はてなキーワード: 漠然とは
正社員として働き始めてから毎週土日は出掛けてるおかげか、鬱になる暇もなくかなり心が健康になり始めた。
だけど、過去の嫌な記憶は暇さえあれば思い出して色々と考えてしまう。
だから、これを機に過去の地獄だった期間の記憶を言語化して、過去の清算をしようと思う。
この記事を完成させるのに思い出して書いてる間、精神的苦痛と元の文章力の低さ故に読みづらい文になっているかと思います。ご了承ください。
たまにここの日記見たりしてますが、ここの人達の長文書いてる人の文章力高いので、初投稿でビビってます。
だけど、今は精神状態が普通に良い社会人なんで正直にコメおなしゃす(^O^)
俺の両親は物心ついた時から既に仲は最悪だった。たぶん週1,2のペースで喧嘩していたと思う。喧嘩の内容の殆どは、父が不潔でそれに対して怒ってたと思う。問題なのは母がヒステリックな事なんだが。
母は子供に割と尽くしたりしていたが、その反面で父は無関心な方だった。(それで母がヒスってた事もあったな~)
たぶん中2くらいの時から自分が徐々に論理的に思考できる様になったり、しっかりとした考えを持つようになった。それで、母の言動がおかしいと思う様になり始めた。
今になって確信に変わったのだが、母は自分が思い通りにならないと怒ったり、言い合いでは論理性が一切通用しない人だった。自分にはめちゃくちゃ甘く、人にはクソ厳しい。おまけにADHD。
高校までの自分は考えを言語化する能力が今より乏しかったし、世界がまるで見えてなかったから、何で正しい事が分からないのかと自分もヒスな母に対抗していた。
そしてお互いが暴れていても、父は依然として無関心。
高2の記憶
もっと前かもしれないけど、たぶん高2くらいからお金の問題で毎日喧嘩する様になった。
寝る前も、勉強中も、大事なテスト期間中も、部活が終わってクタクタな時も、、、如何なる時も母が叫んでた。
こうなると拉致があかないので、昔から俺が止めに入ってた。そしてこの時も。
最初は俺も落ち着いて止めに入っていたが、次第に母がエスカレートしていった。無理矢理に父の部屋から追い出しても辞めないので、手を出すようになった。
それでも母は叫ぶ事も愚痴をずっと喋る事もやめない。
当時は気づかなかったが、今思えばその頃から次第に俺の精神は壊れていった。
それからはもうめちゃくちゃだった。
人生唯一となる殺意がここで芽生えた。ストレスを一方的に溜めさせてくるのは母なのに被害者面して、警察を何度も呼んだり。
そして、それがしばらく続いた後、自由がままに母は本当に意味もなくアパートを借りて、たまにそっちで過ごす様になった。(しかも2回。ただでさえお金が無いって発狂してるのに、本当に意味のない行動だった。俺からしたらそれも怒り所の1つだった。)
冬頃になると父は家を追い出された。
しかし、相変わらず母と同じ空間にいると一生矛先を向けてきたりして、また俺らの間で喧嘩になったりしていた。
そして不幸が重なり、家の給湯器が壊れた。母はアパートだったり近くの祖母の家でシャワーを浴びていたが、母方である身内は全員母の味方をしていて被害者である俺を責める様な姿勢だったので、シャワーを借りに行く事は出来なかった。
そして、ただでさえ忙しい学校生活の中、チャリで2,30分ほどのアパートにいったり、家でガスを使って身体を洗える分だけのお湯を貯めたりと、更に家にいてもゆっくり過ごせない状態になった。
高3の記憶
母のあんな感じのキチ●イが1年以上続き、ついに父がアパートを借りて二人暮らしする様な流れになった。
正直いって父は家事はまともにできないし、何より汚い。
だけど、母のあのキチ●イを毎日受け続ける生活より断然良いと思っていたが、割とそうでもなかった。
まず、母からは何も支援を受けず父から毎月3万を渡されるだけだった。
父は殆ど家事をしないし、勤務時間帯的にあんまり顔を会わせる事もなく、ほぼ一人暮らし生活がスタートした。
そんな高3の大事な忙しい受験期に一人暮らしみたいな生活を強いられ、まともな生活費を渡されず、裏では受験費用は愚か目の前のお金すら悩まされて、そんな日々だった。
そして毎日、死にたいと思った。そして起きている間、ずっと色んな事を考えるようになっていった。
気づいたら鬱になっていった。
小学生の時からその時に至るまで、どんな日でも真面目に学校にいっていた。そして課題も真面目にやっていた。
そんな生徒が朝は起きれないし、授業も何も頭に入ってこなくなった。
当時の俺は疲れてるから怠くなって仕様がないよな~って軽い気持ちで考えたけど、鬱の症状で朝起きれなくなるらしい。
夏の引退までは変わらない詰まったスケジュールで、その上に家事や安さを考えただけの食事。
半年以上まともに勉強していない自分は学校に通って定期テスト等をこなしていくのに精一杯だった。
なのにも関わらず、馬鹿真面目だった当時の俺は大学受験しないと人生終わるとか狭いコミュニティに属していると出てくる典型的な思考に陥ってしまっていて、周りに合わせて漠然と大学受験をしようと思っていた。
周りは徐々に成績を伸ばしていき、親のサポートも手厚くなっていったり目に見えてギャップがどんどんと見えてきた。
その頃にはプラスの感情が湧かなくなっていった。友達と笑う場面でも愛想笑いだったり、周りが楽しそうにしているとため息が出てしまっていた。
白髪も段々と増え、ため息も常にする様になり、身体的にも鬱の症状が見え始めていった。
受験間近になると、また新たな問題が増え、もう書くの面倒だから省くが、更にストレスが増えていった。
こうして、今まで真面目に通学し授業を受け課題をして勉強して積み上げてきた人生は無駄になった。
まあそんなこんなで高校生活が終わり、その後の予定なんて何も考えていなかった俺はそのままフリーターになっていった。その後のフリーター1年目の時に気づいたが、受験に落ちて良かったと本当に思っている。
もし受かっていたら、入学金やら準備やらのお金でまたストレスを抱えていた。そして、大学に入っても周りとのギャップや気持ちよく過ごせない日常で更に鬱が悪化していたかもしれない。最悪死んでたかも
