はてなキーワード: 日本神話とは
世間の流行の移り変わりとは無関係に、私は度々『鬼滅の刃』の原作単行本を読み返しているのだが、またも同作を読んでいる。
ここ最近の読み返す切っ掛けの一つとなったのは、例によって金関丈夫の『木馬と石牛』である。何度目だ。
ひとまず最初に紹介しておく金関丈夫の論文は「わきくさ物語」と題する一篇である。
これは、腋臭(わきが、えきしゅう)や体臭を肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、その相違について、人類学的な統計データに基づいて西欧人と東アジア人の腋臭体質の多寡(出現頻度)を比較するとともに、東西の文学作品や文献に於ける腋臭や体臭に関する記述を比較したという内容である。今さら気づいたが、論文の題名は『若草物語』のパロディである。
金関丈夫の論旨を大雑把にまとめて紹介すれば、次のようなものである。「人類学的に見て、西欧人の集団では腋臭体質の人の出現頻度が高く、日本や中国などの東アジア人の集団では出現頻度が低い。それに呼応するかのように西欧では、身体の臭いを肯定的に捉えて讃美する詩や文学作品が見出される。それとは対照的に日本や中国では、身体の臭いを讃美する文学作品や記述は見られない。ひどい体臭の人が周囲から疎んじられるといった、否定的な記述内容は見出される。日本の文学においては、田山花袋の『蒲団』など西洋文学の影響を受けた近代の少数例を除けば、体臭文学は存在しなかったのではないか」云々。これも今さら気づいたが『大衆文学』の駄洒落である。
それはともかく、かのナポレオンが愛人に宛てて「近々戦場から戻るから、風呂に入らずに待っているように」と手紙を書いたという有名な挿話を知っていると、金関丈夫の主張にも頷けるところがある。
しかし、体臭文学に関して言えば、確かに金関丈夫の言うとおり国文学の中では劣勢なのかもしれないが、嗅覚そのものは、時代の変遷や題材の違いによる差異はあれども、国文学においても大なり小なり着目したり描かれたりしてきたのではないかと思う。源氏香(※)のような遊びが生まれたぐらいなのだから、香り・匂いを味わうことの悦びを昔の日本人も持ち合わせていなかったわけではないだろう。それにまた、腋臭のような刺激的な匂いに対する肯定的な記述が見られないからといって、体臭そのものに対する愛好癖が日本人の間に存在しなかったとまでは断言できまい。好ましくない体臭に対する認識があったのならば、好ましい体臭に対する認識があってもおかしくはない。したがって、いま少し詳細な再検討が必要ではなかろうかと思われる。[※注:源氏香は、室町末期以降の遊びであるが、源氏物語各巻の見出しに源氏香の記号が付記されるようになったのは明治以後のことらしい。また、その記号は、組合せ数学のテキストで例として挙げられることもある。]
とまあ、こういった具合に「わきくさ物語」を読み直したことが切っ掛けで、嗅覚について色々と思いを巡らせていたところ、竈門炭治郎のことも連想して『鬼滅の刃』を再読し始めたという次第である。
ところで、上に述べたとおり、私は金関丈夫の主張に対しては批判的な考えを抱いているわけだが、そのような批判的思考は私の独創ではない。以前に読んだ本の記憶から「はて、国文学でも、それなりに嗅覚は重要視されていたはずではなかったか?」と思ったので、金関説にも疑問を抱いただけなのである。
さらに、その時に本で読んだ内容には『鬼滅の刃』を妙に連想させる記述も含まれていたと記憶していた。そこで本棚を漁ってみたところ、それらしきものを再発見した。次に、それを紹介しようと思う。
『鬼滅の刃』の主人公たちである竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人が持つ優れた感覚は、それぞれ、炭治郎=嗅覚、善逸=聴覚、伊之助=肌感覚(触覚)である。炭治郎や善逸は、相手が人間か鬼か、人間であれば善人か否かを、これらの感覚によって看破できることは、漫画を読んだりアニメを観たりした人ならばよくご存知のことと思う。
この三感覚と同じ取り合わせを、私が目にしたのは、小松和彦の著書『神々の精神史』(講談社学術文庫)に収録されている「屍愛譚(しあいたん)をめぐって 伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の冥界譚を中心に」と題する論文の中であった。
まず、私が『鬼滅の刃』を連想させるものと記憶していた箇所を、少し長くなるが同論文から引用しておこう。
「男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚に依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかから豊かに創り出されるイメージの、想像力による夢幻の世界における営みであった。そして、日本的女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。」
奇しくも、小松論文の中で三つの感覚が挙げられる順序は『鬼滅の刃』の物語に主人公たちが登場する順序と一致している。果たして吾峠呼世晴は、小松和彦の論文や著作を読んでいたのかどうか。真実は分からないが、そういった想像をしてみるのは楽しいことである。
さて、小松和彦の論文は、国文学などにおいて見られる、妻・夫・愛人などに先立たれた人が、パートナーの亡骸を屍姦したり冥界を訪れるという物語や記述について論じたものである。その中でも題名のとおり特に、亡くなった妻のイザナミ恋しさに黄泉の国を訪れたイザナギの物語、そこで語られる覗き見の禁忌、その侵犯について考察している。
