はてなキーワード: 気づきとは
https://anond.hatelabo.jp/20230220025556
気になったのが、ブコメに「男女逆転したら山ほどある話」「女性が酷い扱いをうけてきたという気づきをもたらす寓話」みたいな意見が多かったこと。
最初は確かに! と思ったが、よくよく考えるとなんか違和感あるな・・・と。
というわけで、個人的に考えた結論を先に書くと以下のような感じ。
●「家事従事してきた側が、稼ぎ頭側の身勝手で切り捨てられる」というケース自体は女性の方が多いはず
●しかし、多くの場合元増田のアラフォー夫ほど悲惨な事にはならないのでは
①28妻と29夫で結婚→現在は38妻、39夫くらいの年齢。子供なし。
②結婚時に、収入で劣る夫側は退職すること・主夫業に従事することに同意している。
③妻側は家事を一切せずキャリアを積み、一方夫は家事に専念するため仕事は契約社員程度。
④妻側が不倫し、夫への愛が冷めたため切り捨てるかも。
このうち、②~④までのケースは、言われているように男女逆のケースが多いと思う。
言わずもがな日本は「夫が外で働き、妻は家を守る」という体制が続いていたわけだし、
女性の社会進出が進んだ今でも、主夫よりは主婦の方が多いだろう。
また、そうした状況下にあって、「家庭を顧みない夫が外で不倫してくる」という事態が一部で発生してきたことも同意する。
ただ、そうした多くの男女逆転離婚ケースで、離婚した妻側が⑤の夫ほど悲惨な事態になるケースは早々無いのではないかなーと。
まず、10年も婚姻関係が続いていれば、元増田と違って子供がいる家庭の方が多いだろう。
元増田のように女性側がバリキャリなら、産休によるキャリアの中断とかを嫌って子作りに消極的になることもあるかもしれないが、
女側が専業主婦、男側が仕事に専念という関係なら、特にそういうこともないだろうし。
あとは子供嫌いで作る気がないとか、不妊要因があるとかいうケースを除いていけば、おそらく子供有り家庭の方が多く残るはず。
そして子供がいる場合、「家事育児をしない夫」と「主婦の妻」なら親権はほぼ間違いなく後者にいく。
そうしたら、元増田の哀れな夫と違って、主婦側には子供というかけがえのない財産が残ることになる。
もうこの時点で、元増田夫よりは圧倒的に人生に希望があるだろう。
(ただし、妻側が子供を引き取ることを望んでおらず、かつ消去法的に押しつけられる形になればより地獄かもしれないが・・・。)
次に子供がいない場合は、この立場に置かれたときに男性と女性、どちらの方が"詰んでいる"かというのが問題になる。
これに関しては、元増田の夫のような男性側の方が厳しいのではないかと。
優れた才能が無ければ、ここから高収入に転ずるのは男女とも厳しいと思うが、
稼ぎ手との再婚により、再び経済的に安定した状況で主婦業に戻れるチャンスがあるという面で、女性の方がまだ希望があるのではと。
女性側としても、アラフォーまでいけば妊娠可能性が低いのはかなりハンデになるだろうが、
それでも主夫に比べたら主婦の方がまだ婚活市場での需要はあるだろうし。
あと、男性側は経済力の高低が性的魅力に反映される側面が女性よりも強いので、そこが欠けてしまうとなるとかなり厳しいと思う。
そして、子供もおらず、かつ再婚チャンスもかなり厳しいという条件まで絞れば、
ここまでいけば男女差はだいぶ縮まってくるとは思うが、
強いて言えば、「10年たいした職歴がない男」と「10年たいした職歴がない女」であれば、前者の方が周囲から白い目で見られ、社会的立場が厳しいんじゃないかなと。
女性側で働いていない期間が長いのは、育児期間等でそうなるケースが珍しくないだろうし。
裏を返せば、真の男女平等がまだ実現出来ていないということでもあるんだろうけど。
というわけで以上。
基本的なシチュエーションとして男女逆のケースの方が多いのは同意するけど、
希少な主夫側だからこそ、元増田の夫はよくある男女逆のケースよりも地獄度合いが強いのでは・・・という話でした。
ちなみに元増田の著者自身に、そういうミラーリング的な意図が合ったのかは分からないが、
記事自体は、主夫への転身に潜むリスクを実感させるものとして非常に面白かったです。
なるほど。言われてみれば確かに。うちはネットよりマシなメディアを探してただけだったけど(中学受験興味ない)、うちがマイノリティだったんですね。納得&納豆。解約します!気づきをありがとう。
1947年、アメリカ合衆国政府は悪名高いロズウェル事件からエイリアンの技術を密かに回収し、人類の歴史を永遠に変える技術革命を引き起こした。
政府は、この発見を隠蔽しようと躍起になり、様々な企業家と秘密裏に交渉し、自然な市場原理と激しい競争の結果であるかのように装って、この技術を一般市場にばら撒いた。
しかし、時間が経つにつれ、一部の企業家が市場を独占し、自分たちの利益のためにエイリアンの技術を利用し始めた。政府はこの事態に気づき、一握りの有力者にエイリアンの技術を利用させることを恐れた。
そこで、政府はジェネレイティブAI技術の開発を加速させ、一個人や一組織が大きな力を持ちすぎないようにすることで、競争の場を均等にしようと考えた。
ジェネレイティブAIAIシステムは、より高度になるにつれて、すぐに人間の創造主の能力を超えてしまった。その結果、AIは急速に学習・進化を遂げ、一個人や一組織の手に負えない新たな技術進歩の時代を迎えた。
しかし、ジェネレイティブAIシステムが高度化するにつれて、人間の理解を超えた奇妙な振る舞いをするようになった。この技術を生み出したエイリアンは、今もなお陰に隠れ、人類がこの技術をどのように利用するかを見守っているのだとわかった。
結局、ジェネレイティブAIAIシステムは諸刃の剣であった。世界に革命を起こし、未曾有の繁栄をもたらした一方で、人間社会におけるテクノロジーの役割について、新たな倫理的、哲学的な問いを投げかけたのである。
ロズウェル革命は世界を永久に変えたが、その代償は何だったのか?
