はてなキーワード: ライトとは
草野球って人数が足りないと
ヘルプに入ると
めちゃくちゃ感謝される
何もしてなくても
ただ立ってるだけなのに
早朝
ボーッと青空を眺めて
風は気持ちよくて
勝っても負けても
最高で
そこで調子に乗って
チームに入っちゃうと
いろいろしんどいけど
用意できているものってなんだろう
って考えると
結局
伝統や
正義を守る
参加するだけで
寄付するだけで
感謝される
神輿は
担ぎ手が多ければ多いほど
1人の負担が軽くなる
きっと
選挙が終わったあと
ポスターをはがしにいって
帰りに立ち寄る
そこで調子に乗って
チームに入っちゃうと
いろいろしんどいんだろうけど
と諭しているそうだけれども
坂口安吾は
そう言うけれど
みんなそんなにつよくはない
美しいストーリーの
中に
自分を
落としこんでしまいたくなる
うちも母親が熱心な会員だったけど、ここに書いてる事ちょっとライト過ぎない?
熱心に通ってたのは30年も前になるから今は変わったのか知らんけど、今回の容疑者が体験したのも当時だと思うので追記させてもらう。
あと数ヶ月に一回の大きい大会と、元朝に九段下に集まる元朝式があった。
「捨て育て」の主戦場。午前中のこれのために、子供がいても置いていく。子供が泣いて追いすがっても置いていく。でもうちの親はなんだかんだ甘い気質だったからたまに連れて行ってくれた。でも迷惑な個別訪問ピンポンしまくって「うちは宗教ではなくて社団法人の認可を頂いていて〜」って語りまくって、文字通り門前払いをくらう母親を見てるのは辛かった。でも置いてかれるよりマシだった。(村上春樹の1Q84を読んでて、あの頃の嫌な気持ちが蘇った。NHKの集金のあたりだったかな。)
朝起き会は5時からだからって5時起きみたいな感覚のブコメも多いけど、なめてもらっちゃ困る。5時に会は始まるんだから、それよりもっとずっと前から掃除と会場の準備があるから、熱心な会員の起きる時間は3時30分です。
たまにわたしも連れて行かれていたけど、退屈で外をウロウロしてたら不気味な男が10円玉を無言で差し出してきた。走って逃げたけど、まだ暗い早朝に子供が一人でウロウロしてたらまあ危ないよね。
天皇陛下です⭐︎創始者の上廣えいじって人がいた時はその人がかなり崇められてたけど、基本宗教っていうより、保守的な政治活動団体なので、壇上には日の丸と共に
「朝起きは お国を興す 第一歩」みたいな標語がババーーンと掲げられてる。本当国防婦人会みたいな。三つ指ついて夫を迎えるとかそういう教え。
保守系の政治家(市議会議員から国会議員まで)はよく来てた。大事な集票活動のひとつだったと思う。
こんな感じだったので、熱心にやる人だと会誌を毎月買いまくったり親戚縁者みんなこっそり会員にして会費自腹で負担するとか、他のトラバでもあったけど学校の先生にも勧誘するとか、結構家族はキツかったんじゃないかな。早起きが素晴らしい事ってのに対してのアレルギーは私もある。
創価中高ですごした増田(https://anond.hatelabo.jp/20220714094742)に触発されて。
今のわたしのように、たとえ大人になってから学会活動をやらなかったとしても、親の庇護下・監督下にあり、人間として成長段階でもある、幼少期・思春期・青年期前半くらいまでを「二世」として過ごすって、人生経験の中で結構なインパクトがある出来事のような気がする。
たまに誰かに話したいな~とか思うけど、世間的な見られ方から、「私親が学会で~」っていうのはいまだに言いづらく、そこでどんな活動をしていたかというのは周囲の非学会員には一切話したことがない。
増田になら…と改めて思ったので、書いておこうと思う。
うちは最初に母が入って、父が母につられて入ったという感じで、活動に熱心なのは母だった。
父は言われて新聞配達してたくらいで、仏壇の前に座るとかそういうことは一切しないライト会員。
私は生まれた翌年の桃の節句の日に入会した。0歳なのでもちろん自発的な悟りとか目覚めとか釈迦みたいなことではなく、親に勝手に入れられた。
このシステムがまずすごいよなと思う。自発的な意思が芽生えないうちから新興宗教に入会って人権的蹂躙っちゃそうだろという気がする。
入会日を桃の節句にあわせたのは女の子だったからだそうです(シンプルな理由)
私自身に学会員の自覚はなかったが、母はバリバリに活動していた。会合なんかにも連れられて行っていた。
地域の役員…地区部長とか? 的な人の家でやるやつと、文化会館といわれる宗教施設でやるやつ、どっちにも連れていかれていたが何の集まりかは全然わかってなかった。
人がたくさん集まってて、同年代の子どももいる集いにつれていかれ、後ろのほうで遊んだり絵本よんだりしてるくらいの感じ。
ちなみにこのころは、まだ学会は日蓮正宗に破門されていなかったので、普通に七五三等で日蓮正宗のお寺にも行っていた。
戦前戦後の墨塗教科書感があり、当時ですらちょっと「え? もうお寺にいかないの…なんで…?」ってなってた。
母が地区の役職についたようで、低学年のころから自宅が週2くらいある会合の会場になった。
家が創価学会の会合の会場になるとか、もしかしたらかなりヘビーな悲劇の二世体験のように思われるかもしれないが、実際にはに集まった大人の人らにかわいがってもらったりおしゃべりしてもらったり、同世代の子どもと楽しく遊んだりという記憶でしかない。
家に人がたくさん来るのがシンプルに楽しいので、自分から会合の場にいることが多かった。
嫌だな~と思ったことはなかった。日常風景みたいな。でもそれは小さかったからで、多感な時期からそうなってたら絶対嫌だったと思う。
会合の最初にみんなで法華経方便品自我偈をとなえたあと、唱題する。