死して黄泉の国の住人となってしまったイザナミは、自分を現世に連れ戻すために訪れた夫イザナギに対して「それでは、現世に戻れるのかどうか、殿内に入って黄泉の神と協議します。私を待つ間、決して中を覗かないようにして下さい」と言い残して黄泉の殿内に籠もる。しかし、妻と黄泉国神との協議が終わるのを待てなかったイザナギが禁忌を犯し、黄泉の国におけるイザナミの変わり果てた姿(肉体が腐敗して蛇に集られている有り様)を覗き見てしまったがために、彼女は現世に戻ることが不可能となり、二人は別れざるを得なくなる。
この禁忌を犯す場面において、イザナギは彼の御髻(みみずら)に挿していた湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を抜いて、それに火を灯してから黄泉の国の殿内を覗き見るという筋書きになっている。この灯火を焚く必要があったということは、つまり、黄泉の国でイザナギとイザナミが語り合ったのは、闇の中であったことを示している(そうでなければ、黄泉の国で最初に再会した時点で、イザナミの肉体的変貌にイザナギは気づいていたはずである)。ここには、現世でも黄泉の国でも何ら変わることのない「男女の愛の営みや語らい(ピロウトーク)は暗闇の中でこそ行われる」という形式がある。
小松和彦の論文でも指摘されていることであるが、日本のイザナギ・イザナミの冥界譚やその他の屍姦譚・屍愛譚には、中国大陸の物語から影響を受けた節が窺える。小松論文でも紹介されているが中国の東晋時代の書物『搜神記』における屍姦譚の一例として、次のような話がある。
美しい女性と結婚した男が、妻から「私は普通の人間ではないので、結婚してから三年経過するまでは、夜、明かりで私の姿を照らさないで下さい」と言い渡され、それを守りながら夫婦生活を送り、二人は子まで設けた。しかし、どうしても夫は我慢が出来ず、ある夜、明かりで照らして妻の姿を見てしまった。彼が目にした妻の姿は、腰から上が普通の人間の女性で、腰から下は干からびた白骨というものであった。妻は「私は死者であるが、あなたが、あと一年だけ我慢して私の今の姿を見ないでいてくれたならば、完全に蘇生することが出来たのに。しかし、あなたが禁を破ったがために、最早それは叶わなくなった」と言い残し、形見として袍(うわぎ)の端布と二人の間に生まれた子を残して、男の元を去ってしまった。その端布を持って嘆き暮す男のことは、スイ陽王(スイは目偏にオオトリ旁)の知るところになり、袍の端布が王の若くして亡くなった娘姫のものと同じであったことから、娘姫の葬られた墓を暴いたとの嫌疑で男は取り調べられることになった。男が語った事の経緯を信じられない王と家来が、娘姫の墓を検分したところ、墓暴きに遭った形跡も認められず、念のために墓内に入って棺も確かめると、袍の裾が棺の蓋の隙間からはみ出ていた。それを見て「さては、本当に墓を抜け出して夫婦生活を送っていたのか」と、王も家来も信じるようになったとの由。この生者の夫と幽霊の妻も、彼らの愛の営みを、妻の申し渡した禁忌を犯さないように、明かりの無い暗闇で行なっていたことは確実である。
イザナギ・イザナミ冥界譚と『搜神記』における人間・死者婚姻譚との間に共通するのは、妻の本当の姿を見ることの禁忌、それを夫が犯したために妻の蘇生が叶わないという点である。
特に前者の覗き見の禁忌について、小松和彦は考察し、その本質は「女性が『ありのままの姿』を公に晒すのは好ましくないという、昔日の社会における男女観・価値観・倫理観の反映」であり「女性の本性を覗き見ることについての禁忌」だったのではないかと推理している。それを裏付けるかのように、生者であるパートナーに対して自分の本当の姿を見ないように要求する死者の話は、圧倒的に女性が要求する側であることが多いのである。また、禁忌を犯した夫イザナギに対するイザナミの怒りの言葉は「吾に辱(はぢ)見せつ」(私に恥を晒させた!)というものである。さらに、類似の物語として、豊玉姫(トヨタマヒメ)が出産の時、産屋に籠もり、それを彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が覗き見ると、豊玉姫の正体はワニ(サメ)の姿であったという話もまた、女性の本性を見る禁忌の事例として挙げられる。
死者にしろ生者にしろ、隠れている女性の姿を覗き見る男の性向というのは、時代を下っても変わらない。例えば『伊勢物語』の「むかしおとこうゐかうふりして」という出だしで有名な最初の一篇でも、田舎には不釣り合いな雅やかな女性が里に暮らしていることを知った主人公(在原業平)は、垣根の破れた所から彼女たちの姿を覗き見る。ずっと時代を下った現代においても、男性向けアダルトコンテンツは、視覚的表現が重要性を持つことは周知の事実である。このように、イザナギ、在原業平の昔から変わることなく、男性は「視覚的な欲求」を満たすことを強く好むと言って間違いない。
ところで、この「屍愛譚―」論文を再読し、期せずして気づいたのであるが、論文の著者である小松和彦の行なう考察もまた(覗き見の禁忌を論じて考察する必要性から、当然のことではあるとはいえ)、やはり「視覚の範疇」に留まっている。これもまた、視覚を重視する男の性向の顕れと言えるかもしれない。しかも、上に引用した箇所で「夜の闇の中での男女の愛の営みや語らいにおいては、嗅覚・聴覚・触覚が重要である」といったことを述べているのにも関わらず、同論文は、それらの三感覚が重要な働きを示している国文学上の具体例を、特に挙げてはいないのである。あるいは、国文学に詳しい人たちからすれば周知の事実なので、態々挙げる必要がないとして言わなかっただけのことなのだろうか?