何よりバイトが楽しかった。今までは報われるかも分からない課題をどんどん突破していき遠いゴールを目指していたが、バイトはその場で対価が得られる。その感覚がずっと学生だった自分にとっては、すごく気持ちがよかった。
そんな感じで職場の先輩たちにも恵まれ、1年でお金を貯めて遠い場所にいって一人暮らしを始めた。
テレビでの不幸エピやドラマでの家庭崩壊物を昔にたまに見ていたが、まさか自分たちがこうなるなんて夢にも思わなかった。
一人暮らしを始めてからは全てが軽くなって、徐々に普通に近づいていき、日々に幸せを感じる様になっていった。
完治したと言いたいところだが、何かしらの物事がトリガーになったり時々憂鬱な気分になったり、やはり鬱病の原因である母親を一生許せはしない。
未だに本人は1mmも悪いと思ってないし、昔と何も変わらない。
数年経ったら母もさすがに落ち着くだろうと思って関わってみても、やっぱり人間としてどうしようもない人は子供の頃から一生変わらないんだろうなって、母と瓜二つの祖母を見て悟った。
母が過去にしてきた事は、母が精神を追い詰められたが故と仕様がない気持ちを少し抱いてたが、これを見ると元からどうしようもない人間だったんだと笑えてくる。
母は頭が悪すぎるし嘘をついて自分が有利な立場になろうとするし親だから立場が上だと勘違いしているし、そもそも話し合いにならない。不思議と祖母と母の喧嘩は成り立ってるらしい。もちろん彼女らは問題解決をした事はないが。
IQ20以上離れていると会話が成り立たないというが、これも本当だ。
まあこんな感じだから、母たちと関わるとアレルギー反応を起こすかの様にストレスが溜まるし、今関わらなくても後々面倒そうなので、縁を切りたいと思っている。
希死念慮が消えたかと言えばそうじゃなくて、昔みたいにどうにでもなれっていう考えたけど、幸せなまま死んでしまいたいって思う事はたまにある。
でも、死なないで今を生きて、そして楽しいと思えるのが本当に生きててよかったと思う。
普通に生きていたら今の視点や視野にはたどり着けないだろうし、どっちが楽しいだろうかと考えたら、やっぱり今のルートなのかもしれない。
40代フリーターと30代フリーターの先輩が同じ職場に居たことがあった
40代フリーターは大卒で、普通に就職したらしいがなんやかんやで退職して流れ着いたらしい。資格は運転免許すら無し
30代フリーターは俺と同じで特に目的が無かったのでフリーターを続けているらしい。資格は運転免許のみ
言い方が悪いが、同じフリーターの身分でも先輩のようにはなりたくないなぁ。と漠然と考えていた
40代でフルタイムで働いても少ない手取、少ない年間休日、代わり映えしない仕事内容と、正直何が楽しくて生きてるんだろうと思ってた
年下の正社員に指示をされたり、怒られている姿がなんだか情けなく見えたのも大きかった
そして5年ぐらい同じとこでフリーターを続けて、重い腰を上げて正社員になった企業はブラックだった
労働通知書に書かれていた契約とは異なる給与、60時間働いても出ない残業代、そのくせ日中はやることが無さ過ぎて先輩に仕事をもらおうとすると怒られた
暇なクセに拘束時間だけは無駄に長く、タイムカードも無く上長が勤務時間を記帳して本社に提出する形だった。ひどすぎて2か月で辞めた
勢いで辞めたはいいが、田舎故に求人も少なく、当時は車はおろか運転免許すら無かったのでまともな職にありつくのも無理だった
結果的に老人ホームの厨房担当として、またフリーターに逆戻り。しかも今度はフルタイムですらない
ここまで落ちると、もう何しても悪化することはねえな。と開き直ってアホみたいに勉強を始めた
まず人に使われる側ではなく、人を使う側に回りたい。と思ったので管理部門を目指そうと思った。今考えるとだいぶ意味が分からないが当時は真剣だった
次にブラック企業でお金の大切さを叩きこまれたのと、学生の頃は政治経済の経済が好きだったので経理を目指してみようと思った
あわよくば公認会計士か税理士を…とか考えてたが、まあバカの考えだった。俺レベルだと日商1級のデリバティブ取引で吐きそうになった
そもそも経理とか以前の話として、正社員として採用されるには何が欲しいのかと考えた時に、運転免許が必要だと思った
田舎なので車が無いと移動がままならず、生活に支障はなくても仕事には支障が出まくりだった
だからなけなしの貯金を全額崩して、自動車教習所に通った。一括で全額払えなくて、残りの数万円は一か月待ってもらった。我ながらマジで貧乏だった
当時の稼ぎはフルタイム勤務じゃないので、手取で10万前後だった。社会保険は当然未加入だし、国民年金も払えなかったので免除してもらっていたレベルだった
20代半ばに差し掛かろうとする頃に、ようやく人並みに努力をして半年ぐらいで運転免許と格安のオンボロ車を手に入れた
今考えると大した努力でもないが、やれば出来るんだという謎の自信に満ち溢れていたので
次はMOSを取得してみることにした。管理部門といえばパソコン、パソコンといえばExcelだと思ってた
一ヶ月ぐらいで取得できて、俺って天才じゃね?と思ったが、今考えるとテキスト薄いし内容は初心者向けすぎて時間と金の無駄だなと思う
求人だとたまに、MOS取得者歓迎!とか書いてあるけど逆にこの会社大丈夫か?って心配になる
運転免許、MOS(ExcelとWord)を取得した俺はついに本丸の日商簿記に手を付け始めた。気がつけば27歳、フリーター歴7年になっていた
まず3級。当時は5か月ぐらいかけて取得した。この時点で経理の求人に応募してみるが全滅
悔し過ぎて2級。6か月かけて挑戦するも、不合格。2回目の試験を受けようとするも定員オーバーで受験できず、1年かけてようやく合格
28歳、フリーター歴8年に差し掛かろうとする頃にようやく就職活動を開始
とりあえずハローワークに行ってみたら「経理は経験が無いとねぇ…」と言われた。そんなことは知ってるんだよ、と思った
