はてなキーワード: 羽化とは
その世界では、誰もがプリティでキュアな存在、プリキュアに変身できた。
物心ついて、そのことに気づいた2人は、悲しみにくれた。
何度試しても、変身はできない。
2人は、この世界では凡人にすら達していなかった。
そんな2人ではあったが、周囲の人々は、とても親切に接してくれた。
そんなささやかな日常は、仮面をつけた者らが世界に現れることで壊される。
仮面ライダーを名乗る彼らは、次々とプリキュア達を襲っていく。
全員がプリキュアであるがゆえに、悪意や犯罪に免疫のなかった世界。
OMENライター666を始めとするライダー達に、抵抗できる者はいなかった。
プリキュア達がドキドキする暇もなく、ライダーは、その身ぐるみをHUGか、心臓(ハート)を鋭い爪で鷲掴み(キャッチ)していった。
街に溢れるのは、血しぶき(スプラッシュ)と、ひめいと、殺人者(キラ)。
魔法つかいの救世主(イエス)はどこにも見当たらず、圧倒的な突撃(チャージ)に世界はコウフク寸前だった。
それは、平和な日々しか知らない世界にとって、最大限(マックス)にハート〝な状況だっただろう。
あまりの惨状を目の当たりにして、ホカノとサナギは、気を失う。
彼女達にとっては、ライダーこそが「衝撃をもたらすもの(ショッカー)」だった。
2人は、気絶している間に、不思議な夢を見る。
夢の中で、ホカノとサナギは、全人類が仮面ライダーである並行世界の住人だった。
仮面ライダーが増殖しすぎた世界から、新天地を求めて並行世界へと送り込まれた尖兵。
それが、ホカノとサナギだった。
2人は、気がかりな夢から目ざめたとき、自分達が2匹の巨大な毒虫に変わってしまっているのに気付いた。
あの夢が見せたのは、真実だったのだ。
2人は羽化し、あれほど焦がれた「変身」をしていた。
その姿は、決してプリティではなく、キュアからもかけ離れていたが、この世界で2人だけが、悲しみと絶望を知っていた。
ライダーに対抗できるのは、
世界広し、
といえども、彼女達だけだった。
2人は、優しかったプリキュア達に報いるため、「大きなお友達」として戦った。
EXILEだ。
EXILE達は、全人類がEXILEグループになった並行世界から、重戦機に乗ってEXILEしてきたのだ。
彼らの掲げるスローガンは、LOVE、DREAM、HAPPINESS。
EXILEのタイミングずらして回るやつに巻き込まれ、倒れていくプリキュアとライダー達。
そのエグい行為は、万死(die)に値したが、プリキュア達に、なすすべはなかった。
ランニングマンに仲間達が次々とちぎられ、ライダー側の大将は、もはや裸同然だった。
プリキュア世界の崩壊かと思われた瞬間、世界に現れたのは、栗まんじゅうだった。
栗まんじゅうは、停戦を呼びかけるとともに、これまでの全てを語り始めた。
あんな夢も、こんな夢も、全ての夢(All I Want)を叶えてくれるロボットだ。
彼らは、栗まんじゅうを、倍々に増殖させ始めた。
そして、増殖を続ける栗まんじゅうの扱いに窮し、これらを宇宙に投棄したのだ。
栗まんじゅうは、増殖を続け、やがて、互いに引き寄せ合って結合し、星を形成する。
栗まんじゅう製にして、
栗まんじゅう性を持つ、
この星を遠くから観測する者がいたならば、きっと、虚空に1つの巨大な栗まんじゅうが浮かんでいるように見えただろう。
さらに、栗まんじゅうは増殖を続け、やがて、シュヴァルツシルト半径が星の半径を凌駕し、ブラックホールが形成される。
ブラックホールは、増殖を続け、自らの存在する世界を満たすと、他の並行世界へと進出して、あらゆるものを吸収していった。
Vtuberを。
コンビニを。
赤字国債を。
ワカメを。
あらゆる存在は、事象の地平面のかなたへと消えていき、漆黒の棺へと埋葬された。
ある因果律の狂った並行世界では、スマブラザ参戦者であるカービィを吸収した。
「それゆえに」、吸収した対象の能力をコピーできるようになった。
ブラックホールのヘヴィーな力は、知恵の実もろとも彼らを吸収した。
(ホカノとサナギは、知恵の実の話を聞くと、なぜか本能的な恐怖を感じた。)
それ以来、栗まんじゅうは、知性を獲得した。
このまま続けていれば、並行世界全体を包含する多次元宇宙が崩壊してしまうからだ。
こうして、栗まんじゅうは、プリキュアやEXILEの元にやってきた。
栗まんじゅうは、多次元宇宙の崩壊を防ぐ手段として、Vtuberを吸収して得た、バ美肉の能力を用いた。
そうして出来た新しい世界では、1人1人の人間が、それぞれ内に秘めた並行世界(コスモ)を持っているのだ。
人々の歴史と記憶は改ざんされ、各グループの増殖スピードは抑制された。
記憶が消されたとはいえ、人々は、潜在的な記憶から影響を受ける。
複数存在したプリキュア世界から生成された人々は、プリキュアのアニメの作り手や重度のオタクになった。
人々の深層心理に強く刻まれたホカノとサナギは、初代主人公のモデルになる。
栗まんじゅうはというと、あらゆる能力を手放して、1人の人間になることにした。