とりあえず、男女の機微の話は後回しにして、ひとまず、妖怪を識別する手段としてのこれら三つの感覚について、話を進めることにする。
聴覚を妖怪の識別に用いる事例は、比較的容易に見出される。例えば、誰そ彼(たそかれ)時・彼は誰(かはたれ)時・夜のように、人間なのか物の怪なのかを視覚的に区別をつけ難い時、相手の妖怪が発する声によって正体を見抜くという事例は幾つも見つけられる。カワウソなどの物の怪は、人間から「誰じゃ?」と問いかけられると「俺じゃ」と言えず「おねじゃ」とか「かわい」などとしか言えないので、正体を見破られてしまうという。これは、言霊の力とも解釈できるが、音声(聴覚)による正体識別の事例と考えても許されるであろう。また、仮に人間の方が話し掛けたり問い掛けたりしなくても、妖怪の方から自発的に何らかの独特な声や音を発してくる(アズキアライ・テングダオシのような怪音、ヤロカ水の怪しい呼び掛け声など)ので、それを聞けば正体が分かるという例もある。これらも聴覚による妖怪識別に含めてよさそうである。
触覚の方はどうだろうか? 例えば、厠(便所)で河童などの物の怪に人間が尻を触られるという怪異の話は数多い。そして、それらの怪異譚は「毛むくじゃらの手である」といったような、通常の人間とは何かしら異なる手触り・肌触りの特徴を持つことを窺わせる描写が伴うことが多いように思える。厠が家屋の中では暗い場所に分類されることを併せて考えれば、これも視覚には頼り難い状況下で、触覚により妖怪を識別する事例と考えることが可能ではないだろうか。他には、猟のために山に分け入った猟師が、夜になり「これでは鼻を摘まれても分からないな」と独り言を呟いたところ、突然「これでもか?」と何者かの手に鼻を捻られたという怪異譚もある(参考:千葉幹夫『全国妖怪事典』静岡県の部)が、これは残念ながら手触りについて伝えていない。しかし、このように暗い場所や時間帯において、物の怪に身体の一部を触られるという怪異譚は、枚挙に暇がない。これらも触覚によって人か物の怪かを判断するという事例に含められないか否か、再検討してみるべきかもしれない。
問題は、嗅覚により妖怪を識別する話や本性を看破する話なのだが、残念ながら今のところ、これといった事例を見つけられずにいる。逆に、妖怪の嗅覚の方を利用し、何らかの臭いを発するものを人間が用意することで魔除けにするという事例ならば、比較的容易に幾つも見出だせるのであるが。例えば、焼いた鰯の頭を魔除けとする例は有名である。また、今でこそカカシといえば田圃に立つ人形のことであるが、日本神話でオオクニヌシがスクナビコナと出逢うくだりに記されているように、本来の古い和名はソホド乃至ソフドである。それがカカシと呼ばれるようになったのは、稲を荒らす鳥を追い払うのに、鳥の死骸を焼いたものを竹竿の先に紐で括り下げて掲げるという風習があり「臭いを鳥に嗅がせる」という意味でカガシと呼んでいたものが、鳥避け人形と混同されるようになったからである。上に挙げた鰯の頭も、ヤイカガシ・ヤッカガシ(焼き嗅がし)と呼ぶ地方があり、明らかに鳥避けのカガシと同じである。他にも、山中でタヌキやムジナの類いに化かされたことに気づいたならば、煙管(煙草)を一服すれば妖怪は逃げていくとか、小便をすると臭いを嫌がる妖怪を避けられるとか、人間の嗅覚ではなく妖怪の嗅覚を逆手にとって利用して払う例は多い。
小松論文では具体例が挙げられていないものの「視覚的に本性を見ることが禁忌とされた状態、特に暗闇の中で、何者かと一対一で対峙する状況において、重要な役割を果たすのは、嗅覚・聴覚・触覚である」という見解は、説得力を感じさせられるものであることは確かである。特に、愛の営みに関しては、そうである。人間がお互い裸一貫となって同衾する時、見た目の虚飾は、ほぼ通用しなくなるのだから。したがって、これら三感覚の重要性が高まることは、必然であるように思われる。
とはいえ「思われる」ということと、国文学などにおいて実際にどのように捉えられていたのかは、もちろん別問題であるから、これは検証の必要があるだろう。あるいは(素人である私に言われるまでもなく)既に専門家の間では検証済みなのかもしれない。国文学中の、特に男女の愛の営みや語らいにおける三感覚が占める役割について、どのように描かれ、語られてきたのか、可能ならば識者の見解を知りたいものである。
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さて、私は上で、男女の機微の話を後回しにして、妖怪の正体を識別する感覚的な手段の話をすると書いた。そこでいよいよ、男女の機微、すなわち異性のパートナーのことを暗闇の中で知る手段としての嗅覚・聴覚・触覚の三感覚について論ずる順番がやって来た。といっても、上の文章を読んでもらえば分かるとおり、専門的な知見を私は持たない。そこで、識者の見解とは無関係に、今の私個人が思うところを書くことにする。したがって、これより以下は全くの駄文である。
文字数制限のため分割したので、続きは⇒anond:20221023224411
本当に、分からない。
あなたがいいって言ってるもののナニがいいのか、僕には分からなくて、
ブラッディって、なにがカッコイイんすか? 血とか嫌じゃないすか 痛いだけじゃないすか
これのどこがカッコイイんすか?
罪深いって何すか? 罪状があると何か得するんすか? それただの犯罪者ですよね?