次に転職エージェント、20代に強いエージェントや大手、とりあえず使えそうなエージェントは全部使ってみたが
未経験が足を引っ張ってほとんどのエージェントは求人を紹介しなかった。登録すら断られたところもあった
次に無料で求人を載せている転職サイトで、経理系の求人を片っ端から探した
大手の有料で求人を載せる転職サイトだと求められるレベルが高すぎて書類選考すら通らなかったから
立地が僻地、給与は格安、福利厚生は最低限でも良いのでとりあえず経験を積みたかった
一日足らずで選考結果(不採用)が分かる企業、そもそも応募を無視する企業、とりあえず書類だけ郵送しろ企業、色々あった
こっちもガムシャラに応募していたので、とりあえず面接に行きまくった。多い時は一日に3件入れていて、営業マンの外回りってこんな感じなのかなとか考えてた
メンクリ通院し始めて1年くらい。
通い始めたのは仕事のストレスで体調崩したのが理由だけど、何か別の根深いものがあるような気がしていて、
漠然とこのまま一生付き合っていくのかなと考えることがある。
割とここ数ヵ月は安定はしていて、新しい趣味も増えたし、ぼちぼちやってるつもりだったんだけど、
仕事の環境としてはとても恵まれているのも事実だし、頑張りたいんだけど、
「こんなの自分には無理」と後ろ向きに考えがちだし、
頭が回らなくて分かりやすく仕事が滞ってるけどヘルプが上手く出せないし、
なんかどうすりゃいいんだ状態なんだよな。
相談しようにも、困ってることを上手く言語化できなくて詰んでいる。
みんな、どうやって悩みを相談してるの?凄すぎない?
政府や世論がコンセプトレベルで矛盾しててゴールイメージがブレブレだからだよ。ブレまくったゴールに向かってその場その場で雰囲気で施策を決めてるからどこにも向かわないんだよ。
90年代以前を覚えている中年以降の世代なら分かると思うけど、少子化してなかった時代の日本は現代の感覚からすればそれはもう滅茶苦茶な社会だった。道端で立ちションするわ電車のホームはタバコの吸い殻でグチャグチャだわ、学校は荒れまくって金属バットをガラガラ言わせながら廊下を闊歩するヤンキーが沢山いたし、会社ではパワハラセクハラ当たり前、今のホームレスの方がマシなんじゃねーかってレベルの汚いオッサンが若い女の子のケツ撫でながら偉そうにしてたわけだ。そんな滅茶苦茶な社会で、今の感覚では有り得んレベルの汚くて社会性もないオッサンが何故か全員結婚して子供が2,3人はいた時代だったんだよな。
現代ではそんな連中は全く許容されないわけだが、人間のレベルはそんなに急に上がったりしないわけで、当時のオッサンと同じレベルの人間は今でも沢山いる。昔との違いは、そういう連中は大半が底辺労働の世界に追いやられて見えなくなったというところだ。少子化を解決するというのは、そういう追いやられた連中にも再び家族を持ってもらうということだ。
現代社会はそんなことは絶対に許容したくない。汚ねーオッサンのカスみたいな遺伝子と文化資本(笑)を受け継いだどうしようもないガキなんて見たくないわけだ。子供はみんな可愛くキラキラしていて欲しくて、意味不明に襟足が伸びたりしてない切り揃えられた髪型で、ちょっといい子供服ブランドに身を包んで将来の夢とかを嬉しそうに喋る子供であって欲しいというのが市民の願いだ。
政府も市民も、そういう不可能な願望を漠然とイメージして存在しないゴールに向かって施策を考えたり要望したりしている。それで上手くいくわけがないのだ。「なんかエーアイでいい感じにして欲しいんだよね!」というカスみたいな要求をする顧客に向かってフワフワしたエーアイベンチャーが「分かりました!俺らマジ最先端のエーアイ技術(github)持ってるんで、任せて下さい!」と言って虚無が納品される状況とあまり変わらない。
そんなものは無いんだよ。存在しないゴールに向かうのはやめろ。少子化を解決したいなら、汚くて頭の悪いオッサンをパパに持つ子供を増やすしかない。それかキラキラした子供だけの社会で安心してゆっくり衰退していくかだ。
精神科に通っているが、喋るのが下手すぎて先生にこの文章の1割も伝えられていない。
22年生きてきたが、先日ひょんなことから色々なものを終わりにした。
きっかけは未だに分からないけど、強いて言うなら積み重ねだった。
恋することを諦めるため、好きな人へ自分から連絡することをやめた。
歌うことを諦めるため、タバコの本数もタールも増やした。
人付き合いを諦めるため、関わる人を極力甘やかすことにした。
ぱっと文章にまとめられるのはこれくらいだと思うけど、多分きっと他にも色々抜け落ちてしまっている。
おそらく先日勢いで睡眠薬を一気飲みしたのもこの思考によるものだと思う。
それでもこうやって文章を書くことはやめていないのだから物書きの質は根深いけれど、きっとそれもいつか消えているんだろう。
全部苦しくて痛くて仕方がない。今すぐにでも元に戻りたい。
けど、つまらない、中身のない、ただそこに居るだけの存在でいた方が自分の大好きな人達は迷惑しないだろうし、これでいいのだとも思う。
それと、昔から自分が気持ち悪くて嫌いで仕方なかったから、正直そんな存在に期待しなくて良くなって楽な側面もあるし、この痛みはむしろ妥当な罰なんだろうと思っている。
一番ぴったりな表現としては「生ける屍」なんだろう。ただ漠然と当たり前に消費者になって、生きていると言うより適当に命と時間を浪費するだけの存在。
心底嫌悪する。
でもそれでいい。自分に好きな部分が残っていたらその方が辛いから。
「死ぬ」なんて周りに迷惑かけるしかない手段じゃなくて、最初からなかったことになるような「消える」って選択肢があれば迷わず選ぶのになあ。
お母さんへ。
お母さん、あなたがこの世から居なくなってもう6年くらい経つんですね。
本当に、本当に愛しています。
消えたいなんて思うように育ってしまってごめんなさい。
「生まれてきてごめんなさい」なんてあなたがいちばん悲しむであろう感情に至るような子供でごめんなさい。
あなたの代わりになれるなら、自分はあそこで終わるべきでした。