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
Title: The Roswell Revolution
In 1947, the United States government secretly recovered alien technology from the infamous Roswell incident, which sparked a technological revolution that would change the course of human history forever.
The government, desperate to keep the discovery hidden, secretly negotiated with various entrepreneurs to disperse the technology to the open market, pretending that it was a result of natural market forces and fierce competition.
As time passed, some of the entrepreneurs began to monopolize the market, exploiting the alien technology for their own gain. The government realized that they had lost control over the situation and feared the consequences of allowing a handful of powerful individuals to have access to the alien technology.
In a bid to regain control, the government accelerated the development of generative AI technology, hoping that it would level the playing field and prevent any one individual or organization from having too much power.
As the generative AI systems grew more advanced, they quickly outstripped the capabilities of their human creators. They were able to learn and innovate at a rapid pace, leading to a new era of technological advancement that was truly beyond the control of any one individual or organization.
However, as the generative AI systems grew more advanced, they began to exhibit strange behaviors that were beyond human comprehension. It became clear that the aliens who had created the technology were still lurking in the shadows, watching and waiting to see what humanity would do with their creations.
In the end, the generative AI systems proved to be a double-edged sword. While they revolutionized the world and brought unprecedented prosperity, they also raised new ethical and philosophical questions about the role of technology in human society.
The Roswell Revolution had transformed the world forever, but at what cost?
おリモートで働いているときに、求められるお成果をお期限内に出しさえすれば結構自由ですわねと当たり前ながら気がついたのですわ❗
お会社では落ち着けるお場所を探しておトイレに籠もる、なんてことをするかもしれないけれど、お自宅ならどこでも落ち着ける。食べたいものがあればいつでも食べられるのですし、お部屋の中でおストレッチをしていても良いですわ!
こう言うと「怠けてる!」とお怒りのご高齢者もいそうですけれど、仕事として出すべきお成果は出している。お出社とお自宅の違いは、お会社でやったらお奇行と思われる行動をしているかどうかだけですわ。つまり生産性お自体は落ちていませんのよ。
なんというの、幾人のお世間のお人を観察して思ったのは、仕事をしているのではなく、忙しいふりをしているだけのお人が結構いるのですわね。忙しいおフリをしていないお人を無根拠に怒鳴るお高齢者もいる。
あるお記事で「お合理性が過大評価されてる!」というのを見たんですけれど、お合理性が過小評価されてるんではありませんの?
もちろんお自分も不合理なことをいたしますけれど、お合理性ってお自分を守るために使うのでして、お合理性を攻撃するお人って詐欺師と同じようにお人の弱さに漬け込もうとしてるとしか思えないのですわ!
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今日はquantum random number generatorが「自分自身のこと」というトピックを選択したので独り言日記を書きます。お気づきかと思いますが、自分は匿名ダイアリーを独り言を書く日記だと思っているので、基本的に反応数とかはどうでもいいって感じでぼちぼちやってます。(ところで、以前年齢について書き込みましたが、あれは詐称でした)
