はてなキーワード: 漁師とは
でも、ホームレスに代表される弱者はおとなしく死ぬなんてことはない
配水管を詰まらせたら、その分手間がかかる
なのでたいていの公園ではそういうことを禁止しているわけだが、
もし、ホームレスが統合失調症にかかり、妄想でおかしな行動を取り出し、人を刺したとする
家族がいなかったとしても、刺された人を助けるために莫大な金が飛ぶ
刺した方も刺した方で刑務所に死ぬまで収監され、その費用を一生国が面倒見なければならない
でも、統合失調所にかかった段階で支援団体が介入すれば、グッと安く済む
前の例でいえば、髪を排水溝に詰まらせることがないので業者の仕事量も減って、かかる人件費が前よりの減る
弱者が誰の手も借りず存在していると救済する以上に社会的リソースを使うから救済する必要があるんだよ
追記
平素よりお世話になっております。
http://anond.hatelabo.jp/20120922164617
とある地方公務員が日々思ったことを10のコラムに分けて書いてみた
http://anond.hatelabo.jp/20121012225331
http://anond.hatelabo.jp/20121013233222
http://anond.hatelabo.jp/20121015233513
今後首都直下型地震や南海トラフの巨大地震といった大規模災害が予想されますが、それらの災害に対して、基本的に自分の身は自分の身で守るという自助というものが必要になってきます。
災害というと地震や津波、土砂崩れ、降雨災害といったように多岐に渡るわけですが、それらだけでなく原発災害なんかもあります。
しかし、災害という自然現象に対して人間とは非常にちっぽけでありますので、出来る範囲というものが限られてきます。それは行政も同様です。
災害発生時には災害対策本部を設置するといった地域防災計画の策定というものが行政の仕事としてあるのですが、その地域防災計画も結局のところ、内閣府や都道府県の想定が変わってしまえば全部見なおすことになります。良い例が3.11の東日本大震災が典型例でしょう。
地震予知というものが科学的に難しく、現状では不可能でありますので、それに備えて国の方も予算を組んでおりますが果たしてどこまでそれらの施策に実効性があるのか疑問が残ります。
結論を先どってしまいますが、行政ができることは結局、防災ではなく、少しでも被害を少なくする減災ではないかと思います。というよりも防災の現場に携わっている職員ならば、ゼロリスクというものが不可能であることは十分に承知していると思います。確かに一人でも犠牲はない方がいいに決まっています。しかし、それが不可能であることもまた現実です。
ある町のケースですが、その町は津波によって浸水する可能性が極めて高く行政の何かしらの手立てが必要な地域です。方法としては避難できるタワーを建設したり、津波から逃れるための避難路を作ったりするわけですが、一番確実な対策としては高台に移転するという方法です。津波が到達する可能性の低い場所に地域まるごと移転するというものですね。
この場合、行政が本当に地域住民の命を守るという観点を重視するならば強権的に土地収用という方法もありますが、基本的に地域の合意がなくてはいけません。しかし、津波が浸水する可能性が高い場所というのは漁師町が多くて、高台移転によって生活ができなくなります。加えて、高齢化が進んでいることが概して多いので、今更生まれ育った土地を離れることはできないと考えるわけです。高台移転を強制的に行うことは、結果的に高台移転派と残存派に別れ、ヘタすれば地域性を壊すことになりかねません。それゆえ、高台移転は現実的には困難です。だからといって、タワーを建設するのも適切ではないと思います。
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建設に巨額費用、平常時使い道なし 津波避難タワー 効果に疑問符 静岡
(産経新聞 2012/06/13)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120613/szk12061302110002-n1.htm
タワー新設には数千万円の費用と毎年の維持管理費がかかる。防犯対策も課題で、管理人を配置すれば人件費や夜間・休日の態勢がネックになり、かといって施錠すれば非常時に住民が出入りすることが困難になる。
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このケースからわかるように、津波避難タワーというのは津波が発生するまでは使い道もないタダのハコモノになってしまう可能性があります。また、津波の高さが想定を超えてタワーを上回ってしまった場合は事態はさらに最悪になります。
今防災産業は地方経済の起爆剤として注目を集めています。御存知の通り、現在政府は防災対策として多額の予算を地方に分配し、それらを補助金として活用しています。その補助金を狙ってあらゆる防災グッズが販売されています。
ただ、この防災産業のビジネスモデルも既存の公共事業型のビジネスモデルと違いはないように思えます。結局、財源は国の補助金でありますので、そこに食い込めばいいわけです。
皆さんの街にも町内会や自治会というものがあると思いますが、同じく自主防災組織というものがあると思います。
それらに対して自治体は補助金を交付しています。ただ、補助金の中身が非常に疑問を感じます。
http://www.city.kawaguchi.lg.jp/kbn/08200007/08200007.html