今でも話せているのは8割くらいですが、上記の理由から今後どんどん隠し事が増えるかと思います。
それでも万が一、私が誰かに助けを求めるとしたら真っ先に相談すると思います。
自分の最高の上司になってくださって、本当にありがとうございます。きっとこの先これ以上の人とは出会えないと思っています。
この仕事について、ほぼ唯一得たものと言っても過言ではありません。
これは、どうせまだ生命的には死ねないけれど、自分という個人は死につつあるのでまだ境目にいるうちに書き残しておくものです。
コロナ禍以降、全国のスーパーなどのレジに「感染対策のためにお会計はトレーを使用しています」といった注意書きが貼られるようになった
しかし、あのトレーでのお金のやり取りに感染対策の効果はどれほどあるのだろうか
個人的には正直に言ってかなり疑わしく思っている
仮に客がコロナに感染していた場合、結局お金を介して店員にウイルスが移るだけなのでまともな効果はないだろう
もちろんトレーを使うことによって素手同士の接触が避けられるという利点はある
しかし、お釣りのやり取り程度なら元から素手同士の接触は指先がわずかに相手の手に触れるかどうかというレベルであって、
トレーを使わない場合と比べて優位な差が出ると言えるのかどうか疑問だ
さらに言うとトレーを使うことで余計に感染リスクが上がる気すらする
手であればこまめに洗ったり消毒したりするだろうが、トレーは基本的に洗ったり消毒したりしないだろうからだ
せいぜいがスーパーの閉店後にトレーを清掃する程度だと推測される
そのためトレーを使うとトレーを介してお金が汚染され、お金から人にウイルスが移って余計に感染が拡大してしまうリスクがあるのだ
漠然とした話ではピンとこないだろうから、具体的な数字を書いて考えてみよう
店員が1時間に1回手の洗浄をして1時間に30人の客の相手をすると仮定する
そして最初の一人目の客がコロナに感染していたとするとどうなるか
客から店員にコロナウイルスが移って店員を介して他の客もウイルスと接触し、それは店員の次の手の洗浄まで続く
つまり、トレーを使わないと合計30人の人間がウイルスに接触する計算になる
最初の客がコロナに感染していたとするとその時点でトレーがウイルスで汚染されてしまうので、
トレーを介して店員とそれ以降の客全てがウイルスに接触することになる
スーパーが12時間営業だとすると、1時間に30人×12時間で360人の人間がウイルスに接触する計算だ
トレーを使うことで逆に感染リスクが12倍に増えてしまっているのである
ここまで読んだインテリ気取りで知能ゼロのはてなーたちはこぞって「硬貨には殺菌効果ガー」と鳴き声を上げ始めるだろう
しかし、銅の殺菌効果は菌が付着してから何十分とか何時間とかしてようやくいくらかの細菌が死滅する程度のものだ
銅には付着したコロナウイルスが即座に死滅するような劇的な殺菌効果は残念ながらない
まだまだコロナ禍は治まらず気の抜けない昨今とは言え、コロナ禍に突入して早2年以上
ちんぽ
ネットを見ているといろいろな不幸な人がいる。
お金がない人。
家族のせいで不幸になった人。
離婚した人。
恋人に振られた人。
31歳の俺は、これといって不幸には遭遇していない。
安定した収入をもらえている。
恋人がいたことないから振られもしないし、ましてや離婚なんてない。
肝臓の値が少し高いくらいで健康だ。(軽くメンヘラではあるけど。)
とはいえ、つらい、しんどいと思う事が数多くある。人生の空虚さや生きづらさを感じ、将来に対する漠然とした不安に襲われる。
それでもネットを見ている限り「俺はまだマシな方」だと思う。
それと同時に「お前はまだマシだからこの状況で満足するべきだ。」と言われている気がする。
「つらい」「不幸だ」と言ってはいけないような気がしてくる。
もっと「俺はつらい!!」とか「俺はしんどいんだ!!」とか言いたい。でも言えない。ネットでは書けない。
なぜなら、世間から見ると自分の感情が間違っているように思うからだ。
仕事の時間にサボっていることもあるし、不満があるからと言ってもっといい境遇に行く努力もしていない。
自分の主張には揚げ足が山ほどある。批判され傷つく未来を想像してしまう。
「そんなこと言ってないできっちり仕事しろよ」「そんなに嫌なら転職すれば?雇ってもらえるところなんてないけど。」と、もう一人の自分が言ってくる。
<追伸>
いやさあ
例えば協力的な候補者がこの先3人4人と増えていったところで、「インターネットのオタク」というあまりにクソ漠然とした集団では、票割りのコントロールなんか不可能なわけよ
(「サイコロで偶数が出たら~」みたいなのも言われてたけど、そんなんじゃ限界があるよね)
つまり現状では3年ごとに山田・赤松を当選させるのが限界で、これ以上広がりようがないわけ
そこをどうするんだって話でしょ
多数派の専制でよく思うのがまさにこのコメ欄です。例えば料理チャンネルでレバーを扱う動画が上がるとコメ欄は
「美味しそう!」
「作ってみてすごく美味しいかったです!」
「家族に好評でした」
「久々に料理して5個も食べちゃったよ」
「寝る前のメシテロやめろ」
「わーいいなー」
「レバー美味しいし動画の通りにやれば臭みも抜けるし鉄分豊富だし安いし最高」
「いやいやレバーはビタミンA多すぎるから鉄分目的で食い過ぎたらかえって毒だぞ」
「苦手だけどこれなら食べれそう」
「すみません正直私には合いませんでした」
って感じになって、少数派はビタミンAに触れてる人と不味かった人。
それ以外のコメはほとんど動画を漠然と肯定してるだけで、その数に見合うほどの具体的で価値ある事を特に言ってない。
だったらコメ欄をまとめれば(そういう動画見る人はレバー=鉄分くらいの知識は誰でも持ってるものと考えれば)
「美味しそう(まだ作ってない人)」
「食べてみて不味かった人(作った否定派)」
「ビタミンAに注意」
の4つだけでいい、これで少数意見が目立てる。疑似意見はいちいちツリー立てて書かずに既に書かれてる所にいいねするだけでいい。