闇って何すか? 暗ければいいんすか
正義と悪だと、何で悪がいいんすか? 何かそういうデータあるんすか? 悪いから悪なんですよね?
ミギウデが疼くと何でカッコイイんすか
ちゃんと管理できてる方が良くないすか。おいらは立派だと思います
普段力を隠していると何か凄いんすか?
それって、ただの手抜きですよね。隠したりしないで、全力で取り組む人の方がカッコいいと思います
二つ名とか異名とか色々付ける人いますけど、正直めんどくないすか
英語でもなんでもカタカナつけられると、シンプルに見づらいと思います
ギリシャ神話とか聖書とか北欧神話とか日本神話とか、ちょっと調べたくらいでそういう話しない方がいいっすよ
内容もちゃんと教えてくれなきゃ意味がなくて、教えるならちゃんと教えた方がいいと思います
神話に出てくる武器の説明されても、あんまり、おもしろくないっすよ
グングニルも、ロンギヌスも、エクスカリバーも、デュランダルも、天叢雲剣も、意味不明過ぎ
他の用語も謎じゃないすか 原罪とか十戒とか、創世記とか黙示録とかアルマゲドンとか…。
名前がいいだろってどういうことすか。雰囲気で感じろとか言われてもそれはあなたの感想ですよね
相対性理論とかシュレディンガーの猫とか万有引力とか、今の時代ってちょっとネットで調べれば出てくるんすよね
文脈を無視して差し込まれても、何が言いたいのか全然分かりません
厨二って何すか? 厨二ってどういうことなんすか
分かんない分かんない分かんない分かんない! 分かんなーい!!ってな感じで、
「人魚の肉を食すると不老不死・不老長寿となる」という物語は、八百比丘尼の伝説・昔話として有名でもあるし、仮にそれらを読んだり聞いたりしたことは無くても、高橋留美子の連作漫画『人魚の森』シリーズを読んだから何となく知っているという人も少なくない。
しかし、そもそも何故、人魚の肉を食したら不老不死・不老長寿となるのか?その理由というか説明については、知らない人も多いのではないだろうか。
これを書いている増田が、その理由らしきものについて書かれたものを最初に読んだのは、神話学者・大林太良の著書『神話の話』(講談社学術文庫)であった。この現物を、確かに所有しているはずなのに本棚や倉庫の中から見つけられないので、ここでは記憶を頼りに大林説を書き起こすが、もしも『神話の話』の現物を持っている人は、そちらを見た方が早い。図書館で探してもよい。
まず、八百比丘尼伝説の概要は、大同小異、以下のようなものである。「龍宮の主を助けた漁師が、龍宮に招待されて主から宴などの歓待を受け、家路につく際に主からの土産として、人魚の肉を貰い受ける。聞けば、それを食した人は、不老長寿となるという。家に持ち帰ったはいいものの、人魚の肉を食べるのに怖気づいた漁師は、いったん戸棚にそれを保管する。しかし、漁師の留守の間に、彼の娘が人魚の肉を食べてしまう。人魚の肉のことを父から聞かされるが後の祭り。はたして、娘は不老長寿となってしまう。父親である漁師も、娘が結婚した夫も、近所の人たちも、漁師の娘が愛した人たちは皆、寿命が尽きて世を去るが、彼女だけは不老長寿の若々しいまま、この世に取り残される。その孤独な境遇を嘆いた娘は、仏門に入るものの、その後も長く若々しいままで生き続け、とうとう八百比丘尼(八百歳の尼僧)と呼ばれるようになり、最後は洞窟の中に籠もり、人々の前から姿を消す」
大林太良によれば、これと殆ど同じ内容の話が、朝鮮半島・平壌の仏教寺院の伝説として残るという。但し、日本の八百比丘尼物語には見られないディテールとして「結婚して夫を迎えたが、子宝に恵まれない」という描写が、朝鮮半島版の物語には有る。
つまり、人魚の肉を食することによる不老不死・不老長寿の獲得は、生殖能力を喪失するというトレードオフになっている。このような不老不死性と生殖能力のトレードオフは、八百比丘尼の物語にだけ見られることではないことを知っている人もいることだろう。
例えば日本神話では、人間の寿命に限りが有る理由として、ニニギノミコトがオオヤマツミノカミから娘の女神を嫁に迎える物語が語られる。オオヤマツミには二人の娘、姿形が麗しくないイワナガヒメ、姿形が麗しいコノハナサクヤヒメがいた。ニニギノミコトは、見た目を重視してコノハナサクヤヒメを選ぶが「イワナガヒメを選んでおけば、不老不死でいられたものを」とオオヤマツミノカミから言い渡される。花が咲き、実を成し、種を残して枯れる植物のように、こうして人は有限の寿命となった。岩石のような、長い年月が経過しても残るような不老不死性は、こうして人から失われた。
女性を差別・侮辱する古語として「うまずめ(=子を産まない・産めない女)」というものがあるが、これを漢字で書けば「石女」である。言うまでもなく、この言葉にはイワナガヒメ(岩石の女神)とコノハナサクヤヒメ(植物の女神)の嫁取り物語と同じ考え・物の見方が、素朴な形で反映されている。
昔の人たちが呪術的な発想として、生殖能力の有無と不老不死性を結び付けて考えたであろうという仮説自体は、現代人も自然と受け入れられるであろう。