http://www.city.kawaguchi.lg.jp/kbn/Files/1/08200007/attach/taisyousikizai.pdf
川口市はひとつの自主防災組織に対して、事業費の半額を補助しています。おそらく、その他の自治体の補助金もだいたい同じでしょう。
補助金は半額補助のように一部補助されることもありますし、「全額補助」されることもあります。つまり、自主防災組織は手続きさえすれば補助金が支給されるわけです。
自主防災組織は名前は違えど、実質は既存の町内会ですので、自主防災組織の代表=町内会長ということになります。そして、町内会の役員はだいたいが自営業者の場合が多いですので、知り合いの工務店で購入することになります。
また川口市の資機材を見ますと、大半はホームセンターで買えますので、地元のホームセンターにとっても悪い話ではありません。
つまり、防災産業活性化という観点からみれば、この補助金制度は非常に地元の販売店からすれば非常に有利なわけです。
しかし、この補助金によって購入した資機材というものは果たして本当に利用されることはあるのでしょうか。先ほどの津波避難タワーと同じく災害が発生されるまでは使えないものですから、結局これも維持にコストがかかるだけです。もしくは、防災以外の町内会活動に流用したり、私的に流用するかもしれません。それは結局自主防災組織の裁量ですし、ブラックボックスに近いですね。
自主防災組織というのは、実質は町内会ですが、その中に災害発生時にお互い助け合うための役割を担っています。なので、普段は避難訓練や防災研修、学習会などを行なっています。
上は山口県の自主防災組織の組織率の推移ですが、今後自主防災組織が増えていくでしょう。そのインセンティブとして、国は補助金を地域に配ることで組織率の上昇を図っていくと思いますし、東日本大震災により、防災意識はより高まっていくでしょう。
しかし、この地域を守る自主防災組織ですが、果たして災害発生時にどこまで機能するでしょうか。防災組織といっても、実質町内会ですので高齢者中心ですので災害発生時には自分の身を守るだけで精一杯です。実際、自主防災組織という名前ですが、避難訓練などの災害発生時に、主に活躍しているのは地元の消防団です。消防団も人的リソースが限られていますので、結局外部からの助けなしに町内会で助け合うことが困難であることが容易に想像できると思います。
先述したとおり、本当に住民を津波から守るのであれば、強権的に移住させるか、その地域の固定資産税率を上げるといったことをして、住民を動かすことが必要になります。いくら防波堤や防潮堤を作ったとしても、どれだけ機能するかわかりません。可動式防波堤よりも、単純に津波がやってこない地域まで住民の方々に引っ越してもらうのが一番シンプルだと思うのですが。。。
それが叶わないのであれば、せめてご遺体の発見が早期にわかるように手足に識別するリングをつけてもらいたいです。被災地では未だにご遺体の判別が困難であり、結果として遺族だけでなく、行政の方もその対応に追われています。
結論的にいえば、現在行われている防災に対する施策も、災害が発生してみないとわからないということです。ただ、高齢者、災害弱者については犠牲は想定しておく必要があります。当然、行政は住民の命を守ることが使命です。しかし、同時に災害が派生したあとに生き残った住民の生活を取り戻すのも使命だと思います。
また、有効性には疑問が残る津波避難タワーをはじめとした、ハコモノ整備を積極的に行い、同時に実際は機能できないだろう自主防災組織に対しても補助を続けるしかありません。今は東北の現状がありますのでまだクローズアップされていませんが、復興予算の次は、おそらく防災関連の補助金がクローズアップされていくと思います。
無駄遣いと言われようが、実効性に疑いがあろうが、それを地域が望んでいるのであれば仕方がないのかなぁと思います。それで地域のお年寄りが安心し、地元の業者が少しでも潤うのであれば、
ブログを始めました
http://anond.hatelabo.jp/20120806205751
スポーツフィッシング、スポーツハンティングは、「食べるために動物や魚を狩猟する過程を楽しむ娯楽」だと思ってたけど、
「食べることを目的としない狩猟・漁」だから「スポーツ」と称するようですね。
食べるためでもないのに命を奪うのはたとえ対象が魚であっても嫌なので、「スポーツフィッシングは抵抗ない」と書いたのは取り消します。
最終的に釣った魚を食べるならば、あるいは鳥を撃ち落すのでも最終的に食べるならば、狩る過程をレジャーとして楽しんでいても問題ありません。
ただ、ウサギや鹿や熊やアザラシは、食べるために狩猟していたとしても、その殺す過程を楽しんでいたとしたら嫌だし、
楽しんでいなくても「素手で直接」殺していたら、その人とは付き合えない。
銃で撃ち殺す分には、その「手」が動物の血肉で汚れていないから、付き合える。
逆に、たとえ自分自身では動物を殺害してなくても、殺された直後の動物の皮を剥ぎ取るとか解体するとか内臓を引きずり出すとかしてたら、
触れられたくないと思う。結果別れるんだと思う。
食べるためでなく毛皮を採るためにウサギや狐や狸を殺すのは論外だし、たとえ自分で殺していなくても動物の毛皮を剝ぎ取る仕事をしている人とは付き合えない。
蛇やワニを食べるわけでもなく皮を採るために殺す仕事だったら、殺す過程を娯楽にしていなければ大丈夫かなあ?嫌は嫌だけど。
自分では蛇やワニを殺さず、殺された彼らの皮を剥ぐだけの仕事だったら、手を洗ってくれれば触れられても嫌じゃないから、付き合えると思う。
魚は鳥は虫は?動物実験する人は?漁師や猟師は?害虫駆除業者や害獣駆除業者は?兵士や軍人は?
