
そんな訳で、資産運用について人生で初めて考えた結果、増田は「預金100%」の状態から「預金・個人向け国債・全世界株式のインデックスファンド」に分散した状態へのシフトを進めている。