問題は、何故、人魚のイメージと生殖能力の有無が結び付けられたか、その点が定かではないところである。これについて『神話の話』の中で大林太良は、一つの示唆として、中国の人・袁枚(えんばい)の残した『子不語(しふご)』という書物に収められた、次のような挿話を紹介する。
「袁枚の甥が、地方の役人として赴任する旅の途上で立ち寄った集落で、住人たちが騒いでいた。何があったのかと尋ねると、その集落に住む或る夫婦の妻の下半身が魚になってしまったという。彼女の証言によれば、昨夜は夫と同衾し(夫婦の夜の営みを行い)、眠りについた。夜更け、下半身がむず痒くて堪らず、手で搔いていた記憶があるが、疥癬のように皮膚がポロポロと剥がれ落ちる感触が有った。朝になり、彼女が目覚めた時には、下半身は鱗の有る魚のものになっていたとのことである。剥がれ落ちていたのは、どうやら鱗だったようである」
大林太良は、この『子不語』の挿話について、わざわざ夫との同衾について言及しているのは「下半身が魚になる前の女性は、二本の脚を開いて男性を迎え入れる性行為が可能であったが、下半身が魚になったことで、脚を開くこと、すなわち性行為が不可能な状態になった」と言っているのだと考える。そして、人魚の肉による生殖能力の喪失も、これと同じ発想なのではないかと言うのである。
個人的には、この大林太良説を初めて読んだ時は「ううん、ホンマかいな?」という半信半疑の感想であった。しかし『神話の話』を読んでから暫く経過した後、大林説を補助するような話を、別の学者の著作で見かけた。が、やはりこの著作も、本棚や倉庫で見つけられずにいた。それがつい最近、その本を古本屋で発見して再入手した。嬉しい。だから舞い上がって、ここで記念にメモを残そうと思い立ったわけである。
件の大林太良の説を補助する記述が載っていたのは、金関丈夫の著作『木馬と石牛』(岩波文庫)である。ちなみに、解説は大林太良その人である!
この『木馬と石牛』に収められた「榻(しぢ)のはしがき」という論文が、人魚による不死性と生殖能力の喪失のイメージの結び付き仮説を補助するような記述を含むものである。この論文は何について書かれたものか、簡単に説明すれば、国文学におけるオナニー文学について論じたものである。これは、悪巫山戯で書いているのでも、嘘を書いているのでもない。本当のことである。初めて読んだ時は「お硬い岩波文庫で、こんな珍論文を読めるとは」と、かなり吃驚したものである。
本題に入ると、金関丈夫によれば、天明六年の自序がある東井春江による『譬喩尽(たとへづくし)』という俚諺(りげん)辞典の「い」の部には「一夢二千三肛四開(いちむにせんさんこうしかい)」という俚諺(ことわざ)が収められている。その意味は「性行為の中で快感が大きいものランキング・ベスト4」である。念のために言うと、男性の立場でのランキングである。4位の「開(かい)」が「女色すなわち男女の営み」を指す。この「榻のはしがき」の一節を初めて読んだ時「なるほど、『開(かい/ひらく)』の語と『男女の性行為』のイメージは、昔の人の頭の中では自然に結び付いていたのだなあ」と納得し、大林太良説も納得して受け入れられるようになったと、そういった次第である。
何?ベスト3の意味が知りたい?いちいち言わなくても、字を見れば薄々察しがつくだろうから細かい説明は書かない。なお、同「榻のはしがき」によれば、戦国時代頃に来日したポルトガル人宣教師たちが、布教活動を行うために編纂した日本初の日本語/ポルトガル語翻訳辞書『日葡辞書』には「Xenzuri」という単語が収録されているとのことである。
とりあえず『神話の話』も『木馬と石牛』も、どちらも非常に面白い本なので、機会があれば図書館などで探して一読することをお勧めする。
また、人魚の話に関しては、椿のモチーフなど海女文化が八百比丘尼伝承などにおける人魚のイメージに影響を与えた可能性の話、人魚の肉はフケツノカイ(キュウケツ[9つの穴]ノカイ)すなわちアワビのことではないかという可能性の話など、色々ほかにも面白そうな話が有るので、興味が有る人は調べてみることをお勧めする。
私さ薄々気付いていたけど、
手帳は一切書かないけど
手帳が好きなのよねきっと。
手帳って言う枠が好きなのよ。
だからこの季節毎年この時期になると手帳欲しくなる欲がヒシヒシと沸いてきて
結局買っても毎年書かないのは、
だから私思ったの。
手帳は買って干渉してそのままで置いておくものだ!って思ったら
そう思うと手帳買ってもいいかもって言うハードルがうんと低くなるのよね。
この体裁良いな!
このページのレイアウトいいな!
この罫線の間隔いいな!
この紙質いいな!
とか
そういうのを味わうものだと思ったら、
書かなくても買っても良いと思わない?
例えば、
高級万年筆とか
私はそう言う類いのものは持っていないんだけど
ああ言うのって、
実際にそれで書くってより持って眺めて楽しむ要素もありありだとおもうのよ。
なしなしかしら?