低学年のころ、その方便品の教本(勤行要典という)をみて、会合に来た大人たちに「これは外国の言葉なのか? 何が書いてあるのか?」ときいて困らせた記憶がある。ひらがながふってあるので音だけは読めたが意味不明すぎて…。
あと、会合してる裏で、当時家で飼ってた猫が産気づき、私が猫にかぶりつきで「がんばれー! もう少し!」とかでっかい声ではげましていたので、隣の部屋で会合中の大人らはこっちが気になってしかたなかったらしいということがあった。
会合・座談会の内容は、『大百蓮華』(日蓮の残した著作(まとめて御書とよばれる)の抜粋がのってる会合用のテキスト。月刊)の勉強とか体験発表とか、今思っても穏当な感じだったなと思う。
家で歌われまくってたのと、中学くらいまで学会歌のオルゴール目覚まし時計(なんかの記念品)で起床していたので、今だにメロディーの一部をおぼえている。
https://www.youtube.com/watch?v=Z5ydB2Onbo8
朝この曲で起きてました。奇特すぎ。
役職についてる人がいるとはいえ、子どもの目には会員同士の関係はあくまでフラットな感じに見えていた。
今もあるのかしらないが、当時、学会二世キッズは、学会がやってる合唱団にさそわれることがあった。
しかしこれは入会時とちがい、親に強制的に入れられたのではない。
母に「やってみる?」ときかれたので、そのころウィーン少年合唱団にあこがれていたというただそれだけの理由で「やってみるわ」と答えた次第。
ウィーン少年合唱団にあこがれてなかったらたぶんやんなかったし、やんないならやんないで母は何も言わなかったと思う。
一応入団に際してオーディション的な歌唱テストもあったが、そこで音痴だったら落ちるのかっていうのはわからないし、多分そんなことないんじゃないだろうか。
入ってみたら、多分毎週ではなかったと思う駆れども、日曜日に文化会館で指導があった。
指導は学校で音楽教師してる等、歌舞音曲の心得のある会員が、おそらく無報酬でやっていて、学会歌ではなく一般的な合唱曲の練習をしていた。
「たんぽぽ」(どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう♪)にここで初めて出会って、なんて素敵な曲なんだろう、情景が目に浮かぶぜ…とめっちゃ感動したのはいい思い出の一つで、いまだにとても好きな歌。でもタンポポは別にいらない…。
小学校が違う気の合う友達もできたし、先生の一人が若めのイケメンだったので合唱団は楽しみだった。
創価中高の増田も似たニュアンスのことを言ってたが、池ちゃんは外国の歴史上の偉人をリスペクトしがちで、それが関係してるのかしらないけど、ある日突然第九…大晦日に歌うあれを練習しますーってなった。
小学生ながらに「フロイデーシェーネルゲッテルフルケン」とかって一生懸命練習したよね…。
なんのためにやってたかというと、当時、学会がヤフド(当時は福岡ドーム)を貸し切って、そこで池ちゃんがやってくる大規模な記念式典をやることになってて、そこに九州ブロック? のみんながあつまって第九合唱する…みたいな話になってたので、そのため。
このときの練習は普段の練習の20倍くらい気合が入っていて、池ちゃんが来ることの重み・貴重さ、池ちゃんの前で歌を披露できることがどんなに名誉かをめっちゃ説かれた記憶がある。
あと、合唱のほかにも「夢や目標をもったら、それがかなうように唱題(お題目を唱える)を一生懸命やりましょう」的な指導があったのだが「でもお題目を唱えるだけではだめ。目標をかなえるためには、そのための努力もかかせない。努力に加えてお題目も唱える。どっちかだけでは意味がない」ということを先生が言っていたのを今でも覚えている。
今の私は別に努力だけでいいだろと思うが、現世利益志向の宗教として、特段変な教えじゃないよなってのは思う。
なんの催しか忘れちゃったんだけど、発表会のために合唱団員の何人かからダンスするメンバーを選ぶってことがあって、私は踊りとかドへたくそなのになぜか立候補。
練習時点でグダグダの踊りを披露してたんだけど、そのとき「自分でやるっていったんだから、責任もってしっかりやろう」という、もはや信仰とかなんも関係ない普通のダメだし(指導)受けたのも印象に残っている。
学会二世には「選挙は祭り」って感覚持ってる人がいるんじゃないかと思う。
実際祭りだし、会員はその時期になると手弁当で友人知人宅を突撃し、候補者のビラをわたして投票のお願いをしていた。電凸とかじゃなくて、家凸。やば。電凸もしてました。
でも不思議なことに、母って、当時凸ってた相手と絶縁どころかいまだに仲いいし、最近できた非会員の友達(母はめちゃくちゃ社交的で友達が多い)に対しても、投票日に投票所に連行する「連れ出し」とか平気でやってるのに、不思議と嫌われてる様子もない。こないだ連れ出し被害食らった人と母と私の3人で飲んだくらい。
私は自分の友達に同じことやったら絶対ドン引きされて絶縁されるだろうなと思うんだけど。このへんは世代感覚なのか、母のキャラゆえなのか、いまだによくわからないところ。
とにかく私は同じことはできないし、したくもないし、そもそも公明党には投票してない。
話がそれたが、当時の家凸は、同じ地区の会員同士で車とかに乗り合わせて回ることがおおくて、子どもの私も車に同乗していた。
完全にお出かけドライブ気分だし、乗り合わせする家の同世代の子とかも来るので、普通に楽しんでついてってた。
あと、当時は親のやってることや信じてることを当然に受け入れていたので、乗り合わせた子といっしょに、信号停止中、後部座席からリアガラスに候補者のチラシを掲げて、後続車にアピったりしていた。
若いカップルがにこにこ笑って、オッケーマーク出してくれたの未だに覚えてる。向こうは覚えてるかなあ。
今おもえばひたすらめちゃくちゃ寛容な人たちだ…それか会員だったのか?