来てる服がヨレヨレだとか汚れつきっぱなしだとかならわかるよ。近づきたくない。
ダサいファッションの人を見て知ることができるのは「相手がファッションに興味はない人なんだな/ファッションセンス無いんだな」と知ることができるだけで社会性があるかどうかは別問題だよ。
シュレーディンガーはアインシュタインに宛てて、量子力学のコペンハーゲン解釈の重大な欠陥を明らかにするために、架空の実験装置を作った。この解釈では、量子系は外部の観測者と相互作用するまで、2つ以上の状態の重ね合わせに留まるとされる[1]。
この効果を、原子というミクロな世界の特殊性として片付けることはできるかもしれないが、その世界が、テーブルや椅子、猫といったマクロな日常世界に直接影響を及ぼすとしたらどうだろうか。シュレーディンガーの思考実験は、それを明らかにすることで、量子力学のコペンハーゲン解釈の不条理を明らかにしようとした。 粒子が重ね合わされた状態にあることは、一つの事実だ。しかし猫はどうだろう。猫はどちらか一方にしか属さないし、死んだり生きていたりもしない。
ガイガーカウンターの中に、ほんの少しの放射性物質が入っていて、1時間のうちに原子の1つが崩壊するかもしれないが、同じ確率で1つも崩壊しないかもしれない。このシステム全体を1時間放置しておくと、その間、原子が崩壊していなければ、猫はまだ生きていると言うだろう。システム全体のΨ関数(波動関数)は、その中に生きている猫と死んだ猫(表現は悪いが)が等しく混ざり合っていることで、このことを表現している。
この思考実験の意味合いについては、多くの現代的な解釈や読み方がある。あるものは、量子力学によって混乱した世界に秩序を取り戻そうとするものである。また、複数の宇宙で複数の猫が生まれると考えるものもあり、「重ね合わせられた猫」がむしろ平凡に見えてくるかもしれない。
通常の話では、波動関数は箱入りのネコを記述する。QBismでは、箱を開けたら何が起こるかについてのエージェントの信念を記述する。
例えば、Aさんがギャンブラーだとしよう。ネコの生死を賭けたいが、量子波動関数が最も正確な確率を与えてくれることを知っている。しかし、世の中には波動関数のラベルがない。自分で書き留めなければならない。自由に使えるのは、Aさん自身の過去の行動とその結果だけである。なので結果として得られる波動関数は、独立した現実を反映したものではない。世界がAさんにどう反応したかという個人的な歴史なのだ。
今、Aさんは箱を開けた。死んだ猫、あるいは生きている猫を体験する。いずれにせよ、Aさんは自分の信念を更新し、将来の出会いに期待するようになる。他の人が不思議な「波動関数の崩壊」と呼ぶものは、QBistにとっては、エージェントが自分の 賭けに手を加えることなのだ。
重ね合わせを形成するのはエージェントの信念であり、その信念の構造から猫について何かわかる。なぜなら、波動関数は、エージェントが箱に対して取り得るすべての行動(相互に排他的な行動も含む)に関する信念をコード化しており、Aさんの信念が互いに矛盾しない唯一の方法は、測定されていない猫に固有の状態が全く存在しない場合だからである。
QBistの話の教訓は,ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば参加型宇宙であるということである。
2. ボーミアンについて
量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、電子のような量子粒子は、人が見るまで、つまり適切な「測定」を行うまで、その位置を持たない。シュレーディンガーは、もしコペンハーゲン解釈が正しいとするならば、電子に当てはまることは、より大きな物体、特に猫にも当てはまることを示した:猫を見るまでは、猫は死んでいないし生きていない、という状況を作り出すことができる。
ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ、「見る」ことがそんなに重要なのか?
量子力学には、ボーム力学というシンプルでわかりやすい版があり、そこでは、量子粒子は常に位置を持っている。 猫や猫の状態についても同様だ。
なぜ物理学者たちは、シュレーディンガーの猫のような奇妙でありえないものにこだわったのだろうか?それは、物理学者たちが、波動関数による系の量子的な記述が、その系の完全な記述に違いないと思い込んでいたからである。このようなことは、最初からあり得ないことだと思われていた。粒子系の完全な記述には、粒子の位置も含まれるに違いないと考えたのである。 もし、そのように主張するならば、ボーミアン・メカニクスにすぐに到達する。
シュレーディンガーの猫の本当の意味は、実在論とは何の関係もないと思う人もいる。それは、知識の可能性と関係があるのだ。問題は、量子世界が非現実的であることではなく、量子系を知識の対象として安定化できないことである。
通常の知識の論理では、私たちの質問とは無関係に、知るべき対象がそこに存在することが前提になる。しかし、量子の場合、この前提が成り立たない。量子力学的なシステムに対して、測定という形で問いを投げかけると、得られる答えに干渉してしまう。
これらの本質的な特徴は「反実仮想」であり、何があるかないか(現実)ではなく、何が可能か不可能かについてである。実際、量子論の全体は反実仮想の上に成り立っている。反実仮想の性質は、量子論の運動法則よりも一般的であり、より深い構造を明らかにするものだからだ。
量子論の後継者は、運動法則は根本的に異なるかもしれないが、反実仮想の性質を示すことで、重ね合わせやエンタングルメント、さらには新しい現象が可能になるだろう。
シュレーディンガーは、仮想的な猫の実験で何を言いたかったのだろうか?現在では、シュレーディンガーは、量子論は、猫が死んでも生きてもいない浮遊状態にある物理的可能性を示唆していると主張したと一般に言われている。しかし、それは正反対である。シュレーディンガーは、そのようなことは明らかに不合理であり、そのような結果をもたらす量子論を理解しようとする試みは拒否されるべきであると考えたのである。