多分私の許せる許せないの基準は、
「殺生の目的(食べるため・自分の命を守るためか、それ以外の非自衛的なものか)」と、
「殺害対象の種族・属性」と、
同じ殺生でも、直接対象を触って殺すよりも、触らず殺す方が許せる。
対象を確認できる殺し方よりも確認できない殺し方の方が許せる。
屠殺業者も動物実験をする医療関係者も動物を素手で殺していることには変わりないが、
後者はその「手」で殺した動物以上の生命を物理的に救う作業をしている。
屠殺業者も猟師も食べるために動物を殺していることには変わりないが、
後者は直接対象を触っていないし、対象との間に距離があるし、銃弾は刃物よりも殺傷した手ごたえが弱い。
素手で殺すより刃物で殺す方が、刃物で殺すより銃や薬物で殺す方が、銃や薬物で殺すよりミサイルや爆弾で殺す方が、自他共に殺生をしているという実感がなくなる。
実際奪った命の重さに変わりないから、実感がなくなる方が問題なのかもしれない。
対象の苦痛が軽減されるから殺生の罪が軽くなるという理屈からそう感じているのかもしれないが、逆に対象の命の重みを軽減することでもある。
基本的に気絶させてからじゃないといけないらしくて電気ショックで仮死状態にするとは言ってましたよ。
でも素手で殺すことには変わりないようです。
見た動画はどこかのアジアの国の近年の映像で、殺しているのは屠殺業者ではなく一般人でした。
ですから、日本や欧米ではちゃんと資格を持った人が設備を整えてもっと人道的な方法で行っているのだと思いますが、
いかんせん相手は規格化された物ではなく生き物だから、機械化には限界があって、最後には人手に頼るしかないそうです。
害虫駆除業者はもちろん、魚介類を捕る漁師にも全然偏見ありません。
むしろ虫を殺して合掌するという感性の方が理解できません。
脳があるのかもよくわからないし、意識とか自我とかないと思うし、生物というよりコントローラー付きの機械みたいなものだと思いますが。
ましてや植物を摘み取ることを「命を奪う」行為だと考える感性に至っては理解不能です。
生命をどう定義するかによるけど、植物は生命体じゃないでしょ。
細胞分裂して増殖して自己複製して自己保存しようとしていることが生物の条件だと定義すれば、無理やり生物とみなすこともできるのかな。
でも少なくとも動物じゃないし、生えているか枯れているかの状態の違いはあっても生死の観念を適用できるものではないと思います。
あと実験動物も普通の動物と変わりないから同じようにかわいいよ。
それが理由かわからないけど動物実験している人にも生理的な嫌悪感は沸き起こる。
でもそれ以上にその人は人間や動物の命を救っている。「生き物を生かす技術」をその手に持っている。
屠殺業者は、毛皮を取るための業者もそうだけど、動物を殺したその手で他の生命を救っていない。から嫌なんだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20120806013304
結論を言うと彼とは職業を理解できないということでもう別れた。だからこうして書いてる。
とあるSNSのオフ会で知り合ったのでお見合いとかみたいに身分証明があるわけでもないから、
豚の頚動脈を掻き切って血抜きして失血死させるそうです。
どうやるのか気になるならネットの動画でも見てみて、それが真実だから、って言われて見た。
とてもじゃないけど最後まで見ていられなかった。
豚が悲痛な悲鳴をあげていて、数人がかりでそれを押さえ込んで首にナイフで切れ込みを入れて血を絞り取っていた。
それでもまだ豚は生きている。
彼に触られそうになるたびその映像がよみがえってきて、鳥肌が立った。
こんなんじゃセックスするなんてとても無理だ。
親の実家でも卵をとるための鶏を飼っていたけど自分たちで〆て殺したりはしてない、と親から聞かされていた。実際見た覚えはない。
自分でやるのは嫌だけど、たとえば結婚して姑から料理の腕前を見せてみなさいといわれたらやると思うし、すぐ慣れると思う。
鶏〆て殺すのは・・・それ「だけ」を仕事にしてたら多分受け入れられないけど、それ「も」仕事のひとつにしている、ぐらいなら許容できる。
シロアリ駆除業者は問題ないけど、同じ駆除業者でも、ネズミやハクビシンやいたちを素手で殺している人とは付き合えない。
実際追い詰めたネズミを槍で突き殺したり、火であぶり殺したり、水攻めして殺したりする業者もいるらしい。無理。気持ち悪い。
ゴキブリや蚊やハエや蜘蛛を叩き潰したり殺虫剤やゴキブリほいほいで殺すのは全く問題ないし自分もじゃんじゃん殺す。
民家の前や住宅街に出没したクマを人間を守るために銃殺する猟友会は許容できるけど、
鹿やウサギや狐や鳥を食べるためであっても娯楽で狩猟するハンターはだめ。