実用的に使うよりも
いい仕事してますね!って中島誠之助さんばりに言いたいわけなのよ。
だから
私の手帳欲しくなる、
なんか腑に落ちた感じ。
と言いながら
見開き1週間のバーチカルスケジュール帳は使ってたりするので、
これは完全にお仕事用よ。
あと最近予定忘れないように、
それと手帳がどう考えても同期できないところがやっぱり画面を見ながら手帳に転記していく作業が手帳の良さでもあり悪さでもありそこの良し悪しってあるじゃない、
あれを楽しめるかどうか面倒くさいと感じるかどうかだと思うし、
そんな感じだから
私の本棚の本には書いてないまるまる1年白紙の手帳が並んでいるし、
それを見返したところで、
その年のトピックス出来ごとが分かるわけでもなく、
ただただ、
なんかそう言う手帳で思い出したけど
来年はパスポート期限切れるから更新しておかないといけないのを覚えておかないといけないわ。
よくさ
日本は落とし物をしてもちゃんと交番に届けてあってサンシャイン池崎さんが電車の中にサンシャインブレイドをすっかり忘れてしまったけど無事手もとに戻ってくる神話あるじゃない、
アーノルドシュワルツェネッガーさんがホテルのフロントを馬で走っていた映画のホテルでパスポート落っことして死ぬかと思って終了してロビーにラストアクションヒーローばりに泣きついたら
届いてますよ!って言ってくれて、
世の中捨てたものじゃない閉店間際に飛び込み前転で入店してのから揚げ半額セールより奇跡が起こって、
無事私の手もとにパスポートが戻ってきたのには
アメリカでのそう言う日本的な神話って古い話の歴史の古典での言い方ってなんて言うのかしら?
インディアン嘘つかない話しの
神がかっていたわ。
いい人はどこにでも大体8割はいるのよ。
まんが日本昔話のご飯が超大盛りのようにあの絵に描いたまんが日本昔話盛りを体現するのよ。
芸の無いから揚げ丼って言ってご飯の上にどーんとから揚げだけが搭載されているものよりかはよっぽどましだし
まあどちらにしても奇跡だわ。
頼むんだったら親子丼の方が手間がかかっている感じがするしね。
何が言いたかった勝って言うと、
スプラトゥーン3のコンビニスイーツを食べておいてもいいかなって
焼き鮭丼って世の中に無いことがもはや不思議を発見したインスパイヤザネクスト日立で
あきたけじょうって微かに似ていない?って思う
空高く馬肥ゆる秋だなぁーって実感するのよね。
まだまだ暑いけど。
とにかく手帳買っても良いという呪縛から解かれているかのように腑に落ちた感じが得られたことだけは秋の収穫祭よ。
うふふ。
研究中のお粥研究で昨日作った玉子お粥を今朝食べてきて調子がいい感じよ。
簡単美味しいヘルシーな気がして
いいかもしれないわ。
買い物平日行けてないと思ったけど
いつも思い出したら
って思っているんだけど、
朝になったらすっかり忘れてしまっているのよね。
まあいいわ。
思い出したらピンクグレープフルーツよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
アナル嵌杉之命(アナルはめすぎのみこと)は、日本神話に登場する、日本で初めてアナルセックスを経験したとされる男神。
イザナギとイザナミの間に生まれた子であり、アマテラスやスサノオの弟である。
『古事記』の記述によれば、アナル嵌杉之命は兄のスサノオにいじめられており、ある日、兄のスサノオに犯されそうになった。しかし、アナル嵌杉之命の肛門括約筋は固く締まっており、なかなか挿入できなかった。
そこで、アナル嵌杉之命はスサノオの背後に素早く回り込み、肛門をこじ開けて挿入し、射精してみせたという。
これが、日本神話における初めてのアナルセックスのエピソードである。
その後、スサノオとの仲直りのため、アナル嵌杉之命は自らの尻の穴を差し出した。しかし、アナル嵌杉之命の尻穴はスサノオに徹底的に凌辱されることになってしまう。
ネタバレは、控えめに頑張るが。
嫌な人は、ご容赦下さい。
3
2
1
まず、
という前提を飲み込んで欲しい。
根拠としては、
・光の国からやって来ている。
・デザインの一部に アルカイック・スマイルが参照されている。
んで、
シン・ウルトラマン は、何を描いているのか?
現代でこそ、仏教は日本に需要されているが、仏教が伝来した飛鳥時代では〈蕃神〉、つまり異物だった訳だ。
作中では、
原理的には超科学によって地球人もウルトラマンと同等の存在になれると示唆されているが
これって、原理的には万人が悟れる(≒阿羅漢)とする仏教よね。
脅威でもある海外(外星人)の仏教(ウルトラマン)を含めた当時の最新知識を
んで、
自国と外交情勢が落ち着いて、自国のアイデンティティーを確認したくなったので
シン・ウルトラマンは、仏教が伝来し、日本神話が成立した飛鳥時代を引用しつつ
現代日本の外交情勢をモチーフにしているから物語構造が強い。≒面白い。
だが、
『シン・ウルトラマン』の問いかけ そのもの が不愉快な層が居ると。
オリジナル ウルトラマンが表現したかったモノまで分解再構成し、
ここまで長文を読んでくれて thx 。
と始めたものだから、ここはまぁ納得(というか詳しく私は存じ上げないがそうらしい)なのだが、
いや私が詳しくないだけで、最近の学説や学校では実在が確定したことになってる?