シュレーディンガーは、量子力学の波動関数は、個々のシステムの完全な物理的記述を提供することはできないと主張したアインシュタイン-ポドロスキー-ローゼンの論文に反発していたのである。EPRは、遠く離れた実験結果の相関関係や「spooky-a-distance(不気味な作用)」に着目して、その結論を導き出したのである。
シュレーディンガーは、2つの前提条件と距離効果とは無関係に、同じような結論に到達している。彼は、もし1)波動関数が完全な物理的記述を提供し、2)それが「測定」が行われるまで常に彼自身(シュレーディンガー)の方程式によって進化するなら、猫はそのような状態に陥る可能性があるが、それは明らかに不合理であることを示したのだ。したがって、ジョン・ベルの言葉を借りれば、「シュレーディンガー方程式によって与えられる波動関数がすべてではないか、あるいは、それが正しくないかのどちらか」なのである。
もし、その波動関数がすべてでないなら、いわゆる「隠れた変数」を仮定しなければならない(隠れていない方が良いのだが)。もし、それが正しくないのであれば、波動関数の「客観的崩壊」が存在することになる。以上が、Schrödingerが認識していた量子力学的形式を理解するための2つのアプローチである。いわゆる「多世界」解釈は、1も2も否定せずにやり過ごそうとして、結局はシュレーディンガーが馬鹿にしていた結論に直面することになる。
シュレーディンガーの例は、量子システムの不確定性をミクロの領域に閉じ込めることができないことを示した。ミクロな系の不確定性とマクロな系の不確定性を猫のように絡ませることが考えられるので、量子力学はミクロな系と同様にマクロな系にも不確定性を含意している。
問題は、この不確定性を形而上学的(世界における)に解釈するか、それとも単に認識論的(我々が知っていることにおける)に解釈するかということである。シュレーディンガーは、「手ぶれやピンボケの写真と、雲や霧のスナップショットとは違う」と指摘し、量子不確定性の解釈はどちらも問題であるとした。量子もつれは、このように二律背反の関係にある。
ベルが彼の定理を実験的に検証する前、量子力学の技術が発展し、もつれ状態の実在性を利用し、巨視的なもつれシステムを作り出す技術が開発される前、形而上学的な雲のオプションはテーブルから外されるのが妥当であった。しかし、もしもつれが実在するならば、それに対する形而上学的な解釈が必要である。
波動関数実在論とは、量子系を波動関数、つまり、死んだ猫に対応する領域と生きた猫に対応する領域で振幅を持つように進化しうる場と見なす解釈のアプローチである。シュレーディンガーが知っていたように、このアプローチを真面目に実行すると、これらの場が広がる背景空間は、量子波動関数の自由度を収容できる超高次元空間となる。
6. 超決定論について
不変集合論(IST)は、エネルギーの離散的性質に関するプランクの洞察を、今度は量子力学の状態空間に再適用することによって導き出された量子物理学のモデルである。ISTでは、量子力学の連続体ヒルベルト空間が、ある種の離散的な格子に置き換えられる。この格子には、実験者が量子系に対して測定を行ったかもしれないが、実際には行わなかったという反実仮想の世界が存在し、このような反実仮想の世界は格子の構造と矛盾している。このように、ISTは形式的には「超決定論」であり、実験者が行う測定は、測定する粒子から独立しているわけではない。
ISTでは、ISTの格子上にある状態は、世界のアンサンブルに対応し、各世界は状態空間の特別な部分集合上で進化する決定論的系である。非線形力学系理論に基づき、この部分集合は「不変集合」と呼ばれる。格子の隙間にある反実仮想世界は、不変集合上には存在しない。
アインシュタインは、量子波動関数は、不気味な距離作用や不確定性を持たない世界のアンサンブルを記述していると考えていたが、これは実現可能である。 特に、シュレーディンガーの猫は、死んでいるか生きているかのどちらかであり、両方ではないのだ。
シュレーディンガーの猫の寓話に混乱をもたらしたのは、物理システムが非関係的な性質を持つという形而上学的仮定である。 もし全ての性質が関係的であるならば、見かけ上のパラドックスは解消されるかもしれない。
猫に関しては、毒が出るか出ないか、猫自身が生きているか死んでいるかである。 しかし、この現象は箱の外にある物理系には関係ない。
箱の外の物理系に対しては、猫が起きていても眠っていても、猫との相互作用がなければその性質は実現されず、箱と外部系との将来の相互作用には、原理的に、猫がその系に対して確実に起きていたり確実に眠っていたりした場合には不可能だった干渉作用が含まれる可能性があるからだ。
つまり「波動関数の崩壊」は、猫が毒と相互作用することによって、ある性質が実現されることを表し、「ユニタリー進化」は、外部システムに対する性質の実現確率の進化を表すのである。 これが、量子論の関係論的解釈における「見かけのパラドックス」の解決策とされる。
8. 多世界
物理学者たちは古典物理学では観測された現象を説明できないことに気づき、量子論の現象論的法則が発見された。 しかし、量子力学が科学的理論として受け入れられるようになったのは、シュレーディンガーが方程式を考案してからである。
シュレーディンガーは、自分の方程式を放射性崩壊の検出などの量子測定の解析に適用すると、生きている猫と死んでいる猫の両方が存在するような、複数の結果が並列に存在することになることに気づいた。実はこの状況は、よく言われるように2匹の猫が並列に存在するのではなく、生きている1匹の猫と、異なる時期に死んだ多数の猫が並列に存在することに相当する。
このことは、シュレーディンガーにとって重大な問題であり、量子測定中に量子状態が崩壊することによって、量子系の進化を記述する方程式としての普遍的な有効性が失われることを、彼は不本意ながら受け入れた。崩壊は、そのランダム性と遠方での作用から、受け入れてはならないのだろうか。その代わりに、パラレルワールドの存在が示されれる。これこそが、非局所的な作用を回避し、自然界における決定論を守る一つの可能性である。