食べるための魚を釣るなら、釣る過程を娯楽として楽しんでいても、抵抗ない。
蛇やワニの皮剥ぎとってる人は、気持ち悪くはあるけど、食べるためのお肉を採るついでに皮も剥いでるだけなら問題ないかな。
牛殺す人と付き合うのも無理。イルカとか鯨狩ってる人も無理だ。
犬猫殺しはたとえ食べるためでももう体が拒否反応起こす。その人の顔見ただけで吐くと思う。
魚のお頭は何とも無いけど、爪がそのまま残っている鳥の足の焼き物を食べるのはちょっと気持ち悪いし(中華圏で普通に食べられている)、
鳥や豚の丸焼きも食べられない。
鳥のお頭がそのまま売られていたら目を背けるだろうし豚や牛の頭が置かれてたら悲鳴をあげて走り去ると思う。
許せるものと許せないものの間にラインはある。でもどんな根拠でそのラインが引かれているのか、わからない。
動物実験は、医療の発展というという大義名分の下単なる虐待行為も多々行われているのだろうけど、
基本的に人間や動物の病気や怪我を治療するのに役立つ研究ならば、行為者を忌避する感情は起こらない。
なんでこう思うのかわからない。でも抗えない。
昨夜、おとなしく地に座している鳥を発見した。体のどこかしかを負傷したらしく、上手く飛べなくなっているようだった。特に気にする必要も無いし、そのまま放っておいても問題なかったのだが恐らくの垂れ死ぬのだろうと思い、気まぐれで連れ帰ることにした。動機としては、私の心に内在する少量の善意や同情なる心理的情動機能がものが作用した為だろう。半日程度世話を焼いてみたが、どうやら餌を食べられないようで、何を与えても口に入らない。このままでは外でも中でも関係無く死ぬと判断し、結局野に放して自由にさせてやることにした。飼育が困難なのも理由の一つではあったが、何より鳥自身が外に出たがっていたことが最大の理由となった。やはり空を飛び、空を愛する存在にとって建築物のような閉鎖的な空間は息苦しく感じるのだろう。この鳥の行動を見た時、私は判断を誤ったと感じた。そもそも動物を保護しようとする行為自体、偽善行為なのである。普段我々は鳥はもちろん、牛や豚の命を殺し、料理の材料として扱っている。それは、我々にとって生き物ではあるが、食べ物としても認識しているからだ。何かを食べる時、その食べられる物質に命が宿っている場合は、その命を殺傷しなければならない。人はこうした殺伐とした生存的事情から、生き延びるために生物の命を原始時代から狩り続けてきた。命を弄ぶ魔の手は陸上の生物だけでは飽き足らず、海上の生物の命まで奪い、無惨に横たわった肉を調理し、欲の限り貪ろうとする。猟師は自らの殺傷行為を職業として正当化し、身を隠しながら己の飢餓を満たしてくれる野生の動物を虎視眈々と付け狙う。漁師は海上に捕獲用の網というトラップを張り巡らし、獲物が引っ掛かって人間の為の供物と成り果てることを満面の笑みで待ち構えている。動物園では野生から拉致してきた動物を見世物として扱い、サーカスでは人間を喜ばせるために動物自身の意志とは無関心に芸を仕込み、ペットショップでは金銭的価値を付加し、奴隷扱いする。このような半ば常識とされている事態を直視すれば、動物を保護するということが如何に欺瞞に満ちたものであるかは周知の事実であろう。まして動物愛護など所詮個人的な自己満足である。鯨を保護し、鮪を保護しない愛護団体にどれほどの善意が存在するのだろうか。そんなものは個人的劣情に基づいた偽善だと気付く筈である。ひとたび鯨が致死性の高い病原菌に感染すれば、愛護団体は彼らの愛する鯨達を鳥インフルエンザにかかった鶏の如く、容赦無く殺処分し捨てるだろう。まして愛護する対象が百獣の王とまで呼称されているライオンともなれば、恐怖に支配されてムツゴロウでもない限り近寄ることすら困難だろう。利己的な彼らの心に愛などという高尚な成分は含まれていない。愛という概念は常に利他的、自己犠牲的であり、決して個人的欲求のみを満足させるものではない。特定の動物を愛し、保護しようとする彼らの行為はまさに個人的欲求が反映された結果であろう。愛とは、生きとし生ける全生物に反映されるファクターでなければならない。人は、偽愛をもって動物の命を弄んでいるのである。この観点で進めると、私の行為も所詮は偽善ということになる。結論として私は判断を誤った、ということだ。全てではないかも知れないが、人間が語る愛とは、大抵が自身の身の安全保障が約束された、ご都合主義に則ったものだと言えるのではないか。現実に存在する人間の心は、ドラマや映画のように美化できるものではない。しかし、「やらない偽善よりやる偽善」ということわざが存在するように、時と場合によっては同情に駆られて衝動的な行動を形成することもあるし、何より人の善意が全て偽善だと一蹴するのも暴論だろう。それでは救われないし、そうした偽善で命が救われるのも確かである。従って全否定するスタンスまでは取れないが、「善意が如何なる成分で構成されているか」を吟味しようとする姿勢ぐらいは覚えておきたいものである。この論述は非常に理想的である。現実的でもなければ実存的でもない。この文章はただ自身の体験を交えて、安定を求めて嘘や欺瞞をバラ蒔きたがる人間の心理という厄介なものに少々メスを入れてみただけである。
