2018-02-04

脱皮に失敗した蝉

自分のことを何か別の生き物としてイメージしてみろ、と言われたら、

私は自分が脱皮に失敗した蝉の幼虫だと例える。

多分小学生の時だ。

蝉の抜け殻は美しくて好きだった。

透明な飴色の細部まで奇跡のように形作られた精巧な殻。

夏になると私は、公園の木の幹を抜け殻を集めて回った。

それを見つけた時は、なんだか奇妙な抜け殻だと思った。

半分が白く濁ってその上に飴色の皮がかぶさって居るように見えた。

私はその時、多分まだ低学年で幼かった。

喜んで、その珍しい抜け殻を手にとって、母に自慢しようとした。

すごい抜け殻を見つけたよ、と。

ところが母は、少し顔を歪めて、

この虫は、大人になるのに失敗してしまったのね、

かわいそうだから、埋めてあげましょう、と言った。

そう、それはなんらかの原因で、脱皮の途中に息を絶えた蝉の幼虫の死体だった、というわけである

その時は、おそらく幼すぎて、脱皮に失敗した死骸ということは、よく理解できなったのだと思う。

でも、それは無意識下で私に強く印象付けられて、

今は脱皮に失敗した蝉は、強い嫌悪感とともに時折私の中に蘇ってくる。

あのくすんだ灰白い体、奇妙な手触り、かぶさった幼体の殻。

いつしか私は、まるでそれが自分のようだと考えるようになった。

大人になるはずであったのに、大人になれず、子供にとどまって居る事もできず、

脱皮を試みようとしたまま息絶えた蝉。

長い幼年期の果てに、脱皮はできずに、大人でもなく子供でもないまま息絶える生き物。

こうして実家の一室に三十代を迎え、とある長い修行時代の果てに失敗しようとしている自分が、

あの脆く醜い怪物めいた昆虫しか思えなくなっている。

別に誰が悪いというわけでもない。

不幸な生い立ちどころか、人が見れば、ひどく恵まれ人生に見えるかもしれない。

私の苦しみは、どこから来たものでもなく、

ただ、私が私として生まれて来たことに起因していると思う。

人は、不全の状態を様々な原因に去来するものとして分析しようとする。

親の教育学校生活における問題などの外的な要因、

今は発達障害人格障害などの内的な要因によって、

これまで原因不明だった社会的な不全、あるいは存在的な不幸が解体されようとしている。

それを目の前にして、もしかしたら私はもしかしたら自分傲慢なのだろうと思う。

そのような一般的病理説明で私の不幸を説明することを許したくない、というのが本心だ。

私の不幸は、私のものであって、誰かに理解されるものではない。

の子供じみた我儘を胸に大事に抱えながら、

脱皮に失敗したまま、自分が静かに腐っていくのを、

半ば愉快な気持ちも混じりつつ眺めているのである

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