自分のことを何か別の生き物としてイメージしてみろ、と言われたら、
私は自分が脱皮に失敗した蝉の幼虫だと例える。
多分小学生の時だ。
蝉の抜け殻は美しくて好きだった。
夏になると私は、公園の木の幹を抜け殻を集めて回った。
それを見つけた時は、なんだか奇妙な抜け殻だと思った。
半分が白く濁ってその上に飴色の皮がかぶさって居るように見えた。
私はその時、多分まだ低学年で幼かった。
喜んで、その珍しい抜け殻を手にとって、母に自慢しようとした。
すごい抜け殻を見つけたよ、と。
ところが母は、少し顔を歪めて、
かわいそうだから、埋めてあげましょう、と言った。
そう、それはなんらかの原因で、脱皮の途中に息を絶えた蝉の幼虫の死体だった、というわけである。
その時は、おそらく幼すぎて、脱皮に失敗した死骸ということは、よく理解できなったのだと思う。
でも、それは無意識下で私に強く印象付けられて、
今は脱皮に失敗した蝉は、強い嫌悪感とともに時折私の中に蘇ってくる。
あのくすんだ灰白い体、奇妙な手触り、かぶさった幼体の殻。
いつしか私は、まるでそれが自分のようだと考えるようになった。
大人になるはずであったのに、大人になれず、子供にとどまって居る事もできず、
脱皮を試みようとしたまま息絶えた蝉。
長い幼年期の果てに、脱皮はできずに、大人でもなく子供でもないまま息絶える生き物。
こうして実家の一室に三十代を迎え、とある長い修行時代の果てに失敗しようとしている自分が、
別に誰が悪いというわけでもない。
不幸な生い立ちどころか、人が見れば、ひどく恵まれた人生に見えるかもしれない。
人は、不全の状態を様々な原因に去来するものとして分析しようとする。
これまで原因不明だった社会的な不全、あるいは存在的な不幸が解体されようとしている。
それを目の前にして、もしかしたら私はもしかしたら自分は傲慢なのだろうと思う。
そのような一般的な病理的説明で私の不幸を説明することを許したくない、というのが本心だ。
殻に掴まって 朝を待っている 真っ白な蝉を 指で掴んだ時 あまりに 柔らかい感触に 驚いて 真っ白な蝉を 下へ落としてしまった 朝日が昇り 見に行くと すでに姿...
どうでもいいけど、次からは羽化って言った方が正確だわ
子どもの頃、幼虫を室内で羽化させたことがあるが、羽化したばかりの蝉は奇跡のように美しい。 闇の中に白い肢体が浮き上がって妖艶ですらある。 翌朝、網戸にジジジと暴れる変哲も...
えーこんなのが人気エントリ? 増田文学も落ちたもんだね。 いや、ブクマカたちの質の問題か... 古参からすりゃため息、ため息。