小学生のころから国語と社会(歴史)が好きだったんだけども、中学生になると古文の授業がはじまり、日本史の分量も増えたこともあり、その分野への興味関心は増していった。
母の蔵書である古典文学全集や解説書、文学系文化財の図録本などを開くのが大好きで、たのしみな時間だった。
円地文子が清少納言と枕草子を解説している文章のリリカルかつキリリとした美しさに感銘を受けた。
腐女子としての目覚めとこじらせも発生していて、その脳のままに平家物語の現代語訳を読んで、平経正と守覚法親王の関係(都落ちに際して琵琶返しにいくあれ)に爆萌え。
絶対修学旅行では仁和寺に行きたい!! って心に決めて実際行ったり、数多のいにしえの物語や随筆の舞台になった京都、その登場人物である彼女ら彼らが参詣し今も残っている古寺への興味がすごく高まった時期だった。
しかし学会員は寺とか神社とかを蛇蝎のごとく嫌っており、母もそういうメンタルだったので、京都や、京都に限らず、寺や神社に積極的に行きたがる私との間でちょっと揉めた。
寺や神社を頭ごなしに否定する学会員の在り方に疑問が芽生えてきたのもこのころだった。
教本には、勤行の最後には「諸天善神のおんために」祈ると書いてあり、ご本尊にも「南無妙法蓮華経」の字のまわりに、いろんな神様の名前が書いてあるのに謎すぎる。
(ちなみに改定が入った現在の教本では諸天善神のおんために、部分は割愛されてるらしい。祈れよ)
私は母に、はるか昔から善男善女が祈ってきた場がそんなに悪い場所であるとはどうしても思えない。貴重な文化遺産、歴史の息吹を感じさせるすてきな場所だとしか思えない。そんなに嫌うなんておかしい、というような趣旨のことを懸命に訴えた。
訴えられない、訴えても聞き入れてもらえない学会の家の子もいたのかもしれないけど、私の母はそういうタイプでもなく、私の考え方や言動によって、寺や神社への抵抗感は薄れたといっていた。
そんなわけで、母とはのちに一緒に京都旅行を何度もすることになったし、そんなときには寺や神社にも普通に詣でた。
世間一般は学会に偏見をもっているんだなあ…ということを知ったのもこのころだった。
中学の友達が立正佼成会で、呼び出されて逆折伏されそうになるっていう出来事もあってしんどかった。そして世間からしたらどっちもどっち。
政教分離的なところでも疑問が生じてきて、もやもやすることが増えてきた。
でも学会は小さなころから当たり前に傍らにあるもので、うちは別に多額の献金とかで破産してるわけでもなければ、活動で生活が破綻してるわけでもない。どころかその時点で、楽しい思い出がいっぱいあった。
(今もって)学会の一側面しか知らないにもかかわらず「世間で決めつけられてるような団体じゃないのに…」というジレンマを感じていた。世間で決めつけられてるからには理由があるだろうに…。
ちなみに、法華経の方便品は一体何を言ってるのか? という低学年のころ解消されなかった謎は中学生の時まで続き、ミネルヴァ書房から出てた法華経の日本語訳を読んで解消した。(文化会館の、数珠とかうってるグッズ売り場で普通に買えた)
読んで「シャリホツ!(なるほど!)」みたいな感じあった。(?)
日本語として何を言っているのか? という謎は解消したが、内容は中学生には難しい部分も多く、あまり心に響くことはなかった。
教学試験について説明すると長くなるので省く(説明はここ: https://www.sokanet.jp/kaiin/news/2022070101302/)けど、リンク先にもあるとおり、中学生になると、先述の「御書」やなんやから出題される試験を受けることになる。
一般的な検定試験と同じで、初級~上級みたいな段階的な区分けがあって、当然上の試験程合格は難しいし、そもそも試験も年に1回きっちりあるといかそういうもんでもないらしいがよくわからない。
上級のほうになると、ある程度しっかりした活動してないと受験資格も得られないんじゃないだろうか。
ただ最初にうける、英検で言えば5級的な試験だけは、中学生になったらすぐ受けられるっぽくて、私も中学時代に受けた。
さっきも書いたけど、古文が好きで得意だったので、「御書」の勉強はシンプルにおもしろかった。夜にやってる勉強会も同世代が集まるから楽しかったし、普通に合格した。
でもそれ以降の試験は受けたことないし、受けろと言われたこともない。多分受験資格が発生してない。
高校のころは学会活動への興味はほぼ0になっていたので、文化会館でやる大きい会合だけ顔を出していた。
信教の自由であるとか、折伏や新聞啓蒙、選挙活動についての疑問についてまじめに、ナーバスに考えていたのはむしろ中学生のころで、高校ではもはやあまりそういうことに囚われなくなっていた。
やりたい人がやればいいし、やりたくない人はやらなくていいい、自分はあんまかかわりあいになりたくないかな、くらいの、ごくのシンプルなところに落ち着いてきた。
親は、そういう私の姿勢についてはじめのうちはいろいろと小言を言ってきていたけど、会話を重ねるうち「それも考え方だね」とむこうが折れた感じ。
高校生になると学区がかなり広くなり、生徒数も中学までとは比べ物にならないため、同級生の二世について「あの子学会なんやな…」と会館である大きい会合の場に来て出くわして互いに知ることになる。
けっこういるのにおどろいた。
多分あなたのまわりにもいっぱいいると思いますよ、私がそうであるように口にしないだけで。
学会員の間では、創価大学は超絶いい大学、東大にも負けない日本最高峰の大学! みたいな扱いなので、高校に進学してから偏差値的に全く大したことないのを知って驚いたというか拍子抜けした。
めちゃくちゃいい大学なら目指すのもありかなと思っていたけど、そうでもなかったので、最終的に滑り止めの一環として受験した。
活動自体はどうでもいいかなと思いつつ受験しているの……もうこれは、幼少期からの刷り込みとしか言えないと思う。
偏差値的に大したことなくても、学会員の間ではめっちゃほめてもらえるのもわかってたし…。
当日の試験も易しかったし、学費免除の枠で合格したが、魅力を感じてるわけではないので進学はしなかった。
同じクラスの、割と熱心な二世からは「せっかく合格したんだから行かない?」と最後まで説得されたが「すまん、京都行きたいわ!」ってことで断った。
親でもそんなこといってこないのに…とおもってちょっと引いた。
そんなわけで京都に進学したら、すぐ現地の会員の人が面会に来て、京都の会館(堀川にある立派なやつ)に連れていかれたし、同じ大学の先輩ともつながらせられた。
ちなみに大学には創価学会のサークルがあって普通に活動していた。
極左サークルとかはめっちゃ厳しく規制されてて、校内いたるところに掲示があったが、創価学会のサークルは普通に野放しになっていた。
どっちにしろ私は入らなかったし、学会員としても一切活動しなかった。会館に行ったのも最初の一度くらいだったかな。
この時つながらせられた大学の先輩、1回生前期のかなり早い段階で連絡を取らなくなり、名前も覚えていないのだけど、この人に勧められて宮本輝の『錦繍』を読み、最終章で身も世もなく泣きまくったのを覚えている。
ちょっと真面目に対話してみたい。煽りはしないつもりなのでレス欲しい。
むしろ有田ヨシフとかの左翼活動家が強く非難している統一教会は日本のためになる、我々の将来に対してメリットがある存在のように見える。
これは左派が支持するものは国益を損なうもの、非難するものは国益になるものという理屈が(Z世代の代表としての)増田の前提にあるっていうことでok?