就活なんてしなくていいもんを勝手にやって、決まらないから死にます、就活生の大変さは我々しかわかんないのに! って態度だから叩かれんだよ。
増田みたいな大学生は、将来は就活するしかありえないって頭が凝り固まってるんだろうけど、そんなんしなくたって生きてくやつなんぼでもいるわけよ。
公務員、教員、医師、弁護士、政治家、自営業、起業家、職人、研究者、自衛隊、スポーツ選手、作家、漫画家、芸術家、芸能人、NPO、冒険家、デイトレ、FX、漁師、農家、マンション経営、ヤクザ、詐欺師、生保、犯罪者、等…
なんぼでもあるのよ。
就活なんかしたことないけど、何千万稼いでる、って人はなんぼでもいるわけよ。
それなのに、そんな現実も知らずに、就活うまくいかないから死にます?
ふざけんなよ。
じゃあお前は、陶芸家の土練りが大変だから死にます、土練るのがわかんないくせに陶芸家バカにするなんて社会で真面目に働いていらっしゃるとヒヨワな陶芸家くらいしか思う存分貶せなくなるんでしょう。
とか言われたらどう思うよ?
いまの時代だって、就活2週間で大企業決定してるやついるぞ?(もちろんコネだが)
犯罪者や生保が最底辺だが、就活大変がってるやつがそれに次いで底辺なんだよ。
就活大変アピールって相当かっこわるいぞ?
スーパーで福島産の農産物が大量に売れ残っている様子を見ると心が痛みます。
かといって、私自身が「食べて応援」できるかどうか、というとできません。
まだ人生を諦めれる年でもないし、小さな子どももいるし、母乳で育てているので。
でも、福島の農家の人の気持ちを考えると、かわいそう。とは思うのだけれど、今年も作付けする、と言うニュースを見ると、なんだかなぁ。と思う。
彼らは確かに被害者だと思う。
だけれども、実際に放射能は降ったのだ。
そして、それは消えない。ちょっとやそっとじゃ消えない。
昨年は空気中のものが付着したので「ほうれん草は洗えば大丈夫です」などと言っていたけれど、除染もしないままかれこれ1年がたとうとしている。
土に、水に、浸透したのだ。
そうすればそこで育てたほうれんそうの内部にいくということだ。それは洗ってもおちない。
なんだかどこに行っても収束ムード(?)なのか目をそむけているのか、誰もそんなことは言わない。
でも、放射能は見えない。見えない被害。
だから、なかったことにしようと思えばなかったことにできる。
仮に。
近海の人々は漁ができないだろう。
いや、漁をしたとして、油のついた魚を売れるだろうか?いや売れない。
値段もつかないし、だれも食べようと思わないだろう。
きっと漁師たちは、できない漁に対してなんらかの補償があるはずだ。(被害にあった漁師の知り合いがいないので知らないけれど)
現在、福島の人は「油のついた魚を売っている漁師」になっている。
それは、うしろゆびをさされても仕方ないんじゃないだろうか。
(参考)
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
9月30日、母が死んだ。酔っぱらって衝動的に自殺したっぽい。
部屋は綺麗だった。昔からきれい好きだし。一軒目は何処で飲んだのか未だに不明。部屋にも酒は無かった。
とある出禁の店に泥酔状態で行って追い返されて、警察に保護されて深夜の2時頃に自宅に返された。その3時間後に海で見つかった。
その日の朝9時頃地元の警察から電話がかかってきた。最初は前の日に話をした地元の友達かと思った。俺の会社で働いていて色々な人から金を借りて逃げたからだ。半年ぶりに連絡がついてそしてそれを凄く怒った。金のことも怒った。本当に自分もびっくりする位怒ったのでびっくりして警察に駆け込んだのかと思って電話を出た。
海で遺体で上がりました、と警察。頭が真っ白になるってこの事だったんだ。
電話を切って結構ボーとしてた。月末で仕事もまあまあ忙しかった。
近所の公園をふらふらしながら離婚した親父とか、母の弟とかに電話した。人嫌いで親戚・友達づきあいは殆ど無かったから連絡はこれで事足りる。
ボーっとしすぎってチケットを取ったのは夕方だった。すぐに電話すればすぐに帰れたのにボーっとしてしまった。
母とはずっと疎遠だった。ヒステリックで酒乱で本当に嫌だった。