(追記)
Googleにはこうある。
大和を平定した日本国の創始者・初代天皇。 アマテラスをはじめとする天津神の末裔で、山・海といった大自然の神々の系譜も取り込み、さらに国津神の末裔と婚姻を果たし、あらゆる神々を合一化。 そのため国家安寧や安泰を意味し、建国記念の日においては、その即位を祝う紀元節が祝われてきた。
ウィキペディアの「皇室」の中にはこれもある。これには反論もある。
大正時代には、津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。
所謂ツイフェミが、批判の論拠としてる部分を言葉を変えて話してるだけ。
「現地の人の方が作品を愛している」みたいなのは、作品が利益を落とす場合、顕著に表れる。
そりゃそうだ、消費側はいくつかあるコンテンツの一つでしかないが、現地にとってはそうではないからね。
この辺りもバカバカしくてな。
「真似する人が居る」だのなんだのの理由付けで、虚構においても不条理にタバコと酒がダメになったが、別に「架空キャラの人権が認められて、その健康を守るために」ダメになったわけじゃない。
人も殺せるし、車の運転もして良いが、酒とたばこはダメとか下らんよな。
んで、こういう時、都合よく、「使役」だの「人間と同じように大事にしてほしい」だの言い出す。
怖気の走る話だ。
そもそもな、「キャラ愛=人権を認める」なんて話になっていくなら、「小学生がロボットに乗って平和を守る」とか狂気の沙汰も良いとこだろ。
それが、販促キャラになったとたん、「現実の人間と同じ扱いにしなければ認められぬ」とか言い始める。
だから、「都合よく」人格を見出すし、「都合よく」彼女らも人間だ、みたいなことを言い出す。
んで、その勝手に見いだした人格や人権をして、その消費を問題にする。
マッチポンプも良いところだろ。
まさにツイフェミの所業で、3投稿になんら新しい知見はないぞ。
「おばあちゃんが孫のように扱っているからキャラの飲酒設定をなくしてください」とか言われたら、キチガイかと思うだろ?
何が使役なんだよ。
結局、クリティカルな部分は全部印象論に終始してる。
https://anond.hatelabo.jp/20211215104424 の続き
前述の通り騒動は運営の火消しも仁藤氏の撤退も早かった。結局当事者たちはバックレてるだけだが、まあ結果オーライだ。温泉むすめ騒動は私にとって理想に近い場所に軟着陸した。
この度初めて温泉むすめの基本設定や各キャラのプロフィールを読み込んでいった。まあ相当にボロボロだ。日本神話や神社制度にほぼ知識がない人が作ったであろう神さま設定。師範学校が何をする場所か知らずに命名してるっぽい温泉むすめ師範学校。各温泉むすめのプロフィールも泉質などとリンクさせているのは玉造温泉とか嬉野温泉などほんの一部で、大概は観光ガイドから抜き書きしたような観光地情報で大喜利をやっているだけだった。素人の仕事かと思ったら、プロデューサーが温泉ソムリエだと知って二度びっくりした。もう少し真面目にやってほしい。
ただ、ゲームアプリでそこまで練られた設定を目にすることもないので、温泉むすめの設定が特別ひどいということはないだろう。さいわい温泉むすめは実際の温泉地との結びつきも強いし、温泉地からのフィードバックも貰ってプロフィールの補強がなされていけばいいと思う。
この温泉むすめプロジェクト紹介ページの中で、私が気になった、いやはっきり気に入らない文言がある。
温泉むすめの物語の概要を紹介する段落の後ろに加えられた。“なお、温泉とお酒は切っても切り離せない関係のため、年齢不詳である神様であればお酒は飲めるだろうとして神様の設定が考案されました。” という一文だ。神さま設定の前に酒が先にあった。
すぐ直前に、温泉むすめは“人間と同じように赤ん坊として産まれ、温泉の源泉のように地域の人たちに大事に守り、育ててもらいながら、人と同じように歳を取っていきます。” とある。全然年齢不詳じゃない。人に取り上げてもらって産まれ、全員誕生日も判明してる。だいたいお酒を飲んでもいいのは成人であって年齢不詳の少女じゃない。
温泉むすめは全員例外なくセーラー服を着ているので、イラストは明確に「セーラー服を着た女子学生」として発注されている。飲酒設定が先にあるのに何故そんな未成年と誤解させるデザインにしたのか。アサヒビールのCMの乃木坂46おとな選抜でも誰も制服は着ていない。お酒とは切り離せないのに何故温泉むすめを未成年アイドルとしたのか。
“温泉とお酒は切っても切り離せない関係”とされている根拠も分からない。
温泉施設付属のレストランで見かける家族連れのお父さんもバイカーの爺さんもロードバイクのおっさんも山奥の現場帰りの兄ちゃんも酒なんか飲んでいない。ビールを飲んでいるのはバスで温泉に来ている高齢者の団体くらいだ。
環境省や大学などの温泉地の選択や温泉地での過ごし方を問う調査でも、温泉へ行くのに酒を目的とする回答はほとんど見られない。料理、温泉の効能、ロケーション、が温泉に望むことのほぼ全てだ。
温泉利用者調査で男女に有意差があるのは、男性は日帰り温泉利用が多く、女性は滞在型の利用を好み旅館の設備を気にすることなど。温泉の泉質や効能を気にするユーザー層は男女同程度で、男性も美肌の湯を指向して温泉に来る。グルメ、スイーツへの興味も男女同程度で、男でも酒よりスイーツを欲しがる。ユーザーは温泉に酒を求めていない。
温泉むすめは少女でなければならなかった。温泉むすめには飲酒させなければならなかった。