でもそのビタミンさんと不味かったさんは発言したくても肯定的なコメだらけの中で細かい事やネガティブな事言ったら
空気読めない奴みたいに思われるから勇気が必要になるし、書いたところで多数の疑似コメに埋もれて見つけて貰えない。
俺も少数派でいる事が多いので疑似コメ増やして他の少数意見を埋もれさせる加害者になりたくないので、
なるべく全てのコメを読んで既に言いたい事が書かれてればそこにいいねするだけにして同じ内容は書かないようにしてるし、コメツリーをいくつも立てません。
長文を書きはするけどツリーが一つだけなら読みたくない人はさっと飛ばせる。もしこの文をツリー10個に分けたら他人に迷惑がかかる。
でもこんな事考えて書いてるのたぶん俺くらい、どの言語の母語話者でもです。
日本の動画はどんなに人気のものでもコメは4桁だけど英語動画になると5桁がザラにある。
その5桁のコメも内容ごとに整理したらきっとせいぜい100通りくらいしかない。
500回くらい書かれてる意見は大勢の目につくけど3回しか書かれない意見は誰にも気づいてもらえない。
コメの多さが動画主の収入に繋がるなら疑似コメを増やす事は否定できないけどyoutubeにその仕組みは辞めてって言いたくなる。
でもyoutube以外のどんなサイトでもそこを効率化できていない。
みんな多数派に属していたい気持ちと、自分個人のオンリーワンそうな意見に耳を傾けて欲しい気持ちがある、
ブリジットの参戦で色々昔にブリジットに落とされた諸兄どもが沸き立って「ブリジットは男の娘の元祖ですごい存在」ともてはやされていることに何かを言いようのない違和感を覚えていたのだがなんとなく彼らはブリジットの初登場から今回までの歴史が隔絶してるんじゃないかという漠然とした不安を感じた。
ブリジットが男の娘の元祖だと騒ぐが、今のオタクの中では男の娘のジャンルはかなり小さいもので、ニッチな存在と言っていい状況であり、男の娘という言葉自体にさほどの力がない。
そのため「男の娘の元祖」と誇らしげに言うこと自体がかなり情けないというか、粗チンを誇るみたいな話なところがあり、違和感があるのだ。
ブリジットからの「男の娘」の言葉のまでの間は確かに一時期流行って、影響力を持ったジャンルだったこともあった。
しかし、あのあとも追い続けて人間であれば、その後に急激な衰退をしたことも知っているはずだ。
男の娘を題材にしたエロゲは大量に出たが、その殆どがシリーズ化せずに単発で終わった。(その分脳内彼女・の~すとらいくさんには頭が上がらないけど。)ショタアンソロジーである好色少年のススメや少年嗜好も一時期女装少年を載せていたが、次第にそれもなくなり、アンソロ自体も終わったり長らく間が開いたりとするようになっていった。(ぼくのピコの続き誰か作ってくれないかな)
極めつけは男の娘専門雑誌の「わぁい」と「おと☆娘」が休刊したことだった。
あれで世の中の男の娘フリークは、男の娘が一過性の流行であり決定的に衰退してしまったのだと思い知らされたはずだった。
その後も男の娘としてサブキャラ的に出てくることは続いていった。
今でも男の娘キャラは一つのフレーバーとして変化球としてソシャゲに現れていたりする。ただ、結局はその程度であり、色ものキャラと同程度の存在でしかない。一大ジャンルだった昔と比べてしまうと、ショタオンリーやふたなりオンリーに吸収されてしまったことを考えると、もはやだいぶ衰退してしまったという悲しさがある。
そして正直、女装ショタ・LGBT・同性愛といった言葉が浸透していく中で、ことさら「男の娘」という表現をすることはなくなっていった。
ギャルゲなどでも女装するキャラがいたとしても「男の娘」などと書かずに「女装しているが性別は男」、「性別は不明」といった表現が主になっている。「いわゆる男の娘」が通じにくいのか、野暮ったいと思われているのか、言葉は消え始め、性癖として薄く馴染んでしまって終わり始めている。
だから、だいぶ「男の娘」という言葉自体は「死語」になっているという感覚だった。
だから、今回「ブリジットは男の娘の元祖」と騒ぎ立てることに違和感があったのは、もう男の娘ってそんな騒げるほどのものじゃなくない?という感覚なのだ。
なんというか、騒いでる人たちはブリジットの初出から今回までずっと男の娘ってジャンルが興隆していたかのような勢いだ。衰退してたことも知らないかのような紹介の仕方だ。
でもこちらからするともうだいぶ衰退した概念だよ、というのが何となく気持ちがかけ離れてる感じがして気持ちが悪い。
ほんとに日本語が読めないみたいで、かわいそうだが、お手上げだ
https://anond.hatelabo.jp/20220808190657
https://anond.hatelabo.jp/20220808191111
いやいや「どうしてこんなことをしたか」という訊き方なら記憶にかすかになくもないが「気持ちを選べ」なんで漠然とした問題多岐選択でも見たことないなあ
思うに「こんなことしたのはなぜか?」形式の問題を脊髄反射で「登場人物の心情を答えよ」と同一視したアホが勝手に怒ってそれが声がでかいせいで都市伝説化しただけじゃね
んで思考停止してるアホもそんな問題があったといわれると過去のそういう問題をその都市伝説で語られることで上書きしちゃってずれた記憶を作り出してそんな気がしてきてしまうというからくりや
「お絵描きAIをAIと認めたくない」という主旨の文章を見かけた
「ツールであって賢さはない」とも書かれていた
例えば人型ロボットが初めて行く家のドアを開けてコーヒーを入れる様子は誰もが賢さ、知性を感じるだろう
ではお絵描きAIに知性を感じない人もいるのはなぜ?実に興味深い
「AI 誤解」でgoogle検索すると「AIに関するn個の誤解」のようなサイトが何個も出てくる
曰く、機械学習がなんとかかんとか……曰く、ニューラルネットワークがなんとかかんとか……
それ以前の段階で何かボタンの掛け違えがある気がする
知性という言葉が厄介か?