帰ったのは17の時に上京して友達が事故った20歳くらいの時、じいちゃんが死んだ22歳くらいの時、あとは半年くらい前。
近所の習い事の先生に酔っ払って「俺君を返せ!隠してるんだろ!」と。
更に飲み屋で俺の同級生に金を借りて飲んだ事も聞いた。
酔ったら俺に電話してくるのもやめて欲しかった。当たり前のように100回以上は電話が鳴った。留守電もいっぱいになった。
鍵を開けて入っていくと久しぶり過ぎてびっくりした後に大泣きして土下座して謝っていた。痩せていて、老けていた。
部屋を見てみると綺麗にはしているがカップラーメンばかり。薬も色々な種類の薬(うつ、糖尿、痔、等)を飲んでいる。
これはやばいなと思った。
ホテルの厨房で働いていたから飯はめちゃくちゃ旨い。なのに何でカップ麺ばかり食っているのかと軽く怒った。
んで東京に住むか、と誘った。でもずーっと住んでいるこの地が良いらしい。
素面の時ならいつでも電話しろと言った。素面でもこの何年かは話が通じなかった。
内容としては、
・金はあるのか?
・何でそんなに高いマンションに住んでるのか?
・やくざになったのか?
・誰を頼って東京に行ったのか?
等。
母の中では金持ち=ヤクザらしい。儲かったってヤクザなんてやらないのに。
なので一度でも俺の会社を見て欲しかった。色々とやっていてひとつひとつ見せながら説明したかった。
そこで2時間位で家を後にした。
そんな事が前にあって、飛行機に乗って帰り、警察が空港に迎えに来ていた。
母の死体が警察署にある。当然見ることになる。隣には一緒に来てくれた彼女がいるけど、ずっと緊張、というか過呼吸になりそうな感じだった。なったことはないけど。
上記に書いた時系列を説明してもらい、発見地点など地図に書いてもらった。
母と対面した時には冷たくなっていた。冷蔵してるし当たり前かと考えていた。
1分ほど見つめて、後にした。司法解剖に行くことになった。事件性の有無を調べるためだ。
でも俺はそんなものは無いと思ってるし今でもそう思っている。それは間違いない。
地元の街中の殆どの店を出禁になり、飲む所がない。1件だけあってそこによく行っていたようだ。葬式にもいきなりそこのママが来てくれた。
その後隣町の実家に帰った。ひどく部屋は綺麗だ。いつも通り。
彼女が台所を見て言った。歯磨きに俺が小学生の頃に作った焼き物の湯のみを使っていた。そこでその日初めて泣き崩れてしまった。前の日にも彼女の胸で泣いた。泣き顔は5年のうちで初めて見せた。
家中探してもやっぱり酒を飲んだ形跡はない。やっぱり何処かで飲んだんだ。未だに判明してないけど。
とても自殺した人の家とは思えないくらいに綺麗で、色々と行き届いていた。生活感もあった。
ふと思った。冷蔵庫を閉めた後に。ちゃんと色々買って自炊している。言うことを聞いている。カップ麺は一個もない。
携帯電話を見た。全く何も入ってない。俺の携帯に電話をしてみた。鳴らない。通話ができません、と。
他の携帯にかけてみた。鳴った。どうしようもない気持ちになった。
母は俺に迷惑をかけまいと俺に電話できないように設定していた。
でも10日前くらいに公衆電話から電話があった。病院からかけていると。
何で携帯からかけて来ないのか不思議だったけど、特には聞かなかった。これで謎は氷解した。
その電話の時もやはり話題は誰を頼って東京に行ったのか。前までは素面でも話が通じなかったけど、多分今回の電話は電話する理由が欲しかったんだと思う。ちゃんとそこは説明している。
それが最後の電話になった。もっと話しておけば良かったと眩暈がするくらい後悔してる。
というか、親孝行をもっとしたかった。これは一生後悔し続ける。
日本中の殆どの人が、世界中の人かもしれない。日常的に言っている「親孝行は生きているうちにしておけ」と。
何でそんなことが、そんな簡単でいつでもできることが俺には出来なかったのか。
いつかは思う存分孝行しようとしていた。というかその時期だった。
ある程度東京でも成功し、月収も1000万を超えた。なんでもできるはずなのに。なんでだろう。そればっかり考える。
ビジネスは成功して、親孝行は失敗する。親孝行のほうがはるかに簡単でいつでもできるのに。
俺の存在意義を疑う。何の為に生まれてきたのか。
小学生になる前にはママ、ママと呼んでいつもおやすみのキスを求めていた。
小学校低学年になったら取っ組み合いの喧嘩をするようになった。習い事も初めて色々な賞を取って喜んでいた。
小学校中学年は他の習い事も始めた。その習い事は世界大会でベスト3に入るまでになった。本当に誇りだっただろう。
小学校高学年は両方の習い事でグングン伸びて全国をかけめぐっていた。これは中学校も続く。ママと呼ぶのが恥ずかしくて母さんと言うようになった。