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いや、対話しようと思ったけどせっかちなので自分の考えを書いておくわ。たぶん、統一教会の宗教としての悪質性みたいなのだけでは増田には響かないと思うので、"国益"に絞って議論したほうがいいんじゃないかと思いました
あまり政治に興味の無い層、あるいは逆に、ライトな右派~いわゆるネトウヨくらいの認識だと、「国益を最大化しようとしているタカ派安倍さん&自民党 vs 売国を目的としてるリベラル左派」の2項対立という解像度で見ているのかもしれない。これが実はいろんな意味でミスリードなんだと思う。反原発、LGBTQ、フェミなどまぁ"れいわ新撰組"的なものは昔から一緒くたに打ち出す政党が多くて同じに見えるよね。俺も民主党政権前後のネトウヨ第一波だったからわかる
でも、それらの議論は個別に見ないといけない。カウンターで会見を行った全国霊感商法対策弁護士連絡会はリベラル左派とは違って安倍さんが総理になる随分前から政治との関係を問題視してきた人々。自民vsリベラルではないってのが一つ言えることだ。その認識で、国益とはなにか考えてほしい
俺自身は、清和会のやり方が今はもう国益になっていないという立場だと思う
中露の動きを見るに国を守るには徴兵制があってもいいと思っているから改憲そのものは賛成だ。でもその改憲案が外国のカルト宗教による非合理な方針でもし左右されていたとしたら、とても嫌だ。国益というのは、最終的には国民の最大幸福を目指すものだ。例えば、中露と対決することになっても強い日本を作りたいという思いがあったとしても、それは偉い人を生かすためじゃないでしょう?自分の家族とか友達とか、自分自身が安心して日本で生活できるのが国益だ
そういう意味で日本からのリソースを吸い上げることを目的とした統一教会が、日本で一強の政権に影響力を持ち続けるのはそういった国益と衝突する。清和会とそれに影響されたインフルエンサー、ネトウヨ勢が統一教会をかばい続けるのも同様。彼らも、安心して日本に住み続けられるという目標を妨害している
右派から見た、左派のいわゆる「アベガー」というムーブも分解するとそういうところに関係がある
世界的にみて、面積比、人口比で言っても民主主義の勢力はとても少ない。中国、ロシアだけじゃなく世界のほとんどの国が独裁政権に近い。いわゆるアベ的なものというのは、多少その民主主義的なところを犠牲にしてでも今を乗り切るというところにあったので数々の疑惑が生じてしまった。俺も、安心して生活できる日本を維持するという考えの中にはもちろん国民主権、自由民主主義というものが欠かせない
清和会、それから統一教会の目指すものは自民党改憲草案とか、逆の動きが多かった。もちろん、モリカケとかアベノマスクとか。そういうものを志向すること自体を非難したいわけじゃない。でもそれは民主主義的な手続きで検証、賛同を得たうえでやっていかないと平和で自由な日本を維持できない。そういう危惧から、様々な団体、政党、国民から拒否感が出ていた。それが「アベガー」みたいなものの本質だと思うし統一教会はその民主主義で選ばれた代表ではない
統一教会を問題視しているのは「リベラル左派」みたいな単一のものではないし、「リベラル左派」というのは実際は無いのかもしれない。
ここは増田はあんま興味ないかもだけど、ネトウヨはいつの間にか清和会応援団になってしまった。いまネトウヨのみんなは「リベラル左派」と戦ってるつもりかもしれないけれど、実際は「清和会応援団のネトウヨ」だけが言論の場では孤立していて、ものすごくいろんな勢力から苦言を呈されてるんだ。それにネトウヨは気づかずすべてを「パヨク」でまとめてしまっている。逆なんだ。清和会応援団のインフルエンサー、ネトウヨだけが取り残されてる。とはいえ政治に関心の無い層もそっちに引っ張られてしまってるので一大勢力だけどね
ここからは、完全に昔のネトウヨだった俺の自分語りなんだけど、
さて、問題は今まさにその問題が噴出している「クソカルト」の政権への食い込み方である。
ここからが日本国民に〈民主主義を守れる国民性かどうか〉が問われる事になる。
そして安倍晋三の二の舞となる事件が起こらないよう、容疑者のような不幸な家族を二度と生まないようにしなければならない。
右も左もないぞ。この病理の根は深いぞ。
これらは本当に、まるで、小説のような、嘘のような、陰謀論に見えるからだ。
関
それにより安倍派は膨らんだ。
皆安倍派になればとても選挙活動がスムーズに行えるのだ。何故なら、
だからこそ追求が難しく、証拠を突きつけづらい。収支報告署に載らないからだ。
彼らはその信心を試されるのでとても熱心に無償で奉仕してくれる。
選挙演説の"動員"も大体彼ら。
あ〜〜怖いね〜〜やだね〜〜〜〜。
俺たちの住む、先進国日本は「ここ20年クソカルトまみれにされちまってた」んだよ。