栗まんじゅうは、気付きつつあった。
知覚はできなくても、どこかにきっと他の多次元宇宙があることに。
どんなにコントロールしようとしても、人々の愛と欲望がある限り、また、何かが増殖し続けてしまうだろうことに。
この多次元宇宙もやがて何か一色になり、他の多次元宇宙と争いになるだろう。
その結果、運が良ければ、各多次元宇宙は、1人1人の人間に生まれ変わるだろう。
きっと、こうして歴史がくり返されてきたのだ。
究極にして思考できる栗まんじゅうは、1人の人間、栗子になったのである。
今度は、美味しいものが食べられると良いな、と思いながら。
https://anond.hatelabo.jp/20181010024150
1 孵化
2 地中生活
少しずつツイッターを巡回しながらセミ意識をさらに肥大化させていきます。ツイッターばかりみているためオタクが諸悪の根源のように見えてきます。海外に行くことができない底辺が多いので、海外に対して謎の幻想を抱くのもこの時期です。ネトウヨのネットDE真実と同程度の阿呆が大量に育ちます。
3 羽化
上記の生活を経て、大きくなった幼虫はキズナアイなどホットな話題でテンションが上がった夜、地面からはい出てきて急にしゃべり始めます
急にしゃべり始めたフェミはどとうの勢いで他の成虫やお仲間のツイートをRTしまくります。レインボーアイコンや海老アイコンを付け出すのもこの時期です。
5 交尾
泣き喚く♂セミの声に誘われた♀セミは♂セミの声をさらにRTしたり同意のコメントを寄せます。それに気づいた♂セミは、鳴きながらメスに近づき相互フォローします。
6 産卵
♂セミに感化された♀セミは一週間くらい全力で鳴き続け男嫌悪や性嫌悪という種をまきます。男嫌悪や性嫌悪という種は次の炎上ネタのときに孵化します。
さんざん鳴きわめいた後は、鍵アカ化したり増田に書き込むようになったり、はてサ村に移住するようになります。もはや人としては死んでおり、オタクをみると襲い掛かるゾンビのような生き物に成り果てています。
参考
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1368936308
くもり
アオサギ4
ダイサギ2
甲羅が半分だけ出てる亀1
今朝ドア開けたらおっきなクロアゲハがひらひら~って飛んで、あれこんなところに花あったっけ、。、あ、あのサナギか!って
9月1日にサナギになってたからちょうどぴったり2週間! 調べてた通りで自然すごい
あんなちっちゃなサナギからあんなおっきなクロアゲハになるんだなあ・・・
ここ数日ゲリラ豪雨とかすごかったから、玄関の軒下でサナギになっててほんとよかったねえ
庭の奥のみかんの木の方へ飛んでいった
いきなりドア開けたからよたよたしてただけかもだけど、
あーごめん。
これ書こうとしたら長くなるかも知れないから後で書くわー。
と思ったけど、長く書くんだったらネットでもうガッツリやってる人がいそうだからもうソレ読んで満足するわ。
てことは俺の考え方がズレてんのかな。
じゃあもう手身近に書くわ。
俺はハヤテのごとく!ってのは駄目なオタクのくっだらない妄想を受け止めてくるような漫画だと思ってたんだよ。
大金持ちだったりイケメンだったり天才だったりしたら人生らくちんでめっちゃ楽しいしオタクライフもウッキウキだよなって気持ちを受け止めてくれる漫画。
だけど物語がクライマックスに向かうに連れて、ナギがただ天才でワガママで身勝手ででもお嬢様で天才だから人生がどこまでも恵まれていくって話じゃなくなってきた。
そんで最後には立派な真人間として更生することを物語の側に余儀なくされた。
これはもう全くもって、物語にそう仕向けられたと言うしかないんだ。
ナギのハヤテに対する思いは本物なのか、ハヤテにとってナギは本当にただの恩人でしかないのか、ナギは果たして人に思われるに値するような人間なのか、52巻も続いた漫画の主人公が単なるぐうたらだったで終わっていいのか。
あまりにも長過ぎた連載期間が漫画そのものに容赦なくそれを求め、それが主要キャラ達へとハルマゲドンのように降り注いできたのが終盤の展開だ。
その中で、ナギはそれまでの自分から脱皮することを求められ、グウタラなニアリーニートライフから健康的で健全な自立した女の子に育つことを強いられた。
オタクの幼稚園児レベルの妄想が形になったようなモラトリアムサブカル漫画は、クライマックスというデウス・エクス・マキナの引力に逆らえぬままに成長物語へと羽化していった。
それをハッピーエンドと捉えるオタクもいるんだろうし、そうやって変わりゆくナギの姿を見て現実に適応することを余儀なくされて変わっていく自分を重ねたオタクもいることだろう。
でも俺はこれをバッドエンドだと感じた。
アニメ版のNHKにようこそがアルバイトを始めたのだって大丈夫だ。
でもそれは、カズフサや佐藤くんはあのままじゃ本当にどうしようもなくて、いつまでも終わらない夢を見続けた所でいつかは現実に追いつかれて決して幸せにはなれないと分かってしまったからだ。