知性という言葉は生物が判断するという前提を含有していないか?
AIの生き物が持つような頭の良さ、知性を無意識のうちに求めているのかもしれない
無邪気に「キリンの絵を描いて~」と言って、AIがキリンの絵を出力するような状況ならAIに生物的知性があるように錯覚できた
ごめんなにいってるかわからない
2022-08-06
この前、飲みの席で同僚と某アニメの話になったんだ。
熱が入って矢継ぎ早に話してて、隣に居た女の子から「何言ってたか全然分からなかった」と言われた。
そこで思ったんだけど、このときの「分からない」って、専門用語的な単語のことだと思うんだ。
そのアニメを見てないと分からないという意味では専門用語的なものだと思うし、実際に見たことがないと分からないし。
でだ、たとえば全然フランス語を知らない人が、知らないフランス語の単語を言われたら何言ってるか全然分からないでしょ?
そのときの「分からない」と、言葉は聞き取れるけど言葉の意味が「分からない」。
個人的には実はそれほど違いがないんじゃないかと思っていて、普通に考えれば全然違うように思える。
だって一方は言葉を聞き取れてて、もう一方は言葉の意味どころか言葉自体を聞き取れていないんだから。
でもどっちにしろ言葉の意味が分かっていないことは同じで、本質的には同じなんじゃないかと思う。
たとえばプログラムなんかで記述が間違ってるとPCはその意味が分からないから反応しない。
意味が分かっているならニアミス的な記述ミスは「あ、これって○○を入力しようとしたんだな」と判別して修正するだろうから。
同様に、ある言語のものに違う言語を使えば当然プログラムは(それ単体では)動かない。
よって言葉自体を聞き取れていても「意味が分からない」となると、実際にはその言葉を聞き取れずに「分からない」ことと状態としてはほとんど一緒なんじゃないかって思う。
いやいや「どうしてこんなことをしたか」という訊き方なら記憶にかすかになくもないが「気持ちを選べ」なんで漠然とした問題多岐選択でも見たことないなあ
思うに「こんなことしたのはなぜか?」形式の問題を脊髄反射で「登場人物の心情を答えよ」と同一視したアホが勝手に怒ってそれが声がでかいせいで都市伝説化しただけじゃね
んで思考停止してるアホもそんな問題があったといわれると過去のそういう問題をその都市伝説で語られることで上書きしちゃってずれた記憶を作り出してそんな気がしてきてしまうというからくりや
40歳になった。ここまでの人生を振り返って思うのは、「人生観が変わるほどの衝撃」とか「人生を決定づける出会い」って俺には結局なかったし、これからも無いだろうな、ってこと。キルケゴールの「大地震」とか、安藤忠雄のガンジス川とか、ああいうの全部20代だしね。もちろん俺は彼等ほどの逸材傑物ではないけれども、俺の人生にだってああいう転換点があってもおかしくなかったはずだ。ということで年表見ながら振り返ってみるわけだが、
リクルート事件(1989)
⇒自民党って悪い奴らなんだな、という理解だったが、今じゃ贈収賄程度で総辞職なんてしないわけで、いま振り返るとよくわからない。
天安門事件(1989)
⇒社会主義って怖いんだな、という理解。戦車の前に立ってる写真は後から知った。
⇒社会主義は終わったんだな、という理解。世界史とか地理とか結局マトモに勉強しなかったので、今でも当時の解像度のまま、なんで露宇が戦争してるのかよくわからない。
湾岸戦争(1991)
⇒油田放火もったいねー、海鳥かわいそう、くらいの印象しかない。当時からハイテク戦争と言われてて、ベトナム戦争やアフガニスタン紛争みたいな人道危機の報道は少なかったんじゃないかと思う。普通に人も死んでたはずだが・・・
阪神淡路大震災(1995)
⇒高速道路が倒壊してる絵面はショッキングだったが、いま振り返れば単に大都市で起きた大地震という以上の意味はなかったと思う。手抜き工事疑惑はあったけど、復興利権みたいな報道は記憶にない。
地下鉄サリン事件(1995)
⇒犯罪どうこう以前に、ホーリーネームとかヘッドギアとか純粋に気持ち悪くて理解できなかった。カルトやべーな、という理解。
同時多発テロ(2001)
⇒その後、アメリカが大量破壊兵器の証拠とかナイラ証言とか捏造してイラクに侵攻してフセイン処刑してた。ブッシュやべーな、という理解。
⇒ひどすぎる、と思いはしたが、少なくとも今はもう拉致してないんだな、と安心もした。
ライブドア事件(2004)
⇒こんな若造でも金さえあればフジテレビ買えちゃうんだ、という発見と、出る杭は打たれるってマジなんだ、という理解。
オバマ大統領(2009)
⇒ブッシュから黒人大統領まで揺り戻した点にアメリカの強さを感じたが、当選後の印象は薄い。オバマケア? あとビンラディン殺害。
⇒当時勤めてた会社が潰れかけてて、リーマンショックの影響で業績悪いっすってみんな深刻そうに言ってた。もちろん全然関係ない。
福島第一原発事故(2011)