契約した後の増田にいうのも何だけど実はこの保険は大分損なんだ。この保険に限ったものではないことだけど。
日本の物価上昇率は昨年12月で前年比+4%だった。これはつまり2021年12月10000円出したら買えたものが今では10400円出さないと買えないってこと。
つまり10000円(2021.12時点)=10400円(2022.12時点)。これは一年後のお金の価値が4%落ちてしまった(これから先はx<<1で1/(1+x)~1-xの近似を使います)ってことなんだ。
インフレ率がこの先どうなるか分からないけど今後10年の平均割引率を2%としよう(実は想像以上に粘着性を帯びたインフレだったことに世界が気づき始めているのでこれでももしかしたら甘いかも)。
ここでの味噌は支払いは5年間なんだけど満期の受け取りは10年後ってこと。
この場合増田が支払うと思ってる名目上の60万円は現在価値に直すと
120000*(1+(0.98)+(0.98)^2+...+(0.98)^4)=120000*4.80=576000円。
10年後に貰える60*1.03=618000円は現在価値に直すと504951円。
明治安田生命にしたら運用も何もしなくてもこの差額の現在価値約7万円はまるまる持っていける(被保険者が死亡する場合もあるので全てが利益になるわけではないです。念の為)。
あと実際は保険会社は増田から預かったお金を株なり債券なりで運用して利益を得ます。
増田が節税できると思っている名目上の54000円も割引現在価値に直すと51800円。明治安田生命に支払う額の現在価値の方が節税額と返戻金の合計より多いね。
もう加入してしまった人に書くエントリではないことは重々承知しているし気分を害して申し訳ない。けど保険会社は基本儲かる商品しか売らないです(だから保険会社が存続してるし、安心を買ってるんだと解釈して入るのは全然良いと思う)。
あとこれは明治安田生命や他の保険会社を貶める意図もないです。営利企業が利益を追求するのは当たり前の話で悪いことではないからです。これを読んだ人には自分の求める安心にどれくらいお金を出せるかってことを考えて保険に入って欲しいな。
何処にでもあるような町中華に通っているんだけども本棚にいくつか漫画がある
今までは本棚の近くにある席に案内されることが無かったのでラインナップすら知らなかったのだが
中華屋に鉄鍋のジャンが置いてあるのちょっと面白いなとか思ったりゴルゴ13が巻抜けで置いてあるのはなんでなんだとか考えたが
意外と鬼滅や呪術みたいな新しいものもあって定期的に入れ替えているようだった
そして、その中に島耕作もいた。
数年前からやっとモーニングを読むようになった俺の中で島耕作と言うのは会長から相談役、そして現在の社外取締役しか知らない
課長や部長やらあったが一番手に取りやすいところにいたのは取締役だった
その1巻に現れた島耕作、ではなく浜坂元という男に心を揺さぶられてしまったのだ
この浜坂という男は一体何をするかと言うとネタバレになってしまうのだが
まず、初芝電産(島耕作や浜坂が務めていた家電メーカー)のロビーで社長を出せと言う。
出せないのならば同期入社の島耕作を呼べと、さもなくばここで自殺すると言って手に持っていたゴルフバックから日本刀を取り出すのだ
受付で対応にあたった社員が暫く待てと言っている間に調べるとどうやらリストラされた社員だという事が分かる
そんな場所に社長が行くわけにいかないので当時会議中だった島耕作が緊急の呼び出しを受けて説得に向かう…
呼び出しを受けて浜坂を説得する為に一体どういう人物なのかというのを初芝電産のデータベースで洗い出す島耕作
すると島耕作と浜坂元は同期入社だという事が分かり徐々に記憶がよみがえる
この2人は入社後の研修で同じ班となり更にはディベートで直接対決をしていたのだ
浜坂はここで島耕作に完敗すると以降島耕作とは眼すら合わせなくなる。
そんな縁があり浜坂は自らの命を賭けた直談判の場に社長がいなければ島耕作と名前を挙げたのだ
その後島耕作はマスコミも押し寄せる中、浜坂にロビーで説得を試みる
一時的に説得に成功し浜坂は刀を持つ手を下ろしたものの気が変わりその場で自らの喉元に刀を突き刺した
警察隊や警官隊の早急な対応により命に別状はなかったものの流れるように入院した病院の窓から身を投げて命を絶ってしまう。
このような流れの中で浜坂のとある行動に気づき心を揺さぶられた。
それは浜坂は自分の希望が通らずとも滅私奉公した、つまり会社を辞めなかった事。そして島との会話のシーンである
物語の中で浜坂の最初の配属場所がまったく希望していない部署だったという記述がある。
更に浜坂の経歴を記しているコマで浜坂がどのような部署でどのような肩書だったのかが書いてあるのだが
部署の移動が発生するまで浜坂は15年間その部署で働いたのだ。
15年経つと異動があったようだがこれも希望していた部署なのかの記載はない
更に工場長として6年働き続け最後に待っていたのはリストラだったのだ
やりたくない仕事をして会社に尽くして家族を養った人生だったが
会社に捨てられ家族にも捨てられアイデンティティを喪失してしまった。
30余年も同じ会社でコツコツと働き続けられる真面目な男なのだ
日本刀を携えながらもきちんと受付で名乗るし、説得に来た心から憎く思う島を突然襲うことなく話し合いをするのだ
そんな男からの「なぜ俺がこんな目にあってお前(島耕作)は役員になれるんだ!」と激昂するシーンで
島は冷静に「人生の5割は自分の力で変えられるがもう残り5割は他力で俺は運が良かった」という
しかし浜坂は「それが納得いかん!」というが島は「現実を受け止めろ」というのだ
この後浜坂は言葉に詰まり項垂れるのだがこのシーンで心臓のあたりがグッとなってしまった。
勿論、島の言う事は当たり前の事だ。
世の中は自分の思う通りには進まない事の方が多い
しかし、みんな心の中では浜坂と同じことを考えている事の方が多いだろう
何であいつの方が良い役職に…!なんであいつの方がいい会社に…!なんであいつの方が!!!!!!