中学1年になって初めて喧嘩に勝った。蹴りがみぞおちに入って唸ってうずくまってしまった。これからは手加減しないとまずいと感じた。
中学2年は包丁を投げられて必死でかわした。この頃からお前というようになった。毎日夜遅くまで友達の家で遊んだり泊まり歩いたりが始まった。
中学3年は同上。もっとひどくなっていった。
高校1年制は不良友達のたまり場になった。6畳の部屋に10人はざらだった。彼女もできて家には殆ど帰らなかった。
高校2年制は停学3,4回目で首になった。もうこの頃はほぼ帰らなかった。母が知っている友達の所にいるといきなりやってきて窓を全力で開けて叫び始めるからだ。
溺愛されていた。でもその愛情の表現の仕方が本当に常識とかけ離れていた。俺もわかりつつも心から嫌いになっていった。
17歳の時に求人誌を取り寄せて片道の飛行機代で上京した。本当につらい毎日だった。
家の引き出しを見てみるとその頃に振り込んでもらった振込用紙が出てきた。勝手に出ていったくせに。俺に関連するものはどんなものでも綺麗にとって置いていた。
アルバム、学校の通知表、習い事の全国のおみやげ、インテリア、載った新聞の切り抜き等。
彼女も溺愛しているのは簡単にわかると言っていた。友達達も溺愛しているのは言うまでもないと。
俺の為だけに生きていた。99%。それ以上かも知れない。
生活保護を6年ほど受けていた。俺は生活保護の手紙みたいなものを受け取ったが関わりたくないので面倒見切れませんと返信した。
引き出しには通帳が入っていた。
6年間で120万程度貯めていた。実際使えるお金は6万程度なのに。光熱費とか食費とか色々あるのに。その中から月に15000円以上も貯めていた。
よく見てみると、大きい買い物はテレビだけだった。チラシも、領収書も入っていた。俺に言ってくれればそんなものすぐに、もっと大きい、もっといいものを買ってあげるのに。
もっとよく見てみると、服も、布団も、何も新しいものがない。全部見たことがあるものばかり。
何を楽しみに生きてきたのか。
涙が止まらない。
今日の朝、いらないものは全部捨てた。捨てるのを迷うものばかりだ。
全部持って帰りたい。
このまま部屋を借りるかどうか迷う。
全部このまま残したい。
今もまだ考えている。
形見と呼べるものは少ない。
遺体が発見された時も小銭入れと、部屋の鍵とタバコだけだ。今乾かしている。
取っ組み合いの喧嘩をして父親替わりもしてくれた。
全ては俺が最後まで素直になれなかったのが原因だ。
東京に来いといったが完全に命令口調でいった。
久しぶりに会ったからと肩でも揉んでやればよかった。
東京に来て生活するよりも、そのほうが嬉しかったかも知れない。
会社の人間には言ってない。下手な気を使わせたくない。俺も気を使われたくない。
1年間は何も言わないつもりだ。
うつでアル中で親の事を好きだけど素直になれなくて、でも何かしてあげたい人の為に。
もう俺みたいな一生後悔するような事は誰にもさせたくない。
今日さっきまでお通夜だった。母だけの知り合いは一人だけ。上記の唯一飲みにいける店のママだ。
そこでも喧嘩して出禁になりかけたらしい。でも素面に戻って飲む所がないと泣きついてきたらしい。
大人たちが帰って、地元の友人10人程度で飲んだ。こんなに皆が集まるのは高校生以来だ。腹を抱えて笑った。ずっと皆で笑ってた。母もそのほうが喜ぶだろう。
このまま保存できるならずっと保存したい。ずっと一緒にいたい。俺が死ぬまで一緒にいたい。
でもそんな事は叶わないから焼く。
生き返るなら全財産出しても借金してもいい。そんな気持ちになったのは初めてだ。その為に人生を賭けてもいい。
本当に母が好きだった。なのに優しい言葉をかけたのは記憶がない。
どれだけ母は俺の優しい言葉を望んだだろうか。
別れた父もお通夜も来なかった。母の弟は遠くで死ねばいいのにといった。完全に回りの鼻つまみものだった。
俺もそういう気持ちだったはずだった。なのに何でこんなに愛おしくなるんだろう。
金を稼ぎたかった。だから親は後回しにした。でも本当にいい暮らしをさせてやりたかったからなのに。
増田はいつも見ていた。でも俺が書くとは思わなかった。たまにホッテントリで見るくらいなのに。
でも何処かに吐き出したかった。今の気持ちも忘れたくなかった。だからこの場を借りる。
【追記】
本日、火葬を無事終えました。本当にありがとうございました。お骨ってあんなにもろくなるものなんですね。
・爺ちゃんが亡くなって10年近く経つんだけど、亡くなってからずっと行っていなかったお参りに今年は2回も行っている。
・今年の7月頃親友のお母さん(母の同級生でもある)に素面で電話して、出なかったので役所で働いている旦那さんにまで電話をしている。同級生と久しぶりに話したかったのか?