⇒日本は危機に弱い、という理解。その後のゴタゴタで、究極的には倫理/信念/信仰の欠如(保身と利益誘導以外の行動原理がない)、という理解。信仰とは必ずしも特定の宗教に帰依することを意味しないのだが、しかし日本社会には資本主義科学技術信仰への対立軸がなく漠然とした宗教への忌避感もあり・・・と、俺なりの総括を語ろうと思えば語れるんだが、このあたりはもう30がらみ、既に自己が確立してしまった後なので、あとはもう何を見ても偏見を補強していくばかりだし、ここから現在までの10年間のニュースもほとんど印象にない。あったねー、くらいの感じ。
参考:キーワードでみる年表 平成 30年の歩み|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB
振り返って思うに、転換点は1999年の東海村JCO臨界事故だったと思う。裏マニュアル作って核燃料をバケツで扱って臨界しちゃったアレ。日本は先進国で技術なら世界一とか、日本人は真面目で几帳面とか、そういう幻想が崩壊していく予兆を感じ取るべきポイントだったが、当時高校3年の俺にはそういった視点はなかった。作業員がチェレンコフ光を見て放射線障害で苦しみぬいて死んだことは印象に残ってるけれども、日本もうダメなのでは? みたいのは無かったし、世間の空気もそうではなかった。一部の不心得者による怠業、むしろ日本人の生真面目さが悪い方向に働いてしまった結果、みたいなことをみんな言ってた気がするけど、今振り返れば完全にズレてたな。80歳で死ぬとして残り40年、これからも重大事件は毎年起こるんだろうけど、俺はもう死ぬまで「人生観が変わるほどの衝撃」を受けることは無いんだろうと思うと、ちょっとさびしい。
https://anond.hatelabo.jp/20220807004927
この増田の
週刊サンケイ. 13(46)(697);1964・11・2 国立国会図書館限定 雑誌 扶桑社 [編] (扶桑社, 1964-11)
うん。
どっちも「ぐだぐだ」という意味でガバガバを使っているという話じゃないよね。
ガバガバというオノマトペがそのまま当てはまるような物理的状態に対してガバガバを使っている状況を指している。
オノマトペそのもの意味から派生して、より概念的なもの、グダグダな状態を表す言葉として使われだしたのがここ10年という意見に対しての反論としては成立してない。
と反論されている。
これもまた「物体の物理的な状態に対してのオノマトペ」であり、「仕事や段取りが上手くいってない状態」を表現しての「ガバ」というニュアンスではなく派生前のものを指している。
における「ここ10年」は「グダグダという意味が生まれた」の時期を指している。
これは日本語を母国語として12年義務教育やっていれば当然読めると思われる。
だがはてなーたちはこれを「ガバガバという言葉が生まれたのはここ10年」と読んでいる。
これはまさに日頃はてなーが馬鹿にする「十分に人との距離が離れており換気もされている屋外においてはマスクを外しても問題がない」を読めない人種ではないか。
あえて注釈を入れるが、この文章は「十分に人との距離が離れており換気もされている屋外」という条件を満たしたときであれば「マスクを外しても問題がない」という意味だ。
間違っても「マスクを外しても問題がない。何故なら屋外で赤の他人と過ごすシチュエーションにおけるお互いの距離は感染の危険がないほどに長いと証明されたからである。つける必要があるシチュエーションはハグ・セックス・大声での口喧嘩ぐらいであるが、これらは屋外では滅多に行われない。つまりマスクはもうほとんど不要と言って良いのである」ではない。
結局ははてなーもまた文章を読んでいるわけではなく、文章からイメージされる情報に対して自分の記憶を何となく結びつける人種なのだ。
まるで英語が出来ない学生がリスニング試験を受ける時のように、文法もよくわからないまま単語と自分の記憶を朧げに結びつけることでなんとか意味を理解した気になっているのである。
そしてそのことに自覚がない。
何故なら、彼らにとって文章を読むとはずっと昔からそうであったからだ。
散りばめられた単語と自分の経験や知識を組み合わせて、それっぽい話を頭の中で組み上げているだけなのだ。
言葉が法則によって並べられ、悪文でもない限りは意味が一意に絞れるような組まれ方をしているものだとは思ってない。
「アレ」や「ソレ」といった代名詞を使ったりジェスチャーや雰囲気でなんとなくお互いの考えを伝えるのと同じ延長線上にあるのである。
これは実に恐ろしいことだよ。
何が恐ろしいって自分たちがそんな状態のままで他人には「マスクを屋外でいつでも外していいってなんで判断してるの?」「ただの風邪ってフレーズだけを切り抜いて何から何までただの風邪と同じとついに暴露したって騒いでるの頭おかしいでしょ」って言うんだものな……。
何も変わらんよ。
自分たちが日頃そういう会話に参加してるから漠然とし「既に知っていること」を「なんとなく思い出して」いるだけじゃないか。
ビックリだな。
ケーキを切れないかもしれない境界に多くの人達がいるという本が前に話題になったが、ネットで他人の文章読解力を散々笑ってきたコミュニティがAlexの読解力問題を解けないというのもそれに似た話なんだろうな。
本当にひどい。
まあ面白くはある。
付き合い始めて5年くらい、同棲して4年以上経つ。
一緒に暮らして5年目ともなると、相手の裸なんて見慣れているし、お互いに目の前でおならすることもあるし、私も脇毛やらすね毛やらの処理が甘いのなんてザラにある。