でも三千院ナギは違う。
彼女なら、彼女のような天才でお金持ちであるなら、死ぬまで人生をなめきったままでもこの世界で幸福にグウタラ暮らせていたじゃないか。
なんでそんな宙にフワフワ浮いたままで死ぬことが出来るような存在を作っておいて、わざわざ物語の中で引きずり下ろして地に足を着かせた。
それは違うだろう。
ラブやんがご都合主義のハッピーエンドなら、ハヤテのごとく!はご都合主義のバッドエンドだ。
物語っぽく終わらせるために地獄から這い上がる話は歓迎するが、天国から叩き落とす話は許容しがたい。
これが俺の1年ごしの結論だ。
体育祭で訪れた校庭にあるワサビ畑を覗くと芋虫が飛び出てきて動かない。これは羽化が間近だと思い、踏まれないように守りながら観察する。そしたら「半分青い」の宇太郎さんが「わしの知り合いの部屋に運ぼう」と言うので宇太郎さんが頭、自分が体のほうを持って二人がかりで運ぶ。運んでいる途中で芋虫はのたうち回り産卵を始める。腹が分かれ足になり股から黒キャビア、赤キャビアを放出し、運んでいる自分にも体液がびっしょりかかる。出てきた卵はグラウンドに開いたくぼみにそれぞれ入る。複数の黒キャビアに赤キャビアが1つというセットになってくぼみに入っている。黒キャビアは精子、赤キャビアは卵子のようだ。ここで目覚めて、芋虫って産卵するっけ?と気づく。
今日はもう陽も落ちていて、境内は暗く、いくつかある電灯の下だけが仄かに光っていた。
小さな神社なので、鳥居をくぐり2、3段の階段を上がると、すぐそこに賽銭箱があり、鈴があり、その奥に本殿がある。扉のガラス越しに見える本殿の中は、人はいないがいつも蝋燭が灯っている。
賽銭箱の前にはパックに入った稲荷寿しなどが置いてあることもある。
私はいつものように賽銭箱に10円を入れ、鈴を鳴らして合掌をした。以前は何か願うことが多かったが、今はただ無心に手のひらを合わせるだけである。
合掌を終えて帰ろうとしたとき、ふと下を見るとなにか動くものがあった。
見るとそれはセミの幼虫であった。裏返しになっていて、自分では起き上がれないようだった。危うく踏んでしまうところだった。
私はセミの幼虫をそっとつまんでみた。ぐったりとしていたように見えた幼虫は、私につままれると3対の脚をもぞもぞと動かした。
賽銭箱の横にある、本殿の庇を支える柱がちょうどいいと思い、近づくと、そこにはすでに先客が2匹いた。見るともう抜け殻で、羽化して飛び去った後のようだった。あたりでジリジリと鳴いている蝉の声は、ここで羽化したものかもしれないなとおもった。
周りをよく見ると、柱にも、賽銭箱の上にある注連縄にも蝉の抜け殻はたくさんあった。なぜお参りするときに気がつかなかったのだろうか。
この蝉たちはおそらく地面から出てきて適当な羽化場所を探しているうちに皆ここにたどり着いたのだろう。
私は注連縄の上の方に幼虫を引っ掛けた。幼虫はそのトゲトゲした大きな前脚を使ってゆっくりと登っていった。
その横では、背中を割り、今まさにセミになろうとしている個体がいた。
割れ目から出た身体を大きく下に反らし、今にも落ちそうな態勢をとりながら、エメラルドグリーンの綺麗な身体を乾かしている。
そのうちに羽が固まって飛べるようになるのだろう。
しばらく観察した後、あまり邪魔になるのもいけないので、神社を後にすることにした。
石の階段を下りて地面を歩くと、1円玉ほどの穴が地面に無数に開いていることに気がついた。地中にいたセミの幼虫たちが穴を開けて地面の外に出た跡なのだろう。どこか潮干狩りの砂浜で見た光景に似ていた。
何年もいた地中から這い出て、高いところへ登って、羽化して、飛び回ってミンミン鳴いて、今日はセミたちにとっては祭りのような1日なのだろう。
これ「https://note.mu/amakara_no_tare/n/na4eb53fb6768」を受けて書きたいと思ったこと記事。
自分は今回に関してはテレビ局に慎重に取り扱ってほしい旨をメールで送った、ドラマ実写化に関してのみ規制賛成派。
該当作品はツイッター投稿をリアルタイムで見てて、その後ピクシブのぶんだけ読んだ。
ここまで前提。
■幸色のワンルームは少女にとって魅力的なのは「性」の扱い方にもあるんじゃないか
■クロスメディア展開がへたくそなのと制作側が色々甘く見てそうで怖い
■実写ドラマ反対したい理由は色々だけど、私個人に関しては”自分のため”だったと思う
の3本です。長い。一番最後に3行でまとめたから忙しい人はそれ読んでくれたら嬉しい。
幸色のワンルームは単なる誘拐の話ではなく、ただの男女の逃避行でもなく、
・理不尽にただ蹲って耐えるしかなかった少女が守るべきもの(=居たいと思える居場所、人)をはじめて得て戦うことで少女から大人へと羽化する話であり、
・リアルの男女の性に絶望した読者に対して「男と女ではなく、大人と子供でもなく、ひとりとひとりの人間として関係性を結ぶ」という夢を与える物語。
と捉えることができる。できるんですよ。傍から見たら犯罪だけど。