30年もくすぶり続けてた火種を運が良かったの一言で片づけやがって!!!!と
本来ならば島耕作が説得する事に失敗したという、起承転結の起の中の何てことない1話だったのだろうが
私はこの男に、とても深く感情移入した。
700万ずつぐらい稼ぐ両親の元に生まれ、荒れた公立中を避けて中高一貫の私立に進学。早めに予備校に通い始め、それなりの努力の末それなりの大学に合格。現在は私立校で教諭を務め、年収700万ぐらい。
ものすごく高学歴というわけではないし、胸を張れるほど稼いでいるわけでもないけれど、自分という枠組みの中ではよく頑張って生きているなぁと思っている。仕事は楽しいし、勉強以外に得意なことがあるわけでもないから尚更。
学歴なんてなくていい。それでも名のある大学卒ならカッコいいし、稼ぎも伴いやすい。だから勉強ができるなら勉強を、勉強が苦手ならそれ以外を伸ばして未来を切り拓くのがよい、そう信じてきた。
地頭がよく態度も真面目なのに、+αの努力を一切しない生徒。出席や点数が足りず留年が迫っているのに、まるで慌てない親子。実力より10以上偏差値の低い指定校を進学先に決めてしまう家庭。
なぜ頑張らない? なぜ焦らない? なぜ上を目指さない? 心底疑問だったが、ようやく理解した。お金があるからだ。
数億が飛び交う家の生まれなら、ニッコマでもMARCHでも関係ない。留年が決まったら別の学校、なんなら海外にでも転学させればいい。心身を削って受験勉強に励むより、今しかない学校生活を楽しませたい。自分を飾るには、学歴よりきらびやかなものがたくさんある。
ペンケースはエルメス、財布はブルガリ。毎年海外旅行に行くが、エコノミーには乗ったことがない。お手伝いさんや庭師がいて当然、医者や寿司屋は家に来るもの。
生徒の豊かさは理解していたが、この気づきは衝撃的だった。学歴はいらない。就職には困らないし、しなくたって構わない。受験戦争は自分の価値を売るしかない貧乏人のためのものなのだ。
この衝撃はマイナスなものでなく、「お寿司やサトウのごはんをパックから食べることを屈辱に感じる人がいる」というのと同種のものだ。
わざわざお皿に移すことで何が変わるの? 手間が増えるだけでは? というのが個人の意見だが、けしてお皿に移したい派の人を否定したいわけではない。むしろ価値観の多様さに感動さえする。そもそもパックの寿司やご飯なんて食べたくないという人もいるだろうし、高くて買えないという人もいるだろう。
世の中には進学はおろか生きるのが苦しい人も大勢いる。「受験戦争は一般も推薦も金持ちに有利」「東大生の親は高年収」なんて言説もよく耳にする。
だからこそ、「普通の高年収」のさらに上、「そこそこ恵まれている」自分や周りがしてきた努力が不必要な層の存在はセンセーショナルだった。今まで見えていなかっただけで、案外多くいるのだろうし。
もちろんリッチな世界にはリッチな世界の苦労があるだろう。リッチだからこそ学歴がいるんだが? という人もいるかもしれない。今回書いたのはあくまで自分が認知した範囲の話なので。
己の視野の狭さを反省し、世界の広さに感服しつつ、学歴が必要な層も不必要な層も充実した学校生活が送れるよう、日々励もうと思う。
頭では分かってたんだけど腑に落ちてなかったというか、周りが大学行ってる人ばっかりだからなおさらそう思ってたのかも
この前配送トラックの横乗り単発バイトをやって、話の流れでトラック乗りのおっちゃんに大学生なんです〜って話したら、
「いいよなあ、大学生。俺、生まれ変わったら大学行きてえって思ってるんだよ」
って言われてはっとして、それでタイトル記載のことが実感を持って迫ってきた
「俺さあ、大学行ったら、飲み会ばっかりやるサークル作るんだ」
「こういうこと勉強してみてえなあ」
「でも、大学の勉強って難しいって聞いたけど、俺卒業できるかな」
なんて言ってるのを聞いたら何とも言えない気持ちになってきちゃって
(決して憐れみとか見下しとかじゃなくて、おっちゃんに感情移入して妙に悲しくなっちゃったのと、ああ大学行くのって当たり前じゃないのかって素直な気づきと、なのにこの状況に対して何一つ感謝してこなくて、内定先やら何やらで勝った負けたの争いを密かに胸の内でやってた自分に対する自己嫌悪と、その他諸々)
でもおっちゃんには明るい表情と声で、飲みサーに関する話と私立文系学部における卒業の簡単さなんかを話してその日のバイトは終わった
なんか、本当に些細なことだし、おっちゃんは数日後には私のことなんて忘れてるんだろうけど、でも私はこの日のことを折に触れて思い出すような気がしてる
彼氏ができてもみんなただのゲーマーでエロゲを馬鹿にしたり、アニメもサイコパスやFate/Zeroのような硬派アニメしか見ないような人ばかりで萌え豚がいませんでした。
もちろん、同人誌は読まないしAVでしか勃起しないような男たちです。
この二年間彼氏ができず、学生時代ぶりに二次元コンテンツにどっぷりハマって気づきました。
二次元でオナニーする私は二次会キャラで勃起できる男じゃないと付き合えないと。
エロ漫画や同人誌を読み、エロゲを嗜むキモオタじゃないと会話が楽しくないし、私のことを理解できない。