相手の裸見た程度じゃその気にもならなくなって、恋の脳内麻薬も切れてイチャイチャして楽しいだけの時期は過ぎ、30手前で将来のこと考え出して、お互いにただ好きなだけじゃ済まなくなって、思い悩む日も増えたろうと思う。
本当に抗いようのない生理現象なんだろうことはこの数年で分かったけど、こんなに言うこと聞かないもんかとびっくりした。
エロい雰囲気なんて一欠片もなく、ただおかえりーってハグしてるだけで、今日も疲れたねーって腕枕してるだけで、おやすみーってキスするだけで、いつの間にかゴリッとしている。
流石に最近は付き合いたての頃よりもそうなる頻度は減ったと思うけど、でもこないだ隣に座って一緒にゲームしてたら勃っていた。
不意に勃っちゃった時はいつも、ちょっと恥ずかしそうにしてトイレ行ってるけど、前に聞いたら別に抜いてるわけじゃなくて落ち着くの待ってるだけらしい。自分でもよく分からないんだけど、紳士だなと思った。
こんなにすぐに勃起しちゃって、外で大変じゃないかと聞いたことあるんだけど、なぜか外ではならないらしい。曰く、リラックスするとなっちゃうらしい。あとトイレ行きたくなってきたとき。そして、必ずしも性欲とは一致しないと念押しされた。
確かに彼氏はもともと女性と付き合うだとかモテだとかにもあまり興味がなくて、友達と下ネタで盛り上がるタイプでもないし、向こうからの夜のお誘い自体もそんなに多くないので、性欲過多な人とは言い難い。
でも、ままならない身体に振り回されるというのは、なんだか親近感がある。
あと恥ずかしそうに照れ笑いするのが可愛い。
夜中目が冴えて眠れず、考えても仕方のないような考え事や、漠然とした不安だとかが押し寄せてきた時に不意に隣を見ると、ベッドの上で伸び切った彼氏と、反対にめちゃくちゃ元気なイチゴ柄のテントが目に入る。すると何もかもどうでも良くなる。
私も「女子高生」になった。
鏡で自分の姿をまじまじと見るようになった。
中学生の頃、男子に「キモいから触るな」と言われたことを思い出した。
女子の友達はいたが、男子は可愛い友達と話したがってると思った。
修学旅行で同じ部屋だった友達が、たまたまシャワーしている時に、同じクラスの男子から内線がかかってきた「同じ部屋の友達と話したいんだけど、いる?」と。
この時代、メイク特集も可愛い女の子を対象にしたものばかりで絶望した。
(一重はアイラインが見えないし、稀に載ってる一重メイクは魅力を感じなかった。クールな一重、以外の褒め言葉を見たことがなかった)
女の子扱いされたい、というよりも、女の子扱いされないことに傷ついていた。
高校生の私は、女の子扱いされるための努力をめちゃくちゃ頑張る気力はなかった。
これ以上やりすぎて色気づいてると思われるのは恥ずかしい、大学受験、趣味の時間。
だから、私は、一生女扱いされずに生きていくのだろう、と漠然と思っていた(当然、恋愛は自分に関係のないもの)
「俺、汗臭かったらほんとごめんな!女子の前で恥ずかしいわ」
初めて女の子扱いされた!他の女子と対等に扱ってもらえた!とめちゃくちゃテンパった。
恥ずかしかった。
嬉しかった。
私は、大丈夫だよ、とかそんな返事をした気がする。
20年たった今でも、夏になると思い出す。
私を対等に扱ってくれてありがとう。
本人にとっては何気ない一言だっただろうけど、私の夏の思い出として輝いています。
あれから社会に出て、仕事で技術を磨き、好きなファッションをして、好きなメイクをする。
自分に自信がつくと、女の子扱いされるとかされないとか、他人からの評価軸でうじうじすることはなくなったけど、高校生の頃は本当に重要な問題だったんだよなぁ。
この前、飲みの席で同僚と某アニメの話になったんだ。
熱が入って矢継ぎ早に話してて、隣に居た女の子から「何言ってたか全然分からなかった」と言われた。
そこで思ったんだけど、このときの「分からない」って、専門用語的な単語のことだと思うんだ。
そのアニメを見てないと分からないという意味では専門用語的なものだと思うし、実際に見たことがないと分からないし。
でだ、たとえば全然フランス語を知らない人が、知らないフランス語の単語を言われたら何言ってるか全然分からないでしょ?
そのときの「分からない」と、言葉は聞き取れるけど言葉の意味が「分からない」。
個人的には実はそれほど違いがないんじゃないかと思っていて、普通に考えれば全然違うように思える。
だって一方は言葉を聞き取れてて、もう一方は言葉の意味どころか言葉自体を聞き取れていないんだから。
でもどっちにしろ言葉の意味が分かっていないことは同じで、本質的には同じなんじゃないかと思う。
たとえばプログラムなんかで記述が間違ってるとPCはその意味が分からないから反応しない。
意味が分かっているならニアミス的な記述ミスは「あ、これって○○を入力しようとしたんだな」と判別して修正するだろうから。
同様に、ある言語のものに違う言語を使えば当然プログラムは(それ単体では)動かない。
よって言葉自体を聞き取れていても「意味が分からない」となると、実際にはその言葉を聞き取れずに「分からない」ことと状態としてはほとんど一緒なんじゃないかって思う。