(問題は誘拐ストーカー設定なくてもこれを描けたことだけど、その設定のおかげで(いろんな意味で)バズってるから うん…)
「男とか女とか性とか支配被支配とかラベルだけの話ではなく、ぜんぶひっくるめて、私という人間とあなたという人間の話であり、救いの話」というふうに見たとき、
正直、読み口としては2000年代の商業BLやブロマンスに近いなと私は思った。
実際幸色のワンルームの幸とお兄さんの関係は決して恋愛感情だけにはとどまらないという風に描かれています。
加害者と被害者であり、無自覚的な搾取する側とされる側であり、姫と従僕であり、ナウシカと王蟲の幼生であり、友情であり、慈愛や同情であり、恋愛感情もうっすらあり、依存であり、共闘関係であり、勘違いであり、共犯者であり、そして全てを肯定し合う関係である。
だから人気が出た。
恋も愛もべたべたラベルが付いてひと山いくらで売られていることを、十代の少女たちはとっくに気づいている。そんなふうに安っぽくない、けれど十代少女たちに門戸を開いているフィクション作品をもとめている。それがどれだけ過去の文学や映画や漫画でありふれてやりつくされてきたものだとしても、「いま」「ここ」で「私たちに対して」向けられている作品に惹かれて何がおかしいのだ。
またこれは重大なポイントだが、お兄さんは性のにおいがしない。
デフォルメされた世界で成人男性の記号をほとんど持たない、いってしまえば無性の存在。メンタル的にもそう。
その上、精神年齢は少女とほぼ変わらないため、罪の意識を持った姿は読者にはどこか可哀想にうつる。過去の傷があるらしく年下の幸が守らねばと思うほどいたいけでたよりない。幸に都合の悪いこともしない。
けど、男。
「そんなやついねえよ」だ。だからこれはファンタジーだし理想たりえる。リアルと切り離せる免罪符でもある。
ひと山いくらのラノベに出てくる都合のよいヒロインから性の匂いをひっぺがしたようなものだ。少女にとって男の性は不要なもの、というか幼いころから自分を脅かしてきたものでしかないから、無い方がいい。幸の安心できる居住空間を提供する為にも。
だから、ストーカー、誘拐犯の男、というショッキングでスキャンダラスな設定はあるものの、それは今やおにいさんと幸が法を犯したことをしても問題ないというハードル下げのための設定になり下がっており、基本「ある日突然(可愛くて自分が居ないと生きていけない(A))女の子が空から降ってきた」と同義なのだ。ぺらっぺらだが、それこそが求められている。「怖くないから」だ。
(A)には「やんごとない身分の」「血のつながらない妹/姉である」とか、あと「大量殺戮生体兵器の」とか「妖怪の」とか「暗殺者の」とか「殺人鬼の」とか「サイコパスの」とか入ったりする。よくあるやろ。そういうのを①男女逆にして②リアル現代の③クライムフィクションにチューニングすると
ついこないだあった事件にそっくりで笑えなくなる、みたいなの超あるあるなんすわ…
とはいえフィクションだし少女漫画だし、問題ねーじゃんと思うだろ?私も思う。お兄さんは捕まるか虐待親に突撃して共倒れして死んで美しい思い出になって欲しいけど(どうせやるなら徹底的に幸に都合よく退場して欲しい)。
ツイッターへの最初の投稿とか現実の事件に対してタイミングが最悪すぎる件に関してわざとかどうかはもう「関係ありません」で貫き通すだろうし実際分かんねえからいいわ…。マジでインスピレーションさえ受けてないとしてももう運が悪かったと思ってほしい。というか当時あれだけのトップニュースすらチェックしてなかったなら作者はうかつだし、チェックしてても特に何も考えず出したならそれはそれで大変アレなのでそれは怒られても仕方ないんじゃねーかと思う。
特に問題に思うのは、クロスメディアするとしたら慎重にやるべき題材だったということだ。
「先生!」「PとJK」の実写化の時も同じこと思ったけど(あれも「少女漫画なら素敵だがリアルに考えるとわりとやばい」案件)今回は格が違う。なんせ誘拐犯でストーカーだ。どれだけ気を使っても使いすぎるということは無いだろうに…と思う。
後ろめたさも、退廃的なことも、この作品の魅力と分かちがたく結びついている。伝え方を一つ間違えたら倫理観を疑われる作品なのは変わらないのだ。
このへんは制作側の、なかでもプロモーションの腕が必要な作品だろうなと思う。
たとえば、この作品がギリギリまで性のにおいを消臭できているのは、絵柄の影響が大きい。デフォルメが強く、リアルさは無いティーン向けの絵。虐めのシーンにも性的なものは見受けられず変態教師とのバトルでさえ匂わせる程度だ。
性も犯罪も、それが主題ではないのだと、なによりも絵が主張している。
また、この作品は家族で見てやいやい言いながら見るより、一人で集中して見たいものじゃないだろうか?ターゲットは現在テレビを良く見る層と被っているか?いないんじゃないか?ティーンの原作ファンがこの作品を見て語り合うなら、家族よりも、同性で趣味の合う友達とではないか?