とか色々。
何らかの予感があったのかも知れない。
被災地の畜産農家がニュースでこう言ってるのを聞くと反吐が出る。
おまえらは家族をバラしてひき肉にしたりハムソーセジにしたりしてんのかよ。
国の金って言ったって出どころは庶民の寒い財布なんだよ!
「生かしてあげたかった」ってどのみち解体して精肉にするんじゃねえか!
むしろおまえらが家畜同然なんだよ!
甘えんじゃねぇ!
アラウンド70のおまえらのために港整備したって、海岸に家作ったって、
生い先短いおまえらのために未来ある若者に借金背負わせるんじゃねえよ!
って言ってもジジイどもはこんなとこ見ないんだよな・・・.・゚・(ノд`)゚・.
とりあえず晒しあげとくか
住民もふざけたこと抜かすな
東京電力の清水正孝社長は22日午後、福島第1原子力発電所事故で福島県富岡町と川内村の住民が避難する同県郡山市内の施設を訪れ、事故後初めて住民らに謝罪した。土下座する清水社長に対し、住民からは「子供の将来はどうなる」「原発を東京へ持って帰れ」などの怒号が相次いだ。
↑上記は日経の記事だが、ふざけんなよ住民も。いままでどれだけの雇用を産んで、どれだけのカネ払ったと思ってるんだ。持って帰れ?まずお前が死にやがれ。
大体だな、「オラが土地」なんて日本人はよく言うがな、所詮50年か100年しか生きない奴が「自分の土地」なんて、なんてエラそうなんだよ。地球規模でみればそんなのはゴミだ。いろいろあったが、多数決で原発建設が決まったんだから、しょうがないだろ。誘致したのは民主党の渡部恒三、okしたのはいまの佐藤雄平知事、それから福島県議会議長の佐藤憲保だろ。さらに、電源開発交付金その他でドンだけ潤ったよ。漁師だって危険な海に出なくてすむようになった。それをなくていきなりそれかよ。
郡山とか、茨城とか、カネもらってない人間が文句言うならわかるし筋も通るよ。もらった奴がガタガタ言うなよ。土地を返せとか、サヨクみたいな事いってるなよ。カネもらってさっさと違うと来いって働けばいいじゃねぇか。ごねてりゃもらえる金増えるとかそう思っている奴もいるだろう。まぁ、実際にそうだけど(笑)。
いやー、報道をそのまんまでしか見れない奴ばっかりなんだろうねぇ。そういう奴に限って、アホか貧乏人。権利ばかり主張して義務も果たさないし根性もない。あーあ、そんな日本人ならいなくていいよ。死ぬほどがんばるチョン公やシナ人の方がいいんじゃないの?
こいつはヘタレなんで、すぐに消すとは思うけど、とりあえず貼っとくよ
でも建物がいくつか崩れ、道路が崩れるくらいで、半年もすれば元に戻るんだろうなと思っていた。
でも、テレビを見ているうちに、どんどん状況が悪くなっていき、多くの建物や車が津波に流された。
その映像を見ている自分の顔が鏡に映ったとき、僕の顔は笑っていた。
心ではざまーみろという気持ちしかわかず、可哀想なんていう気持ちは微塵もなかった。
黙って何も喋らずにいることが唯一の自己表現になっていた自分にとって、
今回の震災は何よりの薬だったのかもしれない。
物資も届かないまま、死んでいく住人たちの姿を見るのが本当に楽しかった。
汚染された土地の農家や、汚染水が海に放出された漁師、家族が行方不明な人間たち、
気がつけばこの人たちのなんとも形容し難い顔を笑いながら眺めるのが日課になっていた。
増田に被災した兄とのやりとりを記したエントリがあったけれど、
あのお兄さんの気持ちはうつ病患者の気持ちを端的に表しているような気がする。
特に、他人から何らかの攻撃を受けて鬱になった人間にとっては。
責める気力もなく仕事を辞め、自分をひたすら責めて自殺未遂をした。
本当なら殺してやりたいくらい憎いけれど、何もできない。
そんな自分の状況に、今の被災者の人の気持ちは近いんだと思う。
今回の震災で自分を鬱に追い込んだ人間が死んだ人もたくさんいるはずだ。
鬱の辛さは簡単には他人に理解してもらえない。
反論や攻撃する気力もなく命を絶った人もたくさんいるだろう。