その結果、神さま設定が考案され、人間の少女には許されない行為が温泉むすめには許されるようになった。日本神話風ファンタジーワールドを構築するその動機が、温泉むすめから人権を奪うことだったと、その一文で思いきりぶっちゃけている。その文がなくても説明ページは完了していたのに。
私は、温泉むすめを使役する人には温泉むすめをタレントとして扱ってほしい。神さまでもいいけど、人間と同じように大事にしてほしい。神さまに祭り上げる代わりにろくでもないことを押し付けるんじゃ軍神と変わらんじゃないか。仁藤氏が指摘したような炎上プロフィールも同じで、私にはあれはアウティングにしか見えなかった。何で事務所提供の紹介欄にネガティブな情報を書かれなきゃならないんだと。
温泉むすめはフィクションの存在で何を書かれても何をされても実際には傷つく人はいない。温泉むすめの存在しない人権を守ろうとすることで、温泉むすめで商売をしている人たちの権利がないがしろにされていると主張するオタク論客たちがいるが、露悪にも程がある。技能実習生が来なくて商売上がったりの農園や工場かよ。
温泉地において、飯坂真尋や小野川小町は商材でもお店の備品でもなかった。我が町のアイドルとして扱ってくれたし、温泉むすめを盛り上げよう、応援しようという熱も浴びた。推しがいることの喜びと、新しいことを始めているという大きな自負を感じた。温泉むすめのコアファンとの交流は出来ていないが、彼らも温泉むすめを消費するだけのユーザーではないと信じている。行く先々の温泉地で先達の温泉むすめファンたちのマナーの良さ、情熱について聞いていたからだ。これはおっぱい出せばチョロいオタクが飛びつくなんてコンテンツじゃない。
私は藤沢を舞台にしたアニメが作られるたび江の島へ行く。「きみの声をとどけたい」を見て、「青春ブタ野郎は ゆめみる少女の夢を見ない」を見て、そのたび江の島へ行き、島の茶屋あぶらやに「TARI TARI」のノートがまだ残っていることを確認する。新しい聖地を巡ることも楽しみだけど、いつまでも作品を覚えてくれている人のいる場所を辿ることもまた楽しみだから。
温泉むすめにも人の思い出になる力があると思っている。会ったことのない温泉むすめに出会うことも楽しみだけれど、飯坂真尋には来年も、五年後も、十年後も会いに行きたい。
私は、温泉むすめが、温泉ユーザーに温泉の泉質や効能の情報を提供し、温泉地の歴史や観光地、施設の案内をして、レストランやカフェ、名産品のナビゲートをしてくれるインフラになることを願っている。パネルに付いたQRコードを読めばマップや風景画像、声優の音声ガイダンスに繋がるなんてあれば楽しいじゃないか。初めて訪れた温泉地でも温泉むすめを見つけることが出来れば安心できる、そんなアイコンになってほしい。
漫画をどれだけ深く読み込んでるかで成否が決まってくるような問題が出たのかと思ったらそうではなかった。
どうでもいいからうろ覚えで書くがようはたとえば「ねずこの口枷してるときの声はどうやって出してるのか」みたいな問題だった。
こりゃ漫画端から端まで読み込んでも解けないどころかスタジオ内での漫画のカンニング可だっただったとしても答え導き出せないわ。
たとえるなら六法全書持ち込み可の司法試験よりある意味理不尽。
小学生が見事優勝したようだったけどこいつはこいつで逆に初期のタイトル案や「親殺しの火」である爆血からネヅコの元ネタが日本神話のカグツチらしいってこととかは知らないんじゃないかね。
当たり前っちゃ当たり前なんだけど同じ「作品に詳しい人」でも追求してる領域が少しずつ異なるんだろうなって改めて分かった例だった。
まあテレビでアニメ化してない部分から問題出すのはネタバレになっちゃうからああいう問題構成にならざるをえなかったんだろうけど、逆に四字熟語の問題とか普通に好きで漫画読んでる人ならガイジでもないかぎり即答できるとか難易度の差が激しかったりいろいろお粗末。
所詮はテレビアニメや映画の宣伝なんですねって感じで当時の5ch実況民とかも問題見て、知らんがな解散ってなったんだろうな。
その昔、所得倍増といえば沢山働いて沢山稼ぐことだったが、今は札束を刷ってばらまくことを指すようだ。
若手社員を馬鹿にしてバブルの思い出に浸っているうちに、とうとう成長戦略が行き詰まり、過去の人間が積み上げてきた信用を取り崩して日銭を作ろうという魂胆だ。
年寄りは日本という国を過信しているから、真面目な日本人の信用は無限で、日本円は無限に発行できると信じているかもしれない。だが、もちろんそれは限りあるものだ。
目に見えない信用という担保が底をついたとき、いよいよ日本神話の終わりが見えてくるだろう。
平穏な島国からグローバルな戦場に放り出されたとき、それでも戦えるかどうかが分かれ道になる。
未来がどうなるかなんて誰にもわからない。ただ、無策でいるよりは作戦を立てておいた方がいい。何がどうなろうと、その一点に賭ける。
いや、正しいんだよコレ反論として。容姿、国力、治世より文化を蔑む方が実はヘイトとして遥かにタチが悪くて、煽りや発奮を促してるなら元増田は一流とも言える。
主観ではドラゴン、フェニックス辺りは宗教やディズニーの影響が大きいけど、最古の画像はカッコ悪いよ。
大体、日本は戦争負けたじゃん? 神仏習合もしちゃったじゃん? 文化の否定は偉人や祖霊崇拝、宗教神話から民族の否定に繋がるから見逃しちゃダメなんだよ。
勝ってれば八犬伝だって雨月物語だって神話級になってないとも言えないし、日本神話もそう。
だいだら法師はヘカトンケイル級だし、海坊主はシーサーペントだし、空海だって神仙に匹敵するし、鵺は神獣だしカムイやユタを持って来てもいい(?)。
中国は宗教禁止だからこういう論争にはならないだろうけど、神話や文化の優越は人種や国家の根幹と容易に繋がり得るので看過してはならない。