だから、メディア展開を思い切り間違えてる気がしてならないのだ。
テレビでやるならアニメ作品にすべきだったと思う。その人気に火を付けた一端でもあるキャッチーな絵柄を生かし、フィクションであることを最大限利用すればよかった。あくまでこれは夢物語で、リアルとは違うのだとアピールすればよかった。それでも非難は受けただろうが実写化よりはましだったはずだ。「誤解されやすいけど本来こういう話ですよ」と12話でも24話でもかけてやればよかった。
実写化したいなら、この退廃的な作品は映画の方が合うだろうと思った。それに映画館でしか見れない、というフィルタリングは大きい。実写化することでどうしても露悪的に、生々しい匂いになる画面をテレビから無作為にまき散らすのではなく、納得して料金を払い席に着いた観客にだけ誠心誠意向き合う形をとれば良かった。観客を巻き込んで二人の世界に浸れる場所を作ればよかった。
広告展開で規制派の火に油を注ぐ可能性は大いにあっただろうが、中止よりはマシな結果になったんじゃないか。
なんで再現が難しい絵柄を実写で、なんでナイーブかつ視聴者を選ぶであろう題材を全国放送の誰でも見れる割にメインターゲットを逃しまくるであろうテレビで、やろうとしたのだろう。やはりコストの問題だろうか。
いや本が売れたらいいなと思ってたんだろうけど炎上商法やった割にリターンがアレ過ぎない?そうでもない?わからんけど
正直、ドラマ制作側も作者の方も編集部も、「現実にある犯罪を扱った現代劇である」という認識が甘すぎたのではないかと思う。
それも、未成年の被害者がいる事件を、「犯罪としてではなく救済として描く」というひねりを売りにした作品でだ。
「カリオストロの城」でも撮っている感覚だったのかもしれない。モニタの解像度低いわ。
もしくは、とてもリアルだと思ったから実写にしよう!と思ったのかもしれない。
そのリアルさは虚構で夢でしかなく、それでいてとてもありふれた現実だ。
だって、実際の誘拐や幼児への事案はひっきりなしに起こっていて(マジでひっきりなしに起こっている)。
ストーカーや誘拐犯の脳内で、自分は被害者と愛し合っていたという美しい物語が展開されているのは決して珍しくないのだから。
その恐ろしさを無視して、リアルに寄せる実写化をするのは賛成できなかった。
苦言を呈す派に対して作者からのコメントは「実際の事件とは切り離してみてください」これだけだ。たったこの一言で全て免罪されるなら表現の自由とはなんとも気楽で無責任なものではないですか。いや作品内で色々ファンタジー要素盛って免罪符切ってるしあれこれ言及するより作品に集中するのは良い手だと思うけど無責任だとは思うぞ。
だって「世の中いろんな人もいる」と、これが現実でもありえるかもね、とでも捉えられるコメントを付けて世に送り出したのは、他ならぬ作者自身なのだ。
ドラマにしても、女優に「実際にこういうこともあるかもと思う」というコメントを、編集もせず流してしまった。(これで規制派の使命感に火を付けたようなものだと思っている)。制作側止めろよ…
現代のクライムフィクション作品でこのコメントが出るときは「だから怖いなって思いました」くらいのことが続くはずが、「実際あったら素敵」と続いてしまうような。
作品そのものというよりもその周りの倫理観がガバガバなのだ。現実がガバガバ。
そうでなくても今現在、長年沈黙されてきたハリウッドやら世界的に女優の性的搾取の告発が起きてて転換期で、それでも搾取する側の擁護をやめない(「いや、でも女性側も望んでたんじゃないか」みたいなのワイドショーで沢山見ましたね!)、日本のテレビ業界をつい最近私たちは見せつけられているのだ。そもそもの信頼感が地に落ちている時に「地獄の真ん中で搾取されてるけど女の子はハッピーです」みたいな作品作ってもそりゃ倫理観が疑われるだろという話だ。
お兄さんと幸の間にある感情はとても純粋なもののように描かれる。
それは憂いを帯びて美しい。破滅に向かっているからだ。地獄の上にある安息だからだ。あかるい太陽ではなく、暗闇の中の星。
薄汚く、ふたりを虐めるものばかりの世界でここだけは綺麗であるように感じる。実際そうだからなのだろう。未来なんて考えたくもないし過去の事は忘れたい。いまここにある、おにいさんと幸のあいだにある、形容しがたいなにか、それだけが全ての世界でいたい。
この作品のメディア展開が一つ潰れることで、悲しく思うファンもいるだろうなと思う。恨まれるだろうなとも。
つーか私も十代の時に、リアルで起きた殺人事件(娘が父を鎌かなんかで…)をうけて「ひぐらしのなく頃に」のメインキャラが義父を鉈で殺す回の放送が見送られた時「いやリアルとの区別くらいついてますけども~~~~~????」って怒ってたよ。
でも今(アラサーだよ)、もし「新幹線で鉈をふるう殺人事件が起きたけど、犯人は実は悪い人ではなかった」みたいなフィクション作品がテレビで予定されてるとしたら…今の私は、「それは見送った方が良いのではないか」と思う。
大人になるにつれて、想像力は広がりだけではなくリアルさを増していった。経験と知識が増えたからだ。
「これのせいでちいさい子供や、少年少女が酷い目にあうかもしれない」と思うと、耐えられなくなってくる。大人になれば強くなると思っていたのに、陰惨なフィクションも年々見れなくなっている。それは、年を重ねた分現実に起きる陰惨な事件を、それに対する酷い言説を、これまで見過ぎて、現実を見過ぎて、どうしても思い出すから、なんだか嫌になっちゃうからだと思う。大人になるにつれて、後から生まれてくる子たちが傷つかない世界になればいいと、祈るようになってきたからだと思う。