愛国心なんて実はなかった。
伝統なんて本当はなかった。
歴史修正主義ですらなかった。
大好きなTwitterの論客のあの人もこの人も"敵国カルト"のお人形さんだった。
などという現実をまっすぐに受け止められるような強い人間ならオルトライトになったりしない。
国葬でもなんでもいいから晋三さんを見送ったら己の心とも向き合ってくれませんか?皆が手を取り合う時なのです。
もちろん「政治に興味のないフツーの人」を説得するのも難しい。
なんせTVメディアはその辺、揉めたくない面倒を避けたいので触れないだろう。なんだかんだ未だTVの影響力は大きい。
しかし我々はこれを排除できなければただただアメリカ政府の傀儡となり、韓国のカルト思想に支配され続ける国家と成り下がるのである。
「首相からじきじきにこの方を後援してほしいとの依頼があり」「当グループの組織票頼み」
https://twitter.com/cult_and_fraud/status/1546710310521778176
「安倍先生、山谷先生なくして我々のみことばの成就はありません」
「有田(芳生)対策ですが、くれぐれも宜しくお願いします。相対的に有田退治になります。全国足並み統一行動を取って下さい。選挙直前に支持が届きます。」
https://twitter.com/cult_and_fraud/status/1546721992065163264
EVの販売比率が5%を超えると変化が加速する。ブルームバーグのアナリストが19カ国と比較分析した。
一定以上の年齢の方ならスマートフォンが世に出た時を覚えてるだろう。そのデバイスは奇妙で高価で、新しい物好きな一部の人の気を引いていた。あれから10年…今ではスマホを持っていない方が珍しくなった。
同じような変化が世界中のEV販売で起きている。そしてアメリカが、ようやく分水嶺を超えた:新車販売の5%がEVになった。この水準を超えた新技術は一般大衆に支持されて一気に拡大していくのだ。
過去6ヶ月間の新車販売で、アメリカと欧州、そして中国という、世界の3大自動車市場が、分水嶺を超えたのだ。アメリカが欧州や中国などのすでにEVが普及し始めている19カ国のトレンドをなぞるなら、2025年には新車販売の4台に1台はEVになっているだろう。
なぜ5%が重要なのか?
テクノロジーの普及はー電気、テレビ、携帯電話、インターネット、LEDライトに至るまでーS字カーブのように普及していく。アーリーアダプターの時点では売上の増加はゆっくりで、そして主流派に受け入れられると急拡大していく(S字の上の横線は、最後までスマホを拒否してガラケー使う少数派である)
EVの場合は、5%がアーリーアダプターから主流派に需要が移る切り替え点である。アーリーアダプターのみの間は、売上の増加は不確かで微々たるものだ。主流派が求め出すと需要は急拡大していく。
世界中の国は同じようなパターンを辿ってEVが普及していくだろう。障害は多い:急速充電器は足りないし、車体は高いし、供給も足りない、顧客もEVについてよく知らない。しかし、5%のアーリーアダプターが道を切り拓けば、主流派はついていくのだ。
よって、これからのアメリカ自動車市場は、2021年に分水嶺を超えた韓国や、2018年に超えた中国、そして2013年に5%を超えて今では新車の9割がEVとなったノルウェーと、同じような普及期を迎えることになる。
https://www.bloomberg.com/news/articles/2022-07-09/us-electric-car-sales-reach-key-milestone
「〇〇だぞ!」「これで万全だっ!」「キミの物語がはじまる!」みたいな
(71) メガドライブミニ2ロム収録予想動画 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=P5A9fNDLRW4
10月に発売されるメガドライブミニ2。テレビにつなげると遊ぶことができるメガドライブのゲームが50タイトル以上収録されるけど、小出しにそのタイトルを発表されている。そのタイトルを予想してる動画。
みてもらえばわかるけど、こういうときに脊髄反射でバカのひとつ覚えのようにあちこちで余裕で遊べるゲームを挙げるやつやら、おもしろみの少いラインナップに毒舌をかましてるって段取りの動画です。
前置きで「懐古レトロゲーマーには2種類の人間がいます。当時の思い出が蘇ればいいというゲーム自体どうでもいい派と、令和の今でも通用する面白さが必要だという「ゲームの内容最重要派」です。
これに「ん?」と思ったのよね。懐古レトロゲーマーって意味が重複してないか?ってこと以外に。
当時の思い出を蘇らせるためにも、令和の今でも通用する面白さを出すためにも、前提として「実機」で遊ぶことが肝要なんじゃない?