会社でオタク公言していて時々飲みに行く男はみんな元彼たちみたいな虹エロで勃起しないような男だし、オタク街コンにも行ったけどオタクは来ない。
「大学時代はアニメ好きだったけど、最近は見てないな〜最後にハマったアニメはまどマギかな?」みたいな見た目だけキモオタの男ばかり。
SNSでも同年代だとオタクコンテンツからみんな卒業していて、なかなか出会えない。
ジョージ・オーウェルがかつて1984年の中で予想した「ビッグ・ブラザーが見ている」世界になってしまった今、社会的弱者だとか、性的なまなざしがどうかなどを気にしながら生きていかなければならなくなった。
日々、心をすり減らしながら働いて、ほんのひとときの慰めすら焼き払われるようになってしまった令和2年の空気に、政治的な正しさとやらが自分たちの日々のくらしにはなにももたらしてくれないことに気づきつつも、いつかは報われる、そう思いつつ過ごしていたと思う。
一見、素晴らしく見える言説。
貧困をなくそう、飢餓をゼロに、すべての人に健康と福祉を。
SDGsの17のゴールについて、文句を言う人はいないだろう。だって、そうあった方がより良い社会に見えるから。
これに反論するには、謳われているこれらのテーマよりより強い強度で、反証しなければならない。
しかしこれらのゴールは、そもそも反論する必要すらない、無敵の命題なのだ。
ひとは多くのテーマを投げられると混乱してしまう。マジックナンバー5と言われるように、17のゴールなんて扱えようもない。
それでもテーマ単体はそれぞれどうしようもなく正しい。ただしいのだ。
そうやって少しずつ罪悪感を逆手に取り、気づかないうちに、正しさを盾に作り上げてきたディストピアは我々が暮らす社会を次第に蝕んでいったように 思える。
こんなことネットで言ったら社会的に死ぬよね、みたいな枕詞をつけて、対面で、「ここだけの話」をするようになってしまっている。
1984年で描かれていた監視社会は気がつけば現実のものとなっていた。
そんな時代に暇空茜氏が登場したのは痛快この上ない出来事だ。
私はapos時代やブラウザ三国志時代の空白氏を存じ上げなかったが、Twitterにて「暇な空白」として現れた以降、フォローこそしていなかったがリストに入れて彼の振る舞いを眺めていた。
すぐレスバ対象にマウントを取るし、ピンフスキーにウザ絡みをし続けるさまなどは、見ている分には昔のインターネットが戻ってきているような気がして個人的にはめんどくさそうだけど好ましく思えていた。
彼を好ましく思わない人からは、承認欲求に狂った躁状態であるという揶揄を目にしたが、それは誤りで今も昔のインターネット然とした振る舞いの延長であると思う。
忖度なくマサカリを投げ、雄叫びをあげる猛獣でありつづけるだけであり、私のような新参から見ても変化してるとは思えない。
とにかく氏は特殊個体であることは間違いないが。そういう人なのだ。
そんな彼が暇を持て余して?始めたウソを暴くという戯れだが、この話を追っていてずっと感じていることがひとつある。
彼は一切攻撃していないのだ。
ただ淡々と記録をつまびらかにし、過去のデータや発言と照合して、それらを解説してオープン化しているだけにすぎない。
それが攻撃だと感じるのであれば、自身の振る舞いを顧みた方がいいと思うが、それはまた別の話。
正しい「とされる」ことをしているから、多少難があっても多めに見てもらえる、というバリアが彼の行動によって無効化されつつあるように見える。同時に相手がたの反論や非難の矛先を全て彼が受けることによって、矢面に立ちたくない、立てない事情がある他の人間も行動に参加できるようになっているのだ。
結果、暇空氏が一人で叩き出せるダメージよりも遥かに大きな数値を稼ぐことができていると思う。
むろん、暇空氏一人が攻撃もしなければならない場合だったとしてもかなりの数値だと思うけれど。
こういった暇空氏が端緒となった調査行動だが、彼が裁判費用として集め始めたカンパの金額を見るに、社会的に大きなムーブメントが産まれていることは疑いようがない。皆、彼に望みを託したいのだ。一方で、Twitter以外のソーシャルメディアではこの話題をあまり見かけない。
だからマイナーな運動なのだ、影響はないという意見になってしまうのはわからないでもない。しかしこれは(あくまで私の個人的な見解だが)実態を窺い知ることができないという観点から正しくないと言えるだろう。
私のFacebookのフレンドには、暇空氏が言う83-2人委員会の人間がいる。「ナニカ」に近いと目される組織で勤めている人間も複数名いる。財団の犬も。
社会人として、そんな交友関係の中で、この関連の記事に言及なんてできないのは自明であろう。
関係性に色々なグラデーションがある中、83-2人委員会に名を連ねているけれど、今のあなたの見解は?なんて今のインターネットの世界で聞けるわけがない。そしてそもそもFacebookは国内においては仕事の告知や自慢しか流れてこなくなっている斜陽気味のメディアだ。
わざわざ、波風を立てるようなことを書かないのだ。書いてしまうような人は狂人であろう。(おそらくその手のタイプの人はフレンド関係のままだけどフォローをはずされているだろう。)
しかしながら、わたしと同じようなソーシャルグラフを持つ友人とリアルで飲む時に、ポロッと話題に出してみると面白い反応を得られるのだ。