フィクションなのに、現実で被害に遭って泣いていた子や、かつて嫌な思いをしたときの自分を、思い出す。被害者の絞り出す様な言葉や、それに向けられた酷い言葉の数々を、理不尽を、やたらと思い出して、想像してしまって、苦しいときがある。
子供の時はフィクション作品やメディアの力を舐めてたし、大人になればもっと区別がつくようになる、
なんならフィクションを見てリアルを思い出すなんてオタク失格だとすら思っていた。
でもそうじゃなかった。
倫理観スイッチ切って倫理観ゼロの作品を楽しむには、TPOがある程度大事だと知った。自分の家族を亡くした直後に、家族を殺す話を楽しく読めないように。
倫理観ゼロの作品は、倫理観ゼロの現実世界では楽しめないと分かった。楽しめるならそれは娯楽である以上に、麻酔や薬であり、治療なのかもしれないと思った。生きるための救済。
作品の影響力を舐めたらダメだと思った。面倒なオタクである自分は偶像やフィクションに命を救われてなんとか生きてきた。
ならば人の命を奪う作品が無いなどとどうして言えるのか。
だから今回の幸色のワンルームへの規制は、わたしは(あくまで私はな)、
これを見た「大人」がリアルに起きた事件や今までの経験のフラッシュバックに耐えきれなくて「やめろ、せめて少女漫画のカテゴリのなかにいてくれ。そうでないなら無作為にまき散らす前に対策してくれ無作為にまき散らされて何が起こるか分かってんだおれはくわしいんだ(※嫌なことを沢山思い出しながら)」
って言ったんだと思う。
そういう側面は大いにあると思ってる。
「それでも僕はやってない。」が公開された以降から痴漢被害者への二次加害が酷くなったって話聞いてワァーってなった。
そんな変遷を見てきたら「こういう作品が公開されたら、また…」というフラバもそりゃ起きるよと思った。
直前に現実の誘拐事件があり被害者バッシングを見てるんだから余計に「あれが、また…」ってなるよ。(だから本当にタイミングが悪すぎたんだよ…)
というかそれはダメだ。現実がこうだから配慮して作品自体消そうみたいなのは私が一番やりたくないことだった。だからゾーニングとフィルタリング推進派なんだけどさ。
そしてゾーニング・フィルタリングはメディアの差でも実施できると思う。その作品に触れるまでのハードルの差があると考えているから。テレビは特にハードルが低い。例えば映画館での上映や本屋で棚が分けられパッキングされた単行本等とはそれだけでも違う。同列に語れないと思う。
だからってガチガチにこの本は誰向け!この本はこの性別この年齢このカテゴリ!とかマジ誰もやりたくねーよ。なにそのディストピアだよ。
ネックは「現実の事件に対する二次加害が野放しなこと」だから、ここがマシになれば結果的に表現の自由も守られるんじゃねーかなと思うけどどうですかそのへん。
ほんとね現実クソだったよ。現実の誘拐事件おこす犯人もマジでクソだったし被害者に向ける目も相当クソ。二次加害を大量に見過ぎて本当にメンタル削れたし、なによりオタクのリアル事件に対する大喜利に慣れ過ぎて、被害者がいるっつーのに自分も一瞬「あっそんなひどいことされてなかったのかも?」とか思ってしまったのがめちゃくちゃ自己嫌悪で死にたくなった(自分ネットのアイドルと二次元オタクカルチャーに10数年どっぷりなんですよ)。「そんなわけねーだろ」と思った。被害者の苦しみをも加害者のやったことも軽視出来るもんじゃない。絶対。
この感覚のままでいるのはやばいと思った。でもこれは曲りなりにも女体持ちで嫌な思いも散々してきたから「そんなわけねーだろ」と思えた部分はあるだろうなってのもあるし、「そんなわけねー話」をいくらでも茶化せる人がいるのも知っていた。
誘拐もストーカーも盗撮も被害者叩きも遠い世界の人にとってはそれはファンタジーだろうしな。
でもファンタジーじゃねえんだよな。
私が生きていく現実に影響があるんなら、私は私のために戦わないといけないと思ったんだよ。
※ネタばれ注意※
初代が20周年なのに配信を終了されてしまったグランディアIIIちゃんは
どうすれば許されたのかって考えるつもりで比較対象として初代を振り返ってたら思いの外ヤバい
いや、たぶん気づいてた人はプレイしてた当時から気づいてたんだろうけど俺はいまさら理解した
■テーマの一貫ぶりがすごい
・物語が動き出すきっかけは冒険者である父親の形見(精霊石=これがキーになって古代文明の遺跡に導かれる)
・「精霊石は冒険者の魂」と主人公に語らせた後、「軍」が精霊石を狙う展開になる
つまり自由vs規律の暗喩と子供vs大人の暗喩をまとめてこなしてる
「探求心は悪にもなる」「大人からの抑圧」「偉大な父親からの抑圧」「探求心の喪失は死に繋がる」
・「真理にたどり着いた者」だけに開かれる「精霊の聖地」で主人公は「精霊石」を提示された後、それを否定して「精霊の剣」を受け取る。
・「精霊の剣」はプロローグ直後のごっこ遊びで集める勇者の証として一度登場する
あえて説明するまでもないぐらいわかりやすい暗喩だろうと笑われそうだけど
「少年が男になる物語」がここまで丁寧にゲームで描かれてるのすごくね?