すなわち、当時のハードで当時のソフトで遊ぶのが本筋のレトロゲーマーなんじゃないの?それこそ前記の動画でしきりに繰り返してた文言である「本物」ってやつじゃん。「アウトラン」なんかは@@版のほうがいいとかいうけどゲーセンにある動く赤いやつが「本物」だろ?そのほかのどんな移植であろうと偽物だろ。だけどその偽物でも当時の思い出は蘇るよね。そしてメガドライブミニで遊ぶことのできるアウトランはメガドライブで遊ぶことのできたアウトランとしては限りなく「本物」に近いと。それがゲームとしておもしろいおもしろくないということはありますし、それを言い出すと令和でも通用するおもしろさってなんだろう?ってことになるわけです。
収録発表1弾であった「ボナンザブラザーズ」。なんでこれを選んだのかというと、有野課長のゲームセンターCXで遊んでいてみんな「おもしろそう」と思ったけど、メガドライブミニの1には収録されてなくてお叱りを受けたから収録したんだって。
そうなんだよね、令和のいまでも通用するゲームってグラフィックやサウンドではどうやっても太刀打ちできないわけだからどうしたってワンアイディアのキャッチーなパズルとか、みんなで楽しむことのできるパーティーゲームに目が向きがちになるよな。対人戦のおもしろさは令和の今も変わらないですし。それならグラフィックやプログラム技術関係ないし。そもそもが縦スクロールのSTGなどのように死にかけてるジャンルってたくさんありますからね。そこらへんを懐古趣味抜きに評価したりするのは難しいです。江戸時代でも令和でもおはじきやお手玉のゲーム性は変わらないってのまで極論をふっても大丈夫? な話になっていくところです。
これらをふまえてメガドライブミニなどの「ミニ」ってなんだろう?って思ったのです。本来、昔のゲームがワンパッケージで入ってて遊ぶことができるっていわゆる「本物」志向ではないですよね。それこそセガが質の悪いものをおもに海外を中心にたくさん発売してますし。ハードでもソフトでも。なかにはいいものもありますが。でも基本ちがいのわかるレトロゲーマーは見向きもしないわけです。実機を揃えるほうが上等でしょうしね。さもなくば同じ方向で揃えるとか。STGモノばかりとか。
だからミニって音楽でいうとベスト盤みたいなものかなと思ったりするんですよね。適当に選んだものが収録されてる。ドラッグストアとかキオスクとか高速道路のSAの隅っこにちょーんってある。「本人歌唱」って表記ならまだマシって感じのもの。
ところが、ファミコンミニが流れを変えた。会社が本腰をいれてちゃんと「ベスト」を作ってみた。ソフトもハードも「本物」をできる限り模したもの。これが売れたことによっていきなり価値をもって、スーパーファミコンミニによって爆発した。懐古レトロゲーマーも納得のクオリティ(そして満足できないラインナップという図式)。
その頂点にあるのがメガドライブミニになるのではないかと思うのです。未発表の新作が2作もあったり、これまでその手のまとめ懐古ハードにはみたことない作品が収録されていたり、随所にゲームが遊びやすいような工夫があったり、当時の「本物」に似せた工夫や仕掛けがあったり。
なにより、大きいのは名前が出ていることだと思うんですよね。奥成洋輔氏。彼が収録「曲」を決めたっての。音楽CDでも同様の趣旨がありますよね。ザ・コレクターズがキンクスの曲をセレクトしたりとか。
つまり収録予想とか収録作品を愚痴るのってベスト盤の収録曲がNOT FOR MEってことをいってるんですね。まあ不粋な行為です。それを不粋と指摘するのも不粋ですがね。「本物」のレトロゲーマーなら黙って実機をプレイしてろよってわけです。黙って。そんなことに愚痴る時間は「本物」のレトロゲーマーにはないんです。
各種インタビューや発表の番組内でも奥成氏(のみならず、開発発売関係者は)「誰がどう選んでも不満がでるのはしょうがない」とおっしゃってました。それは逆に言うと、「気に入らないんならがんばって実機を揃えてそれぞれが思う最強ラインナップを心ゆくまで遊んでろよ」ってことでもあるし。
そいでもってメガドライブミニ2は1のときとはちがった要素として、メガドライブの「本物」ではなかった、サイバースティックというかつてX68000に対応していた周辺機器のメガドライブ用を発売してそれで遊ぶことができるという提案。「本物」では遊ぶことができない体験ができる。これを楽しまないのは「本物」のレトロゲーマーの失格ですよ(ま、いろいろなマニアがいるか)。少なくともこれに高いって冷水を浴びせてるのは「本物」ではないかな。
メガドライブミニ2の収録作品㈹2弾の発表の評判が悪かったのは、発表を仕切っていた女性ふたりがポンコツ&ポンコツだったからです。彼女らは本当にひどかった。ゲームに興味ないならないでもっとうまくやれよと思うけどなんだか上滑りのリアクションやとってつけたようなコメントとか、本当にゲーム好きなのあんたら?と思うんだけど。
本来、奥成氏の2回めの狙いはそこにあったんだと思う。ゲームに興味のない人種がメガドライブミニ2にどう興味を持ってもらえるか。とくに後半のパーティーゲームやパズルゲームの流れ。ゲームに興味を持たないライト勢の視点から、多人数プレイのできるパズルゲームやパーティーゲームはおもしろそうにみえるんじゃないか?って。ただ、彼女らがその思惑を大きく超えてポンコツでリアクション薄太郎だったから大空振りになったわけで。
ミニ系のハード買って全部遊び尽くしたひとっているの?ってことなんだよな。それらをかつてじゃなくて「今」きちんと遊んでクリアしてなおかつ令和の今も出ているゲームと比較できるひとが、令和の今でも通用する面白さがあるっていえるんですよね。そんなひと世の中に存在する? そして、していたとしても令和の今に令和の技術を集結したハードとソフトのゲームに対抗するのに懐かし補正抜きで勝負になるわけないんだよね。それは上記の動画のポンコツ女性2人のリアクションをみていても思う。世の中の「ゲーマー」で懐古趣味のないひとののメガドライブミニに対する率直なリアクションなんてあんなもんなんだよ。
だから、懐かし補正を抜きにした「ミニ」はありえない。それは体験してるしてないに関係ないんだよね。古いもの好きな若いひとって多い。「はじめて訪れたけど懐かしくて落ち着く場所」的なセリフはよくみかけるじゃない。
だからこそ、当時のハードを小さく再現したり飾りを足したりが大事。なぜならそれで10代も「懐かしさ」を感じることができるから。
かようにいくつもの購買層を想定したからメガドライブミニは売れた。もはや「本物」の懐古レトロゲーマーの購買力はそんなでもないからこその一般向けに媚びてるって図式(懐古レトロゲーマー側視点だと)になってるのは、懐古レトロゲーマーには恥ずべきことなのかもしれんよね。それこそサイバースティックもメガドラタワーも予約して必ず買えって話で、2万弱もよく出せますねえ~って薄っぺらい嫌味でマウントをとってる場合じゃないんですよ。本物の懐古レトロゲーマーは金銭感覚ほかの感覚がぶっ壊れてなければ務まりません。冷静に考えるとメガドライブミニ2とサイバースティックでSWITCH買えますからね。でも、サイバースティックにワクワクやときめきを考えるからの「本物」の懐古レトロゲーマーなわけですよ。誰も遊んだことのない当時のメガドライバーのIFを令和のいま遊ぶことができる。この価値、「本物」の懐古レトロゲーマーなら絶対に体験しないとね。
まあ、収録作品に文句を言い続けるのも懐古レトロゲーマーの姿なのかもしれませんが。(あとまあその文句も楽しい偽物の懐古レトロゲーマーのワタシです)anond:20220710162341
(71) メガドライブミニ2ロム収録予想動画 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=P5A9fNDLRW4
10月に発売されるメガドライブミニ2。テレビにつなげると遊ぶことができるメガドライブのゲームが50タイトル以上収録されるけど、小出しにそのタイトルを発表されている。そのタイトルを予想してる動画。
みてもらえばわかるけど、こういうときに脊髄反射でバカのひとつ覚えのようにあちこちで余裕で遊べるゲームを挙げるやつやら、おもしろみの少いラインナップに毒舌をかましてるって段取りの動画です。
前置きで「懐古レトロゲーマーには2種類の人間がいます。当時の思い出が蘇ればいいというゲーム自体どうでもいい派と、令和の今でも通用する面白さが必要だという「ゲームの内容最重要派」です。
これに「ん?」と思ったのよね。懐古レトロゲーマーって意味が重複してないか?ってこと以外に。
当時の思い出を蘇らせるためにも、令和の今でも通用する面白さを出すためにも、前提として「実機」で遊ぶことが肝要なんじゃない?