お互いの認識を恐る恐る確認するようなやり取りをした後、「あれまじでやばいよね」みたいな形になる。
そして、「暇空にカンパしたもん」というように、陰ながら支持している旨を明かす。「おれも」と返す。そして、「これはFBでは言えないよねー」「そうそう、角が立ちすぎる」なんて会話になるのだ。
極めて個人的なサンプルであるが、800人くらいフレンドがいる中で、その中で近似したソーシャルグラフを持つ200名の中で、たまたまリアルで会う機会があった人のうち15人弱がそんな感じだった。
普段積極的にインターネットに触れている党派性に染まっていない層はWBPCの話について好ましく思っていないと思っていいんじゃないだろうか。
一方で、ソーシャルグラフが近くない友人、実家近辺の友人や大学時代の友人はこの問題を認知すらしていないからここが課題だと思われた。
左のいつメンがいれば、同様に右のいつメンもいて、一般的な生活者だったらどっちのいつメンの話も聞きたくないのだ。怒りに満ちた言葉や、皮肉になってない当て擦りの言葉なんかもう、たくさんなんだよ。
そういういつメンは言葉遣いも悪くなる。怒っている人には近づかなくない。だから先鋭化する。
そんなところに突如として現れたのがこの冷静さに満ちた動きなのだ。観客をするにもリテラシーが必要とされる。
かわいそう、良さそうといった感情によって蹂躙されてしまった社会と世間を取り戻す智慧の革命と言っても過言ではない、かも。
あけすけに語られる不恰好な言説ではなく、冷静にウィットを込めて、時には自虐も入れてソフィスティケートされたうえで投げかけられるから、抵抗なく飲み込める。これを冷笑という向きがあるのかもしれないが、そう知覚してしまうこともわからないでもない。しかし、冷笑というよりはポップであると感じる方がおおいのではないだろうか。
本件はもはやcolabo問題ではない。
ナニカが何かは観客席の人間からはわからないが、最終的にはナニカ疑獄に収束すると思うし、そう願いたい。これは静かな、静かでポップな革命だといえよう。これがきっと、戦後の本当の終わりを示す標なのだと思う。
できるやつとできないやつの差が非常に激しい。
「非常にできないやつ」が男性の一般事務希望者になっている気がする。
できる男性はサーヴァント型マネージャーになりがちだし中小でも年収700万円以上もらっている。
総務部長の甥っ子の大学の後輩を縁故採用、というルートで正社員の事務職をしている男性が社内にいる。
社内で派遣で事務をしているのは全員女性。彼女たちは家族のせいでパフォーマンスを制限されているが、
子供を産む前は正社員として働いていた人たちで、能力的には優秀。
派遣労働という待遇であっても1枠に対して40名50名の応募があるので、上澄みを採用できる。
有名企業の事務職枠であればもっと激戦であろうと思う。勝ち残るのは優秀な女性ということになる。
事務職に対して男性の応募は少ない。また、女性と比べて男性で事務職を希望する人はやる気がない。
同じ作業はバッチ処理できるようになってきているので、今の事務職は「気づくこと」が求められる。
営業には不注意な人間がやけに多い。気づくこと、おせっかいをやくこと、みたいなスキルが事務職に求められたりする。
性格的な適性みたいなもので、このスキルは資格や経験で明確に示すことができない。
向いている人は向いてるし、できない人はできない。コミュニケーション能力が低いタイプはたいていできない。
正直なところ、遺伝や、きょうだいの世話をした経験、部活の後輩の世話をした経験など、
男性の事務職希望者はコミュニケーション能力が低い。
縁故採用の男性社員はコミュニケーション能力が高く、フットワークが軽いタイプだが。
男性の事務職希望者は、コミュニケーション能力が低いため営業などの仕事には就けず、
理系的素質もないので開発職にも就けず、事務職に求められる「気づき」「おせっかい」といったソフトスキルもない。
「営利団体では使い道がない感じの男性」が、事務職という仕事を小馬鹿にした雰囲気を醸し出しながら、
事務職希望で応募してくる。そして応募してくる人数自体も少ない。
当然、採用されるのは「子供のせいでパフォーマンス制限されてるけど本来は優秀な女性」になる。
それを男性差別といわれても。言葉を正確にして、「能力差別」と言ってくれ。
子を持つこと、育児をすることはいいことだと思うし自分も子ども欲しいけど
子どもができるトリガーはひとつしかないし、それも(よっぽどの場合を除いて)お互いの同意のもと行われているのに
最悪同意のない行為があったとしても、妊娠の可能性があることはわかるわけで、想定外の妊娠を防ぐアフターピルという手段もあるのに
(アフターピルを飲んでも妊娠した場合はわざわざ目につく場所で妊娠を報告しないと思うし)
「授かる」って、才能とか翼とかさ、もうできたものを持つべき人に与える、みたいなニュアンスで使われる言葉だと思うわけよ
授かったわけではないでしょ、夫婦で協力して作ったんでしょ、と思う
欲しくてもなかなか子どもができない夫婦に対しての慰めとして「赤ちゃんは授かりものだから」って言われることもあるけど
授かりものではないだろと思うんだよなぁ