■シナリオの置き方が丁寧
3.母親が子離れして独り立ち
4.でも幼馴染はついてくる(=まだ子供)
5.ほぼ同い年の女の子に認められる
6.軍(大人)を出し抜く
7.閉鎖的な村の村長に認められる
8.巨大な壁を越える
9.勇者として認められる
ここでdisc1終了、先の精霊石メインの話=父親殺しの流れに。
■メタファーの置き方も丁寧
・登場人物の見た目が東に行く(=主人公の冒険が進む)ほど動物に近づいていき、自然も険しくなる。
幼馴染がリボン代わりにつけてるのは主人公の父親が見つけてきた「虫」とも「動物」ともつかない生き物。
…あれ、てかガイアはラストダンジョン攻略中羽化しようとしてたよね?
羽化しようとしたガイアは精霊石を破壊するとデカい樹(=世界樹)に。
敵ボス(将軍=仮置きの父親)が企てていたのは「ユグドラシル(世界樹)計画」。
ヒロインが虫ってことはそれよりデカい虫は母親としか考えられない気がする。
つまり世界樹=大人としての人格というメタファーになってるようにしか見えない。
どうやらガイアは悪の象徴ではなく「制御できない感情」のメタファーらしい。
いやいやこえーよ書いた人何者だよ
・敵将軍(=野望に囚われた父親)は「ガイアの芽」によっておかしくなった。
・「霧の樹海」の中にある村も「未開の森」の中にある村も閉鎖的
「石の森」の中に滅びた村が存在している
光翼人に力を注がれると蘇って石ではないロボットのような姿になる。
光翼人の力で制止されると石に戻る。
精霊=意思 であり、意思がなくなる=石になる と表現されている。
人→動物→植物→石の流れは意志の強弱も暗喩しているらしい。(街や村のあり方を見るに)
精霊石=眠っている意思とも受け取れるし、父の遺志=精霊石でメタファーが完璧。
深読み苦手な自分がここまで読み取れるってことは読解力高めな人はもっといろいろ読めるだろう。
いや、怖!
キャラクターの一人がヒロインを参考にしていると明言されているし、
某深読み系ロボットアニメの影響は多少あるにしても十分冒険譚として独自性を構築できていると思う
「女の子も楽しめるように王道冒険活劇書きました」でここまで色々仕込める人の後釜、務めようと思うか?
てか一介のゲーム会社の社員がこれに「原点回帰」できるのか??
この織り込みに織り込まれた上でほどほどに読み取りやすいメタファーの数々、
これを「16歳の飛行機乗り」「空」をベースにして再構築できるかって言われてホイホイできちゃうひとはどれぐらいいるんだろうか。
しかもここまでメタファーてんこ盛りなのにパッと見ただの冒険活劇を装うとか
出来上がってきたIIIはひどすぎたけどこの初代を踏襲したうえでパクリにならないような王道冒険活劇って、
ゲームシナリオ界にオリンピックがあったら確実に金メダル級の超難易度だと思う
話づくりに自信がある人、「俺が作るグランディアIII」にチャレンジしてみてほしい
「空」「飛行機」「(ヒロインが空から)落ち(てくる)物」ベースで
「16歳の少年が親離れして一人の男になる」話を「ただの冒険活劇」に見せかけて
初代相当のクオリティでかつ初代化とラピュタ化を回避しつつ完成させる。
初代のシナリオ作った人たちはすごいし
個人的にはIIIのシナリオにチャレンジした人々も十分敢闘賞もらっていいんじゃなかろうかと思ったりする
IIIのシナリオを見るに、おそらく思いついたシーンを組み合わせるだけで精一杯だったんだろう
メタファー仕込む余裕なんかなく、「青年主人公が長旅を経て強敵を倒す」話を構築するのがやっとだったように見える
ミランダとユウキのバックボーンから「父親殺し(母親殺し)」を実現するにはエメリウスでは役者不足もいいところ、
子供をほぼ捨てたユウキの父親と妹を守ろうとするエメリウスではシンクロするところがほぼなく
仮にエメリウスの行動原理が完璧にゲーム内で表現されていたとしても何の暗喩にもなっていない。
暗喩の有無は別にどうでもいいっちゃいいけど、問題は「父親殺し」が行われていないといけないのに
それをユウキが成し遂げていないところ。
暗喩はあるとカッコいいとか文章表現的な技巧を披露して俺つえーするとかそういう余剰ではなく、
本来物語の外にいる読み手に己との共通点を無意識に物語から見出してもらい、より感情移入してもらうための道具だろうと思う。
手だけでも布を縫い合わせることはできるが、ミシンを使えばもっときれいに縫製できると言う話だ。
血縁のない飛行王シュミットを「父親」に仕立てるために実の父親を物語から消し、アロンソを途中退場させたのだということはさすがに読み取れる。