すなわち、当時のハードで当時のソフトで遊ぶのが本筋のレトロゲーマーなんじゃないの?それこそ前記の動画でしきりに繰り返してた文言である「本物」ってやつじゃん。「アウトラン」なんかは@@版のほうがいいとかいうけどゲーセンにある動く赤いやつが「本物」だろ?そのほかのどんな移植であろうと偽物だろ。だけどその偽物でも当時の思い出は蘇るよね。そしてメガドライブミニで遊ぶことのできるアウトランはメガドライブで遊ぶことのできたアウトランとしては限りなく「本物」に近いと。それがゲームとしておもしろいおもしろくないということはありますし、それを言い出すと令和でも通用するおもしろさってなんだろう?ってことになるわけです。
収録発表1弾であった「ボナンザブラザーズ」。なんでこれを選んだのかというと、有野課長のゲームセンターCXで遊んでいてみんな「おもしろそう」と思ったけど、メガドライブミニの1には収録されてなくてお叱りを受けたから収録したんだって。
そうなんだよね、令和のいまでも通用するゲームってグラフィックやサウンドではどうやっても太刀打ちできないわけだからどうしたってワンアイディアのキャッチーなパズルとか、みんなで楽しむことのできるパーティーゲームに目が向きがちになるよな。対人戦のおもしろさは令和の今も変わらないですし。それならグラフィックやプログラム技術関係ないし。そもそもが縦スクロールのSTGなどのように死にかけてるジャンルってたくさんありますからね。そこらへんを懐古趣味抜きに評価したりするのは難しいです。江戸時代でも令和でもおはじきやお手玉のゲーム性は変わらないってのまで極論をふっても大丈夫? な話になっていくところです。
これらをふまえてメガドライブミニなどの「ミニ」ってなんだろう?って思ったのです。本来、昔のゲームがワンパッケージで入ってて遊ぶことができるっていわゆる「本物」志向ではないですよね。それこそセガが質の悪いものをおもに海外を中心にたくさん発売してますし。ハードでもソフトでも。なかにはいいものもありますが。でも基本ちがいのわかるレトロゲーマーは見向きもしないわけです。実機を揃えるほうが上等でしょうしね。さもなくば同じ方向で揃えるとか。STGモノばかりとか。
だからミニって音楽でいうとベスト盤みたいなものかなと思ったりするんですよね。適当に選んだものが収録されてる。ドラッグストアとかキオスクとか高速道路のSAの隅っこにちょーんってある。「本人歌唱」って表記ならまだマシって感じのもの。
ところが、ファミコンミニが流れを変えた。会社が本腰をいれてちゃんと「ベスト」を作ってみた。ソフトもハードも「本物」をできる限り模したもの。これが売れたことによっていきなり価値をもって、スーパーファミコンミニによって爆発した。懐古レトロゲーマーも納得のクオリティ(そして満足できないラインナップという図式)。
その頂点にあるのがメガドライブミニになるのではないかと思うのです。未発表の新作が2作もあったり、これまでその手のまとめ懐古ハードにはみたことない作品が収録されていたり、随所にゲームが遊びやすいような工夫があったり、当時の「本物」に似せた工夫や仕掛けがあったり。
なにより、大きいのは名前が出ていることだと思うんですよね。奥成洋輔氏。彼が収録「曲」を決めたっての。音楽CDでも同様の趣旨がありますよね。ザ・コレクターズがキンクスの曲をセレクトしたりとか。
つまり収録予想とか収録作品を愚痴るのってベスト盤の収録曲がNOT FOR MEってことをいってるんですね。まあ不粋な行為です。それを不粋と指摘するのも不粋ですがね。「本物」のレトロゲーマーなら黙って実機をプレイしてろよってわけです。黙って。そんなことに愚痴る時間は「本物」のレトロゲーマーにはないんです。
各種インタビューや発表の番組内でも奥成氏(のみならず、開発発売関係者は)「誰がどう選んでも不満がでるのはしょうがない」とおっしゃってました。それは逆に言うと、「気に入らないんならがんばって実機を揃えてそれぞれが思う最強ラインナップを心ゆくまで遊んでろよ」ってことでもあるし。
そいでもってメガドライブミニ2は1のときとはちがった要素として、メガドライブの「本物」ではなかった、サイバースティックというかつてX68000に対応していた周辺機器のメガドライブ用を発売してそれで遊ぶことができるという提案。「本物」では遊ぶことができない体験ができる。これを楽しまないのは「本物」のレトロゲーマーの失格ですよ(ま、いろいろなマニアがいるか)。少なくともこれに高いって冷水を浴びせてるのは「本物」ではないかな。
メガドライブミニ2の収録作品㈹2弾の発表の評判が悪かったのは、発表を仕切っていた女性ふたりがポンコツ&ポンコツだったからです。彼女らは本当にひどかった。ゲームに興味ないならないでもっとうまくやれよと思うけどなんだか上滑りのリアクションやとってつけたようなコメントとか、本当にゲーム好きなのあんたら?と思うんだけど。
本来、奥成氏の2回めの狙いはそこにあったんだと思う。ゲームに興味のない人種がメガドライブミニ2にどう興味を持ってもらえるか。とくに後半のパーティーゲームやパズルゲームの流れ。ゲームに興味を持たないライト勢の視点から、多人数プレイのできるパズルゲームやパーティーゲームはおもしろそうにみえるんじゃないか?って。ただ、彼女らがその思惑を大きく超えてポンコツでリアクション薄太郎だったから大空振りになったわけで。