そういう小細工で作り上げた「父親」をいくら「腰抜け」と罵ってもその「父親」が作った飛行機に乗って空を飛んでしまっては何の意味もない。
それは父親の敷いた線路を辿っているだけであり、まだ子供のままであることの証左になってしまう。
むしろこの状況での「腰抜け」呼ばわりは
「何故お前は父親を全うしていないのだ」という糾弾になっている。
つまりグランディアIIIには「殺すべき父親」が存在していないのだ。
父親を精神的に「殺し」て、別個の人間=大人になっていく成長物語のはずなのに。
これではラスボスがどこにもいないのと一緒だ。
それを見定めずにシナリオ作りに移行してしまったことなのではなかろうか。
テーマソングを聞いてもわかるが「見果てぬ夢」なのか「素晴らしい場所」なのか「行き着く先」なのか定まっていない。
初代が「死にゆく先、生まれくる源」を「大地(地母神)」と定義したことで
芋づる式に様々なものを定義付けすることに成功し、植物の根が土を抱き込むように物語を包括したのとは対照的に映る。
また、成長とは生から死の一過程であり、生と死の描写から逃げては成長を描き出すことはできないのだと逆接的に証明しているようにも感じられる。
もしかすると、初代を見上げたまま物語を模索した結果、「初代=空」になってしまったのかもしれない。
ユウキは映画の中で活躍するシュミットの姿に憧れを抱いたようだが、
言うまでもなく、何のメタファーも仮託されていない空はただの背景であり景色である。
景色は人を動かしたりしない。
これは続編がふがいなかったというよりは初代が「偉大な父」になりすぎてしまったんだろう。
ジャスティンが大変な苦労を伴って「父殺し」を成し遂げたように、
「偉大な父」を乗り越えるのはそれだけ困難だということなのかもしれない。
あれほどスーパーハカーを夢見ていたのにIT系のブラックさに恐れをなし、気づけばIT系でもない場所でSierまがいの何かを演じている。
人付き合いを嫌いすぎてオンラインゲームを遊ぶことはなく、SNSでリプライを飛ばされたらブロックする。
バイブルは「Serial experiments lain」と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」。
どっちも美化されすぎて一秒だって二度と触れたくない、セピア色のメッキを1ミクロンも剥がしたくない。
思い出の中にひたすら生きる。
今を生きていても感覚は今も思い出の中。
ガールズアンドパンツァーを見ながら陸上防衛隊まおちゃんを思い出す。
モラトリアムもジュブナイルも落第したままいつまで経っても心が中二病を抜け出さない。
小学校の段階で既に人間らしく生きることから落ちこぼれていたのだろうか。
字の汚さが幼稚園児並みなのは、小学生になる頃には努力の仕方を見失ったからだろう。
自分は真面目に生きてきたと思いこんでいた。
違ったのだ。
あったのは恐怖だけ。
親が怖くてイジメっ子が怖くてテレビの世論や将来の不吉さも怖くてとにかく人間の不寛容さが怖かった。
それでも世界がいつか滅びるか、それとも自分が他人に頼らず生きていけるようになれると信じられたなら耐えられた。
今はもう、現実を見たくない。
生きるべきではなかった。
もう少しすれば何かが大きく変わって奇跡が起きると先延ばしにしすぎた。
そして、目先の欲に流されすぎた。
それが失敗だった。
クリスマスプレゼントでごった返してるんだけど、
なかでも返品カウンターは大賑わいよ!
返品のハードルもうんと低いのよ。
交換か返金してくれるってわけ。
もう返品を前提にしている感じもあるけど、
クリスマス!と言うよりはハッピーホリデーって言う方が通ってるわ。
そのハッピーホリデーよろしく、
ホリデーチップというクリビツギョウテンなチップの風習があるんだけど、
いつもお世話になってる
学校の先生やスクールバスの運転手さんなんかにチップ渡しちゃうのよ。
現金な話ね!
所変わればって言うけど、
人が少なかったらスケートできるかもっ!
うふふ。
昨年までは鍋が多かったんだけど、
今年はスープね、
キウイ高騰ね。
キウイは久しぶりだわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%82%A6
一般にはアリジゴクは、羽化時まで糞だけでなく尿も排泄しないということが通説化していたが、
2010年にこれが覆されたと報道された[3][4]。報道によれば、
千葉県袖ヶ浦市在住の小学校4年生がアリジゴクの尻から黄色い液体が出ることを発見し、日本昆虫協会に報告した。
1998年には研究者が「糞は排泄しないが尿はする」ことを調べ、尿の成分に関する論文も発表していたが[5]、