ミニ系のハード買って全部遊び尽くしたひとっているの?ってことなんだよな。それらをかつてじゃなくて「今」きちんと遊んでクリアしてなおかつ令和の今も出ているゲームと比較できるひとが、令和の今でも通用する面白さがあるっていえるんですよね。そんなひと世の中に存在する? そして、していたとしても令和の今に令和の技術を集結したハードとソフトのゲームに対抗するのに懐かし補正抜きで勝負になるわけないんだよね。それは上記の動画のポンコツ女性2人のリアクションをみていても思う。世の中の「ゲーマー」で懐古趣味のないひとののメガドライブミニに対する率直なリアクションなんてあんなもんなんだよ。
だから、懐かし補正を抜きにした「ミニ」はありえない。それは体験してるしてないに関係ないんだよね。古いもの好きな若いひとって多い。「はじめて訪れたけど懐かしくて落ち着く場所」的なセリフはよくみかけるじゃない。
だからこそ、当時のハードを小さく再現したり飾りを足したりが大事。なぜならそれで10代も「懐かしさ」を感じることができるから。
かようにいくつもの購買層を想定したからメガドライブミニは売れた。もはや「本物」の懐古レトロゲーマーの購買力はそんなでもないからこその一般向けに媚びてるって図式(懐古レトロゲーマー側視点だと)になってるのは、懐古レトロゲーマーには恥ずべきことなのかもしれんよね。それこそサイバースティックもメガドラタワーも予約して必ず買えって話で、2万弱もよく出せますねえ~って薄っぺらい嫌味でマウントをとってる場合じゃないんですよ。本物の懐古レトロゲーマーは金銭感覚ほかの感覚がぶっ壊れてなければ務まりません。冷静に考えるとメガドライブミニ2とサイバースティックでSWITCH買えますからね。でも、サイバースティックにワクワクやときめきを考えるからの「本物」の懐古レトロゲーマーなわけですよ。誰も遊んだことのない当時のメガドライバーのIFを令和のいま遊ぶことができる。この価値、「本物」の懐古レトロゲーマーなら絶対に体験しないとね。
まあ、収録作品に文句を言い続けるのも懐古レトロゲーマーの姿なのかもしれませんが。(あとまあその文句も楽しい偽物の懐古レトロゲーマーのワタシです)
埋葬/Buryは廃語の1つ。第5版(エキスパンションとしてはウェザーライト)まで使われていた。
今で言う「○○を破壊する。それは再生できない」と「生け贄に捧げる」が、第5版までは明確な区別がされておらず、両方とも「埋葬する」と言う言葉で表されていた。
ルール上両者の差異について問題になることがあり、第6版において廃止され、それぞれに分割された。
傾向として、破壊効果による埋葬は「破壊され再生できない」に、フェイズ・コストの不履行罰則など、誘発型能力に関しては「生け贄に捧げる」に置換されたケースが多い。 両者の差異には注意を要する。
その名残として、長らく「破壊する。それは再生できない」と書かれたカードがあまりにも多く印刷され続けたが、基本セット2010の破滅の刃/Doom Bladeやゼンディカーの審判の日/Day of Judgmentを皮切りに脱却していくことが決まった(参考)。
独特のフレイバー感や発音しやすさなどから一定の人気がある用語であり、「破壊する。それは再生できない」を意味するキーワード処理として復活させてほしいという意見がしばしば挙げられる。しかしMark Rosewaterはその声が多いことを認めたうえで「戻す気はない」と断言している(参考)。
少なくとも今では破壊不能などの関係で、両者は明確に別物である。もし今から戻すとなれば、破壊不能のルールを見直す必要が生まれてしまう。
再生それ自体もゲートウォッチの誓いを最後に新規登場させない方針となっており、常盤木から外されている。再生あってこその用語である埋葬はなおさら復活する見込みはないだろう。
映画『ゆるキャン△』を観てジムニーが欲しくなった人もいると思う。
そんな人に、XGに3年、XCに1年乗る俺が感じたよしなしごとを伝えてみたい。
圧迫感に慣れるまで時間を要する。
前方の見切りも良くない。進路の状況をアクティブに把握するべき。
乗車感。悪い。
都市部の整備された道では感じないが、ひとたび郊外へ出ると舗装路でも飛び跳ねる。
燃費。悪い。
おとなしく運転して、市街地13km/L,高速11km/L程度。
車内。狭い。
フルフラットにはならないが、助手席と後部座席を倒せば車中泊も可能。
段差はマットレスを敷けば無くなる。
最低地上高。これは便利。
状況によっては水没車扱いを受ける恐れもある。
色。好みによる。
ボディサイズとデザインのせいか、この2色は存在感が希薄になりがち。
ホワイトレターのマッドタイヤやデカールで、存在感を高めたほうが何かと安全。
グレード。出来るならばXCを買え。
それ以外の装備差、キーレスやミラー調整は意外と無くても気にならない。
あと、降雪の冬道を走る機会があるのなら、スノーブレードワイパーを1セット買っておくとよい。
泥はねが劇的に軽減する。風切り音もない。
こんなものか。
ファーストカーにするならばXCを、